間歇日記

世界Aの始末書


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97年11月中旬

【11月20日(木)】
▼おやおや、トップページのカウンタが六日で一千も上がってしまったぞ。珍しいこともあるものだ。この調子なら、年内に三万を超えそうだ。この日記も、ここ何日か一日三百人以上のアクセスが続いている。人気ページを構えてらっしゃる方々が、最近このページに言及してくださったのが重なったためだろう。我孫子武丸さん、大森望さん、喜多哲士さん、瀬名秀明さん、野尻抱介さん、野田令子さんほか、このページを紹介してくださった方々、ありがとうございます。
「白子のり」様へ。そろそろお歳暮の季節でございます。御社のより一層のご発展を願ってご提案申し上げるのでありますが、じつは、まさに“いま”しか使えないCMのアイディアがございますので、採用していただければ幸いに存じます。「やつらは海苔で地球を守る」というのはいかがでしょうか? きっと伊東四朗さんなら喜んでやっていただけるのではないかと思うのですが……。

【11月19日(水)】
▼会社のそばにできたラーメン屋がいつも混んでいて、よっぽどうまいのだろうと思いつつも、並んでまでものを食うのが大嫌いなおれは見送っていた。今日たまたま空いていたので、初めて入ってみる。味見のつもりで店の名のついたラーメンを注文。おお、野菜がたくさん乗っている。栄養がありそうだ。さあ食おうと箸で具をかきまわすと、あり得べからざるものが現れた。輪切りのレモンである。うーむ。ひょっとして、おれが知らないだけで、一部の地方ではかなり一般的な具なのかもしれぬ。これをどうしてくれようか。箸で引き上げて、手で絞るのだろうか。それとも、これを齧りながら麺を食えということなのか。ラーメンはすごくうまいのだが、レモンが入っていることによってうまくなっているのか、ただただおれが度肝を抜かれているだけなのかがよくわからない。一度、うちでラーメンを作るときにもレモンを入れて実験してみなければなるまい。
▼ラーメンの話ばかりだ。日清の「ラ王 しお」のCM、やってくれるじゃないか。男が裸で出てくるというショッキング(でもないんだが)なCMに、「気持ち悪い」「食欲がなくなる」などとバカなことを言う洒落のわからないやつがけっこういたのがあちこちで話題になっていたが(それでCMとしてひとまず成功なのだ)、今度のヴァージョンではあの“ラ族”の男、周りの連中が裸でいる中、ひとりタキシードを着て温泉に入ってラ王を食っている。ぎゃははははははは。思い出すよね、あの桃井かおりの「世の中、バカが多くて疲れません?」ってCM。あれは、クレームを寄せる洒落のわからないやつの抗議あるを予測して「利口が多くて」ヴァージョンを最初から準備していたことで話題になったものだ。CM作ってる連中のほうが“お利口さん”たちより何枚も上手である。今回のラ王はどうもそうではなさそうだが、洒落のわからないやつに洒落で反撃する戯作者根性は高く評価したい。こういう連中は、たとえ手鎖を掛けられてもCMを作り続けるのだろう。うんうん、世の中は健全に回っておるぞ。

【11月18日(火)】
▼おれはサッカーには興味はないが、たかが玉転がしを中心に人生が回っている人と、たかが紙に並んだインクの染みを中心に人生が回っている人とは精神的には同類なので、そんな人たちが喜んでいるとやっぱりおれもなんだか嬉しいのである。
 折りに触れて、自分が最重要視しているものに「たかが」をつけてみるのはたいへん健康的だと思う。その余裕すらない状態はとても危険だ。たとえば、自分が受験生のときには、受験のことばかりがいつも頭のどこかに引っかかっているのだが、たまたま電車で乗り合わせた隣のおっちゃんの視点からふと己の姿を見てみると、どこかの若僧が「たかが」受験勉強をしているにすぎないわけである。通りすがりの人を十人捕まえて訊いてみたとしても、おそらく十人中十人にとって、手前の受験など「たかが」受験にすぎない。それはつまるところ“生”や“死”すらもそうだ。あなたがどう生きようが死のうが、大多数の人にとって、それは「たかが」なのだ。
 世の中なんて、客観的に見れば「たかが」の集合体にすぎない。その無数の「たかが」の中から、なにに「されど」をつけるかは個々人が己の存在をかけてやることであって、人に言われてやることではないだろう。
 おれは「なんぼのもんやねん?」という大阪弁がとても好きだ。「それにいったいどれくらいの価値があるというのか?(いや、価値などありはしない)」とでもいった日常的反語表現だが、よく考えるとたいそう哲学的な言いまわしである。ともすると自分の価値観に凝り固まりそうになっているときなどに聞くと、どきっとする。
 あれれ、なにが言いたいのだ? まあ、ともかく、十二月ともなると、あっちこっちでいろんな事情で自殺する人が出てくるけど、死ぬ前の最後のひととき、ちょっとテレビを点けてスポーツニュースでもご覧になってはいかがでしょうか。たかが玉転がしに人生賭けてる人たちを見れば、自分がどんな上等な理由で死のうとしているかがアホらしくなってくると思うよ、きっと。

【11月17日(月)】
▼新聞社のビルには、都市銀行が潰れて、サッカーはワールドカップへという号外が並べて貼ってある。結局、同じニュースに見えてしかたがない。民主主義や自由市場制すらまだ定着していない先進発展途上国の島国ニッポンが、いろんな面でようやく世界の土俵の片隅に乗りはじめたことの光と影である。いいことばかりでもないし、悪いことばかりでもない。これからも潰れるべきところにはどんどん潰れてほしいし、勝つべきところにはどんどん勝ってほしい。
 きっとこれからは、書きたいものを書くために日本の市場を見限って、直接外国の市場にアプローチするような型破りの作家も続々出現することだろう。日本に住む日本人が外国語で書いた小説が海外でのみ出版され、あちらで売れたその作品を日本人の翻訳家が(あるいは作家本人が)翻訳して紹介するなどということも起こるかもしれない。G−ショックみたいなもんだ。日本語の原書は出版されていない(あるいは絶版だ)が、海外では英語版が出回っているなんてのも、もちろん“あり”だ。きっと若い人たちが、おじさん・おばさんの度肝を抜くようなむちゃくちゃをやってゆくにちがいない。若い人がむちゃくちゃをやらなくなったら、その国は終わりだろう。なんだか最近は暗いニュースも多いけど、なあに、社会がぐちゃぐちゃになりはじめたときには、いいことだっていっぱいあるのだ。未来が見えないことの絶望感みたいなものをおれも感じるが、逆にだからこそ面白いという期待感も同時に抱いているのである。なにも起こらない“安定”なんて糞食らえだ。将来、明日をも知れぬ暮らしの爺いになっても、毎日わくわくしていたいぞ。

【11月16日(日)】
▼結局おれは、朝までマンガトリオと話していた。さて、ちょっと寝ておきましょうかと、四人で寝部屋に行ったのはいいが、すでに中でお休みの方もいらしてなんとなく入りにくい。おれはひとりでほかの場所はないかと捜しに行ったが、大広間くらいしか見つからず、また戻ってきた。見ると、牧野修さん、田中啓文さん、小林泰三さんのお三方は、寝部屋の前で立ち話を続けている。聞けば、空いている部屋はあるのだが、どなたかが押し入れの前で寝ていて非常に入りにくいということである。どうしましょう、からふね屋でも行きますかなどと、さらに四人で立ち話をしていると、突如そばの襖が開いた。どうやら誰かを起こしてしまったらしい。「ここでなになさってるんですか?」と眠そうに現れた妙齢の美女は、ゲストの高野史緒さんであった。野郎四人を見て、ちょっと警戒しておられるようだ。まずい状況である。女性であるあなたが旅館で寝ているとしよう。なにやらぼそぼそと人声がするので、意を決して襖を開けたところ、目の前に『玩具修理者』の作者が立っているのだ。そのうしろにいるのは、たしかぶっ跳んだドラッグ小説を書く怪僧のような風体の男である。その隣にいる男にも『背徳のレクイエム』という作品があったはずだ。これが警戒せずにいられようか。妖しくないのは、おれだけである。あわててお詫びを言って、そそくさと寝部屋の前を立ち去る。夜這いでもかけたかと誤解され、決死の抵抗でカストラートにされたのでは洒落にならない――というのは冗談としても、お休みのところを起こしてしまってすみませんでした、高野さん。
 旅館の玄関横にある休憩所の椅子を見つけ、四人並んで少し寝てから、からふね屋で朝食を食う。九時ごろ、荷物を取りに旅館に戻ると、大広間に置いておいたおれの荷物が行方不明になっている。あわてて運営の学生さんに心当たりを尋ね、電話で本会場に問い合わせてもらったところ、忘れ物として預かってくれているという。ひと安心して本会場の京大会館へ。
 企画がはじまる直前、緊張してきたので煙草を吸いに休憩所に行くと、水玉さんが座ってらして、早くも組み立てた「くいだおれ太郎」を見せてくれた。なるほど、組み立ててしまったほうが嵩張らなくていい。
 本会がはじまる。あー、これはおれの“日記”であって京フェス・レポートではないから、けっこういいかげんである。そこんとこ、よろしく。

『SFのジャンル意識について』(尾之上俊彦・三村美衣・冬樹蛉)
 開演前にドキドキしていたわりには、けっこう喋ったような気がする。じつはおれは舞台度胸があるほうで、いったんスイッチが入ると相手がどんなに大勢だろうが平気で喋れるのだ。尾之上さんの主張は、最近SFが面白くない、そろそろSFという船から降りようと思う、沈み行く船から逃げ出す鼠のような心境だというものであった。おれとしては、尾之上さんの気持ちがわからないでもないが、やっぱりSFという分野にはなにか切り捨ててしまえないこだわりがある。世代論に逃げたりしつつ、SFのフェノタイプに惑わされずに、SFのジェノタイプを持っている作家をマーケットが便宜的に設けているジャンルにこだわらず捜してゆくのが楽しいということを述べたつもりだが、果たしてうまく伝わったのかどうか。普段考えていることを思いつくまま散漫に喋っただけだから、非効率的に同じことを繰り返し言ってしまっただけという反省が残る。まあ、聴いているほうはあまり面白くなかったにちがいない。一度、真面目に己のSF観を文章にしなきゃいけないなあ。

『芸術とSFの交点』(高野史緒・大森望)
 高野さんは、自分の作品をSFとしてSFファンが楽しんでくれるのは嬉しいし、そうしてくれて一向にかまわないが、一ジャンル内に閉じ込められるつもりはないので“SF作家”と呼ばれるのは厭だとおっしゃる。SFマガジンの緊急フォーラム「SFの現在を考える」を読んだときにも思ったのだが、この人の考えかたは、じつはおれにかなり近い。おれは読む側から、高野さんは書く側から、同じようなことを言っているだけだ。おれが自分でSFだと思っているものと、マーケティング的に作られた“SF”という枠とのあいだには、相当ズレが生じている。だからおれは、いまの筒井康隆も、日野啓三も池澤夏樹も村上龍も大岡玲も笙野頼子も三枝和子すらSFと呼んではばからない(むろん、個々の作品によるが)。書く側が「さあ、SFを書こう」と、売る側が「さあ、SFとして売ろう」と思ったかどうかなど、おれにはどうでもよいのだ。

『宇宙開発とSF』(野尻抱介・水城徹・松浦晋也)
 宇宙開発の最新の話題。興味深く聴いた。「この三人にとって、SFの定義はじつに簡単です。宇宙に行くのがSFです」とあっさり言い放っておられたが、これはとても斬新な定義だと思う。たいへんわかりやすいし、じつはおれも、ある意味でそのとおりだと思うのだ。つまり、己がいまいる場所から常に外へ広がって行くのがSFだと解釈すれば、おれのSF観にも重なるのである。もっともおれの場合、文学的に別の地平へ出てゆこうとしているものもSFだし、日常性を超えて大笑いさせてくれるものもSFだ。いきなりむちゃくちゃをやったのでは、人間は宇宙に行けない。「さあ、月には行けたから次は火星だ」というのはわかるが、「さあ、月に行けたから次はアルファ・ケンタウリだ」では、ただの狂人である。先人の資産や業績を踏まえたうえで、常に段階を踏んで“外部”へと広がってゆくベクトルこそがSFじゃなかろうか。だから、おれの考えかただと、仮にSFというジャンルがスタティックなものとして存在したとして、その中だけで順列組み合わせの数をただただ増やしているようなものはSFじゃないのだ。常に既にまだ見ぬものへと向かうベクトルそのものをおれはSFと呼んでいるのかもしれない。

『翻訳SFを語る』(伊藤典夫・大森望)
 長年心理的重圧となって伊藤典夫氏を苦しめてきた、『ノヴァ』『アインシュタイン交点』(サミュエル・R・ディレイニー、ハヤカワ文庫SF)の完訳成って、これから氏がどのようにSFと取り組んでゆくかの抱負が語られた。名作・大作とクズとのあいだにある質の高い作品を紹介してゆきたいとのこと。元気の出るお話であった。

 本会終了後、夕方六時からの打ち上げ宴会にも参加する。今年は例年よりかなり参加者が少なく、アットホームな雰囲気でこぢんまりと楽しめた。伊藤典夫さんと水鏡子さんという、ものすごく濃い方々の対面に座ってしまい、最初はちょっとアガる。おれは伊藤さんとお話したのは初めてなのだ。おれの書いたものまでちゃんと読んで憶えておられたのには、恐悦至極であった。
 宴会の後、まだ夜も若かったので(直訳)、小浜・三村夫妻、大森・さいとう夫妻、京大SF研の諸君らとカラオケ。実家が京都の『未来趣味』(古典SF研究会)編集人・藤元直樹さんと、京阪電車で途中までご一緒して帰宅。ああ、疲れたけど楽しかった。

【11月15日(土)】
▼14日締切のSFマガジン・500号の原稿に今日の朝までかかってしまう。電子メールで入稿し、力尽きて寝る。
 昼下がりにのらくらと起き出し、風呂に入って京都SFフェスティバルに行く準備。ちょっと寝過ごしてしまった。メールのチェックをして、あわてて家を出る。
 三十分遅れて、京フェス合宿会場の旅館「さわや」に到着。受付で参加費を払おうと名刺を出すと、「ゲストの方からお金をいただくわけには行きません」と無料で入れてくれる。あっ、そうだった。本会企画に出ればこういう役得があるのか。大広間では、例によって東京創元社の小浜徹也さんが名調子で参加者の紹介をしている。ちょうど「ぱらんてぃあ」編集人の尾之上俊彦さんの番で、遅れて到着したおれを尾之上さんの横に目敏く見つけた小浜さんは、続いておれを紹介する。おれごときがオープニングで紹介されるべき人の一人として扱われるのは依然気色が悪く、しどろもどろでどんな挨拶をしたのかよく憶えていない。続いて錚々たる方々の紹介が続く。メール交換しかしたことがない牧野修さん田中啓文さんも参加なさっている。あとでご挨拶をしよう。
 オープニング・セレモニーが終わる。今年は恒例のクイズもなく、かなり人手不足といった印象を受ける。こういう伝統のあるイベントを毎年運営してゆかねばならない京都大学SF研究会は苦労の多いことだろう。祇園祭に鉾やら山やらを出さねばならない町の人々のようだ。
 依頼されていた“ブツ”を水玉螢之丞さんに手渡す。じつは、おれの日記を読んだ水玉さんから、例の「くいだおれ太郎」の人形が東京には売ってないので、一体買っておいてほしいと頼まれていたのだ。なるほど、あれもフィギュアの一種にはちがいない(?)。水玉さんからは、カエル型のソープポンプやカエルの文具一式、カエル腕時計などを頂戴する。
 続いて、尾之上さん、三村美衣さんと、二階の休憩所で本会企画の打ち合わせ。打ち合わせをやりすぎると本番で喋ることがなくなるよというわけで、大まかにガイドラインのみを決め、あとは今年のSFなどについて雑談を続ける。そばでは水鏡子さんたちがマジック・ザ・ギャザリングをやっていた。『火星転移』(グレッグ・ベア、小野田和子訳、ハヤカワ文庫SF)は小説としてなってないと言う三村さんが、同作品を賞賛する山岸真さんを捕まえて激論を闘わせはじめる。おれも『火星転移』の小説としての出来がいいとはけっして思わないが、おれは人を食ったバカな理論が好きだし、読んでいる最中は十分楽しめた作品ではある。山岸さんほど褒める気にもならず、三村さんほど貶す気にもならないので、ときどき合いの手を入れつつ、お二人の議論を横でのほほんと聴いていた。そばでにやにやしながら耳を傾けていた大野万紀さん曰く、「(ああいう話なんだったら)四分の三はいらんわな」 そ、そうかも(笑)。
 やがて休憩所は、例年のごとく臨時「三村美衣の部屋」と化し、三々五々、人が集まってきた。三村さん、喜多哲士さんとSFマガジン・499号、500号のオールタイムベスト・ブックガイド原稿の話をする。一作分約四百字の原稿を書くために、何冊も読み返さねばならないしんどい仕事である。あらすじの紹介しやすい作品と、あらすじなんか書きようもない作品とがあり、そのことで盛り上がる。
 途中で、御大伊藤典夫さんと大森望さんが到着。499号の表紙見本と目次を肴に、海外SFの話は続く。
 合宿企画が終わったらしく、ふと気づくと、休憩所では牧野修さん、田中啓文さん、小林泰三さんが車座になって話しておられた。ご挨拶をし、おれも座に加わって仰天。このお三方の話が面白いの面白くないの、天然の漫才になっているのであった(あとで大森望さんが“マンガトリオ”と呼んでいた)。小林さんが理知的な話しぶりでネタをサーヴすると、田中さんが不条理に捻りを加えてトス、絶妙の間で牧野さんのスパイクが炸裂する。さらにそれを小林さんが回転レシーヴ、牧野さんがフェイントでジャンプしたか見るや、田中さんがヘディング、すでに異様に変形したボールをおれがなんとか打ち返すと、受ける牧野さんが天地返しで投げ上げたが早いか、空中で受け止めた小林さんがハイジャンプ魔球で投げ下ろす。下で待っていた田中さんは跳んできた話題を巴黒潮くずしですっ転がし、ぐちゃぐちゃになったネタを牧野さんが大竜巻落としで粉々にする。もはや原形を留めぬ話題の破片は、秘打「G線上のアリア」のごとくそこいらを跳ねまわるというありさまである。あまりの面白さに、おれは悶え狂った。ハンカチで拭っても拭っても涙が出てくる。拭いすぎたためか、おれの右目がぽとんと落ちて小林さんのほうにころころと転がって行ったが、小林さんはなにごともなかったかのように修理してくれた。ような気がする。
 小林さんはものすごい怪獣おたくで、映画やテレビの話がむちゃくちゃ面白い。ひょっとしてあの作品は『怪獣細工』の誤植ではなかったのかと思うほどである。途中から聴いていた山岸真さんなど、床をのたうち回って、「もったいない、もったいない」と叫んでいた。まったくこんな面白い漫才をタダで聴けるとは、長生きはするものである。
 マンガトリオ特別公演会場(笑)には、小浜徹也さん、野尻抱介さんらが入れ代わり立ち代わり現われ、ひとしきり笑っては去って行った。喜多哲士さんがマンガトリオの漫才を聴いていたとき、ひとりの学生が喜多さんを呼びに来た。なんでも、喜多さんがSFマガジンで富士見ファンタジアのある新人の作品を貶したことに関して、これからつるし上げを行うという怖ろしいことであった。野尻抱介さんも会場で待っているという(「のじりんの部屋」なるものが急遽開設されていた)。まあ、どんなふうなつるし上げだったのかは、喜多さんがご自分のページにお書きになることだろう。明日に続く。

【11月14日(金)】
▼さてさて、15日〜16日は京都SFフェスティバルなのだが、急遽、16日の本会企画に出演する羽目になってしまった。11日の夜、尾之上俊彦さんから突然メールが来た。「今度こそ本当にSFがつまらない理由教えます」という企画で対談相手をしてほしいとおっしゃる。そう言われても、おれは最近の「SFがつまらない」などとは思ったことがないのだが、そこはそれ、そうじゃないという立場で喋ってもらってけっこう、と尾之上さん。尾之上さんが、いわゆる devil's advocate を演じて、SFがつまらない話をなさろうということらしい。いや、この場合、演題からすると、おれが devil's advocate なのか。いやいや、angel's advocate とでも言うべきか。おれごときが壇上で尾之上さんと対談するなど十年早いのだが(だいたい今年の日本語のSFですら、読めていないものがたくさんあるのだ)、三村美衣さんも加わって鼎談になるとのことだから、頭数としてお役に立てればとお引き受けした。周到な準備のうえ大論をぶちあげるなんて時間はとてもないので、難しそうなところは三村さんに任せて、おれはアドリブの合いの手で逃げることにしよう(笑)。こんなことになるのなら、偉い人のお説を適当にコラージュして、鬼面人を驚かすだけの“冬樹蛉の法則”かなにかをでっちあげておけばよかったな。
▼というわけで、日記の更新は16日深夜以降になると思います。京フェス日記をお楽しみに。それでは、行ってきます。

【11月13日(木)】
野田令子さんのホームページを見て、ふと考える。「のだなのだ」というのは、じつにいいタイトルだ。なんとなく精神的に安定する字面である。そういえば、「くだものだもの」という缶入りフルーツジュースがあったな。これをさらに高度にすると『アルタイルから来たイルカ』になるわけだ。うむ、なにやらまた新しい言葉遊びの可能性が見えてきたが、このパターンは作るの難しそうだなあ。
▼SFマガジンの締切が迫り焦りまくる。が、焦ってもろくなことはないので、気持ちを落ち着かせるため、『消滅の技法(アート)』(ジャン・ボードリヤール、梅宮典子訳、PARCO出版)をぱらぱらと眺める。おれはもう、近年のボードリヤールをほとんど作家か詩人だと思っていて、小難しいことを考えずに、アフォリズム集かなにかのつもりで疲れたときにちょっとずつ読む。そもそもおれくらいの世代の人間にとっては、ボードリヤールは驚天動地の哲学的認識を与えてくれるタイプの人ではなく、消費社会の子たるおれたちの身体にあたりまえの認識として染み着いていることを、あえて言語化し解説してくれるといった感じの学者だ。だから、あまり精神に負荷をかけず細切れにでも読めるところが、疲れた頭にはちょうどいいのである。
 この本は写真論にはちがいないのだがテキストは少なく、ボードリヤールの撮った写真集とでも言ったほうがいい。この学者さんがこんなに面白い写真を撮る人だとは知らなかった。日野啓三ファンにはクるものがあると思うよ。

【11月12日(水)】
▼十月に発売されたダイムラー・ベンツの新型ミニベンツ「Aクラス」が、試験走行で安全性に問題がある旨指摘されたため販売を三か月停止したと報道されている。「異例の事態で、ベンツのイメージは大きく傷付いた」などと今日の讀賣新聞夕刊にはあるのだが、おれなど、「さすがはベンツ」とすら思ってしまったけどね。おれの感覚が庶民的すぎるのかもしれないけど、功なり名遂げた世界的ブランド企業が、こうもあっさりとミスを認めたうえで販売停止という不名誉な手段を迅速に決断し実行するなど、なかなかできることではない。たしかに安全性に問題がある車なのだから、やるのがあたりまえではあるにしても、名のある存在ほど、その決断は痛みを伴うものだろう。試験走行に難癖をつけて安全だ安全だの一点張りで通すことだって、やろうと思えばできたはずである。おれは運転免許もないし、車のことには疎いのだが、スウェーデンの走行試験というのはよっぽど権威のあるものなんですかね? そういう権威があればこそ、それをクリアした製品の優秀さをアピールできるわけだから、そこで否定されたら潔く認めないと、ほかの製品の信頼性を自分で揺るがすことになってしまう。ベンツの対応はじつに清々しくていい。ロジックで崩されたら、潔く負けを認める『刑事コロンボ』のエリート犯人たちのようだ(『新・刑事コロンボ』は、その点どうも好かん)。
 もっとも、ベンツみたいな車は自分を一流だと思っている人が自己イメージの表現として乗っていることも多いだろうし、ダイムラー・ベンツともあろう会社が「Aクラス」のような大衆車を出すこと自体を苦々しく思っているエリートファンもいるだろうから、やっぱり今度のことで主要顧客層の不興を買ったことにはなるんだろうな。さすが一流、ノブレス・オブリージ、などと思っているのは、おれのようにベンツとは一生縁がなさそうな人間ばかりだったりして。
 おれの感覚では、無謬であることが一流であることだと思っているやつは、二流の一流である。失敗を異常に怖れるうえ、さらに失敗を認めず、もみ消そうとすらするような外道に一瞬にして成り下がることがよくあるからだ。不祥事でニュースを賑わすエリートって、たいていそういうタイプだよね。真の一流というのは静的状態じゃなくて、一流たらんとするベクトルに、能力と結果が伴った例にのみ与えられる動的な称号なのだろう。まあ、おれにはどれもあまり関係のない話だが(笑)。
 それはそうと、“ベンツ丸潰れ”なんて古典的ギャグが、今日一日で何回使われたことでしょうねえ(笑)。

【11月11日(火)】
▼東芝や三菱電機は、担当者が己の一存で総会屋に利益供与をしていることもチェックできない程度の三流企業であったのか。捕まった担当者も担当者で、自分ひとりが悪うございます、会社は知らないことでございますなどと、一日経ってもまだほざいている。会社に迷惑をかけてはいかんという考えなのだろうが、思い上がるのもたいがいにせえよ、あほんだら。あんたらがシラを切れば、そのぶん警視庁の仕事が増え、おれの税金が無駄に使われるのだ。自分の会社に迷惑がかからんかったら、おれの税金はどうなってもいいのか? そんなもの、上司が知らないわけないだろうと、誰もがわかってるよ。会社をかばえば美談に見えるとでも思っているのか?
 よーし、わかった。信用してやろうじゃないか。そこまで言うなら、ほんとうなのだろう。今度のことは、あんたらが己の一存でやったんだな。いや、じつはおれもそうじゃないかとは思っていたのだ。東芝や三菱電機などという、適当にそこらのおばさんを掴まえて訊いても十人が十人とも知っているような大企業が、あんたらの所業を知っていて放置するなどとは、ちょっと考えにくいからな。そう考えれば、なにもかも納得がゆく。あんたらの上司だって、担当者が勝手にやったと言ってるんだしな。あんたらは、会社に信頼されているのをいいことに職権を濫用し、大それたことをやったわけだ。ふてえ野郎どもだ。会社の信頼を裏切るなど、人間の屑じゃないか。どうせ、総会屋からなにかおいしい見返りが個人的にあったんだろう? 私利私欲のためにやったわけだな。あんたら、会社に食わせてもらってきたんだろう? 会社に申しわけないと思わないのか? 
 そうだろう、そうだろう、申しわけないと思うよなあ……。思うだろうけどさ、会社も会社じゃねーか。仮にもあんたにこんな権限を与えたのは会社だ。あんたが頼み込んで総務部の幹部にしてもらったわけじゃねえだろう? たまたまあんたがその地位にいるときに、こういうことになっちまったわけだよなあ。こういうときこそだな、会社が護ってくれたってよさそうなもんだと思わないか? それを「あいつが勝手にやった」っつってんだぜ、あんたの愛しい恋しい会社様はよぉ。べつにさ、あんたの会社くらいの大企業になりゃよ、あんたの代わりなんていくらでもいるんだよ。あんたひとり切ったって、会社は痛くも痒くもねえんだ。五人くらいでやってる会社がアルバイト事務員に辞められるほうが、よっぽど痛えだろうさ。それを、いったいなにが哀しくて会社かばってんだ? 会社に片想いするのもたいがいにしろよ。会社にとって、あんたなんてかけがえのない存在じゃねえんだよ。消耗品なんだ。そりゃあ、あんたの家族にとっては、あんたはかけがえのない夫で、父親なのかもしれんけどな――いや、待てよ。どうせあんたみてえな会社奴隷のことだ。家族なんてほったらかしにして、片想いの愛しい恋しい会社様になにもかも捧げてきたんだろう? あんたの家族だって、いまごろはあんたなんて取り替えの利く夫取り替えたほうがいい父親くれえに思ってるかもな。けけけけけけ。あんた、いったいなにしに生きてんだ? 哀れだねえ……うっ……いけねえ、こっちまで涙が出てきちまったよ。おれだって勤め人なんだ。あんたの気持ちは痛えほどわかるよ。なにも好きで家ほったらかしてるんじゃねえもんなあ。かわいい妻子にちょっとでもいい思いをさせてやりてえ、いいおべべを着せてやりてえと思う一心で、虫の好かねえやつにも頭下げて、満員電車で足踏まれて、飲めねえ酒飲まされてゲロ吐かされて、若いやつらに笑い者にされて、ここまで這い上がってきたんだよなあ。わかる。わかるよ。それをよぉ、「あいつが勝手にやった」だぜ!?
 ま、それはともかく、よくほんとうのことを言ってくれたよ。あんたひとりが勝手にやったんだな。おかげで手間が省けるってもんだ。国民の血税は、より有効なことに使われるだろうよ。しかしなあ……大それたことをしてくれたもんだよ、まったく。かわいそうに、あんたの娘さん、さっそく近所の子にいじめられてたってよ。「○○ちゃんのお父さん、悪いことしてケーサツに捕まったんだって!」「ええっ、そーなのお!? こわーい」「会社をだまして、自分で勝手に悪い人に会社のお金を渡してたんだって」「わー、ひどーい」 なんて野郎だ、あんたってやつは――。父親失格だよ。利己主義者め、豚め、出世の亡者め――

「も、申しわけありませんっ! 私、嘘を申しておりました。じ、じつは、今回の件は、○○部長と△△部長、あ、それから××取締もよっくご存じのことであります。あっ。思い出したっ。そういえば、初めて総会屋と会ったとき、同席していただいたのは――」

 きっといまごろ、こういうセレモニーやってるんだろうなあ。最初のうちだけ会社に顔立てたら、あとはどうせ堰を切ったようにべらべら喋るんだからさ。毎度毎度、無駄な手続き踏まずに、ドライにぶちまけちまおうぜ。担当者のあんたひとりがやったことだとは、日本国中、誰ひとりゆめゆめ思ってないんだから。


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