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Tower of Babel(バベルの塔)

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 バベルBa-Bel(神の門)とはバビロニアの天界にいたる、つまりジッグラト ziggurat(聖塔。周囲に階段のあるピラミッド形の寺院)であった。神が空からそこの至聖の場所に降りてきた。至聖の場所とは大地母神と神が交合するとき、その生殖器がちょうど置かれる場所である[1]

 聖書でバベルの塔に触れている箇所を見ると、「三角州の肥沃な平野に入ってきた遊牧民の態度がわかる。彼らはバビロニアの都市に聳え立つ塔を驚きと恐れの目で見たが、その都市の大勢の人々が古代の近東地方のさまざまな言葉を話すのを知って、軽蔑した」[2]。遊牧民の耳には、その多種多様の言葉というのは「俗悪なむだ話」 babbleに聞こえた。 babbleという語はBa-Bel、あるいはそこのBab-ilaniという町(バベルの人工の聖なる山にちなんだ名前)に由来する語である[3]

 バビロニアの有名な「つり庭」は、そのジッグラトの階段のうち、 7つの階段を占めて、ヒンズー教の神々の楽園に似た楽園になっていた。「世界を7つに区分し……それぞれに7つの都市と7つの神の宮居が建てられ、緑の森とせせらぎに囲まれ、 7つの円形をなして下から順に上へと重なっていた」。ネブカドネザルが復元したジッグラ卜は「世界を7つの同心円形に区分した神殿」であった。このために、古代の人々は広く一般に、 7つの天界が7つの天球層に相応して存在するものと信ずるようになった。キリスト教もイスラム教もこうした宇宙観をとった。アラーの神が7つの天界と7つの地下界(7つの地獄)を造った、とコーランにある[4]

 ジッグラトが棄てられて廃櫨と化しそのれんがの崩れ落ちているのを見た後代の遊牧民たちは、神々が昔の人々のおごりに怒りを発せられて、その天界を望む建物を壊したのだ、と思った。バベル神話は、インド、メキシコを含めて、世界のいたるところでみられる。山々を積み重ねて天界にいたろうとしたギリシアの巨人たちの話もある。ヒンズー教徒の話によると、それは塔ではなくて大きな木であって、天界に達し、そのためにブラフマーBrahmaの怒りに触れて、枝を切り落とされてしまった、という。そして、それぞれの切り落とされた枝が大きくなって、それぞれの木となり、その木から人類は別々の言葉をもらうようになった、という[5]

 ベーローッソス†は、バビロニアの天界にいたるは風によって壊され、その風に乗ってさまざまな言葉が人々の間に散った、と言った。このベーローッソスの言葉の前半部は理にかなうものであった。土れんがの建築物が壊れる主たる原因は、乾燥して風に浸食されることにあったからである。ベーローッソスの話は、数世紀後、巨人たちが建てた聖なる山についてのアルメニア神話に現れた。そのは風に吹かれて崩れ落ち、「同時に、無数の言葉が人間の間に飛び散っていった」[6]

ベーローッソス
 カルデア人で、ベル・マルドゥックの聖職者。紀元前3世紀の人。バビロニア・アッシリアの歴史をギリシア諮で書いた人である。
 point.gifベーローッソス断片集

 同じような話が西半球にもある。チョクトーインディアンの話によると、彼らの先祖は石を積み上げて天界に達するを造ったが、風に吹かれてそのは崩れ、人々はそれぞれ違う言葉を話すようになった、という[7]。中央アメリカではチョルラの天界に達するピラミッドが、ゼルフーアの指導の下に、巨人たちによって造られた。怒った神々が電光を放ってそれを破壊し、そして互いに理解しえないさまざまな言葉を地上に送った、という[8]


[1]White 2, 170.
[2]Hooke, M. E. M., 138.
[3]Eliade, M. E. R., 14.
[4]Lethaby, 24, 124-25, 129.
[5]White 2, 173.
[6]Doane, 35.
[7]Farb, W. P., 309.
[8]White 2, 173.

Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)



 バベルの塔は、バビロン市に建立されたジッグラトのことであるが、旧約聖書では、それがバビロンに建てられたものとは書かれておらず、その建造場所はシンアルの平野とされている。神が人々の言葉をばらばらに乱し、互いの意思疎通が図れなくなったため、建設半ばで放棄されてしまった都が「バベル」と名付けられたという(創世記11_1-8)。

 この「バベル」という語は元来はアッカド語の都市名「バブ・イリ/イラニ(シュメール語ではカ・ディンギル)」すなわち「神(々)の門」という意味であったが、ヘブライ語の「バラル(混乱)」と語呂が類似していることから、それこそ「混同(バラル)」されて、創世記のような記述になったという。〔「本当の意味ではバベルの塔は現在、存在しない。しかしその痕跡はバビロンの南方に池として存在する」。バビロンのジッグラトは「新バビロニアの滅亡後、アケメネス朝ペルシアに反逆したために破壊され、その後アレクサンドロス大王はバビロンを首都とし、ジッグラトを再建しようと考えたが、大王の死によってジッグラトは姿を消した」黒田和彦「バビロン市史」〕

 この語「バベル」は、アケメネス朝ペルシアの大王キュロスによる「バビロン補囚解放令」(前538年)によって故郷イスラエルに戻ったユダヤ人からギリシア人に伝わり、「バビュローンBabulwvn」と呼ばれるようになって、それが現在の「バビロン」の語源になったのである。

 7世紀中頃からエジプトやメソポタミアがイスラム教一色に染まると、西欧人にとって「聖書の世界」は遥か遠くの別世界となり、バビロンもニネヴェもティグリス、ユーフラテス両河も実在したことすら、すっかり忘れ去られてしまった。ギリシア・ローマ人以来、再び西欧の探検家たちがメソポタミアに足を踏み入れるのは、17世紀になってオスマン・トルコ帝国が衰退してからのことである。

 当時の西欧からの旅行者が勇躍として探し当てようと試みたのは、なんといってもバベルの塔であった。今は遠く離れたヨーロッパの地に住んではいるが、自分たちが出てきた場所はシンアルの地であり、そこから出された理由はバベルの 塔建設で神と揉めたからだったではないか。そう聖書には書いてあるのだから、きっとその塔は存在しているに違いない……。

 その形態から、最初にバベルの塔のイメージを作り出したのはメソポタミア北部の都市サマッラの螺旋聖塔であった。しかし、これは九世紀頃に建立されたイスラム教寺院の聖塔ミナレットであって、もとより本物のバベルの塔ではあり得ない。

 最も説得力のある遺跡は、頭が二つに裂けた巨大な煉瓦構築が頂上に突き出している、高さ47メートルの特異な遺址ビルス・ニムルドであった。しかもその周辺には落雷か何かの強烈な熱を浴びてガラス化したおびただしい数の岩塊がザクザク落ちている。

 天の劫火に撃たれて崩れ落ちたのではないか……。実際1816年に廃墟バビロンから南方約20キロメートルのこの遺跡を訪れた英国人J・S・バッキンガムも、1818年にバグダードからこの地にやってきたR・K・ポーターもそう思い込んでスケッチを残した。しかし、ここは実はボルシッパというシュメール・アッカド時代以来の由緒ある都市で、前6世紀頃に新バビロニアのネブカドネザル2世によって最終的に改修されたナブ神殿のジッグラトであることが判明している。

 アカル・クフのジッグラトは、それよりもっと早くからバベルの塔として西欧に伝えられた。『千夜一夜物語』の都バグダードに西方15キロメートと近いため、8世紀にアッバス朝のカリフ、アル・マンスールがバグダードを首都と定めて以来、人目を引く存在であったことは確かである。

 16世紀にバクダードを訪れたアウグスブルクの医師L・ラウヴォルフはその巨大な廃墟の塊に驚嘆しながらも「今はネズミなどに荒らされてしまっているが、本来はもっと大きく立派だったのだろう」と「いにしえのバビロン」を偲びつつ、周辺の状況などを正確に記している。しかし、これも実はカッシート朝の王クリガルズ1世(前15世紀頃)によって造営されたものであった。(『古代メソポタミアの神々』p.97-100)


[画像出典]
Pieter BRUEGEL, the Elder
The Tower of Babel
1563
Oil on oak panel, 114 x 155 cm
Kunsthistorisches Museum, Vienna