そして、 より重要なのは、 土木に携わる者の、 土木づくりの根本にある志向において、 創造性が重視されていない傾向があることである。 それは、 「計画的志向」に起因していると思われる。
「計画」について考えてみよう。 たとえば、 環境アセスメントには、 一定の手順、 手法があり、 結果は、 基本的に誰がやっても同じになる。 このことはむしろ必要なことである。 一定の手順に従って行われるからこそ、 検証可能性、 比較可能性、 必要・十分な内容の充足性が生まれ、 科学的な見地からも、 社会的に見ても信頼性の高いアセスメントが可能となる。 計画は、 この環境アセスメントの場合のように、 独創性を必ずしも必要とはしない。 より重要なことは「安定性」や「信頼性」である。 なぜなら、 計画の目的として最も重要なのは、 不確定な未来に対する対処だからである。 そういう計画において構成される手段の体系にとって重要なのは、 一定の枠組みやシステムであり、 その内容は可変、 流動的など、 代替性があって(増田9)はこれを置換群のシステムという)構わないし、 あった方がよい場合も多い。
一方、 デザインにとって重要なのは実体的な内容そのものであり、 それはそのときその場所限りのものである(増田9)はこれをかけがえのなさと表現する)。 場所に属するもののデザインにおいては特に、 その場所は他にはない一回限りのという点で、 場所的(空間的)固有性、 時間的固有性があり、 そこでのデザインが固有の、 かけがえのないものである必然性がある。
土木づくりに携わる者は、 通例として「計画的志向」「計画的発想」に慣らされており、 デザインに関わる場合にも「デザイン的発想」ではなく計画的発想でやってしまうきらいがある。 これが「創造性」の軽視につながる。 心しなければならない課題であろう。
次に問題としたいのは、 「目標」である。 ここでの目標は、 「かたち」を得るためのそれであって、 土木が備えるべき美的特質を指す。
「土木」の語は、 『表面を飾らないこと。 ぶこつ。 粗野』などの意味を有する2)。 われわれが使う意味での土木も、 これに通じる性格をもっている。
中村10)は、 道路景観に関し『一言でいえば、 それは簡素で上品な景観といえると思う』と述べている。 これは、 土木のデザイン一般について言えることと思う。
本キーワード集では、 上野(『単純・優美・骨太』)が、 単純・優美・骨太と説く。
筆者は、 「質実」ということばを使っている11)。 「飾りけなくまじめなこと」(広辞苑)がその意味である。 飾ることが目的ではなく、 華美を排するのである。 簡素に通じる。 「実」がある、 すなわち、 内容がある、 のである。 「本格」であろう。
そして、 そうでありながら、 洗練された上品さが必要なのである。 それを生み出すのは、 一つには、 やはりデザインの力であって、 確かな造形力(「匠」「形」を生み出す力)が求められる。 質実であり、 本格であることは、 変わることのない本質を目指したデザインということになるが、 そこに、 時々の時代性を反映し、 また、 他とは異なる地域性を生み出す努力も当然必要である。 前者が不易であり後者は流行ということになろうが、 『不易流行は根本において一に帰すべきもの』であって、 「流行」に目を向けつつ、 あるいはその中で、 「不易」を追求することが土木デザインなり土木造形の目指すべきところである。
いずれにせよ、 このような意味での「意」は、 人の人格に対応するモノの物格のあり方を規定するものである。 要するに、 土木・景観・デザインの目指すべき指針(道標)となり、 その評価における価値内容となる「美的範疇」がなければならない。 そして、 その内容は、 他のたとえば建築や環境芸術などにおけるデザイン、 造形のそれとは相当に違っていてしかるべきなのである。 その根拠は、 永続性、 公共性、 環境性などにある。
土木は一般に公共事業としてつくられるが、 公共土木事業の意義は社会資本形成にあり、 建築などとは異なって個人としてのクライアントの満足のためではなく、 人間生活一般、 社会一般のために、 公的費用を使って造られるものである。 山本12)は、 土木事業は人間生活に密接に関わるもので、 単なる効用性を技術的に創造するものであってはならないこと、 そして、 それが持つ美しさは、 生活から遊離した美、 生活からかけ離れたものであってはならないことを指摘している。 そして、 『現代の社会が必要としている国土的な建設の発想は、 現実の人間の生活共同体の特性とそれを囲む自然条件の両方に根ざしたものでなければならない。 そうした特性の中に造形の基礎をもっていない計画案や都市像は、 将来の総合的な建設に自ら益するところのない幻想でしかない。 』と述べる。 公的なもので、 かつ、 人間生活と自然(たとえ都市の中につくられても)に密着する公共土木は、 社会(生活共同体)の条件、 自然条件を抜きには、 考えられないのである。 こうした点について、 シビックデザイン導入委員会はより詳しく規定している13)。
なお、 キーワード集では、 土木のデザインのあり方が他の分野とは異なることを、 鳴海(『はじめに』)などが指摘している。
土木のデザインが美的な特質に係り合いをもつ以上、 その「芸術性」に関わる目標についても考えておく必要があろう。
建築についてその芸術性を問うことは、 いわば必然であろう14)が、 それでは土木はどうであろうか。 果たして土木は芸術たり得るであろうか。 筆者の考えは「然り」である。 およそモノづくりは、 どこかで芸術的側面と関わるところがあり、 つくられたモノは自立した芸術的価値を有することが可能である。 土木が芸術たり得ないことは決してなく、 芸術的存在たることを許すか否かは、 それを生み出す社会の度量による。 そして、 筆者は芸術たるべきことを主張したいのである。 ベルク15)が言うように『環境が全体的に少しずつ芸術作品になって』いくのに土木が大きな役割を果たしてよい。
しかし、 このことは、 土木が無限定に芸術作品であることを意味しない。 前述のように、 土木がもつ美的特質は他の造形や芸術とは性格が相当に異なる(べき)のである。 土木が芸術作品であるとしても、 それは、 相当に抑制され、 限定されたものでなければならない。 そこで思い浮かぶのは「ミニマルアート」である。 ミニマル〈minimal〉とは「1.最小量(数)の、 最低額の、 最低限度の。 2.できるかぎりわずかの、 ほんの少しの」という意味であり、 ミニマルアート〈minimal art〉は「使用する色をいくつかの基本色に限定したり、 単純な幾何学的形式をとるなど、 最小限の造形手段を用いて制作された絵画・彫刻」16)である。 芸術としての土木は、 このように最小限の造形手段、 表現手段を用いてのものであるべきであろう。
キーワード集では、 大塚(『大地の再造形』)、 佐々木(『アートの起爆装置』)などが芸術としての土木に触れている。
以上の他、 キーワード集の「1. 土木のデザイン理念」および他の章において、 土木のもつ意味、 社会的・文化的・歴史的意義などを踏まえての土木の理念、 あり方を示すものとして、 筆者(『環境建築』、 『風景土木』)、 江川(『橋わたし』)、 大矢(『地域の魅力を引き出す』)、 酒井(『土地を踏まえる』)、 土橋(『地域にとけ込む』)、 浜田(『文化を取り込む』、 『地域に育まれる』)、 安田(『日常的インフラ』)、 横山(『調和型のデザイン』)を数えることができる。 これらはいずれ「意」についての示唆を含んでいる。