キリスト教の神学では冥界に女神ヘルの名を与えたが、しかし、キリスト教のヘル(地獄)と女神ヘルのあの再生の子宮としての冥界とは、全く別物だった。古代の人々は、冥界が主として懲罰の場であるなどとは考えていなかった。冥界は真っ暗で、神秘的で、畏怖すべき場所ではあったが、しかし、キリスト教徒たちが考え出したような巨大な拷問所ではなかった。
ギリシア人は冥界を、エレボス(!EreboV)、ハーデース、または、ヴィシュヌの化身の「カメ」 tortoiseにちなんだタルタロスTartarusなどと呼んだ。タルタロスはカメの姿で大地を支えていると考えられた。タルタロスに住んでいる死者の亡霊は、死に伴う陰気な状況は我慢しなければならなかったが、しかし、それ以外の苦痛に耐えなければならないということはなかった。血もなく影もなく、声も生気もない状態で、死者たちは再生をしきりに待ち望んでいた。
地上や天界の領域と同じように、冥界にもそれなりの階級制度があった。女王はペルセポネーまたはへカテー。女王の配偶者はプルートーンまたはハーデースであり、その下には、地上において魔術師-王であったアイアコス、ラダマンテュス、ミーノースらが、裁判官として仕えていた。更に、ヒュプノス(眠り)、モルペウス(夢)、タナトス(死)などの精霊がいた[1]。冥界は、ときには、中世において想像された妖精の国と同様に、官能的な悦楽の場所でもあった。「エリューシオンの楽園」では、秘義を極めた人々の霊魂が、女神の聖なるニンフたちにかしずかれていた。
エジプトの冥界の神セケルまたはアメンと同じく、ハーデースもまた「目に見えない者」であり、遍在する「隠れたる神」の「黒い太陽」の相(すなわち、大地の子宮の中で眠りあるいは死の状態にある段階)だった。また、「冥界の王」あるいは「死の王」とみなされたハーデースは、男根神でもあって、ちょうど「天界の王」ぺトラ(ぺテロ)が天上のアプロディーテーの真珠の門の鍵を持っていたのと同じように、彼は地下にある女陰の門の鍵を所有していた。この冥界の神(ハーデース)は自分の精液を岩の中に貯えておくと考えられていた。精液は岩の中で固まって宝石になったのであり、これは、東洋の「ハスの中の宝石」の西洋版だった。ぞれゆえ、ハーデースは「富の王」とも言われ、ローマ人たちは彼のことをディーヴェス(「福の神」)の短縮形ディスの名で呼んだ[2]。かつては、「冥界(大地-子宮)を耕した」(すなわち、大地母神と交わった)救世主-神たちのほとんどが、地中に埋められている宝を明らかにする能力を賦与されていたのだが、この能力は、キリスト教の時代になると、悪魔によって引き継がれた[3]。
エジプト人は、冥界をアメンティ、ケルト・ネテル、ネテル・ケルテト、トゥアトなどと呼んだ。冥界は、地獄であると同時に極楽であり、審判と再生の場所でもあった。しかし、エジプトの宗教では、罪を罰するという側面がとくに強調されるととはなかった。エジプトの救世主ウシル〔オシーリス〕は、人間を永遠の責苦から救うためでなく、死から救うために到来したのだった[4]。エジプト人たちは死を恐れ、死を「忌まわしきもの」と呼び、彼らの宗教では死を回避することに努力の大半を傾注した[5]。
エジプト人たちは「悪しき者」は冥界の火穴で焼却されると考えたが、キリスト教徒はこれを地獄に落ちた霊魂に課される責苦と解釈した。しかしエジプト人の場合、これらの「悪しき者」は、必ずしも人間と限られていなかった。太陽神に敵対する超自然的な存在、たとえば暗黒、もや、嵐などの精霊も「悪しき者」とされた。冥界の火穴は、日の出と日没の際の赤々と燃える雲を表していたようである。火穴で焼かれるのが人間の場合でも、彼らが地獄の業火に永遠に苛まれ続けるということはなかった。
「エジプト人は、魂の浄化や永遠の懲罰などを信じていなかった。……悪しき者たちは日々殺され、その身体は火で焼かれた。しかし、悪しき者たちは日々送りこまれ、したがって、復讐の神々は日々多忙を極め、火穴は焼かれる者でいつも一杯だった。同ーの人間が永遠に焼かれ続けるとエジプト人が考えていたことを証明する記録は、存在していない」[6]。
地獄で永遠の責苦を受けるという考えは、古代ペルシアのゾロアスター教のような父権制の宗教とともに生まれた。父権的宗教において最大の関心が「苦しみ」に向けられていたことは、母権的宗教の最大の関心事が「喜び」にあったことと際立った対照をなしていた。父権的宗教におけるこの苦痛偏重は、禁欲生活の厳格な戒律から生じた当然の精神的産物だったのである。ところで、地獄の苛烈な責苦を案出した意図は、まず第ーに、女たちを震えあがらせて新たな父権制の掟に従わせようとすることにあったと思われる節がある。
ゾロアスター教の聖職者たちは、夫に対して不貞を働いた女は地獄に落ちて、鉄の櫛で両の乳房を切り開かれると主張した。口やかましい女は、有無を言わさずその舌で灼熱のかまどを紙めさせられ、男を裏切った女は、片足で宙吊りにされて、多数のサソリ、ヘビ、ウジ虫などが外からも内からもその身体に穴をあけることになるのだった[7]。この種の幻想に影響されて、中世ドイツの画家グリューネワルトは、姦通罪を犯した人々を待ちかまえている地獄の責苦の絵を描いた[8]。しかし、ベルシア人たちにしても、地獄の責苦が永遠に続くとは考えていなかった。残虐さがその極に達するのは、キリスト教徒の登場を待たねばならなかった。
ユダヤ人も、地獄とは、どう見ても父なる神が司る天界の住人になる資格がないと判定せざるをえない大多数の女たちを罰するための場所である、というペルシア人の考え方を受け継いだ。男たちにしても、自分の妻とやたらに必要もない会話を交わしたり、女から助言を得たりすると、その罪で地獄に送られることがあった[9]。女性とみなされていた創造の川ギホンは、ユダヤ人によって、地獄の火の川ゲへナGehenaに変えられた。ゲへナという名で、地獄全体を指すこともあった。ゲへナの王国は、地上の世界の60倍の広さがあった。王国の「宮殿」の1つ1つが6000の「住まい」を持ち、それぞれの住まいには火と胆汁の入っている容器が6000個あって、罪人の到来を待ちかまえていた。「ゲへナの王」はアルシェルで、この名は、古代カルデアで天界の光明神に対応していた冥界の神アシーエル(「黒い太陽」)の名を借用したものだった[10]。
ユダヤ教-キリスト教の伝承では、ヤハウェと同一視されていたバール神たちも含めて、聖書に登場するパール神全員が地獄の住人にされてしまった。それらの神々の中には、ピヒモス、レヴィヤタン、バール・ポエール、バールゼブブ、パール・リンモン、ベリアル、アスモデウス、モロク、ルシフェル、サタン、タンムーズ、ダゴン、ネホシタン、ケモシ(シャマシユ)、アポリュオンなどがおり、「契約の神」のバール・ペリテも含まれていた。以上の神々のほかに、ギリシア・ローマ時代の宗教の男神や女神たち、すなわちハーデース、プルートーン、ディアーナ、ペルセポネー、へルメース、ピュートーン、ヘカテー、ミネルウァ、ウェヌス〔ヴィーナス〕、キュベレー、アッティス、ユピテル、ネプトゥヌス、サートゥルヌス、アドーニス、パーン、ラミアー、メドゥサ、リリトなども地獄の住人に加えられた。そのうえ更に、ゲルマン人やケルト人の異教の男神や女神のすべてが追加された。また、古くからあった神殿をキリスト教の教会に変えたため、不自然な形で聖人に列せられていた男神や女神たちも、その大半が同じ時期に悪魔の側へ移され、デーモンとして地獄に送りこまれた。
興味深いことだが、中世になるとすべてのデーモンに関して身元確認・分類・命名を行おうという熱意が高まった。黒魔術を行うには、デーモンの名前や称号を知っていなげればならなかった。祓魔師は、退散させようとするデーモンの名がわからなくては、手の施しようがなかったのである。福音書によると、イエスでさえも、追い払うべきガダラの人々の悪霊の名を心得ていなければならなかった(『マルコによる福音書』5: 9)。このようなわけで、デーモンの名簿がいろいろな所から発表されたのである。
地獄に関しての最も興味のある論述の1つに、ヨハネス・ヴァイアーの『悪魔の擬似君主国』があった。この書物は16世紀に出版されたもので、当時ヴァイアーは、祈祷療法師ならびに占い師としてクレーヴェの公爵に仕えていた。ヴァイアーによると、デーモンの総数は740万5926で、それが72の集団に分かれていた。この数は、すでにユダヤの聖典タルムードに記載されていたものだった[11]。「地獄の帝王」で「ハエの騎士団」の創設者は、かつてのぺリシテ人の「ハエの王」ベルゼプト(パールゼブブ)だった。帝王の副官には、「悪魔の首領」サタン、「火熱の君主」プルートーン、「涙の国の君主」で「ハエの騎士団上級勲爵土」モロク、「地獄軍最高司令官」で同じく「ハエの騎士団上級勲爵士」パール、地獄の「裁判所長官」ルシフェルなどがいた。
バール・バリテは、以前は「契約の神」だったが、ここでは「条約庁長官」の地位に就いていた。バビロニアの冥界の女神エレツシュキガルの夫ネルガルは、地獄の「秘密警察長官」になった。悪魔の「王室」には、「主計官」としてメルコム(ミルコム)がおり、「配膳室長官」にはフェリシテ人の神ダゴンがいた。ヘブライ人の、ゾウ神ビヒモス(本来はブッダの父親ガネーシャ)は、「酌人の長」だった。「宴会係」の中では、ユダヤの悪霊アスモデウスが「賭博場支配人」の地位を占めていた。反キリストは、名もない奇術師で、単なる道化役者にすぎなかった[12]。
地獄の階級制度には、ヨーロッパ各国への大使職も含まれていた。タムズすなわちタンムーズはスペイン大使だった。フェニキアの「ザクロの王」バール・リンモンはロシア大使であり、イギリス大使はマモンだった。イギリス大使にマモンを任命したという点には、イギリス人の商売熱心に対するヨーロッパ大陸側の憤慨が反映されていた。
女性蔑視は、地獄の住人にも及んでいた。地獄の支配階級に属する精霊の中には、女性はほんのおしるしといった具合に、ただ1体しか含まれていなかった。すなわち、 プロセルピネが「女大悪魔」とされ、「悪玉の精霊たちの女王」と呼ばれていた。アシュタロテ(アスタルテー)は、いるにはいたが男性にされ、地獄の「公爵」で「大蔵大臣」だった。女神ベリリは、ベリアルとベルフェゴルという2人の男性になっていて、地獄のトルコ大使とフランス大使だった。
ヴァイアーの『擬似君主国』をまねて書かれたコラン・ド・ブランシの『地獄辞典』でも、女神は男性に変えられてしまっており、男の「悪魔アシュトレト」と男の「悪魔エウリュノメー」の肖像画が載せられていた。タンのアレックス・ド・テルヌープによる悪魔の名簿では、ユダヤ人の伝承でアダムの最初の妻といわれたリリトさえも男性にされ、地獄の「君主」の1人になっていた。すなわち、「ベールゼブブは最高位の首領、サタンは廃位された君主、エウリュノメーは死の君主、モロクは『涙の国』の君主、プルートーンは火熱の君主、パーンはインクブスの君主、リリトはサクブスの君主、レオナルドは魔女集会の会長、ダールベリト(バール・ベリテ)は大祭司、プロセルピネは女悪魔の首領」だった[13]。
ヴァイアーを生真面目に模倣した人物たちは、「擬似君主制」が、実は、地上の階級制度を風刺する戯画として創作された、手のこんだ冗談であることを見落としていた。ユーモアや懐疑は「信仰の時代」とは無縁であり、当時は軽信の態度が学問の中心を占めていた。「信仰の時代」は、子供じみた時代だったのである。魔術師を志す者たちは、何世代にもわたって、魔術のまじないに使うデーモンの名前を探し出そうと、嘲笑的で面白半分のヴァイアーの著作を大真面白に研究した。
ヴァイアーは、キリスト教の階級制度を揶揄しただけでなく、魔女たちを弁護した。医者として召喚され、何人かの異端審問の犠牲者を診断した結果、彼は、被告らは踊された害のない女たちで、拷問によって絞り出された陳述に該当するとは思えない、と断言した。彼は、拷問や火刑をやめさせようとしたが、失敗に終わった。このため、ヴァイアーは異端と不敬の罪で告訴された。バルトロメオ・ダ・シュピナ神父は、次のような無器用な皮肉の言葉で、彼を噺笑した。「最近のことだが、サタンは、大君主の服装に身を飾って、魔女たちの集会に出席し、集まっている魔女たちに向かつて、ヴァイアーとその一派のおかげで、悪魔の仕事は目ざましい発展を遂げており、心配する必要はないと告げた」[14]。
しかし、ヴァイアーのことはともかくとしても、地獄を冗談ですますことはできなかった。地獄は、おそらく人間の精神がこれまでに考え出した幻想の中でも、最もサディスティック(加虐的)なものであり、信じられないような途方もない倒錯的噌好で、記述され、描写され、夢想されていた。レーゲンスブルクのベルトールトは、罪深い人間に加えられる地獄での罰は、白熱化した宇宙の中で白熱化した肉体が味わう苦痛と考えるべきであると言った。「罪深い人間たちには、海辺の砂の数や、アダムの時代からの人間や獣の髪の毛の数を数えさせよ。次に、これらの髪の毛1本が1年の苦痛に相当すると計算させよ。それでもなお、罪人は、彼に課される永劫の苦悶のほんの序の口の所にいるにすぎないであろう」[15]。プラガのマルティーヌスは、キリスト教を捨てた者は、やがて「その肉体を地獄の永遠の業火の中に投げ込まれるであろう。地獄には消えることのない火焔が永久に燃えさかっている。……罪人はもう1度死んでこのような罰を感じなくても済むようにと切に望むが、しかしそれは許されることがないであろう」と言った[16]。
キリスト教会側の人々は、性欲の炎が変化して地獄の火焔となり、この火は、神の息に吹き煽られて、地上の炎には見られないような物凄い熱さになっていると主張した。地獄に落ちた霊魂から出る汗は、その1滴1滴が生きている肉体を矢のように貫通し、苛烈に燃えあがるのだった。各人は、このような汗で全身を永遠に覆われている場合、いかに凄まじい苦痛を味わうことになるか想像せよと言われた[17]。この罪人の汗の話は、中世全体を通じて頻繁に語られた。この話は、『マハーバーラタ』の次の一節に影響されて生まれたのかもしれない。「無限のエネルギーを持った神々の王が怒るとき、その額には恐るべき汗の1滴が浮かび出た。この汗の1滴が地上に落ちたとたん、この世の終わりの日の火焔にも似た巨大な炎が発生した」[18]。
地獄の幻想の中でも最悪だったのは、地獄に落ちた者たちの苦しみを満足の気持で眺めることが許されるのでなければ、天国にいる祝福された者たちの喜びも完璧とは言えないと神学者らが主張した点だった。聖グレゴリウス一世は、恐ろしいほど平然とした態度で、天国にいる「善き」人々は地獄に落ちた者に対して憐れみの気持など全然持ち合わせていないのが当然であると考えていた。聖卜マス・アクイナスは、「天国にいる祝福された霊魂の至福の状態を完全無欠なものにするために、地獄に落ちた霊魂の苦悶をくまなく目にすることが許きれる」と述べた。教会の他の教父たちは、救済された者たちの最大の喜びは、神について想いをめぐらすことであろうが、 2番目に大きな喜びは、救われない者たちが地獄で悶え苦しんでいる様子をじっと観察することであろうと公言した。天国にいる者は、愛する人々や友人たちが苦しんでいても、気の毒に感じることなどありえなかった。なぜなら、救われた者たちが考えることは、神が考えることと必ず一致しており、神は罪人が悶え苦しむのを楽しんでいるように思えたからである[19]。
カンタンプレーのトマス(13世紀の学者で、百科事典編纂者。『事物の本質について』の著者)は、友人や親戚が地獄で苦しんでいるのをじっと見ていなければならないとしたらどうしよう、と苦にしている「素朴な人々」について言及していた。彼の考えは、天国にいる者は何事にも悲しむことがないのだから、そのようなことを気に病むのは馬鹿げたことであるというものだった。夢の中で自分の死んだ母親が地獄に落ちたことを知ったため、母親の死を悲しむことを即座にやめたあの「列福者」オイグニスのマリアの例を、彼は引用していた[20]。
シエナの聖ベルナルディーヌス〔1380-1444フランシスコ会所属の神学者、著作家、巡回説教師。死後6年を経過した1450年に列聖された〕は、天国は完璧でなければならず、天国が完璧であるためには、「地獄に落とされた者たちの呻き声が、十分に混じって」いなりればならないと述べた。救われて天国へ行く者は少数で、大多数の人間は地獄に落ちるというのが正統派の意見だった。ライモンドゥス・ルルス†は、キリストの御慈悲によってほとんどすべての人間が救われるという教えを広めようとしたため、異端の宣告を受けた。キリストはそれほど慈悲深くはなかったのであり、万人を救ってくださるほど慈悲深かったのは、聖母マリアだけだった。エチオピアにおげるキリスト教の伝承によれば、マリアは自分の身内の者たちが地獄の火で苛まれるのを見てひどく悲しみ、彼らを救済する聖典を人間に授けてくださるよう神に願ったという[21]。
ライモンドゥス・ルルス
l3世紀後半のカタロニア地方の哲学者で、 カタロニア語・アラビア語・ラテン語を使って数々の神秘的な著作を著した。ルルスは、フランシスコ会では、「光明1博士」ならびに複数の分野における聖人として崇められた。彼は正式には列聖されなかったが、教皇ピウス九世は1858年にルルス礼拝を公認した。
地獄の幻想の中に潜在していたサディズムは、異端審問官の拷問や火刑によって、あまりにも生々しい形で現実のものとなった。異端審問官の手引き書では、「地獄で味わうことになる苦しみをその一部だけでも示唆するために、永遠の断罪はこの世にいるときから始めなりればならない」と指示されていた[22]。審問官ボダンは、時間をかけてじわじわと火であぷる刑罰にしても、そのあとに待っている地獄の責苦に比べたら、刑罰などと言えないくらい軽いものだと考えていた。彼によれば、「ゆっくりと火にあぶって焼きあげるという方法で魔女たちに罰を加えたにしても、そのような刑罰は実はそれほど大したものではなく、地獄で彼女たちを待ちうけている永遠の苦悶は言うまでもなく、サタンが魔女たちに対してこの世で用意している責苦にくらべても酷いものではない。地上の火は魔女たちが死ぬまでの1、 2時間燃え続けるだけで、それ以上に及ぶことはないからである」というのだった[23]。勿論、このように、地獄に比べればまだ慈悲深いといえる形で殺されたとしても、魔女たちは、多くの場合すでにそのときまでに、数週間、数か月、または数年間の長期にわたって、耐えがたい拷聞にさらされていたのだった。
異端審問官ニコラス・レミーは、魔女たちは、「相応の刑罰を加えられて自分の罪を償うためにも、また、その刑罰の恐ろしさを他の人々への見せしめあるいは警告とするためにも、あらゆる拷問にかけてから焚刑に処すのが妥当である」と言った。魔女たちの子供は、母親が処刑されたときのことを肝に銘じておくようにと、母親たちが火あぶりにされている磔柱のまわりで、裸にされて鞭で打たれることになっていた[24]。異端審問官が子供らを嫌っていたことは明瞭だった。彼らは、 10歳。 12歳、またはもっと年下の子供たちを、「魔女」と称して火刑に処した[25]。1629年にウェルツブルクでは、 7歳にしかなっていない子供たちが、 10歳、 12歳、 14歳、 15歳の子供らと一緒に、魔法を使うという理由で処刑された[26]。
19世紀になるまで、地獄は子供たちに「神を畏れる気持」を投入するための便利な方法として利用された。ファーニス神父の『地獄の光景』には、次のような教訓的な幻想が、子供向けに呈示されていた。
「16歳になる2人の少女のうち、 1人は服装のことにしか興味がなく、ダンスの学校に通って、日曜日にはミサに行かずに公園で遊んで過ごした。この子は今や灼熱した床の上に裸足で立っており、今後とも永久にそこに立ち続けることになるだろう。もう1人の少女は、夜の街を歩き回って、とてもよくない事をした。今では彼女は、燃えさかるかまどの中に入れられて悲鳴をあげている。この少女と一緒になって悪い事をしてまわり、怠けて過ごしてミサにも出かけず、酒を飲んで酔っぱらった少年は、煮立ったやかんの中に首まで浸けられるというひどい苦しみの中で身をよじっている。彼の両方の耳からは罪の報いの炎が吹き出している。同じようなふしだらな行為の罪で、芝居通いをしていた少女の血は、血管の中で煮えたぎっている。血は音をたてて沸騰し、骨髄は骨の中で煮立っており、脳味噌は頭の中でふつふつと泡立っている。慈悲深い神は、『この少女の頭痛がどんなにひどいものか考えてみなさい』とおおせられる」[27]。
オランダの神学者ディルク・カンプへイゼンは、罪深い心の持ち主を矯正することよりも敏感な心の持ち主を不安に陥れてしまうという理由から、若者たちに対するこのような荒っぽい教育法に異を唱えた。人間は誰しも何らかの罪を犯さざるをえない存在であるから、このような教育を受けたために、人々は自分が罪の宣告を受けることを確信するにいたり、「その当然の結果として、魂の中に大きな恐怖と苦悩が生まれ、人生は耐えられぬほど恐ろしいものとなり、自分に対して自殺の判決を下すことになる。このような事例は数多くその中にはわたしの個人的な知人も何人か含まれている。また、自殺をするまでには至らないが、憂鬱や絶望の発作に陥り、ときには気が狂ってしまうこともある」[28]。
ジョン・ウェスレーの場合は非常に冷厳で、彼は、キリスト教全体が地獄に対する恐怖によって全面的に支えられていると主張した。もしも、「消すことのできない火や永遠の火刑が存在しない」ならば、新約聖書の教えはすべてが嘘になり、天国についての啓示を信じる理由がなくなるというのだった[29]。しかし、ウェスレーと見解を異にする神学者もいた。 1682年にヨハネス・クロッペンビュルブ(17世紀の神学者で、『ソッツィーニ主義論駁捷径』の著者)は、「神が永遠に怒っておられ、自分が創造した者たちの有限の罪を無限の責苦で罰したもうというのは、理屈に合わない」と言った[30]。
思想家たちの中には、このように残酷な地獄を創造し、しかも、人間が地獄に落ちるのを防止できる力を持っていながら、あえてそのカを行使せずに人間が地獄に落ちていくのを黙認しているのは、邪悪な神だけが為しうることであると主張する者もいた。この論理に対抗するため、教会側は「自由意志」 free willという教理を編み出した。しかし、ピエール・ベール〔17世紀フランスの神学者で、思想的には、カルヴィン派あるいは擬似カルヴィン派の立場をとった〕が明らかにしたように、「絶対的な自由意志という考え方は、地獄の存在の正当化とか弁神論一般の論拠としては、実は何の役にも立たないのである」。人間に自由意志があるとしても、神が全能であり全知である限り、神は自らが罰する罪に対して最終的責任を免れえない。……神が、人間を創り出す前に、大部分の人聞は自由意志を濫用して罪を犯すことになろうと予見していたのであれば、神は人間の創造を控えることができたはずである」[31]。同様の見解は、すでに2000年以上も前に、『エスドラス第二書』(『エズラの黙示録』の名でも知られている。聖書外典の1つで、英訳聖書からは除外されたが、ラテン語の『ウルガタ聖書』の新約聖書には補遺として収録されている)の筆者によって表明されており、彼は、アダムが罪を犯すのをやめさせる力が神になかったとすれば、神がわざわざアダムを創造した理由は何だったのかと問いただした。
地獄に関する神の責任という問題と取り組む過程で、 17世紀ならびに18世紀の神学者たちは、自らの論理によって、基本的にはマニ教徒が信じていた邪悪なる神と同様の神のイメージを抱かざるをえない場合が多かった。ステリは、「憤って復讐する神は神とは言えず、人間の邪悪な情念の投影に過ぎない。……仮に、神の計画の一部に罪が含まれているというのであれば、聖人だけでなく罪人もまた神の意志を遂行していると言えることになる」と述べた。ジュリューは、「罪に対する神の嫌悪と、罪に対する神の赦しとは、絶対に調和しえない」ことを認めた。彼は、エスドラス書と同じ疑問を、次のように言い換えて呈示した。「もしも神が罪に対して限りない嫌悪を抱いているのであれば、なぜ罪を予見していながら罪を防止することをしなかったのだろうか。なぜ神は、十分承知のうえで、地獄に落ちる運命にある人間を誕生させたのだろうか」。ベールは神のことを、「人間に罪を犯すことを禁じておきながら、しかし人間を罪に追いやり、そのうえで、罪を犯したことを理由にして人間を永遠に処罰する立法者」と記述した。したがって、神は神でもこの神は、「人間が信頼することのできない神であり、欺瞞的でずる賢いしかも公正さを欠いた残酷な性質の持ち主で、もはや信仰の対象たりえない神」にちがいないというのだった[32]。ホウィストンは、地獄が存在しているからこそ、人間の立場から見て神に有罪を宣告せざるをえないとまで結論し、次のように述べた。
「これら大多数の表れきわまる被造物が蒙る激しい苦しみは、彼らを生んだ造物主から憐れみ、優しさ、同情のかけらさえも得られぬまま、永遠の火熱と地獄の炎に投げ込まれることと定められている。この罰は減刑も赦免もなく、永遠に続く。しかも、このような罰を蒙るのは、現世の短い生涯で犯した罪のためなのであり、通常は、悪魔の秘かな罠やその他の激しい誘惑によって陥れられた罪のためなのである。これらの罪を被造物が完全に予防し回避することは不可能である。……これらは、被造物を生み出した残酷で無情な造物主の絶対にして最高の権力と支配の……実例である」[33]。
地獄の「問題」に含まれていた政治的意味を、ぺテルセンは次のように述べた。
「永遠の断罪の教理は、これまでにどのよ うな成果を挙げただろうか。この教理のおかげで、人間は一段と敬虔になっただろうか。事実は正反対である。人間は、永遠に課される罰と自分らが犯す有限の罪との間の残酷で恐るべき不均衡を正しく考量した結果、信仰を失い始めており、聖書にしても、数々の手前勝手な民衆用脅迫手段を発明した聖職者たちが、民衆を支配しておく目的で編纂した書物にすぎない、と考えるにいたっている」[34]。
もちろん、地獄の残虐さを、神、サタン、アダム、あるいは他の神話的存在のせいにしたのは、地獄の真の発明者が人間であるという事実を認めまいとする1つの方法だった。東洋の賢者たちはもっと率直だった。彼らは、「地獄の貧苦というものは、個人の観念の病的な産物である」と言った[35]。しかしながら、個人が抱いた観念は社会によって作られたものであり、地獄の場合はキリスト教会によって作られた。チョーサーの描いた宗教裁判所の召喚吏が、抜け目のない調子で述べているように、人々も、ときには、修道士たちが持っている地獄の詳しい知識は、教会直伝のものであると考えていた。
「この托鉢僧は、地獄の知識が自慢である。だが、そうだとしても、別に驚くことはない。托鉢僧と悪魔とは、縁浅からぬ仲なのだから」[36]。
一般には、まさかそんなことはないと思われているけれども、キリスト教の説くサディスト的恐怖に満ちた地獄の光景が、キリスト教そのものに対する幻滅の主な原因の1つであることを示す事例が数多くある。地獄は不可欠な存在とされたが、それは、地獄がないと、人間を救い出してくる「救済」の場がなくなってしまうからだった。しかし、人々は単に人間であるというそれだけの罪で、地獄に送られる場合が多かったようである。ウィリアム・ブレークは、 「思考が洞窟に閉じ込められているとき、愛は、地獄の奥底に、その姿を現す」と言った[37]。(このプレークの詩句の含意は、たとえば、典拠にあげられているコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』に依れば、「自己発現が否定されると、エネルギーは犯罪または暴力にそのはけ口を見出す」ということ。訳者註。)
学者たちは。最終的には、地獄があると神が人間よりも執念深く見えるという理由から、地獄を否認せざるをえなくなった。ただし、教会が公認し力説してきた執念深さが、実は、神の執念深きではなくて、人間の執念深きにほかならなかったと大胆に認めた学者はほとんどいなかった。シャフツベリは、「性格が意地悪で遺恨を根に持ち、憤怒や怒りに駆られ易く、気性が激しくて執念深く、……不実な性質の持ち主で、人間相互の欺瞞や裏切りを助長し、些細な理由で少数の人々を贔屓し、他の大多数に対して残酷である」ような神は、神として崇めることができないと言った。ベールは、「全能にして善なる神」が、人間を現世の悪で苦しめておきながら、しかも、諸悪を生んだ責任から免れるということはありえないと考えた。「更にこの神が、来世の苦痛や残酷さを生んだ責任からも免除されねばならないとなると」、それは「はるかに難しい」問題だったのである[38]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
人間の死後、死者の魂が赴くところとしての冥界についてのバーバラ・ウォーカーの所説は、次の2つの前提から成り立っている。すなわち、
1)「冥界」と、この世の罪に対する罰を受ける場所としての「地獄」とはまったく違うということ。「地獄」は、父権制の宗教とともに導入されたと彼女は云う。これは案外正しいかも知れない。これについては後述する。
2)「冥界」は、この世を支える土台であって、それは「カメ」が原意だとする。これは、ギリシア神話のタルタロスTavrtaroVと、英語の「カメ(tortoise)」を同義と見たたわごとである。
インド神話に云う。神々は不死の霊薬アムリタを得るために、マンダラ山を引き抜いて、これで海水を攪拌した。このとき、マンダラ山の支点に据えたのがカメの王アクーパーラであると(『マハーバーラタ』第1巻15-16章)。ここに、タルタロスとの共通点は見られない。
今日われわれ〔日本人〕の知る地獄思想なり地獄信仰は仏教に由来するものであり、インドにその起源が求められる。事実、地獄に関する仏典の記載は多彩を極め、地獄信仰が仏教の中で大きく展開したことを示している。しかし、地獄信仰が仏教の中で大きく展開したことと、その起源に関する問題とは、全く別問題といわねばならぬ。何故ならば、地獄とは死後の審判において生前に悪業があったと判決された者が墜ちて苦の報いを受ける場処であり、いわゆる終末論(エスカトロジー)の産物であるからである。終末論とは世の終りに最後の審判があり、善人と悪人とは死後の連命を異にするという信仰であって、ユダヤ教・キリスト教など一神教において発達した宗教思想である。そして、インド最古の文献である『リグ=ヴェーダ』には、太古のイランにおいてと同様に、全く知られない宗教思想であった。すなわち、終末論はインド=アリヤン人の宗教思想の中には見られなかった信仰なのである。
さて、『リグ=ヴェーダ』によれば、死者の住処は天であった。人間が死ぬると、魂はその肉体を離れて、父祖の適った道を通って、永遠の光のある場処に赴き、神々と同じ光明を授けられると信ぜられた。次の『アタルヴァ=ヴェーダ』になると、さらに具体的に描写され、死者は風神マルツの涼しい微風にささえられて天国に運び上げられ、冷たい水を浴びて完全にもとの肉体を回復し、最高の天で父祖たちと会い、そこでヤマと一緒に住む。ヤマは最初に死んだ人間として天国への道を最初に見出した着であり、天国の王者とされた。しかも、ヤマの王国は緑蔭・酒宴・歌舞・音楽にめぐまれた理想の楽土であり、およそ地上では得ることのできない快楽はすべて天国で満たされるのであって、あらゆる肉体的欠陥はなくなり、神々と交わり親しみ、生前に地上で行なった祭祀とか布施の徳が果報を受け、甘美な食物と芳醇な飲物を満契することができ、しかも美女にさえ不自由しないという理想郷であったことが知られる。
しかし、『リグ=ヴェーダ』を見ると、神は罪人どもを刑罰に逐いやるとか、鬼女は際限のない深淵に消えるべきであるとか、悪人は暗黒な所で永劫の刑罪を受けるというような記載は見られるが、死後審判の果報の場処としての地款については記されていない。『アタルヴァ=ヴェーダ』になると、後世において「地獄」を意味するナラカnaraka世界という語が現れ、天国に対立するものとされているが、事実この語は語源的には「人間の〔世界〕」を意味する。しかし、『アタルヴァ=ヴェーダ』の記載では、ナラカ世界は女性の悪魔および魔術師の住処であり、また殺人者の住処ともされており、死者の世界ではない。また、ナラカ世界は黒く、光をさえぎられた最下の暗黒の世界であるとも記されている。また、ナラカとは関係なく、バラモンに唾を吐きかけ鼻汁をかける者はみずからの髪を食いながら血の流れの中に坐るというような記載も見られる。
ところが、後期ヴェーダ文献になると、ヤマは最初に死んだ人間として死と関係づけられ、ついに死はヤマの使者と信ぜられるに至った。また、真理に忠実な者と虚偽を語る者とはヤマの前で区別されるとされ、さらにヤマは他界に到着した人間の善悪の行為を量るという信仰もあらわれた。明らかに死後審判の思想のあらわれであり、仏教で地獄の主とされる閻魔はヴェーダ文献に見えるヤマで、その昔を写したものである。また、後期ヴェーダ文献には「地獄めぐり」のエピソードが見られる。すなわち、高慢なブリグ仙は他界へ赴き、人間が切りきざまれたり食われたりする怖ろしい光景を見てふるえ上ったという。冥界巡歴讃として、また地獄に関する最初の報告として、注目すべき所伝である。また、三つの天界と三つの地款(ナラカ)があると記す文献もあり、後期ヴェーダ文献において地獄の大きくクローズ=アップされた事実が知られる。
それでは、このような変化がどうして起ったのであろうか。後期ヴェーダ文献の時代には、インド=アリヤン人の世界の拡大、特に新しい植民地の開発で、バラモン教の厳重な禁止にもかかわらず、イソド=アリヤン人の開拓者と先住民との間に混血が自然に発生した。その結果、先住民の生活様式なり宗教信仰なりが次第にインド=アリヤン人の間に浸透していったことが知られる。バラモン教は異教的な要素を包含して新らしい展開を見せるに至った。すなわち、原住民の宗教信仰が移入されて、古ヒンドゥ教が漸く成立した時代なのである。しかし、地獄の信仰なり思想なりがイソドの原住民の宗教信仰の影響で成立したという証拠ないしはその痕跡は全く知られていないのである。
ところが、インダス文明の時代以来文化交流の行なわれていたチグリス=ユーフラテス河流域には、古くから地獄の信仰のあったことが知られている。すなわち、この地域に西紀前三千年の頃から栄えたシュメール族の間には「戻ることのない国」クルの信仰があった。冥府クルは地下の陰惨な国で、バビロニアおよびアッシリアのアラルルー、ヘブライ族のシ・エオールとともに、セム民族が古くから持っていた地獄信仰の表象であり、ギリシア人の信じた地獄ハーデースはこのセム民族の信仰の影響で成立したことが知られている。しかも、シュメール族の間には嚮に論及した女神『イナンナの地獄遍歴』説話があり、それはバビロニアでは『イシュタルのハーデースへの下降』の物語として語り継がれた。また、バビロニアのギルガメシュ叙事詩には、エンキドゥの冥界への下降の物語がある。
この冥界への下降あるいは冥界巡歴のテーマは、ギリシアではホーマーの『オデュッセイア』に見られ、その第十一巻においてオデュッセウスは冥界に赴き、多くの英雄たちと野をさまようアキレウスに会う。ディオニュ−ソスが冥界に赴き母を救出する神話については前章に述べたが、そのほかギリシア神話にはいくつかの冥界遍歴譚がある。オルべウスは妻への愛から、ヘーラクレースとテーセウスは友情から冥府へ赴いた。ラテン文学ではウェルギリウス(前70-19)の.『アイネーイス』第六巻に、主人公のアイネーイスはクーマイのシビュレーを訪れ、彼女に案内されてアウェルヌスの洞窟から冥界へ下り、ディードーやアンキーセースの霊に会い、霊魂の潔めと輪廻の説を聞き、またロームルスをはじめ将来のロ−マの偉大な為政者や将軍となるべき霊の姿を遠くから眺めたのち、偽りの夢が人間に送られるという象牙の門から地上へ還ったと記されている。また、プラトーン(前427-347)が『国家論』の最後の巻で、アルメニアの若くて美しいエール王が死んで復活したという伝説に因んで、冥府への下降を論じていることは有名である。
キリスト教の展開とともに、神の王国である天堂界と悪魔の王国である地獄界とが大きく区別されるに至ったが、このような彼岸の世界の表象はダンテDante(1265-1321)の『神曲』に至って完成した。特に、その「地獄」篇は地獄遍歴の文学作品として世界に冠絶した作品といわれる。ここでは、作者ダンテみずから地獄界を遍歴している。
チグリス=ユーフラテス河流域に発した地獄信仰のヨーロッパにおける、このような展開の跡を知るとき、この地方とインダス文明の時代以来文化交流のあったインドが、その例外であったとは考えられない。事実、『リグ=ヴェーダ』と後期ヴェーダ文献との間にたどられる文化の断層は、西アジアの文化の影響によることが知られる。すなわち、『リグ=ヴェーダ』は銅の時代に属するのに対し、ブラーフマナ文献に鉄が見らてるのは、メソポタミア地方における鉄の文化の影響によるものである。また、『リグ=ヴェーダ』においては近親相姦は罪悪視されているのに対し、ブラーフマナ文献に天とその娘の相姦の神話の見られるのは、イランにおける近親相姦の風習に由来する。また、『旧約聖書』に有名なノアの洪水伝説と全く同じ伝説がインドでは人間の始祖マヌに関して物語られているのも、このような文化交流に基づく。
こうして、後期ヴェーダ文献の時代に、換言すれば世紀前十世紀より後に、インドに移入された地獄の信仰は、『マハーバーラタ』の神話においては土着化し、その主宰者ヤマの性格も明確となる。ヤマは父祖の主であり、餓鬼(ブレータ)の王であり、しかも「法の王」として亡者の罪を裁断する。これは明かに終末論である。死んだ人間はすべてヤマの王宮へ行かねばならぬ。ヤマの国土は南方の他の果にあり、暗黒に包まれている。その国土へ到る道は密林のように怖ろしく、また途中には木蔭をつくる樹木もない。飲む水もなければ、休む場処もない。亡者はヤマの意志を執行する使者によって引きずられて行くが、生前に物惜しみせず、また苦行をした者には救いがあるという。すなわち、生前に燈火を与えた者は途中で燈火が道を照らし、断食を行なった老は乳酪を与えられる。
地獄では棍棒や槍や火壺を持つ残忍な獄卒が罪人を責め苦しめ、罪人たちはまた剣の林や熱砂や茨のある木で責めさいなまれる。罪人たちは虫に噛じられ、犬に食われ、また血の河ヴァイタラニーに放りこまれる。かれらは熱砂で焼かれ、剣の葉をもつ樹木に身を切られ、剃刃の葉に身を削がれる。かれらは水を求めても無駄であり、飢渇に苦しむ。特に、ソーマ酒を売る者は三百年のあいだ「叫喚」(ラウラヴァ)地獄に墜ちて、再び生れるときは虫けらなどになる。殺人者は地獄に彼が流した血の滴りの数だけの年数のあいだ留まり、姦通の罪を犯した者は彼の身体の毛孔の数だけの年数のあいだ地獄にとどまる。
地獄は水気の多いところで、あるいは湖とも、あるいは泥土の洞窟であるとも記され、また最下の世界にあるとも記される。
西暦二・三世紀ごろまでに成立したとされる『マヌ法典』および『ヤージュニャヴァルクヤ法典』では、二十一の地獄名が挙げられている。
『マヌ法典』の所伝は若干の出入があるが、ほとんど同じである。しかも、これらの地獄はいずれの法典に拠っても「原罪をせず、かえって罪悪に陥り、しかも悔いることのない人々」が墜ちるところとされ、残酷悲惨と記されているが、どのような区別があるかは記されていない。
ヒンドゥ教の聖典である各種のプラーナ文献にも地獄は詳細に描写されている。例えば、『ヴィシュヌ=プラーナ』には二十八の地獄が記され、七色であるなど、それである。また、地下世界バーターラは七居であるとも記される。さらに、冥界遍歴譚もあり、特に『マールカンデーヤ=プラーナ』におけるヴィパスチット王の説話はインド伝説詩の珠玉の一つとされる。ただここで注意すべきは、これらの文献における地獄は『マハーバーラタ』に見られた終末論の産物ではなく、インドで独自に展開した業報思想において罪の果報を受ける場処であり、解脱は輪廻からの脱出のみを意味したことである。
ところで、嚮に述べた『ヤージュニャヴァルクヤ法典』などの文献に記される地獄名の多くは、例えば「剣葉林」のように、『マハーバーラタ』において地獄の修飾詞として用いられたものが固有名詞として固定したことを示している。ラウラヴァ(叫喚)のように、既に『マハーバーラタ』に名の見えるものもあり、また仏教経典において八大地獄の一つとして挙げられる等活・黒縄・衆合・叫喚・焦熱・阿鼻の名がそれぞれに見られる。いずれにせよ、その命名の基準は一定でなく、インド人に特有な羅列主義・列挙主義の産物であることは明らかである。また、後期における地獄名が二十一あるいは二十八ということは、最初の七すなわち地獄の層の数が三倍され四倍されたことで、同じ思考方法に基づくことはいうまでもない。それと同時に、プラーナ文献において地下世界。パーターラが七層であり七色があるという所伝は、嚮に言及したバビロニアの地下界(ジッグラト)の信仰の影響に基づくことは否定できないであろう。(岩本裕『仏教説話研究・第4巻』p.200-208)