間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


98年2月上旬

【2月10日(火)】
▼これまでの形でのオリンピックというお祭りは、そろそろ終焉を迎えつつあるのではないかと思うのである。人間の肉体に限界がないわけがない。たとえば、スキーのジャンプで500メートル跳ぶやつがいずれは現われるとは思えないのだ。オリンピックの記録が遺伝的に与えられたハードウェアの性能の限界にまで近づいてくれば、あとは十分の何ミリだの百分の何秒だのといった領域での争いになり、ウェアだの靴だのという外部に装着するハードウェア技術を競うことになってゆく。すでにドーピングの問題が象徴しているように、薬学や心身医学や生物工学、やがては遺伝子工学やロボット工学などが、ルールに触れない範囲で選手の肉体と精神を改造するために用いられてゆくようになるだろう。いや、そのルールが変わってゆくに決まっている。国家の威信をかけた“戦争の代理物”としてのありかたが変わらないとすれば、確実にそうなってゆくはずだ。そのうち、臓器移植を受けた選手は出場資格があるかとか、試験管ベビーの選手はどうかとか、医療や整形の目的で電子的な補助具などの人工物を体内に埋め込んだ選手はどうなるのだとか、“自然”と“人工”の境界で、記録を争うことの意義や目的が根本から揺れ動くことになってゆくだろう。人類はすでにみずからの肉体を設計図から改造する力を持つ瀬戸際まで来ている。サイボーグ同士が記録を争ってどうなるというのだ。よって、おそらく今後五十年以内くらいには、オリンピックはそのありかたを大きく変えざるを得ない問題に直面するにちがいない。原点に立ち返り、記録や勝敗などは二の次、三の次にした、スポーツを愛する者の国際親善の場として存続してゆくだろうか。あるいは、人間の肉体を用いた国際科学技術コンテストのようなものになってしまうだろうか。もし、ローマ人が高度な科学技術を持っていたとすれば、競技場でロボットとライオンを闘わせたり、サイボーグ同士に殺し合いをさせては、飛び散る血と肉と電子部品に熱狂したことであろう。ギリシア人がそれを見たら、どう思っただろう。おれはオリンピックがそんな形で存続しても意味がないと思う。高校生のロボット・コンテストのほうがずっと健全だ。

【2月9日(月)】
▼昨日書いた Have You Never Been Mellow が使われているCMであるが、今日はしっかり見て確認した。アサヒの十六茶のCMだ。十六茶はなにがなんでも小林聡美でなければならぬと思っていたため、急に稲森いずみに出てこられても十六茶だとは思えなかったのだった。小林聡美の降板はちょっと残念だなあ。彼女には十六茶を手に地の果てまでも出向いてもらって、「コウモリの丸焼きには、十六茶!」などと、にこやかに宣言してもらいたかったものである。まあ、稲森いずみもけっこうおれのツボにハマる顔形ではあるから、ひと月も経ったころには「十六茶は稲森いずみだ」とほざいているかもしれないが……。ここはひとつリバイバルで、稲森いずみに「やっぱりくっきりまったりどっきりはっきりゆっくりむっちりすっきりざっきりてっきりぱっきりぽっきりべっきりすっとりうっとりさっぱりの絶妙なブレンドってとこかしらね」とまくし立ててほしいと思っているのはおれだけか。
 それはともかく、ここへ来てこれほどの戦略転換を図るとは、アサヒも思い切ったことをするものだ。小林聡美をおばさん臭いと思っている人は多いようなのだが、彼女はすげー色気あるよ。点きっぱなしの色気なのではなくて、名は体を表わすとでも申しましょうか、ちょっとした演技の端々のほんの一瞬、あの聡明そうな目の光にどきっとすることがあるのだ。ま、その一瞬以外はたしかにおばさんではあります、ハイ。上げたり下ろしたり忙しいけど、稲森いずみなどはただただ健全な色気をのんべんだらりと垂れ流しているだけであって、顔は好みだが存在感がない。小林聡美のほうがずっと危険な女の魅力がある――と、思っているのは、やっぱりおれだけなのだろうか。誰か、賛成してよ。
 その点で最近ハマっているのは“りょう”である。どうでもいいけど、名字のないひらがなだけの芸名というのも、インパクトはあるが不便だ。文章で言及するときには、括弧でも付けないと名前に見えないじゃないか。世が世なら、こういう芸名はもったいなくもあまりに畏れ多く、不敬罪に問われたかもしれないよな。
 この“りょう”さんには振り回される。「なんだ、このブスは」と迂闊に眺めていると、だしぬけに、この世のものとも思われぬ、むちゃくちゃにかっこいい顔をするものだから、口をぽかんと開けて見とれてしまったりもする。さすがは元モデルだ。要するに、色気にメリハリがあるわけで、こういう人のほうが総体的に人を惹きつける力があると思う。テトリスをしていて、絶妙のタイミングで細長い棒が落ちてきたときのときめきにも似たものを抱かせる色気とでも言おうか(説得力のないレトリックだなあ)。で、オチがワンパターンだけど、小説にも面白さが垂れ流しのものと、メリハリが魅力のものとがあるよね。おれはもちろん後者のほうが好きだ。

【2月8日(日)】
▼体調悪し。身体がバリバリに強ばって、偏頭痛がひどい。仕事せにゃなあと思いつつも、一日寝る。生姜湯を飲もうと台所に行くと、ウィスキーの瓶が目に留まる。またろくでもないB級グルメの血が騒ぎ、生姜湯にウィスキーをワンフィンガーほど注いでみる。おお。これがなかなかいける。酒粕を抜いた甘酒のような感じで(というか、そのものなのであるが)、身体がぽかぽかと温まってくる。血行促進によいはずだ。ウィスキーそのものの香りは生姜にかき消されてしまうので、もったいないことおびただしいが、健康飲料だと思って飲むことにしよう。
▼テレビからとんでもない曲が流れてきて驚く。Olivia Newton-John Have You Never Been Mellow(「そよ風の誘惑」)である。いい曲なのに、いつ見てもひどい邦題だ。たしか日本語カバーもあったが、誰が歌ってたのか忘れた。このところCM音楽が80年代ポップスに席巻されている現象にはここでも幾度も触れているが、とうとう70年代まで遡ってきたのね。あまりに懐かしかったので、いったいなんのCMだったのかしっかり見ていない。なにやら缶入り茶のようなもののCMだったかと思う。
 このキャピキャピのころのオリヴィア・ニュートンジョンは、二十代以下の方はあまり知らないはずで、ジョン・トラヴォルタと映画で踊る元気なお姐ちゃんや、清純イメージを脱ぎ捨てた Physical 以降の妖艶な熟女として知られているはずである。イルカをいじめる極東の野蛮人に抗議してコンサートをドタキャンした怖いおばさんも、いま思えば70年代には妖精のようであったのだった。このCMで Have You Never Been Mellow を初めて聴いた若い人がいたとすれば、ちょうど山本リンダの「困っちゃうな」を聴いたような新鮮さを覚えるかもね。
 いまふと思いついたのだが、オリヴィア・ニュートンジョンが Have You Never Been Mellow を歌っていたころ、彼女はすでにカレン・カーペンターと親しく交際していたはずである。『カレン・カーペンター 栄光と悲劇の物語』(レイ・コールマン、安藤由紀子・小林理子訳、ベネッセ)によると、スーパースターどころか、精神的にはごくごくふつうの中流階級の子女だったカレンは、芸能界の水にはなじめず、芸能人の友人も少なかったという。そんな中で、数少ない親友のひとりがオリヴィアだったのだ。 Have You Never Been Mellow は、ちょっと年上のお姉さんが、とんがって生きてる若いコに向かって、「私もそうだったけど、もう少し肩の力を脱いたらどう? そのほうが人生楽しくてよ」といった調子で呼びかけている歌である。オリヴィアの作詞ではないが、彼女にしてみればカレンに歌いかけるような気持ちもちょっとあったんじゃないかと想像する。オリヴィアは、カレンより二歳年上だ。「あら、私の友だちにこういう人いるわ」と思ったんじゃなかろうか。なにしろ、カレン・カーペンターは、真面目が服着て歩いているようなキャラクターであり、じつは線が細いくせに、人前では自己を律することにきわめて厳格な面を見せる人であったそうだから(結局、その自家撞着的性格が禍いして、ああなったのだろう)、傍で見ている友人は「しんどいやろなあ」と思ったはずなのだ。オリヴィア・ニュートンジョンと話す機会など一生ないだろうけど、自己の精神が耐えられる以上の天才を与えられてしまったがために破滅することになる友人に向けて、No, I just want you to slow down. と歌っていたのではないかと訊いてみたい気もする。
 ちなみに、この曲、おれはけっこう好きで、もちろんオリジナル・キーでは歌えないが、一応カラオケのレパートリーには入れている。「そよ風の誘惑」って歳じゃないけどねえ。

【2月7日(土)】
▼なにやらバタフライナイフに関する表現行為の自粛があちこちで行なわれはじめているようだが、なあに、七十六日めにはなにごともなかったかのように元に戻るなんてことは、大人も子供もよく知っている。ひところ毎日のように新聞・雑誌・テレビを賑わせていたメチルホスホン酸モノイソプロピルっていったいなんだったか、あなた憶えてますか?
 でもって、七十七日めにはどこかで少年による放火事件が起こり、書店から『金閣寺』がしばし姿を消す。七十八日めにはどこぞでアホガキが窃盗事件を起こし、出版社は『ああ無情』を回収する。七十九日めには少年クラッカーが大企業のシステムに侵入し『ニューロマンサー』が返本され、八十日めには腎臓移植に失敗した病院の売店から『パラサイト・イヴ』が消えてなくなる。そして、八十一日めには本好きの少年が“キレ”て新書を凶器に先生を撲殺し、京極夏彦は読めなくなるのである――が、どれも発生から七十六日めには完全に元に戻るわけだ。だったら、最初からつまらない自粛なんてするなよ。冬季オリンピックでよかったよね。夏なら、水泳競技からバタフライが外されていたにちがいない。たとえば、ボールペンやシャープペンシルで人を殺すことは十分に可能だが、そういう事件が起こったらどういうことになるのか見ものである。シャープペンシルの携行が禁止され、文房具店にも置いてないなんてことになるだろう。学校は生徒たちに鉛筆と肥後守を持ってくるように指導したりしてね。これは結局、過剰な“言葉狩り”を生むのと同じ心性に起因する現象だ。哲学もポリシーもない、怠惰な事なかれ主義以外のなにものでもない。いまに“少年少女が携行してはいけないもののリスト”は、筒井康隆流に言えば、広辞苑よりも厚くなることだろう。

【2月6日(金)】
▼少なからずご要望が出ているので、第三回「○○と××くらいちがう大賞」を募集することにする。
 新しい読者の方のために改めてご説明しておくと、もともとこの遊びは日常会話に潤いをもたらすためのレトリックとして考案されたもので、ふたつのものが似て非なることを示す際に、それがいかに似て非なるか、わかったようなわからないような例を挙げる遊びである。たとえば、「行政改革と省庁再編ってのは、同じようでもちがうよね」「ちがうちがう。そりゃもう、バスマジックリンとバスクリンくらいちがう(昨日考えたやつだ)」といった具合だ。この場合、バスクリンでは古い湯に色と香りをつけて姑息にもう一日くらいは使えるようにすることはできるが、必ずしも風呂が抜本的にきれいになるわけではないという深い意味も込められている。このように豊かな会話(?)に用いるには、ふだんから似て非なるものの組み合わせをストックしておく必要があろう。そこで、なるべく面白い「○○と××くらいちがう」を、たくさん考えておこうという次第なのだ。過去の優秀作は、97年9月27日の日記(第一回大賞発表)や11月1日の日記(第二回大賞発表)に紹介されているから、ぜひご参照のうえ、勘どころを押さえてどしどしご応募ください。電子メールのサブジェクトに「○○と××くらいちがう大賞応募」と書いて、冬樹蛉宛にどうぞ。「○○と××くらいちがう」という書式に則り、一通に何作書いてくださってもかまわない。締切は2月28日。審査員はおれひとり。賞品は例によってなにもなく、この日記で名前と作品が発表されるだけの栄誉(?)が与えられる。よって、発表されてもよい名前(ペンネーム、ハンドルはもちろん可)を明記のこと。独断と偏見で選ぶから、その点ご容赦を。
 第三回のあるを見越して、早くもご応募くださっている御三方の作品から、代表作を参考までにご紹介しておこう。
 まず、はるばるニュージーランドからお寄せくださった宮崎恵彦さんの作品――「水鏡子と水餃子くらいちがう」 F&SF誌に紹介されていた『黙示録3174年』の続篇の抜粋を見た途端に思いついたのだそうである。MILIAさんの作品――「『戦争を演じた神々たち』と『戦争を知らない子供たち』くらいちがう」 なかなか美しい。南和宏さんの作品――「アパマンセンターとアンパンマン便座くらいちがう」 お子さんのトイレ・トレーニングの産物であるという。
 まあ、こんなふうな遊びです。第一回、第二回とも、書評家/童話作家の喜多哲士さんが大賞をさらっておられるので、ぜひ喜多さんを撃破する名作をお寄せいただきたい。

【2月5日(木)】
▼全文検索エンジンを用いて、自分のページへのリンクをたまに捜してみると面白い。全文検索といえば「goo」がいちばんのお気に入りなのだけど、こいつには大きな欠点がある。“蛉”という文字をちゃんと認識してくれないのだ。無視されてしまうのであろうか、“冬樹”で検索したのも同然となり、無数のページがヒットしてしまう。よっておれは、「goo」で自分の名に言及したページを捜すときには、「“冬樹”を含み“HOPE”を含む」という条件で検索する。URLを入力して逆探知してもいいのだが、それだとリンクを張らずにおれの名だけに触れてくれているページがヒットしないのだ。条件を「“冬樹”を含み“SF”を含む」としてやってみると、SFとミステリの両方を好む人は多いから、池上冬樹氏に言及している文章がうようよ出てくる。山田一郎とか鈴木二郎とかいう名の人はもっと苦労するだろうな。“めるへんめーかー”とか“かんべむさし”とかだと、ほかの言葉がヒットしてしまうことは、まず絶対にないだろう。もし歌手の高橋洋子氏が、「自分に言及しているページがどのくらいあるだろう」などと思い立ち全文検索エンジンを使ってみたとしたら、あまり役に立たないにちがいない。女優/作家の高橋洋子氏に触れた文章もどどっと出てくるだろうし、それ以上に全国津々浦々の高橋洋子さんのオンパレードになるはずだ。やっぱり複数のキーワードで絞り込むしかないよなあ。ちなみに「Infoseek Japan」は、ちゃんと“蛉”を認識するから好きだ。
▼最近アレを考えてないなあ、と例によって湯舟の中でネタを繰っていると、灯台下暗し大正デモクラシー、なんと目の前にネタがあった。「バスクリンとバスマジックリンくらいちがう」くれぐれもまちがって使わないように。

【2月4日(水)】
▼とうとうこの間歇日記「世界Aの始末書」のカウンタが、トップページのカウンタを追い抜いた。このところ、トップページに新規読者を呼び込む努力をあまりしていないのも手伝っているだろう。少なくとも、リンクしてくださっている有名サイトからたまたまいらした人よりも、この日記を読むことを明確な目的にして来てくださる人が多いということだろうから、喜ばしいことである。しかも、突発的な急増も激減もなく、珊瑚が育つようにアクセス数は伸びてゆくばかりだ。
 すでにお気づきのことと思うが、おれの生活は客観的にはまったく面白くないはずである。会社行って帰ってきて、テレビ観てCD聴いてスナック菓子食って本を読んで紹介書いてるだけの人生だ。特筆すべき“事件”がちゃんと起こっている日記らしい日記など、年に数日もあるだろうか。まあ、おれの場合は極端かもしれないが、たいていの人の日常生活って、似たようなもんじゃないのかな。あなたの家の居間には、毎日ちがう他殺体が転がっていたりしますか?
 かまぼこ板に残ったかまぼこを包丁でこそげ落として食うと、ともすると本体のかまぼこよりよほどうまかったりする。これぞ小市民のみが味わえる貴族の楽しみであって、美しい皿にきちんと盛り合わせられたかまぼこばかりたらふく食っている者にはけっしてわからない贅沢なのだ。あのかまぼこの屑みたいなことを、これからも書き続けてゆこうと思う。読者の方々が、ちりめんじゃこに小さな蛸が入っているのを見つけた程度の楽しみにしてくださるのなら、これに優る喜びはない。
▼たまには贅沢しようと、焼肉屋で昼食。750円の焼肉弁当を食う。あいにく小銭の持ち合わせがなく一万円札を出すと、お釣の千円札九枚の向きがきれいに揃っていた。これはいい店にちがいない。おれはお札を財布に入れるとき、向きが揃っていないと気色悪くてしかたがないのである。つまり、紙幣の肖像画が正しい状態になるようにし、もちろん表裏も合わせる。べつにこうしたからといって金が増えるわけでもなく、単なる習慣にすぎない。うっかり紙幣の種類をまちがえて渡してしまったりすることが防げるような気はするよね。
 しかし、である。よく考えてみれば、きちんと向きを揃えているほうがまちがいが起こりやすいのではあるまいか。一枚だと思って、重なったままの二枚を出しかねない。乱雑に財布に入っていたほうが、払うときにしっかり確認せねばならず、かえって安全なのかもしれない――そこで、財布にお札を入れておく最も合理的なやりかたを考察してみたい。
 仮に、一万円札を五枚、五千円札を四枚、千円札を十枚持っていたとしよう。こんなに現金を持ち歩いたら物騒だが、昨今では銀行に預けておいてもさほど危険度は変わらないような気もして、まあ、よしとしよう。まず、紙幣の種類ごとに束ねるのは異論のないところだろう。色盲の人は別として、色分けも為されてわかりやすい。次に、同種の札は、おれのように表裏を揃えるのではなく、一枚おきに表裏が互いちがいになるようにしておくのがよいと思われる。こうしておけば、指でめくって数えてゆく際、同じ図柄が連続して出現したら、あいだに一枚紛れ込んでいることになり、発見が容易だ。簡単なフールプルーフである。三枚一度にめくってしまったらうまく行かないが、紙幣の厚みを考えると、それに気づかない確率はきわめて低いだろう。もっとも、そんな面倒な順番に並べ変えているときに、二枚重なったままの札に気づかなければ元も子もない。
 より物理的な手段に訴えるとすれば、札入れの中に微細なアルミ粉かなにか(塩やメリケン粉などは水分を吸うのでよくない)をひとつまみ振りかけておくなどというのはどうか。紙幣のあいだに潜り込み、紙幣同士が密着するのを防ぐ効果があるはずだ。でも、指に付着して目に入ったりするのはよくないな。磁気カードなどにも悪影響があるだろう。
 結局いちばんいいのは、枚数をまちがえるほどの現金を財布に入れないことであるにちがいない。うむ。じつに合理的だ。となると、おれの財布はたいていの場合、おのずと合理的な状態になっている。めでたし、めでたし。

【2月3日(火)】
▼近所の回転寿司屋に道路へ向けてでかい看板が出ている――「一四一○○円ヨリ」。よくよく見ると「一一○○円ヨリ」と書いてあるのだが、会社の帰りなど夜目に見ると、しばしば“皿”が“四”に見えてしまうのだ。実際には縦書きの看板なので、ますます笑える。もう少し“皿”と“一”とを離して書けよ。
 似たような“一瞬の見まちがい”でぎょっとしたことは誰にもあるだろう。おれの見まちがいの最高傑作(?)は、エレベータに乗っているときのことであった。そのビルはなかなか洒落た造りで、随所にある案内の文字などもちょっと凝った書体になっていた。エレベータが停まって扉が開くと、「2F」「3F」などと階数を示す文字をはめ込んだアクリル板が壁際に立ててあるのが見える。ぼんやりしていたおれが、開く扉に何気なく顔を上げると、眼前に「SF」と書いた板が立っていた。言うまでもなく、「5F」だったわけだが、一瞬とてつもない不条理感に襲われましたぜ、あれは。
▼毎日毎日ガキがナイフを振り回している。今度の少年などは、拳銃欲しさに警官襲撃計画を立てたというのだから、あまりの幼稚さに頬が引き攣ってしまうよ。“浮浪者狩り”とか“おやじ狩り”とかいうのはあるが、ついに“マッポ狩り”をやるやつが現れたわけだ。犯罪者を極力生かしたまま捕らえるという捕物の伝統はよきものではあるが、もはやそういうことを言っていては警官自身が危ないのではないか。あの少年は運がいい。もし相手がアメリカの警官だったら、警告の余裕もない不意打ちを食らったのだから、間髪を入れず発砲しているはずである。運の悪いことにそいつがハリー・キャラハンだったりした日には、さして上等なものが詰まっているわけでもない少年の頭は、至近距離でマグナムを食らって水入り風船が弾けるように四散していたことであろう。まったく、あの少年はよい国に生まれたものだ。
 おれは日本のおまわりさんにアメリカの警官のような野蛮なことをしてほしくない。アメリカの警官だって、好きで発砲しているわけではないだろう。ああなっちゃったら、ちょっとやそっとでは後戻りは利かないのである。だが、敢えておれは言いたい。日本の警官も、もはや紳士でいられる事態ではなくなってきたようだ。今回のようなケースでは、すでに刺されている警官は、逃げる少年にうしろから警告を発し、それを無視されたら、脚を狙って発砲したっていい。するべきだ。悪いことをしたら、おまわりさんに撃ち殺されることだってあると、親にも殴られたことがないような軟弱なアホガキどもに思い知らせてやるべきである。また、ほんとうの悪いことというのは、それくらいの覚悟を持ってやるべきもので、昨今ナイフを振り回しているアホガキのやっていることは、悪事でもなんでもない。あれは、遊んでいるのだ。遊び相手にされて殺されるほうは、いい面の皮である。「そんな無茶を言うな。相手は子供だ。子供にも人権が……」という話もわからんではない。だが、あの少年がナイフのほかに拳銃を隠し持っていないことが、あの状況で警官にわかるか? わからない。したがって、警官にもわが身を守る権利がある。撃たなければ自分の命が危ないのなら、相手が子供だろうが射殺したってかまわない。今回にしても、みずから傷つきながらも警官がうまく少年を取り押さえられたからよいものの、取り逃がしていたら、通りすがりの人を刺したかもしれないのだ。
 おれは暴力が嫌いだ。嫌いだが、世の中には、理屈抜きで襲ってくる暴力というものは巌として存在する。そういうものが存在することを、子供が幼いうちに親が教えてやるべきだと思う。子供のいないおれが言う筋合いじゃないかもしれんが、「これは悪い」と親が判断したのなら、自分の子くらい自分で殴れ。安月給の先生に厭な仕事を押しつけるな。言葉の通じないうちの子供はまだちゃんとした人間じゃないのだから、善悪を教えるには動物の調教と同じ方法を取るしかないではないか。親だって人間だから、感情的になることもある。全然論理的じゃないこともある。それでいいじゃないか。殴られた子供のほうでは、身に覚えがあれば反省するであろうし、「なんで殴られるんだよ」と理不尽さを感じれば、言語をうまく操れない自分をもどかしく思いながら、言葉で対抗する手段を学習してゆくものだろう。言葉で論理を駆使する段階にまで成長すれば、無闇に殴ることはやめ、親も言葉でものごとを教えてゆけばよいではないか。おれは率直に思うのだが、理不尽な暴力を振るわれたことのない人間に、はたして暴力を憎む気持ちが育つだろうか?
 自分の子も殴れなかった親が、偉そうに教師の体罰に反対しているのを聞くと、おれは虫酸が走る。子供がまだ動物のころに、おまえが殴らなかったから、先生がキレて遅きに失するなんの効果もない暴力をいまごろ振るってんだよ。子供がまだ野獣のときに、おまえがいい子ちゃんしておいしいとこ取りしたから、おまえの子は世の中に暴力というものがあることを知らず、先生に生まれて初めて殴られて混乱するんだよ。何度でも言っておきたい。子供が人間になる前に、自分の判断で親が自分の子を殴れ。さもないと、おまわりさんに銃弾を食らって初めて、この世界には圧倒的な暴力が存在することを学習する子供が大量生産されることになるだろう。おれはそんな社会には住みたくない。

Lost in a Roman wilderness of pain
And all the children are insane
All the children are insane
Waiting for the summer rain
〜 The End, by The Doors 〜

 このところ、気がつくと口ずさんでいる。Jim Morrison というのは、まったくすごいやつだ。もっとも、子供の気が狂うことにかけてはアメリカのほうが大先輩なのだから、三十年前とはいえ、詩人のアンテナに引っかからないわけはないのだが……。

【2月2日(月)】
▼ふだん行かないレコード屋(って言っちゃうのだ、おじさんは)に仕事の帰りにふらりと入ってみる。客はおれひとり。いくら閉店間際とはいえ、潰れるのは時間の問題だろうなあ。とくに目当てがあったわけでもないのだが、最近80年代の海外ポップスばかり聴き直しているので、たまには日本人も聴こうと岩崎宏美『Shower of Love』(ビクターエンタテインメント)を買う。
 おれは基本的に女性ヴォーカル・フェチだから、岩崎宏美の声もけっして嫌いじゃない。だが、いままで曲はそれほど好きではなかった。歌唱力はすごいのだが、パワーが裏目に出て押しつけがましい感じがあり、なんだかねちこいのである。頭痛のときに岩崎宏美や広瀬香美やチャカの声が聴きたいという人がいるだろうか? 頭に突き刺さってきそうだ。頭が弱ってるときは、身体をすり抜けてゆくような声のほうがいい。白鳥英美子とか橋本一子とか上野洋子とか原田知世とか。
 なのになんでまた岩崎宏美に手を出してみたかというと、最近ちょっと認識を改めているからである。きっかけは、関西の人ならご存じだろうけど、去年『新・部長刑事 アーバンポリス24』(朝日放送)のエンディング・テーマに使われていた「BELIEVIN'」(最近観てないから、まだ使っているかどうかは知らない)を聴いて、おやおやっと思ったことだった。変だ。岩崎宏美なのにねちこくない。ほどよく力が脱けている。いったいこれは誰の曲だろうとクレジットを睨んでいると、「作詩・作曲 吉田美奈子」。おおお、道理で、とおれは大きく肯いた。岩崎宏美がねちこく思えたのは、多分にいままでの曲のせいであったのだ。とにかくうまい人にはちがいないから、とくに張りのあるパワフルな音域ばかりを強調しようとする作りの曲を歌わされていた面があったのだろう。吉田美奈子のこの曲はちがった。岩崎宏美カラーを塗り変えてやろうという企みを感じた。されど、今井美樹には、まだこの曲は歌えそうで歌えまい。岩崎宏美の高音域の魅力をうまく活かし、いつもならこちらにまっすぐ突っ込んでくる“岩崎宏美声”を、天空に抜け広がらせるように導いている。ううむ、吉田美奈子はいい、すごい。
 というわけで、食後、買ってきたCDをさっそく聴いてみる。吉田美奈子が三曲も書いている。こんなのが去年の秋に出てたんなら、さっさと買っておくんだった。いいぞ。このアルバムはいい。この歳になって岩崎宏美のファンになってしまいそうである。このアルバムから岩崎宏美が嫌いになったという人もたぶんいるんだろうが、おれにとっては儲けものだった。たまには、ふだん手を出さないものも思い切って買ってみなくてはいけないね。本もそうだよな。

【2月1日(日)】
▼教師を刺殺した栃木県の中学生の個人情報(と称する情報)を、大阪市内のどこぞのBBSに流した阿呆が出たとのこと。この阿呆は、手前のやっていることと、件の中学生がやったこととが、質的に等価であることに気づいていない(だから阿呆なのだが)。すなわち、己の卑小な器以上の力を持つ道具を手にしてしまい、その道具に操られてしまったのだ。ひとたび手にすれば人を斬らずにいられなくなる妖刀の言い伝えなどがよくあるが、あながち作りごととばかりは思われない。実際に、あまりに妖しい美しさを持つがゆえ、人間の攻撃衝動に過剰に作用してしまう刀がたまたまできてしまったことはあるのかもしれない。精神の不安定な者がそれを持って暴れる事件が一度ならず起これば、誇張された言い伝えとなることもあったろう。
 パソコンだってインターネットだって、現代の妖刀と心得ねばならない。その魔力を制御する知恵を与える教育こそが、アプリケーションの瑣末な操作を教えることなどよりはるかに重要である。もっとも、教え子のヌードをネットに流して喜んでいるような先生を採用してしまう文部省など当てにはならないから、妖刀に操られてふらふらしている阿呆を見つけたら、せいぜい大人が喝を入れてやるようにしよう。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す