間歇日記

世界Aの始末書


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98年11月下旬

【11月30日(月)】
▼さらりまん姿で大阪の街を歩いていると、おれの前を若い男が四人、歩道いっぱいに広がって歩いている。同じような服を着ているから高校生だろうか。なにやらわけのわからない話に夢中で、おれが追い越したがっていることなど気づきもしない。いらいらしながら咳払いなどしてみたが、彼らの文明は、この宇宙に“自分たちのうしろ”という未知の世界があることを発見していない程度の発達段階にあるようだ。
 おれは歩くのが早いから、こんなふうに苛々させられることが非常にしばしばある。大阪はまだましだ――という話は、以前に「迷子から二番目の真実[14] 〜 歩行 〜」に書いたので省略するとして、どうにかしてこいつらにおれがうしろで迷惑しているのをクールに伝える方法はないものかとちょっと考えた。わざと踵を踏んでやるとか、いっそ蹴りあげてやるのがいちばんいいのだが、育ちのいいおれにはそんな野蛮な挙に出ることなど、想像すらできない(しとるやないか)。
 そこでふと、ユーモアを交えたクールな台詞を思いつきもう少しで口にするところだったが、危うく思い留まった。「こらこら、こんなところで『Gメン’75』ごっこするんやない!」と注意してやろうと思ったわけなんだが、よく考えたら、こいつらはあの番組が人気を博していたころには生まれていない可能性がきわめて高い。このガキどもにしてみれば、丹波哲郎なんて人は霊界の伝道師以外の何者でもない。それが主たる職業であると思っているだろう。「へえ、筒井康隆って、小説も書いてたんだ」と驚く若いコがいても不思議ではない。さすがに『ザ・ガードマン』となるとおれですら大むかしの番組だと認識しているが、『Gメン’75』なんて、主観的にはつい昨日放映されていたような感じである。タイトルに入っている西暦に、おれはその場で衝撃を受けてしまった。もう、あれから二十三年も経つのか!? 怖ろしいことだ。あまりの衝撃に、この若いやつらのことなどどうでもよくなり、うしろから肩を割り込ませて一気に追い抜いてやった。
 毎年この時期になると、ラジオやらショッピングモールのBGMやらで必ずジョン・レノンが尋ねてくる。“So this is ChristmasAnd what have you done?” ああ、今年もなーんもたいしたことしとらん――と、この Happy Christmas を聴くと、どきっとするのである。毎年どきっとして、これからもどきっとし続けるだろう。
 というわけで、今日、三十六歳になった。お祝いのお言葉やプレゼントをくださった方々、ありがとうございます。ちょうど日記も十三万カウントを超えました。こんな戯れ言の集積とはいえ、みなさまのほんの息抜きにでもしていただけるなら本望であります。これからもよろしくお願いいたします。So...what the hell have I done this year??

【11月29日(日)】
▼十八歳の母親が一歳五か月の長男を風呂につけて溺死させたなんて事件が新聞を賑わしている。「まだまだ働きたいし、遊びたかった。育児に時間が取られるので殺した」などと言っているそうで、マスコミはどうも母性の欠如が嘆かわしいのどうのこうのといったお定まりの方向へ持っていきたがっているかのような取り上げかただ。まあ、女性週刊誌用語で言うところの“バカっ母”であるのはたしかだが、まだまだ働きたいし遊びたいってのはよくわかる。十八だもんな。おれは明日で三十六になるから、半分の年齢である。おれだって、まだまだ働きたいし遊びたい。おれの知ってる女性にも、子供を作らずに働きまくって遊びまくっている人はたくさんいるぞ(遊びかたはいろいろあるんだけども)。こういう女性が、またなんで十八で子供なんぞ産んだのかがよくわからん。そりゃ、世間には十八で産もうが十五で産もうが立派に育てる人もいるだろうが、この女性はそういう強靭な人じゃないんだからしかたがない。なにか産まなきゃならない事情でもあったのだろうか。
 なぜかこの国はめちゃくちゃに子供が育てにくいらしい。おれの妹なんぞも、ひーひー言いながら育てている。だいたい人間がふつーに働いてふつーに遊んでいても、子供くらいひとりでに育てられるのがあたりまえの社会というものだ。それが、いまや若夫婦にとっては、子供を持つことはこの上ない贅沢になってしまっている。池田勇人流に言うなら、「貧乏人はゴムを買え」あるいは「貧乏人は外へ出せ」ってわけだ。「貧乏人はマスをかけ」というのもアリだな。そういえば、前から不思議に思っているのだけど、“マスをかく”とか“せんずりをする”に相当する女性の自慰行為の俗語はないのだろうか? どうも同じレベルの表現が見当たらないのだ。女性だと“オナニー(マスターベーション)をする”とでも言うほかない。でもこれは女性に固有な表現ではないでしょう。男女共用だ。最近だと“ひとりえっち”なんてのも男女共用だよね。おれの語彙が貧困なだけかもしれんけど、日本語にそういう表現がないとしたら、これは由々しき差別問題である。どうも世の言葉狩りは、すでにある言葉になにかと目くじらを立てるばかりなのだが、狩る言葉すらないという事態にも、よりタチの悪い差別が隠れているものなのである。世の女性たちは、女性の自慰行為を指す自然な日本語を自分たちで作り出してゆかねばならない。これは作家をはじめとする文筆業者の仕事であろう。みなさん、がんばってください。
 おっと、ついつい日本語を憂うるあまり、おれにはあまり興味のない話題に図らずも脱線してしまった。だからさ、子供を作ったらどえらくしんどい思いをしなけりゃならない社会ってのは、明日のない社会だ。むかしだって子供を育てるのはどえらくしんどかったにはちがいないが、そのしんどさの質がいまはちょっとちがうようである。こういうふうになるのは、おれの子供のころからですらとっくに目に見えてたのに、なんでこんなになるまでほっとくかね? 年金制度が崩壊するだの労働力人口の不足が心配だのと、誰もが「そりゃ、そうなるわな」とあたりまえに思っていたことを、まるで昨日それがわかったかのように慌てられても、しらけることおびただしい。ここへ来て、あたかも女性の晩婚化傾向がけしからんことであるかのように思想誘導する論調すら現れているが、アホかと言いたい。政治家さんたちは自分が不自由を感じずに子供が育てられてきたものだから(政治家さんたちの奥さんは割を食っているだろう)、きっとこれほどまでに自明な庶民感覚につい最近気がついたのだろうな。もはや、子育ては贅沢なのである。贅沢は敵だ。よって、女性が子供を産まなくなっても、何百年後かに日本人が滅びようとも、そんなもの今日の彼女らの知ったことではあるまい。
 産んでから殺さなきゃならなくなるくらいなら、産まない選択をするほうが、母子ともに平和である。こういう社会が望ましいとして、おれたちの先輩がそう作り上げてきたんだから、おれたちはおれたち流にやるだけの話だ。赤ちゃんよ、永遠に。

【11月28日(土)】
▼前にもイチャモンをつけた『ウルトラマンガイア』(TBS系)の変身道具エスプレンダーだが、やっぱり何度見てもかっこわるい。“表と裏がある”のが最大の欠点であろう。表から見ることしか想定していないデザインなのだ。裏から見たら左官屋さんのコテみたいで、サマにならないことおびただしい。よって最近では、我夢青年がエスプレンダーを前方に突き出すのを前から撮るカットが変身時の定番になりつつある。動きが乏しく変化がない。初代ウルトラマンのハヤタ隊員から途中いろいろあっても連綿と受け継がれている黄金の安定構図――脚をやや開いて立ち右手を高く掲げたポーズを下からアオる三角構図のかっこよさが、エスプレンダーでは出しにくいのだ。一度我夢もやってはいたが、これではエスプレンダーの表が見えないのである。つまり、おもちゃとしておいしい表の発光部分が見えないから、スポンサーが喜ばないだろう。こうした観点からも、先代ダイナリーフラッシャーは歴代変身道具の中でも出色の出来である。もちろん、いちばんよかったのは、前にも書いたように道具の要らない『帰ってきたウルトラマン』なのだが……。
 まあ、エスプレンダーといえども、『ウルトラマンA』指輪よりはずっとましだ。北斗が二人で変身していたときなど、決まって頭の中で「出てこい、シャザーン!」と唱えてしまったものであった(若い人は、おじさんおばさんたちに訊いてね)。南の女優さんが出産退職かなにかで抜けて北斗ひとりになってからは、もっとまぬけな画になっていた。
 ガイアの締まらない変身とは対照的に、今日のアグルの登場シーンはじつによかった。噴煙の中に逆光で浮かび上がる片膝をついたシルエット――あれはあきらかに必殺シリーズ三味線屋勇次へのオマージュである。顔の傾けかたまで同じだ。立ち上がって高速で怪獣と擦れすれちがう動きや腕のさばきかたなども、どう見たって中条きよしのアクションをパロっているとしか思えない。いまにウルトラ三味線かなんかの超硬鋼索を武器に魔界都市をクールに跋扈するようになるのではあるまいか。
 このままではガイアよりアグルのほうに多くファンがつきそうだ。我夢君には、とりあえず変身のカットに変化をつけてほしい。エスプレンダーの構造上の欠点を補うには、ミラーマンみたいな“鏡撮り”はどうだろうか? ある特殊な宿泊施設で我夢君がXIGの女性隊員と一緒に寝技の練習をしていたところ怪獣が出現、エスプレンダーを天井に向けて掲げる我夢をカメラは下からアオる。エスプレンダーの表側もちゃんと天井に映っている――ってのはやっぱりあの時間帯では無理か?

【11月27日(金)】
▼HP200LXのフラッシュメモリカードをノートパソコンに挿し込んで、毎日寝る前にバックアップを取る。カードを取り出す際にドライバを終了させると、「このデバイスは安全に取りはずせます」と Windows95 がメッセージを出してくる。ドライバを常駐させたままカードを取り外したりすると、きっと大爆発を起こすかなにかするのにちがいない。気をつけねば。
「SFマガジン」恒例の「マイ・ベスト5」の投票・入稿も終わり、「SFオンライン」も更新されたばかりということでほっとひと息、溜まっている洋書のリーディングを再開しようと思っていたら、今日だしぬけに書評と解説の仕事が二本入ってきた。一本は紙媒体、一本は電子媒体である。「SFオンライン」の連載のほかに十二月は電子媒体の仕事が一本あるから、計四本。兼業もの書きとしては、かなり忙しい月になりそうだ。まあ、仕事があるうちが華である。京都SFフェスティバルをたっぷり楽しむため、今月こそはできるだけ前倒しで仕事を片付けてしまおう。とかなんとか言いながら、今年も大晦日までバタバタし続けるに決まっているのだが……。
 頭が痛いのが年賀状である。こういうときに独身は不便だ。いやまあ、結婚していたとしても相手のほうだって自分の仕事で忙しいだろうから、結局、双方自分のことは自分ですることになるのだろう。だが、表書きの印刷などはまとめてやったほうが効率がよく、お互いに助かるはずである。共通の知人もいるだろう。妻なんぞ要らんが、秘書は欲しい。英語を解してパソコンが使えなくてはおれの秘書は務まらないので、こういう人を雇うとなると、とんでもない人件費がかかるだろう。夢物語だ。そもそも、手前が雇われている身で人が雇えるわけがない。かといって、女中を雇うようなつもりで結婚するのはおれのポリシーが許さん。母親がヨイヨイになってきたらおれが世話せにゃならんだろうが、そうなったらそうなったときで会社を辞めて家でできる仕事に切り替えるつもりである。べつに人間なにやったってお天道様と米の飯はついてまわるものだ。米が食えなくなったら、ケーキを食えばよろしい。儲けようとは毛頭思わんが、家に居ながらにして食っていける程度の収入を得る方法を、いまからいろいろ考えているのである。幼いころ、袋貼りの内職を手伝いながらおれは数を覚えたものだけども、いまはコンピュータという便利なものがあるのだ。もっと効率のよい内職を世界中から請けることができるはずである。
 おそらくこれからの日本は、傑出した個人はぽつぽつ現れるだろうが(そんなものはいつの時代にも現れる)一国家としては世界の三流に(いまは二流なのだ)成り下がってゆくだろう。残念ながら、おれはそう見切っている。考えようによってはおれの子供のころ(あるいはそれ以前)に戻るわけで、たいへん気が楽だ。なにも、なにしに生きてるのかわからんほどあくせくして、先頭を走り続けることなどないではないか(だいたい、先頭になったことなど一度もない。そうおだてられていたことはあるが……)。
 などと思いながらも、やっぱり目先の仕事は忙しいのである。どこかに、互いに協力し合えるがおせっかいは焼かず、精神的肉体的に互いのニーズを満たし補完し合えるが支配しもせずされもせず、貧乏が苦にならず粗食に強く納豆を嫌がらず、文化的出費にはごちゃごちゃ言わずおれ程度には教養があり(できればおれより教養があり)、まちがっても結婚してくれなどとは言い出さず子供も欲しがらず、基本的におれがいなくても生きていけるがもの好きにもおれと暮らしても差し支えはないという、おれの秘書志望の女性はおらんか? おらんわな。おったらびっくりである。

【11月26日(木)】
▼おお、偶然だ。つい先日、日本SF作家クラブ会員名簿井上雅彦氏の略歴を見ていたところ、井上氏がテレビ『西遊記』の第一回で「夏目雅子演じる三蔵法師に助けを求め、肩が露になるほどにすがりつく農夫F」を演じておられたことを知り、「夏目雅子に触わらはったんやろか。ええなあ」などとにわかに羨望を覚えたのであった。どんな農夫がどんな演技をしていたのかよく憶えていないのだが、高僧に“すがりつく”とあるからには、太股とか腰のあたりとかに袈裟ごしに触れたのやもしれぬ。いや、もしかすると、夏目雅子の二の腕を爪を立てるほどに握りしめ、救いを乞う眼差しであのきらきらとした双眸を覗き込んだのだろうか。うううむ。羨ましい。文筆業界広しといえども、夏目雅子にこれほど接近し得たのは伊集院静氏と井上雅彦氏だけではあるまいか。
 で、なにが偶然かというと、田中啓文さんの日記(平成10年11月23日)を読んでいたら、やはり夏目雅子と『西遊記』で共演したとおっしゃる作家のIさんという方のことが書かれていたのだった。なんでもこの方は“K社刊のアンソロジー「異形コレクション」”を編集なさったそうで、井上雅彦氏にとてもよく似た人のようだ。たぶん、こちらの方は“農夫E”をやっておられたのだろう。再放送があったら、しっかと確認しておかねば。
 でもって田中さんの日記に刺激され、突然ゴダイゴが聴きたくなり、二十年くらい前に買ったカセットテープ『西遊記/ゴダイゴIII』(日本コロムビア)を捜し出してBGMにする。おお。「モンキー・マジック」がこんなにいい曲だったとは――。たしか最近、槇原敬之だったかがカバーしてたのをラジオで聴いたけど、やっぱりおじさんはゴダイゴのほうがいい。あのスティーヴ・フォックスの無愛想なヴォーカルが妙に効果的で、タケカワユキヒデだけでは出せない味を出している(笑)。全然関係ないが、おれはなぜかトミー・スナイダーデーブ・スペクターが兄弟のように思えてしかたがないのだが、そんな気がしている人はおれのほかにもたくさんいるんじゃなかろうか。
 むかしは「ガンダーラ」のほうが好きだったんだけど、歳食うと好みも変わるもんだね。でも、ふつう、順番が逆かもなあ。

【11月25日(水)】
京都SFフェスティバルの Progress-less Report が届く。わっ。マンガカルテット(小林泰三田中哲弥田中啓文牧野修)の放談企画は、やっぱり実現したのか。これは這ってでも行かずばなるまい。Progress-less Report のほうは「関西在住SF作家放談」となっているが、ホームページのほうは「関西在住若手SF作家放談」となっている。じつのところ四捨五入して四十になるおっさんばかりではあるが、SF界ではまだまだ立派な若手で通るのである。そもそもSF作家やSFファンには、外見からして年齢不詳の怪人が多い。「二十年前に見た著者近影と全然変わらんではないか」と思わされることもしばしばだ。もともと老成したような顔をしているタイプと、いつまでも学生みたいな顔をしているタイプとがある。SF者といえども、この世界で生きているかぎりはそれぞれ世間の荒波に揉まれているはずなのであるが、なぜか外見に出ない人が多いようだ。不思議なことである。やはり、しょっちゅうヘンなことに頭を使っているため、精神が柔軟なのであろう。それが老化を遅らせているのだ。都合のいい解釈だが、そういうことにしておこう。大森望さんなど永遠の学生みたいな雰囲気だし、菅浩江さんなんかどう見ても女子高生である。どう見ているんだという意見もあるかもしれないが、そういう些細な突っ込みは無視する。アーサー・C・クラークなど、もう死んでいると思い込んでいる失礼な人だっているくらいであるが、いまだに赤新聞にあんな噂を立てられるほどお元気なのである。また、星新一氏が『火星年代記』に感動したという話だけが頭に残っていて、レイ・ブラッドベリを十九世紀の作家かなにかと思っている人もいるらしい。まだまだ現役の大作家であるぞ、ひかえぃ!。
 ということは、だ。SFファンのみなさま、ご用心召されよ。あなたがたは、SFファンをやめた途端、急激に老化すると推測される。「ああ、もうおれはSFなんか読まないぞ」と宣言したある男が、翌日アパートの一室で白骨と化していたという噂もあるくらいだ(いまできたのだが)。一冊読めば十日くらいは若返るのがSFである。ヴァーナルの番組に出ている芸能人が、じつは隠れてSFを読んでいるのは公然の秘密なのだ。おや、あなたご存じなかったですか? お友だちにも教えてあげましょう(って、会社がちがうか)。

【11月24日(火)】
▼やれやれ。眠くなる薬を常用しながら、ときおり眠気覚ましを飲むというわけのわからない生活を送っているが、冬になると電車の中がとくに眠くていけない。本を読みたいのに、すぐ舟を漕ぎはじめてしまうのだ。ひと駅乗り過ごすこともたまにあり、そんなときは時間を無駄にしたのがいよいよ腹立たしい。
 去年の8月12日に、コンビニで売ってるカフェイン・ドリンク、「パワフルブラック」(JT医薬事業部)やら「眠眠打破(みんみんだは)」(常盤薬品)やらの話を書いたのだが、最近、より強力なやつを薬店で買うことも多い。「エスタロンモカ内服液」(エスエス製薬)ってやつは効きますな。「パワフルブラック」や「眠眠打破」が、50ml中120mgしか(おいおい)カフェインを含んでいないのに対し、さすがに薬店で売ってるだけのことはあって「エスタロンモカ」は30ml中150mgも入っている。そのほかにもタウリンやらなにやら栄養ドリンクじみたものが含まれていて、高いぶんさすがによく効く。飲むとたちまち眼が覚めるもんな。即効性がある。あとからまるで電池が切れるかのように、眠気が倍以上になって襲ってくるのが困りものだが、こりゃまあ、いたしかたないですなあ。なんか、日記によると大森望さんも愛用なさってるみたいだけど、一度「エスタロンモカ飲み放題バカ話大会」とかやったら面白いかも。二、三本飲んだら、頭が冴えわたってオーバーヒートし、とんでもない話が飛び出すにちがいない。小林泰三田中哲弥田中啓文牧野修の関西在住作家マンガカルテットに駆けつけ二本ずつ飲ませて好き勝手を喋ってもらったら、さぞやすさまじい狂気の宴になるだろうなあ。心臓の弱い人はマジで死んじゃうかもしれないので、ほんとにやらないようにね。

【11月23日(月)】
▼今日もほとんどテレビを観ずじまい。昼飯を食いながらちょこっとワイドショーを観ていると、フランス人は毎日風呂に入らない人が半数以上だという話題を取り上げていた。香水で体臭をごまかすらしい。そうか。香水の匂いをぷんぷんさせている人がおったら、「こいつ、ひょっとして一週間くらい風呂に入っておらんな」と疑ってみるべきであるのだな。
 おれは風呂が好きなほうだが、冬場はとくに汗でもかかないかぎり、二日に一回のペースである。毎日入ったほうが身体にいいとはわかっていても、時間がもったいないという気持ちが先に立つ。いったん入ると一時間近くかかってしまうのだ。カラスの行水というのができない性分なのである。短時間でさっとすますと、かえって気持ちが悪い。それなら入らないほうがましだとすら思える。
 ちょっと長期間温泉にでも行って、一日に五回も六回も風呂に入ってゆっくりできたらなあと常々思うのだが、そんな生活を一週間もした日には、情報の禁断症状が出てきて、かえって精神衛生に悪いにちがいない。温泉旅館でノートパソコン叩いてたら、ふだんの生活と変わらんもんなあ。結局、こういう性分のやつは、死なないとゆっくりできないのだ。まだ死にたくはないが、いざ死ぬ段になったら、「ああ、やっとゆっくりできる」とほっとしたような気になるんじゃないかと思っている。痛いのや苦しいのは厭だけど、いずれ必ず消えてなくなれるのかと思うと、なんとなくそれが楽しみでもある。

【11月22日(日)】
▼おや、なんと。今日は一度もテレビを点けていない。テレビっ子のおれとしては珍しいことだ。だが、ふだんじっくり観ている番組があるかというと、そんなものは数えるほどしかないのである。おれはほとんどCMを楽しむためにテレビを観ているようなものだからだ。実際、そう思いませんか? 地上波テレビでいちばん面白いのはCMでしょう。下手な番組より、よっぽど金と時間と頭脳と才能とを傾けて作ってあるじゃないか。
 CMといえば、我孫子武丸さんも驚いていた(「ごった日記」98年11月3日)例の「カリ王」(日清食品)の実物を、先日初めてコンビニで見た。あのロゴを目のあたりにすると、なかなかにすごいものがある。故川上宗薫先生もお喜びであろう。まちがっても、同じシリーズでクリームコロッケなど出さないように。
▼寒くなってきたせいか、チョコレート中毒はますます悪化の一途をたどっている。原稿を書いているときなど、煙草を吸っていなければチョコレートを食っているというありさまだ。これだけのカロリーが、いったいどこに逃げているのだろう。子供のときにはさほどチョコレートが好きだというわけでもなかったのに、ここへ来て反動が出ているのか。この伝で行けば、十代のころ同年代の性的対象にもののみごとに恵まれなかったおれは、いまに女子高生にトチ狂うようになるのだろうか。ちょっと想像し難い。たしかに、ぱっと見は「おお、うまそう」と思えるような娘はよくそこいらへんを歩いているが、喋っているのを聴いているだけで萎えて(なにが?)しまうわ。そらそうだわな。十八歳のコだと、おれの半分の年齢である。考現学的観察対象としての面白みはあれど、腹を割った会話が自然体でできるとはとても思えん。歩幅のちがいすぎる人と並んで歩くと疲れるように、精神的歩幅みたいなものが合わず、やっぱり疲れるんじゃなかろうか。見て楽しむぶんには嫌いじゃないけどもねえ。お近づきになりたいという気持ちは湧いてこないな。援助交際とやらをやってるオヤジたちは、なにが楽しくてつきあってるのだろう(まあ“用途”を割り切るとすれば、楽しい側面の想像はできるが)。男は若い女性が好きだという誤った認識が一般的にあるようだけれども、あれはあくまで神話にすぎないと思うぞ。は? あなた、やっぱり若いほうがいいですか? なんだかなあ……。べつに二十代以下の人を悪く言うつもりはないのだが、主観的には女はやっぱり三十からでしょう。でもって、手前が四十を超えたら「女はやっぱり四十からでしょう」とか言ってそうな気もするな。金さん銀さんだって「男はやっぱり百からじゃ」とか言ってたりして。あの婆さんたちにしてみれば、たしかにいま八十くらいの爺さんでも洟たれ小僧に見えるのかもしれんしなあ。想像を絶するよ、これは。

【11月21日(土)】
▼新聞にCD集らしき一面広告が出ているのでよく見てみると、「GOLDEN J-POP THE BEST」(ソニー・ミュージック・エンタテインメント)という邦楽ベストセレクションの広告であった。37タイトルあって、南沙織やら太田裕美やら久保田早紀やら森山良子やら原田知世やらといったおれの食指の動きそうなものもなるほどないではない。なかなか豪華なラインナップとは言えよう。が、浅田美代子に一枚を割いているのはなにかの冗談ではあるまいか。あの天然ボケで面白いおばさんがアイドル歌手だったころを知らない若い世代を狙った人選なのかもな。年配者にも怖いもの聴きたさという気持ちはあろう。浅田美代子篇には、なんと二十三曲も入っている。「赤い風船」以外は、知らない曲ばっかりだ。おれはバラエティータレントあるいは女優として再生した最近の浅田美代子が嫌いではない。むしろ、むかしより色気があって好きなくらいだ。しかし、人には得手不得手というものがある。賭けてもいいが、このCDは本人だって売れてほしくないと思っているにちがいない。ソニーさんも、なんとも残酷なことをするものだ。
 思うに「赤い風船」はいい曲である。もっと歌のうまい人がカバーしてもよさそうな、浅田美代子だけに歌わせておくには惜しい曲だ。ことによると、すでにどなたかがアルバムの箸休めにでも入れておられるのかもしれない。なのに不思議なことに、おれは浅田美代子以外の誰かが「赤い風船」を歌っているところが想像できないのである。奇妙だ。たとえば今井美樹などが、浅田美代子とはすでに次元のちがう歌唱力で歌ったら面白かろうと思うのだが、なぜかその歌声が想像できない。
 世の中には、その人の歌がほかの誰にも歌えないといった類の歌手がいる。歌い手のキャラクターなしには成立しないような曲がある。ジム・モリスンジャニス・ジョプリン尾崎豊の曲などは、本人以外には歌えない。いや、いくつかのものは、本人だって歌えなくなっていたかもしれない。技巧がどうこうというのではなく、歌手のキャラクターそのものが歌なのだから、本人にしか歌えるわけがないのだ。音楽というよりも、むしろ演劇に近いような気がする。ここいらが、人間が歌ったり演奏したりする営為の面白いところだろう。音楽は数学と物理だけで成立する。が、音楽活動は人間が行わないと成立しないのだ。
 そういう意味に於いては、「赤い風船」が歌えるのは浅田美代子だけなのである。褒めてるんだか貶してるんだかわからんが、とにかくそうなのだからいたしかたない。


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