注 自己資本比率規制の見直し案

2001年1月16日 BIS(国際決済銀行)は、自己資本比率規制の見直し第二次案(A New Capital Adequacy Framework)を発表しました。銀行はこれによって貸出債権について貸出先の格付けに応じたリスクウエイトを付けることが必要になります。自己資本比率計算にあたって分母構成要素の一つである貸出債権は、回収の危険性率を乗じたものを採用します。格付けの低い貸出債権には危険率100%以上を掛け、格付けの高い融資先への債権は例えば20%を掛ければよいというようになります。担保だけで判断できず貸出先の収益率、返済能力が問題になるのです。分母が大きくなると銀行の自己資本比率は下がりますから、この貸出先格付けがまともに自己資本比率に直接影響することになります。第一次案では自国政府向け債権(国債もその例)は危険率が0%でしたが、第二次案では信用格付けに応じて0〜150%の五段階になりました。銀行はこれまでのように国債を無条件に有利なものとして買うことはできなくなります。今年中に成案を得て2004年から実施したいといいます。

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注 丸山和博 博士

1964年夏、同志社高校で化学を11年教えていた私のところへ突然「京都女子大学から求人が来たが君、行かないか」と連絡をくれました。結果としてその年の半ば、学年途中の同志社に無理をお願いして退職し、後期から女子大に移ったのですが、11年間研究から離れ勉強らしい勉強もしていませんでしたから、丸山君に「君のところの雑誌会に出席させてもらって勉強のやり直しをしたい」と申しました。おそらく普通の先生でしたら「そうしなさい」といわれたでしょうが、丸山先生は「そんなことは必要ない。すぐにテーマを考えてあげるから、すぐに自分で研究を始めなさい」といわれました。テーマはBaudisch反応の研究”でしたが、まず反応がイオン反応であるかどうかをチェックするべく、置換基効果を調べるためにいろいろのフェノールの反応速度を測ることを命じられました。教科書的に反応速度の測定は±0.1度の制御が必要だと思っていた私は「女子大には反応速度を測れるような精密な恒温槽はない」と言うと、「学生実験に使う普通の恒温槽があるだろう。それでまずやりたまえ。その結果を見て、精密な測定が必要だと判断したら、そのとき精密な恒温槽を準備すれば良い。地下にある一部屋を整理して君の実験室にしてあげるから、女子大での仕事が終わってから来れば良い」との答えでした。この精度の悪い恒温槽での結果でも、当時一部でいわれていたラジカル反応ではないことを示す重要な結果が得られました。実験結果が出て討論しているときも友人だからという甘さはなく、厳しいものでした。叱責の声に何度か涙がこみ上げてきたものです。やっと始めての研究論文ができTetrahedron Lettersに投稿するときも、「明日の朝に全部タイプして持ってきなさい」「タイプライターなんて持っていない」「すぐに買ってきて、打って来なさい」というやりとりで、私もすぐに買ってきて徹夜で始めての論文を打って持っていきました。その後“Baudisch反応”の機構を明らかにした(Wikipediaに記されている機構は私たちの研究結果を反映していません。)のですがリンクページを見る限り私たちの研究結果よりも新しい結果はありません。丸山先生には万事このように厳しく鍛えてもらったおかげで何とか私も学会に復帰でき、さらに後年女子大で私のところで実験助手をしていてくれたKさんの博士論文(論953)を作る手助けもできたのです。私の一生は丸山和博先生との出会いがなければ、まったく異なったものになっていたことは間違いありません。私の研究観は先生によってひっくり返ったのです。京都女子大学は科目制の大学で、研究スタッフは皆無という環境で大した仕事は出来ませんでしたが、エチレンジアミン及び多環式芳香族炭化水素の塩化銅(T)による塩素化とその機構、エチレンジアミン銅錯体のフェノール酸化能の発見とその作用機作の解明など人まねでない研究分野を開拓出来たのは嬉しいことでした。教育者としての丸山先生の偉さは直接の弟子はいうまでもありませんが、学歴・経歴にかかわらず、偏見なく人に接しられましたから、京大卒でないのに先生との出会いで研究の眼を開かれた人は大勢おられます。その中には学の内外を問わず教育・研究を支える底辺で黙々と仕事をされていた方も多く、先に記した実験助手Kさんも女子大併設短大の卒業生で、この一例です。
丸山先生の教えでもっとも大事なことは、現在の自分が使えるものを利用して、ともかくやってみると言うことです。細かいことに囚われずに得られた実験結果に自分の頭をフルに働かせて考え、ともかく何か結論を自分で得ることでした。その上でその結果を慎重に検討して必要であれば本や文献に当たり、また器具も必要なら精度の高いものを使えばよいので、ともかくも手持ちのもので全力を挙げて対象にぶつかり考えることを優先する思想です。むしろ対象についての知識のない方が新鮮に取り組め、新しいことを発見できるだろうということです。これは何をするにしてもいつでもいえる大事な考え方だと思います。

丸山先生の略歴を紹介しましょう。先生は1929年5月16日に福岡県甘木市の造酒屋でお生まれになりました。佐賀高校を経て、京都大学理学部化学科を出られ、昭和30年有機化学教室助手、その後構造化学教室・物理化学教室助教授を経て、45年教養部教授、47年理学部教授と歴任されました。専攻は有機化学で、特にグリニャール反応をはじめとする反応機構の分野で独創的な仕事を展開されました。「電子移動過程の物理有機化学を基礎とする新しい有機化学反応の研究」で第38回日本化学会賞を受けられ、平成5年には紫綬褒章を受けられ、叙勲制度見直し後第一回目の2003年叙勲では瑞宝重光章を受けられました。運営面では平成3年京都大学理学部長、また6年には京都工芸繊維大学長に選出なされました。

学生時代の丸山君は、いつもはっきり自分の意見を持っている人という印象を私は持っていましたが、特に親しい関係にあったわけではありませんでした。その私を、卒業後11年経って思い出し、新しい道に誘ってくれたのは、次のようなことがあったからです。
二回生の「有機化学合成実験」で、たまたま同じグループになり、ゴム栓はもちろんコルク栓も侵してしまう薬品を使うことになったとき、炭素を成分とする墨をすってコルク栓に塗る必要が出てきました。丸山君は福岡の出身で手許に墨が無く、それを聴いた私が、家にあったチビた墨のかけらを持っていってあげたといいます。些細なことですから私はまったく記憶していないのですが、「親切な奴だ」と記憶してくれていたのです。人間の運命というものはこういう些細なことですっかり変わってしまう例にはなりましょう。有機化学は学生の人気が高く、卒業研究で配属されるときにも多数の希望者がありました。もともと人と争うのがうっとうしい私は、有機化学第二講座の趣のあった生物化学教室田中正三先生のところに所属を願い出ました。こうして「稲熱病菌における亜鉛欠如」を卒業論文のテーマにしたのですが、女子大に移ってからは丸山先生のところで本来の希望であった有機化学研究をさせていただいたのです。「君は長く高校の先生をしていたから無機物に対する抵抗も少ないだろう」と銅イオンが関係するBaudisch反応をテーマに選んでくれたのです。この研究が纏まった後も、私の研究は無機と有機の両面に関係する有機反応がテーマでした。“チビた墨のひとひら(一片)”が私の運命を変えたのです。女子大に移ってからのわたしの仕事は学位論文を除き、すべて丸山先生と共同研究にさせていただきました。そのおかげで研究に伴って原料として合成したり、反応生成物として得たものの同定に必要な京大薬学部へ依頼する元素分析はすべて、先生の研究費の中から振り替えて頂きました。1件当時でも4,000円でしたから、研究費の乏しいわたしにはとてもありがたいことでした。振り返ればわたしが京都大学に収めたのは入学当初に必要だった4,000円だけで、女子大学を辞任する迄の四〇年余化学教室に自由に出入りさせて頂き、化学教室図書室にも顔パスで出入りさせて頂いて、所蔵図書も自由に閲覧させて頂いたのです。ありがたいことでした。

振り返ると、丸山先生の仕事は正に“自然科学は自然哲学である”の実践でした。先生ご自身の最初のテーマ、グリニャール反応もマグネシウムが関係しています。その後のテーマの一つ キノン類の反応 にしても自然そのものを眺めて、自然界でのキノンの作用の本質の洞察がテーマでした。私のいただいたテーマも酵素に見られる金属イオンの働きと関係のある、有機化合物と銅イオンの相互の機作でした。後年の光化学関係のお仕事も自然界におけるクロロフィールの作用に注目された、金属イオンやキノンの働きの本質に着目されたものでした。先生の手本とされたのは自然そのものでした。有機化学の研究課題として自然そのものを置かれたのです。そういう点で正にこれからの有機化学への先駆的な光を導いておられます。実験に当時最新のNMRなど物理的測定手法をいち早く取り入れられたのも先生の烱眼(けいがん)でした。

2002年7月の先生からの来信に脚部に手術を受けたが、全快には1年くらい掛かると書いてありました。脚での手術くらいで1年も掛かるのは普通でないと思いましたが、骨ガンなのでした。先生にこの後手紙と共に心ばかりの見舞金を送りましたが包みも開けることもなく鄭重な礼状と共にそのまま送り返されてきました。先生の性格のしからしめるところでしょう。「唯々 感謝々々の気持のみを以て余生を気楽に消光しようと考えています」というのが礼状の結びの言葉でした。2005年9月5日午後8時30分逝去。享年76才。葬儀も内々で執り行われました。

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注 Outlook Express アドレス帳のバックアップ

次の@はファイルそのもののコピー、Aはエクセル様式になっている。@で出来たコピーファイルをダブルクリックしてからアドレスを知りたい個々の「人の検索」をするとその人については読み取れるが、アドレス帳の内容の一覧が出来ない。Aは一覧が出来、これを印刷も出来る。

@A\windows\application data\microsoft\address book\xxxx.wabを例えばD:\address bookにコピー。

AExcelがインストールされておれば、

    (1)Outlook Expressの「ファイル」メニュー。−−−>「エクスポート」−−−> 「アドレス帳」−−−>"アドレス帳のエクスポートツール"−−−>「テキストファイル(CSV)」を選び「エクスポート」をクリック。
次の画面で保存ファイル名を聞いてくるから,たとえば”OE address book.csv"とする。名前はどうでも良いが必ず拡張子として[csv]を付けること。
「参照ボタン」を押して保存フォルダ、たとえばD:を指定して「保存」をクリックする。”csvのエクスポート”がでるから保存項目(たとえば表示名・電子メールアドレス)にチェックを入れる。−−−>「完了」。
これでフロッピーディスクに2種類のファイルを保存できた。

  (2)エクスプローラーや「卓駆」で、この”OE address book.csv”を ダブルクリックするとエクセルの形で表示がでる。印刷もここからする。

[バックアップファイルからOutlook Expressへの導入] 上の例で書くと、まずD:にOE address book.csvの入ったフロッピーを入れ、A:のOutlook Expressを起動し、順次クリックする。 「ファイル」−−>「インポート」−−>「ほかのアドレス帳」を選ぶ−−>「テキストファイル(csv)」−−>インポートをクリックする−−>「インポートするファイルの選択」−−>D:OE address bookを選ぶ−−>次へ−−>「インポートするフィールドの割り当て」−−>適当なもの例えば表示名・電子メールアドレスを選ぶ−−>完了

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注 電話料

米AT&Tは2001年2月5日、「7/7」という新サービスを開始すると発表しました。月額7ドルの基本料を払えば時間無制限でインターネットに接続できるほか、米国内の長距離電話が1分7セントになります。これまで米のネット接続サービスは最大手のAOLが月額21.95ドル(接続時間は無制限)という料金で、AT&Tなど下位企業もそれとほぼ同じ料金を採用してきましたが、一気に1/3の価格でシェアーの巻き返しを計るのです。

外国からものを買うと、その送料の安さに日本との大きな格差を感じるのですが、通信費も同様ですね。

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注 同志社カレッジソング

現在RealPlayer Basic(無料)をダウンロード後インストール(Netscapeなら\Netscape\Communicator\Program\Pluginsに)されますと、RealPlayer が組み込まれます。同志社のマークをクリックして、お待ち下さい(viewer起動に2〜3分かかります)。もちろんRealPlayer plusでも歌が流れます。最新のRealPlayerは音質が大変よくなりました。 ここでは1番と4番だけが歌われます。

Words by W.M. Vories

Music by Carl Wilhelm

One purpose, Doshisha, thy name
Doth signify one lofty aim;
To train thy sons in heart and hand
To live for God and Native Land.
Dear Alma Mater, sons of thine
Shall be as branches to the vine;
Tho' through the world we wander far and wide,
Still in our hearts thy precepts shall abide!

2. We came to Doshisha to find
The broader culture of the mind;
We tarried here to learn anew
The value of a purpose true;
Dear Alma Mater, ours the part
To face the future staunch of heart,
Since thou hast taught us with high aim to stand
For God, for Doshisha, and Native Land!

3. When war clouds bring their dark alarms.
Ten thousand patriots rush to arms,
But we would through long years of peace
Our Country's name and fame increase.
Dear Alma Mater, sons of thine
Will hold their lives a trust divine
Steadfast in purpose we will ever stand
For God, for Doshisha, and Native Land!

4. Still broader than our land of birth,
We've learnd the oneness of our Earth;
Still higher than self-love we find
The love and service of mankind.
Dear Alma Mater, sons of thine
Would strive to live the life divine;
That we may with increasing years have stood
For God, for Doshisha, and Brotherhood!

◆不朽の名画“カサブランカ”の一場面にドイツの将校たちが歌詞こそ違えこの曲を歌う場面がある。対するラズロはフランス国歌ラ、マルセイエズを歌い始め、酒場にいるフランス人たちはみなこれに和しドイツの将校たちの歌を圧倒する。この曲をなぜドイツの将校たちが歌うのかわたしには疑問で、それほどドイツではポピュラーなのだろうか、また本来この曲の歌詞はどういう内容の歌だったのだろう。ドイツをあるいはナチスを讃える内容であったのだろうか。

この疑問に応えてくれたのが同志社の卒業生、阿波雅敏君からのメールでした。答えは既に同志社大学広報課が発行していたWILD ROVER誌Vol.10(1996年8月1日発行)中の CAMPUS PRESSに出ていたのです。以前は広報課のホームページで閲覧できたのですが現在は不可能です。大学広報課に御願いしたらWILD ROVER誌Vol.10を送って下さいました。転載させていただきます。

・・・同志社カレッジソングの作詞者は近江兄弟社の創設者W.M.Voriesで、旋律はCarl Wilhelm作曲「Die Wacht am Rhein(ラインの守り)」を借用しています。この元歌の歌詞がドイツで書かれたのはライン川を挟んでフランスの脅威が増してきた1840年で、1854年に曲が作られ、1870年の普仏戦争の際にドイツで国歌のように歌われるようになりました。
映画「カサブランカ」の舞台は第二次大戦下の仏領モロッコ。同志社カレッジソングが歌われ始めたのは1909年のことですから、映画制作時(1942)には既に「One purpose・・・」は存在していました。ちなみにアメリカのイエール大学校歌も同じメロディ−を使っており、本年6月20日に栄光舘で行われた本学グリークラブとイエール大学グリークラブのジョイントコンサートでは、双方のグリーが校歌の交換を行いました。イエール大学の方がメロディ−を本学よりゆっくりと歌ったのが印象的でした。

ジャン・ルノワール監督の名画“大いなる幻影”の中でもドイツ兵が合唱する場面があります。

◆同志社中高同窓会2001のパンフレットを見ていたら、同志社高校で実施されている「パワーアップセミナー」の記事が出ていました。それによると、このセミナーは1988年から社会科の企画として3年生を対象として毎年2月から3月にかけて学年末試験終了後卒業までの期間行われています。
セミナーの内容としては、刑事裁判の傍聴や弁護士、会計士など有資格卒業生の体験談,各種講演会、見学などです。昨年度は元首相細川護煕氏の講演、表千家見学,香道の聞香体験、座禅体験などでした。全くの自由参加ですが、受験勉強の最後の追い込みに入った他大学を受験する生徒の参加もあり、参加者は昨年度で14企画延べ1000人に上っています。講師の方々も殆どボランティアで来てくださっていると言うことです。伝統ある同志社でなければ実現出来ない企画でしょう。

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注 菊地周一郎先生

私が京都三中に入学したのは昭和16年4月でした。この年の12月8日に太平洋戦争(大東亜戦争といっていました)が始まりました。菊地周一郎先生はこの年東京外国語学校(現・東京外大)を卒業されたばかりの新進気鋭の方で、反米英の風潮がすでに高まっていた当時でも、ダンディで、どこか国際的な明るい自由な雰囲気を周囲に醸しておられました。4月第一回目の授業には美しい英詩を暗唱して聴かせてくださり、辞書を引くときは予め自分でこういうことではないかと訳を想像してからそれを探すつもりで引くようにとも教えてくださいました。開戦後、先生方も時代に即応して次第に丸刈り頭の方が増えていく中で、最後まで髪を伸ばしておられました。先生に早々と召集令状が来たとき、私たちは校内に配属されていた軍のお目付、配属将校に睨まれて、彼が先生を召集するよう軍上部に具申したのだろうと密かに語ったものです。先生はこのことに何も触れられませんでしたが、その後満州(現・中国東北部)で戦われ、シベリアに抑留されなさったのです。幸い生きて引き揚げ船で帰ってこられましたが、寒いシベリアでの過酷な労働は先生の体を蝕み、腎臓をひどく悪くされて帰国後病臥されました。病臥中も毎日1冊当時比較的米軍から容易に入手できたペンギン文庫(英語)を読むと仰っていました。見舞った私に優しい声を掛けてくださいましたが、残念ながらまもなくお亡くなりになりました。

戦争で多くの優れた人材を殺してしまったのですが、かろうじて生き残って帰ってこられた方も、このようにその後の人生を病気で失われた方が大勢おられたのに違いありません。哀悼の気持ちを込めて、今、菊地先生はじめ亡くなられたみなさんをお偲びしています。合掌。

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