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97年10月中旬 |
【10月19日(日)】
▼おおお。手前の書いてるWEBマガジンをあまり褒めるのもなんなのだが、最近のSFオンラインはなんだかやたら面白い。今月のロボット特集など、出色の出来である。先端技術を取り上げるにしても取材ネタの垂れ流しに終わらせず、なんかこう、“SFの雑誌だよ〜”という華があるんだよね。「なんだかわからないが、すげー、おもしれー」と浮かれる感覚は、こういう趣味系の雑誌にとって存外に重要な要素だと思う。いまのSFオンラインには、同じアホなら踊らにゃ損ソンと思わせてくれるなにかがある。このまま順調に充実して、欧米のWEBマガジンにも引けを取らぬ日本SF界の牙城のひとつとして立ってくれると嬉しい――って、ひとごとじゃねーんだよ。
▼それにしても、このところ締切が重なってやたら忙しい。こう書くとまるでおれが売れっ子のように聞こえてしまうけれども、まったくそんなことはなく、単に仕事が遅いだけにすぎないのだが……。「このままでは京都SFフェスティバルに参加できないかもなあ」と焦っていたら、京フェスは一週間遅れになったし、SFオンラインの更新日は来月から25日になった。天の助けである。このスケジュールなら、なんとか参加できそうだ。せめて地元の京フェスくらいは参加しないと、おれにはなかなかSFの人と会う機会がない。腰を据えてまとまった仕事ができるのは土日にかぎられてしまうから、例会やイベントにあまり参加していると肝心の仕事ができず本末転倒になってしまうのだ。
ところで、神戸の例の少年は“直観像素質者”であったということだよね。じつに羨ましい能力である。完璧な直観像記憶の持ち主なら書評の仕事には持ってこいではないか。ぱらぱらぱらぱらと新刊を二、三分で画像として脳に叩き込み、ちょっとした空き時間に想起して読めばいいのである。兼業ライターの最も欲しがる能力だろう。退屈な会議の最中など、熱心に聴いているふりをして本や資料が読める(笑)。もっとも、直観像記憶を持ったとて読解力や表現力が向上するわけではないだろうから、そんな能力に寄りかかると、それこそあの少年のように、どこかで見たような文章の寄せ集めしか書けなくなってしまうかもしれないよな。
【10月18日(土)】
▼SFオンラインの仕事が一段落したので、ゆっくり寝る。ほんとうはそれどころではなく、すぐ次の仕事にかからねばならないのだが、とにかく寝る。たっぷり寝てから、息抜きに『ゴルゴ13 [103]モスクワの記憶』(さいとう・たかを、リイド社)を読んでいると、二話めの「15−34」(93年6月作品)はSFだった。なにしろ宇宙空間で狙撃をしたことのある男の話だからして、SFネタでもべつに驚きはしないが、ネット内を自在に移動する自律的な人工知能ソフトウェアがデューク東郷の命を狙うというのだから、ぶっ飛びかたはなかなかのものである。
最近のSFにもこういうネタは多い。ウィリアム・ギブスンが華々しく登場したころには、サイバースペースというだけでそれは一種魔的なオーラを帯びていたのだが、90年代に入ってからは、コンピュータ・ネットワークが社会のインフラとして日常的に実感されてきたためすっかり地に足が着き、保守的手法のエンタテインメントが舞台装置に使うようになってきたのだ。 Mark Fabi という新人の WYRM (Bantam)なんてのも、スケールでかいが基本的に同じネタだった。この作品、小説としては稚拙だけど、ディテールは正確で用語は的確だから、電脳おたくな人にはけっこう楽しめるだろう。
「15−34」のほうは、ディテールはかなり甘いしコンピュータ用語の使いかたもちぐはぐだが、この長さのマンガとしてはうまくまとまっている。もっとも、ゴルゴ13の反撃方法にはいくらなんでも無理があるよ。93年時点でも光通信回線や光ストレージ媒体はもちろん存在していた。百歩譲ってそういうものを無視したとしても、インターネットの原型となった技術は、まさにゴルゴ13の反撃のような事態に備えた設計思想に基いているのだ。雑誌掲載時ならいざ知らず、いま読めば、パソコン好きな中学生でもおかしいところを指摘するだろう。
てなこと考えながらマンガを読んでいたのでは、ちっとも気分転換になってないような気がするなあ。
【10月17日(金)】
▼会社の帰りに駅のそばの本屋をうろついたあと、小腹が空いたので喫茶店に入る。ケーキを食いながらカフェ・ラッテを飲んでいると、隣のテーブルについている客が妙な取り合わせなのに気づく。ひとりはおれより少し若いくらいの三十代前半のスーツ男、いまひとりは、そろそろ六十か、いやもう還暦も過ぎているやもしれぬ泥臭い雰囲気のおばちゃんである。まさか不倫カップルでもあるまいと、じっと会話に耳を傾ける。ははあ、どうやら男はセールスマンで、おばちゃんはと言えば、これもセールス・レディーらしい。話の内容からすると、あきらかにマルチ商法だ。男は指導員のような立場で、おばちゃんは末端の細胞だな。男の胸のバッジを見るも、おれは聞いたことのない会社で、アゲられたという報道も知らない。一応合法的にやっている連鎖販売ではあるのだろう。
これはよい席に隣り合わせた、とおれは内心ほくそ笑んだ。ふたりの会話は細大漏らさず聞き取ることができ、男は懸命におばちゃんに説明をしている。マルチ商法の指導員なるものが、どのように細胞を指導するのか、後学のためにぜひ聴かせていただこう。おれはHP200LXと携帯電話を取り出すと、いかにも仕事をしているようなふりをしながら、耳をダンボに(死語だよなあ)した。
二十分もふたりを観察していると、どうやらこのおばちゃんは、なにも生活費を稼ぐためにマルチの販売員をやっているわけではないらしいことが読めてきた。自分を一個の人間として認めてくれて、熱心に説明をしてくれて、目を合わせて自分の話を聴いてくれる――そういう相手が欲しいだけのようである。男のほうはなかなかデキるやつらしく、そんなことは承知のうえで、おばちゃんの隠れた欲望を満足させるかのような言葉を選んでいるのがわかる。あなたは(まわりの人々には疎んじられているのかもしれないが)たいへんやる気のある人だ、熱心だ、努力を怠らなければ有能ですらある、それに気づかない人々はどうかしているのではないか、われわれの話に乗ってこないような人間はわれわれよりいささか劣る種類の人間なのだ、こんなお得な話をあなたの友人たちに持ちかけない手はない、これは人助けである――と、要するに、男はこれだけのことを千言万語を費やしておばちゃんに吹き込んでいるわけだが、けっして直截に言葉にして下賜しているのではない。巧妙に会話をリードしながら、それらのことにおばちゃんが自分で気がついたのだと錯覚させるように仕向けている。なあるほど、これが極意であるな。こういう有能な指導員にかかれば、日常で満たされぬ自己実現の欲求に悶々としている世間知らずのおばちゃんなど、ちょろいものなのであろう。
じっと聞いていたおれは、次第に胸が悪くなってきた。この男は犯罪者だというわけではない。おばちゃんも嬉々として聴いている。ふたりの利害は一致しているのだ。しかし、おれにはこの男がやっていることが、とてつもなく不潔に感じられてならない。いや、誰に迷惑をかけているのでもなければ、立派な仕事ではあるよ。おそらくこの男はおれの倍以上は稼いでいる甲斐性のある社会人なのだろう。ただ、おれの感性には決定的に合わないというだけだ。お友だちにはなりたくない。この男は、相手を説得しようとするのではなく、操るために言葉を使っているからだ。それは相手を直接馬鹿にするよりもはるかに侮辱的な、相手の人格に対する冒涜である。小説を読むようにしてこの男の言葉を聴いていると、その手練手管の細かいところまでが、おれにははっきりとわかる。なるほど、こいつは強かな職人だ。だが、なにか重要なものをどこかで売り渡してしまっているようにおれには思える。まあ、そんなこと言ってるようでは出世できんよな(笑)。
【10月16日(木)】
▼あ、でけた。「丸川珠代と島田珠代くらいちがう」ってのはどうだ。うむ、われながらよい出来かも。
▼わははははははは。昨日、JR京都駅で、風に飛ばされた一万円札を追って男が線路に飛び降り列車の運行に支障を来したという事件があったそうな。いやあ、わかるなあ。一万円だよ、壱萬圓。単純に計算すればたかが千円札十枚分だし、線路に飛び降りてまで追うほどのものかと冷静に文章を書いているいまだからこそ思うのだが、駅弁買おうと取り出したらふわふわと飛んで行かれた日にゃ、おれだって咄嗟にどういう行動を取るかわからない。なぜか“いちまんえん”という紙幣には、千円の十倍以上のなにものかが纏わりついているのだ。そう思いませんか? 百円玉が百個あったって、そんなにありがたみがあるようには思えず、それくらいならおれだってゲーセンで一晩で使ってしまったことだってある。「もう千円、もう千円」とやっていると一万円などあっという間だ。が、おもむろに一万円札を取り出し「さあ、百円玉に崩して全部ゲームに使うぞ」などと思っただけでも、なにやらアホらしくなってくるではないか。
ヴァーチャル・マネーというのは、ここいらへんのいわく言い難い呪術的なものが欠落しているから、これが主流になってしまったら、単に無駄遣いが増えるという以上に、人間の経済活動の底に流れるなにかが大きく変わるような気がする。金を“払う”という行為はすなわち“祓う”なのであって、物品やサービスを提供することによってこちらの優位に立ってしまう相手からの一種の呪いを相殺することにほかならない。わが身に charge された穢れを、文字どおり、あのお札(ふだ)によって祓い清めるのだ。そうしたわかりやすい儀式が日常から消滅することになったら、人間の無意識はなんらかの代償行為をどこかに求めはじめるような気がしてならない。これは今後、ちょっと注意して観察しておきたいよね。
【10月15日(水)】
▼おれは結婚という制度にほとんどなんの興味もなく、一緒に暮らしたい男女がいたら勝手に一緒に暮らせばいいじゃん、厭なら勝手に別れればいいじゃんと思っている。子供はどーすんだよという話があるが、そんなもの自分たちの責任で作ったんだから、双方話し合って不自由のないようにしてやるのが大人というものである。なあんの愛情もない夫婦の板挟みになって苦労した子供など、ろくな大人にならないことはおれが保証する。どういう大人になるかというと、結婚になんの魅力も感じない、早い話がおれみたいな大人になるのである。片親ではどうのこうのなどと気にする時代でもあるまい。不幸な親に幸福な子供が育てられるものか。よっておれは、女性の経済的自立能力は子供が健全に育つための第一条件であると考えている。経済的に自立できる能力を備えた女性が各家庭の事情や方針で専業主婦になるのは有益だが、いざお互いがどうしようもなく厭になったときには、すんなりふたつの個人に分裂できるようにしておく必要はあるだろう。離婚の自由のないところには、結婚の幸福などないし、ひいては家庭の幸福もない。
おれは、しあわせそうな夫婦を見ると、「ああ、しあわせそうだなあ」とは思う。人がしあわせそうにしているのを見るのはいいものだ。が、羨ましいといった感情はどうしたことか毫も湧いてこないのである。それはたとえば、納豆を食ったことがなく食うつもりもない人が、他人がうまそうに納豆を食っているのを見て内心不思議に思いながらも、「ああ、この人は納豆が食えてしあわせなのだなあ。うんうん、おいしそうでまことによいことだ」と、なんとなく嬉しくなってしまうといった心境である。
そんなおれであるが、最近独身であることが、なんとなく悔しくなってきた。独身では絶対できないことがあるからだ。不倫である。右を向いても左を見ても不倫不倫物語、これはなにか、よっぽど面白いことなのであるのにちがいない。あんまり面白いものだから、不倫する資格を得るために結婚してみるやつとかもいたりするんじゃなかろうか。やってることはただの自由恋愛なのだから、そういうことを楽しみたいのならなにもわざわざ結婚しなくてもいいのにと思うのだが、そこはそれ、煙草を隠れて吸ってうまいのは十九までだといった心理が働くのやもしれない。とまれ、ライフスタイルの選択肢が増えるのは減るよりはよっぽどよいことで、こういう世の中になってきたのだから、いっそ戸籍なんぞ廃止してしまえとすら思うのである。遺産なんか、もし遺言状がなかったら、国庫に帰して再分配してしまえばよい。戸籍がなかったからといって、人間なにか困ることがあろうか? あなたの好きな鈴木一郎は鈴木一郎以上でも以下でもなく、ただ目の前に立っている一個の人間、鈴木一郎であるにすぎない。それが好きならそれでよし、嫌いならそれでもよしである。紙切れ一枚でなにか変わることがあるとでもいうのだろうか? 鈴木一郎に電子工学の知識があればそれで食えばよいし、清水焼きの名人だというのならそれもよい。
なんだか今日は支離滅裂だが、いやなに、林真理子のコピー事件に呆れているからこういう展開になったのである。林真理子原作の映画『不機嫌な果実』の電車中吊り広告を、JR東日本が「公序良俗に反する」という理由で掲示を拒否したというではないか。なんでも、「夫以外の男とのセックスは、どうしてこんなに楽しいのだろうか。」という林真理子直々のコピーが、「夫婦以外のセックスを奨励するかのような」もので「社の規定に照らして公序良俗に反する」からというのだから、ちゃんちゃらおかしい。そうか。JR東日本の人は、夫婦以外のセックスをしたら社規違反なのか。まあ、JR東日本の社員がことごとく社規を守っているはずはないから、これはもちろん冗談なのだが、なにが笑わせると言って、このコピーを逆にしてみると大爆笑せざるを得ないではないか。「妻以外の女とのセックスは、どうしてこんなに楽しいのだろうか。」なんて言葉は、耳に胼胝ができるほど聞いているし、そうした意味の車内吊り広告なんていままでも腐るほどあったはずである。週刊誌の広告を見るがいい。なんで女ならいかんのだ? アホか。
林真理子氏に於かれては、これに懲りず(懲りるような方だとは思えないが)、これからもどんどんこういうコピーを作って、JR東日本の腐った価値観の脱線転覆を企んでいただきたいものだ。
【10月14日(火)】
▼あらら、ジョン・デンバーが飛行機事故で亡くなっていたとは。カントリー・ミュージックはあまり好きではないけど、ジョン・デンバーにはいろいろ思い出がある。Sunshine on My Shoulders や Take Me Home, Country Roads などは、いまだにカラオケのレパートリーだ。後者はどんなおじさん好みのスナックにもあるから、仕事のつきあいで行ったときにはたいへん助かるのである。斜に構えたところのない歌手だし、歌も簡単で親しみやすいから、どんなおじさんとカラオケ行っても「わしの知らん洋楽ばかり唄いやがって」と厭味に思われることが少ないのだ(そんなことゆーたかて、わし、洋楽とアニソンしかろくに知らんのやもん)。演歌ひと筋のおじさんだって、少なくとも曲くらいは知っている。惜しい人を亡くしたものだ。Leaving on a Jet Plane なんて歌を唄っていた人が軽飛行機の事故で逝ってしまうなんて、なんとも皮肉である。昭和は遠くなりにけり。
▼で、こちらはライト・プレーンでもジェット・プレーンでもなく、飛行機のような車の話。イギリスのジェット・エンジン搭載車“TSSC”(Thrust Super Sonic Car)が、ネバダ州のブラックロック砂漠で、地上を“走行”する物体としては世界初のマッハ1.007を記録したという。音より速く走る“車”ってのは、ちょっと日常感覚では想像できませんなあ。これくらいの速さだと、そもそも“走っている”という言葉に違和感が生じてくるよ。新幹線のローカル駅に佇み、ひかり号が駆け抜けてゆくのを観察すると、その速さに改めて驚くものだ。地上の音速を約340m/秒とすると、時速にして1,224キロ前後、“300キロ新幹線”の四倍強だ。ふつうのひかり号がローカル駅を通過する速さはせいぜい時速200キロにも満たないだろうから、「ひええええ」と思いながら見ているひかり号の六倍以上の速度で、かの車は“走る”のだよな。ううむ、想像を絶するとはこのことだ。このTSSCが長時間継続して走れるものなら(走る道路がないだろうけども)、東京−大阪間を二、三十分で走ってしまうだろう。ということは、スーパージェッターの流星号なら、一、二分か。さぞやSFセミナーにも行きやすくなるだろうなあ。
【10月13日(月)】
▼おれの好きなフジカラー「写ルンです」のCMが最近新作になっている。空を見上げると巨大なおふくろさんが声をかけてくる稲垣吾郎の「おふくろさん」篇だが、あれはどう見ても『宇宙の眼』である。森進一じゃなくて、 Alan Parsons Project の Eye in the Sky を流してはどうか。日本のナツメロじゃないといかんのかな、やっぱり。ちなみに、おれはSMAPの中では稲垣吾郎がいちばん好きである。なんたって、暗い。暗いが、淡々とギャグをやらせると妙に三の線がハマる味がある。本格的なドタバタ喜劇とかやれば、けっこういいと思うんだけどな。
▼本業・副業に追われるうえに風邪まで引いてしまい、なかなか好きな本が読めない。話題の『火星夜想曲』(イアン・マクドナルド著、古沢嘉通訳、ハヤカワ文庫SF)をようやく半分ほど読んだ。渋い。せかせかと読んでしまうのはもったいないほどだ。ここまで読んだ感じでは、『火星年代記』というよりは、むしろ『ヴァーミリオン・サンズ』に通じるものがある。この作家がいい意味で性格が悪い(笑)のは、『黎明の王 白昼の女王』(古沢嘉通訳、ハヤカワ文庫FT)で思い知らされているので、どんなひねこびた展開が後半に待っているか楽しみだ。
▼中野善夫さんと矢野渡さんが発起なさった「ら抜き言葉撲滅委員会」が正式に発足した。言葉狩りを目的としたものではなく、日本語の美しさへの関心を広く喚起しようという会である。「私達はこう思う」のコーナーには、六十二歳の方からのお便りなどがすでに掲載されており、早くも活況を呈している。おれもこの日記でも書いたようなことをおちゃらけたノリで寄稿しているので、ご用とお急ぎでない方はご笑覧ください。
他人の言葉遣いをどうのこうの言うことには、とかくきまりの悪い想いがつきまとう。どうのこうの言うことによって、まさにこちらの言葉遣いを晒すことにもなるからだ。文章が下手なやつが『文章読本』なんか書いたら笑いものになるのと同じである。映画『十二人の怒れる男』(よく引き合いに出す映画だなあ)で、被告であるマイノリティーの少年に偏見を持つ陪審員が、"He don't even speak good English."と敵意剥き出しで言った直後、ほかの陪審員に "Doesn't speak good English."と突っ込まれるシーンがある。おれも他人の“ら抜き”に難癖をつけていると、どこかから doesn't が飛んでこないともかぎらないが、むしろ突っ込んでいただくことで勉強させてもらえればありがたいことである。
余談だが、筒井康隆の『12人の浮かれる男』(小説版と戯曲版あり)では、上記のやりとりがみごとにパロられている。「証言を引用する時は、ことばの正確に期してほしいですな」と言う陪審員に、「正確を期する、だろう」と別の陪審員が突っ込むのだ。パロディってのは、ここまでやらなきゃ面白くないよね。おお、そうだ。陪審員の誰かに稲垣吾郎を使って上演してほしいな(笑)。
【10月12日(日)】
▼SFオンラインの締切が近いので、おとなしく原稿を書く。今回は弱ったなあ。やたら書きにくい。SFマガジン・11月号をお読みになった方はおわかりだろうが、ヴァンパイア・ホラー特集ということで、吸血鬼の話ばかりなのである。SFオンラインの淀川長治と言われるさしものおれにも(誰が言ってるんだ、誰が)、SFとしての面白みが感じられない作品が多いのだ。吸血鬼は好きなんだけどなあ。SFとしては、クるものがないんだよなあ。『吸血鬼エフェメラ』(大原まり子、早川書房)みたいなのなら、それこそ血に響くものがあるのだが……。
▼新聞の生活欄を見ると、なんでもキノコの消費量が増えているのだという。おれはキノコが大好きだ。キノコと名がつけば、なんでも食う。「ほんとにおまえら地球の生きものか?」という感じの得体の知れないところがいい。下等なやつらだが、それがいかにも不思議な薬理効果でも持っていそうな雰囲気を醸し出している。おれくらいの世代は、マタンゴやらキノコモルグやら紅茶キノコやらのせいで、そういう刷り込みを受けているのかもしれない。キノコモルグなんぞ、仮面ライダー2号を一度倒したほどだ(って、こんなネタがどのくらいの人に通じるやら)。下等な生物に不思議な力がありそうに思えるというのは、不可触賤民や異人・周縁人などに聖なる力を見てきたのと似ているような気もする。人類共通の感じかたなのかもしれない。
そう考えると、「実験室で合成しました」などと言うよりは、「こんな下等な生きものに、なんと驚くべき成分が入っていました」と宣伝したほうが、薬はよく売れるのかもしれない。「思考力が増進するキノコ」とか「めきめき筋肉がつくキノコ」とか、売り出すときにはぜひおれに教えてほしい。じつは、そういう商品が出現することを見越して、いまからキャッチコピーを考えてあるのだ。「新発売! 未来の国からやってきた“知恵”と“力”というキノコ」――し、失礼いたしました。
【10月11日(土)】
▼おお、これは便利だ。 Sci-Fi Wire というSFニュースサイトができて、SFや科学・ファンタジー・ホラー・超常現象系のニュースをスピーディーに随時更新で提供してくれるそうである。おなじみ Science Fiction Weekly の News of the Week のコーナーでは、 Sci-Fi Wire で流されたニュースを二週間ごとにまとめて掲載するのだという。うんうん、こうしてくれるのが理想的だよね。速報性と一覧性をそれぞれがカバーしている。こういうのが日本にも出現してくれるとなおありがたいけど、難しいだろうなあ。
Science Fiction Weekly がこういうことをやり出したのは、おそらくジュディス・メリル女史の訃報がきっかけなんじゃないかな。いや、じつはおれも不覚にも二週間くらい知らず、SFマガジン編集長に電話口で教わったのだった。メリル氏が亡くなったのは9月12日だが、 Science Fiction Weekly はこれを22日更新のニュースで報じた。たまたま更新期日の間が悪く、SF界の大ニュースを十日も経ってからようやく載せたわけだ。これではWEBマガジンの沽券にかかわると思ったのかどうかは知らないが、「こら、日次で更新するニュースも作らなあかんで」ということになったんじゃあるまいか。ともかく、ありがたいページができたものだ。
▼というわけで、 Sci-Fi Wire をブックマークに入れたら、今度は喜多哲士さんからホームページを開設したとのお知らせが来た。こういうのはなぜか重なる。「喜多哲士のぼやいたるねん」というタイトルが、なんとも上方演芸好きの喜多さんらしい。なにしろ、SFマガジン・500号記念「SFオールタイム・ベスト」の日本短篇に、中田ダイマル・ラケットの漫才を入れたくらいの人である。ノリが関西だ。書評ではなかなか見られない藝が楽しめそうなページである。書評原稿も掲載なさる予定だそうだ。
プロの文筆業者が雑誌に書いたものをどの程度WWWに置いておくかは、当然個々人の考えや出版社側の見解にもよるけれども、本にまとまらないだろう書評や小文などは、余暇を利用してみなさんどんどん公開なさればよいと思う。パソコンで原稿を書く人なら、さほどの手間でもない。文章を売りものにしている人は、タダで文章を公開するともったいないような気がするのかもしれないが、誰にも読めない状態にしておくのは、もっともったいないじゃないですか。古本屋でむかしの雑誌を捜しまわるのはたいへんだが、WWWに置いておけば読者は手軽に検索できるのだ。森下一仁さんや大森望さんのサイトを好例として、すでにそういう機能を発揮しはじめているところは増えてきている。堀晃さんの『梅田地下オデッセイ』をホームページで初めて読むことができた人も少なくないだろう。WWWがなければ死蔵されていただろう原稿が、世界中から利用できる資産として蘇りはじめたのである。言葉は悪いが、読み捨てにされる運命の書評など(いや、昨今では単行本すらがそうなのだ)を資産として蓄積するのに、インターネットは絶好のメディアだ。新しい書評を読むと、新しい本が読みたくなる。少し古い書評が読めれば、少し古い本が読みたくなることもあるだろう。書評をいつでも利用できる形で蓄積することは、つまるところ、いい本を絶版や品切れから救うなにがしかの力にもなるはずである。
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