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集団疎開時の生活・写真
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集団疎開時の写真と現在の光明寺の平和な風景
光明寺御影堂の丁度右側,向かって左側で先生達と同学年の友達が
一緒に写真撮影したものです。
写真を無くし,同級生から写真提供を受けました。
大変苦しい集団疎開生活だったが,今となると不思議と懐かしい。
大人になってから光明寺には幾度ともなく訪れている。
又日本の復興にあわせるように,お寺も次第に立派になってきた。
或る日,熱心な?先生から,僕達小学生を相手に戦地で戦っている兵隊さんの事,
特攻隊で毎日死んで行く兵隊さんの事を考えると,お前達の精神はたるんでいるぞと叱られ,
横一列に並ばされピンタを,平手で頬を連打,殴られて鼻血をだした事が
昨日のように思い出されます。
散髪はお寺の尼さんが剃刀で頭を剃って,蚊帳に剃りたての頭がすれると,
イヤに痛かった記憶がある。
起床はラッパの音で起き,勉強の為の学校と寝起きする場所とは一緒の堂内だった。
オヤツはオヤツらしきものが無く,お湯にゴマ塩を入れ飲んだがお腹は空いたままで満足しない。
いつも空き腹でやむにやまれずに盗みが横行していた。
戦後は兵隊さん達と一時同居した時期もあった。
男性は先生,生徒共全員,戦闘帽(写真)をかぶっていました。
熱心に鬼畜米英・勝つまでは欲しがりません・日本は神国だから絶対に負けないと
教えてくれていた先生が,終戦を境に,突如アメリカは合理的で立派な国だと話された時には
子供心にも不思議な気持ちになり,
なんとも言えない奇妙な感じを受けた。
今から考えると我々を含めて,国民全員が戦争の犠牲者だったように思う。
一方,当時の為政者は戦後,国民総懺悔を言っていたようだったが、何故か?
どうしてそうなるのだろうか?,判りません。
戦争に対する憎悪感はその後ずーと続いています。
戦争を知らない今の若い人達には,これらの事は是非とも,いつまでも
伝えておきたい気持ちで一杯です。
粟生野光明寺での学童疎開
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