俳句の読み方5

磯野 香澄   

< 棒 切 れ で つ つ い て お く や 庵 の 畑 >  
  これは一茶の作品ですがこの句は最後迄読まないと何が書いてあるのか分かりません。下五の<庵の畑>で中七の<つついて置くや>に逆って、ああ畑をつつくのかと、そして上五の<棒切れで>から読み下すと、ニヤッと笑えると言った作りです。しかし一茶の実情からすれば笑う内容では無いのですが、そこが一茶の滑稽味が遺憾無く書かれていて、読み手を楽しませています。この精神は今のお笑いさんにも通じるもので、自分の事を情け無く言う事で相手にくすぐりを入れると言う手法です。これは季語として「冬耕」となります。絵解きすると普通お百姓さんは広い畠を冬の間に耕しておくのを言うのですが、一茶は庵と言っている様に畑も家も小さいので「棒切れでつついて置く位いのものだ」と言っています。<つついて置くや>こう書かれると本当に一茶がつついている姿が想像されてクスッと笑ってしまいます。この句は内容が一茶特有のもので<痩蛙>とか<やれ打つな>又は<雀の子>等の様に、すり替わりで読み手が読んだ瞬間一茶になっているのですが、ここ迄個人の生活を言われると、いくらすり替わり手法の達人と言っても同化する事は出来ません。しかし現在形で書かれていますので、一茶が今「わしんとこはつついて置けばええんじゃ」と言って畑に居る気がして楽しい作品です。  
 
< 如 月 や 無 一 物 に て 石 の 庭 >  
  如月とは二月の事で一年中で一番沈んだ何も無い季節です。<如月や>とその感慨をしみじみと思い、<無一物にて>とは何も持っていないと言う事で「にて」で何も持たずにと言う事、又は無心でと言う事になります。<石の庭>俳句はどんな時でも最もなと言う前提でありますので、龍安寺の庭の事又はその様な石の庭と言う事になります。全体的に何も無いのを楽しんでいると言うか、悟りの恍惚感すらあると言った感じがにじみ出る書き振りです。石の庭をじっくりと見つめているイメジージで同化して下さい。
 
< 鍬 肩 に 爺 一 人 行 く 冬 の 畠 >  
  この作品の読みは普通の文章の通りです。誰も行かない冬の畠へ行く爺の後姿に色々な事が感じられて、元気な老人の人間性がにじみ出ている思いがします。広い雪の残る畠、動く物の無い野原となった畠に一つ動く人の姿、その大自然の風景をイメージして下さい。爺に対する思いは読み手それぞれになります。
 

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