間歇日記

世界Aの始末書


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97年10月上旬

【10月10日(金)】
▼ウィスキーが安くなった。おれが焼酎党だった理由の半分くらいは、これで消失した。いま飲んでいる日本酒が切れたら、次はウィスキーを買おうかと思っている。
 先日、近所の酒屋のちらしを見て仰天した。日本酒一升398円なんてのがある。合成酒だ。「アル中のおっさん、大喜びやろな」などと、ちらしを見て呆れていた母とげらげら笑っていた。あとで母から聞いた話によれば、案の定、翌日酒屋の前で、「なんで売ってくれへんねん!」などと、いつもうろついている酔っぱらいのおっさんが騒いでいたという。このおっさんは昨日や今日酒を飲みはじめたわけではなく、自分が酒を飲めば他人に危害を加えないともかぎらない状態になることをよく知っているはずだ。よって、このおっさんが相当量の酒を飲む行為は、傷害や器物損壊等に向けての未必の故意を構成する。客なんだから酒屋は酒を売るべきだという考えもあろうが、このおっさんがどういう人物か酒屋は知っており、酒屋が知っていることを近所の人々も知っているのだから、ここで酒を売ってしまっておっさんがなにかやらかしたら、酒屋に過失がないとは言い切れまい。酒屋の判断は正しいだろう。
 高いのも困るが、酒が安すぎるのも考えものである。398円くらいなら、大きな駅の券売機の前をうろついていれば容易に集めることができるだろう。自動販売機の硬貨返却口を漁ってもよい。もっとも、ちゃんとした浮浪者は、前後不覚になるまで酒を飲んだりしてはたちまち命にかかわるから、398円もの現金があれば、きちんと栄養を摂ったり暖を取ったりすることを考えるにちがいない。誰かが面倒を見てくれていて、基本的な生活には不自由がないのに飲んだくれているやつが、いちばんタチが悪いのだ。そんなやつに千円でも小遣いを渡したらえらいことになる。さっきの店の安売り日に行けば、3.6リットルもの日本酒が手に入り、残った204円で安いビールなら一缶買える。おれも酔っ払って前後不覚になったことがないではなく大きなことは言えないのだが、日本ってのはどうしてこんなに酔っぱらいに甘いんだろう。酒飲んで車を運転したり、他人や家族に暴力を振るったりするやつがいるからには、酒だって覚醒剤などといささかも変わることのない危険な薬品である。もう少し規制があってもよさそうなものだし、規制のほうを緩くするなら、酒が原因の犯罪にはもっともっと重罰を課してもいいのではないか。
▼Spa王食べくらべシリーズ、今回は電子レンジ調理用の冷凍Spa王・カルボナーラである。おれに言わせれば、冷凍食品はインスタントとしては邪道である。わざわざ電気を使って保存しなければならないし、素材だって“ほんもの”が使えるからだ。以前にも書いたように、やはりインスタント食品というものは、ほんものと同じ土俵に乗るのではなく、それ自身が別種のほんものとして新たな主張をしていなくてはならない。電子レンジで調理できる競合他社製品がいろいろ出てきたからといって、日清食品にはこのようなものを作ってほしくはなかった。
 冷凍Spa王を食ってみると、はたして不発だった。これは、ほんものに劣るまがいものでしかない。冷凍だけあって、麺は正真正銘のスパゲッティを使っているにもかかわらずだ。これなら、ちゃんとお湯をかけて作るSpa王のほうがうまい。要するに、二流のほんものを作ろうとするとそれはにせものにしかならないが、一流のにせものは堂々たるほんものにもなり得るということだ。なんの世界でも同じかもしれない。

【10月9日(木)】
▼会社の帰りに、普段あまり行かない本屋で立ち読みをしていると、『戦時広告図鑑 慰問袋の中身はナニ?』(町田忍、WAVE出版)というのが目に留まる。やあ、こんな本が先々月に出ていたとは知らなかった。戦時中の身のまわり品の広告が豊富な図版で紹介されている。1700円と少々高めだが、あっさり買う。
 晩飯食ってぱらぱらと見ていると、やたら面白い。最初のうちは爆笑していたが、次第に背筋が寒くなってきた。昭和十三年の月桂冠の広告――「國策線に沿ふて『この芳醇を適量に!』銃後の元氣 常に溌剌」酒飲んでる場合じゃないのだが広告はせねばならず、なにやら遠慮しているのが妙におかしい。昭和十二年の森永ミルクキャラメルの広告――「空爆にキヤラメル持つて! わが荒鷲部隊は、爆撃に行く時に、必ずキヤラメルを持つて行く。機上では一番の、樂しい御馳走だ 慰問袋に感謝する!」エンジェルはやっぱり眺めていたのだろうか。昭和十六年のキングレコードが近日発売の新曲を広告している――「決戦の歌 進め一億火の玉だ ヴオーカルフオア合唱團」作詞作曲は大政翼賛會である。B面、じゃない、片面が「國民歌 頑張りどころだ」というのだから、不謹慎だとは思うが笑ってしまう。その隣には、昭和十九年の新曲「造船音頭」の広告が載っており、発売元は「キングレコード改め富士音響」である。“王様音盤”などと改名して、湖上の煙、火の粉がパチパチでは洒落にならないしなあ。あの飲みものも昭和十二年にはこうだった――「乳酸は梅干より強し! 銃後の我國を荒しだした悪疫群! 梅干はそれを征服します。そして各御家庭のお子様方にまで大歓迎されるカルピスは實に梅干以上の防疫力をもつた権威ある飲料です」おれの世代にとっては初恋の味なんだが、これではまるで秘密兵器かなにかのようである。なお、広告文中に多用されている旧字体でパソコンのフォントにないものは、やむを得ず現在の字体に改めた。
 この本には、こんな調子の広告がこれでもかこれでもかと紹介されているのだ。いま読めば笑えるのだが、はたしてリアルタイムでこれらの広告に触れた人々は額面どおり真剣に広告の訴えに共感していたのか、それとも、内心ではやっぱり少し笑っていたのだろうか。当然、持てる情報量と認識による個人差もあったはずだけれど、内心笑っていた人もじつは少なくはないんじゃないかとおれは思う。思いたい。じつは、この本と一緒に『と学会白書 VOL.1』(と学会、イーハトーヴ出版)も買った。両方を眺めているうち、どちらがどちらだかよくわからなくなってきたよ、ホント。
 ひとつたしかなのは、おれたちがいつも新聞や雑誌で目にしている広告の多くも、六十年後の人々には大笑いされるにちがいないということだ。

【10月8日(水)】
▼一年前の今日、このホームページを開設したのだった。早いものだなあ。ともかくめでたい。一度でも読んでくださったみなさまには、厚く御礼申し上げます。
 もっとも、プロバイダにちゃんと金を払ってさえいれば、まったく更新しないページでも勝手に一周年は来るわけで、そう考えると一周年だろうが十周年だろうが、なにがめでたいのかよくわからなくなってくる。たくさんの方が見てくださったのがめでたいのはたしかだが、大勢が見たほうがいいページなのかというと、その辺がおれにはいまだに判然としないのである。たとえば、円周率が小数点以下1万桁くらい書いてあるだけのページが一枚ぽつんとあったとする。そんなもの誰も毎日見たりはしないのだが、「どうしても、すぐに2,593桁めを知る必要があるのだ」と慌てている人がWWWを検索してそんなページが見つかれば、「インターネットというのはまことにありがたい」ということになるだろう。「コイケヤのカラムーチョの袋に描いてある“ヒーおばあちゃん”と“ヒーヒーおばあちゃん”の名前がなんとしても知りたい」と思っているときに、その回答を与えてくれるページに遭遇したら、きっと感動するだろう。ちなみに、ヒーおばあちゃんは“森田トミ”で、ヒーヒーおばあちゃんは“森田フミ”である。あっ、これでこのページは、「コイケヤのカラムーチョの袋に描いてある“ヒーおばあちゃん”と“ヒーヒーおばあちゃん”の名前がなんとしても知りたい」と思っている人にとっては、たいへん価値あるページになってしまったぞ。
▼小便をしようと駅のトイレに入ると、五十がらみの男が便器の反対側の壁に向かって熱心に話しかけている。「家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。充分気ぃつけて。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。充分気ぃつけて。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。充分気ぃつけて。家賃二か月分払ってる。家賃二か月分払ってる。家賃――」と、まったく同じ抑揚でひたすら繰り返しているのだった。なにやら深い事情がありそうだ。こちらに危害を加えそうな気配は感じられなかったので、男を尻目に平然と小便をした。トイレにはほかに三人ほどいたが、彼らも家賃の男が存在しないかのように振る舞っている。不条理劇の劇中人物になったかのような気がして、なんとなく小便の出が悪い。「充分気ぃつけて」の出現頻度や出現箇所になにか法則があるのではないかと耳をすましていたのだが、かなり長時間サンプルを集めないとわかりそうになかった。世界は驚異に満ちている。

【10月7日(火)】
▼「生クリームプリンヨーグルト」と称する、なにやらわけのわからない食いものが冷蔵庫にあったので、とにかく食ってみる。うまい。よく見ると、ヨーグルトに卵黄を混ぜてあるだけみたいだ。こういう微妙なゲテモノの中に、ときおり奇跡のように逸品が見つかることがある。
 おれはあまり食いものに執着があるほうではないのだが、身のまわりの“ありもの”を適当に混ぜ合わせて、なぜかうまいゲテモノを作るのは大好きだ。アイスクリームに醤油を垂らして食うとうまいのは、誰もがご存じであろう。コンビーフにチューブ入りの特選生わさびを塗って食うのもお薦めである。
 同じような趣味の人はけっこういるらしく、人がこの手の発明を書いているのを見つけると、やたらうれしい。材料が手近にあるときに試してみたくなる(わざわざ材料を買いに行ってはいかんのだ、この遊びは)。うどんをブルーチーズで和えて食う((C)大原まり子)、パンにマヨネーズを塗ってバナナをぐるぐる巻きにして食う((C)川原泉)、固くなったコロッケを両の掌で平たく押し潰しトースターで焼いて食う((C)五木寛之)――などは、どんな味がするのだろうと淫らな想像を楽しみつつも、いまだ実行しえない名作である。この天地のあいだには、おれの哲学では夢にも考えつかない身近なゲテモノが、まだまだたくさんあるのにちがいない。豊かな食文化を楽しむ生活をしたいものだ。
▼SFマガジン・12月号用の執筆者近況を書くのを忘れていた。これにはいつも悩む。会社行って帰ってきて本読んでテレビ観てパソコン叩いて寝るだけの独身男に、取り立てて書くほどの近況などないのだ。この日記みたいなことを書いてごまかすには、字数が少なすぎる。うーむ、弱った。

【10月6日(月)】
▼電車で隣に座った女の子ふたりが話している。途切れとぎれに聞こえてくる話の内容からすると、どうやら看護婦らしい。
「○○なんか××で、ほんまに△△やわぁ」
「そんなもん、うちの院長先生なんか、心筋梗塞と喘息をまちがいはるんやで」
「うっそ〜」
「ほんまほんま。そんで、当直の先生に言われてはるんやから。そんなもん、*****したらわかりそうなもんやんかなあ」
「へええ。そやけど、なんか心筋梗塞と喘息て、ようまちがわはるらしいで」 そ、そうなのか?
「そやけどなあ……」
 よっぽどどこの病院か尋ねようかと思ったが、ほんとにそんなものなのかなあ。まあ、医者も人間だしなあ。
▼必要があって、久々に『旅のラゴス』(筒井康隆、徳間書店)を再読している。通算六回くらい読んだろうか。この作品には、何年か毎に発作的に読み返したくなる妙な魅力があって、心身が衰弱気味のときなど、とくに読みたくなる。ヒーリング効果があるのだ。筒井康隆自身、これを書くことによって癒されていたところが大だったのだろう。これって、どう読んでも、筒井康隆の主観的半生記だもんな。じつは、『アルカイック・ステイツ』(大原まり子、早川書房)は、大原まり子版『旅のラゴス』なんじゃないかと睨んでいるのだが、そういう感想はあまり聞かない。深読みが過ぎるのだろうか。

【10月5日(日)】
▼仕事をしていると部屋に煙草の煙が籠ってくる。エアコンを送風にして換気しようとしたら、リモコンの電池がなくなっていた。あっ、このサイズの電池は買い置きがない。しかたがないから、HP200LXの赤外線インタフェースをリモコン代わりに使う。こういうときのために、うちにあるリモコン類の主要な信号はあらかじめ覚えさせてあるのだ。
 おれはそれほどヘビースモーカーじゃなく、とくに苛々しているときでもないかぎり一日一箱くらいが限度だ。あまり吸うと気持ちが悪くなってきて、なんのために煙草を吸っているのだかわからなくなってしまう。
 待てよ。そういえば、おれはなんのために煙草を吸っているのだろう。掛け値なしにいつでもうまいというものではない。身体にも悪い。人にも迷惑をかけることがある。それでもおれは煙草に手が伸びてしまう。いろいろな理由が考え出されてきたが、嫌煙者に対抗して虚勢を張り無理やり捻り出したような理屈は、煙草吸いが聞いてもあまり気持ちのよいものではない。おれがいちばん気に入っている説は、喫煙というのはつまるところ“時間を吸っている”のだという安部公房の卓抜な指摘である。
 もうひとつ、経験的に感じられる喫煙の効果としては、一時的に頭が悪くなるような気がするというのがある。“頭が冴える”とも言う。なんのことやらわからないという人は、頭脳労働をやったことがない人だろう。つまり、頭というやつは、ハイになるといろんなことが面白いように次々と浮かんできて、「おれはもしかしたら天才ではあるまいか」と思えるほどにオーバーヒートすることがある。なにかのネタを考えているときなどは全方位に勝手に暴走させておいたほうがよいのだが、いざそれを形にする作業にかかるには、そのままでは収拾がつかない。とりあえず、エネルギーや思考の糸を収斂させて一方向に向けてやらなくてはならないわけだ。ここで頭の使いかたを切り替える必要がある。それは総合的には頭の働きを鈍らせることになる。しかし、方向を絞りこむという観点で捉えれば、頭の働きが鈍ったがゆえにノイズが減って、頭が冴えたとも言えるだろう。煙草はこうした頭脳の暴走にブレーキをかける点で効能があると、おれには感じられる。
 とかなんとかいう理由も、なんだか言いわけ臭い。この日記などは、暴走の産物をそのまま垂れ流しているだけで、文はガチャ文だわ、思考の糸はこんがらかってるわで、頭脳労働のうちに入らないレクリエーションにすぎないくせに、やっぱり煙草を吸いながら書いているからである。
▼昼下がりにテレビを点けると、『タワーリング・インフェルノ』をやっていた。もう二十回近くは観ているような気がする。ところどころ台詞が再現できるくらいだ。ゆっくり観ている暇もないから、BGM代わりに点けっぱなしにして仕事をする。背中で音を聴いているだけで、カット割りまでわかってしまうよ、どうしたもんだろね、こりゃ。なんだかんだ言いながら、これはすごい名画だと思う。ワーナー・ブラザーズと二十世紀フォックスという商売敵が共同製作したってのが、さすがアメリカ人、妙なこだわりより実を取るというか……。おかげで鼻血が出そうなほどむちゃくちゃな豪華キャストである。マックィーンも死んじゃった。『慕情』のウィリアム・ホールデン&ジェニファー・ジョーンズのコンビももう故人だよねえ。フレッド・アステアの詐欺師がなんつっても最高だったけど、この人ももういない。O・J・シンプソンもこのころは英雄だったのねえ。
 この映画の原作はふたつある。The Tower(Richard Martin Stern)と The Glass Inferno (Thomas N. Scortia and Frank M. Robinson)という小説を、ふたつの映画会社がそれぞれほぼ同時期に映画化しようとしていたため、無用な競争を避けて一緒にどどーんと豪華なやつやりましょうという話になったわけ。ちなみに、 Frank M. Robinson はSF作家でもあって、The Dark beyond the Stars(Tor, 1991)という作品をSFマガジン・96年3月号で冬樹蛉さんとかいう駆け出しの人が紹介しているので、参照されたし。結局、これが書きたかったのか。
 爺いがむかし話すると長いぞ――。さて、主題歌がまたいい。アカデミー主題歌賞受賞曲 We May Never Love Like This Again Maureen McGovern 本人が出演して歌っている。若いなあ。この人、バラード歌わせたらほんっとに素晴らしい歌手なのに、なんで日本じゃ人気ないのかなあ。バラードは万死に値するとか言われてるしなあ。業界がちがうか。
 それはそうと、この曲の日本語カバー『タワーリング・インフェルノ 〜愛のテーマ〜』を歌っていた中沢厚子嬢は、いまなにをしておられるのだろう。ちょっと線が細いながらも、潤いのあるいい高音を持つシンガーソングライターなのでありますが、最近まったくお名前を聞かないものだから気になっているのだ。引退してしまわれたのだろうか。ネットで検索しても新しい情報は見つからず、むかしのラジオ番組だとかコンサート情報にしか中沢厚子の名は見当たらない。知ってる人はおれと同年輩以上の方だろうなあ。受験生ソングとかも歌っておられた(たしか『昭和のサムライたち』だっけな。うろ覚え)。情報お持ちの方がいらしたら、お教えいただければ幸いです。もしもCDが出てたら買い直したいし。うちのドーナツ盤は、デッキがなくてもはや聴けないのだ。

【10月4日(土)】
▼あっ。テレビに出ているキダ・タローを見て気づく。最近、なんだかアイザック・アシモフに似てきた。陽電子人工頭脳で考える巨大な蟹のロボットなどというものが頭に浮かんでしまう。
ニフティ株式会社が出してる「NIFTY SERVE MAGAZINE」11月号のいしかわじゅん氏の連載四コマを見て考えた。WEBページ用のカウンタがキリのいい数字になったら、パンパカパーンとかなんとか音出してくれる貸しカウンタとかないかな。下のほうにあると、いちいちカウンタなんか見ないこともよくあるのだ。キリのいい数字なのに気づかないかったとしたら、なんとなく口惜しいじゃないか。また、いしかわ氏のようにプレゼント企画をやったりするには、たとえばカウンタの10000番を取った人のアドレスを知る仕組みがあれば便利だろう。自分でサーバを立ち上げていればそういう仕掛けも難しくはないのかもしれないが、貸しカウンタにそんなサービスがあれば面白いかも。技術的には可能なんだろうか。おれはそこいらには疎いのでよくわからない。でも、ページを見るほうからすれば、勝手にアドレスを捕捉されるのもあまりいい気持ちはしないしなあ。どのみちあちこちで勝手にアカウント名を捕捉されてるんだが、「うちを見たでしょう」なんてメールが望みもしないのに向こうから来たら、少なくとも愉快ではないよね。
 調べる方法が開かれている情報だとしても、こちらから積極的に教えた覚えのないことを相手が知っていると、やっぱり人間は薄気味悪く思うものなのだ。たとえば、おれの個人情報だって、おれがいままでに商業誌、同人誌、パソ通の会議室、ホームページなどなどに書いたことをすべて熟読し論理的に筋道をたどれば、そこそこの情報ソースの使い手なら、まあ一万円とかけずにひととおりのことは調べられ、お望みとあらば卒論を捜し出して読むことすらできるはずだ。だからといって、突然本名で呼びかけるメールが来たりしたら面白くはないだろう。よく公開情報・非公開情報といった単純な分けかたをするけれど、おれはもうひとつ“準公開情報”とでも呼ぶべき区分を自分の中に設けている。つまり、“比較的容易に調べはつくが、おれが知っていても自然だと本人が思わないであろう情報”ということである。又聞きの個人情報などがこれに当たる。プライベートで知り得た文筆業者等の個人情報にはとくに気を配らないと、本人が“準公開”にしているのに、おれがうっかり書いたり喋ったりしてしまわないともかぎらない。
 ちゃんと管理しておかないと、忘れっぽいおれは他人に対して知らずに非礼を働くおそれがあるから、たとえば、おれのHP200LXの住所録データベースには、一人につき名前の項目が五つある。「通り名」「ハンドル」「ペンネーム」「その他の呼称」「法的本名」だ。データ一覧の見出しとなる「通り名」には、その人がおれに接するときに最も頻繁に使用する名、もしくは、広く公開されている名を入れておく。おれがその人のハンドルしか知らなければ、ハンドルを入れるのである。いちばん検索しやすいし、この名はおれが三人称で口に出しても安全な名だということだから、住所録を横からちょっと覗き見されても問題ないのだ。ややこしい人になると、この五項目のうち四項目までがちがう名前だったりするわけである(大森望さんとか妹尾ゆふ子さんとか)。ペンネームが三つ以上あったりする人だと、五項目でも足りない(笑)。
 名前の話のついでだけど、西垣通氏などはネットの匿名性が質の低下に繋がる悪の根源のひとつだと考えておられるようだが、おれは必ずしもそうは思わない。Aさんが責任と愛着を持って継続的に使っている名であるなら、それが本名ではなくとも、その名で恥知らずな行為をしたりはできないはずだ。たとえば、ハンドルにしてみても、たいていの人はなにも悪いことをしようと企んで使うわけではない。オンラインの交流の場などに於いては、形式的にはお互いの社会的属性を脱ぎ捨てて、心理的に対等になれるという効果すらある。じつは有名な作家の「へのへの」さんが、一介の高校生の「もへじ」さんとオンライン会議室で好きな作品についてわいわい語るなんてこともやりやすいのだ。だが、ひとたび電子ネットワークを悪用しようとすれば、本名を使わないことによる心理的解放感が道徳の箍を外すこともあるだろう。そういう悪意のある人間は“匿名性”を利用しているというよりも、“無名性”を利用していると言ったほうがよいと思う。つまり、ハンドルだろうがペンネームだろうが、社会性が付帯しはじめるほどに使い込めば、それはすでに匿名しているのではないのであり、逆に本名を明かしていようが、社会性が付帯していない状況に於いては、一種の匿名状態のままであり得るのだ。“旅の恥はかき捨て”なんて都合のいい論理の下に、海外旅行で破廉恥なことをしているやつはいっぱいいる。
 人間はただひとつの本名をいついかなるときも使うべきだという発想を、おれは非常に官僚的で貧困だと思う。人は名前なんかわからなくたって信頼関係を結び得るというのは、おれがパソコン通信で学んだ大きなことのひとつだ。本名がわかったからといって、信用できないやつは信用できない。電子ネットワークが出現するずっと以前から、個人が複数の名前を社会的状況に応じて使い分けて当然という文化は腐るほどある。ひとりに三つも四つも名があったって、グラスの底に顔があってもいいのと同じくらい(古いなあ)いいじゃないか。たかが名前、されど名前なのである。

【10月3日(金)】
▼手ぶらで携帯電話が使えるイヤホンとマイクのセットみたいなやつがある。車の中ならいざ知らず、往来で使っている人を見るとじつに気色悪い。ただでさえ携帯電話で話している人がこちらに迫ってきたら気色が悪いというのに、電話を手に持ってもいない人が大声で喋りながらまっすぐ近づいてきたら、それはそれは不気味なものである。
 携帯電話の普及前にも、人通りの多いところでひとりごとを叫ぶ人がいなかったわけではない。それらはたいてい、演劇青年の修行だったり、なにかの団体の研修だったりするのだそうだ。汎用的な通過儀礼が滅びてしまった社会では、あの手の方法も悪くはないと思う。精神的なバンジージャンプみたいなものですな。
 考えてみれば、通過儀礼というのは、ほかから強制的に与えられて他者に見届けてもらえるから通過儀礼たり得たのだろう。だから、個々人がそれぞれの通過儀礼を自分で見つけて自分に課して自分で実行しなければならず、しかもそれを誰かが見ていて認めてくれるわけでもないという現代日本の状況は、青少年の精神のありかたにとってとても厄介だ。通過儀礼を自分で研究開発しなきゃならない困難極まりない状況を乗り切ることこそが、皮肉にも現代日本の通過儀礼だと気づいていない若者も少なくないだろう。それらしきものを提供してくれそうな宗教やら、問題を共有してくれそうなアニメやらに群がりたくなる気持ちもよくわかる。研究開発した結果が、人の首斬って晒すことであったりしたら、それもまた悲惨だが……。

【10月2日(木)】
▼雨だ。トンボが飛んでいないので寂しい。ときどき止まっているトンボに忍び寄って捕まえては、「うむ。まだ腕は衰えておらぬ」と確認して逃がしてやるのである。いい歳してなにやってるんだか。
 おれのトンボ獲りは非常にオーソドックスだ。まず、狙うトンボから数メートル離れたところで立ち止まり、右手の人差し指で左下の地面を指差すのが基本型だ。そこから右肩を支点にゆっくりと腕を回転させ、人差し指で虚空に直径1メートルばかりの円を描く。円月殺法のようでもあり、仮面ライダー1号の変身のようでもある。それから徐々に円の大きさを縮めつつ、トンボに歩みよってゆく。いよいよ大詰めともなると、トンボの翼長よりやや直径の大きな円を手首を支点に高速で描いている状態になる。ここまでくると、トンボは完全に無抵抗になるのだ。そのまま指の回転を止めずに、トンボの羽の根元のほうを一気に人差し指と中指で挟む。羽の先端を挟んではいけない。羽が破れることがあるし、大きめのトンボであれば噛みつかれて痛い目に会うのだ。
 この伝統的なやりかたがなぜこうもうまくゆくのか、おれはいまだに確たる理由がわからない。ほんとうに“目を回している”とは思えないのだ。これはおれなりの勝手な推理であるが、おそらくトンボどもは“回転”という運動を見たことがないので、彼らの情報処理系はそれを外敵の動きだと認識できないのではなかろうか。自然界に回転という運動はあまり見かけない。いや、天体の運行だとかサルモネラ菌の鞭毛だとか、極大や極微のスケールでは回転する自然物も少なくないのだが、トンボが知っている規模の自然界には回転するものなどないはずだ。彼らの情報処理系はそういう環境で進化してきたので、動きに敏感すぎる複眼も禍いして、円運動に対してはいとも簡単に情報処理システムが鈍化を起こし、その刺激を脅威とはなりえないノイズとして処理してしまうのではないだろうか。
 だとすると、トンボと同程度の知能(?)しか持たない生物であれば、円月殺法で捕獲できそうなものである。しかし、蚊や蠅にはとても通用しそうにない。彼らなら、人間の指の運動などよりも、歩み寄る振動、体温、空気の動き、二酸化炭素濃度、その他動物が発散する臭いの分子などを優先的に処理し、外敵の接近を察知してしまうだろうからだ。トンボの情報処理は、とくに視覚偏重なのであろうか。
 そこで思いついたのだが、“座頭市対眠狂四郎”という企画を一度実現してほしいものだ。勝新が健在のうちに思いついていればなあ。

【10月1日(水)】
▼先日まで暑い暑いとのびていたかと思ったら、1日だと遅すぎたり、たそがれの国だったりする月になってしまった。ここから除夜の鐘までは毎年「あっ――」という間である。怖ろしいことだ。
 それはさておき、またしても「○○と××くらいちがう」である。じつは、先日第一回の大賞を発表したところが、そのあとで応募作が続々と舞い込みはじめ、ちょっと面食らっているのだ。野尻抱介さんのページの掲示板で流行りはじめてしまったようだ。こういうアホな遊びに乗ってくれる人がたくさんいるのは嬉しい。こうなったら、第二回もやらずばなるまい。
 そこでお願いでありますが、掲示板等での投稿は管理がややこしくなるので、野尻さんの掲示板で発表なさった方で第二回に正式に応募なさりたい方は、メールで改めてお送りください。第二回の締切は、10月31日24時といたします。審査員はもちろん冬樹ただ一人。賞品の発送は発表を以て代えさせていただきます(言っとくけど、なんも出んからね〜)。


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冬樹 蛉にメールを出す