間歇日記

世界Aの始末書


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98年4月下旬

【4月30日(木)】
▼ドーナッツの効果が切れたのか、まだ半病人のような状態(まあ、いつだって半病人みたいなもんだが)。2Gで加速中の宇宙船の中にいるのだとみずからに言い聞かせ、パソコンに這いずり寄ってキーボードに指を置く。日記だろうがなんだろうが、文字を打ち込んでいればだんだんエンジンがかかってくるものだ。スプーンが立つような紅茶を飲みながら、昨日の残りのドーナッツを食う。
▼おなじみ齋藤冬樹さんの「百万人の日本人普通の人アンケート」が更新されていたので新たな回答者を見てみると、“いろもの物理学者”“むーきち”という、たいへん見慣れた名前があった。“いろもの物理学者”のほうは非常に“変さ値”の高い人であったから、たぶんおれの知っているいろもの物理学者さんにちがいない。問題は“むーきち”のほうである。おれよりずっと“ふつう”の人だというランキングになっているが、これはなにかのまちがいではあるまいか。おれの知っている“むーきち”なるハンドルの人物は、おれがいままで会った人の中でもとりわけ“ふつうでない”人なのだが……うーむ、どうも納得が行かないぞ。日常生活に於いては、存外に古風な人なのやもしれぬ。認識を改めねばなるまい。おれは彼女の職業上のペンネームとハンドルをリンクする情報を開示する許可を得ていないので、この段、完全に楽屋オチなんだけれども、むーきちさんを知ってる人は、みな同様に首を傾げているはずである。そう思うでしょ、いろもの物理学者さん?
▼晩飯のあと、煙草を吸いながら Newsweek (May 4, 1998)をパラパラと見ていて思わずむせる。巻頭の WORLD VIEW というコーナーに、Shin-ming Shaw 氏が TERMS OF ENRICHMENT なる寒い駄洒落タイトル(映画『愛と追憶の日々』の原題が Terms of Endearment ね)の経済エッセイを寄せているのだが、その一節―― In this context, Japan must be the sickest of all the G-7 countries. Its political and economic institutions are remnants of a bygone era, when an elite corps of cadres would run the economy from the hallowed halls of MOF or MITI. Today's Japan is an inefficient, closed-minded, market-unfriendly society without fresh ideas.
 なんでも、日本は「G−7諸国中でいちばん病んで」いて、「その政治経済機構は、ひと握りのエリート幹部たちが大蔵省や通産省という名の聖なる神殿から経済を操った過ぎ去りし時代の残滓」にすぎず、もはや今日の日本は、「非効率的で、狭量で、自由市場の原則になじまず、斬新なアイディアも出てこない」踏んだり蹴ったりの社会なのだそうである。ううむ、全部当たっている――けども、ガイジンにそこまで言われちゃ、いくらおれでも面白くない。久米宏が同じようなこと言ってても、まだ自虐的な笑いが出てくるんだけどね。さらにこの人、中国や韓国も叩っ斬って(その指摘は、いちいち事実なんだけど)、アジアにはヴィジョンが欠けておる、自分たちがどのくらい遅れているか、事実を醒めた目で認識してマジで追いつく努力をしないと、次代は再び西洋のものになるぜと警告している。お説いちいちごもっとも。そんなこと、あんたに言われなくたって、日本人なら誰もがわかってるよ。たしか、ちょっと前までは、「アジアの奇跡」だの「No.1」だのと羨望まじりに持ち上げてたのは、主にガイジンさんだったはずだぞ。こないだまで働きすぎだと言われてたのに、いまは創意工夫のかけらもない怠け者であるが如くに言われている。下で地道に働いてるモンにしてみたら、「どないせえっちゅうんや」と叫びたくもなるぜよ。もっとも、その“地道に”働くという発想がいかんかったのかもしれんけどね。“地道に”とは“愚直に”という意味ではなかったはずだ。情報収集力やその処理能力や発想力に於いて他を凌ぎ、“要領よく”競争に打ち勝ってゆく人物は日本ではあまり尊敬の対象にならなかった。“要領がいい”ってのは、けっして褒め言葉ではない。でもさ、いまガイジンさんたちが迫ってきてるのは、要するに「もっと要領よくならんかい」ってことなんでしょ。だったら、日本にもヒーローがいるじゃんか。あの植木等的なノリってのが、いまこそ日本人にとって重要なものになってきているのだ。もう一度あのころ(ってのは、おれが生まれたころだ)に戻って、またガイジンさんたちにひと泡吹かせてやりたいものですな。それには、まずこのサイト「日本無責任暦」のありがたいお言葉で元気をつけよう。もうすぐ、植木等の大ブームがやってくるよ、きっと。

【4月29日(水)】
▼異動やらゴールデン・ウィーク前進行やらで会社でもバタバタしたうえに、なんやかやの原稿の締切が重なって、じつにきついひと月であった――って、まだ終わってない原稿があるのだが、糸が切れるように体調を崩し、終日うだうだと寝たり起きたりを繰り返す。蜂蜜入りのミニドーナッツを六個食ったら、少し元気が出てきた。残りの二個は明日食おう。

【4月28日(火)】
▼会社の帰りにコンビニに寄って、ペットボトル入りのトマトジュースを目にしたら、突如猛烈に飲みたくなってきた。おれにはおなじみの発作的選択的飢餓である。なぜかおれは子供のころからトマトジュースが好きだ。最近のトマトジュースはなにやらさらさらしてパンチに欠けていかん。おれが好きなトマトジュースとは、強烈なトマトの匂い(香りではない)を発散するどろどろとした液体のことだ。ワインなんぞより、よっぽどキリストの血と呼ぶにふさわしい飲みものである。凝固しかけたキリストの血というべきか。ぼやきついでだが、近ごろ飲みやすいことを売りにした野菜ジュースが何種類も出まわっている。あれは邪道だ。果汁が多量に入っていて、けしからんことに甘いのだ。野菜ジュースもトマトジュース同様、どろどろとして原料の匂いをぷんぷんさせていなくてはならない。甘いなどもってのほかで、塩辛いような酸っぱいような、これを飲むといかにも身体によさそうだという暗示力のある味がしないと、野菜ジュースを飲んだ気がしないではないか――などと、なんでもかんでもライトになる世相を嘆きつつ、自分の飢餓に忠実にできるだけ濃厚そうなトマトジュースを籠に入れた。
 さて、次はキリストの肉のほうである。パンのコーナーを見ると、「まるごとバナナ 生チョコ」(山崎製パン)というのが出ていた。元祖のプレーン(?)「まるごとバナナ」よりうまそうだ。バナナをチョコレートケーキ生地でぐるぐる巻きにし、生チョコクリームを繋ぎにした恐るべき食いものである。肥ってくださいと言わんばかりだ。手っ取り早くカロリーが摂取できそうなので、こいつも買う。前にも書いたことがあるけど(97年10月7日の日記)、パンにマヨネーズを塗ってバナナをぐるぐる巻きにして食う画期的夜食は、川原泉氏の発案になるもののはずだ(『美貌の果実』「1/4スペースの日々――その6」白泉社参照)。川原氏が発明したのかどうかの確証はないが、こんなケッタイなことをやる人がそうそうほかにもいるとは思えない。「まるごとバナナ」を初めて見たとき、「あ、川原泉のパクリだ」と思ったのは、おれだけではあるまい。もしそうだったら、ヤマザキパンは川原泉氏に「まるごとバナナ」一年分くらいを差し入れすべきではないか。生ものだから毎日届けなきゃならんが。
 それはそうと、トマトジュースを飲みながら「まるごとバナナ 生チョコ」を食って仕事をしていたら、疲れた頭に稲妻のような天啓を得た。現代人は健康食品が好きである。「健康になれるなら死んでもいい」と、ビートたけしも看破した。では、バナナのケーキ巻きなどという、いかにも不健康そうな食いものよりも、身体によい野菜などをケーキで巻いてはどうか。「まるごとキュウリ」「まるごとセロリ」などを作れば、売れるにちがいない。がんばれ、ヤマザキパン。

【4月27日(月)】
▼文庫解説を入稿したと思ったら、まだ NIFTY-Serve ・SFファンタジー・フォーラムの「本屋の片隅」があるのであった。体調がよければSFセミナーに行くつもりなので、溜まってる仕事は連休前半でやっつけてしまわねばならない。本も読みたい。ホームページも充実させたい。まあ、人間、あれもしたいこれもしたいと欲求不満を抱えているうちが華であろう。したいことがなくなるなどという事態を想像すると、これは怖ろしいぞ。他人が「あなたはこれがしたいのでしょう」「これをすべきです」などと、ご親切に幾千万の生きる理由を与えてくれたとしても、おれ自身がしたいことがなければ、そんなものなんの意味もない。牢獄に閉じ込められたも同じだ。そう思えば、したいけどできないという苛立ちに悶々として生きていられるとは、なんとしあわせなことであるか――とでも考えないと、やってらんないよね。
▼先日から取り上げている“水の検査男”について有益な情報はないかとネットサーフィンしていたら、じつに優れたサイトを見つけた。その名も、「悪徳商法マニアックス」。なにが優れているかというと、このサイトは悪徳商法の糾弾や撲滅を目的としたものではけっしてないのだ。ただただ悪徳商法(グレーゾーンの合法的なものも含む)に関するデータを提供する。それを悪徳商法からの自衛に役立てようが、悪徳商法そのものに役立てようが知ったことではないというスタンスなのである。このサイトの「はじめに」「このページについて」を読めば、作者のびよびよBeyondさんが、情報というものの本質について非凡な洞察をお持ちであることはあきらかだろう。内容もさることながら、じつに面白いコンセプトのサイトだ。いま話題の“Vチップ”論議などについても、そんなことはまったく書いていないにもかかわらず、深く考えさせられる。子供たちをほんとうはなにから護るべきで、子供たちに真に伝えなければならないことはなにかが見えてくるだろう。おれに子供がいたらぜひ見せたいね、これは。

【4月26日(日)】
▼ひたすら原稿書き。目覚ましにグリコのミントカプセル「液粒 Wake up」を貪り食う。最近パッケージが変わって半透明になった。中身も変わったようで、以前のものよりパワーが落ちている。また、噛まずに口の中で溶かしていると、最後には透明なぎょろぎょろしたカエルの卵のようなものになってしまい、これを舌で弄んでいると面白い。それに、今度のはキシリトールが入っている。とにかく、最近なんにでも入っている。襖が開け閉めのたびにギシギシ音を立てるようになったときなど、滑りをよくするために溝に塗る潤滑剤みたいな製品があるのだけど、あれに「キシリトール」という名前をつけたら面白いと思うのだがどうか。やっぱり、いかんのかな。そういえば、むかし「スベラーズ」という階段の滑り止めがあって(いまもあるのか?)、あまりのネーミングにずっこけたものだなあ。
▼86年の今日だよな、チェルノブイリ原発事故があったのは。もっとも、その時点ではまだそんな大惨事が起こっていることなどソ連当局しか知らず、やがてスウェーデンがとんでもないレベルの放射能を検出して、すわ自国の事故かと大慌てするのだった。もう十二年にもなるのか。しかし、世界中に撒き散らされた大部分のタチの悪い放射性核種の半減期からすれば、十二年など時間が経っていないも同然だ。おれは科学そのものは思想体系としてかなり信用しているが、技術はあまり信用していない。人間は完璧じゃないので、人間に完璧さを要求しなければ立ちゆかないシステムがあったとすれば、それはシステムとして根本的に欠陥があるということなのだ。非合理を見込んでいない合理性は、ほんとうの合理性ではない。子供のころ、昆虫や小動物を家に持って帰って家族に迷惑をかけると、「自分で世話できへんのやったら飼いなさんな」とよく言われた。もっともだ。

【4月25日(土)】
▼文庫解説の原稿書き。またもや頭痛に悩まされ、晩飯のあと、バファリンを飲んでやむなくちょっと仮眠する。ぐっすり寝てしまうと起きられなくなるので、蛍光灯をつけたまま眠ったのだが、こういう眠りかたをすると面白い夢を見るものなのだ。案の定、トイレで小便をしている最中に大地震が来て、おちんちんもしまわずにあわてて外に飛び出すという、洒落にならない夢を見た。阪神大震災の直後、しばらくは落ち着いてトイレや風呂に入れなかったもので、このところ地震が続くせいか、トラウマが掘り起こされているのやもしれない。
 宿酔いのオオサンショウウオのように起きだすと、やたら腹が減っている。お菓子を次々と食いながら、頭が冴えてくるのを待つ。頭痛はおさまったようだ。先日、妖菓子ハンター・明院鼎さんが送ってきてくださった「塩ラーメン味 ポテトチップス」(山芳製菓)という奇ッ怪な名前のぽてちを食ってみる。塩味というのならわかるが、塩ラーメン味とはいかな味であるのか――と誰もが思うでしょうが、これがじつに塩ラーメン味としかいいようのない味なのであった。なかなかうまい。袋に塩ラーメンの写真がでかでかと印刷してあり、「この写真はイメージです」と注意書きが添えてある。ふつうの注意書きはここで終わるものだけども、さらに「中身は正真正銘のポテトチップスです。決してホンモノの塩ラーメンではありません。念の為」とまでダメ押ししてある。ギャグなのか、それとも、これもPL法の影響か(笑)。このシリーズには、海老チリソース味やら麻婆豆腐味やらもあるのだ。最近のぽてちは凝っている。いっそ“ポテトチップス味”というのを発売したら、洒落のわかるやつが洒落で買ってゆくだろう。
▼“アロマテラピー・グッズ”などと称してなぜかコンビニで売っていたので、香りの出る蝋燭とガラス製のキャンドル・ホルダーを衝動買いする。多少なりともストレス解消になるものかどうか、一度試してみようと思っていたのだが、わざわざその手の店に買いにいくのも億劫だった。さすがはコンビニである。廣済堂出版でSFを出す戦略は大正解だ。書店があれば入ってみるのが習慣になっているような人は、数の上からは完全に“異常”の範疇に属する。自分が書店族だと、それに気づかないだけである。また、書店へ行く習慣のある人でも、ふつう自分が関心を持っている分野の棚しか見ない。おれなどは、時間が許せばとりあえず書店内をひと巡りしてしまうほうだが、大部分の人は目指すコーナーへ直行し、面白そうなものがなければ雑誌を立ち読みして帰る。ストーカーとまちがわれないようにして、一度観察してみてください。書店に行く人ですらそうなのだから、書店に行かない人に「世の中にはこういう本があるのだ」と発見させる余地はまだまだ残っているはずだ。コンビニはその点非常にホットなスポットである。たとえば、フランス書院文庫の隣に並んでいる井上雅彦篇アンソロジーを、書店で文庫本など買うのはうざったいと思っている若者がちょっと手に取ってみる――なんてことは十分にあり得るだろう。「井上雅彦って誰だっけ?」「へー、大原まり子なんて聞いたことがなかったけど、面白いじゃん」なんて若者は、井上氏や大原氏には失礼だが、うようよいると思う。彼や彼女が“聞いたことがなかった”のは、偏にそういう世界へのチャンネルを日常生活で持ち合わせていなかったからにすぎず、けっして彼らの知的レベルが劣っているからではないだろう。おれは現代の日常文化を担っているのは、書店ではなくコンビニではないかとすら思う。コンビニに並べてあるものは、現代社会の縮図と言ってもよい。そこにSFの文庫本を並べるという着眼はじつにすばらしい。おれは、岩波文庫だってコンビニに並べておけば、それなりのペースで売れてゆくんじゃないかと思っている。瀬戸内寂聴訳の源氏物語なども、さっさと文庫に落としてコンビニで売れば、女子高生にだってはけますぜ、きっと。
 書物が文化の牽引者みたいな大きな顔をしていられる時代は終わっているのだ。「書物というものは、あれやこれやのメディアに比べて、こんな魅力があるのだぞ」と積極的にアピールして、他のメディアと客を奪い合う段階に来ている。本は書店に並べておけばいいと思っているようでは、出版文化の衰退をますます招くにちがいない。むかし、子供たちはお菓子を“お菓子屋”という店で買ったものだ。しかし、いまでは単機能の“お菓子屋”で買ったりしない。コンビニで買うのだ。単機能の専門店の役割は特化して残ってゆくだろうが、もはやそれは主流ではなくなってゆく予感がある。
 それはさておき、アロマ・キャンドルである。火を点けると、ラベンダーの香りが部屋に広がった。が、いっこうに時をかける様子はない。じきに鼻が慣れてしまい香りを感じなくなり、なんだ、こんなもんかとちょっとがっかり。でも、トイレに立って帰ってくると、たしかにいい匂いがしているのがわかる。どうも、地球上に無駄な二酸化炭素を増やしているような気がするけれども、そんなことを考えていたのではちっともストレス解消にならないのだ。
 さて、ラベンダーの香りを嗅ぎながら、お仕事お仕事。

【4月24日(金)】
▼なんの気なしに尾崎亜美「マイ・ピュア・レディ」を口ずさんでいて愕然とした。正確にいつの曲だったか忘れたが、こいつが化粧品のCMだかに使われて大ヒットしたのは、おれが小学校高学年くらいのころだったように思う。愕然としたのは、二番にさしかかったときである。書かれた歌詞が手元にないので文字遣いは正確ではないと思うが、こんな文句だ――

ダイヤルしようかな
ポケットにラッキー・コイン
ノートに書いたテレフォン・ナンバー

 「ダイヤルしようかな」って、いまどき誰も“ダイヤル”などしない。“ラッキー・コイン”かなんか知らんが、要は十円玉か百円玉のことだろう。ふつう意中の人に外から電話をしようなどというときにはテレホン・カードを使うよな。そもそも“テレフォン・ナンバー”を“ノート”などに書かずとも、しょっちゅうかける相手ならケータイかピッチに番号が登録してあるだろうよ――つまり、ここに歌われている情景は、ことによるといまのコギャルやらには、“テレフォン・ナンバー”という言葉が出てくるまで――いや、出てきてすら――なんのことやらさっぱりわからないのではあるまいか。好きな人の声をなんとなく聴きたいな、公衆電話にコインを入れようかどうしようかなと、嬉し恥ずかし逡巡する若い娘の恋心の喜びなど、少なくともこの歌詞からはまったく伝わってこないのかもしれないのだ。うううむ。「なんかぁー、むかしの電話には“ダイヤル”がついてたんだってー」「なにそれー、うっそー。そいえばさー、なんかさぁー、テレカもなくてぇ、みんなお金入れてかけてたんだってー」「バカばっかー! ピッチ持てばいいのにぃー」「この歌、信じらんなーい」――この二十数年は、まったくなんという二十数年であったことか。日々此SFである。

【4月23日(木)】
▼去年も似たようなことを書いた気がするけど、サン・ジョルディの日だというのに、誰も本などくれない。日本でほんとうにこんなことを実行している人がいるのだろうか。
▼今日はむちゃくちゃに忙しいので短く切り上げることにする。4月18日の日記でご紹介した齋藤冬樹さんの「百万人の日本人普通の人アンケート」だが、その後 Yahoo! Japan 「今日のおススメ」(4月23日)で紹介されてから大ブレーク、早くも日本人の12ppmを超える人々がアンケートに回答している。これがダイオキシンだったらどえらいことだ。それにしても、みんなこういうの好っきゃなあ。考えてみれば、齋藤さんは東京大学気候システム研究センターにご所属なわけだから、いわばお天気の専門家だ。たくさんのサンプルの中で任意のサンプルがどのくらい“ふつう”であるか、あるいは、“ふつう”から逸脱しているかなどという計算は、歯を磨くが如くにしょっちゅうやっておられるはずである。まあ、理科系の方であれば統計と縁のない方はいらっしゃらないだろうが、お天気の研究と統計とはとくに関わりが深いにちがいない。このヘンな企画も、職業的な習性みたいなところから着想を得られたのではないかなあ。

【4月22日(水)】
▼あららら、昨日の日記を読み直してみたら、支離滅裂な構文があってびっくり。全部支離滅裂じゃないかという議論はさておき、書いたつもりのフレーズがふっ飛んでいたので、直しておきました。首を傾げた方、どうもすみません。
▼喫茶店で昼飯を食っていると、五十を過ぎているだろう背広姿のおっさんが五人ばかり入ってきて、がやがやわやわやと話をはじめた。「エクセルが――」「ワードが――」と、パソコンソフトの操作について、おっさん同士でなにやら盛り上がっている。自分で触っているだけで大したものだ、日本の会社も徐々に変わりつつあるのだなあとちょっと感心したが、考えてみればこのおっさんたちは、好むと好まざるとにかかわらず、パソコンに触らないと明日は背広を着ていられなくなる身の上であるやもしれないわけで、感心ばかりしている場合ではない。パソコンを毛嫌いしバカにするおっさんたちにもずいぶんと閉口はしてきたが、たかがマイクロソフトという一企業が決めたにすぎないアプリケーションの操作を、孫もいるだろう年齢のおやじたちがさも重大事であるかのように口角泡を飛ばして論じている図にも、なにやらもののあはれを感じてしまう。十年前なら、これくらいの年齢の男たちと喫茶店に居合わせると、彼らは戦国の知将・武将を引き合いに出しては天下国家を論じ、一生を捧げるつもりの会社の行く末を案じては、ベストセラー・ビジネス書のひとくさりでも引用してみせていたものである。べつにむかしのおやじのほうが偉かったとは思わないが、「ワードがわかればエクセルなんか簡単やがな」「スクロール・バーが――」「アイコンが――」に終始されると、「その歳なんやから、もうちょっと大所高所に立って見せるかのような話がでけんか?」とフクザツな気持ちに襲われる。むかしのおやじが全員ほんとうに大所高所に立っていたわけではあるまい。若いおれが聞いていても、あきらかに背伸びをしているのがわかるのがほとんどではあった。が、一応、彼らには年齢相応の見栄を張るだけの余裕があったのはたしかだ。おれたちがわざと青臭いことを言ってみると、待ってましたとばかりに、嬉々として「君らはまだ若い」などと期待していたとおりのことを指摘しながら説教を垂れるだけの可愛げがあった。それはあたかも漫才の掛け合いのようであり、お互いにまったく話が通じない者同士が編み出した一種のコミュニケーション手段になっていた。「ああ、やっぱり根本的に立脚点がずれている」と互いに確認するための日常的儀式であったのだ。ああ、こういう愛すべき強がりおやじは、日本の企業から淘汰されつつあるのであろうか。客観的にはじつにけっこうなことではあるのだが、火鉢やら七輪やらが姿を消してゆくような一抹の寂しさもまた覚える。

【4月21日(火)】
▼体調最悪。晩飯の最中に突然猛烈な吐き気が襲ってきてトイレに駆け込むも、せっかく食ったものを吐いてしまうのももったいないという貧乏症が一瞬頭を擡げ、胃を撫でながらじっとしていたら吐き気がおさまった。食卓に戻り、しぶとく食事を続ける。おかしい。あのときのコンドームは、このあいだ回収された穴の開いていたやつだったろうか……と思いだそうとしていると、おれは男だったことに改めて気づく。かなり頭にもキテいるようだ。一応、晩飯のあとで胃薬を飲んでおく。こいつを飲まないと、寝ているあいだに胃が勝手にさまよい出てどこかへ行ってしまうのだ。
▼謎の水道検査男情報が続々と集まっている。家に入れてしまった方々のお話でほぼ共通しているのは、水の検査をして、なにやら検査結果が予想外であるかのような態度を取るあたりである。「無償で浄水器を貸し出したい」などと単刀直入に攻めてくるケースもある。カタログもなにも持参していないそうだ。こんなもの、あとからやってきて「フィルターは無償じゃない」とゴネてぼったくるに決まっている。水道検査男がやってきたあと、空き巣が出没しているという情報もある。まだまだ、予断は許されない。
 おれも検査男来訪の状況をさらに詳しく母から引き出してみたが、特筆されるのは、おれの家は団地であるにもかかわらず、上(もしくは下)から順番にドアを叩いていったわけではないという点である。おれの住んでいる棟でその日訪問を受けたのは、三、四軒であったという。ということは、絨毯爆撃しているのではなく、なんらかの基準に則って狙って来ている可能性が出てくる。おれの棟のあと何軒かも訪問するつもりだったのかもしれないが、母の証言では、おれの家で追い返されてからものの数分で警官がやってきて、そいつは警官に追われて連れの男とともにバイクで逃げたという。なるほど、だから「あたしが(警察に)通報したと思われたら厭やわあ」などと怖がっていたのか。おれの棟で最初に訪問を受けた家庭が通報したとしても、警官がやってくるのが早すぎる。たしかに交番は徒歩五分ほどのところにあるが、妙な水の検査男が来たという程度の通報ですっ飛んでくるからには、合法的セールスをおとなしくやっている連中だとはとても思えない。なんらかの被害が頻発していて、警察もマークしているのかもしれない。そもそも、なにもうしろめたいところのない検査や商売なら、警官に追われて逃げるというのがおかしい。連れの男はおそらく見張りなのだろう。おれの母は、およそ知的好奇心といったものの持ち合わせのない人間だが、こういうことにかけては一目置けるほどの野次馬である。近所にちょっと異変があれば、たちまち窓際に駆け寄っては観察し、隣家の玄関に聞き慣れぬ物音を聞けば、ドアに貼りついてレンズから覗く。検査男についての母の証言は、かなり信用できそうだ。ただし、暗示にかかりやすく、きわめて思い込みが激しいタイプであるから、あとから入力された情報によって彼女の記憶は大幅な歪曲を受けることが多い。その点、時間を経た事件については、話半分に聞かねばならない。まあ、いずれにせよ、お茶菓子を出してまで出迎えるべき相手ではなさそうだ。
 いまのところ、おれに情報をくださった方々には、幸いにも直接なんらかの被害に合われた方はいらっしゃらない。うまく追い返しておられるし、訪問販売なのかとこちらが詮索すると、拍子抜けするほどあっさり引き下がる点も共通している。訪問した家庭になんらかの条件が整っていたとき、犯罪者的な本性を顕すのやもしれない。
 ご参考までに、「関西のニュースで報道されていないかもしれませんが」と前置きして林譲治さんがお寄せくださった情報を、首都圏以外の方のためにご紹介しておこう。関西でも報道されているかもしれないのだが、おれは知らなかった。なんでも東京では、東京電力の名を騙って独居老人宅を訪ね、漏電検査の真似事をしたあと、「このままでは漏電して火事になる。工事をするから金を出せ」などと十万ほどの金を巻き上げる輩が出没し、問題になっているのだそうである。こいつには共犯者がいるらしく、被害者の中には事前に東京電力(の名を騙る共犯者)から電話連絡を受けた人もいるそうだ。また、怪しい来訪者は作業中に共犯者に電話をかけるなどして、被害者を安心させるという。
 水の検査以外なにもしない(ことも多い)水道検査男に比べると、ずいぶんとあからさまな手口だが、なるほどよく似ている。東京電力のホームページを見てみると、案の定、林さんが教えてくださった事件について警告を出している。詳しくは、「東京電力の職員を装った詐欺事件について」を見てほしい。水道検査男も、この亜種でないとは言い切れない。まったく、コンピュータ・ウィルスみたいなやつらだ。コンピュータのクラッキングの手口などと同じように、警戒を呼びかける情報がかえって模倣犯を増やすという皮肉もあり、この日記もそういう役割を果たしてしまうおそれがあるのだが、メリットとデメリットを秤にかければ、やはりこの手の情報はできるだけ広く発信しておくべきだろう。「私も気をつけよう」と思う人のほうが、「よし、おれもやってやろう」と思うやつよりはるかに多いはずだ。そうあってほしい。
 ともかく、電気だろうが水道だろうが、不審な訪問者には気をつけよう。離れて暮らしている老親などのいらっしゃる方は、ぜひ教えて差し上げてください。この情報化時代では、東京で流行った手口の模倣犯は遠心的に波紋のように広がってゆくのではなく、むしろ地方に突然出現する可能性が高いと考えられるだろう。


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