間歇日記

世界Aの始末書


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2000年9月下旬

【9月30日(土)】
▼あのですね、資生堂さん、プラウディアのCMですが、葉月里緒菜りょうって、もしかしておれを個人的に狙っていたりしますか? しませんですかそうですか。
▼以前に友人にもらったかえるシャボン玉ペンというやつがある。カエルの頭がついた太めのペンの中に石鹸水かなにかが入っていて、カエルの頭を抜くと反対側はシャボン玉用の輪になっている。べつにカエルである必然性はなにもないのだけれども、とにかくいつでもどこでもシャボン玉遊びができるという優れものである(だからどーした)。ふだんはめったに使わないのだが、ペン立てに差してあるこいつが目に留まると、ふと発作的に家の中でシャボン玉を飛ばしてみたくなるときがあるのだった。。○ 。o ○。○。。○ o。.。○ 。o。o ○。o。o ○。o ○。○。。○ o。.。○ 。o。o ○。o。o。o ○。。o ○。○ o。.○ o。.。○ 。o。o ○。o。o ○。o○。。 。o ○。。o。o○。。o ○。o。o ○。o。o ○。。o。o○ o。.○。○ o。.○。o。o○。。 ○。o ○。o。o 。o。o ○ こういう手もありか。
▼などと、ときおりシャボン玉遊びをしながら、一日〈SFマガジン〉原稿のための下調べ。

【9月29日(金)】
▼あちこちで話題騒然の「福島県立清陵情報高等学校校歌」だからすでにご存じのこととは思うが、いやあ、これはじつにすごい。SFだ。校歌ってのは、どこかで聞いたようなフレーズの組み替えでできているのが常であるが、ここまで思いきりよく校歌の定石を無視したものも珍しいであろう。おれ自身は歌いたくないが、この高校には行ってみたいと思うよね。一事が万事で革新的なのやもしれない。
 これを見ていたらなにやら校歌が作詞したくなってきたので、十分ほどででっちあげてみた。先にも述べたように、どこかで聞いたようなフレーズを組み替えればたいていは校歌のようなものになるのだから、はなはだ簡単だ――

私立蜻蛉(せいれい)学園高等学校校歌

若い命が真っ赤に燃えて
誰もがみんな知っている
人の世に愛がある 人の世に夢がある
地球の平和を守るため
朝から晩まで勉強だ (ヤー!)
空にかけたる虹の夢
さあ、出発だ いま日が昇る
(台詞)「だけど涙が出ちゃう。高校生だもん」
その名も高き蜻蛉学園
ムッシュバラバラバーラバラ
闇の中を抜けてゆく

宇宙の海は俺の海
誰のためでもいいじゃないか
地球が泣いてる 空が脅えてる
おいらにゃ獣の血が騒ぐ
朝から晩まで勉強だ (ヤー!)
安らぎよりもすばらしいものに
闘え蜻蛉 いまこそ蜻蛉
(台詞)「いまだ! 公式を使え! 実数解だ!」
その名も高き蜻蛉学園
ドボチョンドロドロドーロドロ
風の中を抜けてゆく

用もないのに校長先生が
ガンと一発しびれる啖呵
美しさは罪 微笑みさえ罪
電流火花が身体を走る
朝から晩まで勉強だ (ヤー!)
勇気を示すマークがシンボル
きらめく稲妻 轟く雷鳴
(台詞)「全校生徒 異常なし!」
その名も高き蜻蛉学園
ラリホーラリホーラリルレロン
闇の中を抜けてゆく

 ほんとに簡単だな。それでも、かなり古風な校歌になってしまったのは慚愧に堪えぬ。若い人が作れば、もっと今様のものになるのだろう。ま、適当な節をつけて愛唱していただきたい。
 謎といえば謎なのだが、なぜ校歌はオリジナルでなくてはならないのだろう? 歌謡曲やテレビ番組のテーマソングの中には、いかにもいかにもそのまま校歌に使えるものがたくさんあるのだから、権利関係をクリアして使えばいいのにと前から思っているのだ。江角マキコ「ONE WAY DRIVE」なんて高校あたりの校歌に持ってこいだと思いませんか? 「あゝ人生に涙あり」も校歌向きだよなあ。あ、だが、よく考えたら、「あゝ人生に涙あり」を校歌に使っている大学は実在するんだよな。

【9月28日(木)】
▼またもや高橋尚子のサングラスである。あれは、田中哲弥さんのご記憶どおり、やはりオークリー製であったのだ。アルビレオさんが教えてくださった「弘山晴美を支える夫の献身愛」という「ZAK ZAK」の記事に、『この日(27日)、弘山は「オークリー」製のピンクのサングラスをかけて駆け抜けた。強烈な日差しから目を守り、スパートをかけるときの微妙な目の動きを他の選手に見抜かれないためという2つの目的があったが、女子マラソンの高橋尚子(28=積水化学)がかけていたのも同社製のサングラス。この快挙にあやかりたいという心境もあったのだろう』とある。うーむ、オリンピック選手、とくにメダリストが使うと、ほんとにいい宣伝になるよなあ。相撲取りがパソコンの宣伝したりするのも、そういう効果を狙ってのこと――なわけはないわな。じつは、アンテナのCM牧野修さんを起用してはどうかと前から思っている。「見えすぎちゃって〜困るの〜」と妖しく歌い踊る牧野さん……売上げ倍増確実である。なに、ネタが古すぎてわからない? そういえば、いつのころからか、あのCM見ないよなあ。
 それにしても、「スパートをかけるときの微妙な目の動きを他の選手に見抜かれないため」とは、なーるほど、そういうものなのかー。スポーツ音痴のおれには想像もつかぬ。たしかに格闘技なんかでは、手練れの者になると、相手の眼を見て動きを予測するそうなのだが、ランナーにもこういう駆け引きがあるわけね。だったら、表に目玉の絵を描いたサングラスで幻惑するのも有効ではあるまいか。ふたつに割ったピンポン玉に目玉を描いてサングラスに貼りつけ、日野日出志のマンガによく出てくる人みたいな顔をして必死に走ると、これは絶対ウケる。ウケてどーする。でも、高橋尚子がゴール間際でふり向いたとき、シモンがこのサングラスをかけていたとしたら、絶対抜かれていたと思うぞ。ほかの選手を笑わせて呼吸を乱すのは反則なのだろうか。もっとも、高橋尚子もシモンも、もともとそういう顔してるけどさ。
 高橋尚子で丸三日分稼ぐとは、なんという日記だ。まあ、おれにしてはきわめて珍しいスポーツの話題(どこがだ)だから、いいとしよう。

【9月27日(水)】
▼シドニー郊外を歩いていると、肥ったおっさんが道端に毛氈を敷いてなにやら売っていた。

「おっさん、なに売ってんのや?」
「見てわからんか? サングラスや」
「おんなじ型ばっかりやな」
「そらそうや。なにを隠そう、隠したら売れへんが、これは高橋尚子が投げ捨てたサングラスや」
「なんでこんなにぎょうさんあるねん?」
「これやから素人は困るな。スポーツに理解がない」
「そういう問題か? このいちばん端っこのやつも、高橋尚子のか?」
「あたぼうよ」
「お、突然江戸っ子になりよった」
「ここはオーストラリアや。細かいことにこだわったらあかん」
「で、これはほんまに高橋尚子のんか?」
「そうや。高橋尚子が五キロ地点で投げ捨てたサングラスや」
「ほな、その隣のは?」
「高橋尚子が十キロ地点で投げ捨てたサングラス」
「ははあ……そしたら、これは高橋尚子が十五キロ地点で投げ捨てたサングラスやな?」
「惜しい! 十八キロ地点」
「急にハンパになるんかい」
「そこがスポーツの醍醐味や。で、にいちゃん、どれ買うねん?」
「いつのまにや買うことになってもうとるな。そやな、三十五キロ地点で投げ捨てたやつはあるか?」
「おっ、にいちゃん、お目が高い!」
「そやからセイコーにしとるんや。で、三十五キロ地点のはあるんか?」
「在庫あるかなあ……ちょっと待ってや」
「お、ケータイを出したな。それで在庫確認できるんか? 進んどるな」
「二時三十八分か」
「時間を見ただけか、時間を!」
「時間は見えへん。時計を見たんや」
「屁理屈はええわい!」
「どうしても高橋尚子のが欲しいか? 最近の若いもんは無茶言いよるな」
「おっさんがそう言うて売っとったんやないけ!」
「こっちのもええで。タモリのや」
「その隣のおんなじ型のやつは、タモリが五キロ地点で投げ捨てたやつやろう?」
「これやから素人は困る。K・W・ジーターのや」
「おっさん、そのネタはわからん人もおると思うぞ」
「いーや、たぶんここを読んでる五人に三人くらいはわかる」
「そういうもんか? ほな、その隣のちっこいやつは、柳下毅一郎のやろう?」
「にいちゃん、ひとりよがりはいかん。そのネタは特殊すぎる」
「ここを読んでる五人に二人くらいはわかる」
「過半数割れやな」
「しまいにどつくど、おっさん……もうサングラスはええわ」
「ほな、これはどないや?」
「なんやこれは……ブランデーグラスか?」
「そや。聞いて驚け、これは石原裕次郎のブランデーグラスや」
「その隣のおんなじやつは、石原裕次郎が十キロ地点で投げ捨てたブランデーグラスやな?」
「いや、堀江淳のメモリーグラスや」
「一発屋できよったか。ブランデーグラスで水割り飲むんかい?」
「涙の数だけな」
「急に詩人になりよったな……その隣に座ってる渋い顔のガイジンはなんや?」
「カーク・ダグラス」
「売りもんにするな、売りもんに!」
「いま買うと、桐の小箪笥とマイケル・ダグラスがついてくる」
「つけんでええ、つけんで! ほんまにもう、グラスやったらなんでもええんかい。ベタベタやな」
「いーや、きれいに拭いてある」
「ブーメランでドタマかち割ったろか……あら、さっきの高橋尚子のサングラス、まだあるやないか」
「ああ、それは高橋尚子が四十五キロ地点で投げ捨てたサングラス」
「二・八○五キロ多いやないか」
「それくらいは走ってるうちに痩せる」
「痩せねーよ!」
「お、突然江戸っ子になりよった」
「じゃかましいわい!」
「ジャマイカの試合?」
「あのなあ……おっさん、友だち少ないやろ?」
「参加することに意義がある」
「もうええわい」
「なんや、買わへんのか、四十五キロ地点のやつ?」
「いらんいらん」
「ほな、これはどうや? NASAの技術者がワシの眼ぇをヒントに作ったという……」
「おっ、それ聞いたことあるわ。あるんか?」
「あるある。ほれ――」
「……なんや、この濁ったサングラスは?」
「そやから、NASAの技術者がワシの眼ぇをヒントに作ったんや」
「おっさんの眼ぇかい!」
「暇な技術者もおるもんやな」
「そらワシの台詞じゃ!」
「鷲はしゃべらへん。コンドルは飛んでゆく」
「おっさんが飛んでいけ、おっさんが!」
「いま買うと、太枝剪り鋏がついてきて、立方根の暗算もこのとおり!」
「番組こんがらがっとらへんけ? しゃあないなあ、ほかにもっとましな売りもんはないんか?」
「このブロマイドなんかはどないや?」
「お、〈モーニング娘。〉やな?」
「それは類似品や。あんじょう見てみ」
「……じゅ、11人いる!」
「そこで“!”をつけるかー。にいちゃん、さてはスジもんやな?」
「なんのスジや。要するに、〈モーニング娘。〉のバッタもんかい」
「にいちゃん、そないなこと言うてたら笑われるで。いまシドニーで大人気の〈ドーピング娘。〉や」
「験の悪い名前やな。そうゆうたら、みんな元気なさそうな顔しとるわ」
「撮影のとき風邪ひいとったんや。風邪薬が飲めへんさかい、オロナミンC飲ましたら、よけいあかんかった」
「選手やったんかい、こいつらは!?」
「元気剥奪、オロナミンC!」
「それが言いたかったんかい、それが!」
「にいちゃんも飲むか? まだ一本残ってたはずや」
「もらうわ。なんやおっさんとしゃべってたら喉渇いてきた」
「……あ、すまん、にいちゃん。あらへんわ」
「なんや、一本とったあんのとちゃうんかい?」
「売っちまった」

 ネタがないので、高橋尚子でお茶を濁そうとしたら、つるつると漫才一本書いてしまった。こういうのはいくらでも出てくるくせに、金がもらえる原稿となると、なぜもたもたするのだろう。以上、7月30日の日記に引き続き、ケダちゃん風日記でシドニーよりお送りいたしました。

【9月26日(火)】
昨日高橋尚子のサングラス「誰か知ってたら教えてくれ〜!」と書いたところが、一日で十七名もの方々が、どどどどどと教えてくださった。あ、ありがとうございますっ! この日記は、少なくとも十七人は読者がいるのが確実となった。カウンタってのは、いまひとつ実数が掴めないからなあ。この十七人が一日に三十〜四十回見にきてくれていたりして……。そ、それも怖いぞ。
 結局、おれがいかにテレビをいい加減に観ているかを痛感した(って、事実、たいていいい加減に観ているのだ)。サングラスの行方は、あちこちのインタヴューであきらかにされていたそうなのだ。無事、スタッフが拾って高橋選手のお父さんの手にわたったらしい。というか、おれのテキトーな見立てに反してけっこう上等のサングラスだったために、高橋選手は知り合いが沿道にいるところを狙って投げ捨てたとのことである。迫ってくるシモンめがけて投げつけたのがはずれたのではなかったのか――って、こういうこと書くから不謹慎だと言われるのだ。
 というわけで、たくさんの方にお教えいただいたものだから、失礼ながら、メール到着順にまとめてお礼を申し上げます。佐々木さん、白城弥生さん、春日はるかさん、森山和道さん、アルビレオさん、やぴさん深山めいさん、あんぼ“けろすけ”みゆきさん、片岡正美さんとりさん、しつちょうさんFUYUさん奥村真さん、鷹司史朗さん、大野左紀子さん北野勇作さん、田中哲弥さん、まことにありがとうございました〜!
 みなさん、「お父さんの手にわたった」と教えてくださったのだが、あの手の小物にひとかたならぬ執着をお持ちの田中哲弥さんは、値段の推定までしてくださった。なんでもあれは、“OAKLEY”(オークレーまたはオークリー)というメーカのサングラスだと高橋選手自身が言っていたような気がすると田中さんがおぼろげに記憶しているブランドものであるらしく、「メーカーがわざわざオリンピックで選手に使ってもらうものですから、他のメーカーであったとしてもおそらく二万円くらいはするものであると推測されます」とのことである。に、二万円ですか。あのペラペラの、見るからにちゃちい弱そうなサングラスがですか。『ぼくはオークレーのサングラスを清水の舞台で首をくくってから毒を飲むほどの勇気を出して買ったことがあるので「投げ捨てる」などという蛮行を目の当たりにして眩暈がするほどショックを受けました。本人によると「オークレーのサングラスだし(他のメーカーかもしれませんがたぶんそう言ったと思うのです)知り合い(父親?)の顔が見えたのでそこで投げた」ということで、それを聞いてようやくぼくの心はおさまり高橋への殺意も消えたのですが』って、殺意があったんかい、殺意が。
 そのあとに続く、作家・田中哲弥の本領が遺憾なく発揮されたコメントを読んで、おれの目から鱗が弾け跳んだ――「冬樹さんが高橋尚子が好みだというのはなんとなくわかります。だってあの顔はどう見てもバッタかトンボ」
 田中さんはしばしば人間の顔が他の生物のそれに見えるらしく、以前にも「セリーヌ・ディオンの顔をした犬がよくいる」といったことをウェブ日記に書いていらした。「なんとなく、なにかに似ているなあ」とみなが思いながら言語化できないでいる“なにか”を、あっさりと誰もが知っている言葉で撃ち抜いてしまうところがさすがである。あれ以来、おれにはセリーヌ・ディオンの顔が犬にしか見えない。うーむ、そうか。バッタかトンボであったか……。いや、おれも、「高橋尚子はなにかに似ている、なにかに似ている……」ともやもやしたものが前意識のあたりまで上がってきて蠢いているのを感じていたのだが、田中さんの言葉で、いまそれがようやくわかった。高橋尚子の顔を見て、おれの無意識は「あ、にこにこしている仮面ライダーだ」と思っていたのであった。

【9月25日(月)】
国勢調査なるものがあるそうで、書いたところで原稿料も出なけりゃウェブにもアップできない調査用紙が来ている。なんだか知らないが、国の勢いを調査するのなら、おれのところへこんなものを持ってくるのはまちがいである。おれはどう考えても勢いを殺いでいるぞ。
▼電車に乗っていて、ふと厭なことに気づく。森首相、「E−ジャパン」ってのはいくらなんでもやめたほうがいい。ほら、もう誰も憶えていないかもしれないけど、むかーし“E電”ってあったじゃないか?
高橋尚子が時の人で、どこを見ても高橋だらけだ。なかなか可愛らしい。あれで二十八というところになにやらいびつなものを感じさせ、その危ういバランスがセクシーである。健康的であって病的である。そうだ、人間、病的なものがなくてはならない。ビョーキの人は遠慮したいが、病的な女性はセクシーである。うむ、いいぞ――って、こういう不純な見かたしてるのはおれだけか?
 ところで、眼鏡がないと日常生活もままならないおれとしては非常に気になっているのだが、あの投げ捨てたサングラスはいくらくらいのものなのだろう? あまり高そうなものには見えなかったが、やっぱり気になる。それに、あのレースでいちばん気になっているのは、なにを隠そうサングラスの行方だ。投げ捨てたあとのことは、じつはあまりよく憶えていない。あなただって気になるでしょう? 気になるに決まっている。きっと世界中の人が気になってしようがないにちがいないのだ。誰か知ってたら教えてくれ〜!

【9月24日(日)】
〈日経モバイル〉2000年11月号の「人気者が語るホンネ! 定番モバイルのココが好き!!」という、有名人が愛用のモバイルツールについて語る記事を読んでいたら、ドクター・中松「CAMEDIA C-3030ZOOM」「Fine Pix4700Z」を熱く語っていた。語るのはいいのだが、ドクター・中松のカメラの選びかたを述べた次の箇所で目が点になった――『購入するモデルが決まったら、販売店で最終的に購入する製品を決めるのだが、ここにも中松さんらしいユニークな方法がある。販売店で在庫を全部だしてもらい、1つひとつにおいを嗅ぐのだそうだ。「いい製品からはいいにおいがする」という』
 在庫を全部出さされる店員に激しく同情する。そうですか、においがしますか。「このあたりは常人にはなかなか理解できないが」って、正直に書いてるライターもライターで、見上げたものである。でも、「なかなか理解できない」このライター、最終的には理解できたとでもいうのだろうか? ともかく、この人に取材して記事を書くのは、さぞや文面に表われない苦労があるのだろうなあ。
 本にはたしかに匂いがあるけどねえ。鼻で嗅ぎ取れるふつうの匂いと、なにかこう、全身で感じられる波動にも似た匂いとだ。前者は内容とはなんの関係もないが、後者は関係がある。おれも、言ってることはドクター・中松と五十歩百歩かも。

【9月23日(土)】
▼昨日の深夜に「アリー・myラブ」を観終わって、さあ仕事をしようと「朝まで生テレビ!」をBGMにパソコンに向かう。背中で聴いていても腹が立つほど稚拙な議論。ディベートにもなにもなっていない。おまけに、会場の若いやつが質問をするのだが、ぼそぼそとなにを言っているのかさっぱりわからない。こいつはどうやら大学生らしいが、日本語のセンテンスが組み立てられないのに、どういうわけかテレビ番組の中で質問をする気になったらしい。そのメンタリティーがなおさらわからない。つまり、この学生には、自分が日本語に不自由なことがまず自覚できていないらしいのである。とにかくこういう機会を与えられれば、な〜んにも考えていなくてもはいはいはいはいと手を挙げては適当な“感想”を述べればいい子ちゃんでちゅね〜と褒めてもらえるような育ちかたをしたのかもしれない。「おまえの言うことは日本語になっていないから、顔洗って出直してこい」と言ってやる大人はおらんのか。まあ、パネリストたちだって、さすがに一人ひとりの言うことは日本語になっているが、自分の意見を代わるがわる述べているだけで、ちっともディベートにもディスカッションにもなっていないのだから、あまり偉そうなことは言えないか。これはそういう番組なのだ。
 “朝生”に比べれば、「アリー・myラブ」のちょっとした会話のなんと高級なこと。弁護士どもが登場人物だからあたりまえかもしれないが、どんなバカげた会話にも“斬れる”論理と言葉が飛び交い、いちいち惚れぼれするようなディベートになっている。そりゃあコメディーだから、たいしたことは言ってない。なのに、論理と論理が火花を散らす小気味よい言葉の応酬がある。法廷場面も、コメディーとしてデフォルメはしてあるが、松本道弘風に言う“言葉のボクシング”の醍醐味が横溢している。朝生なんぞ、さしずめ“言葉の引っかき合い”といったところだ。そういう観点で「アリー・myラブ」を観ると、じつに怖ろしい。一九四一年『ダンボ』を観せられた日本人が抱いたであろうような恐怖に近いものを覚える。この国とは二度と戦争をしたくないものだが、よく考えたら、いま戦争の真っ最中でもあるのだった。
 そういうわけで、朝生なんか観てるくらいだったら、「アリー・myラブ」観てるほうがよっぽど勉強になるよ、そこの中高生諸君。日本の学校では、こういう言葉の使いかたは絶対教えてくれないのだ。日本の陋習では、言葉なるものは基本的に同じ考えかたを持っているに決まっていると幻想を抱いている人間同士がそれを確認し合って安心するための道具であってそれ以上でもそれ以下でもないが、アリーの国では、基本的にちがう考えかたをしているに決まっている人間同士が利害と自我と論理をぶつけあって闘うための武器なのである。おれは、ただただ論理遊びをしているかに見えるアメリカ人のしゃべりかたがさほど好きではないが、連中の言葉の運用能力には端倪すべからざるものがあると思っている。大阪人がふたり寄れば漫才になるように、アメリカ人がふたり寄ればディベートになるのである。外国のよいところは取り入れよう。よいと思わなくても、使えるものは手に入れよう。日本人同士で論理的な議論ができるようにせねば、ITなど“安心毛布”以外のなんの役にも立たないぞ。まあ、国会中継見てると意気阻喪するのはわかるが、大人の悪いところを真似しなくてよろしい。

【9月22日(金)】
▼先日来、安ワインに味をしめ(?)、今日は二百八十円(実売価格)の赤ワインを飲む。サントリー「彩・食・健・美」というやつだ。これもまた、ワインのような、そうでないようなきわめて曖昧な味がする。先日のやつとはちがって一回の食事で飲めてしまうので、酸化させて味の変化を楽しむことができない。残念だ。

【9月21日(木)】
▼最近、強烈な夏バテが来ている上に、主業も副業もおかげさまで忙しい。むかしは頭に身体がついてこないという感じだったのが、歳とともに頭もバテるということを発見した。なにか新しいことをはじめると頭の健康にもいいのだろう。楽器でもやろうかと思うが、そんな時間などなく、無茶して時間を捻出したとて深夜か早朝になるだろうから、ヘッドホンで練習できる楽器でなくてはならない。やっぱり隠居してからか。しかし、この調子では一生隠居などできそうにもない。金と時間と体力を使わずに頭のリフレッシュができるのは、やっぱり語学であろう。中国語でもやっておけば、これから役に立ちそうだ。いかんいかん、“役に立つ”などという助平根性がおれらしくない。やっぱり楽器だ――って、考えてる暇があったら、とっととなにかやれよ。
昨日、三分の一残して冷蔵庫に放り込んだ安ワイン(のようなもの)だが、晩飯のときに飲んだら、やっぱりまた少しうまくなっていた。要するに、最初が甘すぎたので、少々酸っぱくなるくらいのほうがましになるのかもしれない。いやあ、これは面白い面白い。これからもときどきやろう。
“泣き婆”というやつがある。梶尾真治『泣き婆伝説』(ハヤカワ文庫JA)の泣き婆だ。あの話では選挙に出てくるのだが、ふつうは葬式に出てくる。ぼーっとテレビの画面を見ていて、なぜか突然“泣き婆”という言葉が頭に浮かんだので、あまりの唐突さに自分でもびっくりした。いまのCMにサブリミナル映像でも仕掛けられていたのか? しばらくして、再び同じCMが流れたとき、おれはその原因を知った――モーニング娘。
 「モーニング → mourning」「娘。 → 婆」と識域下で連想が働いたにちがいない。泣き婆の若いやつがモーニング娘。だとでもいうのか。よく考えたら、モーニング娘。は、「morning 娘。」なのか「mourning 娘。」なのか「moaning 娘。」なのか、いまひとつよくわからない。個人的には、「moaning 娘。」が好きであるが、とにかく、「moaning 婆」ってのは、遠慮したい。


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