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目賀田氏



中世の武家。本姓を藤原氏とも源氏とも称するが真偽不明。(イ). 一族全部が藤原氏とも源氏とも両方の氏を称していたのか,

(ロ.) 藤原氏と源氏が混在していたのか,(ハ.) 藤原氏だったのが源氏に変わったのか,そのいずれだったのかは不明です。

現在色々と調査研究中ですが私個人としては (ハ)(ロ)と考えます。 淡海温故録など,江戸時代出版の近江の地方史の全ては 

(ハ)の立場を取っているようですが


近江国愛知郡目賀田(現,滋賀県愛知郡秦荘町)を本拠としてこの氏を称した。(蒲生郡目賀田山=現安土山が本拠と言う説有り

こちらの方も有力な説で,自分はこちらを支持します)


南北朝初期より代々,近江佐々木氏の有力家臣として活躍しているが,

早い時期から京極氏に属するものと六角氏に属するものの2家に分かれたらしい。

信職(法名玄向)は佐々木高氏(京極道誉)に属し幾多の合戦に戦功をあげた。

弾正忠入道玄仙は1355年(正平10‖文和4)から?96年(応永3)?まで守護六角氏の守護代(近江国守護代)としての

活動が確認できる。

玄仙の子孫遠江守(実名不詳 =目賀田次郎左衛門遠江守兼遠入道浄栖かは室町期に入って

応永年間(1394‐1428)まで守護代(山城国守護代及び近江国守護代もか?)の活動が確認でき,

このころまで目賀田氏が守護六角氏の領国支配を支えた重臣であったことがうかがえる。

その後,戦国期まで目賀田氏の活動は断片的に知られるが,

六角氏の具体的な政務にほとんど関与しておらず,その活動は軍事的な行動が中心である。(軍事面だけでなく

政務にも関与していたことは確実と思われる)


滅亡直前の六角氏の重臣層(重臣だった事は確か<足利季世記に記載>)が推定できる《六角氏式目》の

重臣起請文の中にもその名が見えない。何故だか不思議である,後藤但馬守(目賀田氏と親族関係,後藤氏とは兄弟との説もあり)

父子が
殺害された事件,所謂観音寺騒動が原因か
   
                 

                             世界大百科事典より引用   *赤字 は全て調べ書き加える






日本医学の中興の祖「曲直瀬道三」の母は目賀田氏
                                                                                                       
              
目賀田氏から田附家に入った甚五郎の子田附政次郎氏の私財の寄贈にて北野病院が始まる


彦根博物館だより 45号(ある旗本(はたもと)の書状)




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