間歇日記

世界Aの始末書


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2000年5月中旬

【5月20日(土)】
▼最近、土曜日になると、新聞のテレビ欄を見て首を傾げる。関西テレビの深夜枠、23:00のところに、なぜか「SF」とだけ書いてあるのだ。この時間帯になると長い番組名は適当に省略して書いてあるため、なにがなんだかわからない。どうもSFの番組ではなさそう、いや、確実にSFの番組ではないのだろうが、なんだか気にはなる。サン・フランシスコの番組なわけもない。これはいったいなんなのか、番組の冒頭だけ見て確認しようと思うのだが、毎週観るのを忘れるのである。まあ、謎のままにしておいたほうが面白いか。
 省略といえば、アメリカ人が異常にアクロニムが好きなように、日本人って、意味を度外視して“ニ音節+二音節”に省略してしまうのが好きだねえ。「しらばか」だの「バラ珍」だの言われても、いったいなんの番組なのだか、知らない人にはさっぱりわからない。もっとも、SFファンだって、「あな魂(たま)」とか「クリサイ」とか言いますけどね。「イルクラ」がさらに縮まって、「イクラ」になっちゃったりする例もある。あんまり長いタイトルはさすがに四音節には収まりきらず、「アンドロ羊」「電気羊」などと言っている。だけど、「流れよ警官」とかは言わないな。SFファンでない人にはさっぱりわからない話ですみません。
▼新聞の話が続く。今日付けの讀賣新聞夕刊をぱらぱら見ていると、「読んで楽しい色の手引書」という文字列が目に飛び込んできた。「ロングセラーの周辺」なるコーナーである。おおお、それはぜひ手引きしてほしいものだ。読んで楽しいのか。吉行淳之介系だろうか川上宗薫系だろうか、つまり植物系動物系(というか、構造系?)かと期待に胸を膨らませて、紹介してある本のタイトルを見たら、『配色事典』(渋川育由、高橋ユミ編、河出書房新社)と書いてあった。騙したな。読者の助平ゴコロに訴えて内容を読ませてしまうとは、なかなか強かな記者である。記者のほうには、そんなつもりはまったくないのだろうが……。

【5月19日(金)】
▼コンビニをうろついていて、また妙なものを衝動買いしてしまった。「昆虫パークガム」カバヤ)なるものである。“ガム”といっても、箱の中にはガムなど一枚しか入っていない。ゼンマイで動く昆虫のプラモデル(完成品)がメインだ。どちらがおまけなのだかわからないが、コンビニに並んでいるほかの商品を見ても、どうも食品会社がこうやっておもちゃを売るのが最近流行っているみたいだ。カバヤのウェブサイトを見ると、ああいうのは“玩具菓子”と称するらしい。まずは、いちばん人気のなさそうなヘラクレスオオカブトを買ってみたんだけど(“まずは”ってところに、すでに意気込みが感じられるな)、なかなかよくできている。歩かせるときの音がけたたましいのが珠に瑕。一個三百円で五種類しかないという微妙な設定に、大人の衝動買いを煽るものがある。五百円だとちょっと考えちゃうし(昼飯食えるからね)、何十種類もあったのでは、ついつい集めてしまおう(?)という気が萎える。こりゃきっと、ついつい集めてしまうにちがいないな。
 いい大人が虫のプラモデルに萌えるかって? いやいや、おれの子供のころには、昆虫のプラモデルなんてのがけっこうあったぞ(いまもあるのかな?)。カブトムシだとかカマキリだとかテントウムシだとか、お小遣いを貯めて買ってきてはよく作った。プラモデルの昆虫がやたら巨大なのは言うまでもないが、「こんなのがいたらいいなあ」などと想像して、余計に燃えた。もともと昆虫ってのは、ほんものだってプラモデルじみたところがありますからな。
 プラモデルばかりではなく、世間では「メカニマル」という金属製の本格的な“ロボット”がすでに売られていた。カニだとかムカデだとか、いかにも機械で動きを真似やすそうな小動物のラインナップがあったように思う。あれが欲しくてしかたがなかったのだが、とても買えなかった。もっとも、あんな刺激の強いものがそのとき手に入っていたらたちまちハマってしまい、いまごろエンジニアにでもなって二足歩行ロボットを作っていたか、マッド・エンジニアになってハカイダーかなにかを作ろうとしていたかのどちらかであろう。ハカイダーはいいよね。やはり現代的なロボットというやつは、“金物”だけで構成されているのではなく、どこかに“汁物”が入っていてほしいものである。おれの勝手な技術史観によれば、ロボットなるものは、「金物(かなもの)→ 軟物(やわもの)→ 汁物(しるもの)」と発展してゆく。逆に、サイボーグのほうは、「汁物 → 軟物 → 金物」と進化を遂げ、両者はどこかで交差して融合するのである。おお、マッド・サイエンティスト的に正しい発想だな。やはりおれは、ロボットにハマらなくて正解だったかもしれない。こんなやつがなまじ技術を身につけると、なにをやらかすかわからん。……待てよ。まさにこういうルートを経て、きちんと人の道を踏みはずしたのが、ほかならぬ小林泰三なのではなかろうか。

【5月18日(木)】
▼頭の体操に、ピンク・フロイドAnother brick in the wall Part II の替え歌を考えているのだが、面白くてビシッとハマる言葉がなかなか思いつかずに難航している。なぜこの歌なのかというと、リフレインのところだけ、とてもいい文句を思いついたからだ。いま作るとしたらこれしかない――

All in all, you're just another click in the Web.
All in all, you're just another click in the Web.

 なんとなく、インターネット社会を鋭く風刺した社会派替え歌ができそうな雰囲気があるじゃないすか。
 少し前から、bricks and clicks だの clicks and mortar (そういうタイトルの本まで出ている)だの、サイバースペースのみで完結しないビジネスモデルを指す新造語をいたるところで目にするので、当然の帰結として思いついたのだろう。どうも、brick とくれば click を無条件で連想してしまうようになっている。まあ、この替え歌、同じ連想経路で同じことを思いついた英語国民が、もうどこかで使っているネタである可能性は非常に高いとは思うが……。
 もうひとつ、これは以前からふと唄ってしまう姉妹替え歌(?)なのだけれど、♪All in all, you're just another prick in the wall. というのもある。これはいったい全体、どういう状況を唄っているのか自分でも理解に苦しむ。おそらく、『旅のラゴス』筒井康隆、徳間書店)の「壁抜け芸人」とか、岬兄悟「墜落」(岬兄悟・大原まり子編『彗星パニック SFバカ本』廣済堂文庫・所収)とかにあったような状況ではあるまいかと、できるだけヴィジュアルに想像してみて、ひとり夜中に笑ったりしている。アホじゃ。

【5月17日(水)】
森首相が“謝った”らしいのだが、「誤解を与えたとしたら」もへったくれも、あれをどう誤解すればよいというのだ? 「神の国」もけしからんが、あれが仮に「仏の国」であってもけしからんことには変わりはない。政教分離をなんと心得る。教育に宗教心が必要じゃと? ふざけるな。無宗教の人間が大手を振って社会に参画でき、あまつさえ主導的な地位にすら就けるという、日本が世界に誇れる最もよいところのひとつを潰そうというのか。アメリカ大統領「私は神を信じません」とでも言ってみろ、どんなに有能であろうが、二期務めることは絶対にかなうまい。実際に信じていなくとも、大統領がそう言ってはならぬ国なのだ、あそこは。あのような原始的な国になってはならぬ。おれはなにも宗教に敵意があるわけではない。悪意があるだけだ。宗教が牙を剥いて、おれに火の粉が降りかかってきたときにだけ、敵意を剥き出しにするにすぎない。宗教はたしかに原始的なものだが、いまの人間には原始的なものがまだまだ必要なのであって、宗教を信じている人が現生人類の中でとくに劣っていると思っているわけでもない。おれにとってはたいへん残念なことだが、宗教はいまの世界にはまだ必要悪として重要なものである。誤解を与えたとしたら、たいへん遺憾なことだ。
 それはともかく、〈SFマガジン〉6月号がフィリップ・K・ディック特集だった影響か、最近なにやら、おれはディックの世界に住んでいるんじゃないかと思えてしかたがない。森首相なんて、ディック・ワールドのキャラに持ってこいである。まあ、ディックの世界は、彼が幻視した、まさにこの世界そのものなんだけどね。
 おれはディックがとても好きだし、心の底から共感できる。彼は、これでもかこれでもかとばかりに忌まわしい、やりきれない世界を「こんな世界はまちがっている」「こんな世界もかなわん」と描き続けながらも、けっして「たとえば自分はこんな世界に属したいのだ」とは書かなかったからだ。「こんな世界に属したいのだ」と信じた世界が実現したが最後、その世界は、このやりきれない世界よりもさらにひどい世界になっているに決まっている。おれの言ってることがおわかりになるだろうか? おわかりになる方で、ディックを読んだことがない方がもしいらしたら、ぜひ一度お試しあれ。SFはここまで到達し得るという、最高峰のひとつにあなたは触れることになるだろう。

【5月16日(火)】
▼昨日の神道政治連盟国会議員懇談会とやらの結成三十周年記念祝賀会で森首相がろくでもないことを言ったらしい。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるということを国民の皆さんに承知してもらう」のだそうだ。なにをほざくか。おれは敬虔なる無宗教者だ。信教の自由とは、信じる自由と同等に信じない自由であることすら理解していないのか。どうせ“繋ぎ”のアホ首相だとはわかっているが、あまりといえばあんまりである。自民党は、ピンチヒッターとはいえ、こんなのをかつぎ出したことを大いに恥じるがよい(すでに大いに恥じている人たちもいるみたいだが……)。外国相手にさらなる国辱をさらけ出す前に、一刻も早く棚ボタ首相を引きずり降ろすのが国益にもよろしいと思うぞ。こんなのなら、小渕首相のほうが百倍もよかった。森氏をとりあえず据えたのは、国民にそう思わせるための小渕派の演出ではないのか?

【5月15日(月)】
▼この日記のカウンタが四十万を突破。三十万を突破したのが昨年の十一月十七日だから、百八十日、すなわちほぼ半年で十万カウントということになる。キリのいいところだ。あと三年このペースを維持すれば、百万カウントか。百万に達したからといってなにももらえるわけではない。直前になったらカウンタの桁を増やすために設定をいじらなくてはならないから、かえって面倒ですらある。でもやっぱりじわじわ増えてゆくのは嬉しいよね。十万の桁がひとつ上がると、ちりめんじゃこの中に小さなタコが入っているのを見つけたくらいには嬉しい。この“ちりめんじゃこの中に小さなタコが入っているのを見つける”というのをおれはしばしば使うのだが、“小さなしあわせ”を端的に表現する例として、これ以上のものをおれはいまだに知らない。ガイジンには説明しにくいよな。クッキーの中からカードが出てくるようなものだとでも言おうか。
 ともあれ、こういう小さな楽しみの積み重ねが人生なのでありましょう。ご愛読くださり、まことにありがとうございます。

【5月14日(日)】
▼夕刻、ケータイにメール受信通知が届く。日曜のこの時間にメールが来るのも珍しいので、すぐ落としてみると、CNNBREAKING NEWS ―― Former Japanese Prime Minister Keizo Obuchi died Sunday aged 62.
 入院したときもこのニュースで知ったのだったが、亡くなったのはべつに大ニュースでもなんでもない感じ。なんだか、バタバタが一段落して「さて、そろそろ死んでもらってもいいかな」と、誰かが殺したかのような死にかたですらある。日本の首相にだけはなりたくないものだ。ろくでもない法案ばかり通して、とにもかくにも予想以上に有能であったかのような評価もあるだろうが、それは話が逆であって、ああいうタイプの人でないと能力が発揮できない永田町の環境のほうが後進的なだけなんじゃないの? 政治の世界は実績がすべてであるのかもしれないが、実績だけは残した小渕首相が、結局ほんとうにやりたかったことはなんなのか、おれにはいまだにさっぱりわからないのである。こういうのとは逆に、実績はあまり残せなかったが、その“やりたかったこと”のみを以て後世に知られるタイプの人もあるよね。おれは後者のほうが好きだ。だから政治が嫌いだし、政治的能力が皆無なんだろうな。「政治は金だ」なんてよく言うけど、それとはちょっとちがった意味で政治と金とはとてもよく似ている。使いみちがないのに金だけ膨大にあっても、つまらないことがあれこれできるだけであんまり意味はない。また、いくら使いみちを持っていても、金がまったくなくてはなにもできない。チャップリン言うところの「少しのお金」ってのは、やっぱり必要だ。だから、あり余ってる人はおれにください。

【5月13日(土)】
「I LOVE YOU」ウィルス(ま、“ワーム”と呼ぶべきだろうけど)騒ぎも、そろそろ落ち着いた感がある。それにしても厭なアイディアだね、ラブレターのふりしてるところが。でも、第一報を知ったとき、「日本人はあんまりひっかからないだろうな」と思いませんでした? 連休中だったから日本の被害は比較的ましだったという分析もあるけど、そもそも日本人は、ほんとうにラブレターだったとしても、「I LOVE YOU」なんてタイトルのメールを出すとは思えないよなあ。おれなら、女性の知人から「I LOVE YOU」とメールが送られてきたら、「そんなバカな」とまず思う。そういうものに関しては、いちばんに「なにかのまちがいにちがいない」と疑う回路が頭の中に確立されている(それも哀しいものがあるけど……)。男性の知人から送られてきたら、「……そ、そうだったのか」と、むしろこっちのほうにひっかかりそうな気がせんでもない。
 だいたい、「愛している」などという言葉を使いますか、あなた? いや、そりゃけっして使わないわけではない。「おれはSFを愛している」とか、そういう文脈では使いますよね。でも、好きな女性あるいは男性に、恋愛感情の表現(表明?)として「愛している」とは、こっ恥ずかしくて、とても面と向かっては言えんわ。メールだとしても、「愛している」というのは、かえってよそよそしい感じがする。なんだか自分がドラマの登場人物でも気取っているような気になるだろう。日本でやるとしたら、メールのタイトルを「好きです」とでもしたほうが効きめがある(というか、よりタチが悪い)と思う。でもやっぱり、差出人が知人の名前であったとしても、「どこぞのアダルトサイトからの案内だろう」と思っちゃうだろうな。厭な人間である。そういう意味では、このウィルス付きメールがこれほど猛威をふるったのは、世の中にはまだまだいい人が多いからなのかもしれない。なんでも明るい面を見たほうがいい。
 共同通信の伝えるところによれば、なんでもソニー出井社長は、香港での講演会で、「会社側に七万件近くのラブレターが寄せられたほか、私個人も約十件受け取り、ソニーが多くの人に愛されていることを知らされた」とジョークを飛ばしたそうだが、いや、いつも思うけど、この人のユーモアセンスはバタ臭いよね。いい意味で日本人離れしているというか。出井氏によれば、「もしラブレターを受け取っていないとしたら、非常に質の高い防護システムを持っているか、(デジタル社会から)隔離されているかどちらかだ」ということで、アレを受け取っていないおれは、どうやらデジタル社会から隔離されているようだ。まあ、隔離されていて幸いであった。もちろん家のパソコンにも会社のパソコンにもワクチンソフトは入ってるし(ちがうメーカのがね)、常に最新の状態にアップデートしてるけど、流行初期にアレを食らったら、検知はできなかったろう。しかし、実害はなかったろうな。だっておれは、Microsoft Outlook が嫌いで、使ってないからだ。Internet Explorer だって使ってない。だいたい、メーラやブラウザみたいな、外から直接データが入ってくる部分がOSとあんなに密接に連繋しているなどという思想が気に食わない。外国からやってきた船に飛び乗って、積んである農作物を検疫なしで貪り食うようなものだ。長崎に出島を置いた日本人の知恵を知らんのか、ビル君。シェアを取ることを優先するあまり、技術者としての良心を売り渡しておらんか?

【5月12日(金)】
▼このところ、「法の華三法行」福永法源が言う「天声」とやらが“嘘”だったなどとさかんにマスコミが報じているんだが、はて、ホントだったと思ってた人がいるのだろうか? まあ、いるから信者がいるんだろうけども、信者以外の人は、あんなもの最初から嘘だと思っているに決まってるでしょうが。あれが仮にホントだったとしたら、福永法源は偉い人だとでも言うのだろうか? この手の事件にいつも思うんだが、はっきり言わせてもらえば、騙されるほうもどうかしている。どうかしているほどに精神が弱っている人々を食いものにするやつが悪いという理屈はよくわかるよ。でも、自分で信じてついていったんなら、ついていったほうにだってかなり非があると思うんだけどね。
 おれに妙な超能力があったとしよう。直接病気を直したり幸運を招いたりすることはできないが、病気が治ったり幸運が訪れたりしたように“人に信じ込ませる”超能力だ。当然、おれのところには、「冬樹師には病気を治す超能力がある」とたくさんの信者(?)が集まる。おれは彼らから好き放題に金を取る。この場合、実際に病気が治ったりなんかしていないのだから、おれが“病気を治せる”ことを売りにしていたのなら、誇大広告である。詐欺かもしれない。しかし、“病気が治ったと信じ込ませる”ことができているのだから、顧客には満足を与えている。その結果、深刻な病気が進行して死んでしまった信者の遺族は、おれを訴えることができるのだろうか? そりゃできるだろうが、それははたして正当なことか? 教祖と信者とのあいだに生じているやりとりを通常の商取引だと考えると、通常の商取引にも宗教じみた面がいろいろ見えてきて、はなはだ気色が悪くなってくる。日本の場合、国家と個人との関係にすら、こういう気色悪さが入り込んでくるものだから、ますますもって得体が知れない。

【5月11日(木)】
『ニュースステーション』(テレビ朝日系)で紹介していた内視鏡下手術用の医療ロボット「ダ・ヴィンチ」の実稼働画像に感心する。器用なもんだなあ――って、べつにロボットが自分で考えて手術しているわけじゃなく、人間の医師が操作しているだけなのだからそれほどたまげることもないか。でも、そう思って観ていても、小さな鉗子が意志あるもののごとく(だから医師の意志だってば)右へ左へ動いて縫合糸を結んだりする光景には、SF者としてクるものがある。なぜかほにゃあと頬が緩んでしまうんだよね。やっぱり、子供のころから「ミライはこうなるにちがいない」と思っていたことを目の当たりにしているからだろう。
 あれなら、ロボットでやってもらったほうが絶対いいよな。あんな機械がそこいらの病院に入るまでにはまだまだ時間がかかるだろうが、おれが内視鏡手術を受けなきゃならない事態になったら、あれ希望。手術中にいきなり故障するなんて可能性もないわけではないが、そんなことを気にしだしたら飛行機にも自動車にも乗れない。それにロボットといっても、あれは複雑な機械を介して人間の動きを補正しながら伝えているだけだから、メスや鉗子の延長だと思えばなにほどのこともないだろう。十分操作に慣れた医師であれば、誇張でもなんでもなくみずからの身体の拡張パーツとして使えるはずだ。もとより、いまのふつうの手術だって、医師の指だけでやっているわけではない。
 むしろ問題は、ああいうものが“あたりまえ”になってしまってから多発するだろう。扱う人間のほうに油断が出てくるからだ。人ちがいで腹を切られたり、とんでもないものを注射されたり、通常の医療ミスと同じノリ(どういうノリだ?)で、ロボットを使った手術にも事故が発生するにちがいない。まだ“先端医療”であるうちのほうが安全かもしれん。
 それにしても、「ダ・ヴィンチ」って愛称は、どういう意味のネーミングなのだろう? 手先が器用だってことかな? いつの日か、ああいうロボットに「ブラック・ジャック」と命名するやつが現われるのだろうなあ。もっとも、あまりに畏れ多くて、その名はかえって避けられるかもね。むしろ「丈太郎」とでも名づけておいたほうが、使う人に襟を正さしめる効果があるやも。ロボットで人間の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね?


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