間歇日記

世界Aの始末書


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99年12月上旬

【12月10日(金)】
▼街にはクリスマスソングが流れている。そりゃそうだ。「オバQ音頭」が流れてたらびっくりするわい。そういえば前にも日記のネタにしたことがあったが(96年12月16日97年12月3日)、X'mas じゃなくて Xmas じゃというに、まだわからんのか。ま、おれはキリスト教徒じゃないので、訂正してまわる義理もないが……。
 さて、クリスマスソングである。クリスマスソングというやつは、いろいろと謎が多い。「ママがサンタにキッスした」I Saw Mommy Kissing Santa Claus なる歌がある。あれは子供がクリスマス・イヴに両親のようすを覗き見してびっくりしている歌なのであるから、当然両親は子供に見られていることを知らないはずだ。だとすると、なにが哀しゅうてパパはサンタの扮装などしているのだろう? いまだによくわからない。もしかすると、この夫婦はちょっと変わった趣味があって、子供が寝静まったころを見はからい“サンタ・プレイ”をしていたのではないか――と、大人であれば誰もが推理するであろう。ママがサンタのどこにキスをしていたのかという重要な問題も棚上げにされたままである。そのあとママは、サンタにキスだけではなく、いろいろな、とてもいろいろなことをしたのではあるまいか――と、大人であれば誰もが想像するであろう。それを子供はずっと見ていたので、あれほどびっくりしているわけである。最近の子供はびっくりせんか。なるほど。
 「赤鼻のトナカイ」Rudolph, the Red-nosed Reindeer も、奇妙といえば奇妙だ。サンタクロースは、ルドルフを雇用する以前は、いったいどうやって夜道を走ったり夜空を飛んだりしていたのであろうか? foggy なクリスマス・イヴは、それ以前にも何度もあったはずだ。そのころは当てずっぽうで世界中を一夜でまわっておったのか?
 と、ここでクイズです。サンタの橇は、トナカイ何頭立てでしょう? “赤鼻のトナカイ”ルドルフを加えて九頭ですね。名前が言えたらすごい。なに、あなた言えるんですか。こんなしょーもないことを知ってたからといって、一文の得にもなりませんぞ。脳細胞の無駄遣いです。もっと役に立つことを勉強なさい。Dasher, Dancer, Prancer, Vixen, Comet, Cupid, Donner, BlitzenRudolph ですな。いちいちこんなものに名前をつけたのはたぶん英語国民だと思うが、なにやらドイツ語風、北欧語風のが混じっているのはなぜだろう。七福神みたいなもんか?
 それはさておき、いよいよ最大の謎に移ろう。そもそも、ルドルフの鼻は照明になるのか、である。子供のころから不思議に思っていた。「真っ赤なお鼻のトナカイさん」だからといって、鼻が光を発していることにはなるまいとお宅のお子さんだって思っているはずだ。なに、ミッション系の幼稚園に行かせているので、うちの子は原語で唄っている? 失礼いたしました。Rudolph, the red-nosed reindeer had a very shiny nose.――ううむ、解釈が分かれるところかもしれんが、shiny nose というのは、“光っている”のではなく“テカっている”のではなかろうか。つまり、脂性(あぶらしょう)のトナカイなのであろう。And if you ever saw it, you would even say it glows.――「輝いていると言えるほど」に光量があると唄っているのだが、これはしょせん脂に反射している光である。You would even say it glows.と表現するからには、じつは反射光だとはわかっているわけだ。なのに、なぜサンタは赤鼻のトナカイを照明に使おうなどという奇ッ怪な考えに取り憑かれてしまったのだろう?
 そこでおれは考えた。ルドルフが暗い夜道で役に立つのは、彼の鼻が赤いからでもテカっているからでもないのである。じつはルドルフは、あの鼻から中性子線を放射しているのだ。そもそも人外の者であるサンタが、われわれにとっての可視光線でものを見ると思い込んでいるところが素人の浅はかさだ。サンタは中性子線でもものを見ることができるのである。だからこそ、建物の中に子供がいるかどうかが外からわかったりするのだ。「サンタが来るから気をつけろ」とほかのクリスマスソングにも唄われているのは、古の人々の警告なのである。Silent night, Holy night, All is calm, All is bright.という歌も、過去にサンタが通ったあとの惨状を唄ったものだ。作詞者は最期にチェレンコフ光を見たのであろう。
 こういうこと言ってるようでは、おれは絶対に天国には行けんな。

【12月9日(木)】
▼もうけっこう寒いというのに、女子高生たちはナマアシを剥き出しにして(だからナマアシというのだが)歩いている。あれはなかなか目によろしい。森奈津子さんのサイトの「浮世の間 東京異端者日記」(99年11月某日)によれば、牧野修さんパンスト愛好家なのだそうだが、おれはどちらかというとナマアシ派である。やはりアダルトな牧野さんに比べ、性欲が幼稚なのかもしれん。
 いや、そっちへ行く話じゃなくて――あの女子高生のナマアシだが、寒い日に観察していると(鑑賞ではない。あくまでSF者の目で観察するのだ)、なにやら斑模様になっているのに気がつくであろう。血液が透けて見えているらしく、それが斑になっているのだ。いかにも寒そうである。むかしは、あんなふうに頬っぺたがリンゴみたいに斑になっているコがよくいたものだが、まあとにかく、ナマアシがあの状態になっている。それがまたなかなかオツなものだという意見はさておくとして、今朝、あの斑ナマアシを見ていて、ふと「あ、どこかで見たような……」と妙な連想をした。ほれ、味噌汁をさ、しばらく放っておきますわな。すると味噌が沈殿して、なにやら規則的なような不規則なようなもやもやとした模様を描く。あれって、斑ナマアシの模様に似てませんか? なんでだろうね? おれはいま、世紀の大発見のとば口に立っているのかもしれないのだが、哀しいかな、それを理論づける能力がない。対流する液体の自己組織化となにか関係があるのだろうか。畏れイリヤのプリゴジン。ナマアシの皮膚の深部のほうは温かいはずだしな。ナマアシと言えば、ふつう脚の合わせ目に向かって探求心が働くものであって、そっちの奥のほうはかなり湿っぽくて温かいはずであるが、なかなか皮膚の下のほうには探求心が働かない。そこが科学者たちの盲点になっているのかもしれぬ。あるいは、フラクタル次元で表現されるであろうああした模様の輪郭が、単に偶然似たものになっているにすぎないのかもしれぬ。ここはぜひ、理科系の方々にさらなる研究を委ねたい。大発見でもしたら、学会で発表するときかっこいいぞ。「ある朝、私は女子高生のナマアシを見ていました。なんとなく大根のようだなと思ったその刹那、私の脳裡にはあの味噌汁の模様がくっきりと浮かび上がったのです――」とかなんとか、適当な着想秘話をでっちあげればよいのである。エサキダイオードだって、地下鉄のホームで電車を眺めていて……とかなんとかいう秘話があったはずだ。ナマアシ−ミソスープ理論で科学史に名を遺す日本人なんてのは、なかなかクールだぞ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『人獣細工』
小林泰三、角川ホラー文庫)

 念のためであるが、タイトルは「にんじゅうざいく」である。さらに念のためであるが、著者は「こばやしやすみ」である。「こばやしたいぞうのじんじゅうざいくありますか」などと書店の人に言わないように。
 この作品がハードカバーで出たあと、現実がじわじわと追いかけてきた感があって、ますます怖い。むろん、この話は最悪のシナリオであるが、なんでも、ブタというやつはいろんな意味で人間に近いらしく、ブタの組織をあれこれ医療に使おうって話は現実によく聞く。それが悪いわけではない。悪いわけではないのだが、こういうふうになったら怖いなあ、とまあ、そういう話なのである。主人公が少女というのが、これまた禍々しい。〈SFマガジン〉のインタヴューで作者がにたあと笑いながら言っていたところによれば、美人であるらしい。ああ、禍々しい。邪悪な作家だ。また“ブタ”という字がおどろおどろしい。人と話していて『人獣細工』の話題になると(相手が特殊な人でないと、そもそも話題にならないのだが……)、「ほら、あの難しい“ブタ”って字」などと、口で説明するのに難渋するので、ここはひとつウェブページの強みを活かして、画像でご覧いただこう。これである――

 どうだ、禍々しいだろう。なに、ただ下手なだけだと? まさかマウスで書いたんじゃないだろうなだと? そのとおり、マウスで書いたのだ。すごいだろう。大原まり子さんの“へろへろマンガ”みたいだ。
 それはともかく、この“ブタ”という字だけでも、この作品の怖ろしさがわかっていただけたにちがいない。なんちゅう紹介じゃ。表題作「人獣細工」のほか、「吸血狩り」と、小林作品屈指の傑作中篇「本」を所収。

【12月8日(水)】
『クローズアップ現代』(NHKテレビ)にダニエル・キイスが出演。なんとも薄い内容で落胆。だが、考えてみれば、自分のよく知らない分野を取り上げているときには手ごろな情報量でありがたいと思って観ているわけであり、おれがそう思って観ているとき、その分野に詳しい人は「つまらねー」と落胆しているにちがいないのである。これがマスメディアというものの特性であり、限界なのだ。
 一人ひとりがみずからウェブページを見にゆき、一人ひとりの携帯電話に広告が飛んでくるような時代には、マスに対してなにかを訴えるということの意味をいま一度よく考え直す必要があるだろう。大人数の一人ひとりに六十点そこそこの満足(としかおれには思われない)しか与えられない散弾銃のようなマスメディアの特性が活かせる分野と、少人数の一人ひとりに九十五点の満足を与え得るレーザービームのようなインターネット(無線を含む)の特性が活かせる分野とが、あまりまだ練り分けられていないとおれは思う。
 ところで、これだけネットでも本買ってるんだからさ、そろそろおれの好きそうな本をおれのためにメールで教えてくれないかな、紀伊國屋書店さん? amazon.com さんは、ちょっと注文が途絶えると、「どうなさったんですか?」と言わんばかりのメールを送ってくるんですがね。アマゾンさんは、日本の書籍流通にはいろいろ独自のシステムがあるから日本に進出しても本は売らないとか最初は言ってたはずだけど、そろそろ日本法人を作ってやっぱり本も売るとか言ってますぜ。amazon.com のインタフェースとサービスで日本語の本が買えるなら、おれはもうそこいらの本屋には“本を見に行くだけ”になっちゃうかもしれないぞ。どのみち買うにちがいないと思われる本なら、ものぐさなおれは見に行きもしないかもな。マスメディア的な品揃えしかしていない、いわゆる bricks and mortar の書店(物理的な書店ってっことね)は、おれの欲しい本を置いていないことが多いのだ。見に行くだけ時間の無駄である。田嶋陽子先生がやたらハマっていた「見〜て〜る〜だ〜け〜」という通販会社のCMがむかしあったけれども、書店が「見〜て〜る〜だ〜け〜」の客で溢れかえる可能性だってあるだろう。いや、そうなるころには、書店とは雑誌や新書と文庫の新刊だけを買うところで、『ハムレット』や『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を買いに行くところではなくなっているはずだ。すでにそうだって? そういえばそうか。
 まあ、流通はなるようになるわさ。おれとしては、手軽に欲しい本が手に入れば、どうなったってかまわない。さて、書くほうはどうなるだろう? 大人数の一人ひとりに六十点そこそこの満足しか与えられない散弾銃のような内容の本を、みなが人と話を合わせるためだけに買う時代がそろそろ終わるとしたら、本の書きかたのほうだって絶対に変わってくる――というか、変わらざるを得ないだろうとおれは思うんだよね。誰も“今週のベストセラー”のランキングなんてものは見なくなったりして。おれは散弾銃で撃たれるよりも、レーザービームで撃たれたいもんな。「これは私のために書かれた本だ!」となぜかとても多くの人に思わせる本と、できるだけ大勢の人の好みに無難に合わせようとした本とは、似ているようで全然ちがうのだ。

【12月7日(火)】
“使わないときは針を止め眠ってい”て、“わずかな振動で目を醒まし”正確な時間を指す腕時計とやらのCMを最近ちょくちょく目にするのだが、あれって、夜中に「いま何時だろう?」と見るだけでは正確な時間がわからないのではなかろうか? あのCMのとおりの動きをするとしたら、手に取ってみてもぐるぐるぐると針が回って正しい時間になるまで待たなくてはならないのではなかろうか? そもそも、いったい、あれのどこがどう便利なのであろうか? おれの気づかない思わぬ用途があるにちがいない……と、ずっと考えているのだが、やっぱり思いつかない。要するに、止まっているあいだは動力が要らないってことをアピールしたいわけ? うーむ。メリットとデメリットを秤にかけると、少なくともおれにとってはデメリットのほうが大きいような気がするんだがなあ……。

【12月6日(月)】
biosphere からダイレクトメールが来た。zabadak のニュー・アルバム『IKON 〜遠い旅の記憶〜』が、biosphere records 回帰第一作として二千年一月二十日に発売されるというのだが、これがまた鈴木光司『楽園』にインスパイアされてプロデュースされたアルバムなのだという。いかん、デビュー作なのに読んでないや。いつもながら安上がりな biosphere のDM(褒めてるんだよ)に、鈴木光司本人が数行のメッセージを寄せている(ウェブサイトにも載っている)。
 さらに二千年二月十二日の『IKON』発売記念ライブ(於:なかのZERO大ホール)のメンバーに目をやれば、難波弘之(Keyboard)とある。このDMは、おれをSF者と知っての狼藉か。そんなことはない。いつも送ってくるのだ。だけど、なんかザバダック周りには、SFの匂いが漂ってますなあ。

【12月5日(日)】
▼ここ一週ばかりのあいだに、誕生日祝いのプレゼントをいろいろ頂戴した。
 パソ通友だちの那須高子さんは、おれが98年9月2日の日記小野リサMoonlight Serenade を賞賛していたのを憶えていらして、同曲が収録されているアルバム『ドリーム』を送ってくださった。出ているのは知っていたのだが、買おうかなと思いつつ延ばしのばしにしていたので、まことにありがたい。一九二○年代から一九四○年代のアメリカン・スタンダード曲を小野リサがみごとに唄いこなしていて、うるさくないのでBGMに持ってこいである。Moonlight Serenade のみならず、As Time Goes By や、スローな Sentimental Journey なんかもなかなかいい。これらは英語だが、小野リサらしくポルトガル語の歌詞をつけたアメリカン・スタンダードもあって、不思議な味わいを出している。おれはポルトガル語はさっぱりわからんけど、声フェチ的にはおいしい。けっして澄んだ声ではなく、どちらかというとざらざらしたいろんな倍音が混じった声なのだが、それがいいんだな。肩の凝らない声とでも申しましょうか。上述の昨年の日記に書いた Lullaby of Birdland は、残念ながら唄っていない。あれは、日本人では阿川泰子のがなかなかどうしていいんだよねー。まあ、いつか小野リサも唄ってくれるだろう。Moonlight Serenade は、アップテンポにアレンジを変えたものを、いまだに三菱自動車の「PAJERO io」のCMには使ってますな。きっと好評なのだろう。
 宇海遥さんからはカエル柄の傘を、ケダちゃんからは宇宙服を着たカエル型のライターホルダー(ライター付)を頂戴した。家の中がどんどんカエルだらけになってゆき、じつに和やかなことである。クリスマスには、先日水玉螢之丞さんにいただいたカエル型デコレーション電球を飾る予定だ。Silent night, Froggy night♪ みなさま、まことにありがとうございました。
▼寒くなってきたせいか、SETI@home がはかどりはじめた。暖かいうちは、ノートパソコンでばりばりやらせると放熱が追いつかないのである(99年5月22日の日記参照)。十二月に入ってからというもの、常時解析モードにしておいても、冷却ファンはなかなかフルパワーに切り替わらない。室温が下がっているため、パソコンの底面やその他の箇所からの放熱がよくなってきたのだろう。
 よく考えたら、そのぶん暖房費が節約できるわけだ。けっこうなことである。もっとハイスペックのパソコンが何台もあれば、冗談抜きでバカにならない熱が部屋に放出されるはずである。みなさんも SETI@home で宇宙人を探しながら暖房しよう。パソコンをたくさん持っている人は、いつもフルパワーでがしがし計算させよう――って、待てよ、しかしそれでは結局、暖房費を節約していることにはならないよな。効率の悪い暖房をしているだけだ。まあ、どのみちパソコンは必ず使うのだから、そのぶん暖房費が浮けば、エネルギーの節約にはならないが、暖房費の節約にはなる。使わないパソコンを無理に動かすことはないが、使っているパソコンを暖房に利用しようという発想はアリだよな。人体や機械からの発熱を勘定に入れて暖房しているビルもあるもんね。

【12月4日(土)】
▼今年ももしかしたら寄せてくださるかなと思っていたら、来ました来ました、恒例傑作投稿、唄う経済学者マイソフさんの「アニソン縛り紅白歌合戦」が送られてきた。去年は二回あったから、これももう第三回を数える([第一回]98年9月16日[第二回]12月16日)。むろん、こんなのがあったらいいなという架空の紅白歌合戦なので、本家の正式プログラムとまちがえて仰天しないように。それぞれの歌手がほんとうに紅白で唄っているところをヴィジュアルに想像しながら眺めるのが、この企画を楽しむコツである。さて、それではさっそく行ってみよう。ブラウザの幅を少し広めに取ると見やすいと思う。

第三回「アニソン縛り紅白歌合戦」(出場順)
深田恭子Catch You Catch Me
[カードキャプターさくら]
わんぱく探偵団のうた
[わんぱく探偵団]
Kinki Kids
松本梨香ロンゲストドリーム
[キャプテン翼]
赤き血のイレブン
[赤き血のイレブン]
速水けんたろう
鈴木あみ草原のマルコ
[母をたずねて三千里]
君だけを守りたい
[ウルトラマンダイナ]
L'Arc〜en〜Ciel
Kiroroとなりのトトロ
[となりのトトロ]
神話
[ガメラ大怪獣空中決戦]
河村隆一
大黒摩季ロ・ロ・ロ・ロシアンルーレット
[ダーティペア]
Get Wild
[シティーハンター]
織田裕二
ZARD風のノー・リプライ
[重戦機エルガイム]
銀河疾風サスライガー
[銀河疾風サスライガー]
GLAY
モーニング娘。サムライ・ハート
[鎧伝サムライトルーパー]
ペガサス幻想
[聖闘士聖矢]
アルフィー
小松未歩もののけ姫
[もののけ姫]
シンデレラ
[超時空要塞マクロス]
さだまさし
椎名へきる約束はいらない
[天空のエスカフローネ]
カムヒア!ダイターン3
[無敵鋼人ダイターン3]
水木一郎
広末涼子Feeling Heart
[To Heart]
勇者王ガオガイガー
[勇者王ガオガイガー]
山本正之
森高千里ふしぎなメルモ
[ふしぎなメルモ]
ムーンライト伝説
[美少女戦士セーラームーン]
郷ひろみ
岩男潤子星の子チョビン
[星の子チョビン]
帰ってきたウルトラマン
[帰ってきたウルトラマン]
西城秀樹
坂本冬美水の星へ愛をこめて
[機動戦士Zガンダム]
さらばやさしき日々よ
[太陽の牙ダグラム]
冠二郎
茂森あゆみラブラブミンキーモモ
[魔法のプリンセス
 ミンキーモモ]
超電子バイオマン
[超電子バイオマン]
ビージーフォー
宇多田ヒカルときめきトゥナイト
[ときめきトゥナイト]
陽だまり
[めぞん一刻]
尾崎紀世彦
つのだりょうこ
杉田あきひろ
いま地球が目覚める
[未来少年コナン]
ライバル!
[ポケットモンスター]
SMAP
平松愛理さめない夢
[赤毛のアン]
シビビーン・ラプソディー
[逆転イッパツマン]
忌野清志郎
サーカス忍者マーチ
[仮面の忍者赤影]
疾風ザブングル
[戦闘メカ・ザブングル]
爆風スランプ
堀江美都子Go! Go! トリトン
[海のトリトン]
青春の旅立ち
[スターウルフ]
谷村新司
森口博子チョウの来た道
[むしまるQ(なんでもQ)]
ロンリー仮面ライダー
[仮面ライダー]
五木ひろし
由紀さおり
安田祥子
魔法使いサリー
[魔法使いサリー]
ひょっこりひょうたん島
[ひょっこりひょうたん島]
サザン・
オールスターズ
八代亜紀銀河鉄道999
[銀河鉄道999 TV版]

[俺の屍を越えてゆけ]
森進一
和田アキ子テレサよ永遠に
[宇宙戦艦ヤマト2]
宇宙の星よ永遠に
[無敵超人ザンボット3]
加山雄三
宝塚歌劇団宙組檄!帝国華撃団
[サクラ大戦]
美しさは罪
[パタリロ!]
美川憲一
小林幸子風といっしょに
[ポケットモンスター
 ミュウツーの逆襲]
君の青春は輝いているか
[超人機メタルダー]
北島三郎

 いやあ、今年はおれの知らない曲が多い。あなたは何曲唄えるだろうか。森高千里「ふしぎなメルモ」はぜひ聴いてみたいなあ(というか、見てみたいなあ)。コスプレ付きで。美川憲一「美しさは罪」もすばらしい。ここでは美輪明宏を持ってきたくなるのがふつうだと思うが、本格的すぎると紅白の大衆性が出ないのである。微妙にハズさなきゃならないところが難しいのだ。音楽的には、宇多田ヒカル「ときめきトゥナイト」が聴かせるにちがいない。あれはなかなかの名曲だと思う。サーカス「忍者マーチ」も、みごとな選曲だ。郷ひろみ「ムーンライト伝説」は盲点だった。いかにも合いそうである。サザン・オールスターズ「ひょっこりひょうたん島」など、桑田佳祐が口をとんがらかして唾と汗を撒き散らしながらチャプチャプチャプチャプ言っている姿が、まるでどこかで見たことがある光景のように浮かんでくるではないか。
 今回は、マイソフさんが「鑑賞の手引き」まで作ってくださったので、そちらを参照しながらあらんかぎりの想像力をふり絞って頭の中の紅白を楽しまれたい。プリントアウトして年末年始のカラオケ・パーティーに持って行こう!

【12月3日(金)】
▼恒例〈SFマガジン〉「マイ・ベスト5」投票の依頼が送られてきた。なんと、今年から依頼も参考リストも電子メールだ。早川書房の電脳化も着々と進行しているようである。まあ、SF関係者のコンピュータ・リテラシーが他の文藝分野に比べて高いからできることなのだろうけれども。
 参考リストは、ベタのテキストでメールのボディにそのまま書かれていたので、コピー&ペーストして新たなファイルを作り、それを秀丸で加工してから Excel で読み込み、さらに整形して読みやすくした。下手に特定のアプリケーションに依存した形式で送ってこられると読めない人もいるだろうから、テキストで送るのは正解でしょう。うちの Excel97 のテキスト・ファイル・ウィザードは、項目のデリミッタ(区切り文字)として全角の「/」を認識しないので、あらかじめエディタ(うちは秀丸)で「/」を適当な半角文字に全置換(おれは「@」を使った)してから読み込むとうまくゆく。ほかの投票者に Excel に読み込みたいがうまく行かないという方がいらしたら、ご参考まで。
 それにしても、こうしてつらつらリストを眺めてみると、今年のSFはすごい豊作だなあ。おれが今日までに読めているものだけに限っても、五つに絞り込むのに難渋するのは必至である。今年も締切ぎりぎりまでのたうちまわることにしよう。あっさり選べちゃうような年(いつとは言わんが)よりはよっぽどいいしね。できるだけ選択肢を増やしたいから、駆け込み読書もせねばな。
 今年は、選出対象作品の刊行期間(一九九八年十一月〜一九九九年十月)の最後から二日めに『クリスタルサイレンス』(藤崎慎吾、朝日ソノラマ)という大物が飛び込んできたため、頭の中でぼんやりと組み上げはじめていた個人的ベスト5の順位が土壇場で影響を受けた。作家というのはワン・アンド・オンリーであるべきであって(著者名を入れ替えても通るような作家は、どちらかが不要である)、“誰それ風”といった言いかたをするのは作家にとって失礼になり得ることはよくよく承知しているのだけれども、『クリスタルサイレンス』を読んで、おれは久々に小松左京の新刊を読んだような気になった。藤崎氏はおれと同い年だから、もしかするとおれがSFだと思っているものを、この人も同じようにSFだと思っているのかもしれない。それが若い世代にどのように受け止められるかという大きな問題はあるが、受け継ぎ語り継がねばならぬものにこだわることは大切である。それは一人ひとりが依って立つところの“根”に関わる問題だからだ。おれは、自分自身の“根”を裏切ってまで、時代に迎合したいとは思わない。それが時代に合わぬというのなら、従容として滅びたほうがよほどよい(滅びるのが主目的になってしまった“滅びの美学”は嫌いだけどね)。『クリスタルサイレンス』は、ディテールこそ現代的(やや現実に即しすぎているきらいすらあるくらいだ)だが、その武骨さは、日本SFが若かったころの最良の部分をコアとして受け継いでいる。「おれがホンモノを見せてやれば、売上げなんぞあとからついてくるわい」といった“サムライ”の風格が感じられて、おれはこの人にすごく期待しているのだ。

【12月2日(木)】
「松岡圭祐倶楽部」にある「友里佐知子の千里眼 貴方はA以上B未満」という妙な占い(?)が流行っているようなので、おれもやってみた――「意外に優柔不断なところがあるのね、あなたは。 ずばり教えてあげるわ。あなたの男性としての価値と、これからの人生は、古谷一行以上、山口達也未満ってところね」
 おお、いいじゃん。古谷一行以上なら上等だ。山口達也未満ってのは気にいらんな。TOKIOなら、おれはなんとなく城島に親近感を覚えるのだが……。それはともかく、占いの続き――「ついでだけど、あなたが精一杯がんばって振り向かせることのできる女は……あがりた亜紀が限度よね」
 “あがりた亜紀”って誰だよ? 向井亜紀なら嫌いではないが……。どれどれと infoseek Japan調べてみると、なるほど、フツー系のアイドルだな。あんまり、おれのタイプじゃない。翳がなさすぎるねえ。
▼さてさて、久々に“マダム・フユキの宇宙お料理教室”だ。そろそろ寒くなってきたので、今回は身体がぽかぽか温まるドリンクである。メモのご用意を。
 といっても、メモなど要らないくらいに簡単なレシピだ。まず、焼酎をグラスに適量注ぐ。次に、熱湯で適当に割る。そして、黒酢を大さじ一杯垂らしてできあがり。なんのことはない、焼酎のお湯割りを作ったところ、そばに黒酢があったので入れてみただけである。こういうその場の思いつきを大事にするのが、当お料理教室のモットーなのだ。
 これがなかなかどうして飲めるのである。レモンやライムで味つけした焼酎お湯割りとさほど変わらない。身体にもよさそうだ。グラス(耐熱ガラス製を用いてください)の中でほわほわと湯気を立てる薄黄色い液体がどう見ても出したての小便にしか見えないという些細な欠点はあるが、手軽な冬のドリンクとしてぜひお楽しみいただきたい。

【12月1日(水)】
昨日書いた姪の事件はまだ続いていて、今度は風邪があまりにひどいと大騒ぎしている。栄養も取れず脱水症状気味なので、点滴を四時間も行なったそうな。子供には辛かろう。おれだったら、点滴四時間なんて大喜びだけどね。その間、もの食わなくてもいいし、四時間連続で本が読める。サラリーマンはなかなか平日には連続で本が読めないものなのである。二十三分読み、しばらくして五分読み、また四十一分読み、次に十八分読めるかと思ったら二分しか読めず、やっと五十六分読めるかと思ったら三十五分読んだところで居眠りをしてしまい、家に帰ったらゆっくり読めるかと思うとそんなことはまったくなく、二十分くらい読んだかと思ったらこまごまとした雑用に追われる。ええい、ままよと一気読みをしてしまうと、あとに雑用のしわ寄せがどどどどとやってくる。いちばんまとまった時間が取れるのは通勤電車の中だが、それでも乗り換えが多いと、断続的になる。たいてい、四、五冊は並行して読んでいるわけだから、流れがブチブチに切れてしまう。中断すると流れを取り戻すまでに一、二分はかかるとすれば、総読書時間は一気に読むよりも多く必要だ。一括払いと分割払いとのちがいみたいなものである。とはいえ、五分や十分もバカにできないのだ。一日五分が一年分溜まると、三十時間ちょっとになるのである。“流れ取り戻しタイム”を含め三時間で一冊読めたとして、十冊読めるのだぞ。こういう本の読みかたがいいとはけっして思えない。一日二分ずつセックスして十日くらいで無理やりイこうとしているような感じとでも言おうか(もう少しましな喩えはないのか)。しかしまあ、大方のサラリーマンはこうやって読んでいるよねえ? こういう物理的制約が、いわゆる“サラリーマンにウケる小説”の性格をある程度決定しているとしたら、これは文藝にとって由々しき問題と言えよう。アンソロジーがウケる要因のひとつとして、じつはただ単に細切れに読みやすいことがあるのは否定できないのではなかろうか。
 読むのはまあ、細切れでも読めないことはない。が、ものを書くとなれば、頭のエンジンが回りだすまでにかなりの助走時間が必要になるから、中断するたびに助走からやり直さねばならず、無駄な時間を相当使う。助走時間はけっしてまるまる無駄というわけでもないのだが、はなはだ非効率的ではある。書く場合には、効率がよけりゃいいってものではないけどね。断続的に書いていることがかえって幸いしている面もあるかもしれない。とはいえ、論理を積み重ねるタイプの文章ならば断続的に書いても大筋に影響はあまりないだろうけれども、その時々の“ノリ”みたいなものが非常に重要なタイプの文章だと、中断はたいへん痛いだろう。コールリッジが世紀の名詩 Kubla Kahn を書いているときにつまらない用事で中断を強いられ、ほとんど霊感とでも言うべき“あのノリ”が取り戻せず、そこで終えざるを得なかったというのは英文学史上有名な話である。
 おれにもコールリッジの気持ちがよくわかるときがある。「さっさと風呂入らんかいな!」などと、どうでもいいことを母がわざわざ言いに来たりするとき、霊感が断たれることがあるのだ。くそー、ええダジャレを思いついたのに、忘れてしもうたやないか!


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冬樹 蛉にメールを出す