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インターネットで蝉を追う

第16章

メディチ家のイソップ寓話集





[出典]
Aesop's fables. English & Greek.
 The Medici Aesop : Spencer MS 50 from the Spencer Cpllection of The New York Public Library/
 introduction by Everett Fahy ; fables translated from the Greek by Bernard McTigue.
 Illustrations copyright, 1989 The New York Public Lybrary
 Published in 1989 by Harry N. Abrams, Incorporated, New York.

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[解説]

 「メディチ家のイソップ寓話集」は、正式(?)には、スペンサー・イソップ(Spencer MS 50)と称される。それは、この写本がWilliam Augustus Spencer〔タイタニックの海難(1912年)で死亡〕のコレクションに入っていたゆえ。彼からNew York Public Libraryに遺贈され、現在はそこの図書館の所蔵となっている。もとは、ロレンツォ・メディチ(1449-92)の長男ピエロ・メディチの蔵書中にあったことが確認されており、そこからメディチ家のイソップと称されるが、この写本の成立には、じつに驚くべき歴史的背景がある。

 伝存するイソップ寓話集の最初期の集成 — パエドルス、バブリオス、アヴィアヌス — の後、間もなく西ローマ帝国は廃滅し(480年)、東ローマ帝国(ビュザンティン)のみがヘレニズムの文化を継承・発展させてゆくことになる。ここにおいて、イソップ寓話集は、起源の異なる別の寓話を加えて、肥大化の一途をたどった考えられる。そうしたなかで最も価値ある集成は、ビュザンティンの学僧マクシムム・プラヌウデス(1310年ころ没)の手に成る集成(ギリシア語)である。〔他方、ヨーロッパには、10世紀ころ、4巻80話以上のイソップ寓話を集成したロムルス集(ラテン語)ができ、これがヨーロッパ・イソップの主流をなしていた〕。
 プラヌウデスの集成は、144話前後の寓話を集めていたが、何よりもイソップ伝を冒頭に置くところに、最大の特徴を持っていた〔イソップ伝がプラヌウデス本人の手に成るものかどうかは不明。ただ、これが、アラム語パピルスに見られる「賢者アヒカル物語」を下敷きにしていることを忘れてはなるまい〕。しかし、当時のヨーロッパには、もはやギリシア語を解する知識人は皆無に等しく、また、東西の文化的交流もほとんどなかった。

 ところが、ここに2つの潮流が合してひとつになった。ひとつは、澎湃として興ったルネサンスの機運は、当時の知識人たちに、正確なギリシア原典の入手と、ギリシア語習得の情熱をかき立てたとこと。もうひとつは、東ローマ帝国=ビザンティン帝国は、1453年のオスマン・トルコによる滅亡を前に気息奄々、ヨーロッパ各国に救援を求めて使節を遣わしたが、その使節がいずれもビザンティン最高の知識人であったことである。
 プラヌウデスもそういう使節の一人であって、彼はギリシア語とラテン語の橋渡しという重要な役割を果たしたのである。もちろん、彼が携えた書物の中に、イソップ寓話集が含まれていたことはいうまでもない。
 〔プラヌーデス・イソップが、Rinuccio Aretinoによるラテン語訳付きで最初に印刷本になったのは、1480年、ミラノのBono Accurzioによってである。これがいわゆるレミキウス本といわれるもので、以後、寓話集の冒頭にイソップ伝を置く構成は、ヨーロッパにおけるイソップ寓話集の定式となり、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、 そしてギリシア語に訳されていった。その最初期の1作が、ウルリッヒ・ボナーの『宝石』にほかならなかった。〕

 しかし、ヨーロッパ知識人のギリシア語習得の夢は、1397年、やはりビュザンティンの外交官にして学者のエマニュエル・クリュソロラス(Emanuel Chrysoloras)が、フィレンツェに住みついてギリシア語教授を始めるまでかなえられなかった。

「彼が講義をフィレンツェで始めた1397年は、ヨーロッパの文化史において根本的に重要な年である。……彼はグァニノやレオナルド・ブルーニのような優秀な弟子を数人育てた。彼の教育の結果のひとつとして重要なのは、ギリシア語のテクストをラテン語に翻訳する準備ができたことである。……彼の教師としての影響力を示すのは、『質問集』(Erotemata)と題された彼のギリシア語文法の教科書がかなりの発行部数を誇り、結局これがギリシア語の文法書としては印刷された最初のものになった(1471年)という事実である。この本はのちにエラスムスやロイヒリンといった著名な人物によっても使われた」
  (レイノルズ/ウィルソン『古典の継承者たち』国文社、p.224)

 クリュソロラスがフィレンツェを去った後、フィレンツェの支配者コジモ・メディチ(1689-1465)は、ギリシア語教師としてGiovanni Argyropoulosを フィレンツェに招聘し、その弟子になったのが、"Poliziano, コジモの息子のLorenzo de' Medici と John、Duke of Gloucesterの面々であった。さらにそのPoliziano(1454-94)は、ロレンツォ・メディチの子どもたちの先生(tutor)のひとりになった。スペンサー・イソップは、ロレンツォが、子どもたちのギリシア語学習の教材として、金に糸目をつけずに手写したものと考えられている。そして、そこに描かれている見事な挿絵は、当時の一流の画家Gherardo di Giovanni(1444-97)の手になるものと考証されている。

 メディチ家のイソップ寓話集は、明らかに冒頭を欠いており、おそらく、ここ にイソップ伝が入っていたものと考えられている。収録寓話数は139話になっている。
 上の画像は、「セミとアリたち」の寓話が載っている71rであるが、いかにも美本というしかない。
 本文のギリシア語は、point.gifFable114「蟻とクソムシ(kantharos)」の「異文2」とまったく同じである。

  全体の構成(目次)は次を見よ。point.gifメディチ家のイソップ寓話集(目次)
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