間歇日記

世界Aの始末書


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99年4月下旬

【4月30日(金)】
▼先日録画しておいた『古畑任三郎』(フジテレビ系)を観る。ひょえー、岡八郎にはびっくり。すっかり壊れてしまったような感じが、今回の役にぴったりである。前二作に比べると面白かったが、「偽者をどうやって見破ったのでしょう?」なんて苦しいクイズ形式にしなくてもいいんじゃないの? 解決篇を分けるフォーマットで“これは社会派推理ドラマでもなんでもなくて、純然たる知的ゲーム”とアピールしているのはわかるけれども、ちょっと大仰で必然性を欠く回があるのはたしかだ。不自然というのではない。不自然なのはあたりまえ、いや、不自然でなければならないのだが、あきらかに効果的でない回があるということ。
 ところで、西園寺刑事が言っていた「アンザイさんの事件」ってなんだろう、はて、そんな事件がむかしにあったっけな? そこで、おそらく日本でいちばん詳しい資料が揃っている「古畑任三郎研究会」で調べてみたら、なるほど、“アンザイさんの事件”は、これから放映されるエピソードなのか。『刑事コロンボ』『歌声の消えた海』『闘牛士の栄光』みたいに、時間的に隣接しているわけね。コロンボでやったことは、ほんとにいちいち丁寧にやってくれるわ。だけど、頼むから『ミセス古畑』をスピンアウトさせるのだけはやめてくれよ。もっとも、徹底的に今泉と西園寺の視点から古畑任三郎を不条理に語り直す『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』(トム・ストッパード)みたいなエピソードは、いつかやるかもしれないな。いや、きっとやるぞ。三谷幸喜は好きそうだもの。
▼最近、頂戴するメールへのお返事が著しく遅れがちでごめんなさい。ふつうのお便りには、どんなに遅くなっても必ずお返事を出すことにしておりますので、「メールしたのに無視された」などとお気を悪くなさらぬよう。一日に何十通もいただいているわけではなく、単におれが怠慢なだけなのである。

【4月29日(木)】
▼――で、「圭子の夢は夜ひらく」などを唄っているうちに、とうとう朝になってしまった。年に二、三度はこういうことがある。
 一度なんぞ、人妻と飯食ったあとボックスに入り(入るとこがちがーう!)、そのまま朝まで二人でやりまくった。カラオケを、である。アホかおまえはと人は言うであろうが、ほんとうの話だ。ふつー、そういうことをすると、女性は侮辱されたと怒ると思うのだが、怒らない女性だけがおれの友人として残ってゆくことになる。そのときはケッサクだったね。白々と明るくなってくる夜明けの歓楽街を女連れで駅の方へ歩いていると、たぶんカラオケボックスではない宿泊施設から出てきたカップルが同じ方角へ歩いてゆくのがちらほらと目につきはじめる。おれは痛くもない腹を探られているようではなはだ心外であった。こんなことなら、腹を痛くしておけばよかったと思うよな、ふつう。
 じゃあそういう女性の友人とはなにごともないのかというと、これがまた非常になんというかいろいろ微妙なナニなアレがないでもないかもしれないようなほにゃららで、日記の読者はそっちの話が読みたいにちがいないが、そういう話はタダでは書かない。金もらったら書くのか?
 で、今日は今日で、徹夜の3Pで憔悴したおれは、家に帰るや納豆食ってすぐ寝た。起きたら夕方であった。さーて、ストレスは解消できたが、仕事はまだまだ残っている。

【4月28日(水)】
▼明日から連休ということで、一日バタバタする。ストレス解消に友人二名とカラオケへ。大きな店はどこも満員で、長時間待ちの列ができていた。いかにも品揃えの悪そうな店で妥協。なんてこった。「ウルトラマンガイア」すらないとは、信じられぬ品揃えの悪さである。まあ、この際なんでもええわい。三人だと次から次へと曲を入れまくらないと、間が空いてしまう。こんなふうに人数の少ないときには、無謀というか暴挙というか、まず唄えそうにないものを唄ってみたりするもので、「Automatic」だの「愛の才能」だの、とても人には聴かせられない曲をただただ大声を出したいがために唄う。

【4月27日(火)】
▼やたら忙しく、日記が遅れがちである。今日なんぞ、納豆を食う暇もない。これはおれにとって、きわめて等級の高い忙しさの表現だと言えよう。『古畑任三郎』(フジテレビ系)も観られなかった。録画はできたが、この時間帯はひやひやものなのである。野球がある日は、放送時間がずれる可能性があるからだ。おれは野球にほとんど関心がないため、迷惑なことおびただしい。
KDD研究所が開発したフィルタリング・ソフトウェア「HazardShield」の体験版がウェブで公開されていた。なんでも「アダルトコンテンツなどの青少年には好ましくないと思われるコンテンツへのアクセスを禁止する」ものなんだそうだ。有害と判断されるウェブページのURLリストを予め登録しておきチェックをかける機能は巷によくあるものとさほどちがわないが、面白いのは「コンテンツ内の単語・語句から有害性を判定する処理(コンテンツチェック処理)」なる統計的手法に基いた有害性判定も行っている点。ウェブページの体験版では、任意のページのURLを入力すると有害かどうか判定してくれる。パスしないと、アクセスが拒否されるのだ。さっそくこの日記ページで試してみる。なんと、アクセスできてしまった。まだまだ修行が足りないらしい。

【4月26日(月)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『小説と科学 文理を超えて創造する』
(瀬名秀明、岩波高校生セミナー8、岩波書店)

 おれのところに岩波書店から本を送ってくることなどないものだから(たぶん初めてのはず)、なにごとかと驚いた。おやまあ。瀬名さんは、こんな仕事もしていたのか。
 語りかけ口調で書いてある高校生向けのシリーズなのでたいへん読みやすく、食後の腹ごなしに半分ほど読む。全部読んだわけではないから、これは書評でも感想でもなく、印象文(なんてものがあるのやら)である。
 瀬名さんが『パラサイト・イヴ』の書評をできるかぎり集めて、数値データとして整理しているのには驚いた。「図9 『パラサイト・イヴ』関連記事数の変遷」「表1 書評における『パラサイト・イヴ』の評価の変遷」なんてのが出てきて、まるでなにかの論文のようだ。こういうものをデータを整理して“研究”してしまう習性(?)には、感心してしまう。仮におれがベストセラー小説を書くようなことが万が一にもあったとしても、こんなまめなことは性格的にとてもできまい。「ああ、あそこで褒めてた」「誰それは貶してた」などと、大ざっぱに記憶するに留まるだろう。さらに瀬名さんは、イメージ戦略も含めた“自分自身の売られかた”も醒めた目で分析していて、たいへんに興味深い。こういう人は、誰に褒められようが貶されようが、結局は自分の栄養にしてしまうのだろう。
 いわゆる“理系”と“文系”に関する話もたいへん面白い。高校生相手であるうえに時間や紙幅の制限もあろうからあまり深く突っ込んではいないが、受講生たちには存外に衝撃的な話だったろうと想像する。最近の子供たちは、あまりにも人生の早い時期から、人間には“理系”と“文系”というものがあってどちらかに画然と分けられるのだと洗脳されすぎているような気がするからだ。大人ですらそういう考えかたをする人が多いのには驚く。じつはおれは、初対面あるいはつきあいの浅い人がおれを評するのを聞くのを、ちょっと意地悪に楽しんだりする。奇妙なことに、自分自身が“文系”だと思っている人からは「冷静かつ理詰めで、いかにも理科系的だ」と言われるし、自分自身を“理系”だと思っている人からは「感性的で大ざっぱで、いかにも文科系的だ」という評価を受けるのが常である。で、正解はどっちでしょうって? そんな単純な分類を、宇宙でただひとりのこのおれ様にひょいひょい適用されてたまるものか。SFファンなる人々はこのアホな分類法から比較的自由なので、話していても気が楽である。
 おれは思うのだが、日本に於ける“理系”と“文系”のタイプ分けは、C・P・スノー“ふたつの文化”として問題視したのよりもはるかに低次元の、血液型占いみたいなものになってしまっているのではあるまいか。これはたいへん危険なことである。可能性に満ち溢れているべき子供たちが、つまらない自己暗示をかけてしまうおそれがあるからだ。このアホ日記の読者の中に、「え? 人間って“理系”と“文系”に分かれてるんじゃなかったの?」などと驚愕している中高生(小学生?)諸君がもしいたら、C・P・スノーを読めとは言わんから(べつに読んでもいいぞ)黙ってこの本を読め。

【4月25日(日)】
▼ぎょえ。〈SFマガジン〉の次号予告に名前が出てしまった。予告されるなんてのは初めての体験だ。こんなにプレッシャーがかかるものだとは思わなんだな。「待望の――」だの「満を持して放つ――」だの「ついにベールを脱ぐ――」だのとしょっちゅう予告を出されている作家やらは、よく気が狂わないものだ。そのプレッシャーに耐えるだけでもたいへんな精神労働であろう。もっとも、編集者のほうにだって同じくらいプレッシャーがかかっているにはちがいないけど。
 とはいえ、おれにはおれに書けるものしか書けないという論理的に明解な事実がある。それを思えば、多少は気が休まるのであった。もし、おれがおれに書ける以上のものが書けたらそれを書いたのはおれではないということになるわけで、おれがおれであるからにはおれに書けるものしか書けないのである。Q.E.D.
 などと考えていても原稿が完成するはずもないので、とにかく仕事をしよう。
▼で、その〈SFマガジン〉6月号の「SFスキャナー」(尾之上浩司)を見てびっくり。おお。デイヴィッド・ショービンとは、じつにまた懐かしい名前を目にする。おれはそれほど熱心なホラーファンではないが、『アンボーン ―胎児―』(竹生淑子訳、ハヤカワ文庫NV)はたいへん面白かった。非常に優れた作品だとは思わないけれども、ページをめくり続けさせる技巧は新人離れしていた記憶がある。尾之上氏の指摘どおり、好ましい“B級感覚”があったよな。そうかそうか、十年以上の沈黙を破って復帰したのか。尾之上氏が紹介している復帰後の二作(The Center, Terminal Condition)は、邦訳される予定はないのかな。とりあえず買っておこうかな。『アンボーン ―胎児―』を古本屋で発見した人は救出しておくように。この人が日本でもブレークしたら、お友だちに自慢できるぞ(って、してどーする)。

【4月24日(土)】
▼さてさて、また『ウルトラマンガイア』(TBS系)に突っ込むとするか。といっても、今回はちょっと突っ込みにくい。“子供番組で海外が舞台であった場合、外国人にどうやって喋らせるか”という、古くて新しい難問に関する突っ込みだからだ。それにしても、カナダ人の爺さんが中学生にでもわかる平易きわまりない英語でゆっくりはっきり警告しているのを、「なんて言ってるの?」などといちいちジョジーに訊くなよ、我夢。あんた、天才青年集団アルケミースターズの一員やろが。物理ばかり勉強してきたので、英語は中学生レベルにも達していないのか? 藤宮はドイツ語ができるらしいぞ。がんばれ、我夢。君の頭脳を以てすれば、あのヘンな爺さんの台詞くらいは、NHKラジオの「基礎英語」をちょっと聴くだけで理解できるようになるぞ。
 と、我夢をいじめてはみたものの、たしかにああいう状況は子供番組の鬼門である。字幕が使えないからだ。外国語の台詞が少ない場合は、ほかの登場人物の台詞からおのずと内容が察せられるようにするのが常套手段だが、外国人ばかりが外国人同士で長く喋る場面では、その手は使えない。大人向けのドラマでも、ここは苦労するところだろうと思う。映画『レッド・オクトーバーを追え!』で、最初はロシア語で会話していたソ連の原潜乗組員たちが、突然英語ばかり喋りはじめたのにはひっくり返った人も多いだろう。しかし、あれはほかに方法がないわな。字幕にすれば著しくテンポが悪くなる。第一、ロシア語の喋れない役者たちがたいへんだ。それにしても、秘密兵器の電磁推進機関をいよいよ起動するにあたって、ラミウス艦長がソ連を称える大演説をぶつシーンはケッサクだった。ソ連の偉大な技術でアメリカ人の鼻をあかしてやろうぞ、なんてことを、なにが哀しゅうて同志諸君に英語で言わなきゃならんのだろう。金大中が嘆くぞ。とはいうものの、ああいう見せ場は、字幕を使わずショーン・コネリーが自然に役作りのできる言語で聴きたいのはたしかだ。ロシア語に堪能な人は、なんてバカな映画なんだと思いながらご覧になったんだろうなあ。まあ、亡命先で困らないように、仲間うちでも英語で喋る練習をしていたのだと苦しい解釈をして楽しみましょう。だったら、亡命計画を知らないヒラの乗組員に英語で話しかけるなよ。怪しまれるじゃないか。
 はたまた、あまりにもそのあたりを真面目に考えすぎると、映画『さよならジュピター』みたいなことになる。なにしろ国籍も人種もバラバラの人間が会議をしたりするのだ。数か国語が飛び交い、いちいち字幕が出る。かと思うと、役者のキャラクターと全然合ってない吹き替えに突如切り替わったり、なんの断りもなく外国人が日本語を喋りだしたり、なにがなんだかわからない。一応、登場人物は小型翻訳機を装着しているというカットを見せて(あれは三浦友和の発案なのだそうだ)、理屈のうえでは無理のないようにはしていたが、心理的にはむちゃくちゃ無理があるよね。
 こうやって不自然さに文句はいくらでもつけられるが、ほかにいい方法があるかというと、これがないんだよなあ。なにかエレガントなアイディアをお持ちの方はいらっしゃいましょうか? 遠い将来、役者たちが音声として喋る台詞は設定上自然な言語で、観ている人の脳に直接“意味”だけが送り込まれる――なんてシステムができたら、この問題は解決するだろうけど、まだまだ先のことだろうねえ。

【4月23日(金)】
▼おや、みのうらさんが「風虎日記」(99年4月20日)で、おれの肩凝りを心配してくださっているぞ。ありがたいことだ。なんでも、99年4月19日の日記で書いた“ユンボ”のような「強刺激を定期的に与え続けると筋断裂が発生し、肩こりはますますひどくなるそうです。低周波も一時しのぎで習慣性があり、よくないとか」ということである。なるほど。たしかに“ユンボ”はいかにも身体に悪そうだ。低周波治療器も、なんとなく癖になるような気はしている。“ユンボ”は最後の手段的に使っているからいいようなものの、低周波治療器はなにしろ気持ちがいいから、ついつい濫用してしまうのは事実である。気をつけねば。
 さらにみのうらさんによれば、「それじゃどうしたらいいかってと、首のストレッチを頻繁に行う、首に負担をかけない、医者にかかる、薬を飲むなどの方法が考えられます」とのこと。おお。首長族になるストレッチ器はよいということか。いや、じつは発作的に頚が動かなくなるほどの激烈な症状が出たのを機会に、以前医者にはかかったことがあるが「ただの強度の肩凝り」と言われてしまった。その後、整形外科では見つけられなかった別の疾患を神経内科で発見してもらい、敵の正体はわかっているのである(整形外科の薮医者め)。おれは軽度の痙性斜頚なのだ。こいつはじつに厄介な病気であって、単に頚が凝っているという外科的な疾患ではなく、脳のプログラムの異常である。その異常のために、頚の筋肉の一部が緊張している状態が常態になってしまっているわけだ。かといって、狂ってしまったプログラムを直接手直しすることはできないから、末梢の筋肉や神経から攻めるしかない。近年研究が進んできたとはいうものの、いまだ根治療法はなく、まだまだわからないことのほうが多い病気だ。なにしろ確たる原因すら発見されていないありさまである。放っておくと進行するおそれもあるため(悪化すると前が向けなくなるらしい)服薬治療を続けているが、これとてめきめき効くものではなく、むしろ副作用に苦しめられる。まあ、気長におつきあいを続けてゆくほかなさそうだ。
 おれの肩凝りは、まず確実に痙性斜頚から来ているものだろう。もともと肩凝り性であったから、余計な疾患がなくても肩凝りに苦しんでいるかもしれないのだが、どのみち線の引きようがない。結局、あまりにひどいときは、その場しのぎの対症的対策にすがることになるのであった。あんまり褒められたことではないが、とにかく目先の症状を緩和しなければならない状況というのはたしかにある。
 むろん、みのうらさんのおっしゃっていることは、一般的には正しいことばかりなので、同じく肩凝りに苦しむ人たちはぜひ参考にしていただきたい。とくに「吐き気がするほどひどい場合、別の病気を呼んでいる場合もあります」というのは重要なコメントだ。肩凝りが別の病気を呼んでいることもあるし、別の深刻な病気が肩凝りの原因であることも少なくない。「肩凝りくらいで病院なんて……」と思っていると、えらい目に会うことがある。医者によれば、単に眼鏡が合っていないなどの単純な原因をはじめ、顎関節症などの口腔外科系の疾患や耳鼻科系の疾患、最悪の場合、脳内出血や脳腫瘍すら原因になっている可能性があるという。たかが肩凝り、されど肩凝りである。どうも病的にひどいと気になっている方には、ぜひ医師の診察を受けることをお勧めする。なかなか原因が見つからないと、けっこう金かかりますけどね。X線撮影はもちろん、筋電図検査やMRI検査までやられることもある。まあ、それで骨格や脳神経系の異常やら、最悪、脳腫瘍やらが見つかったら、儲けものじゃないすか? 見つからなければ、めでたしめでたしだし。なんにせよ、病気というやつは、正体が見つかったら半分勝ったようなもんである。たとえそれが余命半年といった病気でも、正体を知らんよりは知ったほうがいいに決まっている。敵が特定できなければ、闘いようがないではないか。闘いだから、力及ばず defeat されることはあるだろうが、lose しないためには、敵を知り己を知るしかない。治らない病気でも、せめてタイに持ち込んでお友だちになれたらしめたものだ。

【4月22日(木)】
▼表も裏もやたら忙しいので、今日は投稿ネタで行こう。
 一昨日の日記で話題にした“匂いつきヌード”というなんだかよくわからんものについて情報提供があった。かれこれ七、八年の電線づきあいで一度も会ったことがない不思議な友人の竹本昌之さんによれば、「20年くらい前の洋モノ雑誌の定番」「日本版はいざ知らず、米国版にはしょっちゅう載ってたというほのかな記憶」をお持ちだそうである。そ、そうだったのか。竹本さんとはさほど年齢がちがわぬはずだが、おれはそっち方面の洋モノ雑誌には疎い、というか、あまり興味がないので、まったく記憶にない。白状すると、おれは洋モノのアダルト画像にほとんど劣情を催さないのである。ホテルの有料チャンネルで洋モノやってるとがっかりするクチだ。なんと申しますか、おれには洋モノは『サンダ対ガイラ』みたいに見えるんだな。「アメリカひじき」(野坂昭如)的心理によるところも多少はあるかもね。それにしても、やたらメリハリのあるヴォリューム満点の肉体がサーカスか格闘技のようにぶつかり合っているのを見て、なにを感じろというのであろうか。脚(か目か声)の魅力的な(奇麗な、というのとはまた微妙にちがうのである)女性が着衣のままただただ座っているだけでむちゃくちゃにエロチックな画像・映像というものもあるのであって……って、おれの性的嗜好をこんなところで開陳してどうする。そもそも、座っているだけの画像・映像から声がわかるのか――という問題はさておき、まあ、脚に関しては、田中哲弥さんがいまごろ激しく頷いておられることであろう。
 はて、なんの話だっけ? そうそう、だから“匂いつきヌード”なるものは、むかしもあったという情報提供である。もっとも、いまのもののほうが技術的に進んでいるだろうとは想像される。こうして想像ばかりしていると、実物を入手し分析した結果を報告してくる人が現れそうだ(べ、べつに催促してるんじゃありませんぞ)。知識欲というものは、本質的にエロチックなものである。世の中でいちばん助平な職業は、学者であるにちがいない。
 なんか、今日は森奈津子さんの日記みたいだな。

【4月21日(水)】
▼う、うーむ。我孫子武丸夫人の鼻血が出そうにセクシーなバニーガール姿の写真が、ついに「ごった日記」(99年4月20日)に公開されていた。十八歳未満のキミは見ちゃだめだよ。いやしかし、楽しそうなご家庭ですなあ。
▼居眠りしていたために立川談志の落語会から退去させられた会社員が起こしていた通称“落語を聴く権利(?)訴訟”は、原告の訴えが棄却されたとか。そりゃまあ、そうでしょう。この原告は、立川談志だから聴きに行っていたのか、落語なら誰がなにを喋っていてもいいから聴きたかったのか、どっちだったんだろう? 前者だったらおかしな話だよね。居眠りしている客がいたら落語なんかできるかと怒るにちがいない談志という藝人が好きなわけだから、自分が居眠りしていて退去させられたら、さすがは談志と喜ぶべきだ。きっと後者だったんだろうな。
 これ、作家だったら面白いだろうね。たとえば、勤め帰りの電車で座れてほっとひと息、カバーをかけずに本を読みはじめたら、つい眠くなって舟を漕ぎはじめたとする。と、だしぬけに本を取り上げられ、驚いて目を醒ます。顔を上げると、なんとその本の著者が鬼のような形相で目の前に立っているではないか。鈴木光司と高千穂遙の共著だったりしたら、さぞや怖ろしかろう。「おれの小説を読みながら居眠りするとはいい度胸だ。おまえなどにおれの本を読む資格なんぞあるものか」と激怒した作家は、あなたの本を持ってそのまま立ち去ってしまう――なんてのがアリなら、おれなんか何冊本を取り上げられてるかわからんなあ。


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