間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


97年11月上旬

【11月10日(月)】
▼さてさて、おれの血液型当てゲーム(11月7日、8日の日記参照)だが、早くも四名の方が投票してくださっている。数が多いほど面白いから、血液型占いを信じている人も信じていない人も、遊んでいただけるとありがたい。緻密な推理に基いたご回答でも、むろん当てずっぽうでもかまわない。この日記の一日あたりのアクセス数は、プロバイダのログによると200〜250くらいなので(トップページよりかなり多いのだ(笑))、20票くらいは欲しいなあ。ご応募はこちらのアドレスへお気軽にメールをどうぞ。
10月23日の日記で、大阪弁を喋る電卓「笑殺電卓人・こてこて勘吉」に触れたのだが、その後、片岡正美さんとおっしゃるプログラマの方から、追加情報が寄せられた。なんでも、江戸弁でまくしたてる「べらんめぇ太郎」という姉妹品があるのだそうである。片岡さん、楽しい情報をありがとうございました。それにしても、このぶんでは、喜多哲士さんの夢見る“舞妓さん電卓”の出現も間近かもしれないなあ。
▼今日はお便り紹介が多いけど、またまたまた明院鼎さんからお菓子が送られてきた。明院さんは北海道にお住まいで、地域限定の愉快なお菓子を見つけては、おれに毒見――じゃない、味見をさせようと送ってくださるのであった。今回は、聞いて驚け、森永製菓の北海道限定品「ジャンボ小枝 夕張メロン」と、ロマンス製菓の「流氷の天使クリオネグミ」(道東地区限定)である。
 「ジャンボ小枝」というわけのわからないネーミングには早くも不条理感が漂っているが、そのうえ「夕張メロン」なのだという。恐るおそる開けてみると、煙草を2カートン並べたくらいの箱に万年筆ほどもある“小枝”が一本一本包装されてぎっしりと詰まっていた。これは怖い。さっそく一本食ってみる。薄いオレンジ色の“小枝”は、強烈なメロンの匂いを発し、たいへん食べ応えがある。“夕張メロン果汁パウダー”なるものが配合されているのだ。さしものおれも一度に全部は食い切れず(あたりまえだ)、少しずつ食べることにする。
 クリオネグミのほうは、言うまでもなく、クリオネ(ほら、あの使用済みのコンドームが羽生やして泳いでるような生きものね)の形をしたグミで、クリオネ味のグミという意味ではない。“余市リンゴ果汁”で味つけしてあるのだが、いっそこれがクリオネ味ということにしておけば、誰もクリオネなんか食ったことなかろうから、それはそれで洒落になるのに。正直なメーカである。例によって箸でつまんで口に運んでいると、流氷の天使クリオネというよりも、諸星大二郎が描く黄泉の国から湧いて出た化けものを食っているような気がしないでもない。かわいらしいパッケージとは裏腹な妙にシュールな造形が、おれのツボにぴたりとハマる菓子であった。明院さん、いつも笑わせてくれてありがとう。

【11月9日(日)】
▼パソコンを使っているときは、お菓子を箸で食うのが日本の常識(笑)だという話を以前書いたけれど(あれを読んだ古沢嘉通さんは目から鱗が落ち、以後実践しているとのことである)、じつはおれの長年の研究から、箸すら使わずに食えるお菓子が何種か発見されている。
 たとえば“ポン菓子”だ。そう、あの米で作るポン菓子である。むかしはよく“ロバのパン屋”と入れちがいくらいに軽トラックに装備一式を積んだポン菓子屋がやってきて、米を持ってゆくと道端でポン菓子にしてくれた。あちこちでバァアアーンとバカでかい音を響かせていたものである。ポン菓子と呼ぶのはかなり語弊がある。そんな生易しい音じゃないよね、あれは。おれの子供のころは、のどかな団地に“バァアアーン”などという音が響き渡っても、「ああ、ポン菓子屋かな。それとも、車のバックファイアかな」とみんな慣れっこになっていた。まあ、最近の子供の日常だってさほど大きく変わったわけではなく、「ああ、暴力団の抗争かな。それとも、また動燃がなにかしたのかな」とみんな慣れっこになっている。小市民の生活はそんなに変わるものではない。
 それはともかく、ポン菓子屋がやってくることはなくなっちゃったよねえ。でも、コンビニやお菓子屋ではまだまだちゃんとポン菓子を売っている。ポン菓子屋の作ったものは、米の粒が糖分でくっついて岩のような塊になっていたものであるが、最近店で売っているやつは、米粒が全部ばらばらにほぐれていてシリアルのようになっている。製法がちがうんだろうね。これをたまに買ってきて食う。粒がばらばらなので、手を使わずに食える。広めの器にポン菓子をざざざざとあけ、その山の中に舌を突っ込んで食うのだ。一粒一粒が軽いため、舌にくっついてくるわけである。くっついたところで舌を収納し、おいしくいただく。とても人に見せられた姿ではないが、合理的な食いかたではある。ひとつの容器を囲んで大勢で食っているときにこれをやると、発狂したかと思われるのでご注意を。あくまで、あなたひとりで食べるときにお楽しみください。おれはこの技を“アリクイ食い”と呼んでいる。“犬食い”というのがあるからには、アリクイのような食いかたは、やはり“アリクイ食い”としか呼びようがない。じつは、いまそうやってポン菓子を食いながら書いているのだ。キーボードが汚れないから、たいへん具合がいい。
 実験の結果、ほかに“アリクイ食い”ができるお菓子には「おっとっと」がある。あれも軽いし、うまく舌にくっつく。「おお、これはいいことを聞いた。私も次からそうやって食べよう」と膝を叩いておられるあなた、あー、べつに止めはしませんが、家族の前でもやらないほうがいいと思う。子供が真似して外でやったら人様に迷惑をかけることもあろうし、配偶者にアリクイが憑依したあさましい姿を見れば百年の恋も醒めるというものである。合理的であるということが、すなわちエレガントであるという文化をわれわれはまだ持っていないのだ。

【11月8日(土)】
▼昨日の日記で、おれの血液型を「みごと言い当てたメールが25%をはるかに超えるようなら、おれも少しは考え直さねばなるまい」などとうっかり書いたが、これはあきらかにおかしいので訂正しておく。「みごと言い当てたメールの割合が、おれの血液型が日本人全体に占めるパーセンテージをはるかに超えるようなら」が正確な表現というものだ。何パーセントって書くと、ばれちゃうじゃないか(笑)。まあ、要するに、サイコロを振る以上の確率で当たるわけがないと言いたいのである。さっそく“血液型当て”にはご応募があり、面白いので真面目に募集してみようと思う。われと思わん方はじっちゃんの名にかけて推理(?)をお寄せいただきたい。おれの血液型をどこかで知った方は、統計に狂いが生じるので応募しないでくださいね。それから、例によって、賞品もなにも出ない。一緒に遊んでやろうという奇特な方はご遠慮なくメールください。どうもメール書くのは苦手だという方は、サブジェクトに「何型」と書いてお送りくださるだけでもけっこうである。
▼一昨日の日記で、瀬名秀明さん『BRAIN VALLERY』のページがまだ検索エンジンでヒットしないと書いたよね。じつは、そろそろかなと今日Infoseek Japanで検索してみた。「瀬名秀明」を含み「新作」を含む――という条件でやってみたら、わはははははははははは、なんとこの日記のページがヒットした。なんたる自己言及性の皮肉。愉快だなあ。こうやって自己言及が増幅されてゆくところなど、インターネットってやつは、それ自体がまるで脳のようだ。それにしても、Infoseek Japan のロボットはがんばってるんだな。
10月29日の日記にチョコレート中毒の話を書いたら、先日水玉螢之丞さんから、板チョコは丸噛り、「メルティキッス」は一日一箱が基本だとの同病相哀れむ(というか、同病者を焚きつける)メールを頂戴した。板チョコはたしかにおれも丸噛りするけど、「メルティキッス」一日一箱ってのは、ちょっと水玉さんのほうが重症だと思う。おれは板チョコは週に二、三枚、「メルティキッス」などの冬季限定小分けチョコ(笑)は週二箱くらいのペースである(じつはさっき「メルティキッス」を一箱食ってしまったのだが)。もっとも、おれも家でできる専業の座業だったら一日一箱くらいは食いそうだし、病状はさほど変わらないのかもしれない。
 水玉さんもおれもそうだけど、不思議なことに、チョコ中毒の人って痩せてる人が多いような気がする。酒に強い人しかアル中にはなれないように、チョコを食っても肥らない人がチョコ中毒になる素質を持っているのではあるまいか。肥りやすいと自覚している人はなにかと自制心が働くため、世にも怖ろしいチョコレート中毒から逃れ得ているのかも。

【11月7日(金)】
▼この前の日曜日に放映された『特命リサーチ200X』が血液型性格診断を取り上げたのをきっかけに、あちこちでちらほらと血液型と性格の因果関係が話題に上っている。番組の見解では“因果関係はない”ということだったと思うが、まあ、どう考えたって人間の性格が大きく4パターンに分けられるとは思えない。因果関係がある可能性は否定しないが、関係があると主張する人が根拠に挙げる説に納得のゆくものがあった例しがないのである。いまのところ、血液型性格決定説はおれの中では幽霊の存在と同じ扱いだ。『特命リサーチ200X』で紹介された因果関係肯定説のバカバカしさは、我孫子武丸さん「ごった日記」(97年11月2日など)に詳しく書いておられるので、面倒だからここでは触れない。因果関係があると自分で勝手に信じるのはいいが、人を巻き込むなという我孫子さんのご意見にも全面的に賛成である。実際、企業の人事なんかは、鉦や太鼓で宣伝されることはないものの(宣伝してる会社の神経がおれにはわからん)、しばしば秘かに血液型が参考にされていたりするんだよね。日本経済がこうなったのもわかる気がするよ。
 おれが興味を持つのは、血液型が性格を決定するかどうかではなく、なぜにこうも多くの人がそう信じたがるのかである。おれが思うに、ひとつには、日本人は身体的に同じような人間ばかりだから、とにかくなにかを理由に差異を作り出したいのにちがいない。また、いまひとつには、性格の依って来たるところを己の責任外に置いておけば、なにかと心理的に楽だからであろう。「私はA型だから神経質すぎて人に嫌われることがあっても仕方がないのだ」「おれはO型だから大ざっぱでよいのだ」「B型だから偏屈でよい」「AB型だから二重人格でよい」――などと自分の中で思っておくことは、個々人の精神の安定に役立つ。健全な自我防衛機制とすら言えるだろう。要するに宗教と同じなので、本人が納得してしあわせであれば、なにをどう信じていようが、こちとらの知ったことではない。しかし、「おまえはO型のくせに、なぜそんなに考えることが細かいのだ?」とか「どうしてA型のくせに自堕落なのだ?」とか非難されたり勝手に失望されたりすると、これは大きなお世話というものである。「あの人をこのまま生かしておいてはさらなる悪行を積むばかりだから、ここで殺しておいてあげるのがあの人のためにもわれわれのためにもよいのだ」と考えはじめるとタチが悪いのは、これも宗教と同じ。
 おれに迷惑をかけないかぎりは、血液型が性格を決定するとか、生きものが生まれ変わるとか、キリストが復活するとか、地球が円盤だとか、燃えるものからフロギストンが出てゆくとか、重いものは軽いものより速く落ちるとか、猫は宇宙生物エルバッキーだとか信じてくださってもいっこうにかまわない。ただし、おれに火の粉が飛んできたらそれは払うし、おれに信じさせようとするやつが現われたら、叩いてこれを滅ぼす。ああ、おれはなんと寛大な丸い人間になってしまったことだろうな。歳は取りたくないものだ。
 誤解なさらないでほしいのは、おれ自身はそういうことどもをすべてたわごとだと思っているが、それらを信じることで精神の安定を得ている人々の生きざまを否定しているのではないということだ。むしろそういう人々の精神が持つ要素は、おれもかなり共有しているとすら考えている。人間、なにかを信じないと生きて行けないものだ。足を一歩踏み出すにも、床が抜けないと信じていなくてはならない。ただ、おれは“信じる”という行為は、例外なく愚行であると思っている。「信じ続けるのは尊いことで、信じ続けたおかげで万事うまく行きました」なんて美談は星の数ほどあるが、それらはすべて結果論にすぎない。同じようになにかを信じ続けたために身を滅ぼした人も、星の数ほどいるからだ。なにかを信じることは愚行なのだが、愚行だと知りながら、飯を食うにも屁をひるにも、便宜的になにかを信じないと、この宇宙では意識というものは存在できないらしいのだ。この“便宜的に”というのが重要である。だから、おれみたいな人間は、どんなに運がよかった場合でも、己の思想や行動は“次善”以上のものになることは絶対にないとわきまえている。まあ、たいていの人はそうだろう。ところが、世の中には、己の思想や行動が“最善”の目的に奉仕するものだと“信じている”人々がいる。こういう人々はしばしば不潔なほどに目をきらきらと輝かせ、わけのわからぬ自信に満ち溢れ、たいへんしあわせそうだ。天の御使いかと思えるほどに、高潔な存在に見えることすらあろう。だが、おれには、この天使は符号のちがう悪魔にしか見えない。“最善”は同時に“最悪”でもありうるのは歴史の教えるところだ。なにを信じても人の勝手だと言ったものの、柔軟な精神を持った若い人々がこういう“最善”にだけは引っかからないように願わずにはいられない。自分を救ってくれそうなものに安易に縋らずに、いつも迷ったり悩んだりしながら“よくてもせいぜい次善策”を永遠に生産し続けてゆく程度の存在が人間だという、冷厳な事実を見つめてほしいものだ。
 ともあれ、血液型で性格が決まると信じている人々よ、あなたの魂に安らぎあれ。ただ、あなたの信仰でおれに迷惑かけないでね。あなたには、アーサー・C・クラークの言葉を贈っておこう――「もしかしたら、正気ではなく幸せでいるほうが、不幸せで正気でいるよりはいいのかもしれない。だが何よりもいいのは、正気で幸せであることだ」(『3001年終局への旅』〜終わりに〜、伊藤典夫訳、早川書房)
 ときに、一説によると性格は文章に出るそうなのだが、このホームページからおれの血液型が当てられるかな? 日記はまめだし、いつも重箱の隅をつついてるからA型かな? SF作家やSFファンに多いと噂されるO型だろうか? いや、この偏屈さ加減はどう見てもB型にちがいない。いやいや、よそでの文章も読んだが、こいつは絶対多重人格だからAB型だ――ふふふふふ、みごと言い当てたメールが25%をはるかに超えるようなら、おれも少しは考え直さねばなるまい(笑)。

【11月6日(木)】
瀬名秀明さんの新作長篇『BRAIN VALLEY』のサイトができていたので行ってみる。おお、クールだ。嬉しいのは、日本の出版社サイトにはなぜか少ない“試し読み”のコーナーがあること。こういうの、どんどんやってほしい。抜粋箇所をうまく選べば、興味が湧きこそすれ、読んだ気になっちゃうなんてことはない。本を買う人は放っておいても買うのだ。買わない人めがけて、いかに広く網を張っておくか――と言うと失礼だが、門戸を開いておくかということも出版社は考えるべきだと思う。テキストを載せておくだけなら、そんなに維持費もかからないんだから、やらない手はないと思うんだけどなあ。実際にどのくらいの宣伝効果があるものかは、各出版社のカラーにもよるだろうけれど、試し読みで成功しているにちがいないと思えるのは、なんたってフランス書院(子供は見ちゃだめだよ)だよね(笑)。律義に試し読みコーナーを続けているところを見ると、きっと出版社側にも馬鹿にできないうまみがあるにちがいない。
 サーバにテキストを置いておくだけなら、派手な画像や音声とちがってあまり容量も食わず、従って維持費もその分低いはず。小説の試し読みテキストを置くとなにがいいかというと、全文検索系のエンジンなら思わぬキーワードでヒットするのだ。まあ、多少品位の落ちる実験だが、無作為に「制服美少女」「家庭教師」「人妻」「秘密」の四つ(なにが無作為なものか)をキーに「goo」で検索してみよう。フランス書院の新刊案内が必ずヒットするから(笑)。やっぱり、アダルト系の出版社はこのあたりのことを見抜いているよね。やたら凝った画像ばかりで飾らず、必要な“テキスト”をきちんを入れている。
 ふつうの小説でも、同じような効果は得られるはずだ。そんな見つけかたをする人は、数としては微々たるものだろう。だが、少なくとも、その人は入力したキーワードに興味を持っている人なのだ。たとえば、瀬名さんの『BRAIN VALLEY』の試し読みページは、まだ日が浅いせいか「DNA」「UFO」「フランシス・クリック」などで検索しても引っかからなかったけど(代わりに、ラエリアン・ムーヴメントらしきページがいくつか出てきたよ〜、ひいい)、早晩検索エンジンに登録されることだろう。そして、UFOやDNAや脳や超常現象に興味を持っていて瀬名秀明の新作をまだ知らない人が、ひょっこりと試し読みページを発見したりするのだ。インターネットばかりやっていて本屋にあまり足を運ばず、書評なんかもちろん読まない人だったりするかもしれないが、こんな本があるなら読んでみようと思うかもしれないではないか。試し読みをWWWに載せておく費用と効果は数字でなかなか見えないだろう。しかし、本を読む習慣はあるがその作家や作品を知らない読者の新規獲得や、すでに読者である人のロイヤリティーの強化には馬鹿にならない効果があるのではなかろうか。即効性はないが、ボディー・ブローのように効くだろうとおれは考える。単行本が一か月で店先から消える時代には、意味のあるやりかただと思う。まあ、こういう対費用効果の見えにくい投資というのは、経営トップが直感と見識で命令を下さないと一歩も進まないものだから、進む会社はどんどん進んで、進まない会社はまったく進まないという形で二極分解してゆくのだろうな。
 そういえば、おれもWWWにテキストを置いておくことの効果を思い知ったことがあった。以前、この日記で周防正行監督の『Shall we ダンス?』に触れたことがあったのだが(3月28日の日記参照)、しばらくしてその日記にリンクが張られているのをたまたま発見した。それはなんと「ダンスが好き」という、社交ダンスを本格的に趣味にしている方のページであったのだ。ウェブ上で『Shall we ダンス?』が言及されているページを集めて回ったらしい。うーむ、今日もとんでもないキーワードでこのページにたどり着いて、うっかり読んでしまった人がいるのかもしれない。

【11月5日(水)】
▼主に住宅事情のせいだが、おれはアイワのミニコンポを使っている。音の粒立ちがよく、ヴォリュームを相当落としていても、それなりに楽しめる。むろん、波形をいじって鋭角的な立ち上がりにする回路が組み込まれているだけだから、きっと“オリジナル”とは似ても似つかない音が出ているにちがいない。通は厭がるだろうが、おれにとって“オリジナル”などはじつはどうでもよいのだ。おれが家で聴いて心地よいことが優先する。このあたりは、以前にも書いたように、おれのインスタント食品に対する考えかたと通じる。ともかく、狭い団地ではバカでかいコンポは置けないし、大音量で鳴らせるわけでもないから、じつに都合のよい仕様のマシンなのだ。
 気に入っている機械だけど、ひとつだけどう考えても設計がまずいのではないかと思えるところがある。タイマーだ。このコンポのタイマーは、いったんある時刻にスイッチのON・OFFを設定すると、それを解除しないかぎり、二十四時間毎にON・OFFを繰り返す。これが気にくわない。帯番組などの録音には便利なのかもしれないが、おれはタイマーを目覚ましに使う。そういう人は多いよね。この仕様では、外泊するときなど、うっかりタイマーの解除を忘れると、いつもおれが朝起きている時間にCDが鳴りはじめてしまうのだ。二度ほどそういうミスをやり、たまげた母がどうしていいかわからずコンセントを引っこ抜いた。メモリ保持用の内蔵電池は長時間保たない仕様だから、おれが外泊から帰ってくると、電子的な設定が全部クリアされてしまっていたりした。以来、毎朝、出がけにタイマーを解除するのだが、あわてているとよく忘れる。今朝も忘れかけた。突然、悪いことだかいいことだかがあって外泊せねばならぬかもしれず、タイマーの解除を忘れると気になってしかたがない(まあ、最悪の場合、家に電話してコンセントを引っこ抜いてもらえばすむことだが)。
 このタイマーの仕様は、いわゆる“デッドマンズ・アラーム(デッドマンズ・スイッチ)”である。つまり、人間の存在をシステムの一部に前提として組み込んでいるのだ。具体的に言えば、ここに押ボタンスイッチのついた箱があるとする。「ボタンを押してごらん」と言われたあなたは、わけのわからないままとにかくボタンを押す。なにも起こらない。「ふふふふ、そのボタンから指を離したが最後、その箱は爆発するのだよ」――あなたは指を離すわけにはいかない。しかし、あなたを殺そうとしているやつがいたとすると、そいつはあなたを攻撃できないというメリットもある。まあ、サスペンスにはしょっちゅう出てきますわな。こういうスイッチが“デッドマンズ・スイッチ”で、これはうまく使うと、あなたが無事な状態であることをモニタする仕組みにもなり、そのように使うときは“デッドマンズ・アラーム”と呼ぶわけだ。独居老人の家にモニタリングシステムと連動したスイッチを設置し、「お婆ちゃん、毎食後にこのボタンを一回だけ押すんだよ」と言っておけば、お婆ちゃんに異常が起きたときも、長時間誰も気づかないということはない。もっとも老人のこととて押すのを忘れることもあろうから、正常に生活していれば必ず使う電化製品にこんなモニタリング機能を持たせておくのが冴えたやりかただ。現に、湯沸かしポットに組み込んで実用化されている例もある。
 そう考えると、おれのコンポの仕様も悪いことばかりではない。おれが睡眠中に突然死したとする。朝、おれの部屋から大音量で鳴り響く音楽に驚いた母がやってきておれの死体を発見し、あまりにたまげてこれも心臓麻痺かなんかで死んだとする。うちは二人暮らしだ。このままでは腐乱死体になってしまう。「腐乱死〜ぬの場合は、あまりにも哀しい」と、むかし新谷のり子が唄っていたとおりの状況である。だが、毎朝早くからローリング・ストーンズ Start Me Up が鳴り続けていたら、早晩近所の人が苦情を言いにやってくるだろう。無事、発見してもらえるという次第だ。もしもアイワの人がここまで考えて設計していたのだとしたら、おれは脱帽するよ。まさかねえ……。あれ、待てよ。ほかならぬこの日記も、いつしかデッドマンズ・アラーム同然に働いているぞ。

【11月4日(火)】
山之内製薬「ガスター10」を発売してから、雨後の筍のように同じような胃薬が出てきた。テレビのCMを観ていると、ブロッカーとやらを配合した似たような名前の胃薬のオンパレードである。いろいろ調べてみると、胃液の分泌のトリガーは三つあるそうで、ヒスタミン受容体とやらにヒスタミンが結合するのがそのうちのひとつである。Hブロッカーというのは、言わば先回りしてヒスタミン受容体に“蓋”をし、ヒスタミンとの結合を妨げる働きをする物質だとのこと。そういう解説を初めて読んだとき、これって素人目には花粉症の薬の効きかたそっくりだなと思ったもので、案の定、テレビCMでも花粉症の薬のCMをそのまま使い回したようなアニメーションで解説している。
 むかしは、胃薬というのは胃液の酸を中和するアルカリ性の物質なのだと子供向けの科学の本にも書いてあった。なんだ、じゃあ、重曹をオブラートに包んで飲んだって効くんじゃないかなどと子供心に思っていたものである(事実、炭酸水素ナトリウムを含む胃薬はけっこうある。顆粒の「キャベ2」なんかそうだ)。こういう胃薬は、「出てしまった分泌物に、なにかの手段で対抗しましょう」というわけだから、たいへんわかりやすい。悪く言えば姑息な感じがするけど、まあ、ちょっとやそっと使いかたをまちがえたって、どえらいことにはなるまいという安心感がある。ところが、Hブロッカーなどは、胃液の分泌メカニズムそのものに深いところで干渉するわけだから、「使用上の注意をよぉ〜〜くお読みになり、医師・薬剤師にご相談の上――」などと、西村雅彦が念を押すのもなるほど無理はなかろう。こういう薬は、なんだかこちらの身体に踏み込まれているという感じがあって、根元を叩くのだからよく効くはずだけれど、ちょっと気味が悪い。門外漢なりに気をつけて見ていると、薬学が進むにつれて、どうもこの“踏み込み型”の薬が増えてきているような気がするのである。
 たとえば、フェネルジン(商標名:ナーディル)という抗鬱薬がある。なんでも、鬱病というのは、シナプス小胞から放出される神経伝達物質の濃度が低く保たれてしまうことによって起きるとする考えかたがあって、実際に濃度を上げてやれば治る人もいるのだそうだ。シナプス間隙の伝達物質濃度を高く保つには、ふたつの方法がある。放出された伝達物質は酵素の働きでほかの物質に変えられ排出されたり、再びシナプス小胞に吸収されて繰り返し利用されたりするから、そういう酵素の働きを阻害してやるか、再吸収を防いでやればいいということになる。まるで自分で研究してきたようなことを言っているが、ここらは全部本やらテレビやらウェブページやらの請け売りだからね。でもって、フェネルジンというのは、その前者、モノアミン類の伝達物質が酸化されて別のものになってしまうのを防ぐ、MAOImonoamine oxidase inhibitors)と呼ばれる系列の抗鬱薬のひとつだ。つまり、「出てしまった分泌物をなんとかしましょうね」タイプの薬ですね。もっとも、多少使いかたを誤っても平気だなんてことはまったくなく、厳格な食餌制限を守らないと命にかかわる。チラミンを含む食物を併せて摂ったりすると、血圧が爆発的に上昇してお陀仏になりかねない怖い薬なのだ――あれ、どこかで聞いた話だぞと思った方は、今年翻訳が出た“あのSF”をすでにお読みですね。
 いろいろマイナス面も大きいMAOIに対して、神経伝達物質の再吸収(再取り込み reuptake と称する)を阻害する作用機序を持つ、比較的副作用の小さい新薬があとから出てきた。とくにセロトニンという伝達物質の再取り込みを選択的に阻害するのが、SSRIselective serotonin reuptake inhibitors、まんまやがな。serotonin specific...という言いかたもあるようだ)なる系列の抗鬱薬である。有名なところでは、ダイアナさんの事故で酔っぱらい運転手が常用していた「プロザック Prozac(一般名:フルオキセチン)がそうだ(むろん、アルコールと併用してはならないことは報道されているとおり)。マレイン酸フルボキサミンなんてのもあって、これはすでに藤沢薬品らが日本での販売権を取得しており、厚生省のゴーサインを待つばかりとなっている。SSRIは、「出てしまった物質をなんとかしましょうね」ではなく、それを再取り込みする仕組み自体に干渉するわけだから、おれの言う“踏み込み型”の薬ということになるだろう。
 おれ自身は抗鬱薬を服用したことはないが、「“踏み込み型”だなあ……」などと思いながら調べていた記憶があるため、HブロッカーのCMを見るたびに、なんとなく抗鬱薬を連想してしまう。きっと、おれが知らないだけで、ほかのいろんな薬にも“踏み込み型”のものがたくさん出現しているにちがいない。
 この手の“踏み込み型”がたくさん出てくるのは科学の進歩というものだからいたしかたないとしても、おれが気になるのは、細心の注意を払って用いられるべきこうした薬について、相談する医師・薬剤師がほんとうに十分な数だけいるのかということである。いやじつは、今日、母が具合を悪くして病院に行ってきたというのだが、担当の医者ときたら蚊の鳴くような声でぼそぼそとなにを言っているのかよくわからぬ若僧で、無愛想なのか対人恐怖症なのか、まことに頼りないやつだったとおれにぼやくのである。対人恐怖症の医者だと? そんなものが存在するのかと思うでしょうが、そうとしか思えないやつはたしかにいるのである。薬剤師だって似たようなものかもしれぬ。いくら西村雅彦が「医師・薬剤師に相談の上――」と注意してくれても、素人にわかるように説明できぬ医師・薬剤師だったらどうしようもない。はっきり言って、おれの母はおよそ文字など読まぬ、教養という言葉とは無縁の人間であるが、一応四則演算はできるし、簡単な三段論法なら理解する。彼女なりの世界内では日常生活に支障のない、どこにでもいる婆さんだ。そういう人間に「どこがどう悪くて、どうやって治そうとしているか」程度のことが説明できぬ医師や薬剤師だったら、そんなもの要らん。客観的に見て、幸運にもおれの情報リテラシーはかなり高いほうだ。そういう人間なら、「この薬はこれこれこういうふうに効くそうだから、こういうことに気をつけねばならんのだな」くらいのことは自分でも調べられる。だが、ここらに住んでる爺さん婆さんにそれを期待するのは無理というものである。そして、病人というのは爺さん婆さんに多いのも事実なのだ。症状の根を叩くような作用機序を持つスイッチOTC(over the counter、つまり売薬ね)をどんどん発売するのもいいが、ちゃんとした医師・薬剤師の養成と並行してやってもらいたい。でないと、きっと濫用や誤用による事故が多発するよ。たしかに三分診療にならざるを得ない医療現場の事情はわからないでもない。飲み込みの悪い婆さんにいちいち説明してられんのかもしれん。だが、その程度のことができなくて、なあにが“インフォームド・コンセント”であるか。
 とはいえ、医学や薬学の進歩は待ってはくれない。新しい薬、新しい術式、新しい生きかた・死にかたが一般庶民を置き去りにしてどんどん現われることだろう。だからおれが思うに、これからは医学や薬学の知識のある人は、医師や薬剤師にならずに、一般人と専門家とのあいだの“通訳”としてコンサルタントみたいな仕事したほうが儲かるし喜ばれるんじゃなかろうか。
 なんだか今日は、唐沢俊一氏みたいなネタになっちゃったな(笑)。

【11月3日(月)】
▼はて、今日はいったいなぜ休みだったのかなとカレンダーを見ると、“文化の日”ということだった。祝日が多いのはありがたいが、影の薄い祝日だよね。おれなど、11月3日と聞くと、「手塚治虫ゴジラの誕生日だな」と先に出てくるくらいだ。だいたい、日常生活で使われる“文化”という言葉は、なにを意味しているのかきわめて曖昧である。襟を正して「さあ、文化的活動をするぞ〜」というふうに行なわれる活動は、すでにして“なにか特殊なもの”であって、庶民にとっては文化でなくなっているものが多い。とにかくよくわからない言葉である。
「SMAP×SMAP」(フジテレビ系)葉月里緒菜が出るというので、チャンネルを合わせる。バラエティー番組に出るとは珍しいこともあるものだ。ちなみに、おれはふつう“ヴァラエティー”と表記するが、テレビ番組の区分としては“バラエティー”を使う。“イヴェント”というのも、プロレスのアナウンスだけは「本日のメイン・エベント」と表記しないと嘘のような気がする(いつプロレスの話など書くのだ(笑))。妙なものだ。
 それはさておき、「ビストロSMAP」というSMAPの連中が作った料理をゲストが食うコーナーに葉月里緒菜が出演したのだが、「ものを食べる時間がもったいない」などとさらりと言う彼女の感覚には親近感を覚える。『ニュースステーション』の「最後の晩餐」(9月10日の日記参照)でもそんなことを言ってたな。コメントが首尾一貫していてよろしい。
 たまには“ハレ”の食いかたがあってもいいけれど、日々の食事などというものは「さあ、イオニア風ドーバーソールの中華煮(どんなのだ)を味わうぞ〜」などと襟を正して行うものではない。「食は文化である」とかなんとか堅苦しいことを言って食うものは、たいていの場合ふだん口にできるような品ではなく、文化でもなんでもないものが多いじゃないか。そんなのは、しょせん借りものだ。昨日のすき焼きの残りを丼の具にして食ったり、塩鮭をぐちゃぐちゃにほぐして米にふりかけ、温くなった飲みかけの茶を湯呑みから浴びせて食ったりすることこそ、正しく“文化”の名に値すると思うのだがどうか。借りものでなく“イオニア風ドーバーソールの中華煮”を文化として語って説得力があるのは、塩鮭に対するのと同じような意識でそういうものを食える人だけだろう。

【11月2日(日)】
▼散髪屋に行ったら、従業員がことごとく風邪を引いているらしく、目を閉じて顔を剃ってもらっていると、あちこちから「はひ、はひ、ひっく――」だの「ずるずる」だの「ぐふっ……ぐふぉっ」だの、不気味な音が聞こえてくる。咳やくしゃみを堪えているのだ。喉を掻き斬られやしないかと気が気でない。マフィアの幹部にでもなったような心境であった。
▼かつて「ショートショートランド」「SFアドベンチャー」の読者だった方は、爆笑SF作家として認識しておられるやもしれない。“サンバイマン”なんか、いまだにファンがいるでしょう? あの、放送作家で円錐角膜(なんの話か覚えてたら、あなたはすごい)の藤井青銅さんが公式ホームページ「青銅庵」を開設なさっていたので、ご許可を得て「リンクワールド」に加えた。著作紹介のコーナー以外はまだ工事中なのだけれど、青銅ファンはブックマークしましょう。企画ものだけでなく、ぶっ跳んだ短篇小説でもどんどんご活躍いただきたいものだ。社会派ユーモアSFでは、かんべむさし、清水義範、草上仁らに匹敵する方だとおれは思っている。
▼仕事の合間に『電脳羊倶楽部』(小林めぐみ、角川スニーカー文庫)を読む。その仕事とはなんなのかというと、本を読むことなのだから、なんだかよくわからない。
 それはさておき、あとがきによれば、「ファンタジーを読んで、インターネットの仕組を勉強しちゃいましょう」が基本コンセプトだというのだからすごいが、なるほど押さえるところは押さえてある。もちろん、ふつうの中高校生向きの小説なのだから、技術的な描写については過度な簡略化を避けるわけにはいかないはずだが、ファンタジーでここまで律義に書くかと思わせるほど健闘している。ネット上のプライバシーの問題や、なりすましなどのネット犯罪にまでプロットと乖離せずに踏み込んでいるのは上出来だ。さすがはネットワーカー作家と言える(向こうはおれのどの名も知らないだろうが、パソ通チャットで遭遇したことがある(笑))。
 こういうのを読むとすぐ「技術的におかしい」などと突っ込む人がよくいるけれども、そういう人に素人相手の説明をさせたら、たいていは意図的な簡略化の間合いが測れず戸惑うものである。素人が「3.0×10の3乗」のつもりで話をしているのに、具体的な「3000」そのものの話をしたり、「3.0000×10の3乗」の話をするような愚を犯すことが多い。こういう会話は、一見同じことを話しているようで、そのじつ噛み合っていないのだ。
 これは作家と読者のあいだにも常に生じている問題のはずで、極度に分衆化が進行してしまった現代に於けるマス対象の表現に必ずついてまわるものである。かつては、読んだ本がよくわからないと、「ああ、私の有効数字の桁数が足らないのだ」と殊勝にも読者が思ったものだし、また、自分の有効数字なりにものを読む訓練が読者に求められた。だが昨今では、「有効数字の桁を見積もることもできない書き手だ」と、書くほうが責められることになるようだ。有効桁数を多く取りながら、桁数の少ない読者も楽しませることはできないか――となると、これは9月7日の日記にある瀬名秀明さんの問題意識になるだろう。
 商用でないホームページなんかは、その点気楽である。なぜなら、自分の有効数字桁に合った人が固定読者として残ってゆくだけの話だから、あたかも自分の表現レベルが広く世の中に通用するがごとくに錯覚させられるからだ。つまり、ホームページは作り手と似た読み手を誘引しているだけの媒体であって、そこで通用する表現と商売ものの出版物で通用する表現とでは、最初からレベルがちがうのである。だから、ホームページを持っている人は、しょせん自分と似た者からやってくるにすぎない好意的反応を、“世間一般”の反応だとはゆめゆめ思ってはならないということになる。ホームページは自我増幅装置として働き得ることを、常に肝に命じておかなくてはならない。
 一方、ターゲット読者層が最初から決まっていて、弱肉強食商売の最前線にある若年層向け文庫などではそうはいかないはずだ。「この有効桁数で書け」と、出版社側から要請されるだろう。それができるのがプロというもので、小林めぐみはプロだ。
 それにしても、コンピュータ・アレルギーのおやじさんかなんかがさ、ミニスカにルーズソックスの女子高生と巨乳のねーちゃんが表紙のこの本を中学生の娘の部屋に発見して、中身を読んだら焦るだろうなあ。急にパソコン教室に通い出したりして。世の中進んどるよ、まったく。

【11月1日(土)】
▼さてさて、お待ちかね(?)の第二回「○○と××くらいちがう」大賞の発表である。今回も多数のご応募をいただき、まことにありがとうございました。多数ではありますが、書ききれないほど多数ではないので(笑)、前回同様、全応募作を公開してしまおう。選考対象作は、応募要領に従って正式にメールで寄せられたもののみに限定しております。

<天川さんの作品>
「アン・ライスと半ライスくらいちがう」
「アン・ライスと安楽椅子くらいちがう」
「アン・ライスと三杯酢くらいちがう」(冬樹評:よほどアン・ライスにこだわりがあるらしい)
「ドラえもんと土左衛門くらいちがう」
「松村邦洋と村松邦男(元シュガーベーブ)くらいちがう」
「スガシカオと志賀隆生くらいちがう」
「心筋梗塞と高卒新人くらいちがう」
「ジミヘンとシミケン(失恋レストラン)くらいちがう」
喜多哲士さんの作品>
「マイク・タイソンとモンティ・パイソンくらいちがう」
「小林信彦と大林宣彦くらいちがう」
「ビリケンとビール券くらいちがう」
「バンジージャンプとゼンジー北京くらいちがう」
菊池誠と菊池麻衣子くらいちがう」
<喜多真理さんの作品>
「マリア・カラスとミル・マスカラスくらいちがう」
「アルツハイマーとカラータイマーくらいちがう」
「李香蘭と李麗仙くらいちがう」
<日笠薫さんの作品>
「スティーヴン・バクスターと捨てられたハムスターくらいちがう」
「『グラス・ハンマー』とクラムチャウダーくらいちがう」
「浦沢直樹と唐沢なをきくらいちがう」
「『無常の月』と『荒城の月』くらいちがう」
「酒井美紀と堺三保くらいちがう」
野尻抱介さんの作品>
「荒井注とピカチューくらいちがう」
「ATPとPTAくらいちがう」
<番外>
「『テッカマン』の複数形は『鉄仮面(てっかめん)』ではない」(日笠薫さん)

 さて、独断と偏見とはいえ、一応は選考基準らしきものを述べておくと、音の面白さ、字面の面白さ、実物の対比・対照の妙、シュールなギャグ性といったあたりをおれは重視する。もともと、この遊びは日常会話の中に潤いをもたらすためのレトリックとしてはじめたものだから、ふつうの会話で広く使えるかどうかという点も重要だ。もっとも、これは会話の相手にもよるわけだが……。
 ひとつひとつ講評をつけるには量が多いから、各賞をいきなり発表しよう。

【実物がちがいすぎるぞ賞】
「酒井美紀と堺三保くらいちがう」(日笠薫さん)
《講評》音はあまり面白くないのだが、一瞬頭に浮かぶ実物の映像が破壊的なインパクトを持っている。喜多哲士さんの「菊池誠と菊池麻衣子くらいちがう」は音もきれいで受賞作品に迫ったものの、人物のインパクトで敗れた。

【審査員特別賞】
「『テッカマン』の複数形は『鉄仮面(てっかめん)』ではない」(日笠薫さん)
《講評》正しいフォーマットではないが、新たな遊びへの可能性を秘めている点をとくに評価したい。

【佳作】
「マリア・カラスとミル・マスカラスくらいちがう」(喜多真理さん)
《講評》カタカナの眩惑作用をうまく捉えた逸品である。バカな遊びに興じている夫を冷たく切り捨てることなく、一緒になって作ってしまうノリと夫婦愛を高く評価したい。

【入選一席】
「浦沢直樹と唐沢なをきくらいちがう」(日笠薫さん)
《講評》大賞作と最後まで争った作品である。音は完璧であり、しかも同じ職業だ。作風の対照の妙もある。

【大賞】
「小林信彦と大林宣彦くらいちがう」(喜多哲士さん)
《講評》喜多さんの大賞防衛とあいなった。音の類似、一文字おきに同じ字がくる視覚的効果、「小」と「大」という高度な抽象概念の対照の妙、クールでブラックな小説家と情感溢れる映画監督という職業・作風の対比、人物の知名度、どれを取っても完璧な作品である。どこかで誰かが作っていそうで、誰もが一度はちらりと考えたことがあるにちがいないのだが、傑作とはそういうものである。

 ――と、今回は以上のような結果となった。しかし、われわれは安心してしまってよいのだろうか。これが最後の「○○と××くらいちがう」大賞だとは思えない。第三、第四の「○○と××くらいちがう」大賞が、ある日あなたの平和な日常を襲わないとはかぎらないのだ……。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す