間歇日記

世界Aの始末書


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98年11月中旬

【11月20日(金)】
▼昨日の日記で“山口美江”のことを“山口三江”などと書いていたので直しておいた。もう文字遣いも怪しいほどに印象が薄れている。次から次へと新しい人が出てくるので、ちょっと見ないとすぐ忘れてしまう。おれの記憶力が悪いせいもあるが、トコロテン式に彗星のように現れて彗星のように消えてゆく人が大部分なのだからしかたがない。憶えていられるほうが、よほど特殊だと思う。厳しい世界である。芸能人というのは、まるで狭い本屋の店先に並んでいる本のようだ。かといって、狭い本屋にたとえば『ハムレット』が常備してあるかというと、そんなこともないのであった。美空ひばりやビートルズといえども、毎日テレビに出ているわけではない。要するに、高速で運動していたり強い重力場の中にいたりしないかぎりは、一日は誰にとっても二十四時間であるというきわめて単純な理由で、おれたちが一時期に“もてはやすことができる人やもの”の総量はほぼ決まってしまっているのだ。
 ちなみに、時間の流れる速さをご存じだろうか? おれはスーパージェッターがタイムストッパーで三十秒間時間を止めるのを子供のころに見て以来、ずっとヘンだと思い続けていた。その三十秒はどうやって計っているのだろう、と。こうした深い思索が根にあったためであろう。高校生になったおれは、時間の流れる速さをいとも簡単に導き出して学友の度肝を抜き、主観的にはアインシュタインを超えた。こんな簡単なことに誰も気づいていないらしいことにおれはむしろ驚愕したものだけれども、歴史上の同胞たちを知るにつけ、天才とはこういうものなのだと自覚を強くするようになった。よろしいか、時間の流れる速さは、時速一時間に決まっているではないか。これはどんなに荒唐無稽にひん曲がった時空でも必ず成り立つ普遍の真理である。え? 光に意識があったとすれば光の主観では時間は止まっているはずだから、時速一時間は成り立たないだろうって? そこが凡人の浅墓さである。そうやって光を甘やかすから、やつらはつけあがるのだ。まるでやつらの速さが時空を規定してでもいるかのようにおだて奉っているからやつらも特異に、いや得意になってますます調子に乗り、時空のほうも遠慮して無難にふるまったりしているのである。ここはひとつ、みなで光どもの曲がった性根を叩き直してやらねばならん。
 で、なんの話だっけ? そうそう、つまり一時的な流行の話だ。なんだかんだ言って、おれは一時的な流行が大好きである。正確に言うと、一時的な流行の“華”は嫌いではない。最先端を追いかけるのはしんどいから、「そういえば人が騒いでいたなあ」などと、思い出したようにマイペースで流行を追いかける。それでも追いかけていることに変わりはない。そのくせいつも頭の隅で「一時的な流行である可能性は高いけど、いま面白いからいいじゃん」と醒めながら興奮している。つまるところ、おれがいちばん力量を認めて信用している批評家は“時間”である。なんの分野でも、古典は面白いに決まっている。面白いに決まっているから、なにやら苛立つのだ。いかにも有意義なことばかりするのが意地汚く思えるという損な性分なので、古典にばかり触れていると「いかん、意地汚い」とうしろめたくなってくる(まあ、お勉強して損はないけどもね)。同時代の、宝石やら徒花やらクズやらわからないものどもに触れているのがおれには楽しく、そういうとき、ほかのいつでもないこの時代に生まれ合わせている喜びを感じる。あたかも“時間”という偉い批評家がいまはまだ相手にしないものを先に見つけてやろうと楯突いているような感じだ。百年後、二百年後、はたまた五百年後に“時間”のやつがどういう評価を下しているかが確認できないあたりが、なんとも忌々しいのだが……。

【11月19日(木)】
クリントン大統領が来日。あちこちのメディアで「ガツンと言えるか」というネタを使っている。あの缶コーヒー「BOSS」のCM、よっぽどウケたのね。いや、おれも好きだけどさ。大統領のそっくりさん(声は全然似てないよな)より、あの逐次通訳の人のほうがいい味を出している。“So...I'd like to hear your honest opinion. Tell me, Gatsun!”くらいなら義務教育終えてれば通訳要らんと思うんだが、イカニモイカニモした典型的キャラクターの通訳が淡々と駄目押ししてるさまが妙におかしくて、初めて観たとき大爆笑した。あのCMの成功は、通訳役の女優の名演技によるところが大きいと思う。声量を抑えつつも子音を明瞭に発音する“通訳喋り”(と、おれは勝手にそう呼んでいる)が、あの女優さんは妙にうまい。ひょっとして本職なんじゃなかろうか? CM女優なんだとしたら、チョイ役では惜しいよ。山口美江だって柴漬けのCMで人気が出たんだし、近い将来、大ブレークした女優さんのプロフィールを見てみると、「じつは“ガツン”の通訳だった」なんてことがないともかぎらないぞ。よし、あの人の名前を調べておくことにしよう。

【11月18日(水)】
▼しし座流星群も見たい、仕事は重なりまくっているうえに進まない、体調は悪いのに頭だけは異様にハイにヒートして奇怪な妄想が次々と浮かんでくる。ときおり耳元で「うぎゃぴ」「なほな」「flies like a」「なことゆて」などと何者かが意味不明の語を発しているのが、はっきりと実在の音波であるかのように聞こえてくる。ハイなときにはよくあることだ。身体が弱れば弱るほど神経だけが無意味に昂ぶってくる最悪のループに入った。こういうときは「おれは天才ではあるまいか」と自分で信じ込みそうになるほどに突拍子もないイメージがポコポコと意識の表面に浮かび上がってきてだしぬけに笑い出したりするとそのこと自体がまたやたらおかしくさらに激しく笑い出したりする。簡単な構造の文章でも文法をまちがえたり、誤表記誤変換が多発したりして、かえって能率が落ちるのだ。のべつ夢を見ているかのようである。夢というやつがたいていそうであるように、ハイ状態で書いたものは、あとから読み返して面白かったためしがない。ものを読んでも文字を追っているだけで意味がなかなか掴めず、とてつもなく珍妙な解釈をしてしまったりする。見慣れた文字が、あたかも初めて目にする異星の文字であるかのように見えることも少なくない。日常の自然な自明性が失われつつあるのだ。ゲシュタルト崩壊に片足を突っ込んでいる。アイデンティティーの危機を感じ、それに伴い周辺の事物それ自体の存在感が希薄になってくる。純粋理性は迷子になり、現存在は自家中毒に苦しむ。共同幻想はかき消え、共通感覚は麻痺し、暗黙知は圧し黙り、構造も力もパラドクサの彼方に逃げ去った末、神は死ぬ――とまではいかないが、とにかくそれに近いとすら思われる病的にハイな状態である。
 いかん。頭を冷やさねば。ちょうど流星群が見えるピークの夜だというので、朝方ふらりと外へ出た。ふだんなら怪しまれるが、今日は大丈夫だろう。
 視界に地上の灯が入らないようにし、ぼーっと十分ほど空を眺めていると視覚が暗順応してきて、いままで見えていなかった暗い星たちもランダム・ドット・ステレオグラムのように夜空に浮かび上がってくる。しめしめ。あっ、流れた。目が慣れると、俄然流星が見えはじめた。わずか三十分ばかり夜空を見上げていただけで、とくにはっきりと明るいのが二個、空をかすかに引っ掻いたような暗いのが五、六個も見えた。ふだんは流れ星なんぞ、見ることもない。いままで生きてきて、こんなにいっぺんに見たのは初めてだ。かくも明るい場所で、しかもドのつく近眼のおれにも見えるとは、いや、たしかに世間が騒ぐだけのことはあった。
 少し頭は冷えたが、いまから寝たら起きられるわけがない。風呂に入って、そのまま会社に行く。

【11月17日(火)】
▼くれぐれも注意しておきたいが、今日の日記は絶対にお食事中に読まないように。よろしいですか? では、どうぞ。
 今日、ある駅のトイレに入った。大便がしたかったのである。幸いトイレはふたつが空いていて、おれは入口に近いほうに入った。
 さて、まず上着を脱いでフックにかけようとラペルに手をかけたとき、おれは異変に気づいた。臭い。そりゃ、トイレが臭いのはあたりまえだが、異常に臭い。ふと目の前の壁を見ると、なにか茶色いペンキのようなものがサインカーヴの形に塗りたくってある。どう見ても大きめの刷毛かなにかで塗ったような感じだ。ぎょっとしたおれは次に左側の壁を見た。そこにもサインカーヴ。もしやと思ってドアの裏を見ると、そこでも茶色い軌跡が蛇行している。もう見なくていいと思うのだがやっぱり見てしまったうしろの壁にも、まだ渇ききっていない茶色い塗料が――。
 もうお気づきであろう。その変わった塗料は、まぎれもない大便だったのである。誰がなんの目的でこんなことをしたのか想像もつかないけれども、人ひとり入るのがやっとという狭い空間で、四方を大便の壁に取り囲まれるなどという怪異は、望んだってそうそう体験できるものではない。おれは嫌悪感をはるかに超越した不条理感に、しばし陶然とその場に立ちつくした。悪代官にからくり部屋に閉じ込められた間者になったような心境である。やがて左右の壁がじわじわと迫ってくるにちがいない――。
 強烈な刺激臭にわれに返ったおれは、そっとドアのラッチを外すと、どの壁にも触れないように(あたりまえだ)恐るおそる外に出た。隣のトイレがまだ空いていたため、口直しにそっちに入ったら、はたしてふつうの状態であった。いったんは便意が引っ込んでしまったが、いま見たものを頭の中で呆然と反芻しつつしゃがんでいると、ちゃんと出るべきものは出た。
 話はまだ終わったわけではない。おれが用を足している最中、なんと、隣のトイレ(のようなもの)に誰かが入った物音がしたのである。どこの誰だか知らないが、きっと早急に排便をする必要に迫られていたのだろう。「ああ、彼はいま、四方を大便に包囲されながら、あろうことか自分も大便をしているのだ」と思うと、おかしいやら気の毒やらで、尻の穴が痙攣しそうになった。しばらくすると、隣の部屋から「おえええっ」と魂を絞り出すような“えずき声”が聞こえてきた。ああ、彼の魂に安らぎあれ。
 二度とはごめんだが、あまりにも異常な体験であった。誰かが自分の大便(だと思うが)を真面目な顔して駅のトイレの壁に塗りたくっている姿を想像すると、けしからんというよりも、不気味である。彼の愛はさかあがってしまったのだろう。いやはや、排泄物陳列罪という罪はないのであろうか?

【11月16日(月)】
▼朝方、仕事をしていて(会社のほうのだが)小腹が空いたので、台所に食いものを漁りにゆく。先日買っておいたブルーベリー・ジャムがあった。しげしげと眺めていると、これがまたやたらうまそうだ。なにかに塗ったりするのがもったいなくなってきたため、そのままプリンかなにかでもあるかのように、ひと瓶全部食ってしまう。われながら呆れた。夏目漱石じゃないんだからね。先日東茅子さんの投稿に影響されたのだろうか。三十六歳を目前にして、やりたいことはそのときにやりまくるというライフスタイルに照れや衒いがなくなってきた。そう、おれは年男なのである。黒沢ではないが、そうなのである。もともとが極楽トンボであるところへもってきて、還暦の五分の三も生きてしまうと、「おれはしょせんおれだ」という諦めと「おれはおれなのだ。文句あるか」という開き直りがないまぜになった、たいへん楽な心持ちになる。世界を肩に担いででもいるかのような若いころのヘイ・ジュード状態が嘘のようだ。いまはレット・イット・ビー状態とでも言おうか。これが四十を超えるとプツンと完全にふっ切れて、ツイスト・アンド・シャウト状態になれるんじゃないかと、いまから楽しみである。最終的にフール・オン・ザ・ヒル状態になれれば、人生勝ったようなものではないか。してみると、ビートルズってのは、やはり偉大だ。今日はおかしいな、おれ。

【11月15日(日)】
『日曜洋画劇場』(テレビ朝日系)、頭とお尻だけ観ようとも思ったが、なんだかつらいので観ずじまい。テレビってのは、こういうとき生々しくていけない。たとえば、タモリの『今夜は最高!』逸見政孝氏が出演した回をおれは楽しく観た。収録のときにはすでに癌を告知されていたことを、あとで知ったわけだ。これがもし逆だったら、おれは観なかったんじゃないかと思う。亡くなってから日も浅いというのに、ブラウン管の中から淀川さん本人に「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」なんて言われたら、これはたまらん。
 さて、しかし後任だが、誰が出てきたってまだ厭だし、出るほうだって厭だろう。ここはひとつ『水曜ロードショー』方式で、最少限必要な情報を坂上みきにでも読み上げてもらえばよいのではなかろうか。淀川さんの存在はあまりにも重かったので、繋ぎの措置はやっぱり必要だ。ほんとうの後任が誰になるかは興味深いところではあるが、頼むから浜村淳だけはやめてね。いや、べつに関西ローカルの番組に出てるぶんにはまったくかまわないのだけど、あの時間に浜村淳は見たくない。天ぷらを三人前食ったあとレバニラ炒めが出てきたような気分になるのはかなわん。まあ、心配するには及ばないか。
 おれはべつに浜村淳が嫌いなわけではない。あのキャラがどうしても必要な番組ってのも、関西には多い。つまらない映画を観てしまうと、関西人はよく「また浜村淳に騙された」と苦笑しながら言ったりする。じゃあ、関西人は浜村淳を恨んでいるのかというと、そんなことはないのだ。次はどんなつまらない映画をどんな大袈裟な言葉で称賛し関西人を騙してくれるのかと、彼のキャラクターと藝とを楽しんでいるようなところがある。
 淀川長治が褒めた映画が自分にはつまらなくても、騙されたという気はしない。これは藝である。浜村淳が褒めた映画は、つまらないことを確認に行ってやろうという気にすらなる。関西人はみんなそれを楽しんでいるのかもしれん。これもまた藝であるが、こういう、よくよくわかっていて騙されるのを楽しむような文化というのは、関西(厳密には大阪)ならではのものではないかと感じるのだが、どう思います?
▼最近、自分の日記が自分であまり面白くない。原因は明白で、本業裏業私生活の面白いことやら煩わしいことやらがどっと重なってしまい、ぼーっとしている時間が少ないからである。おれにとって、ぼーっとしている時間ほど貴重なものはなく、自分でも面白いことはたいていそういう時間に思いつく。こういうときは、「よし、いまから一時間、絶対になにもせず、しっかりぼーっとするぞ」という義務を自分に課さなくてはならない。その結果、あとで仕事がきつくなることがわかっていても、断固としてぼーっとしなくてはならないのだ。ノルマを消化するようにして、次々といかにも有意義なことばかりしていると、だんだんアホになってゆくような気がするのである。

【11月14日(土)】
▼オヨヨ(って、いつのギャグだ、いつの)、ワープ日記諸星友郎さん「981114a[ daily life / 日常生活(土) ]」で、石橋けい「ぢうやう」だと書いておられるぞ。やはりそのスジの人には重要な存在であったのか。おれは映像系には疎く、ご存じのように、先週『ウルトラマンガイア』(TBS系)でようやく名前を憶えたところなのだ。なんかこう、SF好きな男性が好む女性のタイプってのは、ある傾向があるのかね? コンベンションなんかでSFな人の奥さんに初めてお会いしたりすると、「あ、やっぱり」と思わされることが多い。なにが“やっぱり”なのか? たいていおれ自身も「あ、タイプかも」という第一印象を抱くのである。あの人とかあの人とかあの人とかあの人とかあの人とかあの人とかあの人とか、たぶん一般的には「全然ちがうタイプじゃん」ということになりそうなんだが、いったいどこで拾ってきたのか(失礼)と思うほどに、やっぱりある種の“匂い”みたいなものが共通しているのだ。不思議だがほんとうである。いや、待てよ。彼女らは、夫に調教(?)されて、共通の匂いを身につけてしまったのかもしれんな。あるいは、夫のほうが調教されたのか。はて、卵が先か鶏が先か……。

【11月13日(金)】
▼どうも最近、コンビニで食いものを買うときに妙な先入観が働くようになってきた。どんな食いものを見ても、納豆と混ぜてうまそうかどうかを、まず考えてしまう。今日もいろいろ仕入れてきたので、週末は楽しめそうだ。
 さて、マダム・フユキの宇宙お料理教室、今回は軽いジャブである。とりあえず、納豆にトマトジュースをかけて食ってみた。カゴメ「まるごとトマト 100%」というのが、おれが最近気に入っているトマトジュースである。余計なものが入っておらず、トマトの素朴な味が楽しめる逸品だ。納豆にはもちろんタレと芥子をかけ、その上から豆が軽く浸るくらいにトマトジュースを注いで、ぐちゃぐちゃと練る。納豆のネバネバが目にも鮮やかなオレンジ色になってくるあたりが楽しみどころと言えよう。
 食ってみると、味はべつにどうということはない。「納豆にトマトジュースをかけたらこんな味になるだろうなあ」と想像したとおり、納豆にトマトジュースをかけたような味がするだけである。これは失敗作だ。驚きがない。センス・オヴ・ワンダーがない。いっそケチャップでもかけたほうがパンチがあるかもしれないが、だいたい味の想像がつくのでやめておこう。ありふれた素材の邂逅から、予測を裏切る驚異が飛び出してこなくては面白くないのだ。ま、栄養だけはあるだろうから、風呂上がりに小腹が空いたときなどにはいいかもしれない。
▼やあ、今週はなんだか疲れた。つまらないことばかりにエネルギーを使ったような気がするが、よく考えると、それならふだんとあまり変わらないではないか。でも、淀長さん逝去の精神的ショックは大きいな。そうそう、それにしても、小森のおばちゃまはすっかりおやつれになったね。びっくりしたよ。「高原の小枝を大切に」なんてチョコレートのCMやってたのが昨日のことのようなのだが、おれも自覚のないままそれだけ歳を食ったということか。淀長さん亡きあと、小森のおばちゃまには“もあべたあ”になってがんばってほしいものだが、やはり人間歳には勝てぬか。おれにはあとどのくらいの時間が残されているのだろう。どうも好きな人が亡くなると、こういうことばかり考えて弱気になっていかん。あの葬式というやつがいかん。暗い。
 おれが死んだら、ぜひ参列者が元気になるような葬式をしてほしいもんだ。まあ、ご存じのようにおれは宗教嫌いであるから、宗教色は一切出さず、軽い立食パーティーみたいなものにしたいなあ。音楽で盛り上げるのもよい。「ゲバゲバマーチ」「笑点」のテーマ曲をパーティー会場に流す。さすがに出棺のときばかりは、ちょっと厳粛にしたほうがいいだろう。「サンダーバード」のテーマ曲を流そう。宗教色は出さぬと言ったが、ギャグに使うぶんにはかまわない。霊柩車の観音開きの扉が開き、おれの死体を載せたコンテナが「サンダーバード」のテーマとともにゆっくりと霊柩車の中に格納されるところなど、すごく画になりそうじゃないか。こういう葬式って、参列してくれた人たちも元気になるよね。ああ、しかし口惜しいことに、おれがどれだけ段取りをつけておいても、おれはそれが見られない。なんとも理不尽なことである。まあ、死というのは理不尽なものだ。理不尽なものに対峙したときは、泣くか笑うかしかない。おれは笑うほうが好きだ。「あの野郎、ついにくたばりやがったよ、ぎゃははははは」と、親しい人たちが楽しんで酒を飲んでくれるのなら、死人冥利に尽きる(?)ってもんだ。

【11月12日(木)】
▼ああ、淀川長治氏が亡くなられた。こういうふうに生きられたら、なんとすばらしいことだろうと憧れた人のひとりだ。テレビの解説だけ観ていると、淀長さんがなにかの映画を貶すことなどあり得るのだろうかと思われる。なんでも褒める批評を“淀川長治流”などと揶揄することもある(おれもたまに使う)。だが、こんな言いまわしがあるからといって、誤解してはいけない。「あの人はなんでも褒めるのだから、批評家として三流だ」などと思ってしまってはいけないのだ。活字媒体での批評を読めば、テレビのイメージとはちがって、観るべきところは長所も短所もきちんと把握していらっしゃるのがわかった。それが一般の人に向かってアウトプットされるとき、「ひとりでも多くの人に、私と同じように映画を好きになってもらいたい。楽しんでもらいたい」という気持ちがブレンドされ、結果的になんでも褒めているかのような印象を与えるだけである。けっして批評眼がなまくらだったのではない。美人だが根性の悪い女性のような映画は、より美人が引き立つように、不美人だが気立てのいい映画は、より気立てのいい娘であるかのように語るのが淀長流である。ただし、嘘はついていない。おれもこういう姿勢でいたいものだ。
 思い出すのは『恐怖対談』(吉行淳之介、新潮文庫)の「こわいでしたねサヨナラ篇」である。淀川さん(と呼ばせてほしい)は、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』“ホモセクシュアル映画の第一号”と断定し、吉行淳之介や同席していた和田誠をびっくり仰天させた。いまでこそ、こんなことは女子中学生でも見破るだろうが、あの吉行淳之介すら気づいていなかった時分に、生涯独身を通した淀川さんがとっくに看破していたのだ。
 おれが淀川長治なる名前を憶えたのは、むかーしのアニメ『怪物くん』(藤子不二雄原作)でである。怪物くんが超能力を使うと、突如画面にあのニコニコ顔が現れて解説をはじめるのであった。おれは本篇よりもそちらのほうが好きだったくらいで、いつ淀川長治が出てくるかと、わくわくしながら観ていたものだ。
 人は死ぬときに自分の一生を一瞬にして見るというが、淀川さんはきっとすばらしい映画を観ながら亡くなったのだろう。あの日曜の夜の名調子がもう聴けないかと思うと、寂しくて涙が出てくる。
 さて、どこかで誰かがやっているだろうけどかまうものか、おれはどうしてもこのやりかたで淀川さんに別れを告げたいのだ――淀川さん、ありがとう。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ。

【11月11日(水)】
▼ああ、今年も「SFマガジン」「マイ・ベスト5」投票の季節がやってきた。読めてない話題作をできるだけ追い込みで読んだりする。すでに読んでるものの中から選べばいいじゃんという考えかたもあるが、おれみたいな者の一票でも一票は一票だから、やはりできるだけ粘って吟味対象を増やしておきたい。読んだら読んだで、今度は順位にのたうちまわる。SFと呼ぶには苦しいが小説として優れている境界作品と、どう見てもSFだが小説としてやや劣っているSF作品とを並べて判断に苦しんだら、おれは後者を優先することにしている。SF雑誌でのベスト企画だからだ。でも、圧倒的に優れている境界作品となると話はべつだ。過去に日野啓三『光』(文藝春秋)を一位に入れたこともある。ううむ、今年も難しいなあ。


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