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直瀬道三



安土桃山期の医師。名は正盛(或いは正慶),字は一渓,永正4年(1507)9月18日,京都上京柳原に生まれ,

父はは堀部氏(勝部とも),母は目賀田の女で,幼くして両親を失い伯母及び姉に養われる。

八歳で江州守山大光寺に父方の関係で遊学, さらに長じて十三歳の時,永正16年(1519)8月15日に

母方の関係で京都相国寺の蔵集軒に入り、喝食となる。外祖父に当る目賀田氏は相国寺に帰依し,

将軍家の奏者をしていた。相国寺で三体詩,東波,山谷等の詩集を読んで悉く暗誦した。

享禄元年(1528年),22歳の時関東に下り,下野足利学校に入校して六世痒主文伯に師事した。

曲直瀬の姓は蘇東坡の詩にちなみ,医学の流れが時代が下るにつれ曲がりくねって不浄となったのを,

往古の直にして清らかな流れに戻そうとする使命感から改姓したといい 
(昔からこのような考えがあったようですね)

道三の名は師の田代三喜導道から採ったとも,

山東を往来するとき東海・東山・北陸の三道を通り禅門を訪ねた

ので,その三道にちなみ一道に偏しない医学を志したためともいわれる。

翠竹院の号は,もと雖知苦斎(すいちくさい)と称していたのを,正親町天皇

より天下万民を救う医業に苦の字があるのは好ましくないと同音の号を賜ったという。

学僧として足利学校に遊学中,田代三喜の名声をきき三喜に師事して

中国金元医学(とりわけ李朱医学)を学び,1545年(天文14)39歳で京都に帰り翌年還俗して医を専業とし,

李朱医学の日本化をはかり,医学校の啓迪(けいてき)院を開いて全国から医生を集め新しい医学教育を行い,

その学風は全国をおおい当時の医界の天下者となった。

学院終了者には「仁愛」を基本とした医師の守るべき事項を何項目かを書き物にして授与している。

この道三の医学教育はわが国の医学教育の始まりにして画期的なものであった。

1585年(天正13年)8月発のルイス・フロイスの書簡に

道三の入信の経緯の中には道三がキリシタンになったことは一万人の信者を得たより大きな力であり,

時の天下をとっていた羽柴秀吉がキリシタンとなったより影響力が大きかったと述べられている。

又800名の門弟を擁していたとも書かれている。

フロイスの《日本史》や《イエズス会日本年報》に道三のキリスト教入信の記事があり,77歳で洗礼を受けたとされているが,

日本側の記録は知られていない。

将軍足利義輝に重用され,医学面だけでなく茶道,香道の文化面を通じて多くの戦国大名と交友があり厚遇された。

主著に《察証弁治啓迪集》があり,《雲陣夜話》《薬性能毒》ほか多数の著書がある。

甥の玄朔(東井)が養嗣子として2代目道三を名乗り,道三流医学を普及した。

文禄3年正月4日 年88歳で亡くなる。墓は京都十念寺に在る。       



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