学問.教育その他

材を尽くす

学校の成績の善し悪しや世間での出身校の評価で何とかやっていける職業は大学の先生くらいなものです。大学の先生でもやはり仕事の面で妥協せずに苦労して、暗闇の中で苦しみながら道を開拓した方だけが高い峰に立たれるのです。よくNHKのスタジオパークも見ますが、登場される方はいずれもある意味で人生に成功された方です。その方達の最大公約数といったものを考えてみると、苦労しながらも、ひたすら自分の人生を迷わず、逃げず、真剣に取り組んで生きてこられた方ばかりといっても良いようです。毎日の人生を愛し、真剣に生きる中で鍛えられ、一回り大きい人間に到達された方たちです。柔軟に考え、頑固でなく他人から学び、軌道修正を絶えずできることも大事です。柔軟に考えること、軌道修正をすることと現実の人生で妥協することとは別のことです。振り返ってみて、私は自分の気持ちを曲げて妥協したことはありませんが悔いはありません。さて、学校が人生を決めるとしたら、どうして平安時代に紫式部が現れ、江戸時代に近松門左衛門井原西鶴、また関孝和伊能忠敬平賀源内が現れたのでしょうか。わたしたちは学問・教育の視点の置き場所を誤ってはならないと思います。

人間は生まれながらにその人独自の才能を持って生まれてきているようです。この才能を生かさなければなりません。学校で勉強している期間と言うのは、この才能を見いだすための試行錯誤の期間だと思います。また学校は将来自分の才能を自分並みに生かすときに必要な基礎的な知識を教えてくれるところなのでしょう。基礎知識の習得は大事ですがそれが究極の目的ではありません。自分のもって生まれた感性を大事に持ち続けて、いつの日かそれを開花させるのが究極の目的です。その時に必要な基礎的なものを学校で得ておくことは必要です。学校がもし学生・生徒のもって生まれた感性や独自性を壊すならそのような学校は不要です。まして学校は型にはまった国民を作るところでもありません。人の個性を発揮させるための試行をさせ、個性発揮のために必要な読み書き・数処理の能力を持たせ、理性成育の訓練場でなければなりません。その人が将来本来の個性に応じた独自の世界を展開することを助けるところでなければなりません。

"艱難(かんなん)(なんじ)を玉にす"

"Per ardua ad astra"(逆境を越えて栄光へ) per ardua ad astra
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私が父に一番感謝しているのは、子供の時から父は一度も勉強せよとは言わず、私が何を志すかは全く好きなようにさせてくれたことです。そして私のする事には最大限の援助をし、協力してくれました。父は笹屋町にあった中喜商店京都支店の支配人をしていましたが、この店はビロードの仲買商でした。戦争中に統制令で廃業になり、父の病気もあって、終戦時は全くの失業状態でした(当時は今と違って失業補償など全くないのです)。母は終戦の少し前1月11日に胃潰瘍で亡くなりました。吐血以来わずか1週間の出来事でした。若い医者はすべて戦争に動員され、薬など望むべくもありませんでした。
残された私たちは明日からの食べる米もなくなり、お金もなくなって、私と妹の懇願を入れて父は古い乳母車に米ぬかを主材料としてみんなで作った手製のパンを乗せて、出町柳の闇市に売りに行ってくれました。その日の売上金で米ぬかやメリケン粉を仕入れて三人一緒に明日売りに行くパンをつくりました。当時私は三高生でしたが、物理の本がほしく、父は乳母車に”吉田宇三郎著「物理学」上・下二巻買います”と書いたビラを貼ってくれました。当時は結構こういうところでも本の売買が成立したもので手に入りました。学校で作られたガリ版刷りの教科書とこの2冊で勉強しました。親戚のものはそんなに生活に困るのなら、私に学校を辞めさせて働かせてはという人もあったのですが、一言も父はそのことを私の耳には入れませんでした。

わたしが何故勉強しようとしたのか?今振り返ってみますと、一番大きいのは父の失業でした。米相場投機で倒産した祖父の家に育った父は、小学校4年(父は明治31年生まれでしたから当時の義務教育は小学校4年でした)の学歴で中喜商店に丁稚奉公し、多年の修業の後次第に店での地位も上がっていったのでしたが、戦争で一端廃業になると社会に広く通じるライセンスはなく、中喜商店でしか通じないキャリヤーでした。それを見たわたしは体も弱かったので、とても肉体労働には耐えられないと思っていたものですから、これはやはり頭をフルに使って勉強し、社会のどこにも通じるライセンスは取らなければ駄目だと決心したものです。現在リストラの風が吹きまくっていますが、これまでの終身雇用の人事制度の下、会社人間であった人達の多くは、やはり社会のどこでも通じるライセンスを蓄えておられなかったのではないでしょうか。

私も自分の子供達にどこの学校へ進学せよとか、どの会社に就職せよとか、どういう人と結婚せよとかといった指示めいたものは今日まで一切してきませんでした。思うに家の親父は何も誘導してくれないのだと幼いときから感じていると、自分で自分の道を捜し、造っていかなければどうにもならないと自覚させる効果があるように思います。しかもその自分の道への進撃については親父は最大限に後援してくれると思っていますから、安心してはおられるのです。これでは文句があっても自分に問いただす他はないのです。これが私が父から得た一つの方針なのです。いまはもうソンナ時代じゃないと考える人もおられるでしょうが、私はいまも通じる方針だと思っています。

それはさておき、私は高校から大学に入るのに2年間浪人の経験があります。この間、朝から晩までビロードの“切り”という仕事をしていました。これは喰うための仕事でした(月収2万2千円、大学を出て大津東高校(膳所高校)に就職したら、サラリーは8,600円でした)。しかしそれ以上にこのビロード切りという仕事は、その後の私の生き方に大きい影響を与えています。ビロード一本というのは長さが二丈(約6メートル)あります。これを一日二本は切っていました。ビロードというのは横糸と一緒にステンレス或いは上等のものは銅の直径1ミリほどの針金を、一本あたり約二万本入れて織り上げてあります。この針金の正に真上を細い独特の鞘(holder)に入れた小刀で、針金を覆っている縦糸を正確に横断するように切って針金を取り出すのです。そうしますと切られた短い縦糸がたち上がって毛の様になるのです。大事なことは真上を正確に一本一本順を追って根気よく切り出していくことなのです。この仕事では手抜きも、途中を飛ばすこともできないのです。ゴールに到達しようとすれば根気よく順を追ってやるしかないことを十分思い知らされました。2003年阪神タイガースは優勝に向かって驀進していますが、星野監督のモットーは「目の前の試合一つ一つを大切に」のようです。これは私がビロードの“切り”から学んだことと合致します。(“ものの考え方”からここへ立ち寄られた方が戻られるときはクリックしてください。HOME)

その合間をみて受験勉強はしていましたが、何故浪人せねばならなかったかを反省するとき、次のようなことを思います。受験失敗の最大の理由は、私には記憶力が強いという自信があったことです。中学時代の試験ではすべて試験範囲の授業内容を暗記でき、試験場でもその内容がすっと手繰り出せたのです。こうして暗記で試験を乗り越えてきましたが、さすがに範囲が広く、問題も総合化されている大学入試ではそういうやり方では通用しなくなったためです。浪人一年目は復習して相変わらず覚えましたが、さて入試に臨んで試験の答案用紙が配られると、頭の中が真っ白になって、頭の引き出しから自由に答えが出てこないのです。頭の引き出しの中を探している内にどんどん時間が過ぎていくのです。そこで二年目はすっかり勉強方法を変えました。一通り高校で習ったことを読み返した後は、もっぱら過去の入試問題に取り組みました。いきなり解けないときは、この問題を解くのに必要な部分だけ教科書を読み返しました。こうしますと、大事な教科内容は問題にも度々取り上げられていますから、教科書の一頁に書いてあることにも自ずと軽重があり、どうでもよくて憶えなくてもよい一頁と、すごく大事で百頁にも匹敵する一頁があることがわかりました。こうして大事な点をハッキリさせ、そういう知識を相撲番付のような平板なものではなく、知識の網の目に仕立て上げていきます。そうです、まるでインターネットのように網の目が一つ破れても別の目からアプローチできるように仕立てるのです。自分の頭の中にネットワークを構築するのです。そういう苦闘を通じて、私自身、開眼した思いがあります。最後にはこれだけ答案を書いたのに、また落ちるなら世の中にはよほど賢い人がいるのだから、私が落ちても悔いはないと思うようになっていました。そういう心境になる時は、いくら入試の倍率が高くても合格しているものです。(私の経験した中で一番倍率が高かったのは、旧制最後の阪大工学部応用化学科で14倍強でした。それでも合格しました。でも当時工学部は枚方にあり、交通費がいるので京大理学部に入りました。私のような他人におべっかの言えない性格のものには、当時就職しやすかったという理由で選んだ工学部よりも、純粋さという点で理学部が良かったと思っています。)根本的には入試倍率というものは気にかける必要はありません。ギリギリ一杯の困難を前にして、それを乗り越えようと思って、自分のしていることに集中するとき、人間は自ずと開眼するようです。学問分野であれスポーツ・芸術の分野であれ、何によらずこういう開眼の体験を一度でよろしいから、人生のどこかのステージで持つことができたかどうかが、その後の人生なり、ものを見る目という点で、すごく大切に思います。いま考えていること 4(1998年5月)−− 遺伝子を呼び覚ませ−−も参考になるでしょう。

私自身にこういう経験があるものですから、次男が浪人をして1年が過ぎ受験するときも、「何やったらもう1年浪人してもよいよ」といってやりました。次男答えて曰く「1年でたくさんや!」。

救急救命士が気管内挿管をして多くの人たちの命を救ってきましたが、最近この措置は医師法違反だと言うことで問題になっています。反対は日本医師会がもっとも強く、厚生省もしかりです。私は長く有機化学を研究し、研究に必要な多くの薬品の合成もしてきましたが、何か必要な薬品を意のままに合成しようとすれば少なくとも10年の合成キャリヤーが必要と思っています。ちか頃の若い人たちの中には売っている薬品だけで仕事をしようとする人もいますが、系統的に構造を変えた物質を使って反応機構の研究をしようとすると系列の中には売っていない物も多く、その試薬は自分で合成しなければ研究そのものができないのです。合成の能力は学位を持っているか否かという問題ではなくて、正に日頃の職人的経験の蓄積の問題なのです。医者にかかるときにも経験の不足を恐れて私は40歳以下の医師は信用していません。人生すべて繰り返して築き上げた職人的修練の価値を考えなくてはなりません。肩書きや試験で得た資格の問題ではないのです。気管内挿管にしても数多くの経験をした救急救命士の方が、経験の乏しい医師よりも信頼できるに違いありません。インターン時代はともかくその後は注射一つでも看護師さんに委ねる医師が多く、技術的にも注射や導尿管挿入、マーゲンゾンデ挿入など経験を積んだ看護師さんの方が上だというケースも多いのです。くどいようですが教育の中にも繰り返して築き上げた職人的修練の価値を大事にする訓練が必要です。このことを大切にする人間を育てなければなりません。職人的修練の中で自ずといわゆる“勘”が働くようになって予期せぬ出来事が起こっても対応できるようになります。コンピューターとのつきあいにも同じことを感じています。

ソクラテスは優れた教育者でしたが、何でもソクラテスのおかあさんは産婆さんだったそうです。ソクラテスはそのせいか産婆は人が子供を産むのを助けられるが自分が産むのではない、教育も同じだといっていたそうです。私も長く教職に携わりましたが、結論としては教師は産婆だと思います。

私の卒業した小学校は、創立100周年の記念式典の引き出物に、「人の材を盡くす」という文字を書いた扇子を配りました(前掲写真)。これは内藤(虎次郎)湖南先生の書ですが、先生自身、秋田師範学校卒業という学歴でありながら、新聞記者体験を経て、京大の東洋史学教授になられ、一世を風靡した“内藤史学”を確立されたすごい方でした。私はこの言葉が好きです。"人の持っている才能をフルに開花させる”、これこそ教育の本道です。私の長年の経験からも、教育は何かその人が本来持っていなかったものを与えることはできず、その人が本来持っていた才能を引き出すことができるだけです。すぐれた佛師は木の中に潜んでいる仏の姿を感じ、それを掘り出すので、自分で彫刻するのではないといわれますが、教育もこれに似たところがあります。educateというのは英語の教育するという意味の言葉ですが、辞書を引くと潜在能力を表に持ち出す試み(attempting to bring out latent capabilities: Webster's Seventh New Collegiate Dictionary)と書いてあります。具体的にこれがどういうものか味わえるよい例があります。それはNHKの番組(総合日曜8:35〜9:00[近畿13:35〜14:00・・・よく変更があります]、またはBS2水曜日11:00〜11:25)“ようこそ先輩”です。時には詰まらぬものもありますが、大抵登場する先輩達は後輩に何かを押し付けるのではなく、後輩達を刺激してその心の中に眠っていたもを呼び覚まし、表に引き出す試みを共同でしています。生き生きとした表情を取り戻していく子供達の行動を見ていると、これこそ教育だと思わせてくれるよいお手本です。教師として必要で大切なのは教育のテクニックではなくて、そういう潜在能力を発見し、十分に発揮させるように引き出す才能です。よく考えてみると、こういう温かい親や先生の庇護を受けながら、最後、結局は自分の能力を引き出すのは自分なのかも知れません。いろいろ試みて、失敗も重ね、あちこちに頭をぶつけている内に、自分というものが明らかになっていくのかも知れません。こういう自分探しの試みにとって、一番必要なのは自由な環境なのでしょう。家でも学校でも監視され、締め付けられているような環境では、自分の才能を発見することはできないでしょう。なぜなら、そういう締め付けに対して自分を防衛するだけで、エネルギーを消耗してしまうからです。昔の三高が懐かしく思い起こされるのは、このためかも知れません。三高はなくなりましたが、今だってそういう気風の学校はありましょうし、家庭にそういう空気を作ることはできるはずです。

2009年3月31日、NHK番組プロフェッショナルのテーマは"人を育てる、安全基地"でした。親や上司、会社に人を育てるために必要なのは「安全基地」を提供することであり、次の4点だというのです。私も全く同感です。1.やりたいことをやらせる。脳の中の自発性の回路を目覚めさせ、尊重する。2.欠点は全て受け入れる。3.応援団に徹する。4.困った時こそ手助けする。子供や部下はいざとなれば逃れる場所があることをより所としながら自分の能力を開花させる。これがはじめに掲げた「人の材を尽くす」には必要なのです。

長男は大学の法学部を出ましたが、就職先については何も親である私に相談することもなく北海道新聞社を受験して合格、十数年記者として道内各地に勤務していました。元々音楽が好きでBernsteinが始めたPan-pacific Music Festival(PMF)に関係していましたが、社の都合で他の部門を担当しなければならない時期を迎えて、あっさりと退職。京都に戻って来まして、京都市立芸術大学大学院に入学、音楽社会学の龍村教授に師事しました。思うに本当に自分が一生を賭けてやりたいことが発見できた20代と30代だったのではないかと推測しています。 若いうちは精神の放浪の時期でもあります。自分の道を発見できたのならば、本人にとって幸いな開眼であったと喜んでいます。長男の家族にとっては大変なことでしたが。

戦後50年、特に近時日本の政治の最大の罪悪は、軍官に権力を集中していた戦争中の国家社会主義ともいうべき路線を精算する時期の判断を誤り、銀行や農業に代表される護送船団方式といわれる保護を、官の独占的な権力のもとでしてきたことです。この結果これらの分野は自分で独創的なアイディアを働かせる必要がなく、ぬくぬくと過ごしてきました。行き着いたところが今日の姿です。子供を育てる上で一番考えなければならないのはこの事です。あまり保護しすぎては駄目にしてしまいます。私は教職にあったときいつも学生に「学生である内にいろいろ試みて失敗しなさい。学生の内はもう一度新規にやり直しすることができます。学校はそれを赦します。社会に出てから失敗すると、それは命取りになりかねません」と語っていました。親の保護はこの学校の役割に似ています。私の教えた学生・生徒の中にも問題を起こす人がいました。その大部分のケースは検討すると、本人も被害者なのだなあという結論に達しました。それはいくら失敗したり悪いことをしても、その後始末は小さいときから親、中でも母親が全部してくれていたのです。簡単に言えば自立するように育てられていなかったのです。親の温かい愛情は必要です。しかし、それは甘さでは無いのです。子供が自分で考え、判断し独りで道を歩けるように教育しなければなりません。動物の世界でいえばある時期に立派に「巣立ち」ができるように育てなければなりません。
初めての子供、長女がまだよちよち歩き程度しかできなかった頃、家内と三人で出かけたのですが、娘がつまずいて転んでしまいました。家内がすぐに助け起こそうとしましたが私は「子供には独りで立つ力があるのやから、放っておきなさい」と言いました。これが私の子供教育の原点です。三人ともそれぞれに自分で選んだ道を闊歩しています。

大鵬親方は相撲協会の定年を目前にして、テレビの実況解説をされる傍ら、アナウンサーの求めに応じて現在の力士についての感想も披瀝されていました(2005年5月15日)。もっとも強調されていたのは弛まぬ稽古で取り口を自分の身につけることと、ウエイトトレーニングで筋肉を鍛えても相撲に必要な筋肉はまた違うのだから昔ながらの「テッポウ」と「四股」をしなければ駄目だということでした。わたしは有機化学反応機構の研究をしていましたが、薬品を系統的に取り上げてその反応を一つずつ抑えてその結果一つの理論を組み立てるのです。系統に属していて反応を検討することが必要でも不安定であったりして市販されていない薬品もあります。その時は時間が掛かっても基本に戻って自分で合成するのです。化学は先ず物質を作ることができなくてはなりません。薬品合成は職人技とも言うべき技術と地道な根気の要る仕事ですから、近頃の若い学生には、研究の能率化のことを考えて、手間の掛かる合成を避け市販の薬品で済ますことが出来る研究テーマしか着手しない風潮がないとはいえないのですが、嘆かわしいことです。

マルクスは独学こそ基本であり、「学問の道に王道なし」と言っています。私を教えて下さった先生方は基礎の学習の大切さを強調されました。中学校一年で国文法を習った大塚五郎先生は授業の一番はじめに「これから教えることは全然面白くないことです」といわれ、生徒の御機嫌を取るような言葉は聞かれませんでした。それで初めから面白くなくてもやらなければ仕方がないと覚悟したものです。基礎の勉強は面白くなくても、自分で必死で学習するしかありません。浪人生活中に、もう一度高校で習ったことを徹底的に復習したことは、大きな自信に繋がりましたし、その後の学習の基礎になりました。基礎が確実になっておれば、極端に言えば興味の赴くままに、いくらでも独習し、伸びることが可能です。子供たちは誰も塾へも行かせず、個人的な指導も受けさせませんでした。それは頭をぶつけながらも、自分で学習を克服する力を持ってほしかったからです。それができなければ素質がないのですから、進学しなくても良いと思っていました。最近のラジオで、子供達の一番の悩みは勉強の仕方がわからないということで、これに合わせて勉強の仕方を教えようではないかという文科省筋の動きが見られます。私は一人一人の子供の本来の素質が違うのだから、適した勉強の仕方も一人一人異なるもので誰にも通用する一般的な勉強法などないと思っています。一人一人が失敗し、頭をぶつけながら、もがきながら勉強している内に自分に合った勉強法が分かってくるのです。一度自分に適した勉強法が呑みこめればこれは一生の財産になります。
暗記について一言。わたしの経験では英語の単語一つ覚えるのでも、頭でだけ必死に暗記するよりも人間には五感が備わっているのですから、この機関をすべて動員するのがこつだと思います。まず手を使って書くことです。書きまくるのです。その時に口に出して言いながら自分の耳にもいま覚えていることを聞かせて印象づけるのです。これで手、口、耳、眼の四つを動員して頭に送り込むことができるのです。

つっかい棒で支えに支えて一流の大学に進学させたとしても、素質と、学問についての情熱がなければ、その後自分の能力を発揮する事はないでしょう。無理な梃子入れはむしろ情熱を萎えさせてしまいかねません。大切なことは学ぶことを愛する習慣であり、対象に興味を深く抱く習慣です。初等教育段階で大切なことはまず対象をじっくり観察し、不思議に思ったことは、なおざりにせずに調べたり、考えたりすることを励ますことです。極端かも知れませんが、小学校段階では読み書きと算数の基礎に重点を置き、本の上だけの理科や社会は教えなくても良いと思っています。自分の目で自然を見つめ、子供なりの発見をすることこそ理科なのです。”好きこそモノの上手なれ”は永遠の真理です。好きなことを見出させることができればよいのです。紙の上の知識を頭に詰め込むことは有害です。本を読み過ぎて知識が過剰になると、先が分かったような気になって何によらず、自分でチャレンジする気を殺いでしまいます。秀才からは新しいアイデアは先ず生まれないものです。独創性が必要な分野では、若い向こう見ずの魂から新しいアイデアが生まれるのです。あまりものを知らないからこそ囚われない自由な発想が可能になり、自分は何も分かっていないという自覚が、物事に対して向こう見ずとでもいうような積極性を呼び、多くの独創的なアイデアを生み出すのです。問題にぶつかってから、参考に本を読めばよいのです。所詮、本はこれまでに分かったことの記録に過ぎないことをお忘れなく。本を読みすぎるよりも、先ず対象に自分の初々(ウイウイ)しい頭で先例に捕らわれることなくぶつかって、自由に、必死にアイデアをめぐらせることが学習の第一歩です。生意気にもこのようなことを自信を持って申し上げるのは私自身が畏友丸山先生の指導から教わったことなのです。どのように教わったか具体的に“ものの考え方”に書いておきました。どうかご覧下さい。もう一つのよい例が先に触れた"ようこそ先輩”シリーズ(総合日曜8:35〜9:00[近畿13:35〜14:00・・・よく変更があります]、またはBS2水曜日11:00〜11:25)です。本を読んだりしないで、子供たちにまず生き生きと行動させています。そして適切なアドバイスをします。子供に自信を持たせ、発見させています。どの番組でもその指導方法はユニークで、打たれます。「先輩」の生きたチエが濃縮されていて、創造への優れた手引きです。教師の免許更新が俎上に上っていますが、文科省は何を考えているのでしょう。教育はテクニックの問題ではありません。私も子供が小さかった時、父親参観日に経験したのですが、小学校で理科に実験キットを使って、しかも数人のグループに一個で実験めいたことをさせていましたが、これは何の役にも立ちません。せめて各児童に一つづつあてがってやるのであれば(予算上無理といわれるかも知れませんが、意味のあることなら親も喜んで教材費を出すでしょう!)、まだ少しは意義もあるかと思いますが、そんなことより、少しは校庭に庭でも造って植物を植え、そこにやってくる虫も含めて、好きなだけじっくり観察させる方がましでしょう。親も少しは郊外に子どもを連れだして、「何をしているの。早く付いて来なさい」などと言うよりも、好きなだけ子供が自分で興味を持って観察しているものを、心ゆくまで時間を与えて観察させ、何かを感じ、発見させる方が、単に理科教育という見地からだけでなく、その子が将来どういう方面に進もうと、人間教育としてどれだけ意味が深いか分かりません。フランス文学者の杉本秀太郎氏の随筆など氏の深い観察眼を窺わせますが、おそらく少年時代に熱中された「蝶」の追いかけにその秘密があると思っています。

私の畏友はかってこんなことを語ってくれました。それは、「この頃の学生は化学の研究中でも反応待ちの時間に外へ遊びに行くが、自分はそんなことはしないで反応をジッと観察していた。ある時反応中に急に液の色が紫色に変わった。これは何故か?その時感じた疑問の解明が学問的にも重要な発見となり、学位論文もできた。遊びに行っていたらそんな現象も見落としてしまう」と。彼の紫綬褒章受章にはこの研究が主要な受賞理由になっています。もう一つ書きましょう。抗生物質の第一号、ペニシリンを発見したアレキサンダー・フレーミングの伝記をアンドレ・モローが書いています。「フレーミングの生涯」という題です。その中に何故ペニシリンの発見に成功したかという問に対してフレーミングは、「子どもの時、弟と一緒にいつも野原で遊んでいて、虫を探したり蛙を掴んだりする中で観察の眼を自然に養ったこと、ラグビーをやっていたので個人の力では勝てず、チームワークの大事さを学んだこと、それに自分は片付けるのが嫌いで培養シャーレを洗ったりしないで、休暇に行ってしまった。帰ってきたらシャーレにカビが生えていてそのまわりにカビの消失した部分ができていた。何故だろうと思ったのが発見に繋がった」と言っています。このチームワークについては、「何かカビの中に未知の物質が生産されている。しかし自分は化学に弱いので、すぐにアメリカの友人にその物質の分離を依頼した。決して全部自分でやってしまおうとは考えなかった」から速やかにペニシリンの分離精製ができたというのです。すべて−−自然科学でも−−人間本来のいわば動物的な感性は実に大事です。理性はその感じたものを理詰めで体系化するものだともいえましょう。子どもの感性を潰さないように、伸ばすようにしたいものです

子どもが自分一人の力で何かを感じ発見したら、仮に教科書的には少し間違っていても少々煽て気味にほめ励ますことです。親の一言、教師の一言がその子の一生を決めてしまうことさえあるのです。自分はもうすっかり忘れているのに、かっての生徒からあのとき先生がこういうことを言って下さいましたと言われて、ギクリとしたことも私の経験には何度もあります。人にやる気を起こさせるのは叱責ではなくて、ほめ言葉です。ほめることを見つけて言葉にすることが教育の原点です。

誰が歌ふ歌を創りてゐるのかとわが傍らに幼な顔あり

この歌は妻の短歌の一つです。どこへでかける時もノートを携え、作歌は妻の生活そのものでした。絶えずメモをとって作歌の材料にしていました。父の葬儀で火葬場へ行って、お骨が上がるのを待つ間もそうでしたから、あきれ顔に非難する親戚さえありました。投稿の締め切り前になると徹夜していることもよくありました。こういう姿勢は子供の考え方にも何か影響したように思えます。長男は現在は音楽のマネージメントを仕事にするようになりましたが、14年間北海道新聞記者をしていました。次男は今も共同通信社記者として物を書くのを仕事にしています。娘も絶えず筆を走らせたり、コンピューターで書き物をしています。以前、教え子の仏式結婚式が妙心寺塔頭の一つで行われ、司式−−いわば媒酌人−−はその寺のお坊さんでしたが、御挨拶はわずか数秒、「家庭は教育の場であることを忘れないように」でした。
私は同志社高校で11年間教えたことがあります。担任もしました。担任をしますと父母との面談があります。ある時一人のおかあさんが「子供にいろいろ言っても一向に言うことを聞いてくれません。先生から言い聞かせてください」と依頼されましたが、私は「おかあさんが言われても聞かないことを、教師の私がとても言い聞かせることはできません」といいました。責任逃れをしたのではなくて、本当に親御さんにできないことはとても他人の教師にできるはずがないからです。また、一人の生徒が時に飲酒をしているようでしたから、面談で「注意をして下さい」といいますと、そのお父さんはニコニコして「私が晩酌の時に息子を相手にすることもありますので・・・・」と仰るのです。私はそれ以上何も申しませんでした。たとえ飲酒がいけない年令で校則も禁じていても、親と一緒に酒をはさんで談笑している光景を考えると、親子のコミュニケーションがあり、お父さんの楽しみでもありますから、かまわないと判断したのです。その生徒は東北大学工学部を出て、愛知製鋼に就職し重役を経て関連会社の社長もしました。引退後は名古屋大学で聴講生になり中国古典を研究し最近その方面の著書を公刊しました。

学校で髪が長いとか、服装が派手だとかいうことを問題にするのは感心しません。もっとやるべきことがあります。それは基本的には人間への信頼であり、生徒の中に潜んでいるものへの関心です。生徒の外見に目を光らすとき、最も大切な生徒の内面に潜んでいるものへの教師の関心は死んでしまうのです。それでは教育はできないのです。

初めて先生になった大津東高校で化学を教えたのですが、本当に出来ないkという生徒がいました。ところが秋になって文化祭があり、そのkさんが書道部で立派な書の軸を出品していました。私は字が下手でそのことが心の中で一つのコンプレックスになっているほどですから、その軸を見たとき、完全に打ちのめされて、kさんに脱帽という気持ちでした。人間には誰にも何か才能が天から与えられているものです。それを発見するのが、親や教師の責任です。立派な例として、大江健三郎さんと息子の光さんが頭に浮かびます。また、先年テレビにヴァイオリンの千住真理子さんが出ておられたとき、視聴者の方からの質問で一番多かったのが、「子供がヴァイオリンの稽古をいやがるのですがどうしたらよろしいか」でした。千住さんはまじめに“「もう止めなさい」と言うことですね”と言われていましたが、親が強制しても才能と興味がなければ駄目でしょう。親が音楽が好きで、家の中にいつも音楽が流れ、家中のものが音楽を空気のように呼吸していれば、素質のある子供なら音楽の良さを身体で感じ、自分でもやってみようとするものです。朝のドラマ“あぐり”の作曲を担当された岩代太郎さんを見ればよくわかります。稽古はその上で成り立つのです。私も家内から子供の教育について「お父さんからもちょっとは言ってやってくださいな」といわれることもあったのですが、「口で言って教育ができるのなら、私は生徒の教育に苦労はしないよ」と言ったものです。逃げているのではありません。口で教育はできないのです。教師も親も自分の態度でしか教育はできないのです。教師も親も口で子供に注意している閑があれば、自分で何かを追求し、その姿勢を子供に見せることの方が大事だと思っています。子供は親の背中を見て育つのです。親も教師も態度で教え、子供の生長を冷静によく観察して、子供の才能を見極めましょう。親の描いた間違った子ども像で無理なことを押しつけては子どもを駄目にしてしまいます。教育というのは、親にとっても教師にとっても大変恐ろしい仕事だと言うことをお忘れなく。

親や教師や指導者は、ややもするとお説教を仕勝ちですが、あまり効果は上がらないのです。生徒を指導する時に最も大事なのはその生徒が今何を考えているのかを推量し、そこにこちらの焦点を一致させてからその同じレベルで話しや行動をすることです。その点で教育というのは一般論では役に立たないのです。所詮、個別の指導でなければなりません。口先で指導はできません。相手と同じレベルに立って、一緒に行動することです。若い頃は教え子の加藤正彦君に誘われてよく比良登山を楽しみましたが、つきあう人の飾りを取ったありのままの姿を見ようとしたら、一緒に苦しい登山をすればよいと何度も思ったものです。お手本を見せるだけでは教育はできません。一緒に行動する中で指導ができるのです。

私の教師としての道は最初大津東高校(現、膳所高校)でスタートしたことは先にも書きましたが、ほんとの新米の私を気遣って、教頭先生は“なあに前に座っている生徒はジャガイモが並んでいるくらいに思えば良いよ”と言われたものです。実際1週間ぐらいは授業に出る前は胸がどきどきしたものです。1年後、都合で同志社高校に転じましたが、こちらでは教頭先生が“こちらの生徒はみんな紳士淑女ですから、そのおつもりで”といわれました。1年前を思い浮かべて、大変ショックでした。元京大総長の長尾君も当時大津東高校に在学中で、生徒たちは優秀な良い生徒ばかりでしたが、同志社はさすが新島先生の学校だなと思いました。 今もそうだと思いますが、先生の勤務時間も基本的には自由で、学校のまわりに塀もなく、生徒も伸び伸びとしていました。ですから校門を時間に閉めて生徒を殺すというようなことはあり得ないのです。君が代を歌うとか丸刈りにするとかいうような形式的なことを整えることを教育だと思っている愚かさに早く気づいて欲しいものです。同志社の生徒諸君は先生の前だけかしこまると言う風潮はなく、あけすけで、先生に友達のように語りかけてくるのです。始めは“失敬な”という感情を持ったこともありましたが、やがてここの生徒は裏表がないのやなあと本当に親しみを抱いて、11年間過ごしました。やはり教育には信頼感がお互いの間になければどうしようもありません。高校生はいわば狂気の一面も持っているのですが、二十歳を過ぎるとやがて一人一人それはそれなりに形になっていきます。そういう過渡期のケアをしているという気持ちが、教師や親の側にも必要なようです。

子どもを大事にし一人の人間として尊重すれば、子どもは自分自身も他人も大事に考えるのです。私の経験を振り返りますと、今とは時代が違いますが、母が寝ている私の枕元を通ろうとしたとき、慶応四年生まれの祖母はそれを咎めて「男の子はどんなに偉い者になるか分からんのやから、裾の方を通りなさい」とたしなめたものです。それを聞いて私は子供心に自分を大事にしなければと思ったものです。私は偉くはなりませんでしたが、81才の今でもこの時のことはありありと覚えています。また、小学校の担任であった芦田先生(芦田重左衛門先生;後、京都府議会議長)のお宅を石龍町にお訪ねしたとき、先生はお留守で、出てこられた奥様の前で何となく気恥ずかしくて私はつぶやくように何かを言ったのでしょう、聞き取れなかった奥様は小学生の私に実に丁寧に“なんと仰いまして”といわれたのです。いよいよ舞い上がってしまって、逃げるように帰ってきてしまったのですが、昔の京都では子どもに対してさえもこのような風がありました。同志社といい、これらの例といい、子どもに対するこういう姿勢が自ずと自分も人も大事にする気持ちを植え付けるのだと思います。今も時たま思い出すのは、子供の時たまに父の勤め先に遊びに行きますと、父の同僚の皆さんも快く私の相手をしてくださり、昼になると父は会社の近くにあるうどん屋などではなくていつも今も笹屋町にある“江戸川”から鰻丼やおつゆを注文してくれました。なかなか高級なものでした。本当に大事に育てられたものです。

1999年1月11日、四条のT君から次のようなメールが届きました。私はすっかり忘れているのですが、生徒諸君の方は一生覚えてくれているのが、教師として一番怖いことです。しかしこのメールは私にほのぼのした印象を贈ってくれました。私(ポンちゃん)もまんざらでもない教師生活を生徒諸君と共に送っていたのだなあ、それに同志社の先生方もそんな私を許してくれていたのだなあと感謝の気持ちが心をよぎります。

改めまして新年のご挨拶を申し上げます。
先程は失礼いたしました。韓国へメールを送ったとき韓国語のフォントを入れた ままお送りしましたのでああなりました。以下本文

昭和38年にサンパチ豪雪というのが有りました。信越線の急行「越路」が四日 間も雪に閉じこめられ、大被害の出た事件でした。京都も大雪で、岩倉も大変でした。でもおもしろい先生もいて、「こんな大雪は珍しいので休講や。表で雪合戦しよう」の号令で全員大はしゃぎ!楽しい一時間でした。この先生は「ポンちゃん」ことT先生でした。新聞で豪雪の記事を見るたび懐かしく思い出します。

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