間歇日記

世界Aの始末書


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98年12月上旬

【12月10日(木)】
▼会社から帰って台所で飯を食いながら居間のテレビを観ていると、山梨の六地蔵の首を何者かが持ち去ったというニュースが流れた。コペンハーゲンの人魚姫も呆れているだろう。おれはぽつりとひとこと「無粋な」とつぶやいた。すると、居間でやはりテレビを観ていた母が、ぽつりとひとこと「罰当たりな」とつぶやいた。価値観のちがいが端的に出ていて滑稽である。
 いま時分ともなれば、ふつう地蔵には笠でもかぶせて帰るものだ。もっとも、地蔵のほうも不景気だろうから、大晦日にはカレンダーか手帳くらいしか持ってきてくれないにちがいない。まあ、実際に笠をかぶせて帰るやつがいたとしたら、粋だとまでは思わないが、微笑ましいとは思うだろう。おれが粋だと思うのは、たとえば、ある朝富士山を見物に来た観光客の前に、防毒マスクをかぶった六体のお地蔵様が姿を現すといった事態である。同じやるなら首を落として持ち去るなどという無粋なことをせず、これくらい金をかけたいたずらをしてほしいものだ。地蔵の身体には蓑をかけ、それぞれ青、赤、黄、緑、ピンクに塗るのもよい。地蔵がひとつ余ってしまうって? それをどう処理するかが、いたずら者の腕の見せどころではないか。頭の上に『いたずらの問題』(フィリップ・K・ディック、大森望訳、創元SF文庫)を笠のように伏せて乗っけておくってのはどうだろう? SFファンにしかわからんわなあ。
▼陰惨な事件の渦中に巻き込まれ、家族や友人が死んだり苦しんだりし、住民同士が疑心暗鬼に苛まれ、連日マスコミに追いまわされるという、まことにまことにお気の毒な目に会った町の人々に対して、おれはまったく悪意はない。が、である。ほんとうに毒入りカレー事件を林真須美容疑者の犯行として立件できるのか、いまひとつ気色が悪いのだ。門外漢のこととて、亜砒酸の不純物にどの程度の証拠能力があるのかもよくわからない。あとははっきり言って、状況証拠ばかりだよね。状況証拠のみに頼るとすれば、論理的には――あくまで論理的にはだよ。くれぐれも誤解なさらぬよう――『オリエント急行殺人事件』式の方法で、ひとりの人間を(それが真犯人であろうがなかろうが)絞首台送りにすることが絶対に不可能だとは言いきれないのではないか? 毒入りカレー事件の犯人は、躊躇の余地なく、引き裂いても飽き足らんやつだ。だが、それが誰なのか、まだまだ軽率には断じられない状況だとしかおれには思えないのである。

【12月9日(水)】
▼おや。いつもより心なしかアクセス・カウンタが多く回っているようだぞ。京都SFフェスティバルレポート日記のせいだろうか。やっぱり、たまにはSFの話もしなくちゃいかんな。
 などと反省したせいではないのだが、ひさびさにブックレヴューのコーナー「天の光はすべて本」を更新。なにしろ、この日記はすでに「What's New」の代わりになっているものだから、ほかのコーナーを珍しく更新したときには、ここに書いておかないと誰も気がつかない。といっても新しく書いたわけじゃなくて、一年ほど前「SFマガジン」に書いた原稿を載せただけである。ティプトリー特集の一部だから、これだけ読んでもティプトリーをあまり読んでおられない方にはよくわからないかもしれないけど(読んでてもよくわからないって? ごめんなさい)、ご参考までに覗いてやってください。
▼先日からHP200LXの背面にひびが入ってきていて、今日こそはアロン・アルファを買おうと思いつつ、またもや忘れる。以前にひびが入ったときに買ったやつが、カチカチに固まって使えなくなっていたのだ。なぜかアロン・アルファは残しておいて使えたためしがない。その都度、新しいのを買う羽目になるのである。開けたら使い切ってしまうのがふつうなのだろうか? ワインみたいだ。
 それにしても、このHP200LXはよく保っている。これだけ酷使しているのに、やはりハードディスクを積んでいないマシンは強い。こいつがついに壊れてしまったら、次はPDAになにを買うだろうかと自問してみても、いまだに答えは変わらないのである――「新しいHP200LXを買う」
 なにやら「生まれ変わっても、またあなたと結婚したい」みたいな感じで、これはほとんどではなかろうか。あなたの周囲にHP200LXを使っている人がいたら、試しに訊いてみるといい。きっと同じことを言うから。そりゃまあ、いまは高性能で軽くてかっこよくて Windows CE が載っててカラー表示ができたりするマシンがいろいろ出てはいるが、PDAとして総合的にHP200LXを超えるものはいまだに現れていないとおれは思っている。むろん、いつかは消えてゆくにちがいない。しかし、あまりにも完成された名機として、HP200LXは必ずや電脳史にその名を遺すことになるだろう。

【12月8日(火)】
▼おーい、待ってるぞー。おれのところにも、三千万くらい投げ込んでくれんかー? うちの郵便受けにはペンネームは書いてないが、田舎のこととてどうやら最寄りの郵便局は知っているようなので、ペンネームでも一応郵便物は届く(でも、本名ご存じの方はできるだけ郵便物には書いてね)。おれのところには注文した本がよく段ボール箱で届くし、ときおりご恵贈くださった本が大きな包みで送られて来たりするゆえ、三千万くらい送ってくれても怪しまれないぞ。五千万でもいいぞー。平成の鼠小僧殿、どうか安心して投げ込んでくれー。
 話は変わるが、おれがなぜ郵便受けにペンネームを掲げないかというと、第一に恥ずかしいからである。いや、おれはおれなりに自分のペンネームが気に入ってはいるのだが、往来に掲げるのはやはりなにやら恥ずかしい。とくにうちは団地であって、入居者の郵便受けはひとところにずらりと並んでいる。本名の横に「冬樹」などと出すと、なにやらそういう名前の女性か男性と同居をはじめたようで、どんな噂が近所を飛び交わないともかぎらない。
 第二に、これは田舎特有の現象かもしれないが、いっぱしにペンネームなど持って商業誌に文章を書くような輩は、ほかの“まともな職業”に就いている人に比べて不当に大金を儲けているかのように思い込んでいる人が少なくはないのだ。とんでもない話で、ここを読んでいるような方々は大爆笑なさるだろう。不当に儲けているどころか、正当に儲けている人でもほんのひと握り、大部分のもの書きはかつかつで食えているか、食えないので兼業しているか、食えないので配偶者に養ってもらっているか、食えないので親の脛を齧っているか、食えないので先祖の遺産や田畑を食い潰しているか、食えないので食わないでいるかのいずれかである。しかし、事実、世の中には、もの書きだというだけで金持ちだと思い込んでいる人もけっこういたりするのだ。都会だともの書きなんぞ掃いて捨てるほどいるから、そういう誤解は少ないと思うが、出版にとんと縁のない生活をしている田舎の人々は、文筆業者を一種のヤクザか芸能人みたいなものだと思っている(まあ、たしかに本質的にはちがわんかもしれん)。よって、ものを書いて金をもらったりすることがあるなどと下手にばらすと、よからぬことが起こるにちがいないのだ。自堕落な親類縁者が金を無心に来たりするかもしれん。冗談じゃない。おれが貸してほしいよ。
 そんな当たりはずれの大きい、しんどいばっかりで(ほとんどの場合は)収入の少ないことをやりたがる人がなぜにかくも多いのか? そらやっぱり、みんな好きなんでしょうな。対象にがないとできないだろう。おれなんぞは木っ端の端くれの端くれであるからまだまだ楽ちんなのである。これはもう、人によっては、二か月も三か月も半年も一年もかかって書いた本が一か月もしないうちに、いやいや、ひどい場合は一日で書店から返本されてしまうことすらあるというとんでもない職業がもの書きなのだ。いわば、家内制労働集約型手工業的博打である。事業だと思ってやるんなら、なにもこんなに勝率の悪い博打をせんでも、ほかにもっと儲けやすいことがいくらでもあるはずだ。それでもやりたいですと? あんたも好っきゃねえ。おれも好きだけどさ。

【12月7日(月)】
小林泰三さんからメールが来ている。そうだそうだ。京フェスでお話していたとき、「カエルの解剖を写真入りで解説したすごいページがあるので、まだページが生きていたら教えてあげましょう」とおっしゃっていたのであった。
 メールで教えてもらったページに行ってみると、なるほど、これはすごい。玩具修理者もびっくりだ。べつに学術的な解剖でもなんでもなく、ただカエルの解剖が趣味であるという人の手になるものだけに、なにやらあっけらかんとしている。その手のものが苦手な方は見ないほうがいいと思うが、興味のある方はどうぞ。フリーライター・梅宮貴子氏の「蛙解剖講座」がそれである。この人のすごいところは、解剖したカエルをちゃんとあとで食べているらしい点だ。殺したものは食べるという哲学は、食べる気もないのに人間を気軽に殺す風潮が広がる昨今、なかなか感心ではなかろうか。だからといって、食べるつもりなら人間を殺してもいいわけではないすよ、佐川君。小林さん、ものすごいものをありがとうございました。
▼頭痛がひどいのでバファリンを飲む。効いてきたころ、当然眠くなってくるので、今度はカフェイン・ドリンク「モカビタミン」(エスエス製薬)を飲む。われながらさすがに心配になってくるが、コーヒーを何杯も飲むよりは胃にいいはずであると自分を説得しながら飲む。なぜかエスエス製薬は「エスタロンモカ内服液」と「モカビタミン」の両方を出しているんだよな。前者は薬局・薬店でしか売っていないが、後者はコンビニで売っている。以前にも書いたように、コンビニで売られているカフェイン・ドリンク(清涼飲料水扱い)は50ml中120mgのカフェインを含むものが最強力であるのに対し、「エスタロンモカ」(薬品扱い)は30ml中150mgものカフェインを含んでいる。ということは、1ml中のカフェイン含有量2.4gから5gまでのあいだに、コンビニで売れなくなる境目があるのにちがいない。エスエス製薬は、両方売って儲けようという魂胆であるな。
 この日記を読んでおれがカフェイン中毒になるのではないかと心配してくださっている方もいるらしいのだが、いくらなんでもエスタロンモカ級のものをしょっちゅう飲んでいるわけではない(コンビニ級のものはしばしば飲んでいるけれども)。一応、コーヒー、カフェイン錠剤、清涼飲料水扱いカフェイン・ドリンク、薬品扱いカフェイン・ドリンクを、状況に応じて使い分けている。あまり興奮しすぎてもまとまった思考はできなくなるもので、疲労度や眠気に応じて、分量を考慮しながら用いるのがコツである。ときおり、エスタロンモカを大ジョッキ一杯くらい飲んだらどうなるかと妄想することもないではない。もしかしたら、念力やら予知やらの能力が発現するやもしれんが、死ぬ確率のほうが高いだろうな。仮に月を破壊できるほどの超能力が目覚めたとしても、そんなものは仕事の役には立たないのである。月破壊業という職業が成り立てばいいのだが、残念ながら地球に月はひとつしかない(そういう問題か?)。

【12月6日(日)】
▼今年は合宿企画にはひとつも参加せず、ひたすら大広間でアホ話をしていた。夜中に岡田靖史さんが新しく入手したカードゲームをやろうとやってくる。Guillotine というフランス革命のゲームで、貴族を次々と断頭台にかけてゆき、自分が首を斬った貴族につけられた点数を競うというものである。MTGを出しているのと同じ会社の製品だそうだ。なんという悪趣味なゲームであろう。こういうのは大好きである。ルイ十四世やマリー・アントワネット、大僧正などの首を斬ると高得点がもらえ、民衆のヒーローや悲劇の人物など、大衆ウケするキャラクターの首を斬らされてしまうとマイナス点になるのであった。いつしかカードのキャラクターをSF関係者になぞらえるというヤバい話がはじまってしまう。民衆のヒーローが当然あの人だとすると、ルイ十四世とマリー・アントワネットはあの人とあの人で、となると大僧正は……という話なのだが、詳細はご想像にお任せする。
 おれたちがゲームをしているあいだも、おれのうしろのほうで、マンガカルテットとマンガ家のおがわさとしさんとが“マンガクィンテット”と化して、驚くべきことにひと晩じゅうなにやらバカな話をしている。本会の放談とノリもテンションもまったく変わらない。要するに、マンガカルテットにとってはあれが日常なのであって、本会の企画はただ“日常のヒトコマ”を切り取ったものにすぎないのかもしれない。朝方おれも加わり話を聴いてみると、ひと晩のうちに三つの小説のプロットが完成していたことが判明した。『パラサイトV』『超能力探偵』『ビュッフェの塩』というものである。『パラサイトV』は愛と感動の戦隊ヒーローもの、『超能力探偵』は「こんな手があったのか」と山田正紀宮部みゆきも蒼ざめるであろう傑作、『ビュッフェの塩』はおそろしくもコワい恐怖のホラーで、スティーヴン・キングも失禁すること必定である。詳しく書きたいところだが、この面々であればほんとうに作品化しかねないので、ここでネタばらしをするのはやめておこう。仲間うちのバカ話を作品にしてしまうのはSF作家の伝統的風習と言える。とくに筒井康隆などは有名だが、ほかの作家だって「○○さんはほんとうに書いてしまうから困る」などとお互いに言い合いながら、雑談をヒントに小説を書いているのである。
 すっかり明るくなってから、マンガカルテットほか数名と「からふね屋」で朝食。さすがにテンションは落ちていて牧野修さんは寝たり起きたりしているが、小林さんやふたりの田中さんはあいかわらずバカ話をしている。「男と女はどちらが嘘つきか?」「男である。女はそれを嘘だと思っていない」という言葉があるが、この人たちもそうなのである。つまり、マンガカルテットはのべつバカ話をしているように見えるのだが、彼らはそれをバカ話だと思っていないのだ。このノリには、関西人でないとなかなかついてゆけないだろう。あたかも冗談でないことは口にしてはならないかのようであり、堅気の真面目な人なら一緒にいるだけで怒り出しかねない。
 「さわや」に戻ると、玄関横のサロンで三村美衣さんがアンケートに回答している。「京都SFフェスティバルに呼びたいゲストは?」「どんな企画がよいか?」などだが、来年の京フェスのころには人類が滅びている可能性大なので、「今回の人類はどこが悪かったか?」という反省会がよいのではないかという話になった。DNAの模式図をスクリーンに投影しながら、「塩基配列のこの部分が悪かった。ここがGなら滅びずにすんだのに」などと瀬名秀明さんに解説してもらうのはどうかと無責任な意見を述べる。
 グランド・フィナーレがあっさり二、三分で終わり、三々五々解散する。「さわや」の前で水玉螢之丞さんに「SFマガジン」の似顔絵のお礼を述べると、水玉さんはまたもや怪しげな菓子をドラえもんのように取り出し、おれに味見を勧める。バナナの練り歯磨きのような味がするチョコと「大根のど飴」という奇怪な飴。大根のど飴はなかなかすさまじい。さわやかな大根の味がお口いっぱいに広がり、しばし現実感を喪失した。どこでどうやって捜してくるのか、水玉さんの妖菓子ハンターぶりにはいつも感心する。
 解散後、野尻抱介さんや喜多哲士さんご夫妻らとまたもや「からふね屋」に入ると、すでに高野史緒さんがひとりで朝食を取っておられた。しばらくすると、今度は大野万紀さんや菊池誠さんご夫妻ら、関西の海外SF翻訳家・評論家勢が入って来られる。要するに、朝八時ごろでは、解散しても「からふね屋」くらいしか食べもの屋は開いていないのである。菊池さんがホンダのP3のぬいぐるみを持っていて、みんなで羨ましがった。菊池さんのご子息、遊君とは初対面。まだ赤ん坊ながらさすがに賢そうな不敵な面構えで、ベビー服姿がP3のぬいぐるみに似ている。おれが生まれて一か月後、テレビの中で鉄腕アトムが歩きはじめたものだが、この子はなんと、実物のロボットが二足歩行して階段を昇り降りしているような世の中に生まれてきたのだ。遊君が大人になるころには、どんな世の中になっているであろうか。
 「からふね屋」を出て、喜多夫妻と京阪電車で帰宅の途につく。エスタロンモカとコーヒーと紅茶のパワーもすでに切れてきて電車の中で朦朧としはじめ、喜多さんとなにを喋ったのかよく憶えていない。家に帰るなり納豆を2パック食って、パタリロと――じゃない、パタリと寝る。

【12月5日(土)】
京都SFフェスティバルへ出かける。寝坊したうえ、身体がなかなか動かず、三十分ほど遅れて会場に到着。すでに最初の企画がはじまっていて、喜多哲士さんが前で喋っておられる。
 例によって詳細レポートではないが、独断と偏見で間歇日記流に本会プログラムの内容をご紹介しておこう。

◆「さらば架空戦記」[出演:喜多哲士、聞き手:不観樹露生(京大SF研究会)]

 いわゆる“架空戦記”の変遷とSFとしての位置づけなどが語られた。喜多さんは、架空戦記が“戦略シミュレーション”という名で市場にニッチを得はじめたころからずっとこの分野につきあっておられる。喜多さんによれば、紛れもないSFとして大きな意味を持ついくつかの秀作は存在するものの、すでに“架空戦記”としか呼びようのないものに変容している当該ジャンル出版物は、SFのつもりで読むと失望を禁じ得ないということである。かといって、ここまでつきあってきたのだから、いま少しジャンルの行く末を追い続けるつもりだとのこと。しんどいやろなあ。

◆「SF/アニメを天文する・ライブ」[出演:福江純(大阪教育大学助教授)]

 SFやアニメに投場した設定やガジェットを、天文学的に考証するという企画。というか、福江氏はふだんからこういうことをなさっているのだから、そのお話をライブで聴こうというわけである。パソコンを駆使したシミュレーション画像をプロジェクタでスクリーンに投影しながらのお話。宇宙速度や対消滅、相対論的時間の遅れやブラックホールの検知などについての興味深いお話が、『新世紀エヴァンゲリオン』『機動戦士ガンダム』『トップをねらえ!』『銀河宇宙オデッセイ』(NHKスペシャル)などを素材に語られた。シミュレーションの実物は、福江氏のサイトの「SFの描く宇宙/SFを天文する」で見ることができる。

◆「関西在住SF作家放談」[出演:小林泰三・田中哲弥田中啓文・牧野修]

 作家にしておくのがもったいない爆笑グループ“マンガカルテット”のお笑い放談。一応SFのコンベンションであり、SF作家のトークであるから、当然SFの話題もちらほらと交じえながらではあるけれども、絶妙のボケとボケとボケとボケとボケとボケとボケとボケとツッコミとボケにまみれたナンセンストークに、半狂乱になりそうな一時間半であった。
 ここで交わされたバカ話を全部ご紹介することはとてもできないし、また絶妙の“間”を文字で再現するのも不可能に近い。だが、文学研究者や作家志望者には得るところも大きいと思われるので、ちょっとだけ例を挙げておこう。たとえば、小林泰三さんは『肉食屋敷』(角川書店)に続く新作として『草食屋敷』『雑食屋敷』を構想中らしいのだが、野尻抱介さんと電話で話していたところ、やはり売れる本にするためには女子高生を出さねばなるまいとひらめいて、『肉食女子高生』『草食女子高生』『雑食女子高生』の構想を得たという。刮目して待とう。ひょっとしたら、野尻さんが先に『肉食・ガール』を書いてしまわないともかぎらないが、これはたぶん「・」が入っているので叙述トリックの宇宙小説なのだ。なんのことだかわからん? 気にしないように。
 いま思いついたのだが、『肉食女子高生』ほかの装幀・挿画は諸星大二郎氏に依頼するのがよかろう。小林さんが電話して「テケリ・リ?」と頼めば、諸星氏はわが意を得たりとばかりに「テケリ・リ!」と快諾なさるはずである。映画化の際のテーマソングも考えた。

ああ、あ〜あ〜あ〜
肉食女子高生
ぼくら、ムルムルダンスの手を取れば
甘く匂うよ、生き肝が

 “生き肝”のところは“ふともも”にしたほうが田中哲弥さんにウケるかもしれない。

◆「アメリカSF史再考」[出演:大野万紀大森望・水鏡子・山岸真]

 直前に決定した企画だそうで、いわゆる“ぶっつけ本番”である。むかしの京フェスのようで懐かしい、と大野万紀さんは述懐しておられた。いったいなにをやればいいのだろうと大森望さんが事務局の用意した企画主旨を読んだところが、「アメリカSF史再考――アメリカSF史を再考する」という、簡にして潔をきわめた必要にして十分なものであったとのこと。
 とはいえ、さすがは大御所揃いであり、問題意識をかき立てられる内容であった。水鏡子さんによれば、五十年代SFを育んだ時代背景はサイバーパンクを生んだ八十年代のそれに相通ずるものがあるとのことで、「ううむ」と首を傾げながらも肯いた。大森望さんは疑義を唱えておられたけれども、おれには水鏡子さんの言わんとするところがなんとなくわかるような気がしたのだ。おれにとって五十年代SFはリアルタイムで体験したものではないので、水鏡子さんの真意を理解しているかどうかいまひとつ自信がないのだが、おれはサイバーパンクの本質をリアリズム以外のなにものでもないと考えていて、そういう観点からは六十年代、七十年代よりも、五十年代SFにサイバーパンクと共通したスタンスを嗅ぎ取る視点もアリではないかと思う。ムーヴメントとしてのサイバーパンクに五十年代SFとの共通点を見るのはちょっと難しいが、時代の空気みたいなものは通ずるのかもしれないと、ちょっと納得した。
 水鏡子さんはいつもなにげなく深いことをおっしゃるから、ちょっと聞いて「そりゃちがうだろう」と思ったとしても、じっくり考えてみる価値があるのである。一般的に、水鏡子なる評論家はたいへん理知的な人だと思われているようだが、おれは水鏡子さんの方法論はじつはかなり感性的なものにちがいないと理解している。まず感性で結論を直覚し、その検証を理知的に行ってゆくという感じで、けっして水鏡子さんの頭の中で純論理的な演繹が行われて結論が出てくるのではないだろうと思う。水鏡子さんの蘊蓄にはとてもかなわないが、思考や感性のタイプはおれも水鏡子型だと自分で感じている。少なくとも巽孝之型ではない。そういう意味で、水鏡子さんはおれには禅坊主みたいな存在だ。突拍子もない(とおれが不明にも思っている)ことをなにげなくおっしゃるが、よく考えてみるととてつもなく深いことに気づいたりするのである。

 本会の休憩時間に、初対面の方やらひさびさにお会いした方やらと談笑する。喜多哲士さんの奥様がマンガみたいで驚く。『リボンの騎士』のサファイアそっくりで、たいへんお美しいのである。さすがは手塚ファンの喜多さんだけのことはあり、やることが徹底していることがわかった。「第1回インターネット文芸新人賞」入選の Cherokee さんとも初対面。なんとなくふわふわと空中を歩いているかのような面白い人であった。
 本会が終わってから、野尻抱介さんたちとラーメン屋に入って夕食。合宿会場の「さわや本店」に向かう。今年はクイズ企画があり、おれは全然答えられなかったが楽しませてもらった。
 小林泰三さん、Cherokee さんと雑談していると、『ダブ(エ)ストン街道』(講談社)の浅暮三文さんがやってきて釣りの話をはじめる。小林さんなどはスーツでも着てそこいらを歩いていればとてもあんな話を書く人だとは見破れないと思うが(喋ると常人でないことがすぐばれるにちがいないけれども)、浅暮さんはひと目でそれとわかるむちゃくちゃにユニークなキャラクターの持ち主であった。
 入れ替わり立ち替わり、いろんな人とバカ話や真面目な話をしているうちに夜は更けてゆく。

【12月4日(金)】
▼HP200LXのアポイントメント・データの調子が悪く、復旧と応急処置に無駄な時間を費やす。じつにいいマシンなのだが、なにぶんパソコンだから、おかしくなるときには徹底的におかしくなるのであった。よりによって、年末の忙しいときにかぎってこうなることが多いような気がする。ということは、データが増えてファイルのサイズが大きくなってくるとトラブルが起こるのやもしれない。しょせんはDOSマシンであるうえ、フラッシュメモリに作成した専用ファイルを擬似的なEMS領域として使うというアクロバティックなソフトを使っているから、どこかに無理があるのだろう。いずれにせよ、ひとつのファイルをあまり大きくしないほうが安定しているようだ。
▼さてさて、明日から京都SFフェスティバル。やはり「エスタロンモカ内服液」は持ってゆくべきであろうな。というわけで、次回更新は日曜か月曜になる予定。京フェスの模様は日記で一部ご報告することになろうと思うので、あまり期待しないで楽しみにしておいてね。

【12月3日(木)】
▼またしても大便の話である――という書き出しが『狂気の沙汰も金次第』(『筒井康隆全集14』新潮社・所収)にあったのを承知で書くのだが、またしても大便の話である。
 昨日バリウムを飲んだ。べつに喉が渇いていたわけではない。健康診断のため飲んだのだ。あれを飲むと、ご存じのように、星新一氏おっしゃるところの“ウンチの化石”のようなものが出る。飲んで間もないうちにトイレに行くと、しゃあしゃあと白い液体が出てくるのだが、次第に通常の便に戻ってくる。この戻りかけのときが面白い。真っ白い便に次第に色がついてくる過程がなにやら楽しいのである。子供のころ、カタツムリにキュウリを食わせると緑色の糞をし、ニンジンを食わせると赤い糞をするのが、あたりまえのことながら不思議に思われた。バリウムにも最初から色をつけておけば面白いのに。トロピカルドリンクみたいな青いバリウムを飲むと青い大便が出てくることだろう。一度見てみたいものだ。
 さて、この化石状態の白い大便だが、汲み取り式でない和式のトイレで出すことを推奨したい。洋式だと水中に落ちてしまって、じっくり観察することができないからである。堪能するまで観察したら、水を流そう。さあ、ここが面白い。バリウムは重い。当然、白い大便も通常の茶色いやつよりずっと重いのだ。水洗トイレのレバーを押し下げると、白い大便はしばし水流に抗うような気配を見せる。「流されてたまるものか」といった風情で、未練がましくその場に踏み留まろうとするのである。これがなかなか健気でよい。しかし、さしもの重金属大便も押し寄せる水流には勝てず、やがて哀しげに身を捩るとずずずずずと動きはじめ、押し流されていってしまう。この光景を見るたび、おれの頭の中に『岸辺のアルバム』という言葉が浮かび上がってくるのであった。われながら不謹慎な連想だとは思うが、制御できないからこそ連想なのである。だからどうしたと言われても困るが、広いWWWのこと、世界のどこかには、やはりバリウム便を見て同じ連想をしている人がいるかもしれないではないか。日常生活でこのような仲間(?)が見つかることは非常に稀だ。ほんにホームページというのは面白い媒体である。
 来年もまたバリウムを飲んでは、また同じことを考えるにちがいない。そのバカバカしさが、なにやら自分でいとおしいような気がする。それにしても、尻が痛いな。

【12月2日(水)】
▼二、三度入ったことのある本屋のそばを通ったので、ふらりと立ち寄る。女性の店員が、電話の受話器に口から吐いた火炎を吹きこもうとするかのように、大声でがなり立てていた。「あのですね、『天文手帳』と『天文カレンダー』ですけどね、『天文手帳』はあるんですけど『天文カレンダー』がね、ない言わはるんですよ。いや、それはね、こっちもアレやしね、短冊がね――いやダブったら困るしね……(中略)……そしたら、アレですね、もしふたつ来たら返本してよろしいんやね。よろしいんやねっ」
 まあ、『天文カレンダー』を店に置いておいても売れそうにないというのはよくわかる。小さな店だから、一冊一冊の置き場所をまさに“捻出”するような感じで切り盛りしているんだろうな。それにしても“短冊”ってのが、とてつもなくクラシックな響きだよねえ。いったい、いつの時代の物流の話をしているのであろう。おれの子供のころ(それ以前)から、まったく、なんにも変わっていない。本屋ってのは、いわば逆カンバン方式(?)で運営されているのだ。任意の本屋の総品揃え、すなわち、その本屋のカラーを一台の自動車と考えるとすると、その部品を取次店や出版社からカンバンで取り寄せているわけである。物流過程に生産管理の概念を持ってくるとあるいは無茶に見えるかもしれないが、業界によっては製造と物流とが不可分に統合されているのはもはやあたりまえの話であって、その動きはコンピュータの力を得て急速に広がりつつある。本だけが旧態依然たる姿に留まるとは思えない。電子出版とはまた別に、従来の紙の本が流通する過程にもコンピュータがもっと入り込んでくることだろう。いや、もう入り込みつつある。紙の本の流通がどう変わってゆくかも、たいへん興味深いところだ。
 さて、こういう怖いおばちゃんがシビアな在庫管理をしている小さな本屋ではあったが、田中啓文さん、この厳しい店に『神の子はみな踊る』『蒼き鎖のジェラ 緊縛の救世主(メシア)』『蒼白の城XXX(トリプルエックス)』(いずれも集英社スーパーファンタジー文庫)と、三冊も置いてありましたぞ。こういう大阪のおばちゃんは大事にせんとあかん。今度、京フェスでお会いしたら、どこの本屋か教えてさしあげましょう――って、いつのまにか私信になってるな。

【12月1日(火)】
▼あ、ぱぱんがぱん。ぱぱんがぱん。師走なら手を叩こう――ちょっと言ってみたかっただけ。
▼男だった村長が突然女になってしまったドイツの村がやたら話題になっている。べつにいいんじゃないの? あの村にはずいぶん怒っている人もいるらしいけど、なんとも不可解な話だ。そりゃ、自分の恋人が急に性別を変えたら面白くないかもしれないが(あるいは、興奮する人もいるだろう)、村長が男であろうが女であろうがそのほかであろうが、さして重要な問題ではなかろうに。それを言うなら、末広真樹子みたいな変身のしかたのほうがよっぽど問題だよね。じつにあたりまえの意見で、面白くもなんともないが、この日記だってたまにはあたりまえのことを書くのだ(純主観的には、いつもあたりまえのことを書いているつもりなのだけれども)。
 性別はまだまだ変えにくいから、たまに変える人が出てくるとなにやらたいへんなことをしたように騒がれるだけだ。いまにもっと手軽に変えられるようになれば、「部長、来月から女になりたいんですが」「あ、そ。ま、一応、メールで部内告知しといて」みたいな日常的些末事になるやもしれない。そりゃ、なれるもんなら、自分が快適なほうになったほうがいいに決まっている。問題は、いま現在、そういう技術がお手軽なものになったら、大半の人は男になりたがるんじゃなかろうかということである。だって、なんだかんだ言ったって、男のほうが絶対に得だもの。男のおれが言うのだからまちがいない。もの書きの世界は男でも女でも関係ない(と思う)が、会社員は男のほうがあきらかに得です。得だと言ったら得ですっ。おっと、誤解のないように。おれはそういう状態が望ましいと思っているのではない。むしろ、きわめて原始的な状態だと考える。だけど、現に男のほうが得なんだからしかたがない。おれは単に事実を述べている。
 「ひどい。あたしは就職もできないのに」と、これ読んで怒る女子学生の方がいたら、おれは嬉しい。そうよ、怒れよ。でも、少なくとも選挙権をちゃんと行使してから怒ってね。


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冬樹 蛉にメールを出す