ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
97年9月中旬 |
【9月19日(金)】
▼朝、ラジオから Police の Don't Stand So Close To Me が流れてきた。うおお、懐かしいなあ。おれが高校二年のころの曲だから(リニューアル・ヴァージョンもちょっと前に出たけど)、十七年前――というと、おれはいまの半分の年齢だったのか(笑)。いやだなあ。洋楽の日本語タイトルをよく忘れてしまうおれでも、さすがにこれは憶えてる。「高校教師」ですな。晩稲なおれは、この曲くらいから「お、ポリスっていいじゃない」と記憶に留めはじめたような気がする。えー、お若い読者のために、いつものようにおじさんが解説をいたしますと(笑)、この曲は先生と生徒の色恋沙汰を歌ったもので、冠詞やbe動詞を極力取っ払った電文体の愛想のない歌詞は、単調だがキレのいいメロディと相俟って、かえって妖しい想像をかき立てる。女生徒のほうが積極的で、先生のほうはたじたじと女生徒の誘惑にハマってゆく感じだ。cough と Nabokov で韻を踏むなどという、愉快な力業もあったりする。
「高校教師」なんて邦題がついてたけど、じつは「ナボコフのあの本の老人みたいな」この先生が高校の教師だとは、歌詞からは断定できないのである。手がかりは、"This girl is half his age"というくだりだけだが、だったら中学教師でもかまわないのだ。たしかに、「高校教師」のほうが「中学教師」よりもセンセーショナルで淫靡が語感がある(あるでしょ?)から、タイトルとしては座りがいい。でも、やっぱり時代を感じるなあ。いまなら、この曲に歌われている程度のことは、中学校でも珍しくないはずだ。もっとも、Don't stand so close to me. なんてたじろぐどころか、そのままやばいとこまで行っちゃう先生がたびたびマスコミ賑わせているのは困ったもんだ。
まあ、おれも塾でアルバイトしたことはあるので、中学生くらいの小娘の中にも、けっしてバカにできない魅力の持ち主がいることはよく知っている。この世のものとは思われぬ妖精みたいな子もごく稀にいる。でも、手ぇ出しちゃいかんねえ。しょせん相手はガキであって、自分と対等でない者に性的関係を迫るのは君子の振舞いではない。仮に見かけは合意のうえであったとしても、「どうせこいつはおれの金や地位や力に屈しているのだ」という考えが、ちらとでも頭をよぎってしまったら、おれならそもそもタタないだろうな。金も地位も力もないおれには、そこいらへんのことはよくわからないのでありますが……。
先生と生徒が恋愛関係になること自体はいっこうに悪いとは思わないが、行くとこまで行っちゃうのは、対等だと確信が持てるときがきてからでも遅くはないでしょう。王子様みたいに見えていた先生が、五年もしないうちにむさいおやじに見えるようになることもあろうし、妖精みたいな子も、そのうちには妖怪みたいになって、人を突き飛ばしてでも電車の空席に座ろうとする肉袋になるかもしれないのだ――え? だから旬のうちにいただくんだって? そういう論理はいかんってば。
▼このところ、ブックレヴュー・コーナー『天の光はすべて本』の更新を怠けているので、せめて“ありもの”を入れておくことにした。SFオンラインに書いた書評にリンクを張っただけなので、すでにお読みくださった方は改めてご覧になるには及びません。
▼OLのあいだで駄菓子が流行っているのだそうで、近所のコンビニにも駄菓子コーナーができていた。十数年ぶりにカルメ焼きを買って食う。懐かしい味はするものの、いかにも身体に悪そうな食いものだ。ひと袋食ったら、胸が悪くなってきた。やっぱり駄菓子なんてものは、多種類を少量ずつ買ってきて大勢で食うものですなあ。
駄菓子というのは失礼かもしれないが、満月ポンなら、いくらでも食える。関西では誰もが知っているシンプルかつ安価で飽きのこない庶民の菓子の代表みたいなものなのだ。チャットしながら食ってたら、ふた袋なくなってしまっていたことがあった。これでよく肥らないよなあ。ちなみに、満月ポンはホームページで通販もやってるので、あの味が恋しい関西出身の方はご利用になってはいかが。
【9月18日(木)】
▼“似て非なるもの”というのがあって、おれはよくふたつの“似て非なるもの”が、いかに“似て非なる”かを表現するレトリックをいろいろ考えては遊んでいる。遊びかたは簡単。「それは○○と××くらいちがう」という組み合わせを考えるのだ。「SFとSMくらいちがう」なんてのは簡単すぎて面白くない。「我孫子武丸と安孫子素雄くらいちがう」とか「クリストファー・プリーストとジューダス・プリーストくらいちがう」とか「荒熊雪之丞と水玉螢之丞くらいちがう」(誰だ、あまりちがわないなんて言ってるやつは)とか、まあ、こんなのを次々と作るわけである。むかし、SF作家のあいだで“三大○○”を作るのが流行ったという話を、星新一氏や筒井康隆氏らが書いているが、あれの亜種だと言えないこともない。ご存じない方のために“三大○○”遊びをご説明すると、たとえば“三大キュー”というのは「オバキュー、バーベキュー、モンテスキュー」となる。こういうアホなことを、いい大人が必死でやるところに意義があるのだ。
おれがむかしよく使っていた“似て非なるもの”に、「宇宙開発と宇宙企画くらいちがう」というのがあったが、女性にはあまり通じないのが欠点だ。「ブルース・スターリングとブルース・スプリングスティーンくらいちがう」は、長いわりには面白くない。「ブルース・スターリングとクリスタル・キングくらいちがう」という強引な作品もある。やけくそで作ったやつを連発してみる――「ベンザ・エースと宇宙エースくらいちがう」「九十九乱蔵と粗製濫造くらいちがう」「大森望と森のぞみくらいちがう」(ちがわないってば)「サーシャとスターシャと森雪くらいちがう」(意味がちがうような)
最近気に入って使っているのは、「幸田シャーミンと岡田あーみんくらいちがう」なのだが、相手を選ばないとさっぱり通じない。われと思わん方は名作をお寄せいただきたい。
【9月17日(水)】
▼駅のホームで帰りの電車を待っていると、よその駅で人身事故があったのでダイヤが乱れているとのアナウンスが入る。電車の“人身事故”というのは、ほんとに事故のこともあるが、あとで新聞を見るとたいていは飛び込み自殺である。せっかく生きてるのにわざわざ早めに死ぬなんて、生きたいのに死ななければならない人に失礼きわまりない。「失礼でもなんでも、私はどうしてもいま死ななければならないのだ」と判断したのなら無理に止めたりはしないから、せめてできるだけ人に迷惑をかけないように死んでほしいものだ。人間、ふつうに死んでもかなりの人に迷惑をかけてしまう。死ぬときにはすうっと虚空に消えてしまうのだったら便利だろうと思うが、残念なことにそうはできていないのだ。
駅で“人身事故”のアナウンスが流れるたび、おれは学生のころ目の前で目撃した飛び込み自殺を思い出す。目撃したというのは語弊があるな。おれの乗っていた電車に人が飛び込んだのだ。つまり、おれの質量分の運動エネルギーを勝手に自殺に使われたわけである。その日は大学の期末試験で、おれは文化人類学の試験だけを受けに大学へ向かっていた。まあ、好きな分野だし楽勝だと特急電車の中で気持ちよく居眠りをしていると、突然電車が停まった。停まるはずのない駅だ、いや駅を過ぎたところだ。おれはいちばんうしろの車輌のいちばんうしろ、つまり線路が見えるあたりに座っていたので、伸び上がって駅のほうを見た。遠くに見える駅のホームでは、みなが呆然とこちらを見ている。両手で口を覆っている女性もいる。「あっ、これは飛び込みだな」とすぐわかった。車掌や駅員が電車のまわりをしばらく走りまわっていたが、やがて電車はゆっくり動き出し、すぐまた停まった。車輌の下に死体が入っていたらしい。駅員に引きずり出されたそれを、すでに立ち上がって電車の窓に貼りついていたおれは間近に見た。泥酔したジャミラを二人の駅員が両脇から抱えて引きずっているかのようだった。首はなかったのである。破裂した風船のように大きく裂けめが入った脇腹からは不思議なことに出血もなく、ただただ黒い腹の中が見えるだけであった。品のない宴会藝の腹踊りの口がほんとうに裂けて、にやにや笑ったらこんなふうになるだろうか。それは肉袋以外のなにものでもなかった。その肉袋を引きずっているふたつの生きた肉袋は、さすがに晴ればれとした顔はしていなかったけれど、こんなことはたまにあるとでも言いたげにそれを淡々と線路工事従事者用の退避空間に横たえると、無造作に青い防水布をかけた。頭は見つかったのかどうかよくわからない。線路脇の民家の庭にでも転がっていたら大騒ぎになったろうから、まあ見つかったのだろう。
お食事中の方には申しわけない話題だったが、そのときのおれは気持ちが悪いというよりも、なにやら爽快な気分になってそのまま試験に臨み、予定どおり楽勝した。たまたま文化人類学の試験だったというのが無性におかしかった。試験中に笑いがこみ上げてきたくらいだ。世界中のあんな肉袋やらこんな肉袋やらが、それぞれの都合であんな習俗やらこんな風俗やらを作り上げ、泣いたり笑ったり愛しあったり殺しあったりしてきたのだ。自分の姿に似せて人間を作ったという神様とやらも、しょせん肉袋なのだろう。肉棒をおっ立てた肉袋が肉襞を濡らした肉袋と交わって、新しい肉袋を作る。この肉袋の肉の頭に浮かんだ考えがあの肉袋に伝わって、集まって、さらに多くの肉袋の知るところとなり、肉袋はやがて他の天体にまで降り立ったのだ。ひとつの肉袋にとっては小さな一歩だが、肉にとっては巨大な飛躍だ。わははははははは。なんとバカバカしく、なんといとおしく、なんと偉大な肉袋たちであることか。
文化人類学の試験でなにを書いたのかはとっくにどこかへ行ってしまったが、あの肉袋が教えてくれたことはおれにとって大事なことだ。というわけで、せめて死ぬまで生きようぜ。
【9月16日(火)】
▼今日付けの讀賣新聞夕刊を読んでいたら、映画『コンタクト』絡みの記事に「主演のジョディ・フォスターに聞く」というのがあった。なになに、へえ、ジョディ・フォスターは故カール・セーガンと直接会って話したことがあるのか。それは知らなかった。
さらに読み進めてゆくと、頬が苦笑に引き攣った。彼女いわく、「子供のころはSFは大好きだったけど、俳優として空想物語に出演する気はなかった。ところが、この作品は、SFの枠を超えている。人間はどこから来たのか、宇宙で人類は地球だけなのか(冬樹註:原文ママ)、という宗教的問題とも絡んだ、人間存在そのものを考えさせる壮大な物語」――おーい、ミズ・フォスター、そういうのをSFって言うんだよ。まあ、署名のない記者が大方通訳経由のメモかテープ起こしでも見ながら書いたのだろう記事だからして、おれはこの手のものは鵜呑みにしないことにはしているが、生まれた日が十一日しかちがわないあなたの口から、耳に胼胝ができるほど聞いた紋切り型のSF侮蔑表現が出たのだとしたら、おれは哀しいぞ、ジョディ。あなたほどの知性と美貌の持ち主が、公の場でそのようなことを言って自分を貶めてはいけない。そうだな、まず『ソラリスの陽のもとに』(スタニスワフ・レム、飯田規和訳、ハヤカワ文庫SF)から貸してあげよう。
【9月15日(月)】
▼トップページのカウンタが20000を突破。開設から343日め、10000突破から126日めである。個人ページの初年度としては、まずまずと言えよう。これもご愛読いただいたみなさまのおかげと、厚く御礼申し上げます。20000カウント達成記念に、そろそろ模様替えしようと準備していたトップページをリリースいたしました。あまり変わりばえしませんが、今後とも息抜きに立ち寄っていただければ幸いに存じます。
▼SFオンラインの原稿をひたすら書く。どうして早めに書いてしまえないんだろうな、おれは。この日記みたいな文章なら、いくらでも書けるのだが……。それにしても、SFマガジン10月号の「SFまで10000光年」(水玉螢之丞)には、してやられた。毎回シュールなサブタイトルを楽しみにしつつ、勝手にライバル意識を燃やしているのだが、「象が踏んでも忘れない」は近来稀に見る傑作である。くそー、どうしてこれを思いつかなかったのだろう。「今月の言葉」に持ってこいの作品ではないか。まだまだ修行が足りんなあ。
水玉さんをギャグマンガ家と呼んでいいのかどうかはわからないが(正式な肩書きは“いさましいちびのイラストレーター”)、その異様なギャグセンスには深く考えさせられることが多い。「象が踏んでも忘れない」のようなフレーズは、少なくとも健全な精神からは出てこない。かといって完全に異常では、それを作品にしてお金をもらうことなどできないのだ。ギャグを考えるというのは、なにかこう、無意識のどろどろしたところに蠢く奇ッ怪なイメージどもが浮上してくる瞬間の気配を捉えて、金魚掬いの網みたいなデリケートなものでひょいと掬い取るような感じがある。あまり精神衛生によい作業ではなく、こんなことを職業として長期間続けるには、精神の絶妙なバランス感覚を維持する不断の努力が必要のはずだ。金魚掬いの網でひょいと掬い取るからいいので、水槽に飛び込んで洗面器でガバガバ掬いはじめたらえらいことである。人はそれを発狂と呼ぶ。そういう危ない作業だから、ギャグマンガ家には精神を患う人がけっこう多い。マンガ家にかぎらず、ギャグ屋さんというのはシャーマンみたいな重労働なのである。
そんなたいへんな仕事なのだが、とくに日本では“笑える”ものは創作物として格が低いといった伝統的認識がある。日本人は感情に溺れるのが好きだからだろう。“喜び”は感情だが“笑い”は感情ではない。むしろストレートな感情の対極にある、どちらかというと冷たく怖いものだ。そういうものが高く評価される文化環境を育んでゆくのが、行政改革に匹敵する日本人の課題であろうと思う。過ぎたるは及ばざるがごとしと言うではないか。
▼ CNN Interactive のページによれば、ニュージーランドの十四歳の少年が西暦2000年問題の画期的な対処法を考案したとロイターが伝えている。少年が作ったというプログラムは極秘にされているのだが、うーむ、はたしてそんな万能策がありうるのだろうか。常識で考えても(常識で考えるからいかんのだという議論はさておいて)、すべてのハードウェア・OS・言語に対して有効な“ひとつのプログラム”などできるはずがない。おそらくどんな環境にも適用できる“考えかた”を提示したのだろう。コロンブスの卵的なものにちがいない。プログラムのソースコードを総ざらえし、二桁の西暦を四桁に直してはアルゴリズムをチェックしてゆくというあたりまえの対処法の裏をかいたものだとすれば、たぶんそれはソースを直さない方法、実行中になんらかの割り込み処理を行ってOSやアプリケーション・プログラムを“騙す”方法なのだろう。その騙しかたが画期的なのだろうという推測はつくが、うーん、どうやるんだろうなあ――って、おれにわかったら、とっくに商売してるよ。
▼昨日「2000番取ったよ〜ん」メールを出した Linda Nagata さんから返事が来た。日本語はわからないが、 Tech-Heaven のご紹介ありがとうとのこと。わざわざおれのページも見てくれたらしく、「トンボが気に入った」んだそうである。なるほど、これは万国共通だ。ハワイ語では pina'o と呼び、ハワイの原生種の中には体長が6インチにも達するものがいるという。えーと、6インチってえと、15.24cmか。オニヤンマの特大のやつなら、これくらいにもなるかもしれないが、それにしてもでかいな。こんなのなら、噛まれれば指の肉を食いちぎられるかもしれない。
化石からDNAの塩基配列を読み出せるようなテクノロジーが実現されたら、なんとかしてトンボの祖先・メガネウラを蘇らせてほしいものだ。翼長が80cm以上もあったという、古生代に棲息した代物である。昆虫館なんかで放し飼いにしたら壮観だろうな。だけど、こんなのが野生化して増えていったら、どえらいことになる。こいつらはなにを食っていたのかよくわからないが、いまと同じように飛行する小動物を食っていたのだとしたら、雀くらいは食えるだろう。食物連鎖がひっくり返る。もっとも、古生代より酸素分圧が下がっている現代の大気中では、こいつらは飛ぶどころか満足に呼吸もできず、すぐ窒息死してしまう可能性が大だ。うーむ、つまらん。
これでは面白くないので、メガネウラの遺伝子を参考にし、翼長1メートルくらいのスーパー・オニヤンマを作ろう(勝手に作るなよ)。デンキウナギの遺伝子も使って体内で発電できるようにし、細かいことは抜きにして(笑)電磁波通信ができるオニヤンマにしよう。ついでにコウモリの遺伝子もブレンドし、エコー・ロケーションも可能にする。こいつらが鷹かなんかと空中戦を繰り広げたら、見ものだろうな。パワーは鷹が優るが、旋回性能や情報処理能力はオニヤンマが優るかもしれない。素材の軽いオニヤンマは、鷹の後方占位が取れれば、スリップストリームを利用して飛ぶこともできるだろう。戦闘妖精オニヤンマ。ああ、B級SFだ、B級SFだ。
【9月14日(日)】
▼ Linda Nagata 氏のホームページを見に行ったら、ちょうどカウンタが2000だった。なんだか嬉しいので「2000番取ったよ〜ん」メールを書き、ついでに(というのも失礼だが)「あなたの Tech-Heaven をハヤカワのマガジンでリコメンドしたことがあり、それをホームページにも載せている」と手前の宣伝をする。もっとも、うちのページに来てくれたところで、日本語じゃ読めないかな。旦那様が日系の方だから、親類縁者には読める方がいらっしゃるかもしれないが……。おれも英語のページ作らんといかんなあ。
余談だが、ソフト・ハード共にまったく日本語環境がない場合でも、WWWが見えさえすれば、海外から日本語のページを見ることはできる。 Shodouka というサイトにアクセスし、見たい日本語ページのURLを入力するだけだ。フォントの自由度はないが、テキストを読むのに支障はない。アメリカで暮らしているおれの友人は、そうやって読んでいる。もちろん日本語環境があっても利用できるから、どんなふうに見えるのか知りたい方は、一度お試しあれ。よく海外に行く人などは、あちらのマシンを使うときに、知っていると役に立つことがあるかもしれない。
【9月13日(土)】
▼昨日書いた銀杏の話であるが、喜多哲士さんから面白い関連情報が寄せられた。喜多さんの奥さんが、以前いらした職場で掃除のおばちゃんから銀杏をもらったときに耳になさった話である。なんでも、そのおばちゃんたちが御堂筋の銀杏並木の下でおとなしく銀杏を拾っている横で、バシバシと木を叩いては大量の銀杏を落としている人物があったというのだ。収穫する量からして、かの人物は“プロ”であると、そのおばちゃんは言っていたそうである。
その人物がほんとうにプロだったのかはさだかでないが、“銀杏採りのプロ”らしき人物がいて、やはり街路樹の下で収穫しているらしいというのは興味深い情報である。ことによると、その人物は銀杏採り業界では名の通った男(だと思う)で、彼を怒らせたら御堂筋で銀杏は拾えなくなるという、キタの帝王(ミナミはすでにいるし)萬田銀杏次郎だったのかもしれぬ。
▼中野善夫さんが設立を準備なさっている「ら抜き言葉撲滅委員会」におれも入ろうかと思ったが、撲滅したいほどではないので、まだ入会届けを出していない。賛助会員くらいにならなろうと思う。中野さんは、外来のカタカナ言葉の濫用についても、「片仮名言葉に新鮮で高級でありがたいといった印象を抱いてしまう舶来品信仰をいつまで持ち続けるのだ」と胸のすくようなことをおっしゃっている(ちなみに、おれは“片仮名”は“カタカナ”、“平仮名”は“ひらがな”とメタな意味を持たせて表記することにしている)。まったくそうだ。だいたい、ハイカラな(笑)つもりでカタカナ言葉を濫用するやつにかぎって、ろくろく外国語を知らないことが多い。コンピュータ業界などにいると、「おまえの日本語は外来語だらけでわかりにくいから、全部英語で喋ってくれ」と頼みたくなる人間にしばしば遭遇する。そういうやつは、賭けてもいいが、まず英語すら満足に知らないのだ。村上龍の『五分後の世界』じゃないが、カタカナ言葉濫用どころか、オレンジ・ジュースをOJと言って喜びそうなアクロニム・バカ(というのは、おれがいま作ったカタカナ言葉だ)もけっこういるでしょう。
同じ心性が生み出すものであろうと思うのだが、古語バカとか漢語バカとか四字熟語バカとか格言バカとか諺バカもいる。万葉なのか平安なのか中世なのか江戸なのかさっぱりわからない似非古文(擬古文ではない)を連発したり、「過ぎたるは及ばざるがごとし」などという言葉を意味不明の文脈で用いたりするバカ(あ、これは我孫子武丸さんが日記に書いてらしたな)って、あなたの身のまわりにはいませんか? おれはてっきり、山村美紗のミス・キャサリンが入閣したのかと思った。我孫子さんは、あの発言について独自の解釈(?)を展開しておられたが、おれも新説を思いついたので書く。あれは、「遠くに過ぎ去った事件は、まだ起こっていないのも同じだ」という意味で言ったのでありましょう(笑)。これも「情は人のためならず」「転石苔むさず」「犬も歩けば棒に当たる」などと同じように、日本の総務庁長官が使った新たな用法として定着し、また中野善夫さんの頭痛の種となるのかもしれない。
【9月12日(金)】
▼ひさびさに外食して帰る。駅の食堂街の居酒屋で定食を食ったが、なんとなく食い足りない。店の壁に貼ってあるメニューを見渡していると“銀杏”という文字が目に留まった。おお、もう何年も食ってないなあ。無性に食べたくなり、食後に熱燗で銀杏と洒落込んだ。
そこいらに落ちているものなのに、金を払って食うのもなんとなくバカバカしいが、発作的になにかが食べたくてたまらなくなることってあるよね。よく煎った銀杏は日本酒のつまみには最高だ。実の緑は目に鮮やかで、ほろ苦い風味と妙な弾力のある歯ごたえは、ピスタチオなんかメじゃない。最近、街路樹の下で銀杏を拾っている人をあまり見かけなくなった。じゃらじゃらと落ちているのを見ると、もったいないなあといつも思う。もっとも、拾って帰ったりすれば、あの臭いに閉口するに決まっているけれども。
待てよ。料理屋で出している銀杏って、いったいどこから採ってくるのだろう。もちろん仕入れるんだろうが、その仕入先の業者はどこで銀杏を集めて来るのかな。どうも街路樹の下だとは思えないのだが……。
【9月11日(木)】
▼会社の昼休みに喫茶店でスパゲッティを食っていると、「三つのジムノペディ」だったBGMが、突如「美しき青きドナウ」になった(どういう趣味だよ)。そこでふと、こう思うのがSFファンの哀しい反射である――「無重量状態でスパゲッティを食うとしたら、どのような食いかたをすべきだろうか?」
たとえばあなたは、慣性航行中の宇宙船に乗っているとしよう。さあ、昼飯だ。まず目の前に浮かんでいるスパゲッティは、具やら麺やらがぐちゃぐちゃと絡み合いながらふわふわとたゆたう、釣り道具屋で売ってるイトミミズの玉のような状態であるだろう。その中にフォークをおずおずと差し入れ回転させる。摩擦はあるわけだから、スパゲッティはフォークに巻きついてくる。これが地球上であれば、スパゲッティが適当に巻きついたところでフォークの回転を止めて口に持ってゆけばよいのだが、無重量状態ではそうはいかない。スパゲッティはフォークに巻きついているあいだに角運動量を持ってしまうのだから、フォークの回転を止めた途端、今度は慣性でフォークからほどけてゆく方向に回転を続けるはずだ。それを防ぐには、フォークの回転を止めないまま口に持ってゆかねばならない。スパゲッティをしっかりホールドするためには、最初はゆっくりとフォークを回転させスパゲッティを巻きはじめて、徐々に一定のペースでフォークの角速度を上げながら口元に持ってゆく技が必要だ。こうやって苦労して食ったところで、おそらく大部分の具は目の前に浮かんだままであろうと思われる(地球上でだって、往々にしてそうなる)。さらに厄介なのは、スパゲッティとの格闘で飛び散ったタバスコが微細な粒子となって漂い、誰かがスパゲッティを食いはじめると、船内のここかしこで激烈な悲鳴があがろう。となると、スパゲッティを食うときは、まず右手にフォーク、左手にパルメザンチーズの缶とタバスコの瓶を持ち、一口食うごとにチーズとタバスコをラッパ飲みするのが安全な方法だ。失敗しても苦しむのはひとりですむ。
などと、バカなことを考えているうちセットのコーヒーを飲み終え、「美しき青きドナウ」を口ずさみながら店を出る。ズンチャッチャ、ズンチャッチャ。
↑ ページの先頭へ ↑ |
← 前の日記へ | 日記の目次へ | 次の日記へ → |
ホーム | プロフィール | 間歇日記 | ブックレヴュー | エッセイ | 掌篇小説 | リンク |