間歇日記

世界Aの始末書


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99年4月中旬

【4月20日(火)】
▼帰りの電車の中で座って本を読んでいると(正座していたのではない。座席に腰かけていたのだ)、向かいの席の見るからに幼さの残るラフな感じの女の子(裸婦な感じではない。漢字を当てないように)が、なにやら熱心に雑誌を読んでいた。誌面に目を近づけ、舐めるようにして読んでいる。「昨日までコギャルだったと顔に書いてあるような子だな。ああいうタイプの若い子は、どんな雑誌を好むのであろうか」と思い、ひょいと表紙を見ると〈東洋経済〉だった。
 ここでなんとなく違和感を覚えるのは、おれが古い人間であるからだろう。本来、たとえば電車の中で日本経済新聞を広げて読んでいる若い女性は、同じことをしている若い男性とほぼ同数であってもまったくなんの不思議もない。それが正しい状態であろう。しかるに、いまだに女性が人前で新聞を読むと怒る人がいたりするのだという。怖るべき愚かさである。女性は世の中のことを知る必要がない、いや、知ってはならない、無知でよいと言うておるに等しい。こんなややこしい時代に、お世辞にも先進国と呼んでもらえる国の国民の約半数が無知でよいはずがなかろう。以前に「迷子から二番目の真実[32]〜眼鏡〜」で似たようなことを書いたら、机の上に飛び乗って帽子を振りまわしながら「ブラボー」と叫びそうになり、プリントアウトして友だちに読ませて歩いたという、熱烈なメールを女性から頂戴したことがある。べつにおれがたいしたことを言っているのではなくて、それほどまでにいまの社会に対して怨み骨髄の女性がいるということだ。怖ろしい。その怨念の集積を思うと、背筋に冷たいものが走るときがある。
 それでも、知能に優れた女性が漢字の“一”も知らんふりをせにゃならんかった時代の名残りは、いまも日常のあちこちに生き残っている。見つけたら、叩き潰して歩いていただきたい。ことはわが国の未来に関わるのだ。
 〈東洋経済〉ギャルから目を上げて、なんの気なしに電車の吊り広告を見ると“匂いつきヌード”などというわけのわからぬフレーズが大書してあり、しばし呆然とした。〈週刊宝石〉の広告である。なんなんだ、あれは。おれの子供のころ、駄菓子屋によく売っていた“匂いつきカード”みたいなもんか。はなはだ好奇心をそそられる。やっぱり香水の匂いがするのだろうか。ヌード写真の部位によって匂いがちがうとか。なぜかナポレオンを連想し、コワい考えになってしまった((C)ぼのぼの)。よっぽど買おうかと思ったが、金がもったいないのでやめる。ここで「若い女の子が〈東洋経済〉読んでるそばから、おやじには“匂いつきヌード”かよ」などと嘆くのは、嘆きかたがおかしい。「なんで女性週刊誌に男性の“匂いつきヌード”が載らないんだよ」と嘆くのが正しいとおれは思うね。もう載ってたりしたら楽しいんだが……。

【4月19日(月)】
▼げげ、もう四月も下旬が迫っている。あちこちの掲示板で遊んでる場合ではないな。なにしろ、ゴールデン・ウィークなるものがあるから、まともに休むにはきちんと仕事をしておかねばならない。とかなんとか言いながら、毎年連休中にも仕事ばかりしているような気もするんだが……。
 今日はなぜかむちゃくちゃに肩と頚が凝り、吐き気がしてくるほどであった。いや、肩が凝らない人はおわかりにならないでしょうが、するんですよ、吐き気が。帰宅して低周波治療器を使おうと思ったら、なんてこった、電池が切れている。しかたなく“ユンボ”を取り出す。通信販売だかなんだかで買ったらしい“肩叩き器”で、もはや正式名称などどうでもよく、おれは勝手にユンボと呼んでいるのだった。動きがそっくりなのである。最初、スイッチを入れただけでは「なんだこりゃ、壊れてるんじゃないのか?」と思うくらい、小さな唸りを立てるだけのでかい釣り鉤みたいな機械だ。ところが、ひとたびゴム製のハンマー部分を肩に当てると、ズガガガガガガガガッ、ガガッ、ズガガガッと、ものすごい音を響かせて肩を叩きはじめる。それはもう、ただ肩を叩くというよりは、肩のこわばり叩いて砕く、キャシャーンがやらねば誰がやる――とナレーションを入れたくなるものすごさで、深夜にはとても使えない。工事現場のおっちゃんが、おれの肩にユンボを当てているという感じが最も近い。
 しかしまあ、低周波治療器はあるわユンボはあるわネックストレッチ(首長族になるやつね。98年11月3日の日記参照)、これも釣り鉤型の“ツボ圧し器”はあるわミニバイブレータはあるわ円皮鍼(パソ通友だちにもらったのだ)はあるわ、サロンパスはあるわアンメルツはあるわバンテリンはあるわ、数えていると肩が凝ってくるほど肩凝り対策グッズがあるにもかかわらず、紙を剥がすようにきれいさっぱり肩凝りがすっ飛ぶ夢のグッズにはまだお目にかかっていない。二足歩行をはじめたご先祖さまを恨むよ、まったく。月にコロニーができたら、真っ先に移住を考えるのは、肩凝りの人なのではあるまいか。腕やら頭やらの重さが、いまの六分の一になると考えただけでも、ほとんど性的な快感を覚えそうになる。
 待てよ。よく考えたら、月に移住しても肩凝りがましになるのは最初のうちだけで、やがて全身の筋肉が月の重力に慣れて弱ってしまい、結局、肩凝りの人は肩凝りのままなんではあるまいか? H・G・ウェルズタコ型火星人がいるけれども、あいつらはあいつらなりに火星の重力下で肩凝りに苦しんでいるのやもしれない。肩凝りに悩むメスクリン人ってのも怖いな。極地付近の重力が七百Gもある星に住んでいる大ぶりのムカデみたいな知的生物である(『重力の使命』ハル・クレメント、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫SF)。もっとも、あいつらはどこが肩だかわからぬうえに(タコ型火星人だってわからんが)、這いずってばかりいるから、基本的に肩は凝らんかもしれん。でも、あれだけの重力の星で暮らしておるからには、どこか凝るだろう。脚や触角の付け根が凝るとか。
 最も同情すべき存在を想像してみるに、メスクリンに定住した千手観音の小説家だろうな。それに比べれば、おれの肩凝りなどなにほどのことがあろうか。幸福とは相対的なものである。

【4月18日(日)】
▼昨日“ガイア突っ込みアワー”をやる時間がなかったので、今日やる。さて、昨日の『ウルトラマンガイア』(TBS系)、まず大方の読者の予想どおり、石橋けいの出番がたいへん多かったというだけで、おれの評価は非常に高い。なるほど、前にもちょこっと匂わせていたが、チーム・クロウのはチーム・ファルコンの米田リーダーに惹かれているのだな。オペレータの佐々木はチーム・ライトニングの梶尾が好きなようだし、次々とカップルができていってけっこうなことである。なのに、われらが我夢藤宮のことを思って夜な夜な悶々としているかと思うと……いかん、一部のやおい系ガイアサイトの影響を受けている。しかし、今後三角関係とかスワップとかいろいろ番狂わせも出てくるかもしれん。コマンダー千葉参謀がときおり熱い視線を交わしているような気がするのはおれだけだろうか……いかん、やっぱり影響を受けている。思えば、『ウルトラマンダイナ』では、実生活とフィクションがごっちゃになったメタな人間関係が展開されていたな。リョウ隊員はスーパーGUTSを辞めたらしく、このあいだの『古畑任三郎』ではホステスになっていた。あれはおれの好み系の顔である。『ウルトラマンティガ』レナ隊員は、あまりにも可愛すぎていけない。
 それはともかく、突っ込み突っ込み。今回はオーソドックスなタイムループもののストーリーで、小さなお友だちにはちょっと難しかったかもしれないが、なんとなくはわかるでしょう。だけど、あのくらいの話だったら、なにもわざわざ“シュレーディンガーの猫”なんて子供にはチンプンカンプンの言葉を出さなくてもいいと思うんだが……。必然性が感じられない。大人のSFファンへのサービスかな。それに、コップを使った我夢の話は、ちっとも“シュレーディンガーの猫”の説明になってないよね。まあ、「なんのことだろう?」と思って調べてみる子供がひとりでもふたりでもおったら、それはそれで意味のあることだろう。
▼深刻な話で恐縮だが、近年、おれの母親は、料理を失敗したり、ものを取り落としたりすることが多くなってきた。いつ来るか、いつ来るかとひやひやする。幸いにも、三十六にもなった息子につまらぬことで口うるさく文句を言うだけの精神活動はまだまだ維持しており、四則演算と簡単な三段論法は理解する。背理法はもともと扱えないし、集合の否定が絡む論理や概念の一般化もあまり通じない。これらが通じなかったからといって、それはもともと母の知能があまり高くないからであって、母の個性である。老人性痴呆がやってきたなどと覚悟を決めることはまったくない。演繹・帰納による推理は日常生活に支障のない程度にはまだまだ可能で、まあ、ふつうにどこにでもいる婆さんだ。安心する。それでも、安心ばかりはしておられぬ。単調きわまりない日常を送る母に、せめてちょっとでも複雑なことを考えさせようと、たいした意見が返ってくるはずもないと知りながら、わざと世相や孫(おれにとっては姪)の教育に関する意見を求めてみたりする。こちらの精神衛生には悪いが、母の頭の体操にはよかろう。
 それでも、ときおりあまりにトンチンカンなことを言ったりすると、どきっとする。そんなとき、おれはいつも「バカなことを言うなよ」という意味を半分、「ほんとうに大丈夫か?」という意味を半分込めて、「百引く七は〜?」と憎まれ口を叩くことにしている。母は自分の失敗(失言)に気づき大笑いするといった寸法だ。ああ、まだ大丈夫だ。こちらは内心笑うどころではないのだが……。
 いつの日か、この「百引く七は?」に異常に長い沈黙が返ってくることになるのだろう。やがて来るかもしれぬその沈黙の意味に、なじかは知らねど、ふと思いを馳せた今日であったことよ。

【4月17日(土)】
▼マクドナルドで昼飯を食っていると、宇多田ヒカルの曲ばかりが立て続けに流れてくる。声フェチのおれも、さすがにこれだけ聴かされるともはや声だけしか聴いていない。歌詞が言語として認識されず、頭の中を素通りしてゆく。「あー、えー声やなー」という感想だけが残る。声フェチ・カクテルパーティー効果とでも言おうか。魅力的な声の女性と話をしているときなどにも、この効果が観測できる。脳はなにを喋っているのかを追っておらず、ただただ声を音楽のように聴いている。
 それはともかく、やっぱり“ヒカル”って名前がお洒落だね。石田ひかりという人もいるが、ヒカルのほうはなにしろ動詞だ。動きがある。しかもカタカナで、なにやら未来人の名前のような感じすらある。ここでケン・ソゴルを連想するのが、この日記の読者の正しい反応だが、おじさん・おばさんたちはさらに『750ライダー』(石井いさみ)を連想する。新幹線ひかり号の“光”ってのが定番の自己紹介だ。も少し若い人は『超時空要塞マクロス』を連想するであろう。どうも、あのころから年上の彼女がお洒落みたいな雰囲気が出てきたような気もするが、よく憶えていない。いまに、ヒカルといえば宇多田ヒカルという世代も出てくるだろう。時は流れる橋の下。
 男にも女にも使える名だね。便利でいいが、男なのにナンパメールをもらったりする煩わしさもあるかもしれない。子供が三人いたら、三人とも男でも女でも不思議ではない名にするとか。長女ひかる、次女こだま、三女ひびき。長女は歌手に、次女と三女は漫才師にする。
 今日はいったいなにを書いているのかよくわからなくなってきたが、とにかくマクドナルドで飯を食っていた。ふと目を上げると、三十代後半くらいのちょっと魅力的な女性が、土曜の昼間のマクドナルドにひとりで来ている。この時間のマクドナルドは、家族連れと女子中学生・高校生がほとんどだ。やかましい。大人の女性がひとり座っている姿は、周囲から浮いている。もの憂げに煙草を吸いながら本を読んでいる彼女の左手の薬指には指輪が輝いており、既婚者か、と思う。おっと、嘘をついてはいけないな。おれが頭の中で「既婚者か」などと弁護士のような思考をするはずがない。当然「人妻か」と思ったのである。薔薇の花はほかの名で呼んでもよい香がするというのは、西洋小娘のたわごとだ。“既婚女性”と“人妻”とは、“デート”“逢引”くらいちがう。だが、この女性は誰を待っているふうでもなく、ただただ本を読んでいるではないか。おれの邪推エンジンがフル回転をはじめる。このマクドナルドには、近くに病院がある(おれもさっき行ってきたのだ)。もしかすると、この女性も病院に用があったのかもしれない。子供で賑わっているマクドナルドなどに、わざわざ本を読みにきているのではあるまい。そうだ、子供を見にきているのだ。彼女はじつは不妊に悩んでいて、診療の帰りにこうして子供を見にくるにちがいない……いや、ちがいなくはないぞ。そういう女性もおるかもしれんが、よその子など目にすると、かえっていたたまれなくなるものではないのか。彼女はそういうタイプだということにしておこう。だとすると……おお、そうじゃ、彼女の夫はかなり年上だということにしてみよう。あちこちガタが来ていて、先は長くない。そこの病院に入院しているのだ。彼女はここへ来て病院の建物を見ながら緩む口元を引き締めひきしめ、本を読むふりをして遺産の使いみちをあれこれ考えているのだ。なんてやつだ。それにしてもさっきからなんの本を読んでいるのだろう。ここからでは文字がよく見えない。日本語で書いてあるのかどうかすらわからぬ。そうか、あれはいつともしれぬ未来の言葉だ。彼女はタイムトラベラーなのだ。ちょっと気まぐれに、自分が少女時代を過ごした土地へやってきて、よく両親と入ったマクドナルドに立ち寄ってみたにちがいない。それが証拠に、ほれ、彼女が先ほどからときおり目をやっている家族連れの五歳くらいの少女――あれは、彼女自身なのである。
 いろいろ推理してみて、ようやく納得のゆく結論を得たおれはごみ箱の上にトレイを乗せると、タイムトラベラーの人妻に最後の一瞥をくれて店を出る。春の土曜の昼下がり。時は流れる橋の下。

【4月16日(金)】
▼今日はひときわ体調が悪いから、三面記事ネタでお茶を濁す。十四日、大阪市西成区の路上で、体重百八キロのひったくり(四十五歳)が目の不自由な人を介助するふりをして財布を奪って自転車で逃走、目撃者の叫びを聞いた五十二キロのお爺さん(六十八歳)が横合いからひったくりの自転車に体当たりして捕まえたという。いやあ、すごい話ですな。この話を新聞で読んで、「おおお、『さよならジュピター』……」と思った人は、全国でおれのほかに二十七人くらいはおると思うぞ。いませんかそうですか。

【4月15日(木)】
▼最近、仕事で神林長平の作品を集中的に再読三読味読熟読爆読しては、ときおりぽかーんと数分虚空を見つめて、また神林世界に戻るということを繰り返している。これはむちゃくちゃ精神衛生に悪いですな。なんというか“こちらの世界”に戻ってくるのに困難を覚える。おれは作家じゃないのだから、小説を読みながら“あちらの世界”に没入してしまってはいかんのだ。「おお、おもろいおもろい」「おおおお、すごいすごい」と惹き込まれて無我夢中で読んでいる自分のうしろ姿を、煙草を燻らせながらじっと機械のように観察している“もうひとりの自分”の側に常に主たる意識を置いておかなければならない。
 おれは元々がそういう性格であって、実生活で自分が激しい喜怒哀楽に浸っているときにでも、常に誰かにうしろから見られているように感じる。誰に見られているのかというと、おれに見られているのだ。「ああ、こいつはこんなつまらんことで激怒しているな。ケツの穴の小さいやつめ」「あ、こいつはこの女を抱きたいと思っているな。すけべー」「おやおや、この程度のことで喜んでいやがる。他愛のないやっちゃ」と、いちいちうしろのおれがにやにやけたけた笑っている。こいつを黙らせるにはおれが死ぬしかないだろうが、こいつのおかげで助かっていることもずいぶんあるから、着かず離れずつきあっているのだ。おれは、自分の実生活に於ける、あんなことども、こんな事件すら、ほう、こう来るか、次はどんな展開になるのかな、そしておれはどんな反応を示すのかな、などと楽しんでいるようなところがある。病気かもしれんが、べつに誰にも迷惑はかからん。子供のころからいつも一緒に暮らしてきたこの“うしろのおれ”がいなくなったら、おれがおれでなくなってしまうにちがいない。おれはけっこうこいつが好きなのだ。
 ところが、魅力的な小説のパワーというのはすごいもので、読んでいると、しばしば“うしろのおれ”が圧倒されておとなしくなってしまっているのに気づく。“現実”とやらでさえ黙らせることのできないこいつを、絵空事が黙らせてしまうのだ。“うしろのおれ”が黙っていて、おれだけがなにかに対峙しているとは、たいへんに心細い事態である。それは、おれが対象物にリアリティーを感じている状態にほかならない。現実の現実は、おれにとってアクチュアリティーもしくはファクチュアリティーのあるものだが、必ずしもリアリティーを伴っていない。奇妙な言いかただけれども、リアリティーなるものは、たまたまおれを物理的に縛っている“この現実”に対応物が存在するかどうかとは、まったく無関係のなにものかなのである。
 神林長平の怖ろしさは、現実以上にリアルなところだ。ぶっ続けに読むと、それがよくわかる。ふと本から顔を上げると、自分が急に現実からフィクションの世界に戻ってきたような気になり、順応しきれずしばし呆然とさせられる。気味の悪い作家だ。

【4月14日(水)】
▼おれはどちらかというと遅読である。とくに小説となると読むのが遅い。そのくせ、ついうっかり手に取ってしまった本をたちまち読んでしまったりする。「おっと、そういえばこんな本を買っていたっけな」などと、部屋の中で立ったまま読みはじめ、気がついたら立ったまま読み終えていることもある。サラリーマンの悲しい習慣かもしれない。さっきも、会社から帰って飯を食ったあと、ひょいと手に取った『手塚治虫の知られざる天才人生』(手塚悦子、講談社+α文庫/『夫・手塚治虫とともに――木洩れ日に生きる』を文庫化にあたり改題・再編集)を読みはじめてしまい、あとちょっと、あとちょっとと思っているうち、とうとう全部読んでしまった。どこかで読んだようなエピソードがほとんどなのだが、やっぱり読んでしまうのがファンというもの。そういえば、先日も『すれっからし』杉田かおる、小学館文庫)を、飯のあとに「ちょっとだけ」と思いつつ読んでしまったのだった。いや、嫌いじゃないんだよね、三十すぎてからの杉田かおる。悪女好みの血が騒ぐものがあるわけで……と話しだすと日記がちがう方向に行ってしまうから今日はやめておくが、そんな時間があったら溜まってる仕事をせんかと、われながら呆れる。一時間くらいで読めてしまう軽い本というのが、いちばんタチが悪い。そういう本を「一冊くらい、まあいいや」と読むのを五回我慢すれば、もっと重厚な本が読めるのである。ところが、これが小説だと、なんとなく“構えて”読む感じがあって、同じページを何度も読んだり、途中で前の章に戻って読んだり、肉体的にも精神的にもしんどいけれども、それが楽しかったりするんだな。妙な喩えだが、面白い小説を読んでいるときには、射精までの時間を長引かせようとしているかのような心理が働く。いや、これはあくまで喩えですよ、喩え。べつに官能小説の話をしているわけではない。しかし、この伝で行けば、女性の場合は「読み終えるまでに何回イケるか」みたいな心理が働くんだろうか……ううむ、これは一度、女性の友人たちに訊いてみずばなるまい。相手を選ばないと張り倒されるおそれもあるから、慎重に調査を進めないとな。
 そういえば、学生時代、おれは自分に禁を課していたのを思い出した。とくに大学に入ってからは、本を読む時間がたっぷりあるので(勉強もせにゃならんけど)、放っておくと好きな本(つまりSF関係)ばかり読んでしまう。これはいかん、とさすがに思ったね。そこで「SFは五冊に一冊しか読んではならん」という縛りをかけた。他の分野の小説だろうがドキュメンタリーだろうが科学書だろうが哲学書だろうが、とにかく四冊ぶんの“経験値”をチャージしないとSFを読ませてもらえないことにしたのである。その前にすでに別の縛りもふたつかけてあった。「月に最低十冊は大学の専攻分野以外の本を読むこと」「月に最低一冊は英語の本を完読すること。ジャンルは問わない」というものだ。いくら学生でも、これをキープするのはけっこうしんどい。だものだから、ちょっとルールを緩和した――「英語で読む場合は“SFは五冊に一冊”ルールは適用しない」
 ずるいと言えばずるいが、手前の決めたルールだ。自分がずるくないと思えば、ずるくないのである。まあ、なんに於いても、やりたい放題というのはあまり面白くない。ある程度の縛りがあったほうが、緊張感が保ててよいというものだ。こういう縛りの下でSFが読めたときの快感と言ったら、そりゃもう、ガマン汁を垂れ流しながら何度も気を散らしてようやく射精したときのような――って、その喩えから離れろよ。
 さすがに大学を出てからは、とてもじゃないがこんなルールは守れない。いまでは欲望の赴くままに本を読んでいる。社会に出ると、放っておいても読まなければならない本やら文献やらウェブページやらが増えてきて勝手に縛りがかかってしまうから、あえて自分で縛るまでもないのである。残っているのは、フィクションとノンフィクションのバランスをそこそこ意識するといった程度の縛りだけかな。だけど、まさかSFを読むことを仕事の一部にできるようになるとは、学生のころには夢にも思っていなかった(というのはもちろん嘘で、夢にくらいは思っていた)。ありがたいことである。あっ、今月は〈SFマガジン〉の仕事量が大きいので〈SFオンライン〉の連載を早めに上げてしまわねばならないのだった。ああ、ありがたい、ありがたい……。

【4月13日(火)】
昨日の日記でカエルのぬいぐるみの画像を載せたところ、それはアメリカで流行っている“ビニーベイビー”なるものではないかとのメールを、米国在住の谷山さんから頂戴した。「はて、なんじゃそれは?」と思いネットを漁ったら、なるほどねー、あちらではこんなのが流行っていたのか、関連サイトがうじゃうじゃ出てくる。イリノイ州の ty という会社が作っているのが、件の Beanie Babies なのだそうで、製品の写真を見るとけっこう可愛い。でも、どうやらおれのカエルはビニーベイビーではないようだ。“新触感宣言”とでも言うべき、官能的魅力で勝負するヤマザキパンみたいなところはたしかに似ている。基本的な構造もそんなにちがわないみたいだが、こっちのカエルは“ぬめり感”が心地よいのに対し、ビニーベイビーのほうは“ふわふわ系”らしい。
 通信販売もやっている「Beanie Babies」なる日本語のサイトによれば、新商品の発売の際に旧モデルのいくつかがだしぬけに製造中止になり、それらはコレクターズ・アイテムとして値段が高騰するんだそうな。十万、二十万の値がつくものもあるという。だものだから、最近では大人が投資対象にしているんだってさ。なんとも夢のない話だね。おれが単に流行に疎いだけなんだが、それにしてもいろんなものが流行るものだ。おれのまわりにはこいつのコレクターがいないので実感が湧かない。だけど、こういう流行りものは、すぐ小説に出てくるから、知っておいて損はない。え、知らないのはおれだけだって? すんません。アメリカではかなり前から流行っているようだし、ビニーベイビーが出てくる小説など、もうすでにいくつもあるにちがいない。おれは記憶にないけどなあ。読んでも忘れてしまっているか、商品名を気に留めていないのかもしれないな。
 ケッサクなのは、上記通販サイトの「商品リスト」のページ。製造中止になったモデルには、その日付が「Retired(98/12/5)」などと併記されている。こういう書きかたされると、おれなどは、逃げ出したビニーベイビーが、一体また一体とブレードランナーに撃ち殺されてゆくさまが映像として浮かんでしまう。ふつう、浮かぶよね? この日記の読者の多くは浮かぶはずだっ。♪きむらかずしさん、浮かぶよね、ねっ、ねっ? メーカの ty って無愛想な社名は、きっと Tyrell に因んだものだろう。そうだ、そうに決まっている!

【4月12日(月)】
水野寛之さんがアメリカ土産にカエルを送ってきてくださった。新井素子用語で言うところの“ぬいさん”、ぬいぐるみである。ご覧のような(画像まで送ってくださったのだ)まぬけた風情のカエルで、日本のトノサマガエルくらいの大きさだ。中に砂のようなものが詰まっているため、ちょうどほんもののカエルくらいの重量がある。背中側の皮膚には伸縮性のある繊維が縫い込まれており、握るとぷにぷにしてなにやらエロチックな触感がある。こいつが抱き枕くらいの大きさだったら、さぞや抱き心地がよかろうと思うのだが、三十六のおっさんがそんなものを抱いて寝ていたら「ついに来るべきものが来たか」と周囲に納得され、黄色だか緑色だかの救急車がやってくることになろう(風野春樹さんの「読冊日記」“黄色い救急車”シリーズ その1、および“「黄色/緑色の救急車」伝説のページ”参照のこと)。まあ、そこまでやってこそ求道者――って、なんのだよ。
昨日の日記フィンランドの食習慣についての投稿をご紹介したが、最近どうも気になっていることがあるので、フィンランドついでに書く。フィンランドの食習慣といえば、酢漬けの鰊などよりも“キシリトール”を連想するのが正しい現代テレビっ子なのではあるまいか。実際どうなんだろうね、あれは? たしかに、あれはフィンランド企業の技術であるらしいが、CMでイメージづけているほどにフィンランドの家庭が朝から晩までキシリトール、キシリトールと言ってガムを噛んでいるとは、とても思えん。おれたちはべつにカテキン、カテキンと言いながら緑茶を飲んでいるわけではないぞ。いったい、フィンランド人の何パーセントくらいが“キシリトール”なるものを知っているのであろう。テレビが信用できないくせに、そのいかがわしさが好きな男の、素朴な疑問である。
 子供のころ、流行のおもちゃなどを「みんな持ってる」などと親に言うと、「みんなは持ってへん」と反撃されたものだ。そのとおりである。ところが、いつしかこの立場は完全に逆転した。新聞はテレビ欄しか読まない母の唯一の情報源はテレビで、ワイドショーで仕入れたくだらない話題をおれに振ってきては言うのだ。「みんな○○○○て言うてはるえ」
 少なくとも複数の情報源を持っているおれは、決まってため息をつきながら言う。「みんなは言うてへん。“誰”がそれを言うてんにゃ? その番組のスポンサーは? その結論が出てきた経緯は?」
 おれたちの世代以降の人間は、テレビなるものはメタレベルから楽しむのが習い性になっているけれども、驚くべきことに、ある種の人々にとっては、テレビはいまだになにがしかの権威を持っているのである。だから怖い。そして、面白い。また今日も、石原慎太郎野村沙知代の嬉々とした悪口を聞かされるのだ。やれやれ。母のテレビ幻想を粉々に打ち砕く最良の方法が、おれにはすでにわかっている。おれがテレビに出ればいいのだ。母にとっては、テレビに出ている人はなんらかの意味で偉い人なんである。よって、バカ息子がブラウン管に登場するようなことがもしあれば、彼女の世界観は根底から覆ることになろう。もっとも、おれは絶対にテレビ向きじゃないから、頼まれたって出るのは厭だけどね。

【4月11日(日)】
▼“北欧では酢漬けの鰊を朝から食べる伝統があるが、いまは廃れてしまっているらしい”という話題(99年4月8日の日記)について、坂本さんとおっしゃる方がフィンランドの事情を聞き込みしてくださった。フィンランドのホテルでは朝食に出てくるそうなのだが、これは観光客向けに“ご当地もの”を出している可能性もあるので、お知り合いのフィンランド女性に一般家庭での酢漬け鰊の位置づけを尋ねてご覧になったところ、「フィンランドでは酢漬けニシンは夏場には食べるが、冬はほとんど食べない」のだそうだ。その女性によれば「お父さんは毎日食べていたけど、私は大嫌いでほかのものを食べていた」というのだから、こりゃどうも、北欧人でも好き嫌いがある代物のようである。やっぱり、納豆みたいなものなのだろう。たとえば、アメリカ人は「日本人は納豆を好んで食う」という知識を持っているかもしれないけれども、「関西人には納豆を嫌う人が多い」とか「九州まで西に行くと、また納豆圏になる」などといったことまで知っているアメリカ人はごく少数に留まると思う。
 多少の例外や夾雑物を捨象した“一般的知識”というやつは、抽象的かつ大まかにものごとを捉えるときにはたいへん役に立つが、個別のミクロな状況に適用できるとはかぎらないのだ。じゃあ、自分が体験したことが最も信用できるかというと、そんなことはまったくないのである。個別のミクロな事例を強烈な体験として持ってしまったがゆえに、かえって視野が狭くなってしまうこともよくある。おれの観察では、年寄りほど両極端になるようだ。どういうことかと言うと、みずから体験したことであるにもかかわらず、それを一般的知識と照らし合わせて常に再解釈を繰り返し深化してゆく人と、体験を絶対のものとしてどんどん狭いところに嵌まり込んでいってしまう人とに分かれてゆくのだ。体験は前者にとって思索の触媒となり、後者にとっては思考の筋肉を硬直させる老廃物となる。また、前者は“体験していないがゆえの強み”を武器に転じることができるが、後者にはそれは弱みでしかない。前者は若い人のすばらしさや眩しさが理解できるが、後者には若いやつは単にバカにしか見えていない。とかなんとか、ややこしい言いかたをすればいくらでもできるけれども、早い話が、人は後者を指して“耄碌した”と呼ぶのである。おれはじつは頑固爺いになりたいとは思っているのだが、耄碌だけはしたくない。もうしてるってか? 自分じゃわからんからねえ。
▼だるい身体に鞭打って、夕食前にのそのそと統一地方選挙の投票に出かける。京都は府議と市議だけだが、あまり大きな争点のないこういう選挙はじつに判断が難しい。おれは逆立ちしても政治的な人間ではないので、選挙というのははなはだ億劫である。が、ひどく体調の悪かった一回を除いては、棄権したことだけはない。社会人としての自覚に溢れている――わきゃーねーだろ、おれの話をしてるんだぜ。要するに“貧乏性”なのである。権利と名のつくものを行使しないのが、単にもったいないと思うだけだ。
 さてさて、それにしても今回は困った。白票を投じてもいいんだが、それもまた“もったいない”。いままでにも「高校生に選挙権を与えろ」98年7月3日)とか「洒落でも遊びでもむちゃくちゃでもいいから投票しよう」98年7月11日)とか、好き勝手をほざいてきたおれだが、今回もまた好き勝手をほざく。迷ったときの最後の判断基準についてである。今日最初の話題でも触れたように、年寄りは当たりはずれが大きい。さすがは長く生きているだけのことはある人と、長く生きていることがマイナスになっている人との差が著しいのだ。だから、最後のふたりくらいにまで絞りこんだうえでどうしても決められないとき、おれは若いほうに入れる。年寄りのほうが無欲でいいじゃないかという意見もありましょうが、それはさっきの立派な年寄りの場合であって、一般的に年寄りが無欲だなんてとんでもない話である。私利私欲を脱して自分はけっして見られぬ未来に想いを託す年寄りと、私利私欲の塊になってしまう年寄りとの両極端に分かれるとおれは考えている。あくまで一般論だよ。誰とは言わんが、手前の銅像を立ててもらうことを唯一の望みとし、それを公言してはばからぬ御仁さえいるのには開いた口が塞がらない。年寄りに投票するのはハイリスク・ハイリターンの博打であり、若いやつに投票するのはローリスク・ローリターンの投資と言えよう。とくに大きな争点のない地方選挙で博打を打つ気はない。
 まあ、これはあくまで迷った場合の判断基準のひとつにすぎない。ほかにもおれはそういう基準をおれ専用に定めている。あなたもそうしなさいなどと勧めるつもりはまったくない基準だ。「宗教家には入れない」「女であることを最大の売りものにする候補には入れない」「大政党の後援があることを最大の売りものにする候補には入れない」などである。こうした、迷ったときの最後の判断基準を自分なりに作っておくと便利だ。もちろん、最初から使うのはよくないけどね。


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冬樹 蛉にメールを出す