間歇日記

世界Aの始末書


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98年1月中旬

【1月20日(火)】
▼19日の日記を書き終え、ちょっと本を読んでから寝ようとすると、ベッドサイドのテーブル(というとかっこいいが、テーブル状になっている本の山の上に、時計やら眼鏡やらの小物を置いて寝るだけだ)で携帯電話がだしぬけに光りだす。着信しているのだ。こんな夜中になんだろう。ひょっとして、どこかにおれの熱烈な女性ファンがおって、なんらかの方法で電話番号を知り、独り寝の寂しさを紛らわすためにテレフォン夜伽でもしてくれるのだろうかとよからぬ期待に胸を膨らませながら電話に出る。どこかのおっさんが大声で叫んでいる――「もしもひぃ、あー、誰でっかあ!?」って、それはこっちが訊きたいよ。おっさん、あきらかに酔っている。なにしろ、こっちは携帯電話だ。腹が立つので引き延ばして金を使わせてやろうかとも思ったが、まちがいであることを告げて叩き切る。携帯電話を叩き切るというのは妙だが、そういう気持ちを込めて、殴るように切る。どうせなら、もう少し笑えるネタを提供してくれるようなまちがい電話がかかってきてほしいものだ。
 笑えるというものでもないけれど、電話では一度面白い体験をしたことがある。ほら、むかしグリコ森永事件の犯人の声が電話サービスで公開されたことがあったでしょう。警察が指定した番号にかけると、録音された犯人の声が聞けるのだ。野次馬精神にはこと欠かないものだから、おれはすぐにかけてみた。すると、なにやらようすがおかしい。犯人の声のテープにはまったく繋がらず、代わりに何人もの声がパーティーのように交錯して聞こえてくるのだ。番号をマスコミで発表したものだから、大勢の人が同じ番号に同時にかけた結果、大規模な混線が起こっているらしい。そいつが、じっと聴いているとやたら面白いのである。ひたすら大声で猥語を叫んでいるやつがいるかと思えば、歌を唄っているやつもいる。双方向通信になってしまっていることを発見したらしく、共通の話題を巡って数人が話していたりもする。こんな奇妙なコミュニケーション体験は初めてだった。おれは黙って聴いていたが、やがて「こちらB382号、応答せよ」とか、「○○中学のまーちゃんでーす!」などと、混線状態で己の発言を認識させるための符号を使いはじめるやつらが現れた。いま思えば、こいつら、自然発生的に“ハンドル”を編み出したのだ。まだダイアルQ2のパーティーラインなんてものはなかったころである。もしかしたら、あのサービスは不慮の混線をヒントに発案されたものではないかと、いまだに疑っている。
 その数年後、パソコン通信のチャットを生まれて初めて体験したとき、おれは即座にこの混線事件を思い出し、チャットなるものの本質を瞬時に身体で理解した。それぞれ物理的にまったく別々の場所にいる見知らぬ人間同士が、共通の画面を見ながら奇妙な認識符号を名告って、和気藹々とリアルタイムでコミュニケーションを楽しんでいる。それまでのおれの人生で、そのようなメディアは、あの偶然の混線電話以外に存在しなかった。オーバーと思われるかもしれないが、世界が変わるくらい感動し、おれはチャットにハマりまくったものである(いまだって、やってるが)。幸いタイピングにまったく不自由のないおれは、たちまち常連たちと打ち解けてしまった。チャットにハマった最初の月のNIFTY-Serveの課金は、電話代別で5万6千円だったのだから、われながら呆れる。それでも、そんな月謝は惜しくなかった(さすがに2〜3万に落ち着いていったけれど)。新しいメディアが、新しい人間関係や新しい社会構造を創出してゆくだろうことを、身体で納得しながら電子ネットワークに関わってゆけたことは、とてもラッキーだったと思っている。
 まちがい電話の相手とも、暇があれば世間話でもしてみると面白いかもしれないな、などとちょっと思った。相手が気味悪がるだろうけど。

【1月19日(月)】
▼昨日、風呂で読める本があればいいのにと書いたところ、田中啓文さんからメールを頂戴し、そういうものはすでに売られているとのご指摘をいただいた。うーむ、やっぱりおれが考えつく程度のことは誰かが考えついているものだ。おれが構想したように、俳句や和歌、漢詩などが主なラインナップだという。なんと、田中さんは西行や与謝蕪村などの“風呂で読める本”をすでにお持ちなのだそうである。風呂で本を読もうと思うばかりか、そういう妙なものを捜し出して持っているところがさすがは作家だ。おれも今度大きな本屋に行ったら捜してみよう。そんなものてっきりないと思うから、そもそも捜してみたことなどなかったのだ(ふつう捜さないと思う)。西鶴があるならシェイクスピアもあるだろうが、西行ではなあ……。そういえば、ギョ、ギョ、ギョエテかシルレルかーなどと野坂昭如が唄っていたのを突然思い出した。わかる人はおじさんかおばさんだ。
 それにしても、田中さんは最初にどうやってそんなものを見つけたのだろう? 不思議だ。本屋の店員を捕まえて、「風呂で本が読みたいんですが……」と詰め寄ったのだろうか。

「は? 風呂で読める本――ですか?」
「そうです。風呂で読める本です」
「あるにはありますが……たとえば、どのようなものをお捜しでしょう?」
「そうですね。たとえば、集英社スーパーファンタジー文庫の『蒼き鎖のジェラ 緊縛の救世主(メシア)』などは、風呂で読める本にはありませんか」
「ああ、あの、ノブナガとヒトラーとピテカントロプスと始皇帝とアレキサンダー大王とナポレオンとジンギスカンとムー帝国の女王が群雄割拠している世界で、宇宙船でやってきたSMっぽいバーバレラみたいな半裸の女豪傑がロリ好みの現地人少女をお伴に、ぶっとい鎖をスケバン刑事のヨーヨーのように振り回して暴れる話ですか?」
「まるで宣伝しているかのように要約なさいますな。そう、それです」
「あの、どう見てもミッキーマウスとしか思えない生物がうろちょろして、プロローグばかりが21もある掟破りの話ですか?」
「そういう見かたもありましょう。だから、それですってば」
「いったいなにを考えているのかわからない作家が、桂雀三郎の『ヨーデル食べ放題』を聴きながら書いたという、あのとんでもない話ですか?」
「なにを考えているのか本人もよくわからんのだけど、ともかくビールは別料金です」
「かしこまりました。たしかにお風呂で読むにふさわしい心和む話でございますね。少々お待ちください。風呂本化されているか調べてみます……」

 あー、これはけっしておれが面白おかしく誇張しているのではない。このとおりの話なのである。昨今、ここまで豪快にむちゃくちゃをやっているSFも珍しい。面白いすよ。
▼東京タワーに男がよじ登って、呑気に携帯電話で誰かと話をしている。話をしている相手も相手だ。むかしはあのようなところで平然と東京を睥睨しているのは、さるとびエッちゃんかデビルマンと相場が決まっていたものだ。あまり若いやつでもなさそうなので、ほんとに真似しているのかもしれん。そういえば、万博公園の太陽の塔の“目”に立て籠って(?)世間を騒がせたやつもいたっけなあ。なにもかもみな懐かしい。
▼トップページのカウンタと日記ページのカウンタの差が1000を切った。さあ、こうなると、いつ追い抜くのかが楽しみだ――って、ほかのコーナーの更新が滞っている証拠なんだよ。とほほ。

【1月18日(日)】
▼冬場はどうも長風呂になっちまう。おれは風呂に入るまでが億劫でしかたがないにもかかわらず、いったん入ると今度は出たくなくなるのだ。要するに、ものぐさなだけかもしれない。休日はいいのだが、平日など風呂に入る時間がやたらもったいなく感じる。風呂に入っているときは、身体を洗う以外は手持ち無沙汰でいけない。強制的にぼーっとする時間を己に課すという意味では精神の休息にいいのかもしれないが、風呂に入っているときにかぎって脳は休息するどころか、とりとめもないことを考えてフル回転するじゃないか。なにか妙なことを考えつくのはたいてい風呂の中である。
 今日も湯舟の中でぼーっとしていると、だしぬけにハムレットの第三独白(三幕一場)を憶えているかどうか試してみたくなり、To be, or not to be...とやり出した。傍から見ている人がいたらバカみたいであるが、なにせエコーが利くものだから、やっている本人はローレンス・オリヴィエにでもなったようないい気分である。...lose the name of action.まで(つまりオフィーリアを見つける直前まで)やったところでふと思いついたのだが、小さな子供用に“お風呂で読める絵本”なんてのがありますよね。あれの大人用を作ってはどうか。出版社の方、メモしてね。
 風呂に入っているときは暇である。かといって、湯舟の中でルーディ・ラッカーを読む気にはならない。やはり詩とか俳句とか和歌とかスタンダードの戯曲とか、要するに言葉の美しさを細切れで味わえるようなものを選んで、“お風呂で読める本”にしてしまうのだ。いまの印刷技術であれば、多少大判になるかもしれないが、大人用の完全防水の本だって作れるだろう。一度ふつうの本をビニール袋に入れて風呂で読んでみたことがあるけれど、ページがめくりにくいことこのうえなく、やっぱり湿気を吸ってしまう。各出版社に於かれては、ぜひまじめに検討してほしいものである。
 防水本の候補としては、たとえば、星新一の全ショートショートを風呂で読めるようにしてしまうというのはどうだろう。毎日三篇くらいずつ読んでも一年は楽しめる。岩波文庫の『イギリス名詩選』(平井正穂編)、『アメリカ名詩選』(亀井俊介・川本皓嗣編)、『ドイツ名詩選』(生野幸吉・檜山哲彦編)もぜひ欲しい。『宇宙叙事詩(上・下)』(光瀬龍・文/萩尾望都・画、ハヤカワ文庫JA)などは、そのままでも風呂の中で読めそうな紙質だが(やらないように)、ゆっくり温まりながら防水本で一章ずつ味わいたいものだ。シドニー・シェルダンとかディーン・クーンツとかはやめておいたほうがよい。どこで上がったものかが掴めず、のぼせて倒れる人が続出しかねない。いっそ、風呂で読むことを前提にした防水書き下ろしアンソロジーなどを企画しても面白いかもしれないな。『SFフロ本』とか『湯』とか。風呂に入る間も惜しい受験生用に、ワンポイント参考書みたいなものを防水化したら売れるんじゃないか。風呂くらいなにも考えずに入りたいか。
 ともかく、日本人は非常に風呂好きな人々なのに、こういう本がないのが不思議でしようがない。ふだんはできるだけ短時間で身体を洗うことが主目的になって、じっくりと入浴を楽しむことができなくなってしまっているのだろう。おれの幼いころは、市営住宅が当たるまで自宅に風呂などなかったので、銭湯に通っていた。大人たちは近所の人と湯舟の中でのんびり世間話などしていたものだし、子供は子供で船だの潜水艦だののおもちゃを走らせて遊んでいた(いま思えば傍迷惑な話だ)。ところが、核家族化が進行し、どの家にも一応風呂があるという世の中になると、新婚さんや小さな子供のいる家庭は別として、大人は風呂でやることがなくなってしまった。そもそも風呂でなにかをしようというのが意地汚い発想なのかもしれないけれど、本が読みたいと思うことってあるよねえ。通勤電車で読みやすいように、ワイシャツのポケットに入る本だってあるじゃないか。忙しい現代人のこと、せめて風呂の中でくらいはなにもしたくないと思う人もいる反面、風呂に入っている時間を有効に利用したいと思っている人も少なくないだろう。市場はあるにはあると思うのだが、どうでしょうね、出版社の方?

【1月17日(土)】
「SFマガジン」2月号をひたすら読む。なにしろ今月号「SFオンライン」の「S-Fマガジンを読もう」は、16本全部おれがやることになっているのだ。いまごろまだ作品を読んでいて大丈夫なのかとお思いになるでしょうが、なあに、大丈夫なものか。まあ、ああいう紹介・寸評というのは、書けるものは二十分で書けるが、書けないものは二時間でも書けない。また作品の長さと紹介のしやすさとは、全然比例しない。数行の意味を深く捉えるために何時間も調べものをして結局それを書かなかったり、自分が書いた作品であるかのようにひょいひょいと数十行でも書けそうな勢いになったり、思惑どおりには行かないものだ。テーマによる得手不得手というものもある。さすがに今月号は記念すべき500号だけあって、作家のみなさんも腕に縒をかけた作品を寄せておられるから、読んでいて苦痛だということはない(ふだんは、苦痛だったりすることもあるのか?)。好きで面白いSF読んで、それについて勝手なことをほざいて、それでお金がいただけるとは、もったいないことである。だったら、いつもぎりぎりに入稿せずに早くやれよ。
▼などと仕事をしているかと思えば、先日気まぐれに買ってきた「ネムキ」(朝日ソノラマ)を読んだりしている。最近売れているのだろうか、近所の小さな本屋に三冊も並んでいたので、「栞と紙魚子」(諸星大二郎)みたいなのが載ってるなら、一度買って読んでみようと思った次第だ。一応“少女コミック誌”ということになっているが、実際どんな人がこれを読んでいるのかよくわからない。ひょっとするとおれが一冊買ってしまったために、毎号楽しみにしている近所の一少女に迷惑をかけてしまったかなとちょっと思ったが、予約分なら取り除けてあるはずで、売場に三冊もあったということはやっぱり売れているのだろう。読んでみると、なかなかおれ好みの雑誌であることがわかった。なにしろおれはマンガをほとんど単行本でしか読まなくなってしまったため、雑誌に描いてる人にははなはだ疎いのである。
 少女雑誌といえば、おれにはいまは二児の母である妹がいて、むかし妹が買ってくる雑誌を片っ端から読んでいたころがあった。少なくとも「セブンティーン」「プチセブン」は、数年間ほぼ毎号読んでいたっけな。気色の悪い青年である。ときどき「花とゆめ」も買ってきおったのだが、どうも本人はあまり好きでないらしい。「おまえの買ってくる雑誌では、こいつがいちばん面白い」とおれが評すると、「そうやと思うた」と妹。聞けば、妹の知り合いで「花とゆめ」が好きな子は、みんな「お兄ちゃんみたいなヘンな人ばっかりや」ということなのであった。ううむ。この女、伊達に同じ屋根の下に住んでいたわけではないようだ。
 で、「ネムキ」だけど、諸星大二郎やますむらひろしは、おれにも馴染み深い世界だ。収穫だったのは、今市子。これはおれの好きな画風だ。波津彬子もいいな。どっかで見た絵だと思っていたら、菅浩江さんの『末枯れの花守り』(角川書店スニーカーブックス)の挿画をやった人だった。あと、妙に気に入ったのは軽部華子。気持ちの悪さが心地よいというか、不潔と淫靡が絶妙に交錯しているというか、国籍不明のわたなべまさこ風の画面は一度見たら忘れられない。たまにはSFマンガ以外のマンガも読まんといかんなあ。でも、なんだかこの雑誌に描いてる人たちって、一歩まちがうと(笑)十分SFを描き出しそうな気さえするんだが……。マンガの世界でも、隠れSFの人はホラー仏像をSFマリア像に似せて作っているのかもしれん。

【1月16日(金)】
▼お年玉付き年賀葉書の当選番号を新聞でチェック。切手シートばかりが4枚当たった。おれにしてはずいぶんと運がいい。今年はよい年になるのだろうか。もしかすると、ここで一年ぶんの運を使い果たしてしまったのかもしれないのだが、そういうふうには考えないようにしよう。
▼いつもヘンなお菓子を送ってくれる明院鼎さんだが、今回はちょっと趣向を変えて、カエルの卵を送ってくださった。こりゃ、どう見てもカエルの卵だよ。森下仁丹が出している「ハピカ ツィンクリン」という清涼菓子なのだが、イクラのようなカプセルの中に入れ子のカプセルがもう一個入っていて、外側のカプセルに包まれた透明な液の中に緑色をした内側のカプセルが沈んでいる。揺すると中のカプセルがぎょろぎょろと動く。口に含むと外側のカプセルが溶け、透明な口中清涼剤が流れ出す。内側のカプセルは噛まずに飲み込め、とある。胃の中で溶けて、消臭効果を発揮するのだ。凝った菓子である。グリコの清涼菓子にも液体を内包したカプセル状のものがあるが、ツィンクリンは二重になっているところが味噌だ。森下仁丹のホームページを見ると、カプセル事業部の誇るシームレスカプセル技術を応用した製品であるらしい。菓子にもいろいろハイテクが使われているものである。もっとも、この技術は医薬品のほうで広く応用されているようだ。複数の成分の溶出に時間差を持たせたり、最初から反応してもらったのでは困る物質を相互に隔離したまま摂取させ、体内で溶け出させたりすることが容易にできるからだ。
 この菓子、食ってうまいというものではないが、カエルの卵そのものの外見がカエルファンにはうれしい。明院さん、いつもありがとう。

【1月15日(木)】
▼なんか近頃HP200LXのアポイントメント・ブックが見にくいなあと思っていたら、そうだ、日本語カレンダーを登録するのを忘れていたのだった。200LXはザウルスやらとちがって、内蔵アプリケーションは完全に舶来仕様なので、休日やら祝日やらのデータは最初から入っていたりはしないのである。自分で入れなきゃならないのだ(パソコンなのだからあたりまえだ)。月や曜日はべつに英語で表示されていたとて問題はないのだが、祝祭日が入ってないとはなはだ不便である。ところがうまくしたもので、世の中には親切な人がいらして、そういう日本ローカルのカレンダー・データを作成しては、NIFTY-Serveの「HP PC Users' Forum」(FHPPC)などにアップロードしてくれている。多くのユーザはそれを利用させてもらっているというわけだ。今年はまだそのデータを入れていなかったので、さっそくダウンロードしてきてアポイントメント・ブックに登録する。めでたく今日は成人の日になった。こういうマシンを使っていると、カレンダーというやつがいかにローカルな文化に依存したものかを痛感する。世界中のユーザ(アメリカ人ですら)は、それぞれに工夫を凝らしてナントカ祭だのカントカ記念日だののデータを作っては、同じ国のユーザ同士で分かちあったりしているのだろうな。
▼東京で大雪(?)が降っているそうで、テレビが盛んに騒いでいる。なんという脆弱な首都であろうか。人間のコピーを作ろうと思えば作れる時代に、少々雪が降ったくらいであのように騒がねばならぬ都市が、ほんとうにこの日本の中枢なのか。突如、物体O(オー)でも出現したらどうするのだろう――と書いて気づいたが、寂しいことにこのネタは、二十代のSFファンにすらもはや通じないかもしれない。むかしはどの本屋にも必ず常備されていた小松左京の短篇なんですけど。要するに、基本的アイディアでは『首都消失』の元になっている作品である――と書いて気づいたが、これも通じないかもしれないのだよなあ。最近、本屋で見ないものな。あれだって、もう十年以上むかしの作品だ(わずか十年前とも言いたいのだが)。映画のほうは若い人でもかなり観ているかなとちょっと思ったのだけど、お世辞にも人口に膾炙するような名画じゃないので、やっぱり知らない人も多いだろう。おれたちくらいの世代だと、星・小松・筒井の三巨頭を抜きにして日本SFは語れないという意識があるものなのよ。こういうこと書くと年寄りがぼやいているみたいで厭なのだが、いいものはいいんだからしかたがない。小松作品の復刊については、ジャストシステムやハルキ文庫に期待したいところだ。
 そういえば、阪神淡路大震災の直後、テレビに現れた小松左京氏が開口一番発した言葉にいたく感動したのをいま思い出した。あんなところを震源に大地震が起こったことについて、「わが身の不明を恥じる思いです」とおっしゃったのだ。『日本沈没』を書いた作家が“不明”だったら、いったい誰が明るかったと言えるのだろう。政治家に聴かせてやりたい言葉である。先日も書いたように、未来を予測するのがSF作家の仕事ではない。おそらく小松氏は、“予言”できたできないは別として、こういうことがあり得ると“想像”できたはずだったという思いで、自分はまだ不徹底だったと、謙虚にもああいう言葉を漏らされたのだろう。「想像だけなら誰でもできる」などと言う人がよくいるが、そういう人は想像することの――とくに、想像したくないことを想像する難しさを知らないのだ。想像するのがそんなに簡単だったら、先進国とやらであるらしい国の首都を、少々雪が降ったくらいで大騒ぎしなければならないような都市に組み立てるはずがないでしょうよ。

【1月14日(水)】
▼やあ、なにやら最近はバイオ関係で素人目にも面白いニュースが相次いでいるなあ。テキサス大学ダラス校(The University of Texas Southwestern Medical Center at Dallas)とバイオベンチャーのジエロン社(Geron Corporation )の研究チームが、人間の細胞の寿命を延ばすことに成功したという。まあ、実験室レベルで細胞の寿命を延ばしてもらったとて、おれが俄然三百年生きられるようになるわけではないのだが、どえらい成果であることはたしかだ。理科系の方やSFファンの方には釈迦に説法だろうが、スナック菓子の話が読みたくてここに来てくださっている方もあるようなので、なにがどえらいのか、おれが理解している範囲で簡単にご説明しておこう。
 細胞分裂の回数に限りがあるのは広く知られている。染色体の両端に“テロメア”とかいう回数券みたいなDNAが付いていて、分裂するごとにそいつが短くなり、使い果たすと細胞は分裂しなくなる。数十回程度でシュー、ポンと赤い玉が出る(笑)そうで、これは発見者の名を取って“ヘイフリック限界”(the Hayflick limit)と呼ばれている。たしか、エヴァンゲリオンでも使ってた。ところが癌細胞などではテロメアが短くならないように継ぎ足してくれる酵素が活性化していて、何度でも分裂し続ける。生殖細胞を除くと、ふつうの細胞にはこのテロメラーゼという酵素が存在せず、だったら、そいつをよそから持ってきて与えてやれば回数券が増えるはず――で、やってみたらうまくいったという話だそうだ。よそから持ってくるったって、薬局に売ってるわけじゃなくて、テロメラーゼの産生に関わる塩基配列は、ちゃんと最近ジエロン社とコロラド大学が協同で見つけていたのだという。
 こういう話は、面白いけどちょっと不気味な気もする。“老いる”という生きものにとってあたりまえのことが、細胞レベルとはいえ人間にコントロールできてしまったのだ。クローン羊ができたとき、たしかサダム・フセインが自分の影武者を作らせるとかなんとか意味不明のことを言っていたと伝えられたが、今度は不老不死の仙薬を作れと御用学者に命じているやもしれないよなあ。ここでSFファンとしてはワイルドな想像をしたくもなる。すでに育ってしまった人の全細胞に今回の実験のような措置を施すのはたいへんだと思うけど、発生の段階からなにか細工をすれば、常人より“回数券”の減りかたが緩やかな不老長寿クローン人間が作れたりしないのかな。テロメラーゼとやらを作る遺伝子を最初から体細胞に組み込んでおくとか――なあんてことが簡単にできたら苦労はしないわな。そもそも自然に最初からそうなっていないということの裏には、いまはまだわからない確固たる理由があるはずで、その理由と仕組みを暴いたうえでさらに技術開発をしてゆかないと、不老長寿(不死?)人間は作れないだろう。え? あなた生物学専攻ですか? 笑わないでね。こういうことを考えるのが好きなのだ。待てよ。分裂する細胞でそういうことができたとて、幼少時で数が揃ってしまう脳の神経細胞はどうするのだ。そもそも脳の耐用年数というのは、身体が弱らなかった場合、どのくらいなのだろう。肉体だけ若々しくて脳は燃え尽きている不老長寿人間なんてのは、さぞや醜怪な存在だろうな。
 「酒も煙草も女もやめて 百まで生きた莫迦がいる」ってね。この都々逸におれは異論があって、煙草は身体にいいことはひとつもないだろうが、酒と女は適量(?)ならかえって健康にいいんじゃなかろうかと思うのだ。ま、それはともかく、正直なところ、おれは老いたくはないけれども、永遠に生きていたくもない。「もうやることやったしいいか……。じゃね」という具合に、自分の納得したときに自分でスイッチが切れたらいいだろうなと思うな。それでも、三百年は欲しいけどね。
 さて、面白いニュースに惹かれてせっかくネットを漁ったので、もったいないからリンクを張っておく(最近、このパターンが多いね)。テキサス大学ダラス校のサイトの Scientists Extend the Life Span of Human Cells という記事からは、研究チームの先生のページにも跳べて、16日に Science に載る予定の論文も取り寄せられる。PDF形式のファイルでダウンロードも可能。ジエロン社のサイトでは、プレス・リリースにExtension of Human Cell Life-Span Reported in Science という紹介記事がある。いや、インターネットって、自然科学の分野ではとくに至れり尽せりって感じだ。地球規模で有機的に情報が流れているのだなあという手応えがある。人文系のほうはどうも調べにくく思えるのは、おれだけかなあ。科学よりも言語の壁が厚いせいなのだろうか。

【1月13日(火)】
▼先日、アメリカのリチャード・シード博士という人が、十八か月あれば人間のクローンはできるし、アメリカでだめなら国外ででも作るなんてことを言っていたと思ったら、それに釘を刺すように欧州会議加盟国のうち十九か国が人間のクローニング禁止の議定書に調印した。当然だろうな。おれも時期尚早だと思うが、未来永劫、倫理的に絶対にいかんと思っているわけではない。いまクローン人間など作っても、ふつうの人間の基本的人権すらしばしば保証されない程度の文明しか持っていないおれたちには、クローン人間の問題などとても扱いきれないだろうと思うのだ。
 しかし、このシード博士の言い分にも興味はある。「自動車に反対した人もたくさんいた」などと息巻いておられるらしい。そう、たくさんいたにちがいない。そして、いまとなってはわからないが、その主張はもしかすると妥当だったのかもしれないのだ。だが、自動車は便利だし、一度使われはじめると、それを前提に人々の生活が組み替えられはじめ、ついにはそれなしでは立ちゆかないようになった。おれもテクノロジーとはそういうものだと思う。前にも書いたが、人間はできるようになったことは遅かれ早かれ必ずやる。シード博士はあながち虚勢を張っているばかりではなく、テクノロジーと人間の関係について一面の真理を語っているだろう。断言してもいい。早晩、どこかで誰かが人間のクローンを作るにちがいない。
 おれが心配なのは、議定書だの法律だので禁止して安心し、そこで思考を停止してしまうことだ。殺人を禁止したところで、実際に殺人は起こるのである。政治家は牧師じゃないので、倫理などという不安定な理由を振りかざすばかりでなく、いまクローン人間を作ることの得失を徹底検討したうえで、合理的に禁止してもらいたいものだ。シラク大統領は「人類の特性を変え得るクローン技術、遺伝子操作を禁止できるのは国際レベルにおいてのみ」と述べたそうだが、人類の特性を変えてはいかんと誰が決めたのだ? いかんのだとすれば、大多数が納得できる理由を示すべきだ。そのあたりのことを暗黙の前提のように不問に付すところに、おれは首を傾げざるを得ない。禁止したって、そこでことが終わるわけではないのである。クローン技術はすでに出現してしまったのだから。これから、おれたちにも考えるべきことはたくさんある。『黙示録三一七四年』(ウォルター・M・ミラー・ジュニア)や『第四間氷期』(安部公房)はけっして古びてはいないのだ。

【1月12日(月)】
▼阪神淡路大震災からそろそろ丸三年、新聞もテレビも今日から震災を扱った企画が目白押しだ。まだまだ震災の爪痕で苦しんでいる人々にしてみれば「こういうときだけ取り上げて……」という気持ちはあるだろうけれど、はっきり言って、こういうときだけでも思い起こさせてもらわないと、おれなど震災のことなどふだんはケロリと忘れている。おれが特別忘れっぽいわけでもないだろう。他人の頭の中を覗きまわったわけではないが、京阪神に住んでいる人間だって、さほどの被害を受けなかった人はおれと似たり寄ったりだと思う。人間とはそういうもんだろうし、だからこそ時間が癒しになることもある。手前の日常に影響のないことは、きれいさっぱり忘れてしまわないまでも、ワープロのあまり使わない漢字が候補列のうしろに追いやられてゆくように、意識の下部に沈潜してゆくものだ。
 そんなおれでも、やはり震災後は変わったなと自覚できるシチュエーションがいくつかある。
 ひとつは、地下に潜るときである。地階にある食堂や喫茶店などに入るとき、なにやら十全にくつろげないものがある。できるだけ早めに地上に出たいと、頭の隅で怖れがかすかに点滅しているのを否応なしに感じてしまうのだ。たしかにビルが横倒しになった三宮でも、不思議なことに地下は無傷と言っていいほどだったのだが、そんなものは単なる知識にすぎない。生き埋めになることに対する恐怖は、大脳新皮質の管轄外にある、より根源的なものなのかもしれない。
 いまひとつは、言わずと知れた、地震のときである。震度1〜2の地震でも、カタカタと揺れ出すと、次の瞬間にずどおんと巨大な一撃が来るのではないかと、気が気でない。一度体験してしまった“あの揺れ”を身体が思い出すのだ。
 震災より前だったが、友人と六本木のレストランで食事をしていたとき、震度2くらいの揺れが来た。おれたちは食事の手を止め、「おおっ」と声を上げて中腰になった。揺れがおさまり、ふとあたりを見まわすとそんな反応を示しているのはおれたちだけで、みななにごともないかのようにフォークを口に運び歓談を続けている。おれたちは阿呆のように見えたであろう。弱震がやたら多い東京では、人々は知識として東海大地震を怖れていても、実際の弱震は怖がらないのだ。しかし、弱震が怖くないというのは、論理的におかしい。地震が終わってから、「いまのは弱震だった。だから怖くない」というのならわかるが、揺れはじめているときにそれが弱震で終わるかどうかなどわかるものか。だが、弱震ばかりが多い土地柄だと、「どうせまた弱震だろう」と身体が憶えてしまっているのだろう。こういうヘンな慣れがあると、いざというときかえって怖いと思うぞ。「地震というのは弱震で終わるものだ」と身体が憶えているものだから、それが弱震で終わらなかったときには、弱震を体験したことのない人より激しいパニックに陥るのではあるまいか。
 震災以降、おれはよりいっそう弱震が怖くなり、少しの揺れでも台所のテーブル(こいつがいちばん頑丈だ)の下に潜る準備をはじめる。かなりみっともない姿ではあるが、弱震に鈍化しているよりはいいだろうと思っている。
 さて、震災については、おれのくだらないお喋りを読んでいるよりも、神戸在住作家、梶井俊介氏のページをぜひご覧いただきたい。95年1月17日からいまに至るまで書き続けられている「神戸からの報告」は、等身大の震災を捉えた貴重な作品だ。ただ現地で悪夢を体験した当事者による報道といったものではなく、そこには常に作家の眼と考察がある。現時点で最新の「まもなく丸三年、神戸からの報告」から、ちょっと引用してみよう――「公的支援に税金は使えないと言い続けてきた政府が、金融破綻の被害者に公的資金を使おうとしている。株に興味のない私には、リスクを承知で甘い汁を吸おうとした人に対して、公的資金を使うことができて、震災にやられた人に資金を使うことができないという根拠がわからない。」
 じつは、以前からご本名で公開しておられたページのほうに「リンクワールド」からリンクを張らせていただいていたのだが、気がついたら JALInet T/Club のほうにも作家としてのページを持っておられたので、以前のリンクを外し、こちらにリンクを張り直すことにした。一個人の日記ではなく、作家の作品としてご紹介すべきだろうと考えたからである。

【1月11日(日)】
▼ようやく年賀状を書き終える。もう11日だ。興ざめなことおびただしいが、いたしかたない。そういえば、“おびただしい”というのは、漢字で“夥しい”と書くように、本来数量が多いことを指す言葉であって、程度が激しいという意味で先ほどのように使うのは、厳密には正しいとは言えない。でも、おれはわざとよく使う。“はなはだしい”とはまたちがった、一種独特の味があるのだ。じつは、この“おびただしい”は故・星新一氏が頻繁に用いていたもので、面白い言いまわしだから拝借しているのである。星氏の影響は大きいと改めて痛感する。
 年賀状を書きながら80年代ポップスを聴く。最近すっかり耳が保守的になってしまい、むかしの曲ばかり聴いている。新しい曲は体調のいいときにしか聴けない。Heart These Dreams Culture Club Do You Really Want to Hurt Me など、はて、こんなにいい曲だったかなと思わず聴き惚れてしまう。こういうことがあるから、むかしの本もたまに読み返してみたいのだが、仕事ででもないかぎり、なかなか時間が取れないのが現状だ。古い作品を読み返すことで、また新たな方向性や時代を超えた美点や古びて腐ってしまった部分が見えてくるだろう。いわゆる古典名作というのは、優れているから残っているわけだから、読めば面白いに決まっている。効率追求という点ではいいが、そんなのばかり読んでいるのもなんだか意地汚い。まだ古典にまではなっていないがかなり古い作品あたりが、じつに魅力的に思える今日このごろである。でもまあ、結局、新刊に追われる日々が続くのだろうな。もちろん、まだ評価の定まらぬ作品を読むのも、またちがった楽しみがあるのだけれども。
 だものだから、おれは老後が楽しみでしかたがない。誰にも邪魔されずに若いころ読んだ作品をひとり読み返しながら、ある朝ページに突っ伏して冷たくなっていたいものだ。理想の死にかただよなあ。


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冬樹 蛉にメールを出す