間歇日記

世界Aの始末書


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98年5月上旬

【5月10日(日)】
▼先日買った“時短ビデオ”は非常に具合がよろしい――のだが、二箇所気に食わない点がある。
 その一。以前使っていたやつは、テープの巻き戻しの最中に電源スイッチを押すと、巻き戻しが終わると同時に電源が切れるようになっていた。これは意外と重宝な機能だったのだが、今度買ったビデオデッキにはそれがなく、巻き戻しが終わるまで待ってから電源を切らなくてはならない。これが“いらち”のおれにはつらい。もっとも、こうした機能はテープの巻き戻し速度が遅かった時代には非常にありがたみがあったのだが、昨今では巻き戻しに要する時間がむかしのデッキよりも短くなっているため、敢えて必要ない機能だと切り捨てられてしまったのかもしれない。とはいえ、巻き戻し時間がゼロになったわけではないから、やはり欲しい機能なのである。たとえば、この機能があれば、急いで出かけるときなど、操作だけして家を飛び出せる。駅へと歩いている最中に家では巻き戻しが終わり、自動的に電源も切れて予約録画待機状態になっているという次第だ。
 その二。倍速再生中や早送り再生・巻き戻し再生中にも言っていることが聞き取れるよう補正された音声が出るのが“時短ビデオ”の売りなのだが、これはあくまで主音声のトラックにしか利かない。おれは二か国語放送を副音声だけで再生する(要するに、英語圏の映画は英語で観る)ことが多いから、副音声トラックもぜひ可変速で再生してほしいのである。録画した映画などを英語で観ていて早送り再生や巻き戻し再生をすると、そのときだけ日本語の音声トラックが再生されるからなにやらちぐはぐな感じがするし、どの台詞まで早送り(巻き戻し)したものか判断しにくい。変速再生中に主音声・副音声どちらのトラックを再生するかを選べるようにしてくれれば満点なのだが……。
 まあ、特売で買っておいて、あまり文句を言ってはいかんな。その他の点は、概ね満足している。なにより時間を生み出してくれるのがいい。ひとつ笑える機能があって、こいつが予想外に面白い。“ゆっくりモード”というやつだ。説明などが早口で聞き取りにくいときに使えと説明書には書いてある。この“ゆっくりモード”に切り替えると、リアルタイムで観ていてもテレビの音声が減速されるのである。バッファ・メモリにトラックの音声を溜めこみ、音声部分を無音声部分にずれ込ませているらしい。人間が喋っている速度は落ちるが、波形が補正されているのか、声質などはそのままだ。先週、デッキを接続してテストしていたとき、たまたま『徹子の部屋』をやっていて、「なるほど。この“ゆっくりモード”なる機能は、年寄りが黒柳徹子の喋りを聞くときに使うのにちがいない」などと勝手に納得し、試しに“ゆっくりモード”に切り替えてみて大爆笑。黒柳徹子がラリっている。声質が変わらず速度が落ちると、あたかも酔っ払っているかのように聞こえるのである。これはしばらく遊べそうだ。いろんな人をラリらせて(言いにくいな)いる不埒な日々である。

【5月9日(土)】
▼今週と来週の『ウルトラマンダイナ』(TBS系)は、前・後篇の大阪・神戸ロケもの。なじみ深い場所があれこれ出てきて楽しい。ふつうのドラマにそういう場所が出てきてもべつになにも感じないのだが、怪獣が暴れると楽しいんだよなあ、これが。やっぱり、こう、日常が破壊される感じがいいのかも。TWIN21は、じつは“PWI研究所”なる大それたところだったことが判明。PWI研究所内には一階と四階に本屋があって、四階のほうには洋書のペーパーバックも売っている。前に行ったときには、やたらアン・ライスが揃っていたものだが、最近はどうなんだろう。マンガもなかなか濃いところが入っているし、ハヤカワ文庫や創元SF文庫も売場面積が小さいわりには置いてあるほうである。やはり松下――じゃない、PWI研究所の人にはSFファンも多いのだろう。
 それにしても、だ。ダイナはたしか西暦二○一七年だかが舞台のはずだが、冥王星付近で起こった事件に対する地球での反応が早すぎないか? 冥王星が太陽に目一杯近づいているときですら、光速でも地球からざっくり四時間はかかる距離だろう。理科年表見ながら電卓叩けば、英文科卒のおれでもわかる。超光速通信が実現されているのだろうか……と、しばらく見ていると、今度はスーパーGUTSが冥王星に駆けつけるのに超光速駆動らしきものを使っていて、思わずのけぞる。おいおい、あと二十年もしないうちにそんなもんが発明されるとは思えんぞ。しかも、その超光速航行モード(??)らしきものに移る直前、宇宙艇が前後にびよ〜んと伸びるのだった。縮むというならわからんでもないけど(観察者の位置や運動状態にもよるだろうが)、伸びはせんでしょう、伸びは!? まあ、未知の駆動だから断言はできんけども(どっかの設定本かなにかに詳しく載っているのだろうか)。
 どうもこの『ウルトラマンダイナ』の世界、民生用の科学技術と軍事用のそれとがむちゃくちゃにちぐはぐでリアリティーがない(リアリティーを求めるのが悪いんだが……)。おまけに、スーパーGUTS内部の技術もちぐはぐである。先週のエピソードで判明したのだが、彼らの飛行艇ガッツイーグルの主砲(?)トルネードサンダーは、強磁界を発生する怪獣に簡単に曲げられてしまう程度の、ただの荷電粒子ビームであるらしい。なのにこの人たち、冥王星まであっという間に行ってしまうのである。超光速駆動機関が発明されているのなら、時空に作用して標的を破壊するような、もっと強力な兵器がなにか開発されていそうなものだ。『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲がそうですわな。もちろん子供向けの番組なのだからヤマトにだって妙なところやご都合主義はあったけれども、異星人に教えてもらった未知の推進機関の原理を、地球人の工夫で兵器に転用するといった“ツボ”は、さすがにきちんと押さえてあった。嘘と言えばみんな嘘なんだが、嘘の中で屁理屈を捏ねまわして説得力を出す工夫があった。そういう面白さって、大事だよ。『名探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』だって(質にはかなり差はあるけど)あれだけ人気があるわけだから、大嘘の中で屁理屈を組み立てる面白さは子供にも通じると思うんだけどなあ。その屁理屈のところが、SFとミステリが共有する面白さのひとつだったはずだ。おれはないものねだりをしているのだろうか。ダイナを観るときは急に“堺三保モード”になっている自分を感じないでもないけど、屁理屈を組み立てる努力をあまりにあからさまに放棄されると、「なんだかなあ」と思ってしまうんだよね。喜多哲士さんじゃないが、なんだかこのところぼやいてばかりいるなあ。
 ところで、なぜか今週のエンディング主題歌は『君だけを守りたい』(中島文明)に戻っていた。放映時期がずれたのか、それともLAZYの曲は評判がよくなかったのだろうか。

【5月8日(金)】
『重力から逃れて』(ダン・シモンズ、越川芳明訳、早川書房)を読了。うーむ。シモンズが技巧面で優れているのは否定のしようがないが、どうもこの作品は“技巧だけ”という気がする。SF味が薄いことに文句を言っているわけではもちろんない。おれはスリップ・ストリームも大好きだ。だが、これはスリップ・ストリームとしても成功しているとは言い難い。技巧が優れているだけに、いっそう薄っぺらさが引き立ってしまうのだ。巧すぎることがマイナスに働く場合もあるのだよなあ。どうした、ダン・シモンズ。同じ月から帰ってきた男の話なら、日野啓三『光』(文藝春秋)のほうが数段上だぞ。もっとも、『光』を読んでしまっているから『重力から逃れて』の粗が目立ってしまうのかもしれないが……。シモンズが『光』を読んでいたら、『重力から逃れて』をついに書けなかったか、ライバル意識を燃やしてもっと普遍的な掘り下げを行なっていたことだろう。『光』は宇宙開発などに縁のない国の人々が読んだとしても深層に訴えかけるパワーがあるだろう。それに対して、『重力から逃れて』はあまりにもアメリカ的すぎる。たしかに、すぐれてローカルなものはグローバルに通じるものだけれども、この作品は悪い意味でローカルだ。アメリカ人としてのトラウマをナイーヴに描きすぎで、それを文学的普遍性にまで消化/昇華し切れていない。
 この程度のものでも読者を惹きつけてぐいぐい読ませてしまう非凡な筆力を逆説的に褒めることはできる。ただ、おれはそういう小説に魅力を感じない。シモンズは、ちょっと“器用貧乏”に陥りかかっているんじゃないか?

【5月7日(木)】
SFセミナーの合宿企画「パソコンネットワークとSFファンダム」で、カエルのホームページを作っているとおっしゃっていた女性の方、貴サイトをぜひ拝見したく存じますので、ここを読んでいらしたらメールでURLをお教えください。おなじみのサイトのみなさんと名刺交換などしているうちに、お名前とURLを訊きそびれてしまったのです。
大森望さんが98年5月3日の狂乱西葛西日記で、「ホールドマンのForever Peaceは、冬樹蛉の話を聞くかぎり、やっぱりダメな感じ。」とおっしゃっているが、誤解を招くかもしれないので、ちょっと補足。これはあくまで、おれの紹介したあらすじをお聞きになったかぎりでは、大森さんご自身はあまりよい作品だと思わなかったという意味でおっしゃっているのであって、おれが直接「ダメな作品」と言ったわけではないので、そこんとこよろしく。むしろおれは、Forever Peace 『終りなき戦い』(ジョー・ホールドマン、風見潤訳、ハヤカワ文庫SF)を凌ぐ作品だと思っている。おれの口頭での紹介が下手なせいもあるが、線的にあらすじを述べてゆくと面白さがうまく伝わらない類の輻湊したプロットの作品なので、必要以上に味もそっけもなく聞こえてしまったきらいもあるのかもしれない。Forever Peace は、『終りなき戦い』に比べて、キャラクターの書き込みに一種純文学的なほどに力が入っており、それでいて、SFの骨格もけっしておろそかにはしていない。キャラの魅力で読むタイプの読者が若い人にはとくに増えてきているという感触をおれは持っているから、その点でコアなSF読者以外にも十分受け入れられ得る作品だと、おれは評価しているのである。
 あの場にいらした方の中にも、大森さんと同じような印象を持たれた方がいらっしゃると思うが、要約が下手だといかにもつまらなさそうな作品というのはあるのだ。

『結晶世界』って、どんな作品?」
「世界が結晶する話だよ」
「じゃ『沈んだ世界』は?」
「世界が水に沈む話」
「それじゃ、『溺れた巨人』は?」
「巨人が溺れる話」
「……なんだか、どれもつまらなさそうね」

――これはちょっと極端だが(笑)。
 ともかく、どなたがお訳しになるかはわからないが、戦争と平和の本質をSFの手法で抉った異色の戦争文学として、おれは強く推したい。

【5月6日(水)】
▼夜はスナックになる喫茶店で、昼飯に焼肉定食を食う。肉きれを口に運びながら、目の前に置かれた味噌汁の椀を見ていると、突如、椀が左から右へ、ついーっと意志あるものがごとくに移動した。椀の糸尻とテーブル面とで密閉された空気が味噌汁の熱で膨張して椀を押し上げ、テーブルがかすかに傾いていることも手伝って、ホバークラフトの要領で椀を滑らせているのである。こんな粗末な木製の椀が精密加工されているはずもないから、糸尻とテーブル面とのあいだには肉眼で確認できないほどの隙間があって当然だが、椀の底がかすかに濡れていたため、水が糸尻内の空間を密閉しているのだ。水ってのは、ありふれていながら、まことに不思議な物質だ。きわめて比熱が高いからこそ、テーブルに運ばれてきてからも相当長いあいだ熱を発散し続けて糸尻の空気を膨張させるほどのことができるわけだし、その分子は電気的に分極しているからこそ強い表面張力を発揮して、椀とテーブルとのあいだのわずかな隙間を塞いでしまう。味噌汁の椀が這いずった程度のことでも、なにやら感動的である。
 おれは、ずずっ、ずずずっと、ひとりでにテーブルの上を移動してゆく味噌汁をしばし見ていたが、やがて誰に言うともなくつぶやいた――「……『ストーカー』

【5月5日(火)】
▼昼ごろ起きだし、ビデオの設定にかかる。なにしろテレビが古いものだから、前のビデオを買ったときの電器屋が相当苦労して変則的な接続のしかたをしていたのをいまになって知る。リモコン操作すらできない十九年前のテレビ(まだちゃんと映っている)を、なんとかかんとか現代のビデオデッキ(笑)に接続した。今度買ったデッキは、三洋電機の“時短ビデオ”というやつだ。要するに、早回しにしても音声が補正されてちゃんと人語が聞き取れるのである。何年か前から三洋が売りにしている機能で、次はあれにしようと目をつけていたのだ。というのは、おれは相当外道なビデオデッキの使いかたをするからである。テレビを観るとき、おれはリアルタイムで観ていても、必ず録画しながら観る。こうしておくと、「あれ、いまの地名の文字遣いはどうだったかな?」とか「おっと、この昆虫はどこに棲息するんだっけな。さっき言ってたはずだが……」などというとき、すぐ巻き戻して確認できるからである。こんな使いかたをしていたら、たちまちテープの画質が落ちてくるから、おれはこういう用途に使うためのバッファ用クズテープを決めて、いつもデッキに入れっぱなしにしているのだ。ニュースなどは敢えてビデオに録画して、あとから早送りしながら観るほうが時間の節約になる。“時短ビデオ”は通常再生の倍速で音声が聞き取れるから、おれみたいなユーザに持ってこいだ。さっそく使ってみると、非常に具合がいい。ふつうのニュースがいかに無駄なことに時間を割いているかがよくわかる。三十分のニュースなんぞ、十分あまりで“流し観”することができ、必要な情報はちゃんと得られる。うむ。これ考えたやつはえらいぞ。さすがは小林泰三さんのいる会社である――って関係ないか。パソコンと並んで、またひとつ時間を捻出するツールが増えた。
▼で、時間がどんどん湧いて出てくるかと思えば、全然そんなことはない。ハヤカワ文庫の解説ゲラを校正、夜中に締切ドンピシャリでメール入稿する。今度のは与えられた枚数が多かったから、かなり書きたいことが書けた。解説というやつは、それを立ち読みして買うかどうかを決める人も少なからずいるわけで、基本的には宣伝ではあるのだが、私的にどうしても書いておきたいことが必ず出てくるもので、宣伝と論評との折り合いをつける部分が難しい。学者が書くのならいざ知らず、たかが木っ端レヴュアーのおれが仮にガチガチの論文を書いたとしても、しょせん学者の猿真似文体にしかならない。読者は小説が読みたくて文庫本を買っているのであって、せっかくいい気分で読み終えたあとにお堅い論文など読みたくはないだろう。おれの場合は、それなりに歌って踊ることが求められているのだろうと勝手に考えている。「解説なんて、あとにも先にも読まないよ」という人もいるらしいのだが、そんなこと言わずに解説も読んでやってくださいね。

【5月4日(月)】
▼結局、企画終了後も一睡もせず、朝までいろんな人たちとお喋り。会社の出張でもないかぎり、東京なんてのは年に二、三回も行けばいいほうなので、滅多に会えない人も多い。もっとも、京都SFフェスティバルでは毎年会ってる人もけっこういるわけだが。
 今回の初対面は、風野春樹さん。思ったより丸っこい感じの方で、岸田森が縁なし眼鏡でもかけたような風貌を想像していたおれには意外だった。精神科のお医者さんと聞けば、香山リカ氏みたいな目つきの怖い人をなんとなく想像しちゃうじゃないか。マスコミ界を震撼させる、かのタニグチリウイチさんとも初対面。タニグチさんはだいたい想像どおりの、いかにも新聞記者という感じの方だった。絶版本復刊運動をやっている「書物の帝国」溝口哲郎さんにも初めてお会いした。いかにも古本の好きそうなタイプ(てな外見があるものかどうか知らないが)である。
 翻訳家の内田昌之さんとも、お話したのは今回が初めて。今月出る『終末のプロメテウス(上・下)』(ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースン、内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)の解説を、光栄にもおれがやらせてもらったご縁もある。おれの解説で名訳がぶち壊しになっていなければいいが……。いま、誰にでも薦められる良質のエンタテインメントSFの訳者と言えば、内田さんの名がいちばんに挙がるだろう。翻訳SFの裾野をがっちりと固めて、常連SF客以外の読者を惹きつける内田さんのお仕事は、いまの日本のSF界にとってじつに貴重だ。むろん、クリストファー・プリーストやイアン・マクドナルドなど、通好みの先鋭的な作品をカバーする古沢嘉通さんのような方のお仕事も、常連SF客には欠かせない。古沢さんのお仕事が酒飲みの好む珍味だとすると、内田さんのお仕事は玉子焼きやハンバーグである。してみると、“冬の時代”などと風説が流布されているわりには、通向けから大衆エンタテインメントまで、訳される価値のある作品は、なかなかどうしてきちんと出ていると思うぞ。
 さて、ほかにも今回のセミナーでは、森下一仁さん、大森望さん、喜多哲士さん、森山和道さん、平野まどかさん、野田令子さんなどなどなど、ひさしぶりにお会いした方々といろいろお話ができた。うーむ、こうして見ると、さながら生ネットサーフィンという様相を呈しているな。
 昨年と同じく、朝はシンプルに解散。いつものパソ通友だち組と朝飯を食って、東京駅へ。連休がもう少し長ければ、あと一泊くらいして首都圏の友人たちと騒ぎたいのだが、いたしかたない。なにしろ、この時点で、三十六時間一睡もしていないのだ。などと言いつつ、東京駅付近でCD屋に立ち寄り、適当なものを見繕って買う。帰りの新幹線は、下りのうえにまだ昼だから、ゆったりと座れた。身体は疲れているが、あまり眠気はない。神経が立っているのだ。うとうとしているうちに京都駅に着く。せっかく京都駅まで来たのだからと、デパートの電器店を見てまわっていると、そこそこのビデオデッキが手ごろな値段で特売されている。いずれ買わねばと、壊れたビデオを長々と放置していたが、ついに録画できるビデオデッキ(笑)を買った。それにしても、前のデッキは十年以上使ったんだから、おれはじつにもの持ちがよい。その間の修理代で新品が二台は買えているだろう。損したのやら得したのやらさっぱりわからない。
 でかい荷物が増えたので、さすがに観念し駅からタクシーで帰る。家に這いずってゆき、泥のように寝る――はずだったのが、すぐ晩飯の時間になってしまい、晩飯を食ってから、ようやくスイッチが切れるように布団に倒れ込む。

【5月3日(日)】
▼昨晩、晩飯を食ってすぐに寝て、夜中に起きた。SFセミナーに行かなくてはならないので、夜中に寝たのでは絶対起きられないからである。夜中に無事目覚まし時計が鳴り、なんとかかんとか布団から這い出すが、自分で目覚ましをセットしておきながら、なにが起こっているのかさっぱりわかっていない。こんな時間に目覚ましが鳴ったからには、起きているときのおれがなんらかの計画を立ててしでかしたことにちがいないのだ。なんだかよくわからないが、とにかく煙草を一本吸っているうちに事情を思い出す。そのまま朝まで本を読み、朝方にあわてて荷作りと身仕度をしているうちに、すっかり遅くなってしまい、六時すぎころ家を出る。
 新幹線を予約していないから、みどりの窓口にダッシュ。ダメモトで当日指定をしてみるが、指定席は思ったより混んでいて、席の取れる列車に載ったのでは大幅に遅れてしまう。ままよと自由席にし、いままさに発車しようとしている七時のひかり号に飛び乗る。自由席ももちろん満員だが、米原や岐阜羽島に停まる列車だから、うまくすれば座れるだろう。デッキで東京創元社からのリーディング用コピー原稿を取り出し、立ち読みをはじめる。米原で六人組が下車、あわてて座席を確保する。よかった、座れた。そのままリーディングを続け、東京までに全部読む。
 東京もやたら暑く、十時半ごろ汗だくになって全逓会館にかけつける。やっぱりちょっと遅れてしまった。あれこれ手続きをしていると事務局の古田尚子さんが、「どーもー、夜はよろしく」とやってきた。これはべつに古田さんがおれに不倫をしようと呼びかけているのではなく、合宿企画の「最近こんなの読んだぞ,ふたたび(スキャナー・ライブ)」でネタを披露しろと言っているわけである。ネタはないが、企画のゲスト扱いなら夜の部はタダになるとおっしゃるので、なんとかなるだろうと腹を括る。現金なやつである。
 缶ジュースを飲んでひと息ついてホールに入ると、最初のプログラムがはじまったばかりだった。壇上では、ふつうの速度で喋る大竹しのぶのような女性に大森望さんがインタヴューしている。おお、あれがいままで覆面作家だった恩田陸氏にちがいない(って、そうでなかったらえらいことだ)。さて、ここからはレポートついでだが、ジャーナリスティックなレポートはほかの方々にお任せするとして、おれは日記まじりで簡単にご紹介するのみとしよう。

「血は異ならず――恩田陸インタビュー」(出演/恩田陸、聞き手/大森望
 デビュー以来、勤務先に内緒でOLと作家との二足の草鞋を履いてらした恩田氏だが、この四月末に某企業を退社なさったそうで、顔出しOKになったということである。日本で女性が会社員でいながら作家業をやり続けるというのは、想像するだに困難であったにちがいない。晴れて作家専業になられたのは、出版界にとってはめでたいことである。
 未公表の新作の仮題が壇上にホワイトボードに大書してあり、大森望さんが次々と構想中のプロットを聞き出してゆくという企画である。唐突に「あたしは○○が好きなんですよね」と着想のきっかけを明かしてゆく恩田氏の語り口が妙に面白い。やはり作家というのは、はっきりした自分の好き嫌いでつまらんことに妙にこだわっては、あれこれとこねくりまわしてゆくものらしい。作家がみんなそうだというわけではなかろうが、少なくとも恩田氏はそういうタイプらしい。おれがいちばん気に入ったのは、中小企業が戦車を作るという話。『魂の駆動体』(神林長平、波書房)みたいなのを連想してしまった。

野田昌宏、SFを語る「宇宙を空想してきた人々」(出演/野田昌宏、聞き手/牧眞司
 コンヴェンションにあまり出かけないおれは、野田大元帥のご尊顔を生で拝したのは初めてである。NHK人間大学にいよいよSFが登場することになり、講師を務められる大元帥が抱負と裏話を語った。レイ・ブラッドベリの名作短篇「万華鏡」を読んだことがない人が会場に多少いると知り驚いた大元帥、「死ね」とひとこと、厳かにおっしゃった。後世に語り継がれるべき名言であろう。まあ、若い人もいるんだから、お許しください。

オンラインSF出版の現在(出演/福井智樹電子書店パピレス]・坂口哲也SFオンライン]、司会/阿部毅[早川書房])
 おなじみパピレスとSFオンラインのデモを交えて、WWWの二大商業SFサイト(と言ってもいいだろう)それぞれの経緯・現状・今後の抱負が語られた。話題が話題だけに、冒頭、どのくらいの人々が“ワイアード”されているか、会場に挙手を求めての簡易調査。ある程度予想されたこととはいえ、SFセミナーのほとんどの参加者がパソコン通信・インターネット両方の利用者であり、しかも、勤め先でだけ利用しているのではなく、大半が個人でアカウントを取っているのには改めて感心した。SFファンというやつは、やっぱり新しいもの好きなのだろう。文科系でもコンピュータに抵抗のない人が多いにちがいない。
 パピレスとSFオンラインそれぞれの事情はよくわかったが、旧来の出版と電子出版の未来について、いま少し社会科学的・文明論的に突っ込んでほしいと思った。もっとも、それにはちょっと時間が足りないだろうから、今後同様の機会があれば、出版の未来そのものについてSF的に考察するパネルなど企画してみてはどうか。
 紙媒体の出版に長年携わってこられたSFマガジン前編集長の阿部毅さんがおっしゃるには、原稿の執筆・入稿方法ひとつ取っても、SF関係の作家やライターは、ほかの分野に比べるとコンピュータを導入するのが早いそうだ。紙原稿の郵送やFAX入稿から、パソコン通信やインターネットによる電子入稿(たしか大森望さんは“ハードディスク入稿”をなさったこともあるはずだが)まで、入稿方法の変遷を直に見てきておられる現場の方の述懐だけに興味深い。SFの人の感覚で他分野の人と話をすると話が噛み合わないことも多いので、気をつけねばらないらしい。まあ、それはSFファンなら、日常生活でも感じているでしょうけどね。

SFと優生学(出演/中村融長山靖生
 個人的には、いちばん考えさせられたパネル。医学技術の進歩により、優生学が気づかないうちにわれわれの日常に忍び込んできているという中村氏の指摘には深く肯く。続いて中村氏は、SFにも反映されてきた優生学の勃興・変遷を、H・G・ウェルズの作品を中心に語った。長山氏もなかなかの早口で、単位時間あたりの情報量は本セミナー最高(推定)。マシンガンのように蘊蓄を繰り出す中村氏の話しぶりは、さながら「集中講義」(かんべむさし)のようで(話半分ですよ)、じつに刺激的であった。「優生学を振りかざす連中は必ず自分の所属する集団が優れていると主張するもので、自分たちは劣っているから滅ぼせと言ったやつはいない」という中村氏の指摘は痛快だ。
 おれが思うに、ダーウィニズムを鈍感に曲解した優生学は、自然の虎の威を借りて“トンデモ”科学のように繰り返し現われるのだが、要するに多様性の否定なので、現在の知見に照らせば、バイオスフィアの弱体化にしか繋がらないはずだ。だいたい、ある生きものが“優れている”かどうかは結果論でないと判断できない。いや、すでに絶滅した生物の中にも、地球環境の歴史がちょっと変わっていれば、栄えまくっていたやつがいたやもしれない。バイオスフィアを構成する各生物種の優劣は、ある時間軸で輪切りにして決定できるようなものではないだろう。敢えてあたりまえのことを言えば、環境の流転の中で柔軟に変化しながら存在し続ける地球の全生命が“ひとつの生命”なのであって、あの生きものは優れている、こいつは劣っているなどと云々するのは、肝臓と腎臓はどっちが優れているかと言っているに等しい。ましてや、同じホモ・サピエンスの個体間に生物としての優劣をつける思想など、右の腎臓と左の腎臓はどっちが優れているかの判断基準を捏造している似非科学にすぎない。
 いかなる思想や宗教も、生物の多様性を減じさせようするものは、つまるところわれわれの生命圏の自殺に繋がる。病気や障害と看做される個体も、生きものとして生まれたからには、その存在自体が劣っているのではない。それも多様性の一部だ。今後も、優生学の流行があるにちがいないが、見つけたらその都度叩き潰す必要があろう。

オリジナル・アンソロジーの可能性(出演/井上雅彦日下三蔵、司会/星敬
 新たな短篇エンタテインメントの牙城(!)として注目を集めている廣済堂出版の《異形コレクション》シリーズを監修する井上雅彦氏と、日本のエンタテインメント小説の生き字引き・日下三蔵氏を迎えて、こちらもまた日本SFの歩く百科事典・星敬氏のリードで、《異形コレクション》の画期的アプローチがあきらかにされた。話を聴けば聴くほど、井上氏の着眼の鋭さと企画力には感服させられる。《異形コレクション》のような企画が作家側から出てきたのは、じつに面白いことだ。

 さて、夜の部だが、おれが聞きに行ったのは「日本SF全集を出そう!」「最近こんなの読んだぞ,ふたたび(スキャナー・ライブ)」「パソコンネットワークとSFファンダム」の三つ。前二者は次号のSFオンラインにおれがレポートを書くことになっているから省略するとしよう。「パソコンネットワークとSFファンダム」では、まさに表題どおりのことが語られた(手抜きだなあ)。パソコンネットワークでファンダムに“リクルートされた”((C)大野万紀)典型例がおれらしいので、しばしば引き合いに出され意見も求められた。おれが思うに、サイバースペース内だけでファンダムというものが成立するかどうかは、“サイバースペース”と“ファンダム”なるものの定義次第だと思う。特定の嗜好/思考/指向を持った集団に出不精の人間が参加しやすいインフラを提供したという点のみが、この文脈でのサイバースペースの特徴であって、人間の集団を形成できるという点に関しては、リアルワールドであろうがサイバースペースであろうが、たいしたちがいはないだろう。人間がやってることの本質が、手段や方法によってそうそう変わるとは思われないのだ。サイバースペースでファンダムが成立するかという問いは、リアルワールドでファンダムなるもののイメージを形成した人の発想で、おれ個人の感触ではむしろ、ファンダムが成立し得るほどのコミュニケーション手段を提供している空間だからこそ、サイバースペースの名に値すると思うのだがどうか。リアルワールドの人間関係をサイバースペースは深化・強化し得るし、サイバースペースの人間関係をリアルワールドは深化・強化し得る。ただ、物理的条件のちがいで、サイバースペースのほうが広範囲から人が集まってくるのは事実だ。おれなどは、サイバースペースによって広がった部分の網にかかっただけだろう。身近にコンヴェンションなどに出かけてゆく友人がいたとしたら、おれももっと早期に罠、じゃない、網にかかっていたかもしれない。まあ、この点については、日を改めていずれ考察してみたいと思っている。
 おれの巡回コースに入っているウェブサイトの主たちと挨拶を交わしているうち、セミナー合宿の夜は更けてゆく。

【5月2日(土)】
▼珍しく表を歩いていると(おれにとって休日に表を歩くことは、ドラキュラが日光浴をしているにも等しい行為である)、団地の自治会だかPTAだかが作っているらしい交通安全・非行防止標語をでかでかと記した看板が目についた。以前からあるのだろうが、改めてよく見ると、じつに面白い。たとえば、こんなの――

やめよう無免許運転 自分はよくても他人が困る

 ううむ。正論だ。正論だが、ここらで見かける標語がほとんど七五調であるのに対し、これはなかなかアヴァンギャルドである。元祖が生んだ基本形式を頑固に守り抜いていない。ほとんど思ったことをそのまま書いたという感じで、一種独特の野趣が感じられないこともない。
 しかし、この看板が無免許運転の撲滅にいかほどの効果を発揮するというのだろう。他人が困ってもいいと思っているから無免許運転などやっているにちがいなく、わかりきったことをいまさら文字にして見せられたところで、無免許運転者は「はあ、さよか」としか思わないような気がする。無免許運転をしている人が、視界の隅にこの看板をちらと捉えてハタと膝を打ち、

「おい、婆さんや。無免許運転ってやつは、自分はよくても他人が困るんだってね」
「いやですよ、お爺さん。無免許運転は、自分はよくても他人が困るんじゃありませんか」
「おや、そうなのかい? あたしゃまた、無免許運転は、自分はよくても他人が困るものだとばかり思ってたよ」
「おっほっほ、しようのないこと」

――などと、感心するものであろうか。あるいは――

「なあ、兄貴ぃ、無免許運転は、自分がよくても他人が困るらしいぜ」
「おれにもっといい考えがあるぜ、サブ。無免許運転は、自分がよくても他人が困るってなどうだ?」
「…………お。おおっ、そうだな、さすが兄貴だ。無免許運転は、自分がよくても他人が困るたあ、お釈迦様でも気がつくめぇ」
「イェーイ」
「イェーイ」

――と納得するとも思えない。やはり、車を運転している人はこういう看板をじっくり読んだりはしないだろう。ちらと目に入ってくる程度だろうから、字面のインパクトがなくてはならない。おれもちょっと作ってみた。こんなのはどうだろう――

無免許――それは殺しのライセンス

 もちろん“殺し”の部分は、赤ペンキで飛沫を散らせたような書体にするのは言うまでもない。少なくとも「他人が困る」よりはインパクトあると思うけどなあ。なぜかおれは、会社でもこの手の標語やらなにやらを考えさせられることが多いのだが、候補作を適当にちょいちょいと提出すると、おれがいちばんいいと思っている自信作はたいていウケが悪く、凡庸だなあと思っているものが妙に好評でそのまま採用されたりする。非常に不本意である。おれの感性には、どこか日本の社会生活になじまない過剰か欠落があるらしい。上記の作品をどこかの町内会かなにかが採用してくれないものだろうか。
 さて、いままで近所で見かけた標語の最高傑作をご紹介しよう。少年非行の防止を呼びかける標語なのだが、初めて看板を見たとき、おれはその場に立ちすくみ大爆笑してしまった。こんなのである――

少年よ 罪を犯すな 親の恥

 どこのおやじかおばはんが作った標語か知らないが、要するに、この人、子供のことはどうでもいいのである。自分が恥をかくかかかないかが最優先の関心事なのだ。たいていの少年は、これを読めばむらむらと罪を犯したくなってくるにちがいないと思うのだがどうか。幸いこの界隈にもまともな言語感覚の持ち主がいたらしく、この看板はいまでは撤去され、別の温厚なやつと差し替えられている。いやしかし、すごかったわ、これは。図らずも大人の本音が出たという点で、少年たちにも、世の中というものの一端を垣間見る大きな学習効果があったことだろう。そう思えばこれはなかなかの傑作で、おれには逆立ちしても思いつけない作品である。
 いま気づいたのだが、“非行”という字面は、もはやなにやら大時代な感じがするよね。“非行”という言葉からは、なにかこう、ほんとは甘ったれているんだが、背伸びして突っ張って犬がじゃれるように反抗しているという可愛げのようなものが感じられる。“非行”って字面を見ると、自然現象の描写みたいな気がして、なんとなく安心する。最近の子供がやらかすことは“非行”じゃないよね。歴とした“犯罪”だ。マスコミなどでも、“少年非行”よりは“少年犯罪”を使うことがずっと多くなってきているように思う。人間の首斬って校門の前に置いたりされると、さすがに“非行”とは呼びにくい。病弱で内省的で積極性に欠け(通知表より)気の弱い子供だったおれも(誰だ、笑ってるのは)、いわゆる“非行少年”にからまれたりいじめられたりしていたことがあるが、まだ集団で一人を徹底的に生贅にするといった陰湿な現象は噴出していなかった。なんだかあのころの単純な“非行少年”たちが、ふと懐かしくなる今日このごろである。
▼さて、明日はSFセミナーに行くので、日記の更新はお休み。次回更新は四日か五日になるでありましょう。ではでは、行ってきます。

【5月1日(金)】
▼NIFTY-Serve・SFファンタジー・フォーラム「本屋の片隅」の原稿を朝方書き上げてアップロード。今回は『テクニカラー・タイムマシン』(ハリイ・ハリスン、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)をやったのだが、これも版元在庫切れなのね。この「本屋の片隅」の連載では、古典というには新しすぎ、新刊というには古すぎるあたりから選んで、できるだけ書店で入手できるものを紹介してゆこうと思っていたけれども、これが意外と難しい。というのは、古典でも新刊でもないSFがいちばん書店で入手しにくいからだ。このあたりがすぽんと抜けている。つまり十年、二十年前の話がしにくい。さらにずっとむかしの話なら、おれたちにとっても若い人たちにとっても、同じように“歴史”になっちゃってるので、まだ共通の話題になりやすいのだ。
 まあ、“ちょっと過去”の本が入手しにくいというのはSFにかぎったことではなく、結局これは、物理的な紙の書物を書店で流通するという形態が限界にきているということだろうと思う。本がロットでしか印刷できないのが問題なのだ。注文生産で一冊だけ増刷することができない。となると、やはり出版社には電子データの販売に本気で取り組んでほしい。電子書店パピレスのような試みは、今後もどんどん出てきてほしい。著者がデータで入稿し、電子写植までやっているケースが増えてきているというのに、流通だけが紙媒体に縛られているのはどう考えてもおかしい。流通がボトルネックになっているではないか。たしかに紙に印刷された書物に対する愛着というのは捨て難いものがあるし、現時点での解像度や携帯性能など、紙媒体の優位点も多い。だが、いずれにせよ、現在の書籍の流通形態が遠からず大革命の波をかぶることだけは断言できる。なぜ断言できてしまえるかというと、いまのままではユーザが不利益を被るからだ。そして、ユーザは、自分たちにとってより便利な方法があることを知ってしまっているからだ。書籍流通ビッグバンがやってこないはずがない。なんの業界でもたいていそうなのだが、ある方法で成功した者は、まさにその方法を捨て切れずに失敗するものだ。剣を取るものは剣にて滅ぶ。いま栄えている出版社は、流通の中間過程に存在する無数の自営業者・雇用者とのしがらみがあるため、そうそう簡単にはみずから改革に乗り出すことはできないだろう。起爆剤となるものは、たぶん既存の出版社とは無関係のところからやってくる。しがらみのない者が、現在の出版業界ではまさに“掟破り”としか言いようのない方法を平然と編み出し、書籍流通に挑戦してくるだろう。そして、“それ”と同じ土俵で闘う羽目になり、既存の出版社はあとから腰を上げざるを得なくなってくる。そのとき、いまから準備していた会社は差をつけることができるはずである。
 本が一朝一夕にデータ化できるわけがない。OCRなどの性能がいくら上がろうとも、誤読率0%が常に保証できなければ、結局人間によるチェックが必要となり、それでは現在のOCRによる作業と比べて手間はあまり変わらない。ではテキストもすべて画像データで保存するか? 記録媒体の費用はとんでもないものになるだろうし、激増するPDAによる利用者にとって、そんな無駄な保存方法は敬遠されるだろう。エキスパンドブックやPDFなど、特定の文書形式を選択するにしても、入力の問題はついてまわる。では、突貫工事で人間に入力させるか? そんなもの誤字だらけに決まっているし、短期間にそれだけの人件費が出せるものか――となれば、いまどの出版社にもできることは、電子入稿されたデータは、校正内容もきちんと反映させた publishable な状態にして分類・保存・管理しておくことだろう。いまは動きが取れなくとも、やがて必ず来る書籍流通ビッグバン後の世界で、これは貴重な資産となるはずだ。おれごときが指摘しなくたって、やってるところはちゃんとやってるだろうけどね。
 紙の本がなくなるとは思わない。が、読めないよりは読めるほうがましである。入手にたいへんな苦労を要するより、手軽に手に入れられるほうがよいに決まっている。神林長平『言壺』(中央公論社)で描いたように、“本を出せる作家”のほうが“言語ネットワーク専用作家”より格が上だという社会がやってくるかもしれない。それも面白いではないか。“本を出せる作家”の新刊が一か月で書店から姿を消し忘れ去られるのに対し、“言語ネットワーク専用作家”の作品が公開から十年後も少しずつコンスタントにダウンロードされ続けるのだとしたら、おれなら絶対“言語ネットワーク専用作家”になりたいよ。
「SFオンライン」坂口哲也プロデューサから電話。SFセミナーに来るのなら、合宿企画の取材をやってくれとのご依頼。「最近こんなの読んだぞ,ふたたび(スキャナー・ライブ)」(山岸真,小浜徹也ほか)と「日本SF全集を出そう!」(日下三蔵)のふたコマを取材することになった。「最近こんなの読んだぞ」は昨年は出演者側だったのだが、最近「SFスキャナー」をやってないことからもおわかりのように、海外の新刊にほとんど手が回っていないので、今年は取材に徹することにしよう。


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