筆者は、 土木デザインにおける操作対象は4つから成ると考えている。 「大地(自然)」「構築物」「空間」「景観」である。
「大地」は、 土木の「土」であって、 土を築くことは土木の基本である。 すなわち、 「環境の系」は「基盤系」と、 建物や緑、 流れる水などの「上物系」とに分け得るが、 その「基盤系」を実体的に支えているのが大地である。 そして自然はそれと共にある。 「構築物」は、 土木の「木」に対応し、 大地の上に構えられる。 「空間」は、 「空間の系」と言う場合の空間と同義であって、 全体としての空間の系の要素としてのデザインが必要である。 「景観」と「風景の系」の関係も同様である。 土木デザインにおいては、 これらの各々についてそれぞれ考慮しなければならない。 以下により詳しく論じよう。
土木の行為は、 大地を造る、 あるいは造りなおす行為であると言えよう。 大地を造形するのである。 大地の造形は、 大地が自然であるという意味において、 自然を造形することである。 そして、 自然の造形とは、 自然を造り変える、 そうして何か別の、 たとえば構造物を創りだすということを単に意味するのではない。 新たな(二次的な17))自然を創るという意味である。
たとえば、 田のある風景を考えてみよう。 土を均し、 畦をつくって田圃を造る。 水をはられた田圃の面は水平面であって、 自然的な形態からはかなり遠く、 造られたものであることは明白であるが、 それでもやはり「自然」である。 あるいは、 木立に囲まれた廃城の石垣の風景は、 「自然」のそれと思える。 土のみによる造形でなく、 人工的構造物が造形上支配的であっても、 大地の造形によって造られたものは、 そこに「自然」が根付き、 時間と共にそれが醸成していくことからも自然である。
ところが、 本来的に自然の造形であるべき大地の造形が、 必ずしも自然として造形されていない。 その結果、 大地の造形は、 偉大なる人為の結実としての第二の自然となるよりも、 自然に付け加えられた「傷」として残るのみとなる。
多くの場合問題となるのは、 「切土法面」である。 山肌を削り、 コンクリートで法覆工を施すだけでは、 「傷」をつけたに過ぎない。 日本の地形は一般に急峻であるので、 そう簡単にはいかないが、 緩い傾斜、 ラウンディング(丸みづけ)、 アンジュレーション(起伏)などによる自然地形へのなじみをもった形を、 まず、 追求すべきであろう。 あるいはまた、 そこに植生などの「自然」が根付く造形を考える必要がある。 それが不可能な場合でも、 周辺になじみ、 人々に受け入れらるようなスケールと形態をもった法面とし、 法覆の材料も慎重に選ばなければならない。
盛土の場合も、 切土の場合と同様のことが言える。 高さが切土面の場合ほど高くなることは少ないのだが、 一方で水平方向の延長は長くなることが多いので、 そのスケールは、 やはり、 自然の地形の一部をなすほどのものと言えよう。 地形への馴染みは、 ラウンディングを施されたものがより優れると言える。 しかし、 より人工的な、 幾何学的な面をもって構成された盛土も、 あながち悪いとばかりは言えない。 見事に自然に調和している山中の棚田や段々畑など、 それに類する造形的形式をもったものがある。 また、 堤防法面で、 逆ラウンディングとも言うべきか、 城郭の石垣のように勾配に「戻り」があるようなものを見かけることがある。 日本的造形と言えよう。 これらの造形要素を使いこなすのは、 周辺との調和や馴染みの点で、 決して簡単なものではなく、 安易に使うべきでないが、 うまくデザインされたときの効果は高いであろう。
いずれにせよ、 大地の造形として望まれるのは、 周辺とあいまって、 荒々しくなく馴化され、 心地よく、 洗練された形をもった自然として人々の記憶の中に残るような造形である。
しかし、 最近の大地の造形は、 必ずしもよい方向に向かっておらず、 むしろ、 悪化しているとさえ言える。 その最大の原因は、 施工技術、 施工管理の向上ではないかと思う。 すなわち、 法面施工技術の向上は、 盛土にせよ切土にせよ、 かなり厳密な平面としての施工を可能にし、 施工管理は、 設計図面通りの施工を要求する。 しかし、 設計は、 大地の造形としての美しさを顧慮せず、 効率的、 経済的設計により、 平面の構成による設計しかしない。 デザイン以前である。 憂えるべき現状である。
こうした現状を検証しながら「大地のデザイン」「アースワーク」のあり方を追求し、 その実現への方策を探ることは、 大きな課題と言える。
キーワード集では、 井口(『大地の土木、 都市の土木』、 『自然の「土木」』)、 大久保(『掘る』、 『削る』、 『盛る』)、 大塚(『大地の再造形』)、 前田(『神の技』)が、 デザインのあり方とノウハウを展開している。 また、 ここでは自然の造形一般には触れていないが、 これに関して、 内村(『調和と対峙1』)、 後藤(『自然との調和と対決』)、 白石(『失われた白砂青松』)などが取り上げている。
構造物単体のデザインを決定する視覚的要素は、 「スケール」「形態」「色彩」「テクスチュア(質感)」である。 これらの視覚的要素を、 機能(用)、 構造(強)とに結び付けてひとつの美的な構造物として構成するのが前者である。 後者の、 環境デザインとして構造物をデザインするということは、 後述する「景観論的視座」に立ってのデザインということに外ならない。 構造物を基底で支える周辺の地形、 自然(生態学的、 人文学的)環境、 生活環境、 そこの景観等々の環境的文脈を外れたデザインであってはならない。 人々におよぼす生活的、 行動的、 文化的影響も当然考慮されなければならない。
このように、 構造物デザインのあり方についても課題は多いが、 キーワード集では、 多くのノウハウが示されている。 「8. 土木の造形」における筆者(『「自然な」造形』、 『「不自然な」造形』)、 井口(『建築的「土木」』)、 大山(『不調和なデザイン』)、 土橋(『ソフトウェアによるデザイン』)、 西(『素顔の美しさ』、 『単純な構造』)、 山上(『やさしい肌触り』)の他、 人との関わりにおけるデザイン・ノウハウを示す田端(『見られるもの』)、 森川(『人になじむ』、 『心象風景』)、 風景との関わりからの考え方を示す筆者(『スケールの操作』)、 材野(『ヒューマンスケール』)、 田村(『風景に溶け込む』)、 森重(『高架構造の風景』)、 自然と関わる造形に関する佐々木(『ソフトな護岸』)、 その他の具体のデザインに関して、 清水(『橋の「あかり」』)、 中村(『みどりのある橋』)などである。
現象的空間と捉えたときのデザインは、 構造物と同様に環境デザインであること、 要素の「関係」のデザインであることが、 まず、 考慮されなければならない。 また、 「場」のデザインであること(ただし、 もちろんそれが特定の「場所」に位置することに留意して)が、 強く意識されなければならない。 そこでは、 以下に例示するような原則にもとづいたデザインがなされる必要がある。 『場を構成する空間のスケールとプロポーション(D/Hなど)への配慮』、 『場におけるもの(視対象)を構成する面、 外形、 ボリュームなどのスケールとプロポーションおよび複数のそれの間のバランスの確保』『場および空間のアイデンティティ、 定位(オリエンテーション)、 その他の人間的感覚の重視』『軸線、 中心線、 中心などの設定による枠組み、 構造の付与』『ものの秩序だった配置や関連づけなどによる統一感、 リズムの醸成』『空間やものに焦点をあてたり、 枠づけすることによる強調』『ものをつくる材料、 色、 テクスチュアの重視』などである。
以上のような点に関し、 キーワード集には内村(『調和と対峙2』)、 大久保(『置く』)、 金澤(『際(キワ)』)、 材野(『シークエンス』)、 久(『きわ』)、 山本(『緩やかに分離する』)、 吉野(『ゆるやかな坂』)などの言及がある。 また、 具体の空間に対して、 大山(『道空間の拡大』、 『みずみずしい道』)、 清水(『公園としての橋』、 『「絵」になる空間』)、 鳴海(『喫茶店のような公園』、 『水の公園』、 『出会いの空間』、 『広場としての駐車場』)、 宮口(『楽しい街路』)などが多くを示唆する。 さらに、 横山(『リクラメーション』)は、 「跡地」という特別な空間のデザインについて述べる。
「生活空間」としてのデザインについては、 「空間(場)」が人間行動のための物的な「セッティング(環境)」であり、 構造物の場合と同様に、 人々との生活的、 行動的、 文化的関わり、 機能や利便といった点に十分な配慮をしてつくることが課題である。 キーワード集では、 「5. 人の中の土木」の清水(『危ないもの』)、 中村(『水辺への誘い』、 『触れる水』)、 山本(『少し危険な空間』)などがこうした点に触れる。
いずれにせよ、 これまで土木が、 生活の「基盤」としての役割を果たしながら、 人間との直接の関わりを強く意識することなく造られ続けてきたことが、 土木を人間から遊離させ、 美的な問題も含んで、 さまざまな問題を引き起こしてきたのではないかと考えられる。 土木を「空間」としてつくることから、 土木の「人間化」(人間性、 人間的意味の獲得)を果たし、 それによって上記を克服することが課題である。
今一つの立場、 視座は、 上記と関連はするが、 「関係」においてものを見る、 ということである。 景観は人間と環境との関係によって成立する。 また景観は、 景観要素の間の関係や視対象(景観構成要素)間の関係によって様相を変える。 ものとものとの関係によって成立する「秩序」とか「調和」「バランス」が、 大きな問題になるのである。
ここから、 ものづくりへの視点を考えてみよう。 土木をつくることは、 ものづくりを行い、 環境を変えることである。 必然的に環境の眺めを、 景観を変える。 その景観は公共のものである。 そのことが十分に認識され、 ものをつくることに伴う「責任」がとられているであろうか。 上記の景観論的に視座に立って、 土木の事業を見直してみるべきであろう。
地域全体ではなくその事業のみを見ているのではないか、 機能や効率のみを問題にしてそれが環境全般にどう影響を及ぼすかを見逃してはいないか、 景観がどう変わるかを考えてはいないのではないか、 構造物は周囲に調和がとれたものになっているか、 どこにでもあるものをただそこにもってきているだけではないのか、 等々、 反省すべき点が、 多々あるに違いない。
ところで、 田村18)は『なぜ初期のアーバンデザインが失敗したのか。 それは、 都市の設計を単に建築の設計の延長で考えたからだ。 ……いつも白紙の敷地の中で設計するだけで、 周囲や都市全体への責任を認識していない。 都市は多様な価値観を持つ人々が共同して住む場であり、 その空間をどうつくりあげていくかが、 アーバンデザインの課題だ。 』と述べている。 環境デザインそのものである「アーバンデザイン」が、 初期には失敗し、 その原因の多くがここで言う景観論的視座に立たなかったことである、 という表明と解してよいだろう。 これが示唆するところは大きい。
いずれにせよ、 土木を景観というレベルにおいて把握するということは、 このようにものづくりの基本的態度や価値観、 パラダイムの変容を迫るものと言えよう。 そのあり方を追求することが一つの課題である。
公共事業としての土木が景観形成に果たす役割を考えることも必要である。
まず、 景観の先導役としての役割である。 たとえば大阪の中之島あたりにかかる古い橋と高速道路を同時に目の当たりにし、 あるいは、 京都の琵琶湖疎水を歩いてみると、 非常に大ざっぱな言い方だが、 明治以後、 近代土木技術が輸入されて以来の土木事業は、 今日(というより高度成長期)のそれよりはるかに高いデザイン水準を保ち、 良質の計画やデザインを生み出していたと言える。 それ以前(たとえば江戸期)の橋や道路、 堤防などの土木事業も、 美観に優れたものが多い。 経済性、 機能、 効率性が土木事業の本質であるという風潮は、 最近の比較的短期間のものであったと言える。
ネガティブな役割を果たしていることに対する反省も忘れてはならない。 景観汚染である。 都市・地域の景観の現状は、 一時期に比べて随分良くなったとは言え、 到るところ「景観汚染」が見られる。 この景観汚染に、 「土木」が大きく関わっているのは、 否めない事実と言えよう。 代表的なのは、 山肌の切土面、 味わいのかけらもない擁壁や護岸、 高圧鉄塔や電柱、 電線などである。 こうした状況は、 改めなければならない。
そして、 かつてそうであったことがあるように、 公共土木事業が景観の先導役をつとめるべきである。 その理由はいくつかある。
景観整備はー時になるものではなく、 多くの主体が時間をかけてものをつくり、 あるいは、 もの自体が変わりながら成るものである。 これを望ましい方向へコントロールするのは、 それほどたやすいことではない。 しかし、 公共が、 公共空間の中にものをつくるのは、 ある意味では簡単なことであり、 デザインをコントロールすることもできる。 市場経済の論理にのる必要もない。 これを質の高いデザインのものとし、 景観のリード役を果たすべきである。 道路や河川の景観整備など、 公共事業によるインパクトで周りの景観が良くなった実例は多い。 また、 公共土木事業の寿命は、 一般に極めて長いことも理由となる。 都市景観や街路景観では景観の主役となる建築物に比べても、 その更新サイクルははるかに長いだろう。 質の高いものにしておかなければ、 景観の水準が長期間に渡って低いものにとどまるおそれがある。 さらに、 公共土木事業の規模である。 一般に大規模になりやすく、 良くも悪しくも、 景観的影響が大きい。 修景の手段として効果的であり、 活用しなければならない。 たとえば瀬戸大橋は、 いくつかの点で批判はあるにせよ、 新しい瀬戸内海の風景を形成したと評価できるのである。
景観のデザインのあり方はどうであろうか。 ここで問題となるのは、 あくまでも土木を通じての景観デザイン、 土木・景観のデザインであるので、 先に、 改めて土木のデザインについて述べておく。 それは、 これまで述べてきたことからもわかるように、 「用」と「強」が期待される土木施設あるいは土木空間をデザインすることである。 それは、 「大地」「構造物」「空間」それぞれのデザインという側面をもっている。 それらを、 景観論的視座に立って、 実体として、 「美」的なものにまとめあげる設計作業が土木デザインである。 言い替えると、 機能を担うべき各部分に実体的な形を与えるディテール設計であり、 同時に、 部分を全体にまとめあげ、 バランスよく洗練されたかたちに仕上げる作業である。 それは、 「意」をもって「匠」をこらし、 「形」として現実化することである。 だが、 もちろん、 あくまでも機能と強度を前提とし、 造形のみが目的ではない。 また、 単なる見栄えだけを目標とし、 小手先だけのデザインでもって、 外観だけを装い、 飾る「化粧」ではない(現実には、 いかにそのようなデザインが多いことか)。 対象の機能的、 技術的あるいは自然的必然に逆らうことのない、 美的な形態、 色、 質感を求めることであり、 あるいは、 それに関わって行動する「人」にとっての場を構成することであり、 人と場の関係をデザインすることである。
そういう土木が、 景観の一つの要素となって、 新たな景観が生まれる。 その景観は、 どのような特質を有する(べきである)のか、 そして、 どのようにデザインすればよいのか、 これらが課題である。
そういう目でキーワード集を見ると、 直接に景観の操作について示唆しているのは「6 風景の中の土木」ではなく、 むしろ、 「7 土木空間の構成」であることに気づく。 6.ではわずかに西(『土木の風景づくり』)のみが景観づくりに触れ、 他は、 景観との関わりにおける土木のあり方を示していると考えてよいだろう。 そして、 河本(『醜いモノを取り除く』)をはじめとする7.の諸キーワードの方がむしろ土木を通じての風景の操作のあり方を示唆している。 これが意味するところは、 景観とは広い意味での土木空間あるいは土木的環境の現象様態を指すと捉えることができることである。 土木を単体ではなく空間、 環境を構成するものとしてデザインすることが景観づくりのはじまりなのだと言えよう。
そのような統合性は、 3つの次元で問題となる。 空間軸、 時間軸、 主体である(定義についてはキーワード集を参照のこと)。 それぞれの次元は、 因果関係を有するなど、 相互に関連しあっている。
「空間軸における統合」は、 『空間は連続している』『空間にはまとまりがあり一体である』『空間を統合に導く中心、 核、 軸がある』といった空間の論理に由来している。 これらに関連して、 キーワード集では、 とくに、 江川(『環境構造としての土木』)、 山上(『軸線』)、 大久保(『つなぐ』)などの指摘は重要であろう。
空間の連続性、 一体性に着目すると、 多くの空間(景観)構成要素の「総合調整」「総合設計」を経ての統合化が重要である。 その「総合」の範囲が広ければ、 基本的・根本的な調整(設計)が可能であり、 そうでなければ小手先の調整に終わる。 このことは、 十分に自覚されなければならないだろう。
この意味での空間的統合の欠如の例を表1に挙げるが、 その多くは時間軸、 主体の軸における統合の欠如を原因とし、 その結果として生じている。
時間軸における統合とは、 (i)過去のデザインや環境のコンテクストの継承の下に今のデザインがあること、 (ii)アクション・プロセス、 形成プロセスとしてのデザインが時間軸上で一貫していること、 を意味する。 前者の意味での統合性の欠如は、 過去にあるデザインを踏まえることなく、 あるいは、 周囲のコンテクストを受け継ぐことなくまったく別の立場、 考えで新たなものをつくる(表1の例(i))ことから生じる。 この反対は、 たとえば中世ヨーロッパ都市などのように、 過去を継承しつつ長い時間をかけて徐々に統合性のある魅力的な街をつくるものなどである。 「継承」あるいは「コンテクスチュアリズム19)」について考慮する必要がある。
後者の意味での時間的統合および主体の統合(一体性)は、 「匠」よりも「造」に関わるので、 『5.「造」をめぐって』で述べる。