間歇日記

世界Aの始末書


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97年10月下旬

【10月31日(金)】
▼体調最悪。とても英語の本など読めたものではなく、なにか軽いものはないかと、先日買ってきた『耽美なわしらI 黒百合お姉様VS.白薔薇兄貴』(森奈津子、角川書店・ASUKAノベルズ)を手に取る。その筋の友人(どの筋だ(笑))が、以前からおれに読め読めと薦めていた本である。森奈津子自身が相当の“隠れSF”であるらしいことは、既刊の『SFバカ本』シリーズを読めばあきらかだが、本業(?)の少女小説にはなかなか手を出しかねていたのだ。
 なるほど、これは面白い。感想は日記で済まそうと思っていたのに、書いているうちに長くなったので「天の光はすべて本」に入れてしまった。久々の更新が飛び道具(笑)ですみません。でも、面白いからいいのだ。
 IIも出ているから、また買っておこう。これはぜひ、三谷幸喜脚本で舞台化してほしいなあ。

【10月30日(木)】
▼仕事で初めて降りた駅のまわりを歩いていると、なんとなく匂いを感じた。ここらには本屋があるはずだ。こういう勘みたいなものが働くときは、おそらくいままでに見た本屋の立地条件なんかを脳が無意識に参照して、表層の意識に教えてくれているんだろうな。はたして、すぐに本屋が見つかった。入ってみると、CDレンタルもやっている店で、未開封のCDを半額で売っているコーナーがある。さすがにろくなものは並んでいないが、久石譲『パラサイト・イヴ』を見つけた。この新品が半額とは安い。買った。
 家に帰ってから、ずっとBGMに流している。映画を観たときにはそれほどとは思わなかったけど、改めて音楽だけ聴いていると、記憶の中の曲よりずっといい曲に思えてきた。映画館では映像に(葉月里緒菜に)気を取られて、耳がお留守になっていたのだな。お得な買いものをした。はっきり言って、久石譲の曲はかなり俗っぽい。甘ったるい。感情がちょっとうるさい。でも、下品になるすれすれの線を知悉して踏み留まっているからには、この人自身はきっと俗っぽくも甘ったるくも感情に溺れているわけでもないのだろう。職人の仕事だなあという気がする。エンドレスで流すBGMには持ってこいだから、おれは好きだ。『パラサイト・イヴ』を聴いていても、「これはまるで『驚異の小宇宙・人体』のサントラ、『THE UNIVERSE WITHIN』ではないか」とか、「内田有紀版『時をかける少女』のテーマではないか」とか思わないでもなかったが、いいじゃないか、そこが久石譲なのだ。
▼おお。ジャストシステムのニュースリリースによると、『SFバカ本 たいやき編』(大原まり子・岬兄悟編)が11月8日に出るそうだ。そろそろ来るか来るかと思っていたが、ついに山藍紫姫子さんが登場。山藍さんのバカSFってのは、いったいどんなものなのであろう? またもや森奈津子氏も入っていて、事実上のレギュラー・メンバーとなっている。楽しみだなあ。

【10月29日(水)】
▼寒いなあ。この時分になると、よく耳にする会話――「今朝は寒いなあ」「この秋いちばんの冷え込みらしいよ」 で、何日か経つと、また同じような会話が――「今朝はむちゃくちゃ寒いなあ」「なんでも、この秋いちばんの冷え込みだってね」 さらに、何日か経って――「ああ、寒い寒い。今朝なんか手がかじかんじゃって……」「おれなんか家が遠いから、コート着てきたよ」「そいえば、山本は?」「雪で来られないって」「テレビで言ってたもんな、この秋いちばんの冷え込みだって――」 そのくらいになれば、すでに冬だと思うのだが、いちばん冬に近い“この秋いちばんの冷え込み”は、いったいいつなのだろう?
▼おれにお菓子を送ることがほとんど趣味と化しつつある明院鼎さんが、またまた面白そうなお菓子を送ってきてくださった。この“面白そうな”というのがポイントである。ただうまいだけの菓子なら、そこらで自分で買えばいいのだ。今回は「すぐる」という広島のメーカの「かきっぺ」と、ロッテのチョコ「アロエヨーグルト」である。さっそく味見してみる。「かきっぺ」というのは、小麦粉に生牡蠣を加えたものを油で揚げ、オイスターソースで駄目押ししているものすごい菓子だ。牡蠣の香りがぷんぷんして味はなかなかよろしい。やたら喉が乾くのが珠に疵だが……。姉妹品に「えびっぺ」「いかっぺ」「やめれへん」があるそうだ。「やめれへん」ってのは、いったいなんなのだろう。「アロエヨーグルト」は色がきれいだ。なにが哀しくてホワイトチョコレートにアロエを混ぜなければならないのかよくわからないが、おいしそうな色になることはたしかである。
 じつは、おれは秋と冬にはチョコレート中毒になる。無性に身体が要求するのだ。中毒というのはいささかオーバーかもしれない。寒い季節に高カロリーの食品が欲しくなるだけの、健康的な飢餓だろう。ほんもののチョコレート中毒は、なまやさしいものではないらしい。十年以上むかしの本だが、『チョコレートからヘロインまで ドラッグカルチャーのすべて』(A・ワイル、W・ローセン著、ハミルトン遥子訳、第三書館)に、「チョコレート中毒からの脱出」なる体験手記が出ている。この女性中毒者は、「よく夜中に食べたし家にチョコレートがないと,車を運転してL.A.を半分ほど横切った所にあるオールナイトのスーパーマーケットまで買いに行くことなど苦にもならなかった」「どんな形であろうとチョコレートを口にすることなく1日を過ごしたのはこの前いつだったか思い出せなかった」というのだから、ご苦労というかお気の毒というか……。まだまだおれなどは修行が足りな――いや、軽症にちがいないと安心する。
 なんでまたチョコレートなんかで中毒するのか、おれもひとごとじゃないから関連情報には注意しているのだけれど、諸説があって判然としないのだ。上記の本には、カフェインと“興奮作用のある薬物”を含むためとあるが、『脳内麻薬と頭の健康』(大木幸介、講談社ブルーバックス)には、チョコレートは微量のPEA(フェネチルアミン、ベータ・フェニルエチルアミン)を含んでおり、この物質は神経伝達物質としておなじみのドーパミンから水酸基を取ったもので覚醒剤と構造が似ているから、チョコレート嗜好に一役買っているという説がある――と、慎重に紹介されている。さっきの女性のケースなどは、専門家の治療(チョコレートをバカ食いしたうえで紙皿に吐き出させられ、そのあさましい姿を鏡でずっと見せられるのだそうだ)を受けたら、短期であっさり治ってしまったというから、心理的なものが大きいような気もする。まあ、いろいろな要素が重なって中毒するのだろう。
 さあ、チョコレートがうまい季節がやってきた。冬季限定のやつなんて、たまりませんよね。いひひひひひひひ。

【10月28日(火)】
▼うおお、株が下がった、下がったあっ――つってると、言葉遣いがおかしいと言われそうだ。“下げた”と言わなきゃいかんのよね。慣習だかなんだか知らないけど、妙な言葉だなあとむかしから思っていた。思うに、株というものは、自然現象のように上がったり下がったりするものじゃなく、人間様がコントロール下に置いて上げたり下げたりしているものだという縁起かつぎなのかもしれないな。でも、実感としては、やっぱり上がったり下がったりするものだよね。金融・財務関係の人はいざ知らず、日常会話ではみんな“上がった”“下がった”と言ってるけどなあ。せめて言葉の上だけでも、人間の制御下にあることにしておきたい気持ちはわからないでもない。
 まあ、株が上がろうが下がろうが、株やその他の有価証券はおろか、通貨の財産すらろくにないおれには、暴落の実感などなにもない。もちろん、ニューヨークのくしゃみで東証が風邪を引けば、回りまわっておれの生活にもいずれ深刻な影響があると理屈ではわかっている。だけど、一夜にして「うわわわ、五百万損した……」なんてことはないもんね。財産のない者の気楽さである。
 それにしても、株の暴落で世間が大騒ぎしたりすると、おれという人間は、もののみごとに財産というものがないなあとしみじみ考えてしまう。土地はない家柄はない名声はない貯蓄はない相続予定の遺産はない妻はない子はない持ち家はない車はない、ここまでないといっそ清々しく、なにやったって怖くないみたいな妙な勇気が湧いてくるから不思議である。三十男の精神構造じゃないよね。十七、八のガキだよ、これじゃ。わずかに、貧弱な肉体と頭蓋骨の中の小宇宙だけが財産と言えば財産だろう。中でも容易には消えてゆかない財産は、おれがそれで以て考えている“言語”だろう。結局、おれの大部分は日本語で作られている。この財産は目減りしたりはすまい――と安心しかけたのだが、ちょっと待った。おれの日本語が日本語としての価値を持っているのは、ほかに日本語を理解する人がたくさんいるからである。日本語で書かれた書物がたくさんあるからである。なんらかの理由で日本語を使う人が激減し、世界に二千人くらいしかいなくなったとしたら、おれの日本語はいまより値打ちが下がるのではあるまいか。
 そう考えると、株や有価証券や、いや通貨にしたところで、信用を背景に同じルールで交換ができる記号体系にすぎないのだから、これはつまり言語そのものと言える。株やなんかは数値が価値として付与されていて、交換レートが可視化できるだけだ。株が暴落するなら、言語だって暴落することがあり得る。だからこそ、ブリティッシュ・カウンシルが、アテネ・フランセが、ゲーテ・インスティテュートが、はるばる極東の島国にまでやってきて、自国語の勢力拡大を図っているのである。言語というものが、常に守ってやって広めてゆかないと、滅ぶことがあり得るものだという実感が日本人にはきわめて薄い。ここらはやっぱり、異言語圏と地続きで渡り合ってきたヨーロッパ人なんかとは、歴史に染み着いた危機感がちがう。そういう意味では、アメリカ人も呑気かもね。連中は英語が滅びるとはまず考えたこともないだろうし、世界中の人が頼みもしないのに自分たちの言葉を向こうから覚えてくれるもんだと思ってるよ、きっと。人間でも泳いで渡れる程度のドーバー海峡の向こうから、ノルマン・フレンチを話すやつらがやってきて王として君臨した遠い先祖の記憶なんて、アメリカ人にはもはやないだろうな。英語学齧った人はご記憶だろうけど、pig, cow, deer などの、生きて走りまわってるときは英語のものが、死んで食肉になると pork, beef, venison とフランス語起源の言葉になっちゃうのは、そのころの名残なのだ。「私、動物獲ってくる人、世話する人」「私、その肉を食べる人」という、支配−被支配の関係があったわけである。
 やれやれ、唯一の財産だと思っていた言語も、けっこう危ういものらしい。言語は変わってゆくものではあるけれど、守らねばならんものでもあるのだ。日本語が一夜にして暴落しないように気をつけたいものであります。

【10月27日(月)】
京都SFフェスティバル'97の案内書が届く。京フェスをゆっくり楽しむためには、早めに原稿を上げてしまわねば。せっせ、せっせ。
「NIFTY SERVE MAGAZINE」も届く。特集1「昭和30年代」の対談「僕らの時代がやってきた 昭和30年代世代の光と影」(岡田斗司夫 vs. 香山リカ)が、なかなか身につまされて面白い。香山リカ氏は、最近眼鏡なしでマスコミに登場なさることが増えてきた。はっきり言って、この先生は目つきが怖い。おれなどはそれにグッとクるものがあり(あわわわ)、眼鏡なしの香山先生も、お医者様的魅力が際立っていておれは嫌いではない。子供のころから病弱なおれは、女医さんにはなにやらナニなアレがあるのやもしれぬ。香山リカ先生に自白剤かなにかを射たれて、なにもかも喋ってしまいたいと秘かに思っている私は異常なのでしょうか?(京都市・三十四歳・男性)。
 それはさておき、同じ特集でやはり昭和30年代世代の松尾貴史氏が書いてた映画の見かたには、深く肯く。たしかに、おれたちくらいだと映画は映画館で観るものという刷り込みがあって、「一回こっきりだぞ、トイレにも立てないぞ」と思いながら観ていたように思う。テレビで映画を観るときにも、おれは部屋を暗くしてなるべくトイレにも立たないようにして観ている。レンタル・ビデオですらそうだ。なにかこう、モニタで観るときでさえ、映画というのは特別なものという想いが拭えないのである。たぶん、この感覚は昭和40年代以降の世代には薄いと思う。ひょいひょい早送りしたり、明るい部屋のベタ照明(?)で『ニュースステーション』でも観るように映画のビデオを観られるという感覚は、おれにはちょっとわからない。
 それはそうと、この「NIFTY SERVE MAGAZINE」は本屋でも売っているのだが、はたして売れているのだろうか? おれは NIFTY-Serve 会誌としての「Online Today Japan」の時代からほとんど惰性のようにして購読しているが、郵送されてくるからいいようなものの、本屋でレジに持って行って470円払うほどの魅力はないと思うけどな。本屋で売るなら、もう少し雑誌として力を入れてもいいのでは?

【10月26日(日)】
▼そう言えば、昨日触れた「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」なのだが、こういうとき、英語ではなぜか read を使う。“Houston, Houston, Do You Read?”とやりますね。不思議な言葉遣いだけど、考えてみるとけっこう便利だ。この read が使われるシチュエーションは決まっていて、無線とか(むかしの)電話とか、必ずしも良好な通信が保証されない場合に、“こちらの言うことが、そちらで聞いて理解できる状態か”の意で用いられる。日本語の“聞こえるか”だと、「イエス、聞こえることは聞こえるが、なにを言っているのかよくわからない」というケースもあり得るが、read なら、通信の状態と内容の把握状況とを一度に尋ねてしまえるわけだ。他動詞として使うこともあって、目的語がつくとなにやら切迫した感じになることが多い。"Space Arrow, Space Arrow, do you read?" "...this is Sp...rrow...can't......scape...bl...k hole...tidal f...ce..." "Space Arrow, Space Arrow, do you read? Do you READ ME, Space Arrow!"――てな具合ですね。
 なぜこういう言葉が使われるようになったのか、これはおれの当てずっぽうなのだけど、通信内容を目で見ることが一般的だった時代に誕生した用法じゃないかと思うのだ。つまり、テレックスとかね。最初はほんとうに「これ読める?」という意味で使っていたのが、音声の時代になっても上記のような便利さがあるために、そのまま生き残ったのではなかろうか? 調べればわかることなのだが、いろいろ想像しているほうが楽しいということもあって、ほったらかしなのである。興味のある方は、起源を解き明かしてみては?

【10月25日(土)】
「和風スナック おしるこ」(東ハト)という、なんとも不気味なネーミングのスナック菓子を食ってみる。これが意外とうまい。小豆の香りとほんのりとした甘さ。たしかに「おしるこ」としか名付けようがないわな、これは。おれなりにスナック菓子の判定基準がいろいろあるのだが、優れたスナック菓子たる条件のひとつに、「一人前が一気に食えるか」ということがある。ほんの少しだけならやたらうまいのに、半分も食うころには胸がいっぱいになってしまうやつがけっこうある。“甘系”のスナックは、この条件をなかなかクリアしないのだが、「おしるこ」は一気に食える。これは冬場にはウケそうだ。なぜか東ハトは、甘系にはむかしから強い。“塩系”ではカルビーの右に出る者はいないが、カルビーが甘系に手を出すと不思議なことにあまり人気が出ないのである。“酸味系”などという妙な分野を開拓したコイケヤには、次になにを出してくるかわからない得体の知れぬ怖さがあり、おれは好きだ。珍しいだけで食えたものではない“いろもの”ではなく、必ず水準作以上のものを出してくるのがえらい。
▼SFマガジン12月号は、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア特集。とりあえず、おれも書いている「ティプトリー、この3篇」で、ほかの筆者の方々がなにをベストに挙げているかをチェックする。大野万紀さんの「とてもその中からベストを選べるような存在ではない」という書き出しは、おれも同じことを書こうとしたのだが、全員そう言っていたら困るなと思って(笑)やめたのだった。それくらいのことがあっても不思議のない作家なので、大野さんくらいのティプトリー歴がないとこの手は使えないのだ。それにしても、「ヒューストン、ヒューストン、聞こえるか?」「男たちの知らない女」は人気があるなあ。
 特集の解説で伊藤典夫氏が触れておられるヘヴンズ・ゲート教団の集団自殺事件のとき、おれもやっぱり「ビームしておくれ、ふるさとへ」を連想した。伊藤氏は、「ティプトリー自身、この<宇宙への転生>をなかば信じていたフシがある」とおっしゃっているけれど、おれの解釈はちょっとちがう。“なかば信じていた”のではなくて、心の底から信じていたのだろう。信じていたのだが、そんなことはありえないとも、ちゃんとわかっていたのだろう。そういう精神構造が、おれにはとてもせつなく感じられるのである。だから、「ビームしておくれ……」のラストも、おれの解釈では、ホービーはちゃんと“帰って”もいるのだが、帰っているわけがないことになる。あんなラストを書くことで三流作品に堕してしまうのはわかりきっているのだが、あれを書かずにはいられない――というのがティプトリーの心境だったろうと推察する。意見の分かれるところでしょうね、これは。
▼おっ、同誌の「<ローンスターコンII>レポート」(巽孝之)に、Catherine Asaro の写真が載っているぞ。日本の雑誌で写真が出たのはおそらく初めてだろう。ところで、アサロの名前のカタカナ表記だけど、まだ揺れてますね(翻訳された作品が一本もないんだから、当然かもしれないけど)。おれがSFスキャナーで書いたときは、最初の原稿では「キャサリン」にしていたのだが、刷り上がってきたら「キャスリーン」になってて、なるほどそれで行くのかとおれもその後「キャスリーン」で表記していると、今回の巽氏の記事では「キャスリン」になってる。かと思うと、マクドナルドの『火星夜想曲』絡みでは、原語は同じスペルでも「キャサリン・ホイール」、“聖キャサリン”なのである。おれはべつに、作家でも翻訳家でもない雑文書きなので、よっぽどヘンじゃないかぎりは、原音主義や原綴主義にこだわらず、原則として媒体の方針に従うつもりである。アサロの名前もそろそろ統一してはどうだろう?
 ご参考までにおれの意見を述べておくと、英語の場合は、[i]はどんなに長く発音されても[i]に聞こえるし、[i:]はどんなに短く発音されても[i:]に聞こえる。音質がまったくちがうから、発音時間にかかわらず聞き分けることができる利点がある。live leave を混同することはありえない。だから英語は、アップテンポのポップスなどに向いているのかもしれないよね。ストレス・アクセントの言語であるうえ、短母音・長母音で音質が異なるからだ。中国語のポップスなど、四声のせいで中国人にも歌詞が聞き分けられず、文脈で判断するしかないそうだ。だが、日本語の「イー」は、ただ「イ」を長く伸ばしているだけなので、英語の[i]を「イ」、[i:]を「イー」と表記し分けたとしてもあまり意味がない。おれとしては、「キャスリン」くらいで行くのが締まりがよくて妥当だと思いますけどね。
 ちなみに、英語国民じゃないけど、「ユージーン・イヨネスコ」「イリヤ・プリゴジーン」なんかも、いまだに表記が揺れている。「ユージン」もありなら、「プリゴジン」や「プリゴジーヌ」まであったりする。こういうのこそ、デファクト・スタンダード(デ・ファクトー・スタンダードもありかも(笑))に揃えるしかないよなあ。

【10月24日(金)】
▼ほーら、買ってしまった。昨日の日記に背中を押されるようにして、「大阪名物 くいだおれ太郎」(タカラ)を買う。表情が不気味だが、まるで機械仕掛けのような(そうなんだが)ぎこちない動きで小太鼓を打つさまが、そこはかとなくかわいい。動力はゼンマイである。うむ、大衆のイメージを裏切らない優れた設計だ。さて、狭いわが家、こいつをどこに置いたものか。いい場所が見つからず、とりあえずID4のエイリアン人形に並べて置いてみる。不思議と違和感がない(笑)。
 くいだおれの人形と言えば、そのむかし秘かな人気を博していた関西ローカルの深夜番組『週刊テレビ広辞苑』のネタを思い出す。これは、国語辞典風に言葉をコントで解説してゆくという、ちょっと引き攣り系のお笑いが楽しめた番組で、劇団〈そとばこまち〉なんかが出ていた。再放送などありそうもないから、その忘れもしないネタをここで紹介してしまおう。
 とある海岸を、襤褸を纏い髪をふり乱した地球人の男女がよろめきながら歩いている。そう、どうやらここは、いつともどことも知れぬ異星の海岸らしいのだ。見渡すかぎり、砂砂砂、文明の形跡はまったく見当たらない。『猿の惑星』だな、と誰もが思う。渇きからか空腹からか、はたまた絶望からか、苦悩の表情を浮かべつつ彼らは歩き続ける。と、突如、男は驚愕に目を見開く。行く手になにかを見つけたらしい。その物体に駆け寄るふたり――なんということだ、ここは地球だったのだ! 呆然とするふたりの視線を追うと、そこには砂に半分以上埋まった「くいだおれ太郎」が――!
 いやあ、あれには笑った。このコントでチャールトン・ヘストン役(?)をやっていたのが、いまや全国区の生瀬勝久、すなわち当時の〈そとばこまち〉座長、槍魔栗三助(やりまくり・さんすけ)である。
▼ベルギーワッフルを食ってみる。いつもはやたら人が並んでいるのだが、今日会社の帰りに通りがかったら、珍しく空いていたため、食ってみる気になったのだ。チョコ味やアーモンド味が売り切れて、プレーンだけになっていたのが空いていた理由らしい。それでも、おれが並ぶとあとにはまた行列ができはじめた。ロシアン・ワッフルとでも改名すればいいのに。
 先にひとつ食った母は、「こんなおいしいケーキはいままで食べたことがない」などと中学校の英作文のようなことを言う。もともと、この人とはあまり味の好みが合わないから話半分に聞いておく。おれがこの類のハイカラな食いものを買って帰ることなど滅多にないので、巷で流行のすごくうまいものにちがいないと暗示にかかっているせいもあるのだろう。あまり期待せず、さっき温め直して夜食にした。なんだ、うまいことはうまいけれども、あんなに並んでまで食うほどのものじゃないな。思うに、“ベルギー”という一般的に影の薄いイメージが、妙にありがたみを加えているところがあるのかもしれない。“フランス”などと言われるとステロタイプのイメージが洪水のように浮かんでくるが、“ベルギー”となると途端に貧弱な連想しかできなくなる。エルキュール・ポアロがEC本部ビルでワッフルを食っている程度の絵しか浮かんでこないのは、われながら情けない。

【10月23日(木)】
▼あっ、喜多哲士さんが「ぼやき日記」(10月22日)で、ボタンを押すたび大阪弁で喋る電卓「笑殺電卓人・こてこて勘吉」を紹介なさっているぞ。いや、おれも大阪でこれを見つけて、よっぽど買おうかと思ったのだが見送ってしまったのだった。おれも“おもろい”ものには身を滅ぼしてでも出費を惜しまぬようにならねば、立派な酔狂者にはなれんな。「ここはやはり京都弁の舞妓はん電卓を開発してほしい」と喜多さんはおっしゃっているのだが、そういう秀逸な企画(笑)はガイナックスに持ち込んではどうだろう。もちろん、「いけずやわぁ」とか「すかんたこ」とかの声は、菅浩江さんに吹き込んでもらうわけである。
 大阪弁電卓も欲しいけれど、おれにはいま、買ってしまおうかと思っているくだらないものがもうひとつある。ミニチュアの「食いだおれ人形」だ。身長三十センチくらいで、ちゃんと動く。以前どこかのホームページで通販していたのを見て以来、「欲しいなあ。でも、アホらしいなあ」と思っていたのだが、毎日通る駅の雑貨屋でたくさん売っているのを先日見つけて、ますます欲しくなっているのだった。いつか買ってしまうにちがいない。「かに道楽」の動く蟹のミニチュアはないのかな。スイッチを入れると、浪速のモーツァルト、キダ・タロー大先生のかの名曲が流れるようになっていなくてはなるまい。

【10月22日(水)】
▼忙しい、死ぬ死ぬと言いつつ、病的に日記だけは書いてしまうおれ。こういう日は簡単に行こう。なにが簡単と言って、「新聞にこんなのが載ってました。私はこう思います。読者もそう思うことでしょう」ってのがいちばん簡単だ。ちょっと高度なのが、「新聞にこんなのが載ってました。私はこう思います。文句のあるやつは前へ出ろ」である。さらに難しいのは、「新聞にこんなのが載ってましたが、なぜ載っていたんでしょう? おそらくこういう経緯ではないかと……」で、いちばん難しいのは、「新聞が来ないのですが、電車で前の席に座った女性が股を開いて眠っていました。ということは、きっと近いうちに新聞に載ることになるのは……」というやつである。
 で、新聞に載っていたのだが(笑)、歌うだけで作曲ができてしまうソフトをヤマハが開発したのだそうな。なんでも、マイクを通して歌うと、旋律と伴奏が自動的に楽譜化されるというもので、入力された主旋律を解析することによって、雰囲気に合う伴奏を勝手につけてくれるそうだ。もちろん、ユーザが曲のジャンルや雰囲気を指定することもできる。まあ、似たようなものは以前からあったけど、全部楽譜にしてくれるのは面白いよね。要するに、楽譜が読めない人にも気軽に作曲が楽しめる――というのだが、これってなんだかヘンだ。たとえば、おれがレストランのメニューに適当に節をつけて、このソフトで楽譜にしたとする。数日後、その楽譜を見ながら、おれに同じものがすらすらと歌えるかといえば、歌えるわけないじゃないか。つまりこれは“現代詩を作るソフト”の音楽版なのだ。適当な言葉をソフトに登録しておき、でたらめに組み合わさせると、なにやらほんとうに現代詩めいたものができてしまうというアレである。現代詩が読めない人でも気軽に現代詩人になれる。もっとも、出てきたものが現代詩になっているかどうかは、現代詩がわからないユーザには判断がつかないのだが……。そう考えると、この音楽ソフトにおもちゃ以上の意味がなにかあるのか、よくわからなくなってくる。そもそもこのソフトを必要としない音楽家が、機械的作業を軽減するために使うことになるのだろうな。そうだ、華原朋美が使えば、少なくとも一回は楽譜どおり歌えたことになるので便利かも(ああ、またまた言ってしまった)。
 そのうち、「小説が読めない人でも気軽に小説が書ける!」なんてのも登場するやもしれない。「小説が読めない人でも気軽に書評が書ける!」という姉妹品が出れば、導入を検討したい。きっと、「直子の代筆」の高度なものといった趣だろうな。当然、ソフトの指示に従っていくつかパラメータを入力してやらねばなるまい。

「まず、方針を選んでください。(1)褒める (2)貶す (3)どちらでもない」

 よし、(2)を選ぼう。

「貶す目的を選んでください。 (1)この著者にもっといいものを書いてもらいたい (2)この本もしくは著者を一刻も早く抹殺したい (3)自分の知識・見識をひけらかして威張りたい」

 うーむ、(1)を選ぶのが建設的かな……。

「どんな点を貶したいですか? (1)人間が描けていない (2)社会が描けていない (3)科学的じゃない (4)じつはよくわからないのでくやしい (5)じつはよくわかってしまったのでありがたみがない (6)社会の役に立たない (7)元祖が産んだ基本形式を頑固に守り抜いていない (8)ニューウェーヴの残党だ (9)ニューアカデミズムの残党だ (10)鬼面党だ (11)筒井党だ (12)パンス党だ (13)自民党だ (14)共産党だ (15)中ピ連だ (16)全学連だ (17)ノンポリだ (18)マッカーシストだ (19)帝国主義の走狗だ (20)男根的だ (21)去勢されている (22)話せばわかる (23)問答無用」

――や、やっぱり、こういうソフトは使わないほうがよさそうだ。

【10月21日(火)】
▼あらら、ここ二日ばかり、日記の曜日がずれていた。変な曜日を見てあわててしまった方がいらしたら申しわけありません。かと思うと、10月15日付で「リンクワールド」に入れた SFRevu というサイトのURLもまちがってました。アクセスしてみて、AOLに「そんなURLはないぞ」と言われてしまった方、まことにすみません。ああ、やはりこのところ、疲れているぞ。
『カジシンの躁宇宙 オンリー・イエスタデイ1982〜1996』(梶尾真治、平凡社)を見つけて買う。帯に“初エッセイ集”とあるが、そうだよなあ、言われてみればそうなのだ。すぐにでも読みたいがおあずけ。こういう本はちびちびと読むのがいい。というのは言いわけで、じつはひとつ締切が迫っていて、それどころではないのだった。ついでに、なにやら話題の『オルタカルチャー 日本版』(メディアワークス発行、主婦の友社発売)も買った。ぱらぱら見ているとなかなか面白い項目もあるが、なんのことはない、ちょっと情報量の多い『乱調文学大辞典』(筒井康隆)みたいなもんだ。この本は、この本を必要としない人が最も楽しめるにちがいない。一方、必要とする人は、真面目に読むことによってこの本の精神からますます遠ざかってゆくような気がする。そういう逆説的面白さを楽しむためのものなのだろう。筆者たちもそれを自覚している感じがする。


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冬樹 蛉にメールを出す