間歇日記

世界Aの始末書


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2000年5月下旬

【5月31日(水)】
グレッグ・ベア『斜線都市(上・下)』(冬川亘訳、ハヤカワ文庫SF)を買う。この作品の原題は Slant であって、けっして Slash ではない点にとくに注意されたい。後者の場合、まったく別の種類の小説になってしまう。
amazon.comJack McDevittInfinity Beach に対する読者評を読んでいたら、メリーランド州にお住いの Catherine Asaro さんという人が激賞していてたまげる。よく見ると、三月に書かれた書評だ。ほんとにこの人は“ネットまめ”だなあ。まあ、アマゾンで上位レヴュアーにランキングされれば間接的に自分の本のよい宣伝にもなるだろうが、プロの作家が、金がもらえるわけでもないのに、こんなところで(って、アマゾンはもはや立派なレヴュー誌であるが)いままでに十もレヴューを書いているとは(自分の本も入ってますが)、まったくもって頭が下がる。あっ、〈SFマガジン〉2000年7月号で東茅子さんが紹介している Code of Conduct( by Kristine Smith )も入っているぞ。
 しかし、こんなことって、アマゾンくらいにアクセスの多いサイトだからできるんだよね。人通りの少ないサイトが下手に真似すると、「きゃー、面白かった」「ふん、つまらん」みたいなのがだらだら並ぶばかりで、しかもそのレヴューのランキングは、二人や三人くらいの組織票(?)で簡単に変動して、質が低下する方向へのフィードバック・ループができてしまうだろう。劣悪なレヴュアーや悪意の投票者はアマゾンにも少なからずいるにちがいないのだが、ユーザの数が圧倒的なので、ちゃんと質が向上する方向へと競争原理が働いてしまうらしい。なるほど、上位にランキングされているレヴュアーは、あくまで本を買う・買わないの参考にしやすい文章かどうかという評価基準では、いいレヴューを書いているように見える。たいした仕組みを作るもんだ。
 日本のウェブ書店でこういうことをやるには、最初からどかーんとアクセス数を稼がなくては無理だろう。さもないと、作家の信者やらファンやら天敵やら、レヴュアーの信者やらファンやら天敵やらが入り乱れ、内容なんかちっとも信用ならない激賞とこき下ろしのレヴューだらけ――などという、見るも無惨なことになりかねないよなあ。初期にひとり勝ちしたところがますます勝ってゆく、ネットビジネスの冷酷な構造を目の当たりにする思いである。儲かってるかどうかは別問題だけどね。もしかすると、明日、投資家連中がさぁーっと手を引くかもしれん。でも、そうなったら困るよ。こんな便利なサイト、ほかにないもんねー。

【5月30日(火)】
風野春樹さんの読冊日記(2000年5月29日)で知った『あなたは「何」作家か?』なる“診断もの”をやってみる。少なくとも、結婚適齢期よりは興味のあるテーマではある。
 なんと。おれは「恋愛系作家」なのだそうだ。びっくりだ。「日常を描くことに向いているかも。ならば恋愛が近道かもね。18禁だったりして・・」というのが理由だそうだが、ああ、なんという貧困な発想であろうか。日常だったら、即、恋愛かいな。どちらかというと、おれにとっては恋愛は非日常そのものなのだが……。それにおれは、毎日こうやってただただ日常を書いているが、ちっとも恋愛小説になる気配がない。日常なるものは、猥褻と同じで、見る者の目の中にあるのである。日常が平凡でつまらないなあと思えてくるのは、日常に飽きてきたからではない。自分の脳に飽きてきているにすぎないのだ。世界は驚異に満ちている。あっと驚く突拍子もない“世界の切り取りかた”が、板子一枚下に、虚実の皮膜の向こうに、無数に存在しているのである。その麻薬的魅力にとり憑かれてしまった人々が、SFファンという連中なのだ。

【5月29日(月)】
▼あらら、三日前のニュースにいまごろ気がついた。BBC ONLINE を見にいったら、Arthur C Clarke knighted と、アーサー・C・クラークがようやく正式にナイトに叙せられているではないか。言われてみれば、決まったのは二年以上前(1998年1月3日の日記参照)だったよな。まあ、“いろいろ”ありましたが、SFにとっては一応めでたいことである。おれは立憲君主国というやつが嫌いなので、腹の底では爵位なんぞにたいした意味があるとも思っていないけれども、プラグマティックな観点からは、SFにとって益のあることだ。めでたいめでたい。日本の皇室も、英国王室のように“パンダ化”の道を歩めばいいのに。「廃止したほうがいいんじゃないの?」という議論が堂々とできるようになってこそ、逆説的に存在感が増すというものだ。そうすれば、“過去の珍しい風習のひとつ”として、ひょっとするともう三百年くらいは生き延びられるかもしれないじゃないか。
 そういえば、どうも世間では、森首相「神の国」発言を妙な文脈で批判している人が多いようだ。マスコミも誘導している。「憲法の精神に反する」というのは事実として正しいのだが、あれは森首相が自分を日本の首相だと自覚していない発言である点で問題なのであって、森氏個人が憲法の精神に反する意見を持っていてもべつにかまわんじゃないか。おれも現行の憲法が気に食わんから、森氏の気持ちはよくわかる。いまの憲法のなにが気に食わんと言って、第一章が全部気に食わん。あの余計な部分は、できるだけ早く取っ払ったほうがよかろう。
 しかし、“サー・アーサー”ってのも、慣れないうちはなんだかヘンな感じだね。谷岡ヤスジみたいだ。クラークが「SFを広めナイト!」と言ったかどうかは、BBCも伝えていない。こういうリアルタイム性の高いギャグ(?)は、あとから読むとわからんのよな。日記だから、これでいいのだ。

【5月28日(日)】
▼仕事上の必要があって、朝方『ブレードランナー』(監督:リドリー・スコット)をじっくり観る。いったい何度観たことやら。いちいち数えてはいないが、二十回は下らないな、たぶん。かといって、たとえば♪きむらかずしさんのように、細かいところまで“研究”しているかというとそんなことはなくて、ただただあの世界に心地よく浸っているだけなのである。
 おれの『ブレードランナー』の観かたはこうだ。いつも同じなのである。昼にはまず観ない。家族が起きていると妨害されるおそれがあるのと、外が静かなほうがいいからだ。酒を用意し(バーボンもしくは焼酎のロックがよい)、部屋を真っ暗にする。ビデオをデッキに入れ、音声は必ずヘッドホンで聴く。オープニングのクレジットや物語の背景説明を読みながら、一本めの煙草に火を点ける。ホールデンレオンを訊問している“砂漠亀のシーン”(とおれは勝手に呼んでいる)にさしかかるころには部屋に煙がこもってきて、画面の向こうの世界とこちらの世界がすんなりと繋り、たいへんよろしい。デッカードレイチェルをフォークト・カンプフ検査にかけるとき、レイチェルが Do you mind if I smoke? と煙草に火を点けるので、おれもレイチェルと同じタイミングで煙草を吸いはじめる(もちろん、いったん顔の横までライターを引いて火を点け、少し顫える手で煙草のところまで持ってくる仕草も忠実に真似する)。紫煙の彼方でレイチェルの目が、ちょうど寸前のシーンの人造フクロウと同じように光る。たまりませんな、この場面のエロチックなこと。あれはもう、ほとんどデッカードとレイチェルのセックスシーンみたいなもんである。そんな妙な観かたしてるやつはいないって? そうかなあ。
 なんだかんだで、観終わるまでに部屋中が煙だらけになるので、『ブレードランナー』を観るのははなはだ健康に悪いのである。でも、換気しちゃうと雰囲気壊れるじゃないすか。

【5月27日(土)】
▼今日はネタらしいネタがないので(いつものことだが)、ネタのないままに日記を書く。とにかく書きはじめると自動的にネタがつるつると湧いて出てくることが常で、そうやって三年と七か月も続けてきたのだ。さすがにこれだけやっていると、新しいネタを思いついたつもりでも、「はて、この話は前にもしたかな?」と不安になってくることがしばしばある。これは不安にならなくてはいけないのであって、まったく自覚のないままに同じことを何度も何度も書いたり話したりしているようでは、立派な年寄りである。
 同じことを書いたかなと不安を覚えるときには、秀丸エディタの grep 機能でこの日記の全ファイルに、その話には必ず出てくるはずのキーワードで文字列検索をかける。さいわいにもあまりヒットすることはない。もしも「おおお、これは面白いことを思いついた」と思い込んでいて、念のために検索してみたらぞろぞろと同じネタがヒットするようなことになったら、引退を考えるべきなのだろう。でも、年寄りが自覚のないままに同じことを何度も書いているさまもそれなりに見世物としては面白いかもしれないので、やっぱり続けるかもしれん。ある意味で、大作家と言われるような人だって、結局は一生同じことを繰り返し書いていたりするのだ。
 それにしてもいつも感心するのは、ギャグ系の人である。田中啓文さんなんか、ものを書けば二行に一行はギャグが入っているし、ものを喋れば吐く息にほとんどすべてギャグが乗っている(ときどき息を吸いながら駄洒落を言っていることもあるらしい)ような人であるが、あれだけ連発して自分のネタとダブらないのであろうか。田中さんからメールが来ると、「……おかしい。もう四行もふつうの文章が続いている。もしかすると、この部分はおれが気づかないだけで、じつは高尚なギャグが入っているのではあるまいか」などと熟読してしまうし、田中さんが喋っていると「……おかしい。もう三回も息つぎをしたのに、ギャグがひとつもない。さっきの相槌はギャグだったのではないか」などと必死で思い返したりする。これだけギャグを放っていれば、「あんた、そのネタは三日前にも聞いたで」と奥さんに言われたりすると思うのだが……。「アホ。家族用は捨てネタじゃ」とか反撃してたりして。純文学作家であれば同じネタを何度使っても、「この題材は彼を捉えて離さないようだ」などと言われるのに、エンタテインメント作家が同じネタを使うと「マンネリだ」と言われるのである。ギャグならなおさらのことだ。茨の道である。
 ……と、ネタがないと言いながら、原稿用紙三枚弱は稼いだな。この調子なら、時間さえあれば一日中でも日記を書いていられるにちがいないのだが、一日中日記を書いていたら、すなわち「今日は一日中日記を書いていた」ということになり、自動的にその日の日記のネタになる。すると、「一日中日記を書いていたということを日記のネタにした」ということがまた日記のネタになり、いくらでもネタができる。ウェブ日記のネタに困っているどこかの人がその日記を読んで、それをネタに自分のウェブ日記を書く。すると、おれもまた、それをネタにできる。おれのサイトとその人のサイトのあいだに魔方陣でも書けば悪魔が召喚できるにちがいない。でも、ウェブ日記って、本質的にはそういうところが面白いんだよね。

【5月26日(金)】
▼コンビニで、カブトムシオオクワガタを“ついうっかり”買ってしまう。もちろん例の「昆虫パークガム」カバヤ)の話である。これくらいの体格のオオクワガタなら、確実に十万くらいはするだろうな。
 オオクワガタなんてものは、おれたちの子供のころでも非常に数が少なく、おれが所有したことがあるのはほんの二、三匹だった。さすがにクワガタの中のクワガタとでも言おうか、むちゃくちゃに力が強い。子供の力では簡単に大顎を開くことすらできず、はなはだ感心したものである。いくらでも獲れたミヤマクワガタなんてものはやたら外見が派手なだけで、そのじつそんなに強くはない。ノコギリクワガタも、シャープなフォルムでかっこいいものの、なんとなく喧嘩っ早い感じがして威厳に欠ける。やはり、ふだんは起きてるのだか寝てるのだかわからないぬーぼーとした性質でありながら、ひとたび太短い実戦向きの大顎を振るうととてつもない力を発揮する、古武士のような風格のオオクワガタはたいへんよろしい。高性能のマシーンじみた美がある。いまでこそオオクワガタは投資の対象にすらなっているが、あのころはカブトムシやらほかのクワガタやらカナブンやらカミキリムシやらと一緒に適当にでっかいプラケースに放り込みスイカの残りとハチミツを食わせて、ほかの虫たちと異種格闘技をやるのを楽しみに観ていたのだから、オオクワガタ・マニアの方が見たら卒倒したことだろう。
 カブトムシやクワガタムシの戦闘は、観ていて飽きないよね。クワガタムシは“絞め技”“投げ技”を併用するが、投げはいまひとつ弱い。しかし、時と場合によっては、絞め技で相手の殻を刺し貫き致命傷を負わせることがあるため、ほんとうに気に入った虫とはケースを分けて飼っていたやつもいた。カブトムシの投げ技は、みごとに決まるとじつに痛快である。相手の腹の下に差し込んだ角を持ち上げ、相手を木の枝から引き剥がそうとするわけだが、相手が下手に踏んばると、ちょうどパチンコかなにかのように力が溜まって、投げ技の威力が増してしまうのだ。よくクワガタムシがふっ飛ばされて、ケースの壁面にしたたか打ちつけられていた。カブトムシの投げは、致命傷になることはまずない。踏んばりすぎると足を引きちぎられることはあるかもしれないが、少なくともおれはそういう場面を見たことがない。
 カブトムシやクワガタムシの闘いは、基本的には相手をよい餌場から追い払うのが互いの目的なわけで、知能が低いものだからたまたま相手を殺してしまうこともあるにしても、殺すために闘ったりはしないのであった。だから、いろいろな虫を同じケースで買っていても、十分に餌を与えておけば、たちまち死屍累々なんてことにはならない。連中がどの程度ものを考えているのかは、おれたちには(まだ?)知る由もないが、うまくできているものである。
 虫の喧嘩を見て楽しむなんて、むかしの子供はずいぶんと残酷な遊びをしていたものだと眉を顰めるご父兄方もいらっしゃいましょうが、おれたちに生きものの生き死にを最も手近にあるものとして教えてくれたのは、虫でありカエルやトカゲや金魚といった小動物たちであったように思うんだよね。犬や猫はそうそうしょっちゅう死ぬもんでもないでしょう。「すぐ死ぬから……」と、縁日なんかで子供に金魚も買い与えない親御さんもいるらしいのだが、ああいうものはすぐ死ぬからこそ、一度や二度は買ってやってもいいんじゃないかと思う。生きものが死んだときの、あの厭〜な感じや、厭〜な感じを抱きながらも、もはや動かない汚い死骸に目を吸いつけられてしまうあの感じや、じつに簡単に生きものが死ぬという、そして自分も生きものだという、笑い出したくなるようなあっけなさを子供に味わわせるのは存外に大事なことなんじゃあるまいか。このところ、“命の重さ”がどうのこうのとエラい人たちがいろいろ言っているのだが、命の重さなんてわかりにくいものよりも、先に子供たちに教えるべきことがあるだろう。なによりも“命の軽さ”を知らない子供が増えてるんじゃないの?

【5月25日(木)】
〈SFマガジン〉2000年7月号は、量子論SF特集マイクル・クライトン『タイムライン(上・下)』(酒井昭伸訳、早川書房)刊行に併せた企画で、前号の予告を見たときから気にはなっていたものの、やはり怖れていたことが……というほどのことでもないのだが、シュレーディンガーをどうしましょう、〈SFオンライン〉編集部様。連載の「S-Fマガジンを読もう」では、いつも各作品の原題も併記している。ドイツ語のオー・ウムラウトをうまく日本語と混在させて表示できるのだろうか。META タグで文字コード指定してしまうわけにはいかないが、FONT タグで FACE を指定すればできんことはないのかな? Named (Numbered) Character Reference を使う手もあるか。「Schrödinger」(“?”に見えてるところは“ö”ね)あるいは「Schödinger」(“?”に見えてるところは“ö”)と書いて欧文コードで見ればちゃんとオー・ウムラウトが見えるはずだ(が、日本語がぐちゃぐちゃになる)。でも、ブラウザ側の種類やヴァージョンや環境設定によっては見えたり見えなかったりしないか心配である。oe で代替するという手もあるが、できるだけ原題で使ってる文字を使うべきであろう。わずらわしい設定の変更なしでできるだけ誰にでも見えるようにするには、GIF 画像にしてしまう方法もないではない。うーむ、これは堺三保編集者と相談だな。ドイツ語のウェブページを読むぶんには、ブラウザ側で文字コードを欧文に切り替えればすむことなのだけれども、日本語と混在させたページを作るとなると俄然面倒ですね。日独語を頻繁に混在させてページを作っている人はどうしているのだろう。以前、ロシアSF特集があったときには、全角の文字に「И」だの「Л」だのキリル文字がちゃんとあるから、ロシア語が読めないということ以外は、さほど悩むことはなかったのだった(入力がめちゃくちゃ面倒だったけどね)。漢字を表示しているのと同じだ。たしかにみな全角だから不格好だけど、一応「こういう字である」とはわかる。タイSF特集とかイランSF特集とかがあったらどうしよう(読んでみたい気はしますけど)。そういえば、〈SFオンライン〉ができる前に、台湾SF特集ってのはあったよな。ええい、そういうときはみんな GIF 画像じゃ、GIF 画像じゃ。

【5月24日(水)】
▼翻訳家の古沢嘉通さんのウェブサイト「furu's nest」が数日前に一般公開された。それまでは、おおっぴらには公開していないサイトで、少数の知っている人と、知っていることになっていないが知ってしまっている人だけが知っている場所だったのだった。
 謎に包まれていた古沢さんの過去(おれが知らなかっただけだけど)をこうして文章で読むと、たいへんドラマチックである。大学時代に高校生の山岸真さんと文通なさってたなんて、わたしゃ知りませんでした。SFの人には双葉より芳しい人が多くて、すげえなあと思ってしまう。
 それにしても、高校一年生の古沢さん近影はすごい。おれとそれほど歳が離れてらっしゃるわけでもないのだが、まるで学徒動員かなにかのようだ。むかしの学生は、こんなふうだったんだよなあ。この写真は、あのバスジャック犯よりひとつ年下なのだぞ。
 訳書紹介のコーナー「Bread and Butter」は、訳者コメント付きで充実の内容。文筆業の方々がみんなこういうものを作ってくださると、読者はたいへんありがたい。「イアン・マクドナルドの『火星夜想曲』はもっと売れるべきだ」とか「完成度が高いってのは、プリーストの『魔法』みたいな小説に使う言葉である」とか、リンクを張りながら言及できるからである。ハイパーテキストってのは、こういうふうに使うものだ。瀬名秀明って、『パラサイト・イヴ』のほかにどんなものを書いてるの?」「ああ、ここを見ればわかるよ」とか、「たまたまキオスクで買った『人獣細工』ってのが面白かったんで、小林泰三って作家のほかのが読みたいんだけど……」「それなら、この中から見繕ってネット書店ででも買えば?」とか、とても紹介しやすいではないか。以前にも同じようなことを書いたけど、パソコンの国内世帯普及率が四割を超え(ご存じかと思うが、昨年のパソコン国内出荷台数は、ついにカラーテレビのそれを上まわったのである)、インターネットに接続できる携帯電話の総契約台数が一千万台に迫ろうというこのご時世に、手前に関する情報を手前で管理・発信しなくてはもったいない。「なんだか、がっついてるみたいで……」「とてもとても私などはおこがましくて……」などとお思いになる向きもありましょうが、自分にとっての利益もさることながら、第一に読者にとって便利なのである。これは読者サービスだ。出版社は、よその出版社の仕事まで網羅したリストを、当然のことながら作ってはくれないのである(全集が出るほどまでに功成り名遂げた人は別ですけど)。ぜひぜひ、みなさんやっていただきたい(企業にご所属の方は、社外秘情報の漏洩に気をつけてね)。それらが増殖してゆき、リンクの網が形成されてゆくことで、インターネットの価値は幾何級数的に増大するのだ。「えっと、この作家はほかになに書いてたっけな……」などと、書店の棚を前にしてケータイで確認することすら、その情報が提供されてさえいれば、簡単にできてしまう時代なのですぞ。

【5月23日(火)】
▼最近、日記のネタに困った人があちこちでやっているようなので、おれもやってみた「あなたの結婚適齢期をズバリ! 鑑定します」。この手の“診断もの”は、もっと度胆を抜くようなことを診断してくれなくては面白くない。発想の一発勝負である。結婚適齢期とはなにごとか。「臓物占い」の爪の垢でも煎じて飲むがよいぞ。すげー手抜きだけど、わざわざこんなもの作るかと呆れさせられるところに価値がある。などと説教を垂れていてもしかたがないので、一応やるだけやってみた。おれの結婚適齢期とやらだが、こういうことであるらしい――「冬樹蛉さんの結婚適齢期は・・・32歳です/今より5年前だったようです」
 発想はつまらないが、なかなか鋭い結果が出るようだ。あと、いろいろとよくわけのわからない説明が出てくるけれども、なんの藝もないから省略。最後のところだけが、やたら面白かったな。「この結果を参考にあせらず、ゆっくりと考えてみてください」
 ゆっくりと考えてみることにしよう。

【5月22日(月)】
「-H"」のテレビCMを観ていて最近思うのだが、『ええなあ、「-H"」は』などと言うておるのなら、いいかげんにそろそろ「-H"」に換えたらどうですか、トータス松本さん。なにか携帯電話に執着する理由でもあるのだろうか。都会から離れることが多いとか。シリーズCMの最初から、ずっと江口洋介に差をつけられてばかりいるのだから、そろそろ学習してはどうか……ってまあ、要するに、文藝評論的に言う“準拠枠”とゆーか、製品の意味領域論的に言う“停泊点”とゆーか、比較に必要な座標を定めるための目印を旧来の製品に置いたCMの場合、ある程度の期間やってるとどうしたって不自然になってくるんだよね。“ハイブリッド携帯”ってのは、まさに最初に“携帯電話”があってこそ成り立つ“もの言い”なわけだ。え? そんな遠まわしに言わんでも、おれがほんとうはなにを言おうとしているのかわかるって? そういう邪推をしているあなたは、SFファンでしょう。いーえ、べつに「-H"」の話をしてるだけで、なーんにも他意はございませんぞ。
▼このところ、ケータイに飛び込んでくるものといえば、訃報ばかりである。また、CNNBREAKING NEWS ―― Actor John Gielgud dies.
 これだけである。これだけですべてを語ってしまう存在感のある名前だ。なんかこう、そこにいるだけでイギリスの匂いがしてくるような俳優さんでしたなあ。名前をご存じないような人でも、顔見りゃ絶対「知ってる知ってる!」と言うに決まっているのだ。きっと、おれの妹ですら言うだろう。おれは生の舞台を観たことはなく映画で知るのみだが、ジョン・ギールグッドが出てくるとたちまち画面が格調高くなっちまいますね。声がいい、声が! 爺さんになったら、あんな声になりたいものだ。どんなくだらないことを言っても、聞き惚れられてしまって便利だろう。
 小説を読んでいて、英國(英国ではない)の老紳士(大きなお屋敷の執事とかねー)が出てくると、頭の中で自動的にギールグッドを当てはめてしまいませんか? ちなみに、ちょっと不気味な爺いが出てくると、自動的にドナルド・プレゼンスになっている。もう、どちらも故人なのかあ。大往生だから、そうそう惜しんでもしかたがないが、ああいう存在感はなかなか得られるもんじゃない。Sweet dreams, Sir John, now that you have shuffled off that mortal coil.

【5月21日(日)】
「女性だってHがしたい!」というタイトルのメールがケータイに転送されてきて、一瞬ドキッとする。もしや知り合いの女性からではあるまいな、だとしたらえらい体当たりだな、いやそんなキミいけませんわあなた本気か相手次第では考えてもよいはて誰だろうわくわくなどと思ったからだ。「I LOVE YOU」だったらそうは思わないくせに、おれもずいぶんと手前勝手なやつだ。もちろんそんなけっこうなメールではなく、アダルトサイトからのダイレクト電子メールだった。しかし、いまどき「女性だってHがしたい!」などとは、なんとも大時代なコピーである。「女性だってHがしたい!」のはあたりまえではないか。もうとっくに「女性だってHがさせたい!」ということを堂々と主張する時代になっているぞ。つまり、「ああいう男とこういう男にこういうふうにHをさせたい!」と想像するばかりか、それを大っぴらに発表してみんなで楽しむ時代に。
▼午前中にかなり大きな地震がまた起こる。先日も大きなのがあったばかりだ。厭〜な予感。
▼ひさびさに“マダム・フユキの宇宙お料理教室”である。といっても、今回はそれほどワイルドな料理ではない。チョコレートのシリアルにかける牛乳がなかったので、野菜ジュースをかけて食ってみただけだ。シリアルは「チョコクリスピー ビービッグ」(ケロッグ)、野菜ジュースは「カゴメ野菜ジュース」である(それにしても、じつにわかりやすいなんの工夫もない商品名だ)。これがなかなかいける。チョコの甘みが野菜ジュースの臭みを抑えて……と言いたいところだが、そんなことはまったくない。チョコも野菜ジュースも、お互い全然譲ろうとせず、強烈に自己主張をする。“混ぜて食っている”というよりも、ただ単に“一緒に食っている”にすぎない。両者の自己主張のあいだに茫然と佇む味わいがなんとも言えぬ体験である。ぜひお試しあれ。
 それはさておき、あの手のシリアルの箱には、やたら栄養のバランスがよいということが説明されている。あれを読んでいると、もっと生活に困ったらひたすらシリアルばかり食ってしのいでやろうかとさえ思う。理屈では、それで元気溌剌、健康に生きてゆけるはずなのだが、どうもそんな気がしない。はたして、バランスがよかったらいいのか? 栄養のバランスが悪く固くて食いにくい食いもの、動物や植物の死体の中から、己に必要なものを搾り取る能力が落ちてゆくような気がしてならないのである。
 と、ここまで考えたところで、いまの教育(ことに学校教育)って、子供にシリアルばかり食わせて育てるのに似ているんじゃあるまいかと思えてきた。短期間のボディビルで無理やり筋肉を膨れ上がらせたような身体は、じつは見かけほど強くはないって話はよく聞く(実際どうなのかは知らん)。頭も同じように思えてならない。無駄なものをいっぱい詰め込んで、そこから漉し取ってわがものにしたエッセンスが、たとえば大学入試を突破できるだけの水準におのずと達していたとかいうんなら、おお、そりゃたいしたもんだと思うのだけれども、「こうすりゃ効率がいい。最少の努力で最大の効果が得られる」などと、他人がシリアルのごとくに調合したふにゃふにゃのエッセンスをぐいぐい詰め込んで、計算どおりに試験に受かる水準に達したなんてのは、どうも気色が悪いんだよね。どう考えても、こいつの脳はシリアルばかり与えられて育ったんじゃないかと思わせるいい大人をときおり見かけるわけよ。まあ、もっと上の世代には、おれもそう思われているにちがいないんだけどね。


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