パーソネル・クローズアップ

 メンバーに直接インタビューを行い、素顔を紹介します。

最終更新日(2000.4.29)


●山木 幸三郎さん(G&作・編曲)
 今号よりスタートしたパーソネル・クロズアップではメンバーの素顔を紹介します。第1回目は、ニューハード最古参のメンバーで、ギタリストで作・編曲家の山木幸三郎さんにご登場いただきます。

 1998年3月7日(土)13:00、東京駅八重洲中央口で山木さんと落合い、近くの喫茶店で、2時間近くに渡り取材させていただきました。快く取材に応じていただき、山木さんの心の暖かさに触れたようで嬉しくなりました。ジャイブエーセス時代から、宮間さんと共に50年近く歩んでこられただけに、2時間だけの取材ではごく一部のお話しか伺えず、今後も引き続き取材をしたいと考えています。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
まず最初にプロフィールを簡単に紹介しましょう。
○ 1931年(昭6)4月18日、東京で生まれる。千葉県市川工高卒業。
○ 1951年(昭26)コンボ結成。
○ 1953年(昭28)ニューハードの前身、宮間利之率いるジャイブエーセスにギタリストとして入団。作曲・編曲家としても今日までニューハードに数多くの独創性豊かな作品を提供し続け、高く評価されている。特に日本の伝統的な音階とモダンジャズを豊かな感性でもって見事に融合させた「振り袖」や「土の音」などは、モンタレーJFやニューポートJFなど、海外でも大絶賛を浴びた。
○ 1986年(昭61) ギャラリーヤマキで「音を見る展」出品。1976年頃からスコアーを書くペンでもって何気なくスコア用紙に書き始めた点描画(小さな点の構成によって描く)。最初は小作品中心で友人にあげていたのが、画廊を経営する弟さんのアドバイスで絵画サイズの作品を手がけ、その集大成として開催。その後も数回、地方を含めて個展を開催。なかでもミュージシャンを描いた作品は素晴らしい。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
@  音楽、ジャズとの出会いは?
 初めてジャズを聴いたのは、戦後進駐軍向けの放送で、それまで軍歌とか民謡しか聴いていなかったので「これは、ナンジャ」と不思議な感じでした。
 そして戦後のゴタゴタの時に、富山から東京に出てきて、千葉方面からお米のカツギ屋をして、江戸川区にある寿司屋に買ってもらって生計を立てていました。結局そこの女将さんがカツギ屋をやめてうちで働いて板前にでもなるかと言ってくれて丁稚奉公に入ったんです。
そこのご主人は昔三味線を弾いて、遊郭なんかで流しをしていた有名な人で、その息子さんも音楽好きで、家にあるピアノ、ギター、アコーディオンなどの楽器をいじっていたんです。それでいつ行っても彼が同じ曲を聴いているんで、何をやってるんだと聞くと、楽譜に表しているんだと言うのです。当時ジャズの楽譜なんかないものだから、レコードからコピーしていたんですね。
 当時は音楽に興味はなかったんですが、毎日行っていたら、自然と曲を覚えてしまって、イントロ、テーマそしてアドリブまで全部覚え、鼻歌で歌えるようになったんです。そしたら彼が、驚いて「お前ちょっと待て、もう一度歌ってみろ」と言うので、覚えたグレンミラーの曲とかを歌ったんです。そしたら今度は譜面の書き方を教えてくれて、僕もコピーに興味を持ったんです。楽器も使わず、キーもわからないまま耳で聴いたものを譜面にしていました。このことが音楽に興味を持ったきっかけですね。
 そして初めて楽器を持ったのがスチールギターなんです。派手なのが好きだったんで自分で作ったんです。最初はハワイアンとかウエスタンをやっていたんです。そのうちハワイアンも皆曲が同じで単純だし、だんだん飽きてきて、それでジャズを聴いているうちにやりたくなったんです。それが高校ぐらいです。
A ジャズの勉強はどのように?
 誰も教えてくれる人がいなかったので、有楽町の駅前に出来た「コンボ」というジャズ喫茶などへ行って聴いたり、またブイデスクという大盤の米軍兵用の慰安レコードの中からジャズ盤を兵隊などから借りてコピーしました。あと、よくニュース映画館に通ってコピーしました。当時、毎日新聞ニュースとか朝日新聞ニュースとかいったニュースばかりを上映しているニュース映画館がたくさんありました。だいたいニュース1回が1時間くらいで終わるのですが、その合間に15分程度のタップダンスの映画、漫画、ジャズバンドの映画などの短編が上映されるのです。それで、今週どこどこの映画館ではデューク・エリントンをやっているとか、ベニー・グッドマンをやっているとか聞くと、その日は朝から映画館に行って、その時間になると皆自分たちでコピーして、また1時間ニュースを見て、またその時間が来るとコピーをしていました。当時レコードなんて給料の1ケ月分で手に入らなかったし、プレーヤーを買うといってもなかったので、今では信じられないことですよ。
 それと、進駐軍のキャンプでは兵役にとられ日本に来たアメリカのミュージシャンたちとのジャムセッションで教えてもらったりもしました。
B  プロ活動はいつの頃?
 17歳の頃ですね。何だかんだしていて気がつくと、寿司屋の息子と一緒に進駐軍のキャンプ回りのバンドボーヤをやっていて、そこでギターやいろいろなことを勉強しました。そして、どこかのバンドでギターを探していると聴けば使ってもらえますかと言ってオーディションを受けてバンドを回りました。
 その後、自分の好きなものをやれるメンバーを集めてバンドを作りました。僕と、高見弘(アルト)、稲垣次郎(テナー)、金井英人(ベース)、山崎唯(ピアノ)などで、ビ・バップ等をやっていました。特にジョンソン空軍基地のEMクラブには、一等兵や二等兵が多くて、金曜日とか土曜日のショータイムの時に、テーブルの上に乗ってエキサイティングにサックスブローなんかをやるもんだから、結構受けましたね。
 それから、榎島靖起さん(ドラムス)のバンドに引っ張られて、そこで北村英治(クラリネット)、モンティー本多(ベース:本多俊夫)、高校の時の英語と数学の恩師であったバイブの津田さんたちとやったりとコンボでの活動をした後に、高見君とほぼ同じ時期に、宮間さんのジャイブエーセスに入団しました。
C  影響を受けたミュージシャンは?
 モダンジャズの魅力のとりこになったのは、レコードが聴けるようになってからのことですが、チャーリー・パーカー、クリフォード・ブラウン、ソニー・クラーク、セロニアス・モンク、ジャズ・メッセンジャーズ、ジョン・ルイス、オーネット・コールマン、チャーリー・ミンガスなどの影響を強く受けました。そして、いそのテルヲさんが聴けと言って聴いたのが、ディジー・ガレスビーのビッグバンドでした。今までにない強い感銘を受け、一番刺激となって、それまではコンボばかりでやっていたのですが、1953年にジャイブエーセスに入りました。今でもそのレコード「HR−134EV、ニューヨーク、1946年録音」を聴くと、その時の感動・ショックが蘇ります。
D  アレンジャーとしての活動はいつ頃から?
 コンボ時代でもヘッドアレンジはやっていましたが、ビッグバンドのアレンジはジャイブエーセスに入ってからです。その頃に進駐軍から回って来る楽譜はほとんどダンス用だったので、自分達がやりたいモダンジャズの楽譜は自分達で作るしかなかったんです。それで、高見君と僕とでレコードなどからコピーしながらアレンジをするようになったんです。
 アレンジは書き出したら1曲3〜4時間くらいで仕上げます。書き出すまでどうやるのかを考えているうちは長かったり、短かったりですが、だいたい頭の中で、イントロはどうやって、次はどうやって、こう終わろうかとまとまったら、あとは一気に書き出します。
 各ホーンセクションのリード奏者はだいたいメロディーを吹きますから、あとの奏者がハーモニーになっていて全部違うんです。ですからいかにリード奏者に合わせて演奏するかによってサウンドが変わってきます。同じアレンジの譜面でも、リード奏者が変わっても、サイドが変わっても、またドラマーが変わっても雰意気が変わってきて、そこがジャズの面白いところです。要するに、江戸弁で歌う者もいれば大阪弁で歌を歌う者もいるということです。
E  1974年の初海外遠征、モンタレーJF出演の思い出は?
 あの時の感動は一生忘れられませんよ。1回目のステージはニューハードだけで、2回目はラテン・ナイトということで、ディジー・ガレスビー、カル・ジェイダー、モンゴ・サンタマリアそしてニューハードでラテンの曲をやったんです。それでマンティカをやった時に、ガレスビーが楽器を下に置けと言うんです。するとガレスビーは僕をステージの前に連れ出し、二人で踊ったんです。先ほど言ったようにガレスビーのレコードを聴いて強い感銘を受け、神様と思っている人と共演できて、もうあがっていたんでしょうね。全然覚えてなくて、あとで写真を見てわかったんです。

F 山木さんにとってニューハードとは?

 僕にとっては、ニューハードはすべてですよ。青春から今日までもうニューハードだけですよ。そして宮間さんはビッグバンド界の巨人だと思っています。
G 現在のレギュラー・ビッグバンド界について?
 経済的な理由等で、メンバーも複数のビッグバンドを掛け持ちするようになり、リハーサルバンド化していることは事実ですが、やはりメンバー一人ひとりがニューハードのメンバーであるといったプライドを持ってほしいと思います。ぱっと音を聴いた時に、ニューハードの音だとわかるくらいにね。
H  プロを目指す学生に対して一言
 これからの時代は国際的な感覚を身に付けないとだめだと思います。今の日本のマーケットでは仕事は厳しいですから、言葉も英語くらいは話せるようになってほしいですね。それと音楽、ジャズだけでなく、人間として幅広く見聞を深め、いろいろなことを吸収してほしいものです。それは特にアドリブにも出てきます。いいアドリブを演奏しようとするなら必要なことです。
 もちろんテクニックはあるに越したことはありませんが、それはあくまでも技術であって、それをいかに応用して音楽として表
現できるかが重要なことです。


●岡田  澄雄さん(B−tb)
 1998年5月9日(土)に「山木幸三郎+ニューハード・リズムセクション」のライブが、岡田氏が経営するライブハウス「さくらんぼ」で行われ、その際に取材をさせていただきました。当日は40人近いお客さんで満席状態となっており、岡田氏も自ら厨房に入り、料理を作るなどの多忙な中、休憩時間と閉店時間後にお時間を頂戴してお話を伺いました。気が付けば、京王線最終電車0:08発のぎりぎりまでお店に陣取っていました。でも安心、お店から柴崎駅まで5秒、新宿で中央線最終電車と連絡されており、無事東京駅に着き、ホテルに戻ることができました。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
まず最初にプロフィールを簡単に紹介しましょう。
○ 1947年(昭22)5月27日、京都府
福知山市で生まれる。
○ 地元中学校の入学式で吹奏楽部が校歌を演奏したのを聴いて、吹奏楽部に憧れ入部。高校時代も吹奏楽部で活躍し、近畿地区の大会で優勝。
○ 卒業と同時にプロを目指し上京。間もなく「松田運とブルーソックス」に入団して全国各地で演奏。その後「ダン池田とニューブリード」に移籍。
○ ニューブリード退団後は、スタジオミュージシャンとして多方面に渡り活躍。またフランク・シナトラ来日時の日本側ミュージシャンとしてたびたび参加。
○ 1995年(平7)、ライブハウス「さくらんぼ」を前オーナーから引き継ぐ。
○ 1997年(平9)2月、ニューハードに入団。現在に至る。
♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪
@  トロンボーンとの出会いは?
 中学校の入学式の時だったんですが、先輩達の吹奏楽部が校歌を演奏したんです。それを聴いて楽器をやりたいなあと思い、吹奏楽部に入部したんです。それでたまたま余っていた楽器がトロンボーンだったので、トロンボーンを吹くことになったんです。そこでトロンボーンをマスターして、高校に入ってからも吹奏楽部に入って活動をしていました。高校1年の時には25人編成の近畿地区の大会で優勝しました。当時ジャズはグレンミラーやトミードーシー、そして園田憲一とディキシーキングスなどをよく聴いていましたね。
 それである日、福知山にザ・ピーナッツがやって来たので行ってみると、バックで演奏していたのが「松田運とブルーソックス」というフルバンドだったんです。それを聴いて、僕にはトロンボーンしかないと思い、将来は絶対プロのトロンボンニストになるんだと心に決めたんです。
A  プロ入りはいつ頃?
 高校の時に将来プロになりたいと思っていたので、卒業式の翌日に早速上京して、「松田運とブルーソックス」のトロンボーンニストに押しかけて、何とか働き口を見つけ、舟木一夫のバックバンドに入り、地方を巡行していました。その後、ブルーソックスから声がかかり、入団しました。当時ブルーソックスは渡辺プロダクションの専属だったので、数多くの歌手と地方公演に回りました。当時の歌謡曲の譜面は、宮川泰さん、森岡賢一郎さん、東海林修さんといった素晴らしい編曲者によるものが多かったんで勉強になりました。
 その後「ダン池田とニューブリード」に4年ほど在団して、毎日のようにテレビの歌伴などをやっていました。そして退団後はスタジオミュージシャンになり、いろいろなところで活動していたんですが、片岡輝彦さんから誘われて昨年2月にニューハードに入団したんです。
B  岡田さんにとってニューハードとは?
 高校の時からの憧れの的のバンドですので、ニューハードで骨を埋めるつもりで、これからも頑張って行きたいですね。特に宮間さんを尊敬しています。宮間さんのプロ意識というかプロ根性というか、もう感服しますね。音作りについては、自らマイクのセッティングとレベルチェックをして、リハーサルでは既に本番の衣装に着替えて、客席の一番後ろへ行ってサウンドのチェックまでもされます。音作りへのこだわりというか自ら納得できる最高の状態でお客さんに聴いてもらおうとする姿勢ですね。また、最近でこそ他のバンドもやっていることですが、全国の中学校・高校での芸術鑑賞会も生徒の心までにも入り込んで、如何にジャズを伝えようか、どうしたら興味を持ってもらえるのか、プログラムにも常に工夫がされ、若いジャズファンを育てて行こうとする姿勢が現れていますね。
 それと何と言っても、我々以上にお元気なことです。地方公演でも集合時間には一番早く顔を出されており、仕事が終われば日帰りという強行軍もへっちゃらですからねえ。
C  尊敬するミュージシャンは?
 何人かいる中で一番尊敬する人と聞かれば、フランク・シナトラです。実はスタジオミュージシャンだった頃、フランク・シナトラの公演のバックミュージシャンとして5回参加しているんです。1回は香港公演で、あと4回は来日公演です。バリトンサックスの原田忠幸さんは外国ミュージシャンの日本公演での音楽監督をよく担当されており、フランク・シナトラの来日公演の時も担当され、ベース・トロンボーンを探しているということで声をかけていただき、参加したんです。
 その時にフランク・シナトラのショーマン・シップを現場で目の当たりに見て尊敬するようになりました。どんなコンサートでも絶対手を抜かない、観衆には最高のものだけしか披露しないといったプライドです。例えば、来日公演のリハーサルを大阪のホテルでやった時、オーボエ奏者が東京にいて来ておらず、しかも1曲4小節の出番しかないのに、わざわざ東京から呼んだり、ストリングスの数が少ないと言って、急遽2倍に増員させたりと経費土返しで最高の音作りをするといった精神ですね。その代わり我々ミュージシャンには最高の信頼と敬意を払ってくれるのです。
 フランク・シナトラが「マイ・マザー・イズ・トロンボーン」と言っています。これは、トミー・ドーシーのトロンボーンから歌を唄う時のブレス・コントロールを学んだということを言っているのです。確かにフランク・シナトラの歌をよく聴いているとトミー・ドーシーに聴こえてきますよ。
D  ニックネームは?
 ジョージです。「ミスター・ベース・トロンボーン」の称号があたえられているベース・トロンボーン奏者の神様ジョージ・ロバーツからきています。彼はフランク・シナトラのレコーディングメンバーでもあり尊敬しているミュージシャンの一人です。
E  趣味は?
 ブルーソックス時代に全国各地を回り、その土地のおいしいものを食べてきたこともあって、おいしいものを食べてビールを飲むことですね。料理は結構自分で作るんですよ。さくらんぼでも作っていますよ。
F  ライブハウス「さくらんぼ」について?
 もともと僕自身が常連客だったんですが、3年前に前オーナーが店を手放すことになり、僕が後を引き継ぐことにしたんです。現在ジャズシーンからお客さんが減っている中で、一人でも多くのジャズを聴いてくれる人を育てたいという気持ちで店を経営しています。特に学生さんには、ジャズを聴いてもらいたく、いずれ彼らの中から素晴らしいミュージシャンが生まれることを期待しています。ライブチャージは学割ですし、100%ミュージシャンにバックしています。
    


下記メニューのボタンをクリックしてください。

コンサートやライブレポートなど、最新の情報を提供します。
ニューハード歴史物語(半世紀におよぶ歴史を宮間氏の証言から紐解きます。)
ディスク・レビュー(過去にレコーディングした100以上のアルバムを順次紹介します。)
私が推薦するこの一冊(ジャズ関係の面白い書籍等を紹介します。)

    「宮間利之とニューハードを応援する会」のトップページに戻る


Copyrigft 2000, Shigeru Yamamoto. All rigfts reserved