間歇日記

世界Aの始末書


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98年1月下旬

【1月31日(土)】
『敵』(筒井康隆、新潮社)を読みはじめる。『虚航船団』(新潮社)から十四年ぶりの書き下ろしという差し込み広告の惹句を見て愕然とした。そう言われればそうだ。『虚航船団』は発売を心待ちにしていて、学生の財布には苦しい価格のあの赤い箱を手にした興奮は、まだ昨日のことのようだ。今度の『敵』は“老い”がテーマだが、読む前からみずからの“老い”を自覚させられる皮肉なことになった。まだ読みはじめたばかりだけど、元大学教授の老人の日常をニコルソン・ベイカー的ナノ文学風に描写しているだけにもかかわらず、ぐいぐい引き込まれてしまう。やはり“老い”をテーマにした「アルファルファ作戦」は、ちょうど三十年前、昭和四十二年、筒井康隆三十三歳のときの作品だ。いまのおれより二歳若い。三十代前半というのは、肉体的にも精神的にもしみじみと実感として“老い”を意識しはじめるころである。この三十年に筒井康隆が醸成した“老い”が、どのような形で作品に結実しているのか、ページを繰る手ももどかしい想いで読み進めている。
▼筒井康隆に続ける話題としてはできすぎだが、「通販生活 No.184/'98春の特大号」(カタログハウス)の「論争誘発特集 血液型による性格診断はインチキである」で、おなじみ大槻義彦早稲田大学教授が吠えている。テーマがテーマだけに、興味深く読んだ。この日記の常連読者の方々はご存じのように、おれはABO式血液型性格診断が大嫌いで、社会生活の必要上相手に合わせてやることはあるものの、内心は阿呆のたわごとだとしか思っていない。
 いつもの大槻教授は、超科学を攻撃するときの“論法”が科学的でなく、「これでは“ちょ〜”の人と符号がちがうだけではないか」と思わされることが多い。怪しげなオカルト信奉者を攻撃してくれるのはいいのだが、「そっちの宗教はインチキだから、代わりに“科学教”に入信しなさい」と言っているように聞こえてしまうのがまずいのだ。科学というもののイメージが悪くなっている昨今では、そのように解釈されてしまう危険性はかなり高い。論争相手の挑発に乗って、「科学は正しい」に近いことをはっきりと言ってしまうのもますますもってまずい。この先生がほんとうにそう考えているのかどうかはわからないが、あまり言葉を省略しすぎてはいけない。科学は、己が暫定的にしか正しくないこと、己の暫定的認識を不断に更新し続けるベクトルが内在化されていること、己の方法論ではけっして扱えない限界があること――これらを認識している思想体系であるからこそ“正しい”のだ。己の認識が唯一絶対の真理ではなく、常に現時点での“暫定的真理”であることに耐える強靱な精神力を必要とする思想であるからこそ、おれは宗教の上位に科学を置く。こうした認識を欠いたのでは、科学は凡百の宗教のひとつに成り下がる。そして、大槻教授は往々にして、科学がその点に於いてオカルトとは質的にちがうものだということを説明し損ねる(あるいは省略する)のである。
 「通販生活」のこの記事は、教授のそのあたりの悪い癖がかなり抑えられていて好感が持てた。「要するに人間の性格なんて、結局は、人間の数だけあるんですよ」は、拍手喝采ものの名言である。なんでも、大槻教授は飲み屋などで血液型を尋ねられると「C型」と答えることにしているのだそうだ。なるほど、こいつはいい手だが、友だちは減るでしょうな。そんなバカな友だちは要らんというのもひとつの生きかたであるが、大部分の社会人はそういうことができない立場だから苦労しているのである。
 しかし、考えてみれば、自分が正しいと思っていることを曲げてまで相手との関係を円滑に保とうとするのは、きわめて不誠実な態度である。「わしの考えているような高度なことがこんなやつに理解できるはずがない」と頭から決めてかかっている態度にほかならず、じつは相手に対する最大の侮辱だからだ。キリスト教徒はわりと噛みついてくるから好感が持てるが、仏教徒には“人を見て法を説く”などという言葉を拡大解釈し、ものわかりがよすぎることで相手をバカにしてしまっている人がけっこういるから苦手である。そういう人は、自分のような善人がなぜ嫌われているのかまったく自覚がないから、いっそう厄介なのだ。その手の自称善人をあしらう対処法としては、こちらのほうも「あなたも早くおれの境地に達すれば説明してあげるだけの価値も出てくるのだが、いまは適当に話を合わせておいてあげよう」という気持ちで接すれば腹も立たない。ただし、自分が不誠実な人間になったようで、はなはだ後味は悪い。大日本投石党党首・佐藤亜紀氏のおっしゃるように、「お互いに襟首を掴み合って馬鹿野郎と罵りあえる社会、罵詈雑言と投石によって公然と不満を表明できる明るい社会」を実現してゆかねば、日本に明日はないと思うな、ほんとに。それは、本来の意味で科学的な社会であろうからね。

【1月30日(金)】
石ノ森章太郎氏が28日に亡くなっておられたとニュースで知る。おれは長ずるに従って、石ノ森作品をあまり読まなくなり、近年では喫茶店の雑誌で『HOTEL』を読む程度になっていたが、子供時代を振り返ると、おれたちのまわりは石森章太郎の生み出した世界でいっぱいだったことに改めて気づく。だからおれにとっては、いまだにあの先生は「ノ」がない“石森章太郎”でしかあり得ないのだ。アシモフロボット工学三原則をきちんと知ったのは、『人造人間キカイダー』を通じてだった。それまでは『鉄腕アトム』“ロボット法”とこんがらかっていたものである。またひとり、SFに多大な貢献をした作家が失われた。おれと同世代の人ならわかるだろうが、おれたちにとって日本のSFの偉い人は“死なない”人だった。みんな若い人だったのだから、あたりまえだ。このところ、SF関係者の訃報に立て続けに接し、日本のSFも、ほんとうに時代がひと巡りしたのだなあという感慨を抱く。
 小学生のころだった。京都新聞の夕刊に子供欄があり、そこに毎週2000字程度で読み切りのSFっぽいお話が載るコーナーがあった。とくにSFと意識して読んでいたわけではないが、「ぼくはこういう話が好きだ」というのは自分でわかっていて、切り抜いて保存したりしたものである(どこへ行っちゃったんだろうなあ、あれは)。執筆陣は、広瀬正福島正実光瀬龍らであった。晩稲のおれのこととて、それが子供欄の執筆者としていかにすごい面子であったかは、ずっとあとになって知るのである。ある日、広瀬正先生が亡くなられた旨のお知らせが載っていて、やがてそのコーナーもいつのまにかなくなった。
 数年前、子供のころに触れたSFといった文脈で、二十年以上忘れていたこの思い出話をパソ通の雑談会議室に書いたところ、ある人が「私も、京都新聞のアレ、読んでました」とコメントをつけてくださった。へえ、やっぱり、そういう人がいたんだ。パソコン通信とはなんと便利なものだろうと改めて感心した。自分が二十代でコンピュータを所有しているだろうとは想像だにしていなかった陰気で病弱な少年と同じ京都の空の下、同じ地方紙の同じ子供欄を読んでいたその少女は、菅浩江さんという人であった。時は流れるものである。
 広瀬正、大伴昌司などは、若くして亡くなった例外であって、SF者はまだまだ死なないとおれの意識の深いところは理不尽にも信じていたのかもしれない。日本のSF関係者が次々とお亡くなりになる時代になり、自身もけっして若いとは言えない歳になったいま、柄にもなく死について考える今日このごろである。石ノ森、いや、石森章太郎さん、思い出をありがとうございました。

【1月29日(木)】
▼なにやら接待汚職事件絡みで自殺者が相次いでいる。気楽なものだ。気の毒などとは毛筋ほども感じない。ああいう死にかたがしたいとは思わないが、「うまくやりやがったな」とか「羨ましいくらいだな」に近い感情を抱く。昨年暮れに友人に教わった「チャールズ・ダーウィン賞」の候補にどうかと投稿しようと思ったけど、それほど暇でもないのでやめた。えーと、以前の日記を読んでいらっしゃらない方のためにご説明すると、この賞はチャールズ・ダーウィンを記念して遺伝学に貢献した人に与えられる賞――ではなく、遺伝子プールから生存価の低い遺伝子を除去するのに貢献した功績を称え、とてつもなく派手にくだらない死にかたをした人に与えられる名誉ある世界的な賞なのである。死者に鞭打つのは悪趣味だが、死者になったら鞭打たれないだろうと期待してみずから命を断つようなやつなら、おれは大いに鞭打つことにしている。もっとも、ほんとうに遺伝子プールから除去したいような人間はけっして自殺などせず、どこかでかんらからからとしゃぶしゃぶでも食いながら酒を飲んでいるにちがいない。どうせ死ぬ覚悟があるのなら、そういう輩と刺しちがえるくらいのことを、どうしてしてくれないのだろう。自分が泣き寝入りして死ねば万事まるく収まるなんて発想がおれには理解できない。ご存じのようにおれは人間ができていないので、おれ自身が悪事に加担して、もはやこれまでとなったら、知っていることを洗いざらいぶちまけては、甘い汁を吸ったやつをひとりでも多く地獄の道連れにしてやろうとするにちがいない。もし戦争があって兵隊のおれが捕虜になり、この戦争は確実に負けるし一刻も早く終わらせるべきだとみずからの責任で判断したとしたら、おれは進んで自国の機密を敵に提供することだろう。役人になろうというような人は、さすがに高潔な人物が多いのか、自分だけが悪いと殊勝に反省して死んでゆくらしい。あるいは、死ねば自動的に潔白が証明されるとかんちがいして死んでゆくらしい。死んだ人間より生きてる人間のほうが圧倒的に有利で、いくらでも事実をねじ曲げる力を持っているというあたりまえのことがなぜわからないのだろう。役人にも、おれみたいな卑しい発想を持ってほしいものだ。

【1月28日(水)】
▼駅の立ち食いうどん屋でうどんを食っていると、隣に五十がらみのおっさんがやってきて、きつねそば(だったと思う)を注文する。そのおっさん、そばを食いながら、しきりに「ふむふむ」だの「ほう」だの、なにかに感心したような声を漏らしている。なにやら食通が秘伝の料理を味わって感嘆しているかのように、最後までそばと対話しながら食っていた。こっちは、おかしくてしかたがない。三百円もしない立ち食いそばだ。そのおやじがあまりに食通ぶって食うものだから、ひょっとしたらおれが知らないだけで、その世界では名の通った料理人がなにかの事情でこんなところで腕を揮っているのかもしれんとまで考えた。“調理”するところをおれも目の前で見ていたけど、湯切りしたそばにつゆをぶっかけて出しただけにしか見えなかったのだがなあ。その道の鉄人には、つゆをぶっかけるときの手首の返しかなにかに、只者ならぬ秘技が見て取れるのだろうか。

【1月27日(火)】
景山民夫氏が火事で焼死。びっくりだ。煙草か電気スタンドが火元だったらしい。おれも煙草を吸うし、燃えやすいものが部屋の中にいっぱいあるから、ひとごとではない。おれはどちらかというと、小説家としての景山氏より、放送作家・エッセイストとしての仕事のほうが好きだった。夕刊フジでの毎日エッセイ連載という地獄の苦行をこなした『食わせろ!!』(講談社/講談社文庫/角川文庫/たぶん全部品切れか絶版)は、歴代の筒井康隆や吉行淳之介、丸谷才一らとタメを張る傑作だったと思う。その後、おれには金輪際理解できない方向へと行ってしまわれたが、まだまだなにをやらかすかわからない才人であったことはたしかだ。五十歳とは、なんとももったいないことである。みなさまも火の元にはご用心を。
▼三塚大蔵大臣が朝令暮改(って、ちょっと変な使いかたかもしれんが)で辞任を表明。こんなに影の薄い人も珍しい。おれはこの人を見るたびに、諸星大二郎「夢みる機械」(『夢見る機械』集英社・所収)に出てきた学校の先生を連想していた。早くも顔が思い出せない。ほんとに朗読マシンのような人だったよなあ。その原稿書いてた組織の責任取って辞めるというのだから、おれたちゃきっと毎回選挙でトカゲの尻尾を選んでるんだよ。それでも律義に投票に行く己が情けなくなってくるが、いっそ『遥かなる地球の歌』アーサー・C・クラーク、山高昭訳、ハヤカワ文庫SF。解説・冬樹蛉(笑))の惑星サラッサみたいに、政治家をくじ引きで選んではどうだろう。べつになんの問題もない。でもって、ほんとうに大切な官僚のほうを選挙で選ぶことにしよう。数々の難試験をクリアしてきた有能な人々の中から、国民に奉仕したいという高潔な人物をみなの眼力で選出するのだ。どんなに試験の得意な頭のいいやつでも、最後の難関である選挙に落ちれば、絶対に官僚にはなれないことにする。もちろん、敗者復活はできるようになっていて、何度出馬してもかまわない。それでも官僚になれない人には、さらに受け皿が用意されている。政治家になるためのくじ引きに参加すればよいのである。

【1月26日(月)】
『世界まる見え!テレビ特捜部』(日本テレビ系)を観ていると、美の基準は左右対称にあると考えて、人間の顔の左右対称度を数値化している研究者が出てきた。そんな単純なもんかなあと思いつつ、送ってきたばかりの「NIFTY SERVE MAGAZINE」の表紙を見ると、榎本加奈子である。このコはちょっと外斜視だから、左右対称でない。が、おれはじつは外斜視気味の顔には弱い。よって、榎本加奈子も好きである。左右対称でないほうを好むから、おれはゲテモノ好きだと言われるのだろうか。
 榎本加奈子といえば、ちょっと耳がでかい。佐藤藍子(身体の半分脚だよね、この人は。かっこいいなあ)といい、榎本加奈子といい、耳のでかい女の子がブーム(?)なのは面白い。はっきり言って“宇宙人顔”だ。人類の進化の兆しなのだろうか。

【1月25日(日)】
▼ただただ「SFオンライン」の原稿を書く。小林泰三さんの「海を見る人」(SFマガジン・98年2月号)には悩まされた。この手の作品は、物語の出来不出来だのキャラクターの造形だのを云々してもしかたがない。もちろん、そういうものが厚く書き込まれていても差し支えはないのだが、作者はそんなところを読んでほしがっているわけではないだろう。星新一のショートショートを読んで「人物が淡白でいけない。もっと地に足の着いた人間ドラマを期待したい」などと評しても、なんの値打ちもない。すべての読者を満足させることは不可能だ。よって、この小林作品などは、ポピュラー・サイエンス・レベルの相対論の知識すらない読者をあっさり切っており、だから紹介する場合もそうせざるを得ないのである。
 この作品をたとえば「小説新潮」とか「小説現代」とかに載せてくれと言ったらアホかと言われるだろうが、「SFマガジン」ならかまわないのだ。いや「SFマガジン」にこそ、こういうものがしばしば載るべきなのである。文学的に難解(理解するのに文学的知識と興味を必要とする)な実験をした作品は、「文學界」や「新潮」には載せられるが、やはり「オール讀物」には載せられない。おれは「文學界」のほうが「オール讀物」より高級だと言っているのではない。読者が雑誌に期待するものが異なっているだけである。売れようが売れまいが、専門誌にはその雑誌にしか担えない役割というものがあり、「SFマガジン」はそこを譲らなかった(ちょっと揺れた時期もあるけど)からこそ、ここまで続いているのだろうと思っている。徳間書店の悪口を言うつもりではないが、いまは亡き「SFアドベンチャー」に載っていた作品の多くは、そのまま「小説新潮」に持って行っても載ってしまいそうなものだったことは否定できない。
 では、専門文藝誌は特定分野に関心の高い少数の読者のみを相手にしていればいいのだろうか。おれはそうは思わない。こういう世界もあるから面白そうだということを、カトリック用語を借りれば“未信者”たちにアピールしてゆく必要があると思う。しかしそれは、専門誌としての内容を薄めて、よりパイの大きなマスに迎合することであってはならないだろう。括弧付きの“一般読者”のご機嫌を取るのではなく、ふだんそういう“一般読者”向けに書いている作家のほうを専門誌の領域に引っ張り込んで書かせるのがよいと考えている。「複雑系絡みですげえアイディアを得たんだが、これはいつもおれが書いてる雑誌ではとても載せてくれないよなあ。くそ、書きてえなあ」とか「ラッカーを超えたと思っている数学SF短篇があるんだが、発表するところがねえなあ」などと思っている非SF作家がいないとはかぎらない。おれは、増田みず子が突然バイオSFを書いても、池澤夏樹が宇宙論SFを書いても別段驚かない。ひょっとしてひょっとすると、和久峻三が法廷SF短篇を温めているやもしれないし、三枝和子がフェミニズムSFを書きたがっている(もう書いてるという見かたもあるが)かもしれない。読者は作家についてくるものである。初めて手に取って目次を開き、自分の知っている作家が二、三人でも出ている雑誌と、ほとんど知らない作家ばかりが並んでいる雑誌とでは、感じる親しみがまったくちがう。“一般読者”に迎合するのではなく、その“一般読者”がふだん読んでいる作家が発表の場に困っているような構想を掘り出して専門誌に取り込めばよいのではないか。
 「SFマガジン」には、海外の作品を紹介するという使命もあるから、なかなかこんなことはできないだろう。シビアな話だが、予算の問題も大きいはずである。せめてもう一誌、かつての「SFアドベンチャー」の轍を踏まないSF専門誌が、国内SFをカバーしてくれればと残念でならない。ジャストシステムさん(本業のほうはたいへんなようですけど)、角川書店さん、SF雑誌作ってくれませんか? これはいまの日本の景気の問題と同じだ。みなが不景気だ不景気だと口にし、またそういう空気を醸成しているからよけいに事態が悪化しているような気がする。見かたを変えれば、発表の場がないから誰にもわからないが、だからこそちょっとしたSF短篇のアイディアを温めている作家がかなりいるのかもしれないのだ。諸般の事情で「SFマガジン」には書いたことがないが、中間小説誌にはとても書けないハードな作品を書きたがっている作家だっているのではなかろうか。雑誌がだめなら、大原まり子&岬兄悟の「SFバカ本」プロジェクトのようなことを、ハードSFやミステリSF、文藝SFやフェミニズムSFなどでやったってかまわない。海外にはけっこうそういうアンソロジーがあるじゃないか。相対論、カオス・複雑系、クローン、脳科学、ウィルス、人工生命、宇宙開発、新素材などなどなど、現代的なトピックスで一本ずつ適任作家がSFを書くなどという、理科系読者に的を絞ったハードSFアンソロジーなんてのも面白そうだと思いません? 世の中ちょっと文科系の人間が動かしすぎてるよ(まあ、おれも文科系だけどさ)。

【1月24日(土)】
▼早川書房から、なにやら薄い冊子の入った封筒が送られてきた。開封してみるとSFマガジンだった。ここ二か月はぶ厚かったからなあ。
 97年ベストSFの結果には、ほぼ納得。『3001年終局への旅』(アーサー・C・クラーク、伊藤典夫訳、早川書房)の評価は、あんなものだろう。評価が二極分解するだろうし、そう高く評価しない人が大勢を占めるだろうと思っていた。おれも辛うじて入れたという感が強い。オデッセイ・シリーズの結末(?)としてはまったく驚きがないから、その点で評価が低いのはじつによくわかる。が、そこはむしろあたりまえと考えて、ひとつのSF作品としての骨格とセンスを虚心坦懐に眺めると、やはり優れていると判断せざるを得ない。さすがはクラークだと思う。
『パラサイト・イヴ』(監督/落合正幸、脚本/君塚良一、原作/瀬名秀明)がフジテレビ系で早くも放映された。体調を崩しているうえ、「SFオンライン」の原稿も遅れているから、とてもゆっくり観ている余裕などない。例によって、BGM代わりに流しながら仕事をする。この映画はエンドロールの背景も作品の重要な一部なのに、省略してあいだに挟んであったのは、ラブ・ストーリーとしてはなんとも興ざめだ。テレビだからしかたがないか。
 終盤、劇場で観たときに苦笑した台詞を思い出した。病室の洗面台から侵入したイヴが、麻理子を抱え上げベッドの上に悠然と立っているシーン。麻理子の父が、「誰だ、おまえは!?」と叫ぶ。これはちょっとないんじゃないの。ごぼごぼと洗面台から溢れ出た褐色の液体が、目の前で見るみる人間の形になって娘を抱え上げたとしたら、「あなたはどなたでしょう」と尋ねている場合ではない。「なんだ、おまえは!?」と言うはずである。原作にはない台詞だし、とくに深い意味があって他のシーンと絡んでいる言葉でもないのだから、現場であきらかにおかしいと気づいた人たちが臨機応変に変えるべきだ。自分の言う台詞なのだから、役者がまずいちばんに気づくだろう。脚本家だって神様じゃない。こういうケアレスミスなら、納得のゆく指摘があればむしろ喜んで変更を承諾すると思うのだが……。
 もし誰も気づいていなかったのだとしたら、問題はより大きい。液体状態のイヴが洗面台から溢れ出るカットと、人間の形になったイヴが麻理子を抱え上げ立っているカットは独立している。ここでは液体からの人間化シーンを映像で見せるのではなく、カットのあいだに変身したという流れになっている。これらのカットは時間的に前後して、あるいは、あいだに何日も挟んで撮影されているかもしれない。だとすると、現場の人間の感覚としては、カット冒頭から人間の姿形で立っているイヴに麻理子の父が誰何しても、なんの不自然も感じなくても無理はない。だが、プロなんだから、無理はないではすまないよね。そこを観客の視点に立って連続したイメージで捉えていてこそ、監督であり役者でありましょう。特撮ばかりがリアリティーではないぞ。作劇あっての特撮だ。
 してみると、必ず脚本の順番どおりに撮ってゆくという北野武監督のやりかたは、予算や時間的余裕を考えると不経済きわまりないにしても、こういうケアレスミスを防ぐ効果はあるだろうね。北野監督は、人間の頭脳をそんなに信用していないのだろう。時間的にバラバラに撮ると、どこかに思わぬミスが入り込みそうで気持ち悪いのかもしれない。ちなみに、作家にも部分をバラバラに書ける人と、順番にしか書けない人がいるそうだ。作家の場合は、バラバラに書いても、あとで読者と同じ目で通読することができるうえ、おかしなところがあればそこで直せるからまだいい。映画ではそうは行かないから、てんやわんやで撮っただろう作品には、しばしば妙なところがある。それを捜すのもたしかに楽しいんだけど。厭な観客かもね。

【1月23日(金)】
▼昨日の日記で、「薬剤師(システム屋)を通すまでもない売薬」とあった部分は、うっかりアナロジーがこんがらかってしまっていた。むろん、「医者(システム屋)を通すまでもない売薬」が正しいので、頭を悩ませてしまった方、すみませんでした。直しておきました。
▼次から次へと新しい名前の政党ができる。意味ありげな似たような名前がたくさんあると、どれがどれだかわからない。記憶の重畳効果というやつである。そうした認知科学的知見を考慮したのかどうかは知らないが、たしかに「フロムファイブ」だけは憶えやすい。これとて、いまに「スーパースリー」とか「ビジーフォー」とか「サーフサイドシックス」とか「サンセットセブンセブン」とか「ゼロゼロエイト」とか「ジャンボーグナイン」とか「真田十勇士」とかいう政党が出現すると、たちまち印象が薄れるにちがいない。十年後には、「ああ、内山田洋と……」などと言われていることであろう。
▼「ニュースステーション」が『SPAWN』を取り上げていたかと思うと、突如、日本SF作家クラブ会長・永井豪氏がお出ましになってびっくり。おれはテレビでご尊顔を拝するのは久方ぶりだったが、この先生はほんとに老けない人だなあ。「三十年前は、『ハレンチ学園』でタブーを破りまくりまして……」などと述懐しておられたのが、そこはかとなく不気味であった。三十年前に生まれてたんかいな、と思わせる風貌だからだ。途中、インタヴュー・ビデオで出演なさってた岡田斗司夫氏のほうが年上に見えたくらいである(失礼)。
 ところで、おれはアメコミには疎いので『SPAWN』なんてのは昨年の中ごろにようやく知ったのだけど、初めて設定を聞いたとき、「千之ナイフ『少女パンドラ』(秋田書店)みてーだな」と思ってしまったのは不埒なのでしょうか。

【1月22日(木)】
「ワイアード」が、右綴じになってからなんだか読みにくいような気がしているのだが、単に慣れの問題だろう。SFマガジンだって右綴じなんだしな。特集「ニッポンのパソコンを斬る! ビジョンなきメーカーの凋落」という記事で、ソニー事業戦略部企画1課統括課長・大前健氏が言っている――「何ができるか三秒以内に言える商品じゃないとコンシューマーには売れない」
 ごもっとも。ソニーの人がこういうこと言うと、やたら説得力がありますな。パソコンが売れない理由なんて、おれ流の暴論で行くと簡単なことだ。メーカがソフトハウスだのシステム・インテグレータだのという代理店に売らせているからである。そのやりかたで汎用機やオフコンを企業に売って儲けた過去の栄光が忘れられないからである。したがって、代理店のご機嫌を損ねることをメーカが怖れて、企業相手を中心にした旧態依然たる商売をしているからである。いつまでも過去のしがらみに囚われていないで、メーカはそれこそ三秒で説明できるくらいに機能特化した手離れのよい製品を作り、自分で直販すればいいのだ。あるいは、コンシューマー向け製品のルートを持つ大手流通に売らせればよいのだ。そんなことをしたら、システム屋だと言いながら、じつはハードウェアを売って儲けていた中間の下請け会社が潰れてしまうではないかとおっしゃる向きもあろうが、そういう販売構造はすでに歴史的使命を終えているのだから、それに気づかない潰れるべきところは正しく潰れればよろしい。
 病院で薬も売ってくれるのは便利なようだが、じつはそれでは消費者が損している。医者は処方箋さえ書いてくれれば、あとは患者のほうが薬局を選べばよい。そのほうが薬局間に競争が働く。従来のシステムハウスは、いわば特定の製薬会社と癒着しているようなものであって、その製薬会社の薬を優先的に処方する。しかし、たとえば「クロナゼパムという“薬品”をこれこれの量、これこれの期間飲みなさい」と医者に処方されたとすると、その薬品を“商品”にした「住友製薬のランドセン」と「ロシュのリボトリール」ではどっちがその患者にとってお得な買いかたができるかは、外部の薬局が患者にアドバイスしてやればよいことだ。医者は処方箋が書ければよい。薬剤師は処方を逸脱しない範囲で患者にアドバイスができる商品知識があればよい。さらに医者と薬剤師が相互の技能をチェックしながら良好な関係を保ってくれれば言うことはない。ちなみにおれは、病院で処方された薬は必ず“物質名”(一般名)を訊くことにしている。医者によってはいい顔をしないが、商品名しか教えてくれない場合は、BBSの薬品データベース・サービスやインターネットで商品の一般名を調べておく。医者や薬局を変えたときに役に立つこともあろうと思うからだ。なにより、自分の身体になにが入るのかを知っておかなくては、気色が悪くてしかたがない。
 代理店にサービスするのではなく消費者にサービスするというあたりまえの考えかたにいち早く切り替えてゆけるパソコン・メーカは、今後大躍進するだろう。メーカは製薬会社、システム屋は医者、量販店は薬剤師に徹する構造になってゆくはずだからである。そして、医者(システム屋)を通すまでもない売薬(パソコン)なら、メーカが直販したっていっこうにかまわない。その構造改革によって失業する医者がいたとすれば、その医者はいままで医者本来の仕事をしていなかったのだ。製薬会社の使い走りをしていただけである。「やはり、これくらいの軽い病気でも、医者に行けば行くだけのことはある」と患者に思われている医者だけが生き残れるだろう。そうなると、患者の選択肢は増えるし、よりよいサービスを受けられるようになるが、選択肢が増えるということは、患者に学習や自己責任という負担がかかることになる。医者や薬剤師を賢く使うための負担を引き受けてくれる医療コンサルタントのような仕事が、パソコン業界にも必要だ。もちろん、その新しいニッチを担うべきさまざまな試みが、巨大な恐竜の足元を俊敏に走りまわる小哺乳類のように、すでにあちこちではじまっている。いまに必ず大きな隕石が降ってくるだろう。

【1月21日(水)】
▼会社の帰りがやたらと寒い。あまり寒いと怒りに似た感情が起こってくるのはなぜだろう。停留所でバスを待っていると、木枯らしが吹きつける。「ええ、くそ、ちくしょー」などと無意識につぶやいてしまう。よく考えると、なにが「ちくしょー」なのかさっぱりわからないのだが、身体に生じた不快感による動物的な反応が自動的に言語に翻訳されてしまうような感じである。怪我や病気などで、痛いときや苦しいときにも、それがあまりに激しいと同じような“怒り”が起こる。この種の“怒り”は、たとえば税金で豪遊している輩がいるなどと聞いたときに生じる“怒り”とは、似て非なるもののように思われる。なごり雪とにごり酒くらいちがうであろう。寒さや痛みからくる“怒り”は、ふとした拍子に“可笑しさ”に変化したりするのだ。あんまり寒かったり痛かったりすると、怒りを通り越して、へらへら笑わずにはいられなくなる。内省してみると、「なんでおれがこんな目に会わねばならんのだろう」という不条理感が、意味不明の笑いを誘っているようだ。してみると、怒っていられるあいだは、まだ己が把握し得る対象として世界と対峙しているのだということになろうか。笑い出してしまうとなると、もはや世界と己との関係はロゴスの支配を超えている。不条理なものを前にしては、ただただ恐怖するか笑うかしかない。
 最近おれは、テレビのニュースを観ながらげらげら笑うことが多くなった。官僚の不祥事などをさも一大事であるかのように(客観的には一大事であるかもしれないが)伝えるアナウンサーの真面目な顔を見ると、なおさら可笑しくなったりする。厭な視聴者である。不思議なことに、おれがいちばん笑えないニュース番組は『ニュースステーション』なのだ。なぜなら、久米宏が最初からおれの代わりに笑っているからである。彼はさして新鮮な発想の持ち主でもなければ、深遠な思想の持ち主でもなかろう。ニュースに対して、きわめて陳腐でありきたりな感想や意見をいけしゃあしゃあと口にする。「あんなのはジャーナリストじゃない」などと言う人がよくいるが、そんなあたりまえのことをわざわざ指摘する人は、もしかするとニュースかなにかを観るつもりでニュース番組を観ているのだろうか。おれはニュースを観る以前に、テレビを観るつもりでニュース番組を観ている。そのあたりの差で、久米宏が楽しめるかどうかが決まるような気がする。おれは久米宏がニュースを伝えていると、どちらかというとほっとする。ともするとげらげら笑い出してしまいそうになる出来事の不条理感を、彼がフィルターとなって引き受けてくれるからである。「なにをバカなことをほざいているんだ、この男は」と視聴者が思っているかぎりに於いて、久米宏の藝は成功しているのだ。彼が陳腐な感想を漏らすと、「うん、そうだそうだ」と肯いてしまったのでは沽券に関わると視聴者は思わされる。こいつの陳腐な意見とはちがう自分なりの考えを持たずばなるまい、などと反射的に考えてしまうのだ。皮肉なことに、これはテレビという媒体を用いてニュースを伝える最も効果的な方法のひとつではないかと思う。そういうわけだから、“過剰に「人間化」されたニュース・キャスター”(と、センター試験の国語の問題で言及されたそうだ)久米宏の言うことがいちいちもっともだと思えるような人は、『ニュースステーション』を楽しんでいることにならない。NHKのニュースを観ればいいだろう。“自分はニュースを伝えている以前に、テレビという媒体で喋っているのだ”ということを職人として意識している久米宏を、おれはけっこう楽しんでいる。もしかするとおれも、この日記で同じようなことをやろうとしているのかもしれない。
▼おやまあ、びっくりだ。「日経エンタテインメント!」98年1月号(いま売ってるのは2月号)のコラムで、このホームページがおれの知らないうちに紹介されていたそうである。記事を担当なさったライターの久高はるゆきさんからメールを頂戴して初めて知った。久高さん自身、おれが知らなかったことを驚いておられる。掲載確認メールの発送に関して、編集段階でなにか行きちがいがあったらしい。まあ、「日経エンタテインメント!」にかぎらず、雑誌ではよくあることだと聞いている。べつにおれは不愉快には感じていないので、久高さんにあまり恐縮されるとこちらが恐縮してしまう。内容をまるごと無断転載されないかぎりは、どんな雑誌にどう掲載してくださってもおれはむしろありがたい。仮に「こんなバカなページがあるので、賢明なる読者諸氏に於かれては絶対に見たりしないように」などとどこかの雑誌が紹介してくれたとしても、アクセスが増えるに決まっているからだ(笑)。それを読んで来た人が、「ほんとにバカなページだな。どれ、明日はどんなバカなことをほざくのだろう」と固定読者になってくれるようなことがあれば儲けものである。なにしろ、このページは雑誌で言及されるようなことは滅多にない。今後載せてくれるような奇特な雑誌があれば、おれはどんな記事か見てみたいミーハーな人間なので、本屋に売ってるうちにご一報いただければ幸いである。
 で、その久高さんからの情報であるが、しばしば行く書店の新刊コーナーに例の“風呂で読む本”を見つけて、啄木のを買ってしまわれたそうだ。久高さんもこれまでに風呂本が新刊コーナーに並んでいるところなど見たことがなかったとのことで、ひょっとすると、そこの書店員はこの日記の読者ではないかなどとおっしゃっている。タイミングが絶妙だからだ。まさかねえ……。名古屋近鉄ビルの星野書店の方、もしここを読んでいらしたとしたら、ご愛読ありがとうございます。


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冬樹 蛉にメールを出す