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犬儒派作品集成

犬儒派書簡集






[解説]

 ストア派やエピキュロス派のテキストの及ぶ範囲に、犬儒派テキストの集成は現存しない。何人かの個々の著者、例えばアンティステネースやテレースの版は入手できるが、その他の、クラテースやデーメートリオスやガダラのオイノマオスの断片集は、集成されたことがなく、簡単に利用できる形で公刊されたこともない。現存する諸版も容易には入手できず、重要な諸々のテキストが英語に訳されてこなかった。その結果、犬儒主義は、たいてい、Musonius RufusやEpictetusやDio Chrysostomに基づいて研究されることになったが、この人たちの研究は現代語訳によって容易に接しうるものの、彼らの見解はひどくストア派的である。とはいえ、彼らのおかげで犬儒派の伝統は保存されたが、しかしそれは、あたかもルゥキアーノスの戯画が、不幸にも、古代の公衆や数多の現代の作家たちによって共有された犬儒派の見解を提供したごとくであった。ディオゲネース・ライエルティオスにおける犬儒派資料は、たいてい逸話であり、犬儒派に関するユリアヌスの書き物は、非常に後代に基づき、強い釈明的偏向を帯びているので、犬儒派の源泉としては大いに注意して用いられる必要のあるしろものである。

 キリスト教の起源に研究に対するストア思想と犬儒思想の重要性は、長らく認識されてきた。新約聖書の学徒は、セネカ、エピクテートス、ルゥキアーノス、Musonius、Marcus Aureliusuを熟知すべきである、そして、新約聖書は、von Arnimのストア派テキストの集成を手許に置いて読まれるべきであるというJohannes Weissの主張は、世紀の転回期ごろの道徳哲学者たちに対する一般的関心を反映している。議論に供されたのは、本来、Weissによって引用されたストア派原典資料であったが、現代の研究者も、犬儒派-ストア派とは何かを理解するために、今もってこれに大いに依存している。ここでハイフンが用いられるのは、犬儒派とは何か、ストア派とは何かについて曖昧であることに由来する。両者の違いについてほとんど意識されないのは、ストア派と犬儒派の間のみならず、犬儒派同士の間でも然りである。初期キリスト教の多様性について、事細かに輪郭を描くことに苦労している研究者たちが、自分たちが用いる原典資料においては高度に選択的であること、そして、くだんの多様性をわかりやすくするために重要だと彼らが考える文化的、宗教的な文脈の輪郭を描く際に、それらの原典資料を平均的にすることに満足しなければならないとは、皮肉なことである。このようにして、例えばWalter Schmithalsは、ヘレニズムにおける宗教的密使の多様性の印象を与える原典資料に気づきながら、顕著な原典資料として犬儒派的-ストア派的哲人についてのエピクロスの提示を恣意的に選び、これに付言して「他の原典資料を考察しても報われることはない」と確信的に主張した。Schmithalsによって明言されたことが、他の人たちの思いこみとなった。初期キリスト教の哲学的、宗教的文脈の現実的な図をわれわれが得られるかどうかは、もっと大きな正確さを要求されるのであり、そのためには、帝国初期における犬儒主義のよりよき理解が必要である。

 犬儒主義の歴史にとって入手可能な、しかし無視されてきた原典資料は、犬儒派書簡集である。これら書簡集の大部分は、オーガスタス帝時代〔27 B.C.-A. D. 14〕に成り、アンティステネース、ディオゲネースとクラテースというようなこの学派の古代の人士に、また、アナカルシス、ヘーラクレイトス、ヒッポクラテース、そしてソークラテースとその仲間たちというような非-犬儒派によって著された称する。この人たちがみな、犬儒派的見解を進歩させたとして表現されているのである。これらの書簡集の価値は、当時、再覚醒を経験していた時期の犬儒派の証拠を提供している犬儒派の書き物であるという事実のうちに存する。いくつかの書簡の中には、弁論的関心がはっきり認められ得る一方で、それらは時々思考されたものとして、弁論術の学校の練習以上のものであった。いくつかはとくに思想宣伝に相応しいということは明らかなように見えるであろう。他は、犬儒主義内部にあった多様性を反映し、学校の中での議論や討論(debate)の主題となった論点を暴露している。書簡集から浮かびあがってくる犬儒主義の図は、豊かな多様性を有し、ストア派の書き手たちを犬儒派の権威として用いることに、われわれをもっと慎重にさせる。

 犬儒派書簡集が無視されてきた所以は、これが容易には入手できなかったところにある。これらのテキストの最も便利な集成は、ラテン語訳をともなったもので、今もって、1965年に公刊されたRichard Hercherのそれ — "Epistolographi Graeci"(Paris, 1873)である。この集成の英語訳は、ヘーラクレイトスに帰せられる書簡集を除いて、公刊されたことがない。当集成の控えめな目的は、この分野における研究を刺激する期待をもって、より多くの聴衆に書簡集を紹介することにある。本書に含まれる書簡集が代表するのは、犬儒派書簡集の本体ではあるが、全体ではない。例えば、ヒッポクラテースに帰せられる書簡集のいくつかは含まれていないが、含まれているのは代表的なものであって、この資料の紹介としては十二分に務めを果たしているはずである。

 本書は校訂版(critical edition)を気取らない。最近刊行されたテキストはいずれにおいても最良であるが、原文の道具立てを持たない。道具立てを含んでいると、寄稿者たちが心にいだいている目的にとって、写本を不必要に複雑にしてしまうだろう。真面目な学生たちは、校訂版を調べたくなるだろうが、そのテキストはここで再版される。

 翻訳者たちは自分の努力の不備を自覚しているが、その一因は、テキストの壊れた状態や、時には、困難な、あるいは理解しがたいギリシア語に部分的な責任がある。ヘーラクレイトス書簡集のAttridgeの翻訳(これはWorleyのものが完成された後に現れたものだが)を除いて、さまざまな集成の英語訳は本書が唯一入手可能なものである。訳者らの試みが、ここに提供されるものよりも正確でうまい訳を喚起するなら、訳者らの目標のひとつは達成されたことになる。

 手引きは短く切りつめられている。その目的は、個人的見解を不必要に押しつけることなく、主たる刊行物の読者をして、書簡集に触れさせることにあるからである。書誌的情報が他の場所で容易に入手できるときには、ここで繰り返されることはない。さらに、真面目な学生たちは、本書が基礎を置いている源泉を調べることを熱望するであろう。Hockはクラテース書簡集の序論に責任を持つ。自余の手引きはMalherbeが書き、索引をつくりあげた。

(Abraham J. Malherbe)




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