間歇日記

世界Aの始末書


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99年11月中旬

【11月20日(土)】
京都SFフェスティバルに行く。寝坊してしまい、三十分ほど遅刻。なんか、去年も同じこと書いてるな。本会が先だと朝がつらいが、合宿が先だと本会で寝てしまう。主催者側も難しいところでありましょう。例によって、間歇日記流に非公式レポートをば。

◆「新世紀の巨匠 グレッグ・イーガン」[出演:山岸真(翻訳家)、聞き手:細井威男京都大学SF研究会)]

 最初のほうのおいしいところを聞き逃してしまったが、まあ、合宿でも「ハードSFの面からイーガンについて語る部屋」というのがあるしと自分を納得させ、後半を楽しむ。DiasporaDistress など、『宇宙消失』(山岸真訳、創元SF文庫)や『順列都市(上・下)』(山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)に優るとも劣らぬぶっ飛び具合の未訳作品あらすじが紹介された。はっきり言って邦訳が出るとも出ないともいまはなんとも言えない作品なのに、ネタばらしに注意しながら紹介してゆくあたり、じつは訳したがってらっしゃるにちがいない山岸さんのプロ根性を見る。おれならライヴで紹介すると、べらべらしゃべっちゃうもんな。翻訳を生業にしはじめると、そこいらにも気を配らざるを得なくなるのだなあと妙なところで感銘を受けた。

 午前の部が終わり、喜多哲士さん、小林泰三さん、野尻抱介さんらとレストランで昼食。おがわさとしさんもいらしたのに、レストランのウェイターは気が利かず、四人がけのテーブルに椅子をひとつ足すほどのこともさせてくれない。隣のテーブルを見ると、三村美衣さんはそうやって座っているではないか。ウェイターがまごまごしているうち、おがわさんのほうが気を遣って、ひとり外で食べてくると出てゆかれた。なんという奥ゆかしい人であろう。三村さんと同じテーブルにいらした水玉螢之丞さんが、おれを見つけてなにやら箱を差し出す。な、なんと、カエル型のクリスマス用電球ではないか。わざわざこんな嵩張るものをおれに持ってきてくださったとは、ありがたいことである。そりゃもう、アリだろうがバッタだろうがキリギリスだろうが、好きなように描いてください。一生、ついてゆきます、女神様。しかし、このカエル電球が、のちに田中啓文さんに大きな禍をもたらすことになろうとは、このときにはまだ誰も神ならぬ身の知る由もないのであった。神のものは神に、カエルのものはカエルに返しなさい。
 さてしかし、この面子で飯を食うとなれば、おのずと話題はかの珍妙な人物のことになる。小林さんや野尻さんは貪虐兇穢な笑みを浮かべながら悪魔のようなえげつないことをのべつ幕なしにまくし立てていたが、気の弱いおれはおとなしく飯を食っていた。まったく作家というのは怖ろしい人種である。それに比べて、書評家は表裏のない紳士ばかりだ。もっとも喜多さんは童話作家でもあり、蛮族の世界に片足を突っ込んでいるせいか、小林さんや野尻さんの悪逆非道を絵に描いたような話に嬉々として聞き入っていた。くわばらくわばら。

◆「活字消失 〜 印刷と出版の未来」[出演:中西秀彦中西印刷取締役)、大森望(翻訳家)、小浜徹也(東京創元社)、志村弘之(欧文印刷)、司会:岡田英之(京都大学SF研究会)]

 電子出版の話。電子出版などというと、デジタル・コンテンツのオンライン配信ばかりがクローズアップされがちだが、物体としての書籍の製作や流通、販売形態などでもデジタル革命は着々と進行しているのである。そちらのほうを忘れてはいけない。
 “ブック・オン・デマンド”を目指す「電子書籍コンソーシアム」の話が出たが、読書専用端末などというタコな発想に会場に幻滅の空気。おれは休憩時間に志村さんに見せてもらっていた“試作機”の実機が会場に回覧されたが、あれ見てみんなどう思ったんだろうね。遠慮会釈なく言うと、おれは「しおしおのぱー」という感想を持った。大森望さんもおっしゃっていたが、誰があんなものをわざわざ持ち歩いて本を読むものか。ベタのテキストなら、おれはいまだにHP200LXが便利だと思うが、そういう特殊なマシンへの個人的愛着は横へ置いておくとすれば、やっぱり主流はザウルスをはじめとするPDAでしょう。ああいうもので読めなければ、電子書籍など普及するわけがない。PDAを中心に周辺機器を組み合わせてゆくという発想とは逆に、もはや携帯電話やPHSこそがモバイル環境の“ハブ”だという議論すら出てきているのだから、人々があのような読書専用端末を持ち歩くよりも、携帯電話で“書籍”を読むようになる時代が来ると考えるほうが、よほど説得力があるとおれには思える。大丈夫か、電子書籍コンソーシアム。ま、専用端末用だけじゃなくて、パソコン用も出すらしいけどね。
 中西印刷取締役からは、“プリント・オン・デマンド”やオンライン・ジャーナルの話。プリント・オン・デマンドってのは、要するに、本の少量受注印刷ですね。静止画像で紹介された、ちょっと大ぶりのコピー機風の機械(って、まさにコピー機そのものなんだが)にデータをフィードすると、製本された状態で“本”がぼこっと出てくるのだそうである。同人誌を作る人は涎を垂らしていたにちがいない。実際には、少部数をきちんと製本する必要があるマニュアルなどの需要が見込めるという。なるほど。まあ、この類の機械がコンビニやらに設置される日もそう遠くないかもしれない。
 オンライン・ジャーナルのほうは、たまたま先日おれも恩恵を受けたばかりだ(99年10月18日の日記参照)。おれが取り寄せたキャサリン・アサロの論文は、まだデータ化されておらず紙のコピーが郵送されてきたわけだが、それでも十分便利であった。さまざまな論文が電子データ化され、ジャンルを超えてハイパーリンクで相互参照されれば、便利なことこのうえない。「ハイパーテキストってのは、もともとこういうふうに使うために考案されたもので(笑)」ってのは、中西取締役のおっしゃるとおり。おれが思うに、学術論文がインターネット上で不特定多数の人々にバラ売り(あるいは、無償提供)されるようになることは、人類の想像力/創造力に存外に大きなインパクトをもたらすはずだ。面白そうだから取り寄せてみようかなどというおれのような好事家は別として、市井には本職の学者はだしの知識・見識を持った“日曜学者”たちが大勢いる。実験などが必要ないリヴレスクな方法論と思索のみで研究できる分野であれば、市井の日曜学者たちにも、少なくとも文献の入手に関しては物理的なハンディキャップがなくなる。大学や研究機関に席を置いているという環境面だけで知的にも優位であると勘ちがいしているボンクラ学者がもしおれば(おるらしい)、日曜学者たちが彼らを凌ぐ業績を上げることも十二分にあり得るだろう。たとえば、キム・スタンリー・ロビンスンIcehenge の中でそのような未来を描いている。あるいは、分野によっては、こんな感じの会話が、職業学者と日曜学者とのあいだで交わされるようにならないともかぎらない――

「ちょっと待ってください、ニーマー教授」ここぞとばかり熱弁をふるう彼を私はさえぎった。「その分野におけるラハジャマティの研究についてはどうですか?」
 彼はぽかんとした顔で私を見つめた。「だれ?」
「ラハジャマティ。彼の論文は、タニダの酵素融合説――代謝経路を阻害している酵素の化学構造を変えるという考え方――を論駁しています」
 彼は眉をひそめた。「その論文の翻訳は何にのっていたかね?」
「まだ翻訳されてはいません。二、三日前にヒンズー精神病理学誌で読んだんです」

――『アルジャーノンに花束を』
(ダニエル・キイス、小尾芙佐訳、ダニエル・キイス文庫、早川書房)

◆「ヤングアダルト総括」[出演:喜多哲士(書評家)、三村美衣(書評家)、司会:仲澤誠(京都大学SF研究会)]

 いやあ、総括などと言われても、おれはヤングアダルトに疎いので、黙ってお勉強させていただくしかない。ヤングアダルトが嫌いなわけではないのだが、おれが「あ、面白いな、これ」と思ったヤングアダルト作品は、ネット上の評などを読んでいると、どうやらヤングアダルトとしては例外的と看做されているものが多いようなのである。ということは、ヤングアダルトのプロパー読者がヤングアダルトならではの面白さと認識している面白さがおれにはわかっていないということであり、まだまだ勉強が足りないのであろう。ゲームをしないのがいけないのだろうか。少なくとも、小野不由美十二国記を読んで「ヤングアダルトって面白いじゃん」などと言っていてはいけないらしいのである。おれも最近、それくらいの認識は持つに至った。進歩である。
 喜多哲士さんが、読者イラストのことを“似顔絵”と言って、爺い扱いされていらしたが、雑誌に送られてくる小説のキャラクターの絵は、おれも“似顔絵”だと思っていた。たぶん、そういう文脈で問われれば、おれもやはり“似顔絵”と言ってしまったと思う。むかしは、ああいうのは“にがおえコーナー”と言ったのだ。ねえ、喜多さん。だから、爺いなんだってか? ごもっとも。

◆「H2ロケット・レポート」[出演:笹本祐一(作家)、野尻抱介(作家)]

 なんか、直前になって決まった企画らしい。笹本さんが撮影なさったH-IIロケット8号機の打ち上げシーンのビデオが上映された。失敗するとわかっていても、カウントダウンにわくわくしてしまうのは不思議である。笹本さんと野尻さんが、「あそこはああで……」「おや、あそこはこうなってたんじゃ……」などと、まるで大学の同窓生が母校の建物について昔話をしているかのように語るのには感心する。指令破壊直後、野尻抱介さんの掲示板を、宇宙開発関係者や大手メーカ関係者などが go, ac, co ドメインで情報を求めてどどどどと見に来ていたらしく、まったく、あそこにゃ迂闊なことは書けんなと苦笑した。「あの人たちは、ふだん眼鏡っ娘の話とか読んでるんでしょうかね」と野尻さん。会場爆笑。
 あのロケットの失敗については、宇宙作家クラブから「H-IIロケット8号機打ち上げ失敗に向けた緊急アピール」が出ているので、宇宙開発やSFに興味のある方は読んでおこう。

 本会終わって、野尻さん、喜多さんや柏崎玲央奈さんほか数人とわらわらとからふね屋で夕食。夜の食事も出してるのね。からふね屋を出て合宿会場のさわやへ向かって歩いていると、信号待ちをしている人影に気づいて「おや? 倉阪さんでは?」と言う人あり。そのとおり、黒猫を連れ歩く倉阪鬼一郎さんであった。生身のご尊顔を拝するのは初めてである。おれはてっきり魔矢峰央かと思った。
 大広間にみなが集い、恒例のオープニング。プロとして紹介されるのはいまだに面映いけれども、いい挨拶が思い浮かばないので、ふと思いついて訊いてみた――「いい機会ですんで伺いたいんですが……みなさんはカレーライスを食べるとき――」まで言ったら、どっとウケた。こんなにたくさんの人が、このアホ日記を読んでくれているのかと涙がこみ上げてきそうになったがそこはぐっとこらえて、「ええと、カレーを右側に持ってくる人は、挙手願えますか?」と訊いてみると、おおお、やっぱりかなりの人がそうではないか。でも、三分の一もおらんかったような気がするぞ。ともあれ、みなさん、ご協力ありがとうございました。
 やがて「クイズ歳の差なんて」というどこかで聞いたような企画がはじまる。というか、まんまやがな。とはいえ、こういう企画がギャグとして成立するということは、それだけ日本のSFファン層が厚くなった証拠だ。そういうことにしておこう。大学SF研に所属するピチピチギャル(とは最近はおっさんしか言わんか)四人と、牧野修喜多哲士志村弘之水鏡子の老賢人たちの死闘である。牧野修さんは、ウケを狙っているのが気が狂ったのか摩訶不思議な回答で笑いを取る。さすがは伊達にギャルゲーをやっているわけではない水鏡子さんは、若者世代の問題に苦もなく正解を出し、尊敬の眼差しを集めていた。面白いのはギャルたちのほうである。約一名、どちらかというとおれたちに近いのではないかと思われるとくに名を秘すのだれいこさんもいたが、概ね信じられないような回答が出てきて仰天しつつ爆笑する。「ヒューゴー賞に名を残す“ヒューゴー”さんのフルネームを書け」という問題に、珍回答が続出。ロバート・ヒューゴーやらヒューゴー・ドゥ・ヒューゴーて誰やねん。出るだろうと思っていたヴィクトル・ヒューゴーが出なくて残念。のださんは、さすがに「ヒューゴー・があんずばっく」で一応正解。おれの隣にいた山岸真さんは、「おれがいままで書いてきたことはいったいなんだったんだ」と、袖で涙を拭っていた。おれがものの哀れに感じ入っていると、ギャルたちからトドメの一撃――「ネビュラさんの名前は?」 ああ、山岸さんのやってきたことはいったいなんだったのだろう。
 大広間のオープニングが終わって、おれは「ハードSFの面からイーガンについて語る部屋」へ。濃い濃い。菊池誠さん(物理)と志村弘之さん(数学)がリードし、グレッグ・イーガンをハードSF的に徹底解剖。とくに『順列都市』の“塵理論”に話題が集中した。本気なのか冗談なのかよくわからん詐欺みたいなところがイーガンの魅力であるというような話になったと思う。
 イーガン部屋が終わったので、途中から「むかしばなしの部屋(年寄りの部屋)」へ。おれは年齢的にはここで言う“年寄り”なのだが、むかしのファンダムの話はメジャーな商業誌で読んで「こういうことをしている人々がいるのだなあ」とおぼろげに知っている程度なので、たいへん勉強になった。ガイナックス取締役統括本部長、武田康廣さんが、そのむかしサダム・フセインに大恩を受けたことなど、貴重な話を聴く。
 そのあと、大広間でうだうだしていると、岡田靖史さんがやってきた。聞けば、ニ階のとある部屋で、古沢嘉通グルが美女弟子に囲まれて酒池肉林の宴を繰り広げているという。わくわくして行ってみると、なるほど、そのような背徳の光景が繰り広げられていた。美女弟子さんたちは、かなりできあがっていて、かしまし娘に弟子入りしたセーラー戦士のような感じであった。塩澤SFマガジン編集長、菊池誠・久美子夫妻、大野万紀さんに水鏡子さん、三村美衣さんもいらして、しばしあちこちに話が跳ぶ小説談義。酒も入っていて、あまりよく憶えていないが、「庄司薫はヤングアダルトか?」というおれの質問に対して(質問自体がそもそもヤングでないのである)、三村さんが「“赤頭巾”と“白鳥”はちょっとちがうが、“黒頭巾”や“青髭”はヤングアダルトに近いものがあるのでは」といったことをおっしゃり、おれの認識とぴったりだったのではなはだ驚いた。はて、おれはヤングアダルトなるものがわかっていないはずなのだが、まあいいや、酒の入っていないときにゆっくり考えよう、などと思っていると一時が近づいてきた。さて、いよいよ「リベンジ・オブ・マンガカルテット」がはじまるのだ。なにをどうリベンジするんだか――。

【11月19日(金)】
▼いやあ、やっぱり天然モノはちがうわ。昨日の晩から、カルト教団ライフスペース“グル”とやらのありがたいお話に大笑い。そうですか、食べなくても死にませんか血管に空気が流れていますか風呂に入らんでも臭くなりませんか。サイババが後継者であるはずのこのグルおやじのことを知らんのは、「サイババの勝手」だというのには、もうのたうちまわって笑う。なんか、こういうの見てると、開いた口が塞がらない以前に、「シアワセそうでよろしいなあ」と、かすかな羨望を覚えてしまう。直接間接に人を何人も殺しておいてシアワセになられてはたまらんのだが、こういう人物って、存外にたくさんいそうな気がする。いや、ご存じの方はご存じでありましょうが、ここ半年ばかり、あちこちのウェブ掲示板で、いわば“ひとりライフスペース”をやっている御仁がおって(掲示板荒らしの傍ら、国家公務員を兼業しているらしい)巷で酒の肴になっているのだが、このグルおやじとその信者(?)の言い草や奇天烈な論理や言い逃れが、そやつにそっくりなのである。タイミングがよすぎて、相剰効果で両方とも二百五十六倍笑える。そんなおもろい見世物があるならぜひ見物したいという方は、「こだまのあとだま」および「こだまのあとだま研究所」というサイト(この怪人物をみなで笑いものにしながら研究するというすごいサイトだ)からたどってゆけば、おのずと楽しみかたがわかってくるはずだ。初めての人は、この人物の乱行の軌跡をたどってゆくだけで、優にひと月は楽しめると思う。でも、あのグルおやじに比べれば、まだ狂いかたのスケールは小さいかな。

【11月18日(木)】
「デカンショ、デカンショで半年クランシー、あとの半年ゃアン・ライス」などという意味不明のフレーズが浮かんでしまう。それにしても、どういう読書生活を送ってるんだろうね、この人は。
『飛翔せよ、閃光の虚空(そら)へ!』キャサリン・アサロ、中原尚哉訳、解説・冬樹蛉、ハヤカワ文庫SF)が送られてきた。腰巻を一瞥して一瞬唖然とし、大爆笑。あめあめあめあなたもう寝ましょうよ、じゃなくて、あめあめ「アメリカ版《星界の紋章》登場!」って、ハヤカワさん、“売り”に入ってますねー。本を裏返して二度びっくり。腰巻におれの解説の文章が名前入りで使われているではないか。てっきり、欧米の著名な評論家や作家の評が引用されるのだろうと思っていたため、思わず本を取り落としそうになる。こ、こんなことしてええんですか、ハヤカワさん。おれの名前なんぞ出しても、なんの権威もありませんぞ。
 山下しゅんや氏の表紙イラスト、いいですなあ。いやべつに《星界の紋章》シリーズの赤井孝美氏が悪いとは言わないが、『飛翔せよ……』のほうは、いい歳をしたおっさんおばはんにも手に取りやすい。やはりイラストレータの画風には、内容と照らして向き不向きというものがある。『飛翔せよ……』の主人公である美女軍人は、なにを隠そう、なにも隠していないが、「もうすぐ四十八歳」なのだ。岡崎友紀もびっくりである(わっかるかなー)。サイボーグなのでやたら若く見えるという設定だから、このイラストくらいでちょうどよろしかろう。腰から尻にかけてのラインがじつによろしい。キャサリン・アサロの著者近影もいい。ちょっと垢抜けないケイト・ブッシュみたいだ。
 で、肝心の内容はどうなんだって? それは書店で解説を読んでくださいよ。この作品に関しては、おれはもう仕事を離れて萌えている。といっても、べつに“キャラ萌え”をしているわけではなく、アサロの“いけしゃあしゃあぶり”に萌えているのだ。もちろん、解説を読んだあとはレジへ持っていってね。

【11月17日(水)】
▼おかげさまで、本日、「[間歇日記]世界Aの始末書」のカウンタが、三十万を突破した。ご愛読くださっているみなさま、ありがとうございます。
 三十万というのは、なんとなくキリがいい。が一キロメートル進むごとになぜか「1」上がるようになっているカウンタを作ったとすると、三十万カウントにするためには約一秒を要するのだ。のべ人数とはいえ、こう考えてみると、なかなかすごいものがある。最近更新ペースが乱れているが、ようやく少しは落ち着いたので、まだまだしぶとくがんばるつもりだ。これからもよろしく。

【11月16日(火)】
▼なんだか知らないが、最近あちこちに浜崎あゆみが歩いている。「ちょっと基本設計は似ているかしら?」などと自分のことをまんざらでもなく思っている若いコが、似せる方向に化粧をしたり、服をコーディネートしたりするからだろう。なるほど、よく見ると、栗本慎一郎中野浩一に似ている程度にまで似せることに成功しているコがいないでもない。まあ、おれも浜崎あゆみは嫌いじゃないんだけども。少なくとも、華原朋美よりは数段歌はうまい。歌もうまいのだが、浜崎あゆみの普段のしゃべり声は、声フェチ的にはけっこうクるものがあるなあ。ヘリウムでも吸ってないか? どことなくカエルみたいなしゃべりかたである(カエルがしゃべっているのを聞いたことはないが……)。
 それはともかく、LYCOS Japan「トリケラトプス」と入力してみたくなる今日このごろではある。実際にやってみると、「LYCOS TVコマーシャル NOW ON AIR!」というページへのリンクが、特別枠で表示されるようになっているのはさすがと言えよう。

【11月15日(月)】
先日Time after Time に続いて、またもやCM音楽の話である。おれと同世代のやつが広告会社の一線で発案してるんだろうか、いちいち懐かしい八十年代ポップスがまたもや使われている(まあ、さらにむかしのドアーズ使ってる証券会社もあったりするけど)。最近、またもや YesOwner of a Lonely Heart が自動車のCMで流れてますなあ。CMに使われたのは一度や二度じゃないような気がするんだが、まだやるか。たしかに名曲だしね。耳に胼胝ができるほど聴いてきた。しかし、驚いたことに、おれは今日、この歌の真の意味にいまごろ気がついたのだった。グレッグ・イーガンのおかげだ。そうか、そうだったのか。これは量子力学の歌だったのだ! どうしていままでわからなかったのだろう。You always live your life never thinking of the future だの You are the move you make だの You are the steps you take だの You're every move you make だのと、あきらかに量子論的な世界認識が盛り込まれているではないか。しかも、Give your free will a chance ですぞ。イーガンは、きっとこの歌をヒントに『宇宙消失』(山岸真訳、創元SF文庫)を書いたのにちがいない。おおお、聴き慣れた歌からも、いまだに発見がある。やはり人間、なにごとにも慣れてしまってはいけないな。うんうん。

【11月14日(日)】
▼たまに肝油ドロップを嘗める。食卓の上に置いてあるのだ。肝油ドロップといえば、なぜか「カワイ肝油ドロップ」しか思い浮かばないのだが、いったいどのくらいのシェアがあるものなのだろう。
 おれたちの小学生のころには、学校で肝油ドロップが配られ、強制的に食わされたものだ。現在の「カワイ肝油ドロップ」は白くて円盤状をしているが、当時、小学生のあいだで「かんゆ」といったら、褐色のラグビーボールのような形状のものと相場が決まっていた。けっこう、うまかったように思う。おれは好きだったね。そのころは、ほんとうに鯨油で作っていたのだろう。なんであんなものを学校で食わされたのかいまひとつよくわからないのだが、今風に言う“サプリメント”だったんでしょうな。
 小学校で口にしたヘンなものというと、必ず肝油とセットになって思い出されるのが、“うがい薬”である。給食の前に当番が保健室だかに青紫色の液体が入ったやかんを取りにゆき、その奇ッ怪な液体でうがいをしてからでないと給食を食べてはならなかった。コップに注ぐと、じつに毒々しい色合いである。どう見てもアメフラシの体液だ。いったいあれは、なんという薬品だったのだろう? 先生に訊いておけばよかったな。
 小学校で口にしたヘンなもののきわめつけは、やはりアレだろうなあ……。授業中に突然保健所から来たという男が現われて、いまから全員に虫下しを飲んでもらわねばならない、強い薬なので一斉に飲み下すようにと命じ、先生やクラスのみんなは男の指示通りに飲んでいたが、ヘンな臭いがしたのでおれはちょっぴり嘗めてためらっていた。しばらくすると、みんながあちこちでのたうちまわりはじめ、先生などなにやら緑色のどろどろを吐いて静かになっていた。虫が下ったのだろうか。みんな寝てしまい、いっこうに起きる気配がないので、おれはつまらなくなってそのまま家に帰った。翌日、みんななにごともなかったかのように登校してきたが、先生が教科書の昨日やったところをまるで初めてのようにして教えはじめたので、ヘンだなあと思ったのだが、みんなはヘンだと思っていないようだった。まあいいやと思い授業を受けていると、突然先生が同じ文章を何度も何度も繰り返しはじめ、やがてぼんっと言って倒れてしまった。口から歯車が飛び出して、床をころころと転がった。おれはその歯車をこっそり拾ってポケットに入れた。その日の帰り道、夕暮れの竹薮の中で紅い着物の小さな女の子がしくしく泣いていたので、どうしたのと尋ねると、女の子は三つの目でおれを上目遣いに見上げながら「返して」と言うので、おれはきっとこれのことだと思い歯車を返したら、女の子は「かむいてほーい、てらてーらけっそんそん、やまくうて、そ」などと唄いながら竹薮の奥へと消えた。いったい、あれはなんだったんだろう? まあ、子供のころにはいろいろなことがあるもので、みなさんもひとつやふたつはこういう思い出をお持ちにちがいない。

【11月13日(土)】
▼ひどい偏頭痛に悩まされ、終日寝たり起きたりする。安心して京都SFフェスティバルに行くには、〈SFオンライン〉の原稿を今日明日のうちに書いておかねばならない。夕食のころには多少ましになったので、本格的に活動を開始。なにがどう本格的なのかよくわからないが、「カレーはどっちだ?」問題特集は、まだ先のことになりそうである。ごめんなさい。
『世界の究極理論は存在するか 多宇宙理論から見た生命、進化、時間』(デイヴィッド・ドイッチュ、林一訳、朝日新聞社)を読みはじめる。ネットのあちこちで話題になっていて、なんだか面白そうな本だ。これについてなにか書けなどという仕事が来たりするはずがないので、気楽に楽しめる。科学を商売にしなくてよかった。もっとも、商売にする能力がないけどね、そもそも。
 思い返してみると、おれの子供のころには、科学者という職業はけっこう人気があったような気がする。「将来、なにになりたい?」と訊かれて、「科学者になりたい」と答えていた子供はかなりいたぞ。おれも子供のころは、科学者になりたいと思っていた。そりゃあそうだ、悪い宇宙人やら怪獣やらが襲ってきたり怪現象がみなを苦しめたりしているところへ颯爽とドラマの文脈を無視してなぜか場ちがいな白衣を着て現われては、たちまちそれらしい説明をして解決策を提示してくれるのが科学者なのである。なんだかヘンな人だが、なんとなくかっこいいと子供が思っても不思議はなかろう。「心やさし」「科学の子」とがなんの違和感もなく連続していた時代の話である。やがて、「心を忘れた科学にはしあわせ求める夢がない」などと同じ手塚アニメのテーマソングでも唄われるようになり(『ミクロイドS』)、いまや、科学的であることが浅薄であることと同義に捉えられているとしか思えない言説にも多々遭遇する。嘆かわしいことである。「理屈でうまく行くものか」などと、懸命に理屈を考えている人々を敵視する輩がよくいるが、じゃあ、むちゃくちゃにやったらうまく行くのか? 空中浮揚ができる人についていったらうまく行くのか?
 “心”“科学”とは、もともとちがうレベルにあるものなのに、同じレベルでの対義語であるかのように、一方に与すればもう一方が失われるかのように誘導するやつらがいる。こういうペテン師どもにはくれぐれも気をつけたいと思う今日このごろである。子供たちに円周率を“およそ3”と教えれば、小数点以下のぶんだけ心が豊かになると考えているとしか思えない不思議な人たちもいるみたいだから、わが子を阿呆にしたくなければ自衛するしかないよ、ほんと。

【11月12日(金)】
▼おっと、検索エンジンの goo がいつのまにやら模様替えしていた。以前に、goo は“蛉”という文字を認識しないとぼやいたのをご記憶であろうか。「冬樹蛉」で検索しても、ヒット数はいつも0件なのである。その後も、こっそり仕様が改まるのではないかと、ときおり試してみていたのだが、いっこうに認識する気配はなかったのだった。今回の模様替えはかなり大がかりだから、もしやと思い「冬樹蛉」で検索してみたら、おお、ジョン! じゃない、ポール! じゃない、ジョージ! じゃない、リンゴ! じゃない、ビンゴ!(長い道のりだ) ちゃんと「冬樹蛉」を認識するではないか! よろしい、これで goo の致命的な欠陥は改善されたと言ってよいだろう。

【11月11日(木)】
▼JRの旅客販売総合システム「マルス305」が全国でダウン。今日が「1」のゾロ目の日だというのがなんらかの原因ではあるまいかと取り沙汰されているが、詳しいことはよくわからない。
 ひとつだけたしかにわかるのは、いまごろノストラダムスのビリーバーがどこかで鬼の首を取ったように騒いで、わけのわからない理屈をでっち上げているであろうことだけである。ポッキーとはなにか関係があるのだろうか。
▼大阪で自動販売機からハンガリー硬貨の変造硬貨が見つかったそうな。“フォリント”なんて通貨単位、言われてもわからんぞ。お部屋探しにでも使うのか。それにしても、いつも思うのだが、自動販売機を騙せるところまでに外国の硬貨を削るのに、どのくらいの手間が必要なのだろう? 今回見つかった五十フォリント硬貨は、円にすれば十五円相当だそうだから、それが五百円硬貨として使えれば、儲けは四百八十五円である。つまり、変造作業の原価に四百八十五円以上かけると損をするのだ。一個あたり二、三分でできてしまうのならともかく、四十分も五十分もかけておるのなら、そこいらの食堂で皿洗いのバイトでもしていたほうがお得なのではあるまいか。すっかり自動化・機械化されていて一個十秒くらいで作れてしまうのだとすると、一時間で十七万四千六百円の儲けになる。八時間で百三十九万六千八百円だ。これを二十日続けると、二千七百九十三万六千円。おお、なるほど、おいしい仕事にはちがいない。やったらあかんぞ。


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