ニューハード歴史物語

半世紀に渡るニューハードの歴史を、宮間氏への取材証言に基づき紐解きます。

    最終更新日(2000.4.29)


 ホームページ開設にあたり、あらためて「宮間利之とニューハード」が歩んできた半世紀の歴史を紐解いてみます。オールドファンの方には懐かしく、若いファンの方にはこの偉業ともいうべきニューハードの足跡を見ていただければ幸いです。

1.年表編(1998.1.27)
 まずは年表編として半世紀を紹介しますが、次回からは年代を追って宮間氏への取材をもとにさらに詳細に紹介していく予定です。

1921年(大10) 宮間利之、千葉市内の料亭「魚岩」の一人息子として生
         まれる(10月30日)。
1939年(昭14) 海兵団に入隊。海軍軍楽隊に進み、戦艦「日向」「山城」 
         「長門」「大和」と乗り継ぐ。
1945年(昭20) 復員。クラリネット、アルトサックス奏者として、川口ダ
         ンスホール、メリーゴールド、オアシス・オブ・ギンザ等に
         出演するバンドを歩き、「後藤博とディキシィーランダーズ」
         を経て「レイザー・バック」に加入。
1950年(昭25) ニューハードの前身である10人編成の「ジャイブ・エイ
         セス」を結成。グランド・ハイツの「NCOクラブ」に出演。
1953年(昭28) ジョンソン空軍基地「NCOクラブ」に移り、山木幸三郎 (
         ギター)、高見弘(アルト)が書いてくるモダンをもっぱら
         演奏して、若い米兵に受ける。
1958年(昭33) ジョンソン空軍基地を飛び出したのを機に、ウディー・ハ
         ーマン楽団にちなんで「ニューハード」(新しい群れ)と改
         称。メンバーも増員し、この頃から指揮者に専念する。
1960年(昭35) 東大の五月祭に出演。当時キャンパスでジャズが演奏され
         るのが珍しく話題となる。この頃からテレビ・マスコミ等に
         進出。またレコード制作にも意欲的に取り組む。
1965年(昭40) 「モダン・ジャズ三人の会」(前田憲男・山屋清・三保敬
         太郎)への出演により、芸術祭奨励賞を受賞。
1967年(昭42) ジャズ・クラブ渋谷「オスカー」に出演開始。その後銀座
         「ジャンク」に移り継続出演する。
1968年(昭43) ニューハード音楽事務所を設立。
1969年(昭44) 第1回リサイタルを開催(9月17日)。
          「パースペクティブ」(日本コロムビア)、スイング・ジ
         ャーナル誌(以下、SJ誌)の第3回ディスク大賞「特別企
         画賞」受賞。
1970年(昭45) 大阪万博ホールでのコンサートに出演(8月)。
          第2回ニューポート・ジャズ祭イン・トーキョーでセロニ
         アス・モンクと共演(10月4日)。東芝よりライブ盤発売。
          「天秤座の詩/ニューハード+佐藤允彦」(日本コロムビ
         ア)、SJ誌ディスク大賞「日本ジャズ賞」受賞。
          「四つのジャズ・コンポジション」(東芝)、第25回芸
         祭優秀賞受賞。
1971年(昭46) 「牡羊座の詩/ニューハード+富樫雅彦」(日本コロムビ
         ア)、SJ誌ディスク大賞「日本ジャズ賞」受賞。
          来日したチャーリー・ミンガスとのレコーディング(日本
         コロムビア)。
1972年(昭47) 「耶馬台賦」(東芝)、第27回芸術祭優秀賞受賞。
         入場無料のフリー・コンサート第1回を開く。
1974年(昭49) カリフォルニアのモンタレー・ジャズ祭に出演して7000
         人の観衆からスタンディング・オベイションを浴びるという
         快挙を遂げる(9月20日・22日)。トリオよりライブ盤発
         される。
          ナンシー・ウィルソン来日公演のバックをつとめる。
1975年(昭50) ニューヨークのニューポート・ジャズ祭に出演し、「どう
         しょうもなくヒップなバンドである」という賞賛を浴び、2
         年連続で世界の桧舞台を制覇する(6月30日)。RCAよ
         りライブ盤が発売される。
1976年(昭51) ジャズ発祥の地、アメリカ建国200年祭にちなんで3部構
         成の記念コンサートを開催。
1977年(昭52) 「オーケストレーン」(日本コロムビア)、SJ誌ディス
         ク大賞「特別企画賞」受賞。
1978年(昭53) 国際交流基金の対外文化交流事業の一環として、南米コン
         サート・ツアーを行う。ベネズエラ、ボリビア、チリ、コロ
         ンビアの4ケ国を訪れ、ジャズを通じて親善をはかった。ボ
         リビアでは標高3800mの中で高山病にかかるメンバーが出
         たが、気力と体力で切り抜ける(3月1日〜21日)。
          ルー・タバキンとの共演でダイレクト・カッティングのレ
         コーディングを行う。RCAより発売。
1979年(昭54) 現代音楽畑のピアニスト、加古隆の作・編曲による前衛色
         の濃い作品「EL・AL」(テイチク)をレコーディング。
          上田力のオリジナル曲による初のフュージョン・サウン
         ド「ビッグ・スタッフ」(キング)をレコーディング。翌
         年にも第2作「ハードランド」(キング)をレコーディング。
1982年(昭57) インドの国際ジャズ祭「ジャズ・ヤトラ*82」に唯一のビッ
         グ・バンドとして出演、人気のトップをさらう(1月31日)。
1984年(昭59) 東欧(ハンガリー、ユーゴスラビア)国際親善公演。
         南仏の「ニース・ジャズ祭」に日本から初めて参加して、「
         日のいづる国、日本のジャズ」と題して地元誌で絶賛される
         など、日本のジャズの実力を見せつける(7月6日・7日)。
          SJ誌「第10回南里文雄賞」を宮間利之氏が受賞。日本
         のジャズ界発展への貢献とビッグ・バンド一筋に歩み、国内
         はもとより世界に日本のビッグ・バンドの実力を知らしめた
         功績が大きく評価される。
1993年(平5)  ニューポート・ジャズ祭イン斑尾に出演。
1994年(平6)  12年ぶりの新譜「ビート・ジェネレーション」(キング)
         をレコーディング。若手プレーヤーたちとのコラボレーショ
         ンによる力作。
1995年(平7)  宮間利之音楽生活50年・ニューハード結成45周年記念コ
         ンサートを開く(5月21日)。
1996年(平8)  「Memories for 21st Century」と題したシリーズ・
         コンサートをスタート。
1997年(平9)  「ビッグ・バンド・バトル・ロイヤル」と題して、若手リ
         ハーサル・ビッグ・バンド、香取良彦オーケストラと競演、
         NHK−FMでオンエアされる。

2,ニューハード歴史物語「その@」
 宮間利之青年期編 ジャズとの出会い〜海軍軍楽隊時代〜終戦
いよいよこれから宮間氏や関係者への取材をもとに、年代を追って詳細に紐解いてみたいと思います。
 第1回目の取材は、1998年2月12日(木)、13:30〜16:00まで、西麻布にあるニューハード音楽事務所にて行いました。50〜60年以上前の話を懐かしく、生々しく語っていただいた宮間氏に心から感謝いたします。

● 音楽との出会いはハーモニカバンド、ジャズとの出会いは中学近所の息子に借りたSP盤
 中学2年の時、学校ではなく、近所の息子さんが千葉のヤマハ楽器店からハーモニカの支給を受けて、ハーモニカバンドを作ったんです。それで興味を持って入ったんです。12〜13人のメンバーで、藤山一郎の「青い背広」とか「東京ラプソディー」などを演奏していました。それが音楽との出会いですね。
 彼の家には、日本のあきれたボーイズ、ディック・ミネ、服部トミコ、ベティ・稲田、松本伸、谷口又士とか当時アメリカからきた音楽映画のSP盤がたくさんあって、それを借りてポータブルのプレーヤーで全部聴きました。それがジャズとの出会いになるんでしょうね。それで、千葉のジャズ喫茶でトミー・ドーシーのクラッシックをジャズ化したものとかを聴いて、よりジャズが好きになっていったんです。
 その後、17歳の頃、私が日本橋の白木屋(百貨店)に勤めていた時、近くに「エリントン」というジャズ喫茶があって、お昼になるとそこへ行って、ベニー・グッドマンやデューク・エリントンを聴いていたんです。それで将来絶対ジャズをやるんだと心に決めたんです。またその頃近所の息子は銀座の十字屋の洋楽レコード部に勤めていて、僕は白木屋の仕事が終わると歩いて彼のところに行き、「また新譜が入ったよ」と聞くと試聴室で一生懸命聴きました。彼からは海軍軍楽隊にいる時に一度手紙が来ました。「アメリカのホーギー・カーマイケルがスターダストという曲を出したけど、なかなかいける」と言って楽譜を送ってくれました。それで僕もクラリネットで吹いたりしました。
● ジャズをやりたくて海軍軍楽隊へ
 海軍軍楽隊には将来ジャズをやりたくて志したんです。毎年全国から50人しか採用されないんですが、2月の寒い頃に千葉で試験を受けました。楽器を演奏する実技試験はなかったので、ブラスバンドをやっていた人や僕のように管楽器の未経験の者もいました。
 それで1939年(昭14)、18歳の時に横須賀の海兵団に入団して、最初の3ケ月間は新兵期間として、銃の持ち方、分解の仕方、手旗信号など兵隊としての基礎訓練を受けました。その後1年間が軍楽隊の練習生として楽器をマスターしてパート練習や合奏の練習をしました。
 練習生の1年間は、まず最初に、自分がやりたい楽器の教官を志望して、教官が適性を見て決まるんです。僕はもちろんベニー・グッドマンの影響を受けていましたからクラリネットを志望しました。月曜日から金曜日まで午前・午後と各パートに分かれ、教官の指導でエチュードをやり、土曜日には各パートが集まり50人で合奏するんです。リストのハンガリアンとかマーチやオペラの序曲なんかを練習しました。そして1年後に50人は、各艦隊の司令長官が乗っている旗艦に配属されるのです。当時第一艦隊から第五艦隊までありました。
 それで僕は1941年(昭16)6月に第一艦隊に配属となり戦艦日向に乗りました。第一艦隊はだいたい連合艦隊と一緒に行動するので、瀬戸内海の呉の沖合いにある柱島が連合艦隊と第一艦隊の基地でした。柱島の港に入っている間は毎日、午前中はその日の司令長官が昼食をとる時の昼奏楽(ひるそうがく)の曲目を練習します。そして11時になるとわれわれは先に食事を済ませ、12時になると司令長官と参謀らが昼食をとるので露天甲板で演奏するんです。食事に合わせて曲も変えていきます。初めはスープから始まるので、軽いストラウスのワルツやオペラのオーバーチュアとか、元禄花見踊りを演奏して最後にマーチとか軽いワルツで終わるといったように。そして午後からは自分達の好きな曲を練習しました。日曜日には外出して喫茶店でジャズを聴いたりしました。
● ハワイ・マレー沖海戦、ミッドウェイ海戦に参戦
 1941年(昭16)12月、太平洋戦争突入のハワイ・マレー沖海戦に参戦しました。夜明け前の午前4時頃、第一艦隊の乗った日向は呉の柱島から巡洋艦、駆逐艦を交えて軍艦マーチで出港したんです。楽器は全部倉庫にしまい、軍楽隊も下士官は電信兵と通信兵に分かれ、兵隊は玉があたったところの消火にあたったり、伝令も行うのです。艦橋に座っていて、そこには伝声管があり、こちらからの声が管を伝わって向こうに届くというもので命令や連絡を伝えるのです。また、伝票みたいな紙に書いたものを丸めて筒に入れて、管に入れると圧搾空気で向こうに届くという空気伝送管もありました。
 その後、われわれが乗っていた日向は柱島に戻り、第一艦隊は伊勢に旗艦変更して、さらに山城に旗艦変更しました。その時に長門は連合艦隊の旗艦で山本五十六が乗っていたんです。そして大和が完成すると連合艦隊が大和に乗ったので、第一艦隊は長門に移りました。
 1942年(昭17)7月のミッドウェイ作戦では、第一艦隊と第二艦隊は欺まんでアラスカの方へ向かってそれから南下してハワイに向かったんです。波がすごく高くて、戦艦は木の葉のように揺れ、向こうの船が見えないと思っていても急に波の下から現れるといった状況でした。防寒服を着て、艦橋の階段を登る時は船が波で下がる時にその勢いで上がるんです。まるで滝のように波が襲い掛かってくるんです。そうかと思えば南下してハワイに近くなってくると、今度は熱くて防暑服に着替えるんです。
 当初は電波探知機(レーダー)を積んでいなかったので、行動力のない戦艦は一発で沈んでしまいます。アメリカの飛行機には電波探知機が積まれており、日本の航空母艦、赤木とか加賀はやられてしまいました。レーダーを開発したのは日本人なんですが、実際に使ったのはアメリカで、日本は4年間の戦争で最初の2年間は電波探知機なしで戦っていたんです。飛行機にしてもゼロ戦はジュラルミン製ですが、小回りがきいてスピードが出るように防弾装置を極限まで切りつめて軽量化をはかっていたので、例えると紙や布みたいなもので、一発弾が当ればメラメラ燃えちゃうわけですよ。
 その後、柱島に戻り、今度は大和に乗って1ヶ月後、柱島からトラック島基地に向かって出港する直前の1943年(昭18)に大阪に転勤となりました。当時大阪海軍警備府に海兵団がなく、1年後くらいに大阪商大が海兵団となり、そこにいました。そして日本はいよいよ負け戦となって1945年8月15日に終戦を迎えました。もし大阪転勤がなく、大和に乗っていたら、徳之島西方の海底に沈んでしまっていて、今の僕はなかったでしょう。
● 終戦、これで好きなジャズができるんだ
大阪の海兵団で終戦を迎えたわけですが、米軍が接収に来て、当然われわれは捕虜となって東南アジアあたりで使役に使われると思っていたんです。ところがアメリカの司令官の乗ったジープがやって来て、兵隊たちがわれわれにタバコの「ラッキーストライク」や「キャメル」、そしてチョコレートを見せて「トーニエン、トーニエン」(ten-yenあるいはtwenty-yenで10円、20円の意味である)と言って、売りに来るんです。僕らは1週間に一度タバコの配給があっただけの頃に、彼らはいくらでもタバコを持っていて買ってくれ買ってくれと言うんです。でもこれがまた美味しいんですよね。そしてわれわれに友達のように接して来たんで、全く拍子抜けしました。
 間もなく、WVTRという進駐軍向けのラジオチャンネルが開局され、そこにダイヤルを合わせると、ジャズがウワーと流れていて嬉しかったですね。アメリカの巷で流れている音楽が全部放送されていて、これで僕も好きなジャズが演奏できるんだなあ思いました。ベニー・グッドマンが1935年から1940年頃までやったジャズがどんどん流れているんです。でも僕が4年前にジャズをやろうと思った時と音が違ったんです。ジャズの流れも変わって来ていて、ちょうど1945年、マイルスがバップを始めた時なんですよね。
 それで10月頃に復員して東京に戻ったわけです。   
 (その@完)


「そのA」宮間利之プロ入り〜バンドマン時代〜ニューハード結成
 今回は、太平洋戦争終戦後、復員した宮間利之氏がミュージシャンとしてプロ入りして歩んだバンドマン時代から、自己のバンド「ジャイブエーセス」の結成、そしてフルバンド「ニューハード」に改称し、東京へ進出してきたあたりまでを紹介します。
● 神田で買ったアルトサックスを持ってプロ入り
 1945年(昭20)8月15日に終戦を迎え、復員して10月頃に東京に戻ったんです。既にアメリカの占領軍によって都内周辺全域にわたる建物が占領軍施設として接収されており、各施設に設けられた進駐軍用クラブに日本人のジャズバンドが出演しはじめいたんです。
 それで僕もとにかくプロになろうということで、神田で1本のアルトサックスを買って、松坂屋の地下に出来た米軍兵用のダンスホール「オアシス・オブ・ギンザ」や銀座3丁目にできたダンスホール「メリー・ゴールド」に出演するバンドに入ったんです。海軍で持っていたクラリネットはSクラリネットと言う軍楽隊には1人しかいないクラリネットで、少し小さく、キーも高く、これを持っていても仕方がないのでアルトサックスを買ったんです。アルトサックスで初めてジャズを演奏したんですが、ジャズの吹き方は海軍軍楽隊の曲と全然違うんです。いわゆるアフタービートとシンコペーションですよね。でも僕は昭和12、13年頃からジャズが好きで聴いており、ジャズのフィーリングが身についていたので、戦前のジャズミュージシャンの中に入ってもリードは出来なくても3番くらいは初見でその人達に負けないくらい吹けたんです。
 その後、アーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場が接収)にあった米軍兵慰問のためのオフィスに所属して、そこで日大の学生4、5人等と「ラッキー・パピー」というバンドを作ったんです。当時、歌手やバンドが一つのパッケージになっていて、毎晩GHQのいるところへ行くんです。司会はトニー・谷がやっていました。昼間はアーニーパイル劇場のロビーで練習をして、その時にジャズのコーチに来ていたのが、服部良一なんです。ところが日大の学生は譜面が読めないので一曲一曲仕上げるのに時間がかかってしまうんです。それでラッキーパピーでやっているのがつまらなくなってきて、これでは僕自身が勉強できないと思い、他のバンドに移りました。
● スペシャルAバンド「後藤博とディキシーランダース」に入団
 しばらくしてラッキーパピーにいた広瀬正君(後に「スカイトーンズ」を結成)が「後藤博とディキシーランダース」のセカンドテナーで入っていて、僕のところにやってきて「宮間さん、後藤さんのバンドに入ってくださいよ」と言うんです。それでオーディションを受けに行ったら、僕が初見でバリバリ吹くもんだから後藤さんが喜んじゃって、「さっそく明日契約に来てください」ということになり、翌日後藤さんのバンドが所属しているプロダクション「アクターズプロ」に出向き契約を交わしました。
 その帰り後藤さんが日本橋あたりの焼け野原にあった掘っ建て小屋の豚カツ屋さんに連れて行ってくれたんです。当時の食事は半分はじゃがいも、さつまいも水団などの代用食ばかり食べていたんでびっくりしました。それで広瀬君が「宮間さん、バンス(=アドバンス:前貸金と言う意味で、当時のミュージシャンは借金があるような状態がステータスとなっていたらしい)しておいた方がいいですよ」と言うので、僕はいらないと言ったんですが広瀬君がとっておいた方がいいと言うから確か2万円くらい受け取りました。
 「後藤博とディキシーランダース」は“スペシャルA”という最高クラスの格付けバンド[当時、ジャズメン不足につけこんで法外な出演料を請求するバンドが出てきたため、妥当な出演料を定める制度として「バンド格付け審査」が1947年(昭22)から行われるようになった。上位よりスペシャルA、スペシャルB、A、B、C、Dの6つのランクにより出演料が定まっており、格付けを受けないと米軍クラブでの仕事が出来なかったので進んで協力されるよになったが、1952年(昭27)にはこの制度は全廃された。]だったんで、帝国ホテル、第一ホテル、有楽町ホテルなどの将校がいる場所での仕事でした。
 当初はバリトンサックスを吹いていたんですが、3番アルトが辞めたんで僕が3番に回りました。帝国ホテルで演奏する土曜日の夜はリードアルトが最終電車に乗るため11時半頃途中で帰ってしまうんで、僕がリードを吹かされるんです。初見で譜面が読めても、将校が奥さん連中と踊ったりする中でリードを吹くということは結構難しく、固くなっちゃいましたね。それでもうちょっと勉強したいなあと思っている時に奥田宗宏さんから「ブルースカイオーケストラ」に来てくれないかと誘われて、そこならスペシャルAでなかったので自由に吹けるということで入りました。後藤さんのバンドは元N響のクラリネット奏者とかトロンボーン奏者とか偉い人ばかりいたんで、25歳くらいの若手が吹くにはぶるっちゃっうんですよね。奥田さんのバンドは若手起用していたので、僕くらいの年の者が5、6人いたんで、伸び伸びと吹いていました。
 その後、「レーザーバック」に入ったんです。サックスセクションは僕がリードで広瀬君が2番、そして宮沢昭が4番でした。
● 自己のバンド「ジャイブエーセス」結成〜「ニューハード」に改称して東京へ進出
 まあこんな風に戦後すぐにプロになっていろんなバンドを回ったんですが、やはり自分のバンドを作りたいということで、それまでに一緒にプレーした者の中から気の合う者やいいプレーヤーを集めて、1950年(昭25)に10人編成の「ジャイブエーセス」を結成したんです。
 日本各地の米軍基地にあるサービスクラブや米軍病院などいろんなところで仕事をしました。各基地には、兵隊のクラブとしてサービスクラブ、下士官のクラブとしてNCOクラブ、将校のクラブとしてオフィサーズクラブなど娯楽施設がありました。中でもサービスクラブの仕事が一番面白かったですね。兵隊が多いサービスクラブには黒人兵も多く、リズムアンドブルースやジャズを演奏できたんです。ショーの時には日本のジャズミュージシャン、例えば吉屋潤(テナー)が来て、あらかじめ空けておいた客席の2つのテーブル上に高見(アルト)君と吉屋君が上りアドリブ演奏したり、ロングドラムソロの時は他のメンバーは控室に戻り、またドラムの合図でステージに戻るといった演出など結構受けましたね。ところがNCOクラブは下士官ばかりで、あまり音を大きく出さないダンス音楽専門で、ワンステージ30分に2、3曲歌が入り、3、4回のステージで7時頃から11時頃まで演奏するんです。オフィサーズクラブになるともっとスイートなシャンペンミュージックなんです。ちょっと音が大きくなると「シー」となって、ミュートをつけて演奏しなければならないんです。
 あと懐かしい思い出として、鳥取県の「おおしのず」という所に米軍がいまして、僕たちが演奏旅行で半年間滞在していた時があったんです。当時はまだテープ式磁気録音機といったものがなく、自分たちの演奏の出来をチェックするためにアカイから出ていたアルミ板に直接カッターで溝を切るといった録音機を使ってリハーサル演奏を録音していたんですが、再生する時は竹針で聴くんです。でも何回も聴けないので、アルミ板と竹針を東京までわざわざ買いに行ったこともありました。
 その後1953年(昭28)にジョンソンNCOクラブに入ったんですが、その時に僕がマネージャーに言って日曜日の昼間に高見君、山木君、稲垣次郎(テナー)君等のバンドを入れてもらっていたんです。ところが高見君がそのバンドを解散するということでジャイブエーセスに移って来て、その後間もなくして高見君が「宮間さん山ちん入れてやってくださいよ」と言ってきたんで山木君に入ってもらいました。それでストックアレンジだけで演奏していてもつまらないので2人にアレンジを担当するように要請したんです。まずウディーハーマンやスタンケントンのビッグバンドのレコードをコピーさせることから始めて、ビッグバンドのアレンジの勉強をしてもらったんです。それで2人のアレンジがバンドカラーとなっていったんです。
 そして1958年(昭和33)、進駐軍がどんどん帰って行く中で、いつまでも進駐軍相手ではやって行けないので日本人相手に売り出そうということで「ニューハード」と改称し、フルバンドに改編して東京に出てきて新橋のフロリダに入ったんです。「ニューハード」は“小羊の群れ”といった意味で、「ウディーハーマン楽団」の名前にあやかり付けた名前です。ウディーハーマンは自己のバンドのメンバーが新しくなったのを機会にファーストハード、セカンドハード、サードハード、サンダリングハーズと時代を追ってバンド名を名乗っていました。それで僕は常に新鮮でありたいといった気持ちを込めて「ニューハード」と言うバンド名にしたんです。そしてたまにコンサートに出るようになり、そのうちに児山紀芳さんに認められるようになったんです。
島島島島島島島島島島島島島島島島
 いかがでしたか? 宮間青年は戦前からジャズを聴き込み、ジャズのフィーリングを身に付けていたため、戦後軍楽隊出身のミュージシャンの中では誰よりもジャズを演奏することができ、アルト1本持っていろんなバンドを回り、リードアルトを吹いたということでした。そんな宮間氏の往年の演奏をいつか機会があれば聴かせてほしいものです。次号では「ニューハード」が東京に進出して、積極的な演奏活動を繰り広げ、頭角を現わし始めた1970年台あたりまでの話を紹介する予定です。
(そのA完)


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