間歇日記

世界Aの始末書


ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →


2000年5月上旬

【5月10日(水)】
▼声優の塩沢兼人氏の訃報をネットで読む。たまげた。まだ四十六歳とは……惜しい人を亡くしたものである。ああ、ぶりぶりざえもんができる人がほかにあろうか。冷徹な美形悪役風の声という一般的イメージが確立されているからこそ、ぶりぶりざえもんが活きるのである。SF界の塩沢兼人を僭称してきたおれであるが、これを以てこのおこがましいキャッチフレーズは封印することとする。さて、これからどう名告ったものか。小林完吾大平透ってのは、よく言われるんだけどね。「……なお、このテープは自動的に消滅する。成功を祈る!」 “テープ”ってところが、いかにもオジサンですなあ。

【5月9日(火)】
▼ふと、妙なことに気づく。ソフトバンクの社員の人が自社の社長に言及するとき、しばしば「うちの孫が……」と言うのである。“まご”ではない、“そん”だ。考えてみれば、たいていの会社ではこういう言いかたはできない。社長の名前を誰もが知っているような会社でなくては、「うちの山田が……」「うちの鈴木が……」などと第三者に言っても、「誰、それ?」と問い返されるだけであろう。ソフトバンクほど社長の名が人口に膾炙している会社もそうないですわな、たしかに。ソフトバンクの社員が「うちの社長が……」などと言うと、かえって厭味な感じがするほどである。でも、大きな会社なら必ず社長が有名であるなんてことはなくて、やはりキャラが立ってないとダメみたいだ。「ラオックスの社長さんですか」とテレビ局の記者に訊かれてしまった有名な人もありましたしね。あれはまあ、そういう取材を担当するにしては記者が不勉強すぎるのだが、苦笑してしまうに足るものがあるからこそ面白い事件だったとも言えよう。そういう意味ではアレですね、「うちの春樹が……」とファーストネームで言ったとしても通じる会社ってのもすごいと思うぞ。ビルといい勝負できるかも。

【5月8日(月)】
〈通販生活〉(カタログハウス)2000年夏の特大号が送られてくる。語尾上げ追放キャンペーンを展開している〈通販生活〉(1999年11月1日の日記参照)、今回は決起座談会第二弾「一掃すべき言葉は、ほかにもあるはずだ。」と題して、草野仁(TVキャスター。何度も言うが草上仁ではない)、須賀原洋行(漫画家)、原田宗典(作家)、荻野アンナ(作家)、井上史雄(言語学者)の五名が、なかなか厳しいことを言っている。『読者100人に聞きました「語尾上げ以外に不愉快な日本語って何ですか?」』ってランキングがあるのだが、これがとても怖い。おれ自身がよく使う言いまわし、つい使ってしまう言いまわしが目白押しである。丸ごと引用するのも日記としては怠慢だが、これは面白いから、〈通販生活〉を読んでいない読者のため、やはりご紹介しておこう。

(複数回答)
1位「ワタシって酒好きじゃないですか」(57票)
2位「ってゆうか……」(40票)
3位「ボクには……」(36票)
4位「……っすね」(17票)
5位「紅茶とか飲む?」(15票)
6位「おタバコのほうは吸われますか?」(12票)
7位「××円からお預かりします」(11票)
8位「ぜんぜんオーケー」(10票)
9位「えーとですね……」(9票)
10位「やっぱ……」(8票)

 「えーとですね」は使うよなあ。そりゃ、妙な言葉だという自覚はあるが、gap filler として便利だから、ついつい使っちゃうのだ。「ぜんぜんオーケー」も、若いやつが使っているのが耳障りだと思っていたら、知らぬまに感染してしまっている。相手が若いと、とくによく使ってしまう。まあ、文法的におかしいという自覚を持ちながら使っているだけ、まだましか。2位・3位・4位・5位なんて、まるで水玉螢之丞画伯が描くところの〈水玉螢之丞と堺三保との典型的な会話〉みたいである(お二人の実際の会話も、こんな感じではある。水玉さんは「オレ的」だけど)。これを封じられちゃあ、味が出ないよなあ。「〜的」ってのは、麻薬的に便利だ。麻薬のように便利だなどと言うと意味がちがってしまう。“「売れる小説はよい小説」的言説”などという言いまわしが簡単に作れてしまう。
 7位の「××円からお預かりします」は、小林泰三さんがまさに問題にしていた表現である(小林さんのサイトの「たぶん駄文・駄文12」参照のこと)。これはおれ自身は使おうにも使う機会がないが、非常にしばしば耳にする。気色の悪い言葉ではあるよね。
 とまあ、とても怖ろしい座談会である。読んでいていちいち納得するけれども、自分が使っていないかと言われると、そんな自信はない。いかにも頭が悪そうに聞こえるのでおれ自身嫌っているはずの「やっぱ……」ですら、ふと口から出てしまうことがある。効果や目的を意識して使っている場合は恥ずかしくないのだが、反射的に出てしまうとやたら恥ずかしい。
 それにしても感心したのは、「ムカつく」という言葉に関する原田宗典の分析――

原田 まっさきに思いつくのは「ムカつく」ですね。実際にはムカついてなんかいないんですよ、怒っているわけだから。
草野 「ムカつく」ことと「怒る」ことは、どこが違うのでしょう?
原田 「怒る」のは、あくまで自ら反応した感情です。でも「ムカつく」というと、まるで「食べ過ぎで胸がむかついた」みたいに自分の意思に反して怒っているように聞こえるでしょう。
荻野 なるほど。どんな理由であっても「怒る」のは自分の責任だけど、「ムカつく」はムカつかせた相手の責任ってわけね。
原田 そうなんです。同じように「キレる」も大嫌いで、これはもう自分を物質化しているわけで、やはり責任を逃れているんだ。

 なるほどねー。さすがは作家兼コピーライターである。ある言葉を聞いてなにかを感じると、「なぜこう感じるんだろう?」と分析するのが習い性になっているのだろうな。見習いたいものだ。
 結局のところ、〈通販生活〉が挙げている不快な言葉に共通するのは、責任回避をしながら自己主張はしたいメンタリティーであるようだ。ここで言う“自己主張”とは、「私はこう考える。こう考えるのが私だ」という確固たる自己主張ではない。「私はここにいるのよ、でも努力するのはイヤ、他人のこと考えるのもイヤ、ここにいるありのままの私を見て見て見て見て見て見て見て見て見てーッ! 見てくんなくちゃイヤーーーーーーっ!」という意味での自己主張である。筒井康隆『48億の妄想』で描いたような自己主張だ。要するに、幼児のココロそのものだ。それが悪いってわけじゃない。ほんとうに心を許せる間柄であれば、お互いにこういうメンタリティーの押しつけ合いをしても、それはそれで楽しいものでありましょう。うふん。「恋人どうしがいっしょにいて少しも飽きないのは、ずっと自分のことばかり話しているからである」(ラ・ロシュフコー/『ラ・ロシュフコー箴言集』二宮フサ訳、岩波文庫)ってか。問題は、こうしたメンタリティーを、世間一般に対して剥き出しにしている人種が増えてきたらしいことなのだ。現代の病理と言ってもいいかもしれない。「バカ野郎、おまえのことなどおれの知ったことか」と冷水を浴びせられたことのないいい大人ほど不気味なものはない。拒絶に耐えられないことは、愛を知らないことだからだ――なーんて、ちょっとラ・ロシュフコーの真似をしてみたりして。
 おっと、怖いぞこわいぞ。インターネットで日記を書くなどという行為をラ・ロシュフコーが知ったら、草葉の陰でなにを言われることやら。

【5月7日(日)】
ああ、人が殺してぇーなー。と、将来おれがなにかやったときのため、いまのうちにマスコミへのサービスをしておこう。わけがわからないことが起きると、「ああ、やっぱりそうだったんだ」という理由が無理にでも欲しくなるのが人情というもので、マスコミの仕事はたいてい、それを無理にでも作って提供することだ。なんの前ぶれもなく、ひょいと人を殺したりしてはいけないものらしい。だけど、いつの世にも、人はひょいと人を殺したりしたくなる存在なのだからしかたがない。実際に殺してしまう人が多数派ではないというだけの話である。
 狂気に対する耐性を養うためには、フィクションが絶対に必要だとおれは思う。フィクションに親しむことは、とりもなおさず人間の社会というフィクションを透視することであり、そのくだらなさと重要性とを同時に認識することである。たかがフィクション、されどフィクション、たかが社会、されど社会だ。現実に耐えられない子供が育っているのではなく、むしろフィクションに耐えられない子供が育っているのだろうとおれは思っているのだがどうだろう? おれ自身、この世に小説やマンガや映画がなければ、三十七年間ものあいだ、人も殺さず自分も殺さずに、正気を保ったまま生きてこられたとはとても思えないのだ。なに? おまえは正気を保ったまま生きているとは言い難いって? うむむ、否定はしにくいが、だったら、これを読んでいるあなたも危ないぞ。

【5月6日(土)】
▼このところ“やおい”づいているおれであるが、今日はそのきわめつけの集まりに呼ばれているのだ。やおい晩餐会である。やおい作家の狼谷辰之さんとご夫君のアルビレオさん、同じくやおい作家の木根尚子さん、やおい者OL(やおーえる?)の宮本春日さんたちと、やおいでSFなディナーを楽しもうという会なのだ。なんでまたこういう面子になるかというのは、話せば長い事情がいろいろあるのだが、アルビレオさんはSF者で、狼谷さんとご結婚なさる前からおれとは知り合いで、「こんなオタクな人の配偶者は常人では務まるまいなあ」と思っていたら、ちゃんと常人ではない相手が見つかったわけでたいへんめでたいことであったよかったよかったという次第だ。でもって、ありがたいことに狼谷さんも木根さんも宮本さんも、このバカ日記のファンなのだそうで、妙な縁もあって一度一緒にお食事をということになったのだ。おれの日記はヤオラー(と称するらしい)の人にウケるのだろうか。やおいの話などほとんどしないのだが……。なにかこう、“血が匂う”ものがあるのやもしれん。余談だが、おれが「SFセミナー2000」に参加するために東下りしていたあいだ、この乙女たちもやはり東京にいたのだった。あの“別のイベント”に参加していたことは言うまでもない。
 ワインを傾けながら、“新日本料理”とかいう味はよいがよくわからないものを食い、SF勢二名、やおい勢三名で、よくわからない話でモリアオガエル、じゃない、盛り上がる。昨今のネット掲示板事情とかネット掲示板事情とかネット掲示板事情とか、なにしろ、やおいでSFであるからして、共通の話題にはこと欠かない。え? なにが共通の話題なのかよくわからん? まあ、気にしないでください。
 おれとしては、せっかくやおい乙女が三人もいるのだから、やおいの勉強をさせていただこうといろいろと質問などするのだが、この天地のあいだにはおれの哲学では夢にも思い描けないことが存在するのをひたすら痛感するばかりであった。「星は昴」(谷甲州『星は昴』ハヤカワ文庫JA所収)にはやおい的にググッとキたと嬉々として語る木根さんの言葉に、目から鱗が五、六枚落ち、もう少しで目も落ちそうになる。な、なるほど、そういうふうに見えたとしても、べつにおかしくはない。ふつうそういうふうには見えないものに、あーゆーふーな構造を見て取る(それも、無理して見て取るのではなく、まずそーゆーふーに見てしまう)ところにこそ、やおいの真髄があるらしい。発想がSFと似ていると言えば言えないこともない。うーむ、そうであったか、あれは、真理を探求する共通の理想の前に、互いに顔も知らぬ科学者二人のえも言われぬ連帯感と互いへの敬意と友情とが輝く渋い話だと思っていたのだが、それだけでは読みが浅かったか。木根さんによれば、「指一本触れないところがたまらない」そうなのだが、そ、そーゆーものなのか。
 結局、なんだかんだで、やおいとSFとはよく似ているという相互理解(?)が得られた。ような気がする。狼谷さんに著書をご恵贈いただき、電車の中で『ダーウィンの使者(下)』グレッグ・ベア大森望訳、ソニー・マガジンズ)を読みながら帰る。頭の中で男性の登場人物の“組み合わせ”をいろいろと考えてしまうのには困った。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『対なる者の証』
『対なる者のさだめ』
『対なる者の誓い』
(狼谷辰之、共同原案・木根尚子、新書館・ウィングス文庫)

【5月5日(金)】
▼リハビリの一日。極端な出不精が東下りなどすると、やたら疲れる。ひさびさに買ってきた〈ネムキ〉(朝日ソノラマ)など読みながら、うだうだと過ごす。「富江」(伊藤潤二)はいいよなあ。こういう顔の女性にどこかで会ったような気がするのだが、それが思い出せない。きっと、みんなそう思っているから怖いんだろうな、これは。《栞と紙魚子》(諸星大二郎)は単行本でまとめて読みたいので、雑誌で読むともったいないような気がするんだが、それでも読む。紙魚子はいいよなあ。こういう女性にはどこかで会ったような気がするのだが――って、SFファンにはさほど珍しいタイプではないよな。

【5月4日(木)】
▼日付も変わり、酒も入って、そろそろハイになってくるころから、「ライブ・スキャナーβ版」(出演/寺尾千佳深山めい東茅子冬樹蛉中村融山岸真)がはじまった。手前が企画に絡むと内容をよく憶えていないという悪い癖があるので、詳しい話はそれぞれのレヴュアーのウェブサイトで読んでいただくこととして(そんなことでいいのか)、おれはといえば、ただただ東さんに突っ込んでいただけである。未訳海外SF紹介屋としては開店休業状態であるから、おれ自身はなんのネタも持っていない。おれが東さんとしゃべれば、自動的に漫才になるから、突っ込み役だけやってもらえればけっこうということでお引き受けしたのであった。“ミラクルヴォイス、夢の競演”なのだそうだが、おれの声よりも東さんの声のほうがやはり希少価値があると思うぞ。なんでも東さんは、駅の窓口だかで、「大人? 子供?」とか言われたそうである。駅員も自分の手元だけ見ながら仕事をしていたのだろうが、あまりといえばあんまりである。しかし、無理もない。
 河出文庫から今秋出る予定の海外SF短篇傑作アンソロジーについて、中村融さんと山岸真さんの濃い話が続く。少々の時間超過などなにほどのこともなく、みな熱心に聞き入っていた。収録予定の全話を簡単に紹介し終えたところで妖怪が大挙して現われたりもせず、無事企画は終了。昨日の昼に、〈SFオンライン〉坂口プロデューサーに頂戴した Frog Leap というカエルワイン(べつにカエルの絞り汁が入っているわけではない。名前がカエルなだけだ)を開け、そのまま部屋に残っていたスキャナー・メンバー数人で飲む。そのまま朝まで中村融さん、山岸真さん、すごい洋書読みの加藤逸人さんらとディープな話をしながら、朝まで過ごす。加藤さんみたいな人が、つい最近までSFファンダムと無縁だったのがきわめて不思議である。
 朝方、バスジャックが逮捕されたとのニュース。結局、突入したそうだ。こういう事件のたびにおれは同じことを言うのだが、すでに乗客を殺傷し、幼い少女を人質に取っている犯人が、ご丁寧にもテレビカメラに映るところに姿を現わしているのだから、狙撃銃のスコープにだって容易に入るだろうに。とっとと射殺せんか。バスのフロントグラスにどの程度の強度があるものかおれは知らんが、特殊仕様の貫通弾だろうがなんだろうが使えるだろう。頭ごと吹き飛ばしてしまったってかまわん。少年だから生かして捕らえたいと思っているのだとしても、あの状況では笑止である。乗客の人権と、人を殺すぞと脅している最中の阿呆の人権とどちらが重いか。もし、おれにとって大切な人があの乗客の中にいたら、おれは「撃て撃て、撃ち殺せ!」と警察に迫ったことだろう。いや、あの犯人がおれの息子だったとしても、射殺してくれとおれは警察に頼むだろう。おれには子供がないから気楽なことが言えるのだという意見もあろうが、子供がいてもおれと同じように思う人は少なくないんじゃないか? あの犯人の親は、「説得する自信がない」と説得の依頼を拒否したというではないか。おれが親でも、“説得する自信”などというものは持てないだろう。それでも説得を試みるかもしれないが、おれが下手に刺激しては被害者が増えるかもしれない。だったらせめて、「やむを得ないから撃ち殺してくれ」と言ってほしかったね、実の親には。親の気持ちがわかるのなら、あの少女の親の気持ちだってわかるだろう。まあ、言えなくても責めはしないけどさ、人間だから。でもおれなら、きっと「撃ち殺してくれ」と言うね。中村融さんたちの前で、ついつい熱くなってしまい、「最近の少年犯罪は、少年が少年であることにつけあがっている。撃ち殺しゃいいんです、撃ち殺しゃ」と、興奮して淡々と述べてしまう。その場にいた人には、「こういうやつこそ、いつバスジャックの類をやらかすかわからん」と思われていたにちがいないぞ。
 大広間に移り、閉会の集まりがはじまるまでのあいだ、“まったくなんでも読んでるエイリアン”にしてSF折り紙の達人志村弘之さん“カエル”の折りかたを習う。折りかたが書いてある教習書のコピーを見ながら、直々に教えてもらったのだが、おれにはそもそも本に描いてある図がさっぱりわからない。空間認識能力に著しく欠けるのである。途方に暮れるおれに、志村さんは魔法のように紙を捻ったり折ったりして教えてくださる。それでも、全然わからない。おれは折り紙には向かないようだ。キングギドラが折れるようになりたいものだと思ってはいたが、とても無理であろう。
 例年のようにあっさりとしたエンディングが終わり、森山和道さん、タニグチリウイチさん、木戸英判さん、わたぼこりさんとマクドナルドで朝食。さらに森山さんとおれは、Book1tj さんと池袋で落ち合う。以前からメールのやりとりがあった tj さんと、おれが東京に出たこの機に食事でもということになっていたのである。お昼を食べたりお茶を飲んだりしながら、三人であれやこれやとウェブまわりの話をする。
 お二方と別れ、東京駅へ。さすがに疲れて、新幹線に乗ったとたんに睡魔が襲ってきて、あわててケータイのアラームをセットし死んだように眠った。いつも思うのだが、自分が眠っているところを見ていたわけでもなく、また、死んだ経験があるわけでもないのだから、自分に関して「死んだように眠る」と言うのはおかしいのではなかろうか? おかしいと思うのだが、それが面白いのでおれはよく使っているのだ。ギャグのつもりなのに、わかってもらえることは少なく、ちょっと哀しい。
 家にたどり着いて晩飯を食い、風呂にも入らず、泥のように眠る。これはべつに、泥になった経験がなくたっていいのだ。丸太になった経験がなくてもよい。ビートルズだって唄っている。

【5月3日(水)】
「SFセミナー2000」へと旅立つ。東へと向かう列車〜で〜♪
 この日記は、ふだんの変化に乏しい日常からネタを拾うくらいがちょうどよいのであって、いかにもふつうの日記に書くべきことが起った日というのは、書くことが多すぎて困るのである。というわけで、今日と明日の日記に書くことは、セミナーのレポートではない。あくまでレポート風の日記である。
 受付け開始十分前に会場に到着。今年は例年より遅くはじまるので、遠方からの参加者には嬉しい。うろちょろしていると、見知った人たちに次々と出会う。京都SFフェスティバルと顔ぶれのシンクロ率(?)が高いのはいつものことだけれども、どうも今年は先日 DASACON で会った人の率がずいぶんと高いような気がする。なんにせよ、人が寄り集まる活動とインターネットとが切り離せなくなってきたということなのだろう。おれは元々がパソコン通信育ちの人であり、依然として自分の本拠地はインターネット上だと思っているので、オフ会みたいな“濃〜い薄口の人間関係”がどちらかというと心地よい。京フェスもSFセミナーも、年々心理的に参加しやすくなってきているように感じるのは、慣れのせいばかりではないのではあるまいか。「おれみたいな“薄い”人間がこういうところにいていいのだろうか」って感覚は、抜きがたくあるもんな。いいことか悪いことかわからないが、こういうコンベンションの“雰囲気”がネットのオフ会化してきているのは、出不精のおれの波長には合うのかもしれない。会場でもらった「Zero-CON ご案内」裏表紙のマンガじゃないけど、眼鏡かけたKKKみたいな人たちがなにやら独特のコードに則って禍々しげな儀式を執り行なっている集会にちがいない――みたいに、おれも以前は感じていたものである。もちろん、“内容”は濃いほうが面白いけどね。
 スーツ姿でばっちり決めているみのぴよ、じゃない、柏崎玲央奈さんにご挨拶。まるで理科の先生かなにかのようである。そうなんだけども。当日受付けの申し込み書を書いていると、つい先日聞いたばかりのような声をかけられた。米田淳一さんである。なるほど、つい先日聞いたばかりだ。
 会場に入ると、座席に傾斜のついた大学の大教室のようなホール。なかなかいい感じ。ほどなく企画がはじまる。

『角川春樹的日本SF出版史』(出演/角川春樹、聞き手/大森望
 現在の日本SFの出版状況を語るとき、かつての名作を次々と復刊しているハルキ文庫を無視することはできない――というわけで、よく呼べたものだが、角川春樹氏ご本人の登場である。すごいぞ、SFセミナー。
 なんというか、論がどうとかいった話ではなく(そんなことを角川社長に期待している人がいるであろうか)、とにかく角川春樹なる人物に圧倒されるためのセッションであった。なんでも角川氏は、七十年代にはすでに「SFの次はファンタジー、ファンタジーの次はホラーが来る」と予見していて、すべては計画どおりの行動であると言うのだが、聞き手の大森氏の顔にも、会場のどの顔にも「ほんまかいな」と関西弁で書いてあった。「自分が興味を持ったものはモノになる」「希望的観測はハズレるが、“第一直感”はハズレない」と、期待どおりにトバすトバす、やはりヴィジョナリーたる者はこうでなくてはいけない。おれも少しは見習いたいものだ。頭でものを考えているようでは大物にはなれないのである。他社で出たSFなどを片っ端からさらってきては文庫にしていた時代のエピソードを得意気に語る角川氏――

安岡章太郎吉行淳之介「角川さん、評判悪いよ。みんな泥棒角川って言ってるよ」
角川春樹「いや、強盗角川です」

 真正面から強奪するのは泥棒じゃなくて強盗なのね。聞き手の大森氏の顔にも、会場のどの顔にも「なーるほど」と書いてあった。
 「『ニューロマンサー』あたりから、SFがどんどんつまらなくなったね」って、うーむ、サイバーパンクのかっこよさがけっこう好きなおれとしては聞き捨てならぬのだが、こういう意見もわからないではない。未来をあまりにもあたりまえのスタイルで書かれると、それはいわば“未来の通常小説”なわけで、「おー、すげー!」というワンダーが感じにくくなる側面はたしかにあるからだ。まあ、このあたりは、掘り下げてゆくと面白い文体論になりそうだから、またいずれ機会を捉えて考察することにしよう。
 「SFは今年からキテます!」と断言する角川氏。この人が「キテます」と言うと、キテなくたってキテしまいそうな気がするから面白い。ホントにいろいろ賞も作っちゃうしね。さらに角川氏は、小松左京賞創設のエピソードを語る。企画を胸に、降りしきる雨の中、用件も告げずに小松左京邸を訪れた角川氏に、小松御大は開口一番「断る!」とおっしゃったそうな。「そんなあなた、話も聞かずに……」と、角川氏が小松左京賞創設の話をすると、御大いわく「おれを殺す気か」 生前に自分の名を冠した賞を作られるのは、なにやら物故作家みたいで縁起が悪そうに思えるのだろう、ふむふむ、なるほど本人にしてみればそうかもなと会場が納得しそうになったとき、小松左京によって強盗から人殺しに昇格させられた角川氏は、理不尽なことを言っているのは小松左京であると会場に同意を求めるがごとく、トドメの一撃をぼそりと放った――「でも、横溝正史は、賞ができてから八年生きてましたからねえ」
 大物のインタヴューには慣れているはずの大森氏も、周囲に独自の時空間を作り出す角川春樹氏の奇妙な能力には、さすがに手綱が取りにくそうであった。なんだかよくわからない論理もしばしば展開されていたが、角川氏のSFへの熱い思い入れは感じられた。ような気がする。「角川春樹という存在そのものがSF」とみずから超然と定義する角川氏。聞き手の大森氏の顔にも、会場のどの顔にも「よいわんわ」と関西弁で書いてあった。角川春樹おそるべし。

『ブックハンターの冒険』(出演/牧眞司、聞き手/代島正樹
   先日『ブックハンターの冒険』(学陽書房)を出版した牧眞司氏に、古本ハント界期待の新鋭代島正樹氏が、ディープなディープなディープな話を聴くという、古本な企画。この人たちのお話を聴いていると、ああ、おれなんぞ、ただちょこっと本が好きにすぎない薄い薄い薄い人なのだとよくわかる。蛇は双葉より芳しい中学生時代の牧氏の怖るべきエピソードが語られ、聞き手の代島氏の顔にも、会場のどの顔にも「こんな中学生おったらかなわんな」と書いてあった。牧氏の“書鬼”ぶりの片鱗は、〈SFオンライン〉38号の特集「書鬼の居留地 SF的神保町ガイド」〈理論篇〉をご覧になれば十二分に窺えよう。ちなみにこの特集、〈実践篇〉では、三村美衣日下三蔵北原尚彦尾之上俊彦高橋良平といった猛者たちが五千円持って三時間で神保町を漁ったのだが、この話にはオチがあって、この日、なんとなく気になった牧氏は、結局この五人よりも先に神保町をまわったのだとのこと。まさに鬼である。牧氏の標語――「本がないと不平を言うよりも、すすんで探しに行きましょう」
 なんでも牧氏によれば、古本ハントは、本を読みたいという気持ちと、本を所有したいという物欲とに衝き動かされるもので、両者はどんどん重くなってくるのだそうである。「一筆啓上業苦が見えた」とでも言おうか。おれはダメだなあ。物欲のほうがここまでは燃えない。だから、絶版本はデータで読めればいいなどと軟弱な考えに走ってしまうのであった。若いころは、首都圏に住んでる人は神保町にしょっちゅう行けていいなあなどと思っていたが、それは甘い考えである。神保町がしょっちゅう行けるところになどあってみろ、きっとなにがしかの業苦を背負う羽目になっていたにちがいないのだ。

『日本SF論争史』(出演/巽孝之牧眞司森太郎
 日本SF界に於ける諸論争を思想史として位置づけるアンソロジー『日本SF論争史』(巽孝之編、勁草書房)がいよいよ出版される(会場では書店に先駆けて即売が行われた)。このパネルでは、構想十年の本書について、出版に至る経緯やその内容が語られた。アンソロジーに収められた数々のテクストは、論争のリアルタイム性を離れても長い歳月を生き延び得た、いわば“珠玉の傑作選”なのだが、じつは「長い歳月を生き延びられなかったもの、小競合いなどの部分がほんとうは面白い」とは巽氏の言。そりゃそうだよね。要は、そう割り切った上でのアンソロジーであって、賢明なる読者諸氏に於かれては、本書に収められている珠玉以外の部分に思いを馳せながら読むべきなのであろう。
 “論争のパターン”の話には誰もが納得。最初にまず「○○を定義せよ」と定義論になり、それが次第に「不真面目である」といった人格攻撃のようなものになり、やがて第三者が介入してきて言うことがいつも決まっている――「この論争は不毛である」 この基本形式を頑固に守り抜けば、大衆とやらに支持され売れる論争がたちまちにして書けるので、これから論争作家(?)をめざす人は参考にしよう。

『新世紀の日本SFに向けて――新人作家パネル』(出演/藤崎慎吾三雲岳斗森青花、司会/柏崎玲央奈
 藤崎慎吾(一九六二年東京都生まれ。朝日ソノラマ『クリスタルサイレンス』で、『SFが読みたい!』早川書房・ベストSF1999〈国内篇〉一位獲得)、三雲岳斗(一九七○年大分県生まれ。「M.G.H.」で第一回日本SF新人賞受賞。徳間書店〈SF Japan〉に掲載)、森青花(一九五八年福岡県生まれ。『BH85』で第十一回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞)の新鋭SF作家三名に訊く、それぞれの作品への思いとSFについて。
 藤崎氏が活字のSFに出会ったのは、小六だったか中一だったかのころに、「面白いから読め」とある日父親に薦められた『銀河帝国の興亡』(アイザック・アシモフ)が最初だったそうな。立派なお父上である。親しんだ作家は、レイ・ブラッドベリクリフォード・D・シマックカート・ヴォネガットサミュエル・R・ディレイニー小松左京光瀬龍半村良など。サイバーパンクあたりで、一度SFから遠のいたとのこと。どうもこういう人が少なくないようだ。『クリスタルサイレンス』は、書くときにSFを意識しなかったと言えば嘘になるだろうけれども、主観的には「SFにしよう」という強い意識があったわけではないそうだ。そうでしょうそうでしょう、ふつう小説とはそういうものでしょう。それでもSFになっちゃう人にこそ、SFを書いてほしいとおれは思うのであります。
 森氏のSF歴は七十年代後半にはじまるそうで、やはりロバート・A・ハインラインアーサー・C・クラークといったオーソドックスなところを読んでらっしゃる。『夏への扉』(ロバート・A・ハインライン、福島正実訳、ハヤカワ文庫SF)にはとくに思い入れがあるそうだ。「そういえば、あのダニーがコールド・スリープから目覚めるのが今年なんですよねえ」と、思わぬ指摘。そ、そうであったか、言われてみりゃそうか。でも、それを言うなら、来年には人類は木星に行ってなきゃならん。いまのところ、十二分に実現しているのはジョージ・オーウェルのアレくらいだったりして。おいおい。森氏も、「『ニューロマンサー』(ウィリアム・ギブスン、黒丸尚訳、ハヤカワ文庫SF)でつまづいた」などとおっしゃる。うーむ。同じ日に三人の口から同じことを聞くとは……いやまあ、言わんとすることはわかりますがー。フィリップ・K・ディックも読んでいたが、『ヴァリス』(大瀧啓裕訳、創元SF文庫、というか、当時はサンリオSF文庫版でしょうね、もちろん)でつまづいたそうである。い、いやまあ、言わんとすることはわかりますがー。おれも原型と言われる『アルベマス』(大瀧啓裕訳、サンリオSF文庫/創元SF文庫)のほうが好きだけどね。結局、森氏もそれからSFから一度遠のき、ファンタジーや海外の幻想小説へと読書傾向がシフトがしていったらしい。『BH85』も、とくにSFを意識したわけではなく、十八世紀の哲学小説のようなものが書きたかったとのことで、ヴォルテールやディドロといったあたりを意識していたそうである。そうですかそうですか、それでもSFになっちゃう人にこそ、SFを書いてほしいとおれは思うのであります。
 藤崎氏、森氏は、世代が近いせいもあってか、おっしゃっていることは感覚的にもよくわかる。いちばん刺激的というか、考えさせられたのが三雲氏のコメントである。わからないわけではなく、おれの中の半分は引き寄せられるのだが、残り半分は藤崎・森側に残りたがっているような感じだ。一九七○年生まれの三雲氏くらいになると、生まれたときから身のまわりは“SFっぽいもの”だらけ。おれたちの世代が酸素のようにSFを呼吸して育ったのだとすれば、三雲氏の世代は窒素のようにSFを呼吸して育ったと言ってもいいかもしれない。『マジンガーZ』やらなにやら巨大ロボットアニメに当然のように触れ、NHKの『キャプテンフューチャー』(たしか、アニメのほうは「・」がないのである)にハマり、やがてエドモンド・ハミルトンの原作を読むようになった(小説のほうへ行くあたりが、すでにしてマイノリティーかも)とのこと。また、「『機動戦士ガンダム』のアイディアの基になったと言われる『宇宙の戦士』(ロバート・A・ハインライン、矢野徹訳、ハヤカワ文庫SF)って小説があるんだよ」と人に教えられ、ハインラインも読んだそうである。だものだから、“SF冬の時代”などということを取り立てて意識したこともないとおっしゃる。今日はさんざんな言われようの『ニューロマンサー』は、「文章がかっこいいと思った」というから頼もしい。サイバーパンクの本質を言い当てた的確なコメントである。SFであるかどうかにこだわると“通常小説”として読めてしまい「なんかちがうんじゃない?」とも思えるのだが、問答無用で「かっこいい」――これぞサイバーパンクの正しい(?)読みかたであろう。たしかに、よく言われるサイバーパンク以前・以後という感じかたはわかるんだけど、おれにはそれほど大きな変質があるとは思えないんだけどなあ。サイバーパンクって、かっちょいいじゃん、フツーだから。でも、とんでもないことはちゃんととんでもないこととして書くスタイルの面白さもわかる。「そんなとんでもないことをフツーに書くなよ」とサイバーパンクに対して思わんでもない。おれは許容範囲が広すぎるのかなあ。そういう意味では、サイバーパンク的でもあり古典的でもあるグレッグ・ベアってのは現代SFを語るうえで避けて通れないすごい作家ですな。「SFってものを読んでみたいんですけど」という初心者には、クラークでもスターリングでもなく、ベアを薦めるべきなのかもしれない。
 『M.G.H.』についてのおれの考えは、2000年3月27日の日記に書いたとおりだが、このパネルで、やはり三雲氏はすべてを意識してやっていることがよくわかり、それもアリかと納得した。「女の子に読んでもらえるSFのつもりで書いた」「自分の作品を踏み台として、いわゆる“SF”に入っていってもらえれば……」などといった方法論に意識的なコメントがあり、なかなかどうしてやっぱり強かな人である。まあ、正直なところ、「おれはおれの小説を書く」みたいなサムライがおれは好きなんだけども、こういうのは古いんでしょうね、たぶん。おれ自身は古くてけっこうだと思ってるけど。「海外進出したい」「どこへ?」「……台湾とか」には会場爆笑。マンガ化やアニメ化をされれば、アジア市場に出てゆくのはそう困難でもないことをみな知っているから笑うわけである。ここでも若手らしい現実的戦略が表われていて、苦微笑してしまう。小説として評価されてアメリカで翻訳されたいとか、イギリスの雑誌に出たいとか、夢みたいなことを言わないところが(夢じゃないぞー)現代っ子だなあ。三雲氏の話を聴いていると、頼もしいような嘆かわしいようなフクザツな心境にはなるのだが、サムライがどーしたといったどろどろのこだわりがないところに、のほほんとした清々しさが感じられ、「まあ、いっか」と思ってしまうのであった。とにもかくにも、頭のいい人は見ていて気持ちがよい。だけど、頭のいい人があえてどアホウになるのも、おれはいっそう好きだ。そういう人がいてくれないと、イアン・マクドナルドとかイアン・マクドナルドとかイアン・マクドナルドとかジョン・スラデックとかは訳されないのである。あ、話がずれた。

『妖しのセンス・オブ・ワンダーへようこそ――小中千昭インタビュー』(出演/小中千昭、聞き手/井上博明
 ご存じ小中千昭氏がSFを語る――という企画なんだが、おれは映像媒体にとんと疎いものだから、話題になっている作品がほとんどわからない。とくにアニメがダメである。嫌いじゃないのだが、がんばって観る気力がないのだ。年寄りである。話についてゆけるのは、せいぜい『ウルトラマンガイア』くらいのものだった。この日記で毎週土曜日“ガイア突っ込みアワー”をやっていたのも、ずいぶんとむかしのことのような気がするなあ。とはいえ、なんについて話されているのかわからなくとも、なにを話しているかはとてもよくわかるから不思議だ。なんでも世代論にしちゃうのはいかんけれども、やっぱり同じものを観て育ってきた人の話って感じがするんだよね。お定まりのコースではあるが、幼いころは『鉄腕アトム』《ウルトラシリーズ》『サンダーバード』に触れ、やがて中学から高校あたりの年齢で、SFをジャンルとして意識しはじめたという。〈SFマガジン〉のバックナンバーを買い集めたりもしたそうである。“センス・オブ・ワンダー”という便利な言葉に寄りかかってはいけないけれども、己の納得のゆく形で論理性にこだわり(これは必ずしも予定調和という意味ではないのだ)、そこからSOWを紡ぎ出そうとする姿勢には共感を覚えた。映像も観なきゃいかんな、ウン。

 本会が終わって、森岡浩之さん木戸英判さん、わたぼこりさんと食事をし、《星界の紋章》シリーズキャサリン・アサロの話などする。
 料理が出てくるのが遅かったため、遅刻せぬよう四人でタクシーに乗り、合宿会場のふたき旅館に到着。ほどなくオープニングがはじまる。例によって、東京創元社小浜徹也さんによるサクサクした進行で、会場のプロ・セミプロ・有名な方々が紹介されてゆく。ここ数年、毎年参加しているので、どういう人がいらっしゃるかはだいたいわかっているのだが、徳間書店〈SF Japan〉を編集なさった大野修一さんのお顔を初めて拝見した。なんでも、2も出るとのことである。刮目して待とう。途中まで三村美衣さんの姿が見えないなと思っていたら、なんでもバスジャックのニュースを観てらっしゃるのだという。世の中では、そんなことが起こっていたのか。まあ、三村さんの気持ちはわかりますなあ。ああいうものは、あとからいくらでも観られるとはいえ、リアルタイムで観るのとは全然ちがうのだ。SFセミナーは毎年あるが、バスジャックは来年もあるとはかぎらない。きっと、おれが浅間山荘事件にかじりついていたとき、三村さんもテレビで一部始終を観ていたのであろう。なんたって、昭和三十七年生まれ。
 合宿企画は、「進化SF総解説」(出演/大森望、野田令子)にちょっと遅れて参加。『ダーウィンの使者(上・下)』(グレッグ・ベア、大森望訳、ソニー・マガジンズ)や『フレームシフト』ロバート・J・ソウヤー、内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)の中心的アイディアになっている“進化”について、野田令子博士による専門的な解説や意見が加えられた。じつは、この企画までには読了せねばと思っていた『ダーウィンの使者』が下巻の最初のほうまでしか読めていなくて、せっかく専門家の話が聴ける機会なのに、さっぱりわからなかったらもったいないなと心配していたのだが、まあ、言ってることにはついてゆけたから、たいへん面白かった。参加者にも生物関係の専門家が多かったようで、『フレームシフト』に於けるDNAの塩基配列決定法についてなどなど、どんどん専門的なところに入ってゆく質疑の応酬があった。こういうのを「素人を置き去りにしている」などと厭がる人もいるらしいのだが、おれはといえば、わけがわかろうがわかるまいが、専門家が細かい世界に入ってゆくやりとりを聴くのは好きである。なんかこう、独特のノリがあるよね。「いや、納豆はやはり大粒が……」「しかし、小粒の碾割も……」「黒豆を忘れているのでは……」みたいなことを馴染みのない言葉でやっているような感じで、とても面白い。瀬名秀明さんがいないのが惜しいと思ったことであった。もっと、濃い濃い学会みたいな応酬になって、参加者で話についていっているのは三、四人、なんてことになったかも。そういう濃いのが面白いんだよ、なんの世界でも。「たしかにこの人たちは日本語で会話しているが、おれには全部ギリシャ語に聞こえる」みたいなやりとりって、なんか聴いていて快感ありません? で、野田博士によれば、『ダーウィンの使者』は、突っ込めそうな議論になってくるとうまく仮説に逃げ、巧妙に突っ込む余地を与えないようにしているとのことで、専門家にそう感じさせるあたりに、ベアの研究熱心と語りの才能が発揮されているのであろう。ちなみに、『フレームシフト』は、大森さんも的確に突っ込んでいたが、主人公がひとりでどんどん納得しちゃって、読者がついてゆけなくなる。おっしゃるとおりでございます。でも、面白いことは面白いんだよね。
 今年の合宿企画は、出たい企画同士がいちいち裏番組になっていて、どれに参加するか多いに迷った。じゃあ、どう時間割を組めばいいのかといろいろ考えてみると、やっぱり出たい企画が裏番組になる。事務局も苦悩したところであろう。というわけで、過去に類似企画に出たことがあるものはなるべく避け、あまり参加していない路線の企画を取ることにした。「進化SF総解説」の次は、「フェミニズムとかSFとか(やおいとか)」(出演/小谷真理、柏崎玲央奈)に参加。小谷真理さんとは、パソ通に入り浸っていた時代からおつきあいがあり、ずいぶん長いような気はしていたのだが、生身でお話ししたのはこれが初めてである。想像どおり、ずいぶんとチャキチャキした姉御肌の人だ。じつは、巽孝之さんも、おれがむかし別の名前でパソ通の会議室に駄文を書き散らしていたのを小谷さんを通じてご存じで、巽さんとも今日の昼に初めて生身で言葉を交わしたのであった(以前、京都SFフェスティバルのパネルを観客として拝見したことはあったが)。「今回は初心者および、フェミニズムとかやおいとか理解できない人禁止。がんがん趣味に走らせていただきます!」などと柏崎さんがプログラム冊子で脅すものだから、参加者は十人くらい、しかも女性が大半という尋常ならぬ雰囲気の中、やおい話ががんがん語られた。小谷さんは、『女性状無意識(テクノガイネーシス)――女性SF論序説』にも書いてらした、エイミー・トムスンジョアナ・ラスらとの日米やおい交流(?)の話からどんどんディープな世界に掘り進んでゆき、おれの目はおれの身体を離れて不思議な時間の中に入って行った。『スタートレック』のカークとスポックのやおい(“K/S”ものと称するそうな)に見る、アメリカやおいのパターンの話がたいへん興味深かった。話を聴いていていまさらのように気がついたのだが、エイミー・トムスンの『緑の少女』(田中一江訳、ハヤカワ文庫SF)は、カムフラージュされたやおいなのではあるまいか。K/Sのさまざまなパターンが、あちこちに登場するのである。むかし、この作品のカエル型エイリアンの特殊能力に、「女性の性感と関係があるのだろうな」という感想を抱いたのは、まんざらハズしてはいなかったのかもしれない。
 濃〜い世界にアテられて、終わってからふとうしろを見ると、いつからいらしたのか〈SFマガジン〉塩澤編集長が超然と座っていて、おれが驚いていると、「いや、たいへん勉強になりました」とにやにやしていた。忍者みたいな人である。それにしても、どうもおれは最近やおいづいてるな。目覚める日も近いのか?

【5月2日(火)】
谷田貝和男さんの「自然食ショップとブルセラショップってそっくり」(「夢の島から世界を眺めて」2000年4月30日)という秀逸な指摘に転げまわって笑う。いやあ、「私が作りました」って書いてある農作物、前からなにかに似てるなあとは思っていたのだが、それがなんだったのか意識の表面に出てこなかったのだ。こういう、誰もが無意識にぼんやりと感じていながら言葉にすることができないものがずばり表現された文章を読むと、ほとんど性的な快感がありますなー。批評というのは常にこうありたいものだ。でも、言うは易しだよね。
▼よそのウェブサイトで拾ったネタが続く。ケダちゃんのところの掲示板で、聞き捨てならぬ企画が紹介されているではないか。
 限定受注生産サイト「tanomi.com(たのみこむ)」というのは、人を食ったドメイン名となかなか面白いビジネスモデルがあちこちで紹介されているので、ご存じの方は多いと思う。利用者が「こんな商品作ってくれ」と企画を提出し、それが「ほしい」という人がたくさんいたら、然るべき筋に商品化を“頼み込んで”くれるというサイトだ。あらかじめ注文数を把握し、究極の限定受注生産をやるわけである。
 そこでなんと、おれには涙ちょちょ切れものの「作ってくれ!」企画が出ていた。「幻の人形劇『新八犬伝』劇場版のビデオ化」である。ひええええー。懐かしいでしょう、そこのおっちゃん、おばちゃん。七十年代に多くの少年少女を唆してSFの世界に引きずり込んだNHKの《少年ドラマシリーズ》に続けて『新八犬伝』を観ていた人は多いだろうから、もしかするとあなたも、いまは亡き坂本九の名調子聴きたさにテレビに噛りついていたクチではなかろうか。その『新八犬伝』、NHKテレビで放映されたぶんはほとんど残っていないのだが、〈東宝チャンピオンまつり〉『メカゴジラの逆襲』と併映された“劇場版”の『新八犬伝』は、まだ残っている可能性が高いというのだ。そうか、そういえば、あったよなあ、劇場版が。もし、ほんとうにそんなものが残っているのなら、ぜひぜひビデオ化してほしいものである。まあ、価格にもよるが、商品化の暁には大いに前向きに検討したい(なんか政治家的)。とるものもとりあえず(オーバーな)、投票だけはしておいた。
 というわけで、「わーれこそはー、たまぁーづさがぁ、おぉ〜んりょお〜」ってのをいま一度聞きたいおじさん・おばさんは、ぜひ「ほしい」に票を投じていただきたい。もちろん、この段階ではまだ企画すら通っていないわけだから、票を投じても注文したことにはならない。さあ、いざとなったら珠を出せ〜、力が溢れる〜不思議な〜珠を〜♪ しかし、NHKも、なんであんな人気番組を残しておかないのかねえ?
▼さてさて、明日は「SFセミナー」に行ってまいりますので、次回の日記更新は四日以降となります。まあ、最近、毎日更新する“間歇”日記の原則が乱れまくっているから、お休みを告知する意味が薄れてしまっておりますが……。

【5月1日(月)】
▼♪Der Mai ist gekommen 〜と鼻歌も高らかに、今日から五月。世に五月病というやつがあるそうなのだが、おれには無縁である。たぶん人生まるまる五月病みたいなやつだからだろう。希望は持たず努力はしよう。期待はせず据え膳は食おう。不幸でないならしあわせだ。上見て暮らすな下も見るな。しょせんおれたちゃ肉袋。生まれたときから死刑囚。死ぬまで生きれば上等じゃ。笑って死ねれば勝ちやんけ――こういうポリシーで生きておれば、五月病になどなりません、ハイ。
 そういう殺伐とした気持ちに浮かれて明るく鼻歌を唄っていると、テレビのニュースが朝から救難信号を連呼している。なにやら不穏だ。それにしても、あれはなぜ MAYDAY なのであろうか――とリーダーズ英和辞典(研究社)を調べてみると、あっ、なるほど、m'aider だったのか。三十七年も生きてきて、MAYDAY! MAYDAY! MAYDAY! などと映画やテレビでさんざん耳にしてきて、いまのいままで知らなんだ。フランス語のわかる人には、あったりまえのこととして認識されているのだろうが、いやあ、面白いなあ。世界は驚異に満ちている。要するにアレか、有名な「掘った芋いじるな」What time is it now? )とかと同じか。
 「掘った芋いじるな」的な“空耳アワー”英語(?)って、けっこういろいろ考案されてますよね。高校のとき世話になった英語の先生が、「英語圏でバスに乗り、降りるときに人が道をあけてくれなくて困ったら『揚げ豆腐!』と叫べ」と教えていた。I get off! と聞こえるというのだが、イギリスならともかく、アメリカではちょっとキツイような気もせんでもないぞ。まあ、アメリカ人のほうがいろいろな訛りに対する脳の許容幅が広いだろうから、トントンかもしれん。
 こんなことばっかり教えていた先生であったが、ご本人はといえば、ほかの教師が霞んで見える抜群にみごとなイギリス英語を話していたのだから、なんやねん、こいつは。自分はクィーンズ・イングリッシュで、人は「揚げ豆腐」でええのか。ええのやろうな。この先生、けっこうシニカルな人であって、要するに、当時の高校のカリキュラムなんぞでホンモノの英語教育などやっとられんという諦観があったように思う。じゃあ、手を抜いているかというとそんなことはまったくなく、いま思えば高校生にとっては非常に歯応えのある教材をわざと選んでいたし、ついてくる者はいくらでも引っぱり上げるのであった。スポーツマンでもあって、考えてみれば、あの授業は体育会系のノリである。しかも、わけのわからんことに、この先生は独文科の出なのだった。あの完璧なイギリス英語はどこで身につけたのだろう? 謎である。
 卒業のときに、おれがちょこっとドイツ語を齧りはじめていることをご存じだったその先生は、自分が学生時代使っていた初歩ドイツ語の参考書をくださった。まだ亀の甲文字が載っているやつである。すんません、先生、おれの語学の才能では英語と格闘するのが精一杯で、ドイツ語はほっとんど進歩しておりませぬ。歳食って時間ができたら、またボケ防止にでもやります。
 その先生とは君子の交わりで、卒業後はまったく交流がない。もう十九年経ってるのか。なかなかかっこいい先生だったなあ。またいつか、おれのアメリカ英語を「品がない」とからかわれてみたいものだ。どうもおれは、いわゆる熱血教師というのが苦手で、こういうどこか醒めた先生のほうが印象に残っている。正直な話、金八先生とかGTOみたいなのがおったら、気色が悪いばかりか、単なるギャグになっちゃわないか、現実には? おれがフィクションの中でいちばんカッコイイと思う先生は、『三四郎』「偉大な暗闇」先生なんだが、古いのかなあ、こういう感性は。


↑ ページの先頭へ ↑

← 前の日記へ日記の目次へ次の日記へ →

ホームプロフィール間歇日記ブックレヴューエッセイ掌篇小説リンク



冬樹 蛉にメールを出す