間歇日記

世界Aの始末書


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98年1月上旬

【1月10日(土)】
『知への旅 SF作家アーサー・C・クラーク・地球と宇宙の予言者』(NHK教育)を観る。なんてタイトルだ。クラークの元気な姿を見られるのはいいが、番組自体はちっとも面白くない。映画『2001年宇宙の旅』の撮影エピソードなどが中心で、おれにとっては得るもののない内容だった。だいたい、予言が当たったの外れたのと、そんなことはSFとはまったく関係のない話なのだが、一般向けのSF紹介ではやたらそのような側面ばかりが強調されるのが気に食わない。かえってSFを誤解させるのではあるまいか。おれに言わせれば、クラークが外挿し空想したことを、たまたま現実のほうが真似したにすぎないのだ。もしクラークの“予言”とやらが全部外れていたとしても、SFとしての作品の価値が変わるものではない。百歩譲って、“予言”とやらの側面からクラーク作品を捉えるとしても、彼の予言がいくつも“当たった”ことがすばらしいのではけっしてない。紙の上の絵空事にすぎない彼の作品が、文字どおり未来を“作った”ことが――想像力はすなわち創造力にもなり得るということが感動的なのだ。

【1月9日(金)】
▼神田うのが野村沙知代に殴られたの殴られないのとマスコミが騒いでいる。「うの殴る」とでかい見出しのついた娯楽紙もあった。おいおい、目的語を示す助詞を省いたりするなよ。「うの殴る」だけ見ると、うのが誰かを殴ったのかと思うじゃないか。どうしても“うの”の名を入れたいのなら、「うの殴られる」とすべきだろう。さすがに一般紙でこんな奇妙な省略を見たことはないが、娯楽紙はけっこういいかげんである。最近の若い子には単語を並べるだけで助詞のない言葉を話すのがいるが、記者まで影響を受けているのだろうか。あるいは、穿った見かたをすれば、意図的に曖昧な言葉遣いをすることによって目を引き、スタンドでの売上を増そうということなのかもしれない。
 てなことを朝から思っていると、夕方には「結婚」と巨大な文字のみをこちらに見せた娯楽夕刊紙が駅のスタンドに並んでいた。誰が結婚したのだろうとしばらくスタンドを見ていると、中年のサラリーマンがその新聞を買った。「金」なんとかという文字が見えたので、金正日が結婚したのかと一瞬思ったが、そんな記事はちっとも娯楽性があるまいと思い直し、金賢姫に思い当たった。相手は日本人の蜂谷さんだったりして、などと不謹慎なことを考える。そういえば、金賢姫を嫁に貰いたいという韓国人が殺到しているなんて話もむかしあったなあ。大韓航空機爆破事件で命を落とした人の家族や友人は複雑な心境だろう。たしかに金賢姫の生い立ちを考えれば彼女個人を憎むわけにもいかないけれども、人間、そんなに合理的にはできていないと思う。
 それはともかく、世界的に有名なうえ才色兼備の金賢姫なのだから、結婚しても家庭に閉じ籠ってほしくはないものだ。ポスト・ダイアナになれるかもしれないのに――って、やっぱり海外を歩きまわっては危険だろうから、文筆活動で世界平和に貢献してもらいたい。サルマン・ラシュディと共著で本を出すなんてのはどうだろう。

【1月8日(木)】
▼堺市でシンナー中毒の若い男が五歳の子供を刺殺、その母親や女子高生にも重傷を負わせた。誰もが思ってるだろうけど、この男は近隣でも危険な人物として評判だったそうなのだから、事前になんとかならなかったのだろうか。たしかにヘンなやつだという理由でしょっぴかれたのでは、おれなんか何度もしょっぴかれそうでたまったものではないのだが、向精神性のある薬物に依存していたヘンなやつとなれば話はちがう。そういう意味では、酒呑んで暴れたことのあるやつも、どんどんしょっぴいてブラックリストに載せればよろしい。ことによるとおれもリストに載るかもしれないけれども、おれの人権が護られるためのコストとしてあの子供が死ななければならなかったのなら、おれは少々権利を制限されてもかまわんからなんとかしろ。仮におれがシンナー中毒になって自分の行動が制御できなくなったとしたら、まともなころのおれは一刻も早く拘束してほしいと願うと思うぞ。

【1月7日(水)】
▼モスラのたまごっち死ぬ。ついにまともなモスラにはならなかった。意外だったのは、いままで動きまわっていたものが動かない塊になってしまうと、やっぱりなにやら寂しいものを感じたことだ。こんなものは決められたとおりに動いているプログラムであるとわかっていても、知らずしらず感情移入をしてしまっていたのかもしれない。これが一匹一匹の一回きりの生に個性が伴うようになっていたとすれば、さらに寂しさは増すだろう。広義の生命と呼べるようなデジタル人工生命(a-life)ともなれば、『BRAIN VALLEY』(瀬名秀明、角川書店)にもあったように、それなりの“命の気配”とでもいったものを感じさせるにちがいない。
 じつに興味深いことに、ここ数年、生命と非生命の境界線が、象牙の塔の中だけではなく、一般市民の生活に於いてもじわじわと曖昧になってゆくのが感じられる。生物を物体として見る視点と、物体も生命を持ち得るという視点が、両側から歩み寄ってないまぜになってゆきつつある。おれはこれを一概に嘆かわしいことだとは思わない。そもそも「生命が尊い」というのは、はたして感情であろうか、それとも客観的事実なのであろうか? 「自分は生きていて死にたくないと思っている。よって、ほかの生きているものも死にたくないと思っているであろう」といった漠然とした類推が生む単純な感情から生命が尊いことになっているのだとしたら、生命の尊さはじつに脆い概念と言えよう。たとえば、死にたいと思っている人や自分の生を慈しめない人にとっては、生命はいとも簡単に尊いものではなくなってしまうからだ。
 生きものを無条件に尊いものだということにしておくよりも、それは物体でもあると冷徹に認識して聖性を剥ぎ取ったほうが、かえって尊く感じられるのではないか。生命の意味をおれたちはいまだ理解し得ていない(そもそも意味が必要だとはおれには思われない)。が、生命の仕組みは徐々に暴きつつあるし、それを暴くことで生命を操作することすらできるようになっている。もはや漠然とした感情のみで生命の尊厳を語ることはできないのだ。
 臓器を移植することはできる。遺伝子を操作することはできる。いずれ人間は、生殖や既存の生命の操作によらず、一から設計図を引いて生命を作り出すことすら可能にするにちがいない。しかし、それができるようになったとしても、命を持った存在が生きるたった一度の主観的“生”を再現することはけっしてできないのだ。おれはその一回性にこそ、生命が尊いということの根源的定義を求めたいと思う。ここに鈴木一郎なる生命があって、彼とまったく同じ生物を自在に作り出せるとしても、“この”鈴木一郎が生きる一回かぎりの生を作り出せるわけではない。それは神秘的なことでもなんでもなくて、きわめてあたりまえの冷厳な事実である。生命は無条件に尊いのではなく、再現できないから尊いのだ、すなわち、理由があって尊いのだと考えてなにか不都合があろうか。
 すでにいまの子供たちは、親の世代とはちがった生命観を持っているかに思われる。ちがった価値観を持つ相手に対して、「命は尊いから尊いのだ」などと感情論を振りかざしても話にならないだろう。「これこれこういう理由で尊い」と教えてやらなければ、連中にはわからないのではなかろうか。そんなことを“説明”しなくてはならないとは、あまりに殺伐としているじゃないかと“感じる”のは、親の世代の勝手な論理かもしれない。感情などというものは、感情を生じる基盤を共有していない相手にはまったく通じないのだ。生命に対する感情を育む基盤は、大きく変容している最中である。もしかしたら、感情的になんとなく生命が大事だと思っている世代よりも、生命の価値を即物的に頭で考える世代のほうが、結果として合理的に命を大切にするようになるのかもしれない。

【1月6日(火)】
▼毎年、この時期にはあちこちでパロディいろはかるたを作ったりするもので、今年はたとえば、NIFTY-Serve・SFファンタジー・フォーラム《科学館》では“架空戦記かるた”なんてのを募っている。おれは架空戦記はまったく守備範囲外なので、とてもじゃないが面白い作品などできようはずもない。“SFかるた”ということなら、何年か前、あるSF同人誌の企画で「仏の顔もサンドワーム」とか「毒食らわばサラマンダー殲滅」とか、くだらないものを作った憶えはあるな。そういえば“超科学かるた”というのも、チャットでわいわい作っていたことがあった。おれの最高傑作は(誰かが同じものを作っているかもしれないが)「清家は事をし損じる」というやつである。「コンノの白袴」という深〜い作品もあるのだが、この手のものは実名を出すといろいろ差し障りもあろうから、このへんにしておこう。おれはフルネームは言ってないからね。
 さて、今年はおれの知るかぎりでは“SFかるた”を募っているところがなく、思わず作ってしまった作品を発表する場がない。そこで、ここに公開してしまう次第である。原則的には97年に出た本をネタにしている。
 まずは、いちばん気に入っているのが、「【わ】割れ鍋にヒトブタ」(『人獣細工』)だなあ。どのような怖ろしい用途に供するのかは知らないが、ヒトブタの身体部位が割れ鍋に盛り合わせられているシュールな光景が浮かんでくる。できればあの凶々しい漢字で“ひとぶた”を表記したいところだが、パソコンでは書けないし、パロディの字面としてはカタカナのほうが面白いだろう。海外ものでは、「【ふ】プールは千年、亀は万年」(『3001年終局への旅』)、「【か】蛙の面に少女」(『緑の少女』)なんてのを思いついたけれど、いまひとつぱっとしない。「【お】終わりよければ天使よし」(『天使は結果オーライ』)は、ヤングアダルトから。番外としては、「【ろ】論より法則」というのもあるが、わかる人にしかわからない。「【の】脳ある谷は爪を隠す」(『BRAIN VALLEY』)ってのは、オリジナルと一音しかちがわず、なかなかいいんじゃないかな。われと思わん方は、頭の体操に作ってご覧になってはいかがだろう。

【1月5日(月)】
▼京都iNETもようやくまともなカウンタを用意してくれたので、さっそく変えてみた。パラメータを与えて、いろいろカスタマイズできるのが嬉しい。凝り出すと面白くなってきてキリがないから、ご覧の状態で使うことにする。
▼新年早々、悲しい報せでびっくりだ。星新一氏が12月30日にお亡くなりになったという。おれくらいの歳のSFファンで、星作品に親しまなかった人は稀ではないかと思う。SFをSFとして意識する以前から、おれは星新一のショートショートが大好きだった。中学校の国語の時間に、好きな作家の本を一冊持参して音読せよという課題があり、おれはなんの衒いもなく星新一を持っていったものだ。「SF原体験はなんですか?」と問われたりすると、おれは星新一とは答えない。SFと意識して読んでいたわけではないからだ。ただただ、説明不要の“面白い小説”だったのである。それは単に子供の読解力でも100パーセント理解でき楽しめるということであったのかもしれないが、怖ろしいのは、こちらが成長しても、それらはやっぱり100パーセント理解でき楽しめるものであり続けたことである。きっとおれが四十になり五十になっても同じだろう。折に触れて再読すると、そのレーザービームのような無駄のない文章には感嘆するばかりだ。読んでいると、頭がすうっとする。一行一行、頭がよくなってゆくような気がするのである。こんな文章はいくら努力しても真似のできる性質のものではない。2たす2が4になる延長線上にあるにすぎないことを小器用に扱えるような頭のよさには頻繁に出会うが、そんなものは、おれより背が高いとか肥っているとかいうのと同じで、たいしたもんだとは思うが怖くはない。しかし、星新一の文章からは、そもそも凡人とは次元のちがう頭のよさが上品に香ってくる。恐怖を感じるほどだ。おれは星新一を希代の名文家と信じて疑わない。
 書きたいことはいろいろあるけれど、いまはなんと言っていいのかおれにはわからない。すっかり忘れていたのだが、以前に畏れ多くも星新一氏をネタにしたショートショートを書いたことがあって、そいつを引っ張り出して見ているうちに改稿したくなった。星作品を読んだことがない人にはさっぱりわからないにちがいないミーハー作品。SFファンが読むことが前提の場所に一度公開したきりのものだ。たいへん苦労なさった時代のことをネタにした失礼な作品だから、『十月は立ち枯れの国』に入れるのも見合わせていたのである。でも、星氏に怒られてもかまわない。いまは、おこがましくも、出来の悪いショートショートを捧げて、ショートショートの神様・星新一の偉大さを称えたい。ご用とお急ぎでない方は、「悪魔の飽食」という作品で暇を潰してください。
 星さん、SFに誘ってくれて、ありがとう。

【1月4日(日)】
▼ひさびさに米を食う。このところ餅ばかり食っていたのだ。あとはスナック菓子を大量に食い、カズノコやらタイノコやらイクラやら卵系の高蛋白・高コレステロール食品をやたら食っていた。さらに日本酒やらワインやらウィスキーやらをかなり飲んだ。正月というのは、概して身体に悪い。新鮮な野菜が不足しがちなので、災害対策も兼ねて業務用の薬品容器で買い置きしてあるアスコルビン酸の粉末(愛想はないが、いかにもありがたそうに美しく製剤したビタミンCを買うよりはるかに安い)を大量に摂取した。ビタミンCのような重要な物質が体内で合成できないというのは、われわれの種のハードウェア的欠陥である。神様とやらがマイクロソフトであれば“仕様”と称するにちがいないが……。もっとも、ホモ・サピエンスにビタミンCを体内で作る能力があったとしたら、もっと盛大に植物を滅ぼしてきていたかもしれず、われわれのまだ知らぬ生態系の統御メカニズムが働いて人類からビタミンCの体内合成能力を奪い、どこかメタなレベルでの調整を行ったのではないかとおれは勝手に想像している。あるいは、人間に愛でられるニッチを獲得して種の存続が図れている一部の動物のように、滅ぼされてしまうよりは進んでドミナントな動物種の食物になることによって生き延びようとした植物があったのかもしれない。そいつらが未知の機序で以て特定の化学物質をコントロールして人間の“間引き”による“植物為淘汰”を行ったり(植物だってフィトンチッドなどで能動的に自己防衛したりするではないか)、特定のレトロウィルスを優先的に媒介したりして、われわれの遺伝子の改変に与ったのでは――などと、ここまで来るとちょっと“トンデモ”がかった想像になってくるが、べつにおれは学者じゃないので、与太話として自由に空想を楽しむぶんには誰にも迷惑はかからない。万が一、将来おれの空想が当たってたなんてことになったら、ひとりにやにやと楽しむだけというのが正しい小市民の生きかたである。天文学や考古学には、きっともっとワイルドな自説を楽しむアマチュアがたくさんいるんだろうな。
 さてさて、休みのあいだこんな悪魔の飽食生活を続けていたせいか、煙草を買いに出ようと何日かぶりにズボンを履いたら、やたら腰まわりがきつい。肥ったのだ。ま、すぐ元に戻っちゃうんだけどね。あぶく銭が身に付かないように、おれの場合、あぶく脂肪はたちまちなくなってしまうのだ。
▼たまごっちのモスラが繭になった。東京タワーに糸をかけた繭が(このあたりは古典的モスラだ)規則的にもぞもぞと蠢いている。この貧相な画面でよく表現するよなあと感心するのは最初のうちだけで、しばらく見ていると、ピーナッツのような形で蠢く繭は、腕立て伏せをしているようにも、東京タワーとセックスしているようにも見えてくる。一時間後、ピーピーと音楽が鳴った。おお、いよいよモスラの羽化かと固唾を飲んで見守っていると、なんと、繭の形のまま目と口ができ、脚が四本生えて歩きはじめた。なんじゃ、これは。繭の形で幼態成熟したのだろうか。度肝を抜く設定だ。雪見だいふくのパッケージが歩いているかのようである。可愛いことは可愛いのだけれど、一度繭になったのにこのありさまでは、もはやこいつはまともなモスラにはならないのではなかろうか。面白いからいいけどね。かくなるうえは、もっと変なものに育ってもらいたい。

【1月3日(土)】
▼正月休みというのは妙なもので、時間ができたらやらねばならぬと思っていることが結局全然できないのが常である。あーあ、もう毎年このパターンだから、正月休みになにか実のあることをしようと思ったりせぬのが精神衛生上よいかもしれない。
 世の中の様子もなんだかよくわからない。これではいかんと報道関係のサイトを見に行くと、いつのまにかアーサー・C・クラークにナイトの称号が与えられることになっている。まあ、アガサ・クリスティーだってデームなんだから、クラークがナイトになったとてなんの不思議があろうか。爵位たって、現代では実質上は文化勲章みたいなものだから、遅きに失した感がある。
 Sci-fi Wire などは見出しで“Call Him "Sir" Arthur C. Clarke”と言っている一方、CNN Interactive では、honorary knighthood だから Sir が名告れるわけではないと報じている。どっちが正しいのだろう? ほかにもいろいろ当たってみたが、報道内容にはかなりばらつきがあり、Sir Arthur C. Clarke と表記していいものかどうか、いまだ判然としない。クラークが与えられることになったのは knight bachelor というナイトの中でも最下級の爵位で、勲爵士団には属さないらしいから、Sir が名告れるかどうかはそこいらへんに関係があるのかもしれない。まあ、要するに、爵位だのなんだのが正式にどういう資格や権利を伴うのかなんてことは、もはや欧米のメディアだってろくに知らないのにちがいない。イギリスの主要報道機関のサイトでも爵位についてはあまり大きく取り上げておらず、こんなところにも英国王室の権威が失墜している様子が見て取れる。
 ともかく、SF作家がナイトになったのだから、それはそれでめでたいことだ。タイトルなんてものは、その作家の愛読者にとってはどうでもいいのだが、たとえば手塚治虫が医学博士だったことは、作品を読まずにマンガ家風情と頭からバカにしている人々を畏れ入らせる効果はあったであろう。優れた藝術家にタイトルがあるのは営業上好ましい。かといって、タイトルそのものは藝術家の作品の質にまったく関係がないから、実力のない人がなにかの弾みでタイトルだけ持つのは百害あって一利なしだ。消費者として、まちがってもタイトルに目を曇らされないように気をつけねば。
▼たまごっちモスラ、無駄飯ばかり食って、いっこうに成長しない。たまごっちといえば、オスっち・メスっちがデータ交換している図はけっこう妖しい。早晩、オスっち同士のやおいが登場するだろうな。半陰陽のたまごっちが数奇な運命を辿る話とか。いや、もう登場しているのやもしれぬ。

【1月2日(金)】
▼このところ、さすがにネットが空いていてアクセスが少なかったのだが、正月も2日ともなると、かなり訪問者も増えてきた。もしかすると、モバイル環境が洗練され、アクセスポイントも各地にあるプロバイダが増えたために、帰省先からインターネットに接続できる人も少なくないのだろうか。
▼日本テレビの井田由美アナウンサーまでが、昨日のことを“元旦”と言っている。去年の1月1日の日記でもぼやいたので、今年はぼやくまいと思っていたものの、喜多哲士さん“元日”の日記で同じことをぼやいておられるのを読み、やっぱりぼやくことにした。“ら抜き言葉”などは、おれは嫌いだけれど、なんとしても許容できないほどの不快感はもはやない。しかし“元旦”で1月1日を指す誤用は、どんなに慣用化していようと、ちゃんと“元日”という語が生きているのだから、わざわざ許容する必要はないと思う。昨年も書いたが、辞書によっては、頻繁に誤用されるものだから“元旦”が1月1日を指すこともあるなどといった記述がしてあったりするのだ。誤用している例を辞書で補強してどうするのだ。辞書にこんなことを書いては、「あ、正しくは“元日”と言わねば論理的でないのか。次から気をつけよう」と学習する人よりも、「ほら、辞書にもまちがいではないと書いてあるから、これでいいのだ」などと“元旦”を誤用し続ける人のほうが多くなりそうな気がするぞ。人間の思考や発想は、必ず自分のなじみの方向に流れる。一度まちがえて憶えてしまったことを憶え直すのには、苛立ちを伴う労力が必要だからだ。うちの母親なんぞ、野菜は英語で“ベジブル”だと二十年以上思い続けている。もちろんおれにもこのような誤学習はあるはずで、権威ある書物がきちんと“これは誤用だ”と主張してくれないことには、正しい言葉が憶えられないではないか。言葉は思考の道具なのであって、歯ブラシだと思い込んでデッキブラシを使い続けていては、思考そのものがあやふやになってしまう。まちがって憶えている言葉があるとすれば、おれは一日も早く憶え直したい。これは権威主義でもなんでもなく、先人の遺産を現時点で正しく確認する作業にすぎない。確認したうえでなら、それを茶化したり破壊したり乱交させたり近親相姦させたり輪姦させたりシックス・ナインさせたりぬとぬとのぐちゃぐちゃにしたりして新たなものを作ろうとするのは、おれの大いに好むところだ。ワープロの誤変換がときに藝術的に面白かったりするのは、読む人が正しい変換を知っているから面白いのである。

【1月1日(木)】
▼あけましておめでとうございます。あいかわらず日記以外のコーナーがなかなか更新されない不束なホームページでございますが、今年もよろしくお願い申し上げます。
▼ネットスケープが立ち上がらなくなってしまう。何度やっても一般保護違反が出るのだ。こいつは春から縁起が悪い。夜中にミスター・ビーンを観ながら、原因の究明に当たる。それにしても妙だ。パソコン環境に変化はない。さてはウィルスかと恐れ戦きつつ、ネットスケープを再インストールする。初回はなんの問題もなく立ち上がり、やれやれと保存しておいたブックマークをコピーして立ち上げると一般保護違反が出る。なんと、原因はこいつか? なるほど、ブックマーク・ファイルなら31日から変化があったぞ。何度か再インストールを繰り返し実験し、要するにブックマーク・ファイルが巨大化しすぎたのが原因らしいことがわかった。困ったことにブックマークを整理するにはネットスケープを立ち上げねばならないが、そうするとブックマークを読み込むタイミングでファイルが大きすぎて立ち上がらなくなるのだ。ただのテキストファイルだからエディタで整理できないこともないだろうが、ネットスケープが生成するファイルなので、うかつに編集するとなにが起こるかわからない。結局、この機にブックマークを大刷新することにし、古いファイルは分割して自分宛にメールした。こうしておくと、メールソフトの中でURLをクリックすればブックマーク代わりに使えるので、カット&ペーストするよりはずっと楽だ。ブックマークってどんどん溜まってゆくけれど、頻繁にアクセスするサイトって、そんなに多くないものだよね。
▼年賀状が来る。今年もとうとう旧年中に着手することができず、新年になってからちびちびと書いている。オンライン、オフラインを問わず、賀状をくださった方々、ありがとうございます。毎年、年が明けてからお送りする不躾をばご寛恕ください。
▼たまごっちのモスラは、なにやら角を生やした芋虫のようなキャラに育ってしまった。あまり可愛くない。なんなんだろう、これは? バトラのつもりか? それとも、モスラのモードのひとつだろうか。おれはここ二作ばかりはモスラを観ていないので、新しい設定があるとしてもわからないのだ。今度のは水中モードとやらがあるそうだが、映画の宣伝を見てもよくわからん。だいたい蛾がどうやって水中を進むのだろう。腹に水を吸い込んで噴射するか、エイのように水中で羽ばたくかくらいしか思いつかない。じつはモスラの体内には強力な磁場があることにし、両の翅から海水に電流を流す能力があったことにして電磁推進するなんてのも、苦しい設定だがいいかも。水中であのような巨大で強靱な翅を高速で羽ばたいたのでは、キャヴィテーション・ノイズが出て敵に探知されてしまうだろうから(なんかちがう話になってきたな)、レッド・オクトーバーのような電磁推進なら好都合だ。待てよ、海水に直接電流を流しては、電極になる翅の周囲に気体の塩素が発生する。地球の守護神たるモスラが海を汚染しながら泳ぐわけにもいかんか。まあ、宇宙空間を羽ばたいて飛ぶほどの怪獣だから、水中でだって気力で泳ぐのにちがいない。


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