間歇日記

世界Aの始末書


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99年5月上旬

【5月10日(月)】
大森望さんのサイトを見に行くと、バナー広告に「記念すべき西暦2000年に結婚したい」などと書いてある。いや、べつに大森さんが2000年に結婚したいわけじゃなくて(もうしてるって)、大森さんと2000年に結婚したいわけでもなくて(大森さんが女性ならちょっと考えるかも。SFの本がどどっと増えそうだ)、どこぞの結婚斡旋所かなんかの広告らしい。
 しかし、2000年というのは、そんなに“記念すべき”年なんだろうか。たしかに、結婚何周年かが数えやすいというメリットはあるな。SFファンにとっては、2001年が記念すべき年の筆頭でありましょう。1984年というのもあるが、もう過ぎてしまった。「451年は?」って、そりゃ温度だ、温度。2001年以降だと、2010年2061年3001年3174年あたりが、記念すべき年ということになろうな。
 問題は、3001年くらいになると、はたして結婚という制度が残っているかどうか。まあ、これは2061年くらいでも怪しいな。こういうのは、変わらんときには何百年も変わらんが、変わるときにはたちまち変わるだろうからね。待てよ、3001年ともなれば、そもそもいまと同じような方法で生殖しているかどうか。べつに生殖だけが結婚の目的じゃなかろうが、とくに事情がないかぎり、一応建前上はそう思っている人がいまは多数派だろうしね。
 ともあれ、一緒に暮らしたい人と暮らしたい期間だけ暮らしたいように暮らせばいいだけの話でしょ。役所に紙きれを出そうが出すまいが、どうでもいいじゃん。やりたいようにやって、まちがったと思ったら何度でもやり直せばいいんだから。一度かぎりの人生だしィー(女子高生口調)。

【5月9日(日)】
▼ときどきヘンな計算をして遊ぶことがある。「○○を何個積み重ねたら富士山と同じくらいの高さになるか」とか、「おれがいままでに出した精液の体積はどれくらいか」とか(これはむかし筒井康隆が似たような計算をしてたな)。
 今日、ふとヘンな計算を思い立ったのは、京都iNETのログを見ていたときであった(ランキングは誰にでも見られるが、詳細ログは会員にしか見られない)。この最新日記ファイルの昨日のアクセス数は775、転送された合計ヴォリュームは11,982,762バイトである。12MB弱か。京都iNETにある全ウェブページの転送ヴォリューム合計は、9,347,312,144バイト。こりゃ、すごいな、9GBを超えるのか。まあ、アダルト画像サイトとかもあるからな。では、この日記ファイルは、全転送ヴォリュームにどのくらい寄与しているのか? 計算してみると、0.0013パーセントである。いまの二十三倍くらいにアクセスが増えれば、ようやく二酸化炭素分圧が大気圧に貢献している程度にはなれるわけだ。なってどーする。

【5月8日(土)】
『ウルトラマンガイア』(TBS系)突っ込みアワーである。今日はコミカルなタッチで、たまにこういうのが入るのは好きだ。一箇所だけ、大勢の方がお気づきの点に突っ込む。“ミッシング・リング”じゃないでしょ、“ミッシング・リンク”でしょ。この誤用はけっこう見ますよね。“失われた環”とかなんとか日本語にして考えちゃうと、誤用のほうでも意味が通ってしまうのがまちがいが多い最大の原因だろう。同じ類の誤用で連綿と生き残っているものには、「うちの会社はモラルが低い」 morale, 士気/× moral, 道徳)とか、「あの国はタックス・ヘヴンだ」 haven, 避難所/× heaven, 天国)とかがあって、もういちいち訂正するのも面倒なくらいに幅を利かせていますな。原語の発音が似ていて、誤用を訳すとなんとなく意味が通ってしまう言葉には要注意でありましょう。“士気”なんて、べつにふつうに日本語で言えばいいのにね。
▼うーむ。なんだ、このネーミングは……。そりゃ「えびっぷり」やら「いかっぷり」やらはなかなかいい名前だよ。だが、いくらなんでも「カマンベールチーズっぷり」はないだろう、亀田製菓。コンビニで見つけて呆れたものの、B級グルメのマダム・フユキとしては一応食ってみた。うまいじゃん。だけど、名前がなあ……。商品企画会議では、きっと「カマっぷり」というのが出たにちがいないが、どうせギャグで攻めるんなら、そっちのほうが話題性があってよかったんじゃないか?
 ひとつ絶対に実現できないだろうけどやってほしいアイディアがある。ノンフライなのにほんものそっくりの味がする「かっぱえびせんっぷり」ってやつなんだけど、やっぱり訴えられちゃうだろうね。出版社が本の腰巻のキャッチに「SFっぷり」とか「ホラーっぷり」とか書いたら、今度は亀田製菓に訴えられるか。なんか、そのほうが短期的には売れそうな気もするが、その短いあいだに作家名で固定読者を掴み得る少数の実力派を除けば、長期的にはSFファンにもホラーファンにもバカにされて見捨てられそうだよな。
昨日のコーラの話だが、堺三保さんはコーラ好きだからカフェイン錠が効かないのではないかという憶測を補強する実例が、もうひとり現れた。エスタロンモカを飲んでも効果がないので、やけになって十錠以上一度に飲んだという谷田貝和男さん(99年3月9日の日記参照)も、大のコーラ好きだとのこと。「夏場には1.5リットルのペットボトルを二日で3本開けてしまうくらい」だそうだ。やはり、コーラ常習者にはカフェイン錠が効きにくいのだろうか。
 コーラを飲むと“骨が溶ける”という噂には谷田貝さんも憶えがあるそうで、憶えがあるどころか、学校の保健室の前に貼ってあった「保健ニュース」というものに、“実験でコーラを飲ませていたら、骨が溶けてしまったネズミ(ハツカネズミかラットかは不明)の写真”が載っていたのだという。学校がこういう風説を流布していたわけだ。「今思うと、人間に当てはめるには無茶ですね。水分のすべてをコーラで取る人間がどこにいるんでしょう(笑)」と谷田貝さんも笑っている。そりゃ、そうだわな。
 “骨が溶ける”のほかにコーラ攻撃によく挙げられるのは、“コーラばかり飲んでいると怒りっぽくなる”という説である。これはまあ、頷けないでもない。カフェインや糖分の摂りすぎが情緒不安定に寄与することはあり得るだろう。子供のそういう食生活を看過している親は、栄養に関する話題にも無関心であろうから、カルシウムの不足など、さらに情緒不安定を招く食餌状態を放置している可能性も高かろう。糖分の高い炭酸飲料を多量に摂取することによって健全な飢餓が抑制されてしまい、他の有益な栄養物を摂る機会を損失する効果も見逃せない。たしかに“コーラを多量に飲む”ことにしばしば随伴する事象を考えてゆけば、“コーラを多量に飲むのは健康によくない”ということは言える。言えるのだが、“コーラを飲むと骨が溶ける”などとインパクトのある過度の簡略化で子供を脅そうというのは、あまりにも不誠実である。個々の説の真偽は別として、大人が子供に押しつけようとしている思考の過程が論理的・科学的でない。大人はしばしばこうやって子供をバカにしているのだ。子供は大人が思っているほどバカではない。ややこしい理屈を説明する手間を省いている大人の手抜きが責められるべきだろう。
 「子供の行動を改めさせる目的が達せられるのなら過程なんてどうでもよく、結果オーライだろう」という実利主義も理解できないではないが、少なくともおれはそういう実利主義を好まない。結果的に己が不利を被ろうとも、他人の感情が傷つこうとも、観察と思考過程と論理の美を第一に尊重する。そのうえで、現実とはなんと残酷なものだろうと受け容れつつ、己の利益や他人の感情を二の次として考慮する。おれが宗教嫌いなのは、宗教はこの優先順位をしばしば逆転しているからだ。どちらが“正しい”かは知らん。おれはおれにとって“どちらが美しい”かにしか興味がない。そりゃあ、ものごとを見たいように見て信じたいように信じるほうが、汚い世界もきれいに見えてしあわせだろうが、べつに人間はしあわせになるために生きているわけではあるまい。そんなこと言ってたら、しあわせになった途端に生きる意味を失うことになる。仮にしあわせになるために生きているのだとしても、そこにそうしてあるべくしてあるものをねじ曲げて見てまでしあわせになるのは、おれにとってしあわせではないというだけの話だ。おれに子供がいたとしたら、おれの“考え”を受け継いでほしいとは思わないが、なにを優先するかの“美意識”は受け継いでほしいと思う。
 さて、コーラでも飲むか。

【5月7日(金)】
▼会社の帰りにコンビニに寄り、週末用に500mlボトルのコーラを二本買う。バス停でバスを待っているうち、あんまり喉が渇いたので我慢しきれず、一本開けてちょっと飲んだ――ら、前から引っかかっていたある謎が氷解した。堺三保さんにカフェイン錠が効かないのは(97年8月12日の日記参照)、必ずしも体格のせいばかりではなく、彼がコーラ好きであるからにちがいない。カフェインに耐性ができてしまっているのだろう。おれも気をつけないとな。けっしてコーラは嫌いではない。
 コーラでふと思い出した。おれの子供のころ、「コーラを飲むと骨が溶ける」というわけのわからないデマだか都市伝説だかが流布したことがあった。どうやら、抜けた歯をひと晩コーラに浸けておくとふにゃふにゃになってしまうとかいう話を根拠(?)に、いきなり“骨が溶ける”ってことになったらしい。そんなもの、歯は酸に弱いのだから、べつに炭酸でなくても、酢に浸けておいたってカッターナイフですぱすぱ切れるくらいにはなるわさ。それがなぜ、とくに“コーラ”が悪者にされたのか、いまもってよくわからない。噂なんてのは、往々にしてその程度のものである。ヴィジュアルなイメージを伴うと、こうしたデマはより強力になる。
 おれが思うに、コーラをしょっちゅうがぶがぶ飲んでいるような人は、しばしば家に閉じこもりがちで日光にも当たらず、カルシウムの定着が破壊を下まわりそうな食生活を送っている“イメージ”があるため、そいつが独り歩きして“骨が溶ける”なんてことになったんじゃなかろうか。このデマをわざと流した人間がいたとしたなら、そいつはかなり頭のいいやつだろう。というのは、事象Aとの随伴頻度の高い事象Bを持ってきて、BはAの原因であるとするレトリックは、知能のあまり高くない人々に対してはたいへん有効だからである。人間の思考パターンには、元々このような述語論理的(火は赤い。ポストは赤い。よって、火はポストである。ポストを殴ると火の神が怒る)というか、類感呪術的なものが根深く巣食っているもので、ある種の精神疾患では人間のその性向が非常に強く出てくることもあるらしい。それは万人の底に流れているものだから、ともするとあっさり騙される人も少なくないのだ。これを愚衆操作法として意図的にやっているのだとすればそいつは頭がいい(性格は悪い)のだが、ほんとうにわけがわからなくてやっているとすれば、幼児的で微笑ましいとすら言えるだろう。はなはだ傍迷惑ではあるけれどもね。

【5月6日(木)】
京都iNETのランキングを見ようと思ったら、URLが変わっていた。おやまあ、いつのまに模様替えしたのだろう。いかにもいかにもの京都らしさはなくなったが、すっきりとして軽く、以前より使いやすい。京都といえばすぐ“舞妓さん”が出てくる安直さが気に食わなかったのだ。
 それにしてもちょっと寂しいのは、京都iNETにウェブページを構えているSF作家がいないことである。ミステリ作家は二人もいるのに。「え、我孫子武丸しか知らないぞ」という人は、個人会員ページの一覧をよく見ましょう。“赤かぶ検事シリーズ”和久峻三氏もいらっしゃる。地味なサイトだけど、作家として読者に提供すべき必要にして十分な書誌情報は網羅され、更新もされていますよん。ウェブページでしか読めないような、なんらかのファンサービスがもう少しあってもいいんじゃないかとは思うけど。
 京都iNETのSF作家ページ第一号の栄冠(?)は、はたして誰の手に輝くか――。小林泰三さん、どないですか? 日記を書いてくれとは言いませんが、どこにも書けない濃〜いハードSFネタとかクトゥルーネタとか怪獣ネタとか……読みたいなあ(悪魔の囁き)。

【5月5日(水)】
▼あっというまにゴールデン・ウィークも終わり。今日もただただ原稿書き。日記を書いている暇もない。ふだんであれば、書くほどのこともない事件の起こらない日は(事件の起こる日のほうが少ないが)、なにかしらネタを拾ってきてはエッセイ風の文章をでっちあげるのだが、さすがに今日はそれどころではない。

【5月4日(火)】
▼ただただ原稿書き。行きつ戻りつ、狂ったように二枚くらい書いたかと思うと、また一枚ぶん消す――みたいなことを繰り返す。
『古畑任三郎』(フジテレビ系)は、やっぱり観てしまう。歯科医役の大地真央はなかなかいい。子供のころから病弱であったせいか、おれには“女医コン”もある。どんな女性でも、ただ白衣を着ているだけで五割増し(当社比)くらいには見えてしまう。
 今回のトリックは相当苦しい。被害者に予定どおりの行動をさせるあたりは、毎度おなじみ『刑事コロンボ』ファンへのサービスなら『意識の下の映像』のヴァリエーションといったところか。歯科医が犯人というのでコロンボシリーズからもう一作思い当たったとしたら、あなたはかなり重傷のコロンボファンであろう。テレビドラマ化されていないが、ハードカバーの邦訳も出た『謀殺のカルテ』 Uneasy Lies the Crown (W・リンク&R・レビンソン著、笹村光史訳、二見書房)ってのがあるのだ。ネタばらしになってはいけないので詳しくは触れない――っつっても、二十二年前の本だもんな。もしも古本屋で見つけられたら、たいへん幸運と言えましょう。

【5月3日(月)】
SFセミナーの夜は更ける。合宿企画もみな終了、そこいらをうろちょろしていると、放課後特別枠(?)の“原作者の突っ込みが入る『星界の紋章』プロモーションビデオ特別上映会”が行われていたので、衛星放送が観られないローテクなおれは、どんなものかと覗いてみる。しばらく観ていると、〈SFオンライン〉プロデューサーの坂口哲也さんが「ちょっとちょっと」とおれを呼びにきた。はて、仕事の話だろうかと廊下に出てみると、おお、なんと、魅惑のミラクルヴォイスで全国のSFファンをノックアウトする、あの東茅子さんがいらっしゃるではないか。なるほど、SF界の塩沢兼人を僭称するおれに、SF界のこおろぎさとみと掛け合いをやらせて楽しもうというのが坂口さんの魂胆であるな。
 DASACONのいたずら電報の仕掛人タカアキラ ウさんを交え、大広間で東さんらとお喋り。魅惑のミラクルヴォイスで売り込まれ、お茶の水女子大学SF研究会創立25周年記念・会誌〈COSMOS〉50号記念の〈XXV 〜Cosmosセレクション〜〉を、坂口さんがお買い上げ。おれはすでに買っていたのだが、危うく二冊買ってしまいそうになるのを必死でこらえる。〈XXV〉に載っている東さんの小説「とけてしまいたい」を朗読してもらおうと頼むも、さすがに断られた。東さんの朗読テープを作ったら、おれみたいな声フェチに売れるのに。お茶大SF研に於かれては、ぜひ《東茅子カセットブック》を企画されたい。強力な活動資金源となること請け合いである。
 なんだかんだで、あちこちのグループに加わってお喋りしたり、座ったまましばらく眠ったりしているうち、朝になってしまった。例年のごとく、あっさりしたエンディング。木戸英判さんたちと水道橋のSUBWAYで朝食をすませ、東京駅へ直行。できるだけ早い〈ひかり〉の指定席を取って、『グッドラック 戦闘妖精・雪風』を読みながら京都へ飛んで帰った。家に帰るや否やパソコンを立ち上げ、仕事をしようと思うもさすがに睡魔には勝てず、ばったりと寝る。

【5月2日(日)】
▼というわけで、SFセミナーに参加すべく、ど朝っぱらから新幹線に飛び乗る。予め指定席など取っていないので、最悪デッキに座って東京まで行こうとピクニック用のビニールシートまで持ってきていたのだが、自由席は意外と空いていてあっさり座れた。
 九時四十五分ごろ会場に到着。全逓会館の前に〈SFマガジン〉編集長の塩澤さんが立っている。今日会場で書店に先駆けて販売される『グッドラック 戦闘妖精・雪風』(神林長平、早川書房)を待っているとのこと。書籍部の込山さんを紹介され名刺交換。電話では何度もお話ししたことがあり、文庫解説の仕事までさせてもらっていたのだが、滅多に東京に行かないおれは初対面なのであった。不思議なこともあるもので、込山さんは田中哲弥さんと兄弟のようによく似ていた。
 さてさて、例によってセミナーの内容を紹介しておこう。あくまで日記であって報道じゃないので、めちゃくちゃに主観的である。

『文庫SF出版あれやこれや』(出演/込山博実(早川書房)、小浜徹也(東京創元社)、村松剛(角川春樹事務所・ハルキ文庫)、司会/高橋良平
 文庫という形態でのSF出版に関して、タイトルどおりあれやこれやが語られた(なんて要約だ)。とくに“復刊”の効果に関する話が興味深かった。ものによっては「売れない新刊よりは売れる」という、定性的に非常によくわかるが定量的にはよくわからない微妙な表現が飛び出し、会場にウケる。昨年の野田昌宏大元帥の名言(ブラッドベリの「万華鏡」を読んでないやつは)「死ね」ほどのインパクトはないが、今年の名言として流行らせよう。
 村松氏より、SFも対象に含む“角川春樹小説賞”なる計画があるとの嬉しいニュース。「俳句を送ってきたりして」「いや、小説賞とついているから大丈夫でしょう」なんてやりとりに、またまた会場がウケる。SFの新しい才能が世に出る機会が増えるのはいいことだ。

『スペース・オペラ・ルネッサンス』(出演/大宮信光森岡浩之堺三保
 スペースオペラとそれが書かれた時代背景との関連を評論家の目で分析する大宮氏、みずからのスペオペ観を語る森岡氏、ともするとうまく噛み合わないお二人の話を関連づけようとアシストする堺氏と、やや拡散気味であったが個々の話は面白いセッションだった。森岡氏としては、『星界の紋章』シリーズ(ハヤカワ文庫JA)に“スペースオペラ”のラベルがつくことに複雑な思いがあるようで、自分が“スペオペ”の名で呼んできたものとはちがうものだろうとおっしゃりたいようであった。まあこれは、なにをスペオペと呼ぶかの定義の問題だから、人によってゆらぎがあって当然だろう。ちなみに森岡浩之的には、超光速航法などは“卑怯”であって、「(ヒーロー、ヒロインなら)エンジンパワーで勝負しろ!」みたいなのが、従来の“スペオペ”だということだ。なんとなくわかる。
 ミステリにしても、本国(というのは、アメリカを指していると思われる)でほとんど滅びているパズラー的なものが新本格という形で一派を成し、SFでも“スペオペ”がちゃんと続いている日本というのは、じつに面白い国だと堺氏の指摘あり。なるほどね。そんな気もする。スペオペとは関係ないが、〈SFマガジン〉に連載中の「ロミオとロミオは永遠に」(恩田陸)が、二十世紀論であると同時に日本人論として成立しそうな気配も、おれとしては見えてきた。

『「雪風」また未知なる戦域へ』(出演/神林長平、聞き手/牧眞司
 おれとしては、いちばん楽しみにしている企画である。〈SFマガジン〉に作家論を書かねばならないから、じつに好都合だ。もっとも、おれはテクスト至上主義者なので、作家が口頭で言ったことはあまり信用しないのである。とにかく一ファンとしてミーハーに聴くことにする。
 牧氏の質問がじつに的確。さすが名評論家で、痒いところにうまく斬り込んでくれる。おれの認識が大きく覆るやりとりはなく、さもあろう、やっぱりなと認識の確認に終始し、安心して聴いていられた。いまさら大発見があったら蒼くならなきゃならないところだ。神林長平をなにやら小難しい作家だと誤解している向きも一部にはあるようだが、なあに、このセッションでのシンプルなふたつの名言に、神林長平のエッセンスはみごとに集約されているのである。すなわち「ステルス(戦闘機)はかっこ悪い」し、「猫は可愛い」のだ。
 おれは、これだけ神林ファンをやっていて(といっても、読んでるだけだが)、生身の神林長平が長時間話すのを聴いたのは初めてである。こんなにほんわかとした感じだとは思わなかった。話しぶりを聴いていて、なんとなく納得したことがある。この人はおそらく、基本的にはむちゃくちゃに感性的な人なのだろう。知性的でないという意味ではない。感性を最優先に思考するタイプの人間だということだ。論理の梯子を組み上げて思考していって結論に達するのではなく、一足跳びに結論を感性で直覚し、そこへの梯子を論理的に組み上げてゆくという感じの話しかただ。おれの知っている人では、水鏡子さんの論理展開がそれに似ている。神林長平は、そういう思考のしかたをするからこそ、言葉の論理が自分の直覚していることから微妙に離れてゆくのを鋭敏に察知し、その働きに関心を抱くことができるのかもしれない。逆説的だが、直情的な印象を与える人ほど、じつのところ“言葉”の論理に操られてしまっていることが多いものである。そう思いませんか?
 セッションのあとでサイン会。朝にすっ飛んで並んで『グッドラック 戦闘妖精・雪風』を買ったおれは(塩澤さんが送ってくださってはいるのだが、連休中のこととて、まだ届いていないのだ。二冊あってもいっこうに困らん)、八番の整理券をもらっていた。曲がりなりにも商業誌にものを書く輩が、若いファンをさしおいてこういうことをしてははしたないという常識もいささか働かないでもなかったが、なんの、一ファンにプロもアマもあるものか、おれ程度ならミーハーしても全然かまわんと己を納得させ、いそいそとサインをもらう。「じつは五月の号で作家論を書かせていただくことになっておりまして」「ああぁ。お名前は(知ってます)」と簡単なやりとり。そりゃまあ、神林長平特集号の予告に出ているのだし名前をご存じであっても不思議はないけれども、おれはもはや完全にミーハーモードで舞い上がってしまう。で、ひとたびキーボードに向かえば、この作家を俎板に乗せて好き勝手に切り刻むわけだから、性格のいい人はくれぐれも書評や評論を書こうなどと思い立ってはいけない。じつを言うと、おれは大森望のサインも堺三保のサインも大野万紀のサインも水鏡子のサインも古沢嘉通のサインも喜多哲士のサインも三村美衣のサインも、みんなみーんな欲しいのであるが、たぶん誰もしてくれないだろうな。

『篠田節子インタビュウ』(出演/篠田節子、聞き手/山岸真
 びっくりした。この直木賞作家はこんなにもSFな人であったのか。しかも、たいへん品のよい話しかたの美しいレディである。おれ好みだ。シビレた。一度叱られてみたい。ヒールで踏みふみされて鞭打たれてみたい……あー、それはともかく、SFファンの人気も高いのは知っているが、じつを言うと、おれ自身は“ホラー系の人”という認識だったので『斎藤家の核弾頭』(朝日新聞社)くらいしか読めていない。たまたまそれがおれとしてはイマイチだったため、優先順位は低かったのである。これは一度まとめて読まねばいかんなあ。いや、べつに美人だからではなくて、山岸さんがこれだけ推しておられるなら、おれのストライクゾーンに入る可能性も高いはずだからだ。もちろん山岸さんの広範な守備範囲にはとてもかなうものではないけれども、山岸さんの好みはおれのそれと非常に似ていると思わされることが多いのである。
 「打ち合わせにないことをやってすみませんね」と、篠田氏はやおら立ち上がるや、ホワイトボードにミステリのトリック問題を描きはじめた。外見に似合わず、やたらノリが“おきゃん”だ。十年前に舗装されている道路の下から三か月前に死んだ死体が出てくるとすると、どういう理屈をつけるか――という問題。作家の発想のタイプは大きく二種類に分かれているという氏の考えを説明するためのもので、とくに正解はない。「(ここはSFの人が多いだろうから)どなたか自分はミステリ系だと思う人はいらっしゃいませんか?」と回答者を募る篠田氏。誰も名告りを挙げない。「じゃあ、ミステリの評論もなさってる大森望さんにやってもらいましょう」 会場大拍手。「大森、大森ぃーっ!」と、良家のお嬢さまが執事を呼ぶように叫ぶ篠田氏に会場爆笑。呼ばれて飛び出た大森さん、「地球にはマントル対流というものがありまして……」と的確なボケをかまし、またもや会場爆笑。ミステリ系の人なら論理的に話が収束する方向へ発想するのに対し、論理を駆使するのは同じでも、話がどんどん拡大してゆく方向に発想する人もあるというのが、篠田氏の例証しようとしたことなのである。大森望さんのボケは、典型的な拡大型なわけだ。篠田氏自身がいろいろ考えても、どうしても拡大型になってしまい、ミステリ系の人にこの問題を出されて失笑を買ったのだそうな。「“地底帝国”というのを考えまして、そこでは(死人を)埋葬するときに上に掘ってゆくので……」って、この美しいおねえさまが真面目にお話しになると、あああ、あなたはなるほどたしかに立派にSFですわと納得する。篠田氏自身は、それがSFかどうかという線引きはしていないが、収束志向と拡大志向の二種があるのはたしかであり、自分はあきらかに後者だと自覚しているとのことであった。うーむ。おれも拡大志向だな。おれが考えたのは、こういうやつである――どこぞの病院だか研究所だかの生ゴミの中に卵子と精子があって(薄井ゆうじだって、捨ててあったコンドームの精液で受胎するなんてネタを使っているじゃないか)、それがたまたま地中で受精卵となり、周囲の養分を吸収して(ここが生命の神秘だ)胎児にまでなった。地中で発生した胎児は、引き続き土から養分を得て、立派に大人にまで育った(十七年蝉みたいなやつだ)。しかし、十年前に道路が舗装されたとき、その奇跡の地中人間の運命は決定されていたのであった。以前ほど土に養分が供給されなくなったため、十年のあいだに地中人間は周囲の土の養分を使い果たしてしまい、ついに力尽きて死んでしまったのが三か月前なのである。篠田氏は言い忘れているが、じつは発見された死体は裸だったにちがいない。なに? “地底帝国”と大差ない? た、たしかに。
 いやしかし、「大森ぃーっ!」にはシビレましたね。SFセミナー名言大賞(そんなものがいつできた?)、今年はこれに決まりだ。あれは高貴な雰囲気の人がやらないとギャグにならない。やっぱりヒールで踏みふみして……あー、それはともかく、全逓会館でのプログラムが終わったあと、会館の表で大森望さんは「アルゼンチンで深い井戸を掘って投げ込んだということにしておけばよかったか」などと、まだ拡大型をやっている。

冬樹「でも、それだとまた落ちてゆくはずでは……」
大森「それはハードSF」

 マントル対流はハードSFじゃないのか(笑)

冬樹「ひっかかって止まったということにしておきましょう。また落ちていったら、“コアな話”というオチをつける」

 そのあとも、日本の真裏はチリになるのではなかったろうか、いやアルゼンチンだったかな、いや、この場合どちらでも成立するトリック(?)だからいいか、などとひとり考えていたおれは、もしかするとハードSFな人なのだろうか。いや、バカSFだろうな。
 なんでも、山岸さんや大森さんの言によれば、まだあきらかにされていない“ほんとうの篠田節子”なるものがあるそうだ。下ネタもなかなか激しいのだとか。おれは今日のインタヴューでも十分呆気に取られていたのだが……。もしかしたら、隠れたマンガ戦士がまたひとり――などと不埒な想像をする。それにしても、近年、SFセミナーや京都SFフェスティバルに呼ばれる女性作家は、高野史緒氏といい恩田陸氏といい、おれが抱いていた当初のイメージを面白く裏切ってくれる。作家が基本的に話し好きなのは当然としても、なんというか、バラエティーでもイケるような人ばかりだよな。
 夕食をすませて、夜の部の会場、ふたき旅館へ。オープニング・セレモニーの司会は、毎度おなじみMCの技巧はプロ以上の小浜徹也さん。恒例のプロ紹介でおれも一応紹介されるものの、この照れ臭さには慣れることができない。だってねー、SFセミナーや京都SFフェスティバルだと、おれの目には周囲は全部おれより“濃い人”ばかりに見えるのだ。事実、そうであろう。「そういえば、さっき冬樹さんに会いたいっつってた人がいたな」と、おれを紹介しながら突如個人的な話(?)に跳ぶ小浜さん。はて、おれなんぞをご存じとは、カエル愛好者納豆売りかときょとんとしていると、その人はおれのすぐうしろに座っていた。神林長平ファンクラブ“神林同盟”会長、神林長平夫人の高柳カヨ子さんであった。
 おれはなぜか、どんなに好きなアーティストでも作家でも、ファンクラブというものに入ったことがない。ひとりでただただ作品に触れているのが好きなのだ。パソコン通信をはじめるまでSFファンダムにまったくかかわりがなかったのも、こういう性格によるものである。よって神林同盟とも接触はないが、高柳さんのお名前はかねがね存じ上げている。オープニングのあとでご挨拶。「ホームページ読んでますよー」と聞いて、ひええとのけぞる。あたりまえのことではあるが、まったくもってウェブページというのは、いつどこで誰が読んでいるかわからない。ある日突然、「いつも応援ありがとう」と葉月里緒菜からメールが来たとしても、おれはもう驚かないぞ(驚くくせに)。一度など、おれにすれば手塚治虫にも並ぶ“神”の領域にいらっしゃる高名な女性マンガ家の方から突然メールを頂戴し、あのときばかりはほんとうにのけぞって後頭部を打った。幸いにも苦情ではなく感想であったが……。そういうこともあるわけで、ウェブページなど構えている方は、たとえばイスラム教徒から命を狙われるような羽目になっても不思議ではないくらいの覚悟が必要である。滅多なことは書けない。とはいえ、やっぱり滅多なことが書きたいのが人間というもの。そもそも人間が言葉を連ねれば、それはどこかの誰かにとっては“滅多なこと”なのであって、命が惜しければなにも言わないでいるしかない。口は禍のもと。だが、禍を呼び込むリスクを負わねば、福もやって来ない。禍福はあざなえる罠のごとし。ゼロ・サムである。
 合宿企画は、『サイコドクターあばれ旅・SFセミナー特別篇』(出演/風野春樹)、『ネットワークのSF者たち』に参加する。前者では、「サイコドクターあばれ旅」でおなじみの精神科医・風野さんが、ちゃんとした学会誌に載ったSF的と言えば言える症例を紹介。“宇宙語”で話す夫婦やら、惑星アストロンからやってきて地球に不時着した娘と結婚し(物理的にそんな娘は存在しないのだが)やっぱり“宇宙語”を話す男やら、夫が邪悪な存在の手の者だと信じ“家庭内幻魔大戦”をやっている妻と娘やら、笑うに笑えないがやっぱり笑ってしまう実話が専門的見解を交えて語られた。誤解のないように願いたいが、これはけっして病気の人個々人や特定の疾患の症状を笑いものにしようという企画ではなく、そういう奇ッ怪な妄想を抱いてしまうこともある人間というものの面白うて哀しきさまを楽しむ企画である。
 『ネットワークのSF者たち』は、SF系サイトのオフ会といった感じ。さほど驚きのあるものではなかったが、インターネットがこうした催しへの参加者を確実に増やしているのはたしかなようだ。SFファンの集まりなどというものは、外から見ればなにやら怖ろしげで、いきなりひとりで申し込んで参加してみようなどと思えるものではない。まずネットで知り合うことによって「参加してみようか」という気になる効果は、たいへん大きいであろう。そもそも、おれがそうだったから、よくわかるのである。おれの場合はパソコン通信だったけれども、パソ通はチャットの常連にでもならないと、なかなか人の個性が見えてこない。インターネットの広域性とウェブページの表現力は、今後ますます“見知らぬ人に親近感を抱くプロセス”を加速・拡大してゆくことだろう。

【5月1日(土)】
▼あわわわわ、五月になってしまった。まだ原稿はできていない。明日はSFセミナーだ。〈SFマガジン〉の編集長と〈SFオンライン〉のプロデューサーから電話があり、来るのかどうか尋ねられた。原稿の進捗次第ではあるが、こうなりゃ行かんかったからといって仕事が進むとは思われん。論理がめちゃくちゃであるが、よし、とにかく行こう。連休は四日も五日もある。新幹線の中でも仕事はできる。一年に一回くらいは東京へ行かんと、なかなか人に会えない。いやまあ、京阪神にもSF関係者はうようよいるのだが、どのみちSFセミナーと京都SFフェスティバルくらいしかイベントに顔を出すことがない超出不精なので、せめてこれくらいは参加して生存を証明しておかねばならない。出不精のくせに参加するのがよりによってこのふたつとは、えらく偏っているなというご意見もありましょうが、主観的には中身が濃くて面白いのだからしかたがない。
 世間には、おれのことをサイバースペースに自然発生した人工生命かなにかと思っている人もいるらしい。一応生身の身体を持っておりますゆえ、とくに女性の方よろしく――などと書いたりするから人妻キラーとか女子大生殺しとか呼ばれるわけだが(誰も呼んでないか)、ここはひとつ、おれがいかにふつうのダサいおっさんであるかを衆目に晒し、全国の乙女たちの無用な幻想を打ち砕かねばならない。なんだか妙な使命感に燃えてきた。
 というわけで、明日はSFセミナーへ行く。ふだん休日には滅多に外出しないから、あれこれ準備をしているとこれまた仕事ができない。あわわわわ。あさってにはすっ飛んで帰ってきて仕事をすることとする。では、行ってきます。


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