間歇日記

世界Aの始末書


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97年11月下旬

【11月30日(日)】
▼三十五歳になった。もうすぐ四十郎だが、まだ鞘に入った名刀にはほど遠い。カッターナイフくらいにはなりたいもんである。穴あき包丁でもいい。ペティナイフも付いてくるしな。
 あれって、かまぼこの板まで切って見せているけれども、角のところを木目に沿って切れば、ふつうの包丁でも板くらい切れそうな気がするのだが……。砥ぎ直すのが面倒だから、やってみる人がいないだけだ。
 先日某所でウケたネタ――穴あき包丁を人質に突きつける銀行強盗。これは怖いぞ。強盗が暴れ出したら、ふつうの包丁より被害が大きそうだ。強盗は穴あき包丁を振りまわし、警官の乱射する銃弾をことごとく弾き返す。気合一閃、鋼鉄の大金庫も真っぷたつ――って、斬鉄剣だよ、そりゃ。いまなら果物用斬鉄剣と抗菌俎板も付いてくる。
▼誕生日だというので、カエル友だち(どういう友だちだ?)たちがプレゼントを送ってきてくれた。カエルの卓上ライターと、なんとカエル柄のパジャマである。OCHIKA/LUNAさん、宇海遙さん、ありがとう。
「新製品発売のお知らせ」というメールが来る。「またダイレクトメールか」と一瞬思ったのだが、差出人を見ると電脳系ライターをやっている友人の水野寛之さんだ。なんと、亀田製菓「しゃけっぷり」という新製品を出したというニュースであった。スモークサーモン味で、ちゃんと香ばしいサーモンの味がするのだそうだ。おおお、こいつは食ってみなくてはなるまい。
 しかし、友人からは完全にスナック菓子研究家として認識されはじめとるなあ、おれ(笑)。好んで食っては能書きを垂れているだけで、べつに研究しているわけではないのだ。SFだってそうなんだけども。

【11月29日(土)】
同志社大学の学園祭で、水着姿の女子学生を使ってプリンや菓子の“女体盛り”を出した模擬喫茶店が顰蹙を買い、実行委と大学当局を激怒させて、結局閉店したという。わははははは。いくらなんでも、キリスト教系の学校で無茶をやるものだ。閉店は当然でしょうね。
 ちゃんと“男体盛り”のメニューもあったそうだから、その点は高く評価したい。女性客や同性愛者客も想定しているわけで、さすがは現代っ子である。ちょっと頭の固い人であれば、“性の商品化”すなわち“男性消費者を対象とした女性の商品化”だとしか考えられないはずだ。この学生たちの世代ともなれば、「女体盛りを出すなら、男体盛りも出さなきゃ」という発想は、ごくごく自然に出てくるのだろう。顧客サービスに関しては、この模擬店の学生たちのほうが柔軟な思考をしていると好意的に評価してやることもできる。問題は、情況判断を誤ったことだね。そこは、あからさまな性の商品化は悪だという建前で運営されている場所である。その場所を用いて利益を得るなら、郷に従う必要がある。
 とはいえ、性の商品化それ自体は、一歩学校を出れば、多かれ少なかれ誰だってやっている。「私はやってない」なんてやつは、かなりおめでたい精神構造の持ち主だ。物理的・生理的に性別と関係ない仕事なのに、男性比率のほうが高い職場に男性であるあなたがいるなら、あなたはそれだけで自分の性を商品化している。男であることで経済的利益を得ているからだ。また、同じ職場に女性であるあなたがいて、男性とちがう仕事をしている(させられている)なら、好むと好まざるとにかかわらず、あなたも性を商品化している。理由は言わなくてもわかるはずだ。すなわち、資本主義社会に於いて、物理的・生理的要請によらない性別役割分業は、売春や援助交際とまったく同じ次元の“性の商品化”にほかならない。線が引けるもんなら、引いてみればいい。よって、援助交際に走る女子高生に説教を垂れるのならば、必然的に性別役割分業を破壊する思想を持っていなければ筋が通らない。彼女らは、言語化できずとも、おそらくそのことを見破っており、首尾一貫しない“二重思考”をしている大人たちに身体で挑戦しているのだ。
 たしかに、家父長制と結びついた性別役割分業が、図らずも資本主義の発達に大いに寄与したことは歴史的事実だが、それらは同じものではもちろんないし、不可分のものでもない。お父ちゃんは市場で働き貨幣を得る。お母ちゃんは市場の外部で働き、お父ちゃんが市場で抱えてきたエントロピーの捨て場になり(お父ちゃんをメンテナンスし)、さらに次代の労働力の供給源となる――こういう構造が、おれたちの頭に当然のこととして刷り込まれてしまっているから、性別役割分業がないと資本主義が立ちゆかないように見えてしまっているだけだ。だけど、よく考えたら、お父ちゃんとお母ちゃんの役割を固定する必要はないのだ。市場は必ずその外部を必要とする(というか、外部があるからこそ市場なのだが)から、市場が存続するかぎり市場外労働も存続する。それぞれの労働を誰かが受け持たなくてはならない。しかし、それは性別によって分担される必要はまったくないではないか。つまり、おれは家父長制と資本主義は完全に分離できるし、してゆかねばならないと考えている。
 もっとも、資本主義そのものがすでに地球が有限であることに気づいた段階に来ているから、ここで人類が滅びないとすれば、次なる社会体制にゆっくりとバトンを渡してゆくことになるだろう。資本主義と強固に結びついた家父長制も、そのプロセスに影響を受けずにはいないはずだ。滅んでしまうかもしれないし、あるいは、より厄介なものに姿を変えて生き残るかもしれない。いずれにせよ、不安定にはなる。そこが狙い目だ。そう、おれはと言えば、この機に家父長制の息の根を止めたいと思っているのである。
 おっと、退屈な話をしてしまったかもしれない。女体盛りがなんでこんな話になるんだよと怒っている人もいるかもしれないが、おれの気の向くまま、どこへでも転がってゆくのがこの日記だ。ここでいきなり広末涼子の話をしたっていいのである。文句あるか。
 それはともかく、学園祭の模擬店で女体盛りをやるなどとは、じつに嘆かわしい。女体盛りはいいのだが、そんなもの、テレビの深夜番組のノリでしかないではないか。要するに、テレビでやっている程度のことを真似しているだけだ。学生にしてはオリジナリティーがなさすぎる。「トップレス喫茶」と称して屋根のない喫茶店にし、ウィンナーソーセージの入った「ウィンナーコーヒー」や、ぷかぷか海草の浮いた「わかめ酒」を出し(アルコールはいかんのかな)、帰りに木戸銭を取って“大いたち”の見物をさせるくらいのことがどうしてできん――って、オリジナリティーのないのはおれか。

【11月28日(金)】
▼帰りの電車で座って本を読んでいると、若い女性がおれの右隣に座った。その女性のさらに右隣は、かなり疲れた五十がらみのおやじだ。やがて、女性は舟を漕ぎはじめた。上体がゆらゆら揺れる。さて、ここで問題です。彼女は右に凭れるでしょうか、左に凭れるでしょうか?
 サラリーマンの方はこの法則に気づいておられるやもしれないが、じつに不思議なことに、女性はどちらかというと彼女にとって“まし”であろう男のほうに凭れる。はたして、今日もおれのほうに凭れてきた。眠っているくせに、どう考えても凭れる方向を制御しているとしか思えない。
 だものだから、たまたま女性が隣に座ったら、おれは女性を挟んで向こうがわに座っている人物を確認する。そいつが二十四、五のジャニーズ系の好青年だったりすると、「あ、負けた」と思い、いかにもよれよれのむさいおやじだった場合は、「お、ラッキー」などと、内心、一喜一憂する。人間、これくらいの楽しみがないとやっとられんよ。
 それにしても不思議だ。最初のころは電車の進行方向に関係があるのであろうかと思っていたのだが、女性がおれの左に座ろうが右に座ろうが、やっぱり凭れてくるときはくるのである。すごい能力だ。
 これが男となると、そんなデリケートな能力は持ち合わせていないらしい。隣が若い女性だろうが怖そうなおやじであろうが、意に介するふうもなく(寝てるんだから、あたりまえだ)寄りかかってゆく(と思う)。ひどい人になると、舟を漕いでいるうちにつんのめるように前に倒れたかと思うと、列車の床に頭を打ちつけて目を覚ましたりしている。おれ自身も、居眠りして隣のおっさんに凭れかかっては、肘鉄を食らわされることがよくある。どうせなら、美人OLにでも寄りかかればいいのに。
 その代わりと言ってはなんだが、男のほうが優れている技術がある。吊り革にぶら下がったまま眠る技だ。座って本を読んでいると、なにやら頭の上に気配を感じる。気になって顔を上げるや、いきなり目の前にどこかのおっさんの髭面が現われて、のけぞることも少なくない。見れば、片手を吊り革に引っかけたまま、まるで湖底の水死体のように、ゆうらゆうらと揺れているではないか。人間の秘められた能力に畏怖すら感じる瞬間である。本田技研の二足歩行ロボットに、こういうことはできるのだろうか。

【11月27日(木)】
▼山一証券の行平前会長の証言(ちゅうか、参考人質疑だから“回答”か)を聴いて、日本的経営者のメンタリティーの一部を垣間見たような気がして複雑な気持ち。「不良債権を出すと会社が存続しない」「存続さえしておれば収益もいずれ上がり不良債権は償却できる」「よって、不良債権を表沙汰にするべきではない」――という三段論法(?)であるらしい。会社を経営しておれば、多かれ少なかれ誰もがこういう考えは持つだろうし、個人の人生に於いても、似たような心境になることはたしかにある。そう、これは個人ベースの発想を一歩も出ていないのだ。「生きてさえおれば、いつかいいこともあろう」みたいな感じである。こういうのを、ほんとうの意味での“企業の私物化”というのだろう。
 たとえば、目の前に自殺しようとしている人がいた場合、「死んで花実が咲くものか」などと言って、誰もがとりあえず止めようとするだろう。だが、会社となると話がちがう。べつに、会社なるものは潰れたっていいのである。いや、適切に潰れなければ資本主義社会が成り立たないではないか。時代に応じた新しい会社が興って伸びる余地がなくなるではないか。消費者がよりよいサービスを受けられなくなるではないか。会社というのは潰れるものだという、ごくあたりまえの認識が、行平前会長には欠けている。行平前会長らが山一証券の社員たちから奪った最大のものは、選択の自由だ。これは民主主義社会に於ける最大の犯罪である。殺人ですら、被害者の未来を、すなわち選択の自由を剥奪する行為であると定義できるのだ。不良債権を出したぞという事実が開示されておれば、山一の社員たちには、「ここでもうひとふんばりして、会社を立て直す」「さっさと辞めて、よそへ移る」「自営業をはじめる」という三つの道があったはずだ。自己の責任で会社に残る道を選んだ者は、結果的にダメで会社が潰れても文句は言わないだろう。その選択の自由を奪っておいて、いまさら「雇用について協力いただければありがたい」などと言っても、山一の社員の耳には白々しく響くばかりだろう。泣けばいいってものでもないが、野沢社長の潔さとはじつに対照的であった。

【11月26日(水)】
“おはぎ”の英訳が“餡ライス”であることは、すでにこの日記の読者にとって常識の範疇に属することとなっているが、そういえば“鉄兜”のドイツ語訳という作品も温めていたのを忘れていた。“アイゼンかつら”というのだ。Alles klar?
▼そろそろ、「冬樹蛉の血液型が当てられるもんなら当ててみろ」ゲームの締切が近い。当初の目標であった二十票は集まったので、遊びとしては一応成立しそうだ。くだらないゲームにおつきあいいただいた方々、ありがとうございます。いやあ、じつに興味深い途中経過でありますよ。まだまだ間に合いますので、ひとつ遊んでやろうという方は、ぜひご参加ください。
「NIFTY SERVE MAGAZINE」の1月号でウェブ上の日記ブームを取り上げていて、心理学者の富田隆氏がウェブ日記氾濫現象を分析しているのだが、露出趣味とか健全なナルシズムの発露とかいう指摘は、まあ常識的なご意見で、まったくもってそのとおりだと思う。だが、続く文章には首を傾げた――「単調な日常ではあっても、その日の出来事を文字に残すことで、人は自分の1日が空白ではなかったことを証明したいのです。それは確かに、心の安定にもつながります」
 そうかなあ? ちょっと口当たりのよすぎる解釈ではあるまいか。むしろ日記などというものをつけようとすると、人は自分の一日がいかに空白であったかに直面して愕然とすると思うのだが……。とにかく世の中でなにが怖いといって、なにも書いていない原稿用紙と「新規作成」で開いたばかりの秀丸エディタほど怖いものはない。そんな怖ろしいものを前にして、なにか文字で埋めてゆきたくなる妖しい衝動は、「自分の1日が空白でなかったことを証明したい」などという単純な指向性を持ったものではないだろう。もっとそら怖ろしいものだ。
 まあ、このあたりの口当たりのよさがテレビ受けするんだろうな、この先生は。それが悪いというつもりは毛頭ない。確信犯で営業をしておられるのかもしれないしね。

【11月25日(火)】
▼SFマガジン・499号を手にする。うおお、すげえなあ。最後のノンブルが616。ずっしりと重い。毎年2月号は“立つSFマガジン”と呼んでいるが、これはそんなものではない。“人が殺せるSFマガジン”と呼びたい。
 さしあたり、オールタイムベストを眺める。変わり映えしないけど、「オールタイムベスト〜っ!」と肩に力入れて選ぶと、やっぱりどうしてもこんなふうになっちゃうんじゃないかなあ。
 ふと思いついたのだが、仮に、日本の小説読者(年に一冊以上小説を読む人と定義しよう)ありったけを対象に、ノンジャンルのなんでもありで“海外小説オールタイムベスト”ってのをやってみたとしたら、どんなことになるだろう。想像もつかないよね。モーム“世界の十大小説”のうち、ベスト10に入るのは『嵐が丘』くらいのものだろう……いや、かなり危ないかな。あれ、待てよ、『世界の十大小説』になにが入っていたか全部思い出せないぞ(笑)。調べようとしたら、『世界の十大小説』(たしか岩波新書で上下巻だったような)が見つからない。『白鯨』やら『ゴリオ爺さん』やら『デヴィッド・コパーフィルド』は入っていたような気はするが……まあ、いいや、日本の“海外小説オールタイムベスト”に入りそうなものがあったとは思えない。
 そうだなあ、日本人は暗い話のほうが名作だと感じる傾向があるだろうから、『罪と罰』とかはけっこういい線行くはずだ。あと、ぶ厚い『城』は絶対入らないが、誰もが感想文でっちあげのために一時間で読んだ『変身』が7位くらいに入るだろう。『老人と海』なんかも4位くらいに食い込みそうだ。そうか、映画化されたやつは強いから、『華麗なるギャッツビー』はロバート・レッドフォード人気で9位くらいには来るかも。となると、10位は『オリエント急行殺人事件』だな。『ライ麦畑でつかまえて』が3位と……。なんかアメリカが多すぎるような気がするが、『赤と黒』とかが入るとはとても思えないよね。1位が難しいなあ……2位の『風と共に去りぬ』を大きく離して、『マディソン郡の橋』とか。おれは読んでないけど。

【11月24日(月)】
▼小中学校のころ大人に教わったがどうも納得の行かなかったことは、やっぱり納得が行かなくて正しかったのだと確認することが多い今日このごろである。
 誰かが資本を投下して企業を起こす。企業は活動して利益を上げ、その一部をさらに資本として活動しさらに利益を上げさらに大きくなってゆく――というのを拡大再生産(かくだいさいせいさん)というのだと習った。「じゃ、それはどこで止まるのか」と、子供は素朴に思うものである。この歳になっても、未だ明確な答は得られていない。そろそろ四年生になる姪がたまに遊びに来るのだが、同じことを訊かれたらどうしようかと思う。

「あー、つまり、おじさんらの子供のころは“拡大再生産”と習うたもんやが、最近ではどう教わるのかいなあ。“自転車操業”ちゅうのとちがうか?」
「ふーん、じてんしゃそうぎょう?」
「まあ、走っとるうちは倒れへんわけやな」
「ふーん」
「そうや。ほんで、地球規模の自転車操業のことを“せかいけいざい”と言うんや」
「そやけど、人がようけ増えてきたら、走るとこなくならへんか?」
「なくなるなあ」
「いつごろなくなるん?」
「そろそろらしいなあ」
「おっちゃんの生きてるうち?」
「生きとるかもしれんし、死んどるかもしれん。たぶん死んどるやろ」
「あたしはまだ生きてるやんか」
「そやろなあ」
「困るやんか」
「おっちゃんは困らへん」
「そんなん、ずるいやんか」
「そやから、君らが困らんように、しっかり勉強してなんかすごい方法考えてーな」

 なんという教育的なおじさんだろう。

 もうひとつ子供のころに不思議だったのは、“世の中には潰れない会社がある”ということである。これは子供が考えたっておかしい。競争をして、勝っている会社は大きくなり、そうでもないところは潰れてゆくのが“しほんしゅぎけいざい”の仕組みだったはずではないか。しかし、そういう“潰れない会社”に勤めれば一生安心だなどと、親は子供のおれにことあるごとに吹き込もうとした。なんとも夢のない親であることよと子供心に呆れ果てていたものだが、むかしの大人はたいていこんなふうだったのもたしかだ。おれの“公”嫌いは、おそらくその反動で形成されたものだろう。とにかく、国が護ってくれるから“潰れない会社”の社員やら公務員やらにだけは、絶対になるまいと思ったものである。
 ようやくこの歳になって、日本が正常な方向に動いてゆきつつあるのを目にすることができた。まことに喜ばしい。日本が正常な方向に動いてゆきつつあるがために、おれ自身が職を失ったり食いっぱぐれたりすることも十二分に考えられるのだが、永遠の午睡に時間が停止したようなヘンテコな世の中で不満を抱えて生きているより、よほどいいじゃないか。そう、思いませんか?

【11月23日(日)】
▼昼過ぎにSFオンラインの原稿を急いで電子メール入稿し、ばったりと寝る。ぐーぐー。
 さて、次は英語のSFを爆読せねばならん。最初退屈だったけど、徐々に面白くなってきた本だから精神的には苦にならないけど、体力的にはちときつい。翻訳家やレヴュアーは、こんなふうに海外の新刊を読んではレジュメと評(面白いからぜひ日本でも出せ、なんとも言えない、箸にも棒にもかからない、この作家を一発殴らせろ、など)を出版社に渡し(出版社の依頼や自主持ち込み)、なにがしかの報酬をいただいては、それでさらに本を買うか酒を飲むという仕組みなのだ。「これいいですね」という話になれば、翻訳家の場合は自分で訳す羽目(笑)になることもある。おれの乏しい経験からも、あっちで売れて褒められているからといって、必ずしも日本人が日本語で読んで面白いとはかぎらない作品はけっこうあるので、こういうリーディングの仕事は、孤高の文学者よりは市井の本好きがやるのに向いているのかもしれない。
京都SFフェスティバルから一週間、いろんな方々がウェブ上にレポートや感想を載せていらっしゃる。見つけられるかぎりは読んだのだが、本会パネル「SFのジャンル意識について」でのおれの発言が、どうもうまく受け取ってもらえていないようなので、ここで補足することにする。さまざまな解釈が出るということは、取りも直さずおれの喋りかたが悪かったわけだが、ひとりで演説するならともかく、対談や鼎談という相手のある場所では、言いたいことの半分も伝わらないのがふつうなのだろう。
 さて、ぜひ誤解を解いておきたい点がひとつだけある。おれがSFの“ジェノタイプ(genotype 遺伝子型)”と“フェノタイプ(phenotype 表現型)”について触れた発言だ。多くの方が「SFファンの遺伝子を持った人がSFファンになり、そうでない人はSFに興味を持たない」というふうに誤解なさったようだが、おれは人間を指して言ったのではなく、個々の作品について述べたつもりだったのである。人間についての話なら、「人はSFファンになるのではなく、SFファンに生まれるのだ」という主旨の説を大森望さんが以前から唱えておられる。おれが言いたかったのは、任意のある小説を見た場合、一般に“SF的”だと思われている表現型(科学的ディテールなどなど)を備えていないものの中にも、じっくり読まないとわからないがSFをSFたらしめる遺伝子型を持っているものがある――ということなのだ。だから「イルカとサメとイクチオサウルスは似ているから仲間」といった具合のジャンル分類には興味がなく、モグラやムササビのほうがサメよりはよほどイルカに近いのだと発見するのが楽しいということを述べたかったわけである。厳密に言えば、このフェノタイプという言葉の用法はあまり適切ではないが、まあレトリックとしては容認してもらえるだろうと思う。言い替えれば、作品間の相似器官に惑わされず、相同器官を発見するような読みかたをしたいということだ。そういう意味で、森太郎さんの京フェス97レポートが、最もよく意を汲んでくださっていたように思う。繰り返すが、多くの方が誤解なさったのは、SFファンの会合だからと気を許してカタカナ語のテクニカルタームを早口でまくしたてたうえ、大森さんの“SFファンは血”説と混同される危険を見逃していたおれが悪いのである。
 さらに誤解を助長したのは、そこからまた作家の話をしてしまったことだ。「作品を読んだところ、(SF作家ではないが)あきらかにSFのジェノタイプを持つ人がいて、そういう人はちょっとつつけばフェノタイプを発現する(いかにもSFだと外見からわかるものを書く)可能性がある」という主旨のことを述べ、例として笙野頼子などを挙げたつもりなのだが、「SFファンの血がある人は、刺激すればSFファンになる」というふうに解釈してしまった方もいらっしゃったようである。いや、まったくぶっつけの対談というのはむずかしい。やっぱりおれは、きちんと言いたいことを言うには時間制限のない文章がいちばん向いているので、いろものとしてお声がかかる以外は、パネラーなどやるべきではないな。
 ここまで書いたついでだから、「じゃあ、どういう人がSFのジェノタイプを持つとおれは考えているのか」にも触れておこう。
 まず、この日記を続けて読んでくださっている方なら、瀬名秀明さんとのやりとり(97年9月7日の日記)を憶えておられるだろう。その中でおれは「『パラサイト・イヴ』一作では、瀬名秀明という作家が“隠れSF作家”なのか、SF的道具立てを形だけ取り入れている別種の作家なのか判定しにくいところがあったが、「Gene」やその他の文章・インタヴューなどを読むにつけ、『パラサイト・イヴ』で受ける印象よりもずっとSFに近いところにいる作家ではないかと思いはじめている」と述べている。つまり、京フェスで言ったのと同じことを言っているわけで、“隠れSF作家”とはSFのジェノタイプを持つ作家のことで、“SF的道具立てを形だけ取り入れている別種の作家”とはフェノタイプはSFである作家という意味である。瀬名秀明はおそらくジェノタイプを持っている。瀬名さんなどはまだわかりやすいほうなので、わかりにくい作家を挙げると(先日の日記に挙げた作家も含むが)、日野啓三池澤夏樹村上龍大岡玲小林恭二いとうせいこう、笙野頼子、三枝和子増田みず子辺見庸薄井ゆうじ別唐晶司(わかりやすいか(笑))、森奈津子などにおれは目をつけている。物故作家では、なんと言っても坂口安吾だ。安吾はSFという方法論に交わらなかっただけで、もっと遅く生まれていれば絶対SFを書いた作家にちがいないと思っている。実際に彼が遺した作品にしてからが、最良のもののいくつかはSFと呼べるだろう。等身大のスケールと宇宙的スケールを同一フレームに捉える歴史認識や柔軟な合理的想像力、事物の本質を透視し戯画化するユーモア感覚などなど、なにを取っても最良のSF作家に必要なものがエッセイや雑文にいたるまで横溢しているではないか。
 おっと、話がミーハーしてきたので本筋に戻る。では、SFのジェノタイプをおれがどうやって判定しているかという肝心の部分なのだが、これが一筋縄では言語化できない。箇条書きにしてみても、どうもなにかを掬い損ねているような気がするのである。よって、卑怯だが、いまのところ“長年の勘だ”としか言いようがない。これを納得のゆく形で万人に通じる論にするには、おれでは力不足だ。フルタイムで研究しても一生仕事で追っつかないだろう。それにおれは、フランソワーズ・サガンおよび中島梓に倣えば、どちらかというと“斧”を調べているよりも木を切っているほうが楽しい。
 もっとも、各論の形で考えを述べてゆくことはおれにもできる。たとえば、おれがどんなときに「SFのジェノタイプを発見して嬉しくなる」のかなのだが、その一例をむかし文章にしていたのを思い出したので、この機に「天の光はすべて本」に入れておくことにした。商業誌に書くようになる前にNIFTY-Serveの会議室にアップしたもので、97年1月24日の日記でもちょっと触れた日野啓三の『聖岩 Holy Rock』評である。SFの会議室ではなんの反応もなかったのだけれど(そもそも言ってることが理解されたのかどうか)、後日SF作家志望の友人が「檄を飛ばされたように感じた」と言ってくれた。おれの言葉をわかってくれる人がいたのは嬉しいものの、SFファンに通じたところでじつはあまり意味がない。SFがわからないという人におれが感動していることの片鱗をでも理解してもらえればいいのだが、それにはまだまだ修行が足りないようだ。

【11月22日(土)】
SFオンラインの原稿書き。東京創元社のリーディングもある。あっ、SFマガジン恒例の「マイ・ベスト5」も選出せねば。集中して小説ばっかり読んでると、なんだか現実の現実感が希薄になってきて、この現実もたくさんある小説のひとつのように感じられてくるからけっこう危ない。もっとも、事実そうなのかもしれないのだが……。
▼グリコの『焼きチョコ?』というわけのわからない菓子を食ってみる。「ふんわり泡立てたチョコメレンゲをオーブンで焼いて、チョコパウダーの中でころが」したものなのだそうだ。不思議な菓子である。焼きチョコなら焼きチョコと胸を張って断言すればいいものを、『焼きチョコ?』などと商品名に疑問符が入っているあたりに、「どうもチョコとは呼びにくい怪しげな菓子を作ってしまった」というグリコの戸惑いが感じられる。それはともかく、これがうまい。口の中に入れると、しゅわしゅわと溶けてしまい、チョコの味だけはするくせになにも食った気がしない。一箱分の内容量が32gしかないのだ。やたら軽い菓子である。こんなのなら五箱くらい一度に食えそうだが、そういう外道なことをしては身体に悪いので、よい子のみんなは真似しちゃだめだよ、とくに水玉さん。またしばらくはこいつにハマりそうである。

【11月21日(金)】
▼会社の帰りに曾根崎の旭屋と梅田の紀伊國屋をはしごする――って、前にもこういう書き出しの日があったような気がするが、日記なんだからいいじゃないか。それにしても、『耽美なわしら2 エビスに死す』(森奈津子、ASUKAノベルス)『末枯れの花守り』(菅浩江、スニーカーブックス)『プリンセス・プラスティック 〜母なる無へ〜』(米田淳一、講談社ノベルス)をまとめてレジに持ってゆくソフトアタッシェ提げた背広にネクタイの三十男って、いったい何者だろう。まあ、旭屋ともなれば、こんな客は山ほどいるだろうから(いるのかな)、店員に怪しまれることもあるまい。
 紀伊國屋で十数年来愛用している『御教訓カレンダー』(PARCO)を買い、さらに恥ずかしげもなく葉月里緒菜カレンダーを買ってしまう。御教訓カレンダーもここ数年パワーダウンしているような気がするな。だったら、おまえ応募しろと言われても困るけど。おや、山咲千里が審査員に加わっている。あの人はけっこうキレてそうだから、いい人選かも。ざっと今年の作品を通読したが、やたら下ネタが多い(好きだけど)。どの賞も逃しているが、小川喜洋さんという方の「思考と空想をする所 ――トイレ」という作品がよかった。やはり歳食ったせいか、インパクトだけで勝負しているものよりも、こういう枯れた味わいの藝に点が高くなってくる。船見幸夫さんの「芝居ながらも楽しい我が家」ってのもいい。
 SFのハードカバー売場に立ち寄る。ふつう、大きな本屋の棚には、ジャンル名を書いたプラスティックの札などが掲げてありますわな。「ミステリ」とか「ビジネス」とか「話題の新刊」とか。SFのハードカバーが梅田の紀伊國屋でどういう扱いを受けているかというと、そもそも「SF」という札がない。いや、あるにはあるのだが、「SF・耽美・TV原作」とマジックで書いた皺くちゃの厚紙なのである。なぜこの三つが同じ棚なのか理解に苦しまないわけではない。が、そのコーナーに『SFバカ本 たいやき編』(大原まり子岬兄悟編、ジャストシステム)が並べてあると、妙に説得力があっておかしいのも事実である。大原まり子さんのお話では、主要書店ではたい焼きのフィギュアを立てているそうなのだが、紀伊國屋にはなかった。残念だな。立てる場所がなくて死蔵してるんなら、それ欲しいぞ。いっそ、書店内にたい焼きの屋台を設置し、バカ本を買ってくれた人には、ほかほかのたい焼きをプレゼント――なんてのはどうだろうなあ。コンピュータの展示会じゃ、よく「一太郎ベビーラーメン」や「一太郎キャンディー」を配ってたじゃないすか。食いものをノベルティーに使うのは、ジャストシステムの得意技のはずなのだが(笑)。


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