間歇日記

世界Aの始末書


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98年12月中旬

【12月20日(日)】
▼“師走”というのも考えてみれば妙な言葉だ。先生が走るくらい忙しいからこう呼ぶのだと子供のころに教わったけれども、じゃあ、先生なる商売は、ふだんよっぽど暇だと思われているのだろうか? そんなふうには見えないけどなあ。なにしろ昨今の先生ときたら、本来親がやるはずのことまでボランティアでやっているらしい。てっきりおれの三倍くらいは給料をもらっておられるのではないかと思っていたら、どうもそうでもないみたいだ。まったく頭が下がる。おれが子供が嫌いだということもあるけれども、ちゃんと先生が務まっている人を、おれはみな超人だと崇めることにしている。精神を病んだりする人のほうが、むしろふつうなのではあるまいかとすら思う。なにも変わったことが起こらなければ、そのことに対してはなんの感謝もされないが、ひとたび生徒が生徒を殺したり先生を殺したり自分を殺したりなんやかやしたりすると、たちまち寄ってたかって悪者にされるのである。自分が先生である人は立場上言いにくいだろうから、今日はおれが先生たちの代わりに叫んでおこう――「おまえらなんでもかんでも学校のせいにしやがって、学校がなんぼのもんじゃい! おのれの子ぉやったら、学校へやる前に、おのれがどつき倒してでも最低限のしつけくらいしとかんかい!」
 ああ、すっとした。はて、なんでおれがすっとしなきゃならんのだ?

【12月19日(土)】
昨日書いた“納豆が腐るとどうなるか”という疑問であるが、世間は広いもので、ちゃんと腐った納豆を食ったことがある方から情報が寄せられた。林譲治さんによると(どう世間が広いって?)腐った納豆は糸を引かなくなり、形態的には甘納豆に近くなってくるそうだ。味はなるほど納豆なのだが、「何かが違うのは食べている最中にわかります」とのこと。なにがちがうのか明記されていないあたりが、はなはだ不気味である。それでも食べた林さんは、まさに地獄を見たそうだ。「胃の中のものを吐いては宴会を続けたという古のローマ人のようなことを私はその日一日繰り返してました」というから、それはすさまじいものであったのだろう。痩せたい人は、腐った納豆を食えば効果覿面なのではなかろうか。そういう意味では、とことんヘルシーな食品と言える。と、書いているうち、無性に納豆が食いたくなってきたので、ちょっと台所で食ってくることにしよう。Stay tuned!
 ――ただいま。冷蔵庫の中を見ると、いつのまにか納豆が3パック増えている。増殖したのではなく、安売りだったかなにかで母が買ってきたのだろう。たいていおれは自分の食う納豆は自分で買ってくるのだが、ときおりこのように母とバッティングして冷蔵庫が納豆だらけになる。増えていた納豆の賞味期限は明日だった。明日中に3パック食わねばならない。楽勝である。食事時におかずとして納豆を食うこともたまにはあるけれども、おれにとって納豆はおやつのようなものであるから、食前食後に食ってもいいし、夜食にしたっていい。こういう習慣が身についてしまったのも、ひとつには関西では外で納豆を食える店が少なかったせいがあるだろう。“少なかった”と過去形にしたのは、ありがたいことに、昨今は納豆を出している食堂なども、以前よりは増えたからである。
 ソフトクリームを売っている店を見るたび、いつも思うのだ。あれが納豆だったら便利なのに、と。ほれ、レバーを押すとうにうにうにとソフトクリームが出てくる機械があるでしょう。あの要領でよく練った納豆が出てくるようにするわけだ。それをコーンに盛って、プールサイドなどを歩きながら食う。なかなかお洒落だと思うぞ。女子高生にウケるかもしれん。肉食女子高生には不評だろうが、草食女子高生雑食女子高生のあいだでブレークすること請け合いだ(なんのことかわからない人は、98年12月5日の日記を参照のこと)。街を歩きながら気軽に納豆が食えるような国にならなくては、国連安保理の常任理事国はまだまだ無理だろう。
『ウルトラマンガイア』(TBS系)は、ウルトラマンアグル誕生の話。やっぱりこういうことだったわけね。前にも書いた(98年10月17日)ように、これは完全に『もののけ姫』のウルトラマンによる再話でしょう。いや、それが悪いと言ってるんじゃなくて、いかにして単なるコピーに終わらせないかに、むしろ大いに期待しているのだ。どういう期待のしかたをしているかは、今日はくだくだ書いている暇がないので、以前「SFオンライン」に書いた「新日本SF入門 ニュースタンダードはこれだ! 日本SFのメディアリンク」おれ担当分のところをお読みください。うまくすると『ウルトラマンガイア』は、日本SFの伝統を正攻法で受け継いだ骨太なSF作品になる可能性を持っているということだ。いつも突っ込んでばかりだけど、この骨格は高く評価できるので、くれぐれも姑息な人気取りのためにせっかくの立派な屋台骨をへし折るような妥協だけはしないでね。地上波テレビの子供向け番組で玩具メーカがスポンサーとくれば、さまざまな制約や障碍もあるだろうけど、それこそ“ギリギリまでがんばって”ほしいものである。

【12月18日(金)】
▼夕食後しばらくして小腹が空いたので、冷蔵庫に入っていた納豆を2パック食う。ずいぶん前から買い置きしてあったような気もするので、一応賞未期限を確認する。そう、うちは納豆を買い置きしておいても、必ずおれが食うから大丈夫なのである。よしよし、まだ三日は保つ。
 それにしても、だ。納豆にもちゃんと賞味期限が印刷してあるが、これを過ぎるとはたして納豆はどうなるのであろうか? これ以上腐るのかな。「うわあ、こんなに置いといたらあかんやんか、糸引いてるで」と言おうにも、最初から糸を引いているからわからない。余談だが、ちょっとエロいアニメなどで唇のあいだに唾液が糸を引くキスシーンがあったりすると、おれは「あ、どっちかが納豆食ってたな」とムードもへったくれもない想像をしてしまい、性欲よりも食欲が刺激される。『ナインハーフ』で納豆を使ったら、さぞやうまそうだったろうに。そういえば、『タンポポ』にも納豆はなかったな。伊丹十三は納豆が嫌いだったのだろうか。納豆プレイというのをやったら、それはそれはエロチックだろうと思うのだがどうか。そこで肯いているあなた、できるだけ風呂場で試したほうがいいと思うよ。
 今日はいったいなにを書いているのだろう。忙しいわ体調は悪いわで、あまり洒落たことが考えられないのだ。そろそろおれが壊れかかっていると心配してくださる奇特な方もいらっしゃるやもしれないが、なんの、ウェブ日記とか連載エッセイとか連続ドラマとか恋愛とかは、当事者が血反吐を吐くばかりの地獄を見るほど、傍から見ていると面白いものなのである。まだおれには地獄が見えていないから、面白さが足らぬのやもしれん。通り一遍の、当たり障りのない、論理的なだけの面白さでは飽き足らん。鬼が欲しい。悪魔が欲しい。地獄が欲しい。地獄が見えなければ、こちらから呼び寄せてでも藝の肥やしにしてやろうではないか。悪魔よ、楽しんでもらえる文章が書けるなら、おれはもとよりその存在も信じていない魂なんぞ要らんから、喜んで契約書にサインしてやるぞ。とっとと持ってこい。エロイム・エッサイム、エロイム・エッサイム、われはもとめうったえたり。エロイム・エッサイム、エロイム・エッサイム……。

【12月17日(木)】
▼毎年いま時分ともなると、電車の車内や駅のホームや駅前の路地の電信柱の根元などに、たいへん趣深い風物詩を目にする。そう、言わずとしれた酔っ払いのゲロである。今日も帰りの電車の中で見た。ほら、扉の横と座席のあいだに、ちょうど人がひとり立てるくらいのスペースがあるじゃないすか。あそこにぶちまけられていた。なぜかあそこは吐きやすいらしく、一応電車の中で吐くときの名所となっている。まあ、さすがに電車の中で吐いたことはないが、おれもトイレや道端やお座敷やらでは、派手に吐いてきたものだ。ふつうにサラリーマンをやっている人なら、一度や二度や三度や四度は吐くほどに飲んだり飲まされたりすることもあるにちがいない。一度は吐いたり泣いたり喚いたり女性に触ったり男性にキスしたり脱いだりその場で小便をしてみせたりしておけば、一応人間扱いしてもらえるようになるようである。サラリーマンとは、なんという阿呆な商売であろう。最近の若い人はあまりそういうことをしなくなったようで、「いえ、飲めませんから」とケロリとしているのを見ると、日本も少しは住みやすくなったのかもしれぬと清々しいものを感じる。
 おれの義理の弟など、ほとんど酒が飲めず、またそう主張しているにもかかわらず、職場の酒癖の悪いおやじに無理やり飲まされたうえに生意気だと頭からコップの水をかけられ、腹に据えかねて会社を辞めた。じつに賢明な選択であろう。もっとも彼の場合は実家が自営業で、会社を辞めても家業を継ぐという“滑り止め”があったからいいものの、たいていのサラリーマンは吐くほど飲まされようが水をかけられようが、仕事と割り切ってひたすらじっと耐え忍ぶものである。『正調おそ松節』(細川たかし)に歌われるように、“足も踏まれりゃ頭も下げて、愛想笑いの五十年”なのだ。わかってますか、小渕さん。
 さて、今日おれが見た吐瀉物は、長年の経験から“蟹すき”と推察された。電車の中に酸っぱい臭いがこもってたいへん不快であるが、メリー・ポピンズも歌ったように、なんにでも多少の楽しみを見つけることはできるものである。おれは電車の中や駅のホームにゲロが吐いてあるとじっくり観察し、「こいつはなにを食ったのか」を推理するのを年の瀬のささやかなゲームにしている。『俗物図鑑』(『筒井康隆全集12』新潮社・所収)の吐瀉物評論家みたいなものだ。蟹すきとうどんすきとちゃんこ鍋は区別がつけにくいが、蟹すきはよくよく見ると蟹の筋肉の線維がほかのものより多めに発見できるし、うどんすきはちゃんこほど雑然としていない。よほど食ったか胃の機能が衰えていたのか、消化のよいはずのうどんが、そのまま麺の姿でゲロの中をのたうっていることもある。さぞ苦しかったろうなと同情してしまう。難しいのは二軒以上まわってから吐いたらしいもので、さすがにこれは鑑定に困る。ピーナッツやフルーツなどが混入していたら二次会以降の吐瀉物であろうと思われるのだが、それらの明確な痕跡を発見したことはない。まだ研究が足りないようだ。
 まあ、健康のため、飲みすぎには注意しましょう。

【12月16日(水)】
▼今日はアーサー・C・クラークフィリップ・K・ディックという、対照的な作風の二人の巨匠が生まれた日である(年はちがうけど)。いまから子供を作ろうという人は、このあたりを狙って仕込んでおけば、偉大なSF作家の親になれるかもしれない。おれは占星術などまったく信じないが、赤ん坊が生まれてきて最初に触れる気候が、もしかすると性格になんらかの影響を及ぼすこともあるやもしれぬとは、ぼんやり思っている。冬に生まれた赤ん坊が、「おや。この世界というやつは、なにやら暗くて寒くて、おれたち人間が素のままで生きてゆくには、あまり適したところではないらしいぞ」などという基本認識を持ってしまうなんてことはないのだろうか。そういうやつはSFファンになりやすいとか。むちゃくちゃに大雑把な論理だな。極地付近に住んでる人は、全員SFファンかよ。
 このヘンテコな説は、一九六二年に生まれたSF関係者が多くいるという事実に、薄弱な根拠を与えることができる。この年、日本の冬は寒波の影響で酷く寒かったそうなのだ。でも、全員冬に生まれたわけじゃないから、やっぱり無茶な説ではある。まだ、五十年代後半から六十年代前半にかけて宇宙からSFファンになる電波が降り注いだという“毒電波仮説”のほうが説得力があるよな(どこが)。
▼以前の日記(98年9月16日)で、マイソフさんが投稿してくださった「アニソン縛り紅白歌合戦」を載せたらたいへん好評だった。読者層を物語っているねえ。お待たせいたしました。年末特別企画ということで、またもやマイソフさんが作品(と呼ぶにふさわしいね、これは)をお寄せくださったのである。忙しくて日記ネタが少ないところへ渡りに舟だから、今日は人様のネタでお茶を濁す。今度は25組50曲のフルサイズ・バージョンだ。大晦日はテレビなど観ず、これをプリントアウトしてお友だちとカラオケに行き、全部唄うのが吉である(ヴァイオリンとトランペットも持ってゆくこと)。さあて、Thunderbirds are go!

第二回「アニソン縛り紅白歌合戦」(出場順)
広末涼子0-G Love
[超時空要塞マクロス]
めざせ!ポケモンマスター
[ポケットモンスター]
ジャニーズJr.
モダンチョキチョキズ冒険ガボテン島
[冒険ガボテン島]
行くぞ!ゴーダム
[ゴワッパー5ゴーダム]
西城秀樹
茂森あゆみ・速水けんたろうぼくらきょうだいてんとう虫
[てんとう虫の歌]
マッハ・ゴー・ゴー・ゴー
[マッハGoGoGo]
V6
木の実ナナCAT'S EYE
[キャッツ・アイ]
宇宙は大ヘンだ!
[うる星やつら]
サザンオールスターズ
坂本冬美タイガーマスク
[タイガーマスク]
テッカマンの歌
[宇宙の騎士テッカマン]
山本譲二
宝塚歌劇団宙組ラ・セーヌの星
[ラ・セーヌの星]
デビルマンのうた
[デビルマン]
聖飢魔II
松田聖子コメットさん
[コメットさん 第1シリーズ]
帰ってきたウルトラマン
[帰ってきたウルトラマン]
谷村新司
松居直美みなしごハッチ
[昆虫物語みなしごハッチ]
FLYING IN THE SKY
[機動武闘伝Gガンダム]
グッチ裕三
天童よしみハクション大魔王のうた
[ハクション大魔王]
スーパーロボット・マッハバロン
[スーパーロボット・マッハバロン]
アルフィー
水前寺清子アンパンマンたいそう
[アンパンマン]
男どアホウ!甲子園
[男どアホウ!甲子園]
村田英雄
大杉久美子/山野さと子/堀江美都子<メドレー>
おしえて 〜 ドラえもんのうた 〜 キャンディ・キャンディ
<メドレー>
ヤッターマンの歌 〜 新造人間キャシャーン 〜 マジンガーZ
山本正之/佐々木功/水木一郎
葛城ユキ銀河疾風サスライガー
[銀河疾風サスライガー]
銀河旋風ブライガー
[銀河旋風ブライガー]
世良正則
ナレーション:小林旭(特別出演)
五嶋みどりイスカンダルのテーマ
[宇宙戦艦ヤマト]
必殺仕事人のテーマ
[必殺仕事人]
日野皓正
森口博子草原のマルコ
[母をたずねて三千里]
君だけを守りたい
[ウルトラマンダイナ]
堀内孝雄
森高千里ひょっこりひょうたん島
[ひょっこりひょうたん島]
夕焼けの空
[新八犬伝]
上田正樹
安室奈美恵となりのトトロ
[となりのトトロ]
疾風ザブングル
[戦闘メカ・ザブングル]
松崎しげる
由紀さおり・安田祥子きこえるかしら
[赤毛のアン]
伝説のイデオン
[伝説巨神イデオン]
布施明
globeハッピーバースデー
[クレヨンしんちゃん]
ミッドナイト・サブマリン
[未来警察ウラシマン]
忌野清志郎
サーカスジャイアント・ロボ
[ジャイアント・ロボ]
真赤なスカーフ
[宇宙戦艦ヤマト]
錦織健
石川さゆり紅三四郎
[紅三四郎]
われらの旅立ち
[宇宙海賊キャプテンハーロック]
森進一
小林幸子残酷な天使のテーゼ
[新世紀エヴァンゲリオン]
もののけ姫
[もののけ姫]
美川憲一
八代亜紀太陽戦隊サンバルカン
[太陽戦隊サンバルカン]
地獄のズバット
[怪傑ズバット]
小林旭
和田アキ子レオの歌
[ジャングル大帝]
宝島
[宝島]
五木ひろし

 いやはや、すごい。やはり終盤の盛り上げかたは爆笑ものである。ここまでのラインナップは、あまり若い人にはとても作れないだろう。三十代のおたくならではのものがある。マイソフさん、ありがとうございました。えーと、マイソフさんはアニメのビデオにまみれてときおり幼女を誘拐したりするアブナイ人じゃなくて、歴とした経済学者ですから、そこんとこよろしく。なお、「作成に当たっては、佐藤雅樹氏のアニメソングデータベースを参考にしました。記して感謝します」とのことである。
 いかがですか、アニカラ隊隊長のさいとうよしこさん? 大晦日は大森望さんと家庭内紅白対決というのもオツではないかと。

【12月15日(火)】
▼たとえば、留美奈理恵などという芸名のアイドルをデビューさせてしまうくらいのことを、どこかのタレント事務所がやらないであろうか。少なくとも一年に一度は神戸で仕事ができる。
▼昨日「アブトル・ダムラル・オムニス・ノムニス・ベル・エス・ホリマク」と、『三つ目がとおる』(手塚治虫)の写楽呆介の呪文に触れた。こいつを唱えると、むかしの社会党のマークみたいな三つ目族の矛だか槍だかが写楽のところにやってくるんだよね。で、今日はなにが書きたいのかというと、念のために訊いておきたいのだけれど、写楽呆介はシャーロック・ホームズのもじりで、助手役の和登サンワトソンのもじりだというのはご存じですよね? いや、手塚ファンにとっては基本中の基本であるためにことさら話題にしたりしないものなのだが、堅気の方(?)は意外とご存じなかったりすることが多いので、念のため。「あっ、そうだったのか!」と驚かれることがよくあるのだ。手塚治虫は、よくこういういたずらをしている。むかしの作品を読み返していると、いまだに「あっ、そうだったのか!」と新たな発見があったりするくらいだ。おれもまだ気づいていない小ネタが、あちこちにいっぱいあるにちがいない。隠居して(できるのかね)じっくり読み返すのが、いまからたいへん楽しみだ。
▼さてさて、原稿が押しているので、今日はさらりと流す。まったく師走は忙しい。師走の心は母心、押せば命をすり減らす。あわわわわ。それにしてもネタが古いな。

【12月14日(月)】
▼朝、顔を洗ったあととか、風呂に入ったあととか、鏡を見ながら眼鏡をかけるでしょう? 眼鏡をかけている読者にちょっと訊いてみたいのだが、そのとき眼鏡を顔の前にしばし構えて、思わず「ジュワッ!」と言いながらかけてしまわないすか? これはもう、意識するとしないとにかかわらず、気がつくとやっている。おれたちの世代の刷り込みではなかろうか。いつもいつも「ジュワッ!」と眼鏡をかけているわけではなく、鏡を見ながらかけるときだけ、反射的にウルトラセブンに変身してしまうのだ。鏡に映っている自分の顔は、テレビ画面の中のモロボシ・ダンの姿に重ね合わせやすいからだろう。ずいぶんと締まりのないダン隊員ではあるが……。おれの身を案じるアンヌ隊員がうしろから縋るように見ていてくれるともっとやりやすいのだが、ときどき背後にちらちら映るのはもう還暦を超えた婆さんだったりするわけで、はなはだ興ざめである。もっとも、母は母で、四捨五入すれば四十になろうかという息子が鏡の前でウルトラセブンになろうとしているのを、狂人と割り切ってもはや諦めたように見ているのだからお互いさまだ(なにがだ)。
 想像するに、たとえばおれと同世代の女性は、化粧を直そうとコンパクトを開くや「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン……」が口をついて出てくるにちがいない(化粧を落としながら、「ラミパス、ラミパス……」とか――言わんか、これは)。咄嗟のときに思わず唱えてしまう意味不明の呪文で歳がわかるということはあるな。たとえば、ゲームなどのここ一番という局面で念を込めながらサイコロを振るときとか、商店街の福引きで“ガラガラ”を回しているときとか、おれは思わず「エロイム・エッサイム、エロイムのエッサイムーっ!」と叫んでしまうことがある。「呪文に“の”を入れちゃだめだよ」正しい突っ込みを入れてくれた人がいまだにないのが寂しい。この呪文は少なくとも「テクマクマヤコン」よりはありがたみがあるんだがなあ。ちゃんと魔術書にも載っている由緒正しい呪文だそうだ。試しにウェブを検索してみると、「High-Priestess」という占い・魔術関係サイトの「グリモア(魔術書)入門」というページに、もろに載っていた。“Eloim, Essaim, frugativi et appelavi.”ってのが原文らしいが、やっぱり呪文はラテン語だとありがたみがあるような凶々しいような独特の味があってよい。“エロヒーム”(神――の表象のひとつ、と言わんといかんのかな)なんてのはキリスト教徒なら誰でも知っているヘブライ語だよね。ことによると、この呪文にもヘブライ語バージョンがあるのやもしれない。それにしてもこのページの解説、「日本でも(漫画悪魔くんで)有名な呪文」ってわざわざ書いてあるのが、なんだかお茶目で楽しい。ほんとに有名ですわなあ。水木しげるは偉大だ。「呪文といえば?」と日本人百人に訊いたら、十位以内には入ると思うね。一位は「アブラカダブラ」だろう。いや「ちちんぷいぷい」か。手塚ファンとしては「アブトル・ダムラル・オムニス・ノムニス・ベル・エス・ホリマク」も欲しいが、これはベスト10にランクインするのは無理だろうなあ。おれが訊かれたら、ひねくれて“A la, peanut butter sandwiches!”と答えてやろう。最近全然観てないけど、こう唱えながら釘が一本抜けた手品ばかりやっていた Amazing Mumford って奇術師人形は、まだ『セサミストリート』のキャラにいるのかな?

【12月13日(日)】
▼今日は一日原稿を書いていた――というのは正確ではないな。原稿を書くために呻吟していたとでも言ったほうがいい。実際、ああでもないこうでもないと書いたり消したりぼーっとしたりしている時間のほうが長いような気がする。いや、気がするどころじゃない、事実長い。この日記でも書くように商売ものの原稿が書けたらいいのだが……。一度この日記が原稿用紙で何枚になるか、よっぽど暇ができたら計算してやろうかと思っているのだけれど、アホらしいのでいまだに実行に踏み切れていない。ファイルサイズを合計すると現時点で約2.1MBだ。HTMLのタグのぶんがあるから、実際のテキストはもっと少ないだろう。1.5MBもあればいいところか。
 というわけで、今日はなあんにも書くことがない。だが、こういうときこそ日記モノの真価が問われるにちがいない(とおれが勝手に思っているだけだ)。書くことがないなどということがあるものか。少なくとも「書くことがない」という書くことがあるわけで、せっかくわざわざ見に来てくださった方々に、なにがしかの暇つぶしを提供せねばならない(とおれが勝手に思っているだけだ)。ある意味で、書くことがないということをひたすら書いているのが現代文学(暴論)であるのやもしれず、ここはなんとしてもなにかを書かねば、藝をせねばと、誰に強制されているわけでもないのに勝手に思い込むあたりが、すでにウェブ日記モノとして相当重症だと言わざるを得ない。おお、書くことがないと書いているだけで、すでに短い日記の一日ぶんくらいは消化してしまったぞ。日本の政治家の演説のようだ。じつに見苦しい。
 と、キーボードのホームキーに指を置いたまま、しばしじっとしていると、脂汗が出てきた。しめた。
 なにを隠そう、おれは脂性である。シセイではない、アブラショウと読んでいただきたい。ふだんなにげなく使っているが、ほんとうにこんな言葉があるのかと調べてみたら、ちゃんと広辞苑にも載っていた。編纂者に脂性の人がいたのかもしれない。“いた”と過去形にしたのは、おれはまだ昭和五十二年の第二版補訂版を使っているからだ。新しい版も出たことだし、そろそろ買わねばと思っているのだが、本屋で平積み(というには分厚いが)になっているアレを見るたび、「買って帰ったら重いだろうなあ」と嫌気がさしてしまい、なかなか買えないでいるのである。また、辞書は初版を買うなというのは原則で、誤植を蒐集しているような人は別として、もう少し待ったほうがいいのではないかとも思っているのだ。余談だが、“収集”と書くと必要なものをふつうに集めているような感じがするのに対し、“蒐集”と書くと非常にマニアックな印象を受ける。受けませんか? 「サンリオSF文庫を収集する」では、これから古本屋に叩き売るかゴミに出すかするために部屋の中に散乱しているやつをかき集めているような字面だが、「サンリオSF文庫を蒐集する」とやると、老舎『猫城記』を三冊(読書用、見せびらかし用、ラップをかけて保存用)並べてニタニタしている貧相な青年の画がたちまち脳裡に浮かぶ。浮かびませんか?
 で、なんの話だ? えーと、脂性の話である。サインペンかなにかだと油性の対義語は水性なんだが、脂性と対になる言葉はなんだろう? 乾燥肌か? ちがうよな。だって、乾燥してない肌は、ふつう“みずみずしい”ものだからだ。“あぶらあぶらしい”美しいお肌があってもよさそうなものだが、あまり聞いたことがない。そういう場合は“あぶらぎった”肌と言われてしまうわけで、どうも脂にはいいイメージがないようだ。これはじつに油々しき、いや、由々しきことである。
 とはいえ、おれは脂性なのだから、その個性をポジティヴに捉えて人生を切り拓いてゆくべきであろう。幸いにも手にはさほど脂が浮かないので、キーボードはあまり汚れない。やはりこれは、とにかくなにか書けという神だか宇宙人だかヴァリスだかの意志であろう。しかし、顔はすぐ脂だらけになる。さすがに自分でも不快になってくることがあり、試しに買っておいた“脂取りシート”なるものを、先日夜中に原稿を書きながら初めて使ってみた。まあ、取れるわ取れるわ、たちまち一枚が脂を吸い取って透明になってしまった。ここで貧乏性が頭をもたげる。使いみちなどまったく思いつかないにもかかわらず、なぜか「これだけ取れたものを捨てるのはもったいない」と反射的に思ってしまったのである。
 そこでおれは、なにを思ったか(って、自分に使う言葉か?)ギトギトになった脂取りシートを灰皿に乗せ、ものは試しとライターで火をつけてみたのだった。だいたいが、おれは子供のころから「ものは試し」「後学のために」とろくでもないことを試しては叱られていたもので、自分でもなんとなく厭な予感はたしかにした。脂取りシートはよく燃えた。そりゃあ、あたりまえだ。あたりまえのことだからこそ、なんとなく試してみたいものである。最後のほうでは線香花火のように玉になって、ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽと音を立てながらかなり長く燃えていた。おれの脂はなかなかいい脂なのかもしれぬ。
 ああ、面白いことをした、とふと我に返ると(いままで我を失っていたのか)、なにやら部屋中に妙な匂いがこもっている。まるで火葬場のような匂いだ。あわててエアコンを送風に切り替え換気をしながら、おれは“火葬場のような匂いを出す方法”をまたひとつ覚えた感動に打ち顫えるのであった。もうひとつはなにかって? うむ、それも子供のころやって怒られた。言わずと知れよう、切った爪を燃やすのだ。一度、飽食の現代に生まれ育った姪たちに「おっちゃんの子供のころは爪に火を灯したものだ」と説教をしてやろうかと思っている。よい子のみんなは真似しちゃだめだよ。でも、だめだと言われたことをやりたくならないようでも、ただのボンクラになってしまうぞ。
 ああ、今日はほんとうになにも書くことがなかった。なんて日記だ。

【12月12日(土)】
秋津透夫人の点子さん(ハンドルですよ、もちろん)から聞いた話では、秋津さんのサイトに掲げた「緊急のお願い」という文章が反響を呼んでいるとのことである。「最近、身近な書店で本が入手できないという情報が増えています。地方に行くほど深刻なようです」と、昨今、小さな書店や地方の書店では、事実上客の注文など受け付けてくれなくなっている現状や、配本が著しく都市部に偏るため地方の書店には最初から配本されてこないものも多いことなどを具体的に数字を挙げて示しておられる。秋津さんの読者の方々への誠意あるご説明という体裁を取ってはいるが、日本の書籍流通がすでに崩壊過程を転げ落ちて行っているさまが手に取るようにわかる切実な問題提起だ。マスコミで全国に広告されているにもかかわらず、地方の書店にはそれが最初から配本されないばかりか、客が欲しがっても注文の道が断たれているんだから、要するに、出版業界・書籍流通業界は「田舎者が新刊を読もうなどとはおこがましい」と読者に宣言しているにも等しい状況である。
 時期をほぼ同じゅうして、ミステリ作家の森博嗣氏も、近況報告「全然ミステリィじゃない日々」(98年12月1日付)の中で、『このHPを読まれている中で、書店の方が何人もいらっしゃって、よく「お客さんが欲しがっても人気本が全然入荷しない」という不満を書いてこられます』と、破綻した配本システムに苦言を呈しておられる。
 こうした問題は、つい先日NHKの『クローズアップ現代』で取り上げられたこともあって最近よく話題に上っているが、本に縁のある仕事をしている人や地方在住の人にとっては、以前から常識の範疇に属することである。都会の人間が「ええっ! そうだったのか!」などと、いまさらのように驚いているだけだ。京都などは地方都市とはいえ、大学が多いなどの事情に救われているところがあるわけだが、条件に恵まれぬ地方の書店がいかに苦労しているか、また、読者がいかに不満を募らせているかは、察するに余りある。小さな書店に「注文してくれ」と頼んだところ、「東京までの電話代がいくらかかると思ってるんですか!」と店の人に怒られたなんて話も聞いた。さもありなんである。ふつう商売人というものは、自分に非がないと思っていても「申しわけございません。こういう事情ですので……」と一応客に謝るものだが、そんな余裕すらなくなっているほどに弱小書店は苛立っているのだろう。
 本以外にも刺激的な娯楽がたくさんあるから本が読まれなくなったんだというお気楽な論調もあるにはあるけれども、じゃあ本を読みたい人が欲しい本をすぐ入手できるのかといえば、まったくそんなことはないのである。だものだから、ますます人々は本から遠ざかる。完全に負のフィードバックがかかっている。このままでは出版業界は衰退へのスパイラルを滑り落ちてゆき、最後にプシュッと白い煙を上げると、線香花火のように消えてしまうことだろう。消えてしまわぬまでも、よほど体力のあるところしか生き残れないだろう。体力のある会社が、売れている作家が、優れたものを出しているのならそれでもよいが、出版社の規模や作家の売上部数と書物の質とのあいだには、きわめて緩やかな相関関係しかない。むしろその相関を裏切るところからとんでもない傑作が生まれるダイナミズムこそが、出版文化を支える活力というものだ。
 森氏は上記の近況報告で『もし、「本」というメディアを今後も存続させたいのなら、10年以内に根本的な変革をすべきでしょう』と述べておられる。だが、おれはそこまで楽観的ではない。なぜなら、すでに破綻しつつあるこの書籍流通システムには、どこにも決定的な悪者がいないからである。出版社も取次店も小売書店も、お互いに「悪いのは相手で、だから自分たちもこうせざるを得ない」と言い合いながら、しかもお互いに完全に依存しているように見える。部分を見ればどこにも悪いところはなく、むしろみな自分の仕事を懸命にやっているにもかかわらず全体を見ればガタガタであるようなシステムでは、内部からの“変革”など、まず起こらないのが常である。現状維持がいちばん心地よいし、誰もさしあたり明日は困らないからだ。あさってはどうだかわからんが、明日になれば今日のあさっては明日になっているので、やっぱりさしあたり明日は困らない。よって、永久に困らないような気になる。わが国の行政改革みたいなものである。こういう場合、旧いシステムは一度完全に瓦解しなければならない。放置しておくのがいちばんよいのだ。その機を捉えて、必ずや変革は“外から”やってくる。路頭に迷う人も出るだろうが、新しく職を得る人も出るので、混乱期さえやり過ごせば第三者の知ったことではないのである。出版業界でも、動きが鈍くなった巨大恐竜の足元を、すでにちっぽけだが敏捷な哺乳類たちがちょこまかと駆けずりまわりはじめているではないか。だから、われわれ一般読者は、現行のシステムがあちこちで壊死を起こして腐れ落ちるのを待つしかない。そんなに遠いことではないはずだから、もう少しの辛抱である。
 この日記を読んでいるような方の多くは、すでに近所の小さな書店に本を注文することも少なくなってきているかもしれない。おれなどはまさにそうだ。買う本が決まっていれば、紀伊國屋書店「Book Web」のようなインターネット書店のほうがはるかに便利なのである。また、買う本が決まっていなくとも、 amazon.com 並みのユーザインタフェースと付加価値サービスがあれば、ウェブ書店を“ぶらぶらと見てまわって衝動買いをする”ことも気軽にできる。自分のウェブサイトで著書を宣伝し「amazon.com で買ってね」などと直リンクを張っている文筆業者など珍しくもなんともない。日本でインターネットの利用が完全に“家電化”し、日常のヒトコマになってしまったとしたら(もうすぐのことだ)、従来の書籍流通がどう変わるか見ものである。たとえば、十分にインターネット・ショッピングが普及して、amazon や Barnes and Noble などが本格的に日本に進出してきたらどうなるだろうか……。
 雑誌 Newsweek (December 7, 1998)のカバー・ストーリー“shopping.com”によれば、今年はアメリカでインターネット・ショッピングのクリスマス商戦が大ブレークしているという。同記事で Yahoo! の副社長 Jeff Mallett 氏が語るには、じつのところ過去一年でこれといった技術的ブレークスルーがあったわけではないが、消費者側のインターネット・ショッピングに対する confidence level が上がったのだとのことである。「購入」ボタンをクリックするのに、清水の舞台から飛び降りるような思いをすることは、もはやない。たしかに、おれも最初は怖かったよ。まだまだセキュリティが万全とは言えないけれども、かなりの心理的抵抗が“慣れ”の問題であったことも事実だ。表を歩いていたらおれに向かって自動車が突っ込んでくる可能性はゼロではなく、実際かなり高いけれども、だからといって表を歩かないわけにはいかないし、こちらにもそれなりの注意が必要なのはあたりまえのことだ。
 さて、アメリカで起こったことはたいてい日本でも起こる。二年から五年のあいだには起こっているように思う。技術の世界は時計が回るのが速いから、二、三年のうちには、インフラの整備やパソコンの普及に伴って、日本人のインターネット・ショッピングに対する心理的な枷も、ある日、嘘のようにカチャリと外れることだろう。臨界に達するのはもうすぐだ。準備はよろしいですか、出版社さん、取次ぎさん、本屋さん?

【12月11日(金)】
▼以前にも「迷子から二番目の真実[28] 〜 クリスマス 〜」に書いたが、およそ宗教とは相容れない人間でありながら、おれはけっこうクリスマスが好きである。というか、クリスマスの雰囲気が好きである。とりわけ、クリスマス・ソングが好きである。聖歌隊が歌うような本格的な賛美歌も悪くないけれど、『赤鼻のトナカイ』 Rudolf the Red-nosed Reindeer 風の俗なやつをとくに好む。幼いころから耳に蛸ができるほど聴いていても、いろんなアーティストが入れ替わり立ち替わり自分の味を出して歌うものだから、クリスマス・ソングにはちっとも飽きることがない。小学校高学年くらいからラジオなどで洋楽を聴くようになってからは、ますます好きになった。常連の方はご存じのようにおれは声フェチであるからして、やはりヴォーカル曲でないとだめなのである。デパートなんかで歌の入っていないクリスマス・ソングをべったり聴かされるのには、さしものおれも辟易する。街を歩いているときに、さりげなく聞こえてくる程度がよい。年の瀬の喧噪になにやらしらじらしいものを感じながらも、気がつくと City sidewalks, busy sidewalks, dressed in holiday style.などと Silver Bells を口ずさんでいたりすると、ああ年の瀬だなあと思う。毎年言ってるが、愛があれば年の瀬なんて。ちなみに、この曲はダイアナ・ロスとシュープリームスのヴァージョンが好きだ。
 諸星友郎さんが「オレ的クリスマスソングあんけーつ」というのをやっておられるので、おれも考えてみた。好きなのがいろいろありすぎてひとつ選べと言われると難しいのだが、あえて“オレ的”ベストを挙げるとすれば、『サンタが町にやってくる』 Santa Claus Is Comin' to Town カーペンターズ版、それも一九七四年のシングル版をベースにリミックスした一九八四年版(アルバム An Old Fashioned Christmas 所収)になるだろう。指定が細かいが、加工技術が進歩したせいか、オリジナルの七四年版よりヴォーカルの粒立ちがよく、テナー・サックスの間奏も長くなっていて聴かせる。四枚組の愛蔵版ボックス From the Top (九一年)にもメドレーでなく単独収録されている名品だ。『サンタが町にやってくる』といえば、いかにも子供向けでアップテンポの軽い曲とお思いになるでしょうが、このカーペンターズ・ヴァージョンはスローテンポのジャズ風アレンジで、それはもうすばらしい、バラードのサンタなのである。あのしっとりと憂いを含んだ奇跡の声質で You better watch out...カレン・カーペンターが唄い出すと、背筋に電流が走り首筋に鳥肌が立つ。昨今、別の意味で鳥肌が立つ歌手のキンキン声をCMで聴かされて閉口するようなことも多いが(もう誰とは書かん)、このカレン・カーペンターを聴いたら、山下達郎以外の日本版クリスマス・ソングなどアホらしくて聴いてられないくらいだ。シングルでは入手が難しいと思うけど、機会があったらぜひぜひ一聴していただきたい。カーペンターズといえば、七八年のアルバム Christmas Portrait も一家に一枚欲しい名盤ではあるけれども、こちらに収録されている『サンタが町にやってくる』は上記のバラード版ではないのでご注意を。
 ところで、欧米ではスタンダードなのに日本ではあまり流れないクリスマス・ソングってのも、たしかにあるよね。Let It Snow (中学生諸君、お天気にはこうやって命令するのよ。空に向かって Snow! などと叫んではいけない)なんかは、むかしはあんまり街で流れているのを聴かなかったものだ。でも、近年ちょっと耳にする頻度が上がったような気がしませんか? おれはこれ、絶対『ダイ・ハード』の影響だと思うんだけど、ちがうかなあ?


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