間歇日記

世界Aの始末書


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99年11月下旬

【11月30日(火)】
三十七になる。分裂して三十七体になったわけではなく、年齢が三十七になったという意味だ。二倍すると七十四であるが、あちこちガタが来ているおれが、どう逆立ちしてもそんなに生きられるとは思えん。身体が動いて頭がはっきりしているうちに、せいぜいおれらしく生きることにしよう。
▼夜、十時すぎころ、母のPHSに妹から電話がかかってくる。おれが固定電話の回線を使っていたからだ。はて、妹から電話がかかってくる時間はいつも決まっている。人がいつもとちがうことをすると気になってしかたがないんですよ刑事コロンボがよく言っていたが、それはたしかに正しい。
 電話を終えると、母がすぐさまおれの部屋にやってきて心配そうに言うには、おれの姪(妹の娘ではあるが、おれにとっては第一義的には、むろんおれの姪である)の具合が悪いのだという。妹にはふたり娘がいるが、下のほうの子が夜になって嘔吐しはじめ、頭痛を訴えているそうだ。なんでも、ブランコから落ちたところへほかのブランコが揺り戻してきて後頭部を打ち、瘤を作って帰ってきたのだが、妹もパートタイム労働で忙しく、お転婆な下の子のこととて、さほど気にも留めずにいたらしい。夕方に頭を打ち、いまごろになって嘔吐するとはただごとではない。びっくり仰天したおれが、「そりゃあ、えらいこっちゃ。すぐ病院に連れていかんと――」と母の話を遮ると、「いま(義理の弟の)車で日赤に向かってるそうや」と母。意識の混濁はないか、ものははっきり見えているか、舌がもつれていないか、首筋などに不自然な筋肉の硬直はないかとなぜ訊いておかないのかなどと、電話を切ってから母に詰め寄ってみても詮ないことであり、ここはひたすら待つしかあるまい。幸い妹宅からは大病院が近いのである。初動はまずまずだ。なんにせよ、一刻を争う症状だというのは素人にでもわかる。「病院へ電話したら、すぐ連れてきてくれと言われたそうや」――おお、まともな医者でよかったことだ。なにしろ最近の医者には、脳髄に割り箸が突き刺さっていることさえ、その場で診察しながら見抜けぬやつがいたりするくらいだからな。
 最悪の場合、CTスキャンかMRIかのあと、すぐさま開頭ということにすらなりかねん。こっちが三十七年も馬齢を重ねているというのに、六つやそこらの姪に死なれてたまるものか。大事なくばよいがと、おれの娘ででもあるかのようにやきもきし、そこいらをうろうろする。もっとも、動物園のシロクマではあるまいし、おれが乏しい情報を基にここでうろうろしていても、それは時間と労力の無駄というものだ。事態が落ち着いたら向こうから電話すると妹は言っていたそうだから、ここはいったん心のスイッチを切り、その後にやってくるやもしれぬ騒ぎに備えて、知力と体力を温存しておいたほうがよさそうである。というわけで、風呂に入って思いつくスタンダードナンバーを片っ端から明るく唄う。
 風呂から上がっても、まだ妹からの電話はない。やっぱり大ごとでバタバタしているのだろうか……。パジャマを着て煙草を吸っていると、電話が鳴った。母が出る。声の調子からすると、どうやら大事なかったようだ。受話器を引ったくって妹に事情を聴くと、CTスキャンの結果ではとくに異常は認められず、ひと安心とのこと。ただ、子供のこととて、一日は学校を休ませて安静にさせていろとの指示だそうだ。いやいや、びっくりしたぞ。とんだ誕生日のプレゼントをもらったものである。なんでも、医者によれば、嘔吐を伴う風邪がいま流行っているのだそうで、妹一家は上の子と妹自身が風邪気味だったとのことである。それを先に言わんかー! もっとも、大事を取るに越したことはなく、すぐ病院に連れていったのは正解だったろう。より重篤な事態である可能性の考えられる状況で、「ああ、風邪だろう」と素人診断をするのは禁物である。中にはボンクラもいるが、原因がひとつとはかぎらないさまざまな症状を的確に切り分けて診断を下さねばならない医者というのは、じつにたいへんな職業であるなあと、まともな医者に対しては尊敬を新たにする。まあ、原因がひとつとはかぎらないさまざまな現象を切り分けて状況を的確に判断しなきゃならんのは、どんな職業だってそうなのだが、「いやあ、まちがってました。すんません、わははは」ですまない点で、医者の心労はすごいと思うのだ。おれの神経ではとても務まらん仕事にちがいない。医者が不当に金を儲けているというイメージがなぜか広く流布しているのだが、おれは医者の診療費には“心労費”が含まれていると考えて、多少のことは我慢している。そりゃあね、本音を言えば、安いほうがいいのよ、もちろん。

【11月29日(月)】
▼バスに乗って座席に着き、前の座席の背凭れに貼ってある注意書きをなんの気なしに読む――「移動されるときは、必ずつり皮・手すりにおつかまり下さい」
 気色悪いねえ。なんだか、いまにも巨人の手かなにかが天井から伸びてきて、おれは“移動され”てしまうのではないかという気になる。もう、なんでもかんでも敬語は“れる”かね。“移動なさる”と言わんか、ふつう? それがもうふつうじゃないんだろうな、きっと。昭和は遠くなりにけり――って、そういう問題か。
 話し言葉の場合、「移動されますか?」などと言われても、さほどヘンな気はしない。慣れちゃったからだ。「ここで食べられますか?」とかね。「食べられたくはないけど、食べるのならかまわない」と憎まれ口を叩けば、爺いだと思われるにちがいない。「お食べになりますか?」「召し上がりますか?」などと言われたら、かえって感心しちゃうくらいである。「召し上がられますか?」なーんてとっちらかりかたのほうが「食べられますか?」よりは、まだましだ。
 だけど、敬語のつもりで“移動される”などと文字で書かれると、これは違和感あるなあ。話すときには、スピードや流れやその場の弾みというものがあるから、“れる”“られる”のお手軽敬語を使ってしまうこともままあるだろう。おれもある。でも、文字で書くのなら、より美しくより適切な表現になるよう、十分に考える時間があったはずだ。そう思うから、違和感がいや増すのだな。小説でこんな会話が使えるかもね――

 大作家先生の取材旅行先ホテルのロビーにて――

若い編集者「先生は、今夜は寝られましたか?」
大作家夫人「え? 不眠症だとでも漏らしておりましたか?」
若い編集者「いいえ? 奥様には寝られないとでも言われてましたか?」

(年配の編集者現われる)

年配の編集者「おや、これは○○先生の奥様。先生はお休みですか?」
大作家夫人「ええ、もうぐっすりと」

【11月28日(日)】
▼にわかに“お受験”というのが流行語になっている。くだらん。現代の若者は、ふたむかし前ほどには一流大学の卒業証書にこだわらなくなっていて、じつに健全でよろしいことだと思っていたのだが、親の世代はいまだにこだわっているのだろうか。まあ、一部の家庭が異様に時代遅れで特殊なのでありましょう。ああいうふうにネタにしやすい事件が起こると、すぐさま“お受験”地獄があちこちで一般的であるかのように報道されてしまうのだが、今回の幼児殺人でクローズアップされているような話はどう考えたって特殊事例であろう。幼稚園の受験(?)とやらに血道を上げるなど、おれの日常感覚からすると狂気の沙汰としか思われない。要するに、親が暇で暇でしかたがないんじゃないの? そりゃ、子供によい教育をと望む親の気持ちはわからないではないが、子供に全身全霊かけて投資しちゃったら、そもそも親自身が勉強する費用と労力はどうなるのだ? 親だって一生仕事も勉強もしてゆかねばなるまいに。別の人間である子供が独り立ちしちゃったら、あとどうするのよ? 自分の人生を大事にできない親は、結局、子供の人生も子供の人生として大事には思っていないのだ。手前の代理戦争を子供にやらせておるつもりになっているだけである。そういう親は、若者語で言うなら“うざい”とおれも思うね。子供に勉強しろというなら、親もしろ。べつに子供が物理学者になりたがっていたら親も物理を勉強しろと言ってるんじゃなくて、親も自分の道で自分を磨かにゃならんでしょう、当然。その自分に割くべきコストとエネルギーを全部子供におっかぶせているとしたら、それは要するに、“子供に対する愛情に擬態した親の怠慢”以外のなにものでもないだろう。親が自分が生きるのをやめてたら、教育もへったくれもあるものか。

【11月27日(土)】
▼へー、ソーテックデイリーヤマザキと提携してコンビニでパソコン売るって? いやあ、そういう時代になったんだねえ。それにしても、最近ソーテックは破竹の勢いだな。訴訟の件は、かえっていい宣伝になったんじゃないか。むかしみたいにもっとノート型に力を入れてほしいとは思うが、さて、どこへゆくのか、ソーテック。
 コンビニで売るっていうから、納豆やチョコレート買うついでにひょいと籠に放り込めるように廣済堂文庫の隣にでもパソコンを並べるのかと思ったら、なんだ、申し込みができるだけか。それでも十分便利ではあるけどね。まあしかし、パソコンはオーバーにしても、PDAがさらに安くなってきたら、電卓を買うようにザウルスをひょいと籠に放り込むなんてことには、すぐなっちゃうかもしれんなあ。小松左京御大が『日本沈没』の執筆にあたって大枚はたいて電子計算機を導入し、九年かかって書き上げるころには、九年前の大型計算機をはるかに凌ぐ性能の電卓が店先に山積みになっていたという有名な話があるけれども、いまから九年後には、いったいどんな機器がコンビニで売られているやら、まったく想像もつかない。いやいや、じつに面白い時代に生まれ合わせたものだ。

【11月26日(金)】
▼コンビニになにやら見慣れないものがあったので、よく見ると焼きいもである。マクドナルドのアップルパイみたいな紙の筒に入っていて、食うときは電子レンジで温めればよいのだという。屋台の石焼きいもの豪快さと比べるとなんとなく味気ないが、いつでも食いたいときに手軽に食えるのが便利そうだ。買ってみようかなと手に取ってみたら、異様に軽い。イモがじつに貧弱なのである。パッケージである紙の筒に、イモのほうで合わせているような感じだ。これでは二、三本食わなくては食った気がしないにちがいない。こんな痩せイモにしては、バカにならない値段だ。アホらしいのでやめる。
 屋台の石焼きいもは、食いたいときに来てくれないのが残念だ。まあ、土曜の夜中の三時とかに来るとは思えないが……。ピザみたいに宅配してくれる石焼きいも屋やったら流行るかもな。女性は石焼きいも屋に対して、愛憎相半ばするものがあるらしい。肥るのを気にするそうなのだが、そんなもの、毎日石焼きいも食って暮らすわけじゃあるまいし、たまに食って少々肥ったからといって、なにほどのことがあろうか。我慢するのは精神衛生によくない。なに? うちの近所には冬になると毎日石焼きいも屋がやってきて、来るたびに必ず買ってしまう? そ、それはたしかに自制したほうがいいかも。

【11月25日(木)】
“デヴィ夫人”というのは、なんとなく妙な言いかただと気づく。たしかにクリントン大統領の夫人を“ヒラリー夫人”などと言ったりしないでもないのだが、これはヒラリー・クリントン氏がクリントン大統領夫人だということが明示的であると判断される文脈に於いて(クリントン氏はなにしろ現役のアメリカ大統領だから、そんなもの、どんな文脈でもたいてい明示的に決まっているが)、“クリントン大統領夫人、ヒラリーさん”と言うべきところを省略した表現なのだろうと思うのだ。「いましている“クリントンさん”の話は、ヒラリー“夫人”のほうだよ」という意味で、“ヒラリー夫人”と言っているのだろう。しかし、デヴィ夫人の場合、スカルノ大統領夫人であったことが、もはやさほど明示的でない(らしい)。ただ“マリアンと仲が悪いおばさん”と認識している若いコも少なくないであろう。とはいうものの、あの人をいま“スカルノ夫人”と呼ぶのも、なんだか妙である。夫であったスカルノさんのほうは、もう亡くなってから三十年近く経つわけだ。ううむ、日本語は難しい。“キュリー夫人”をけっして“マリー夫人”とは言わないにもかかわらず、デヴィ夫人はなぜか最初からデヴィ夫人なのである。要するに、マスコミによって最初に有名になったときの記号が“デヴィ夫人”であったので、その後もずっとデヴィ夫人と呼び続けざるを得ないということなのではなかろうか。いいかげんに、マスコミも“デヴィさん”とでも呼ぶべきだと思うんだけどね。
 そういえば“エマニエル夫人”も、いったい誰の夫人なのかさっぱりわからないけれども、まさか“エマニエル”は姓じゃないよなあ。

【11月24日(水)】
▼最近、もし悪いことをする羽目になったら神奈川県に引っ越してからにしようと思いはじめていたのだが(京都もよそのことは言えないみたいだけどね)、やっぱり“裏マニュアル”があったか。不祥事を身内同士で隠蔽し合うための組織防衛マニュアルの存在が報道されていた。“プリント・オン・デマンド”で作ったのかな。こういうのがやたらきれいに製本されていたら、それはそれで不気味なものがあるよね。
▼話題の「ぼっけえ、きょうてえ」(『ぼっけえ、きょうてえ』岩井志麻子、角川書店・所収)をようやく買ってきて、まずは表題作だけ読む。いいねえ。会社帰りの電車の中で、発作的に音読したくなって困った。といっても、おれにはこの時代、この地方の岡山弁などうまく読めるはずがないが、とにかく黙って読むのがもったいない。誰かに読み聴かせてやりたくてたまらなくなる作品ですな、これは。こういうのって、そうそうあるもんじゃない。吉行和子に朗読してもらったら、いいだろうなあ。岸田今日子でも市原悦子でもいかん。オレ的には絶対吉行和子である。なぜと言われても困るが、存在の周波数とでも言うべきものがこの作品に合うような気がする。角川書店に於かれては、ぜひカセットブック(と言っちゃうと新潮になっちゃうのか)の発売を検討されたし。
 しかし、だ。「ぼっけえ、きょうてえ」(とても、怖い)が完全に標準語で書かれていたら、これほどの魅力はあるまい。じつは、まったく架空の方言でした(おれは岡山弁を詳しく知らないから、むろん、その可能性はあるのだが……)というオチがついていたら、大絶賛しちゃうね。架空の方言ってのは珍しい手法ではないけれど、この作品の語感がもしも人工的なものだったらびっくり仰天である。天才だ。いや、ほんものの方言でも十二分に絶賛に値する作品だけど、貪欲な読者のないものねだりというやつね。
 「男は女や女の穴が好きなんじゃのうて、通じとる地獄が好きなんじゃろう。生まれる前におった地獄にな」ってのはすごいなあ。逆『リア王』だ。この部分は、日本人にはシェイクスピアなんかよりよっぽど刺さってくる。今年のベスト・センテンスということにしておこう。

【11月23日(火)】
▼ひょっとすると、グレッグ・イーガン別唐晶司と気が合うのではあるまいか、などとふと思う。
sixth sense とくれば、seventh heaven ときて、eighth wonder とくるかな? ninth は…… life かね、やっぱり。次が“真田十勇士”で、もちろんオチは『11人いる!』だよな。だから、なんなんだ?
▼台所のテーブルに「ピップエレキバンA」の箱が置いてあった。母が妹のところからもらってきたらしい。「こいつは何ガウスだったっけな?」とよく見ると、「磁束密度 130mT」と書いてあって驚く。東海村の臨界事件があったとき、野尻抱介さんとこの掲示板(プロバイダが変わったがログは残っていた)で放射線の単位の報道がわかりにくいという話をしていて、『「ピップエレキバン」の説明書が突然テスラになるとか(^ ^;)』などとギャグを飛ばしていたつもりだったのに、なんと、ほんとうにテスラ(ミリテスラ)になっていたとは。ピップフジモトのサイトにある説明によれば、平成九年にはテスラ表記(SI単位系)に切り替えていたらしい。知らんかったなあ。どうもおれの頭の中では、いまは亡きあの“会長”が、樹木希林と不条理演劇のような掛け合いをやっているところで時間が止まっているようだ。あのころはガウスだったよなあ。なんとなくガウスだと九州のほうの言葉みたいで、テスラだと東北っぽい感じがする。そんな感じしません? 「おいどんは肩凝りでガウス」とか言いそうじゃん。九州弁というよりは、関取り言葉か、これは。テスラのほうは、誰しも東北だと思うでしょう。「銭があったら母ちゃんは死ななかったテスラ!」とか「キャヨの思うようにはさせにゃーテスラ!」とか、なに、方言はともかくネタが古すぎてわからない? すんません、いいんです、わかる人だけ笑ってください。

【11月22日(月)】
▼次の《異形コレクション》のお題は「バイメタル」だったらちょっと厭かもと思いつつ京都SFフェスティバルの余韻を噛み締めていると、『順列都市(上・下)』(グレッグ・イーガン、山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)について、面白いかもしれないことを思いついた。
 京都SFフェスティバルの合宿企画「ハードSFの面からイーガンについて語る部屋」で、『順列都市』の第二部は「いわゆる“死後の世界”と変わらない」といった意見が出ていて、あの詐欺にかかっているかのような感じを端的に表現しているのだなと思っていたのだが、ひょっとしたらイーガンはマジでいわゆる“死後の世界”に理屈をつけたのではないかという気がしてきたのだ。
 「人が死ぬとき、主観的にはどんな具合なのだろうな」と、おれが子供のころからいろいろ考えてきたよしなしごとのひとつのヴァージョンが、よく考えてみると、『順列都市』に似ているのである。
 人が死ぬとき、脳の活動がすべてのレベルで低下してくるだろうから、脳の内部での電気信号のパターンが通常の意識や知的活動に対応するゲシュタルトを取るには、客観的には平時よりも時間がかかるようになるだろう。簡単に言うと、「2×2は?」と“考えて”から「4」が出てくるまでに、時間がかかるようになるはずだ。ならないかもしれないが、これは奇想だから、強引にそういうことにする。しかし、意識そのものが脳の活動なのだから、全体的に活動が鈍っておれば、主観的に感じる時間の流れはいつもと同じなのではあるまいか――という、まあ、実際はどうだかまったくわからないが、こういう奇想を抱いてみたことがあるわけだ。さらに奇想を推し進めてゆくと、ある想念が形成されるに要する時間は“死”の瞬間までどんどん長くなってゆくが、主観的にはやはり時間はいつもと同じように流れていると感じられるのではないか――いや、主観的には“死”の瞬間は永遠にやってこないのではあるまいか、というケッタイな考えが出てくる。ちょうどブラックホールの事象の地平線に落ちてゆく人のようにである。落ちてゆく本人は、自分の想念が“遅く”なっていっていることなど感じようもなく(まあ、ここでは潮汐力で引き裂かれない超絶的な環境にある人だということにしよう)“ふつうの速度”でものを考えているのだが、外部の観察者から見れば、落ちてゆく人の脳が「腹減った」と“考える”のに何千年、何万年も要していることになってゆくのだ。これを考え出すと、ちょうど“アキレスと亀”みたいな問題になっちゃうけれども、“意識”なるものは、ひとたび形成されれば“主観的には終わらない存在になり得る”という詭弁も可能だ。この“主観的には終わらない”世界を、“死後の世界”と呼んでもいいかもしれんな――などとバカなことを子供のころに考えたことがあるという次第。ここでは大人の言葉で説明しているが、基本的にはこのようなことを小学生くらいのときに妄想していた。『順列都市』にも相対論になぞらえた似たような喩えが出てくるので、ひょっとしたらイーガンも同じ奇想を抱いたことがあるのかもしれない。
 実際に物理的なことを考えると、脳の活動が無限後退してゆく前に、意識という現象を支えるシステムそのものが破壊されてしまうだろうが、これは哲学的な問題なので、そこいらの形而下の問題は無視する。というか、生理学的な“死”とは別に、意識を支える根幹のシステムが破壊される時点を、先の喩え話に於ける“事象の地平線”と考えればよかろう。さてそれでは、電脳空間内で、人間の意識はもとより、世界をまるごと十分な複雑さでしばらくシミュレートしてから、やがて終了させたらどうなるか――などとあまり書きすぎると、これから『順列都市』を読む方の楽しみを殺ぐことになろうから、これくらいでやめておこう。
 イーガンの面白さは、本来哲学が扱うようなこうした問題に、偏執狂的なロジックで科学的・物理的基盤を与えて、読者に眩暈を起こさせる点である。「おれはいったい、どこいらへんから騙されはじめているのだろう?」と不安になるのだ。稀有な才能である。じつにまことしやかだがあきらかにぶっ飛んでいる理論ってのは、たしかにSFにはつきものだ。『禅銃(ゼン・ガン)』(バリントン・J・ベイリー、酒井昭伸訳、ハヤカワ文庫SF)の“後退理論”なんてのは、下手すると信じてしまいそうになるくらいだ。でも、これは作者が「嘘だよ〜ん」と舌を出していることがはっきりわかるように書かれているため、誰も信じちゃいないはずである。ところが、イーガンの場合、そのへんがきわめて曖昧である。まさか信じちゃおるまい、とはおれも思うよ。しかし、やはり「こいつ、かなり本気なんじゃないか……?」という気にも十分させられる。そう、つまり、理論的基盤を持ったロジックを積み重ねていって、“信仰”の問題が生じるすれすれのところまで読者を引きずってくるのである。すげー曲者だ。こんなやつが新興宗教でも興したら怖いぞ。小説は下手だけど、まさに現代文学がやるべきことを正々堂々と武骨にやっているなあと思う。いや、このおっさんは食えんわ、ほんま。もっとやれ、もっとやれ。

【11月21日(日)】
▼関西在住作家お笑いユニット“マンガカルテット”小林泰三田中哲弥田中啓文牧野修)が、陰の五人めとも、黒幕とも言われていた我孫子武丸さんを加え“マンガクィンテット”としてパワーアップした。京都SFフェスティバル合宿企画のハイライト(とおれが勝手に思っている)「リベンジ・オブ・マンガカルテット」のはじまりはじまりである。司会は、大森望さん。『カムナビ(上・下)』(梅原克文、角川書店)を語るというのだが、この人々がおとなしくお題どおりの話をするはずがなく、聴くほうもそんなことは期待していない。案の定、わけのわからない掛け合いへと滑り出し、ただただ笑っているうちに終わってしまった。結局、『カムナビ』というのは蛇千匹の話で、だったら数の子天井はどうなるのか、間尺を合わせるにはイクラ天井くらいでないといかんだろうといったような結論になった。ように思う。牧野修さんはしきりと猫を振りまわし、田中哲弥さんは某女性作家が彼の名刺を捨てた(というのはオーバーにしても、一瞥もくれず鞄に投げ入れたとかいうことらしい)話を執念深く語り、田中啓文さんはダジャレひとつで長篇を書くことにされてしまい、小林泰三さんはひたすらライフスペースのグルになっていた。我孫子武丸さんが独特の間合いで漏らすふつうの言葉どもが、異様なおかしさを付与されて宙に浮く。それにしても、いま思いついたのだが、どこかの食堂に“数の子天丼”というメニューはないのだろうか。短冊にそう書いて壁に貼ってあったらどきっとすると思う。
 一応、企画としての「リベンジ・オブ・マンガカルテット」は終わったのだが、要するにこれは“マンガクィンテット”がのべつ幕なしにしゃべっている直線の一部を線分として切り取っただけの企画であり、終わったからといって彼らの会話がどう変わるというわけでもないのだった。そのあとも同じ部屋で話が続くのを聴く――どころか、話に加わる。
 同じ部屋に水玉螢之丞さんが残ってらしたので、昨日水玉さんにもらったカエル型クリスマス用電球を箱から出して、プラグを壁のコンセントに差し込んでみた。一メートルくらいのコードから等間隔にカエルの人形がぶらさがっており、そいつが光るという楽しいアイテムである。しばらくすると、カエルが一斉に点滅しはじめた。「あ、バイメタル電球か」と、おれがふと漏らしたひとことからバイメタルの話になったのだが、「バイメタルて何?」とうっかり言ってしまった田中啓文さんに、マンガのほかの四人がたちまち突っ込みはじめた。「むかし“かがく”のふろくについてたがな」「そうそう風呂ブザーを作った」などと、昭和三十年代後半生まれ世代的な妙な連帯感が生じる。結局、実物を見たのはみんな“学研のふろく”が初めてだったのではあるまいか。電気炬燵にもぐったら、うちのやつは温度調整ダイヤルがついてる箱の隙間から見えたものである。そんな暑いことはしませんかそうですか。どうやら、電機メーカ勤務のここなハードSF作家も、人獣細工をするほどに身を堕す以前にはバイメタルで風呂ブザーを作った少年だったらしい。学研おそるべし。田中哲弥さんときたらバイメタルを知らずんば人に非ずといった調子で啓文さんをからかい倒していた。人間としてどうかと思う。怖いなあ、バイメタル。
 どうも鼻の調子が悪いなとずっと思っていたのだが、夜半ごろからどんどんひどくなってくる。いかん風邪でも引いたかなと思ったが、鼻以外は正常で熱もないし、どんどん出てくるのはさらさらの鼻水だ。あっ、花粉か、と思い当たり常備薬袋を探るも、しまった、鼻炎カプセルを切らしている。この季節には、いつもとちがう環境に晒されるときには抗ヒスタミン剤の携行が必須だと思い知っているのに、ぬかったぬかった。たちまちティッシュ・ペーパーがなくなってしまい、コンビニに買いに行ったりした。
 それでもマンガクィンテットの会話はひたすら続く。壁際では、倉阪鬼一郎さんが黒猫のぬいぐるみを顔に乗せて寝ている。猫に襲われた死体のようではなはだ不気味であるが、眠っている姿ですら人に恐怖を与えるべく演出している(?)のは、さすがホラー作家だ。この伝で言えば、田中啓文さんが寝ている姿は、なにかのダジャレになっていなくてはならないはず。今回は観察できなかったので、いつか機会があれば気をつけて見ておくことにしよう。小林泰三さんが寝たり起きたりしているのを横目に、マンガの人たちの話を聴き、ときおり茶々を入れ続ける。田中哲弥さんは、朝方になってもまだ「バイメタル」などと言っている。花粉症で目の下の副鼻腔が腫れたようになっているところへもってきて、笑いすぎて腹筋と頬が痛くなる。踏んだり蹴ったりだが、まだ笑っている。
 すっかり朝になり、いつものようにあっさりとしたエンディング。木戸英判さんらと、からふね屋へ。京フェス流れの人々がどっと押し寄せており、ウェイトレスはてんてこ舞いである。ずいぶん待たされてカレーを食い(米はもちろん左だ)、らざるすさんと京阪電車丸田町駅へ、大野万紀さん、岡本俊弥さん、喜多哲士さんらの一行に追いつく。車内で喜多さんと『電脳祈祷師 邪雷幻悩』(東野司、学研 歴史群像新書)についてちょっと話した。そのころには朦朧としてきていて、家に着いてもよせばいいのにネット巡回してさらに朦朧としつつもひとしきり笑い、ぽとりと寝る。


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