間歇日記

世界Aの始末書


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2000年7月下旬

【7月31日(月)】
▼母によれば、“グレーツフループジュース”なるものが冷蔵庫に入っているらしい。“チーズブリルギーフバーガー”にきっとよく合うだろうに、いまはマックで売ってないのが残念だ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『永遠の森 博物館惑星』
菅浩江、早川書房)

 菅浩江が放つ正真正銘のSFである。それだけでよい。短篇の連作形式だ。より詳しい紹介(といっても、原稿用紙一枚ぶんだけど)は、上記の書名をクリックして「bk1」でお読みいただきたい。
 正直言って、〈SFマガジン〉連載時には、個々のエピソードはうまくまとまっていても、どことなく統一感を欠くような印象を受けていた。それが、今回、新たに書き下ろし一篇を加え、さらに改稿された状態でまとめて読んでみると、ああら不思議、失礼ながら、見ちがえるように読みやすい。しかも、これはおれの記憶力が悪いことも相当大きな要因なのかもしれないが、各エピソードでの伏線の張りかたが絶妙で、全体でひとつの作品として、ひとまわり大きな感動をしっかりと支えている。おみごと。
 「bk1」で予約注文なさった方は、本が送られてきて驚かれたかもしれない。「ダニエル・キイス氏推薦」という腰巻がついているからだ。おれはあらかじめ〈SFマガジン〉の塩澤編集長からお伺いしていたのだが、聞いたときには「えっ、どうやって?」と、一瞬びっくりした。そうか、作家に対する推薦文をもらうのであれば、この本が英訳されている必要はないのだ。菅浩江には、Interzone1999年3月号にスティーヴン・バクスターデイナ・ルイスの翻訳 Freckled Figure が掲載され、David G. Hartwell 篇の年間SF傑作選 Year's Best SF 5 に収録され、さらに〈SFマガジン〉2000年9月号に英語版が掲載された名作「そばかすのフィギュア」(『雨の檻』ハヤカワ文庫JA所収)があるではないか。いやあ、やっぱり英訳作品があると便利だよね。というか、なによりダニエル・キイスに自分の作品を読んでもらえるなんて、じつに羨ましいことである。作家を推薦している腰巻とはいえ、言語の壁さえ超えれば、『永遠の森』はいかにもキイスが推薦するにふさわしい本だと思う。塩澤編集長の慧眼には脱帽する。こういうことをしてもちっともえげつなくなく、むしろ推薦文が本にしっくりフィットしている。編集者として誠実であり、しかも商才もお持ちだ。参った。作品あっての編集だが、作品が商品として輝くためには、編集あっての作品なのである。いい本作りを見せてもらった思いだ。

【7月30日(日)】
▼小隊を前にして、隊長が満足げな笑みを浮かべる。隊長の傍らには、顔色の悪い痩せぎすの老人が立っている。どう見ても軍人には見えない。

隊 長 「今夜諸君に集まってもらったのは、ほかでもない――」
兵士1 「“ほか”やったらわかるんやが……」
隊 長 「なにか言ったか?」
兵士1 「いえ、なんでもないでありますっ!」
隊 長 「ふむ、よろしい――じつは、明日の作戦で、諸君には極秘任務が与えられる。新式銃の実戦評価だ」
兵士2 「つまり、モル――天竺鼠ということですな?」
兵士3 「全員がご報告できないことになったらどうしましょう?」
隊 長 「今回の任務の場合、それは立派な報告であるから、気にせずともよろしい。心おきなく闘ってくれ」
兵士3 「さすがは隊長殿、論理的だ」
隊 長 「そこでだ。ひとりでも多くの者の報告が聴けるよう、ただいまより新式銃の開発者であらせられる八橋博士が直々に、諸君に新兵器の特徴をご説明くださる。八橋博士は京都の帝国大学を優秀な成績で卒業され、海よりも高く山よりも深いご両親の愛情を……」
兵士3 「隊長殿、隊長どのっ」
隊 長 「……あー、それはともかく、“科学の鬼神”と異名を取る、わが軍の歩く最終兵器と畏れられるお方だ。こうして博士の口から直にご説明を賜るなど、諸君には過ぎた栄誉であるぞ。では、博士――」
八橋博士「へえ。ほな、説明するえ」
兵士1 「なんや腰が砕けそうな言葉遣いやな」
兵士2 「科学の奇人だそうだからな。少々のことで驚いてはいかん」
兵士3 「京都の帝大にいらしたせいだろう」
八橋博士「これ、そこ。私語はあきまへんえ。すかんたこ」
兵士3 「“すかんたこ”とはなんだ?」
兵士1 「『アホんダラ、ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタいわしたろか』――ちゅうこっちゃな、あっちのほうでは」
兵士2 「穏やかな翻訳かもしれん――しっ、説明がはじまるぞ」
八橋博士「まず、今度の銃は、この部分の発条を三つにしたんどす」
兵士1 「なにを三つにしたて? 字ィが読めへん」
兵士3 「大阪弁のくせにメタなネタだな。バネだ、バネ。ゼンマイでもハツジョウでもよい」
兵士1 「そういう趣味はないんやが……」
八橋博士「さらに強うなるように、銃身の断面を六角形にしましてん」
兵士3 「おお、合理的だ」
八橋博士「そやけど、それやと重ぅなりますやろ。そやから、ここのところに穴をようけあけたんどす。放熱もようなるさかいね」
兵士2 「なんとなく生きて還れそうな気もしてきたな」
兵士3 「うむ。筋は通っている」
八橋博士「前にもおんなじこと考えてやってみたんどすけど、そのときはあきまへんどしてん。今度は大成功どす。試射も好成績で、射程、貫通力、破壊力、命中精度、なにをとっても、えろうよろしおす」
兵士1 「やっぱり、人を喋りかたで判断したらあかんな。よう婆さんが言うとったわ」
兵士3 「すばらしい……。して、博士、その新式銃の名はなんと?」
八橋博士「よう訊いておくれやした。発条が三つで銃身が六角、穴がようけあいてて、これがふたつめの型式ちゅうことで……」
隊 長 「ま、まさか、博士――」
八橋博士「……名づけて、発条三六角多孔二式銃!」
一 同 「それが言いたかっただけやな」

 今日はケダちゃん風でお送りいたしました。どこが日記やねん。田中啓文やったら長篇にしてるぞ。

【7月29日(土)】
amazon.com先日買った Star Wars Episode I - Phantom Menace をようやく観る。面白いですなあ。おれがSFに求めている面白さとはちょっとちがうけど、とにかく映像と定型美に酔うためならなんの文句もない。冒頭から定型でぐいぐい引き込んじゃうあたりの職人藝を堪能した。あの毒ガスの満ちた部屋の中に、緑と青のライトセーバーだけがぴしゅーんと輝くタイミングといい(弟子のオビ=ワンのほうが師匠のクワイ=ガンにほんの一瞬だけ遅れるのだ)、二本の光輝の角度といい(目に快い絶妙な位置関係である)、いやあ、ここらあたりの美意識は日本のヒーローもの時代劇に通じるものがありますなあ。なんというかその、“わくわくのツボ”みたいなものがはなはだ時代劇的ですよね。もう、冒頭のこのシーンだけで脱帽しました、ハイ。なるほど、みんなが一年前に騒いでいたのは、この映画だったのね。

【7月28日(金)】
▼駅の壁にでかい広告。「DENPAでハッピーバースデー」などと書いてあるので、はっとしてよく見ると、もちろん「DENPOでハッピーバースデー」である。
 いつごろからか、もう“電波”という言葉をあーゆーふーなことを連想せずして見られなくなってしまった。自分で使うときには、混乱を避けるため、物理的なほうは“デンジハ”、精神的なほう(?)は“デンパ”と言うことにしている。書くぶんには“デンパ”とか“DENPA”とか、文字でアレなナニだと示すことができるが、口頭だとほんとうに混乱することがあるのだ。混乱などするものか、それはおまえがつきあっている人々が悪いのだとおっしゃる向きもありましょうが……。
 だが、よく考えてみると、電磁波と電波とは厳密には同じ意味ではない。可視光やら赤外線やらを“電波”とはふつう言わんと思う。広辞苑(第五版)で「電波」を引くと、「電磁波のうち赤外線以上の波長をもつもの。特に電気通信に用いるものをいう」と書いてある。ええ〜?? 赤外線“以上”ということは、赤外線は“電波”と呼んでもいいわけか、広辞苑的には。日常的感覚からは、なんだかずれているなあ。微妙なところかも。みな、可視光は電磁波だとは知っていても、電波と言ったりはしない。でも、サブミリ波とかミリ波とか以上の波長になると、なにしろいかにも電波らしい名前がついているものだから、誰もがすんなりと電波と呼んでいると思う。赤外線はちゅ〜〜〜っとハンパやなあ((C)ちゃらんぽらん)。
 以前、姪がゲームボーイの通信機能について「でんぱが出るのん?」と訊いてきたので、「うーん、電波ちゅうよりは、目ぇに見えへん光が出る」と教えたのだが、やはり“電波”と教えるべきであったのだろうか。たしかに、極超短波であろうが超長波であろうが、“目ぇに見えへん光”と言えば言えんこともない。しかし、可視光を“目ぇに見える電波”と教えるのもなんだか妙な気もする。……いや待てよ、むしろこっちのほうがいまの子供にはわかりやすいか。ラジオにはラジオ用の電磁波が、ケータイにはケータイ用の電磁波が“見える(感じられる)”ように作ってあって、目は太陽から降ってくる電磁波のうち見えたほうが生きてゆくのに得する部分が見えるように“できてきた”――とでも教えるほうがいいのかもしれないよなあ。「生きものの生活のしかたによって“見えたら得する”電磁波はちがうので、人間に見えない電磁波が見える生きものもいるよ」などと教えれば、生物の進化にも思いを馳せることができよう。「じゃあ、ラジオやケータイと生きものとでは、どういう点がまったくちがっているのかな」なんてのは、考え出すと大人にも難しいぞ。原因と結果とを混同することは、大人にもしばしばあるからだ。でなければ、トンデモ本があれだけ出て、しかも売れるものか。「でも先生、太陽から降ってくる電磁波の種類や強さは、ず〜っとむかしからおんなじだったんですか?」などと質問してくる生徒がいたらびっくりだ。「キミ、い〜〜〜〜〜いところに気がついたねー!」と先生は狂喜乱舞し、天文学や地球物理学に対する興味を子供に植えつけようと熱弁をふるい、あげくの果てにはオゾン層やら人工衛星やらヘアスプレーやら冷蔵庫やら電子回路の基盤の作りかたやらなにやらかにやら、キミたちの日常生活には宇宙の歴史や地球の成り立ちや生きものたちや人間の社会が直接繋がっているのだと教えようとしたら時間がない。しかも、あとで「余計なことを教えてないで、もっと受験に役立つことを教えてください」と子供の親に文句を言われるのである。気の毒な商売だ。
 うーむ、理科教育はむずかしいのお。どう思います、ファインマンさん?
▼東日本では「百鬼夜行 妖怪コレクション」より先に売り出されていた玩具菓子「動物世界遺産 レッド・データ・アニマルズ」フルタ製菓)がコンビニに入荷していたので、試しに「(8)カリフォルニアコンドル」「(11)?」とを買ってみる。「?」とはなんぞやというと、なにが入っているのかわからない「シークレット動物」なのだそうである。シークレット動物は一種類なのか、あるいは、たくさんあるのかもわからない。
 うーむ、やっぱりこれにはあまり燃えないなあ。そもそも、ラインナップにカエルが入っていないところからして、たいしたものではないことが窺えよう。絶滅しかかってるカエルなんてたくさんいるだろうに。
 結局、思わせぶりな「?」に入っていたのはジャイアントパンダだったのだが、まあ、これはなかなかリアルな造形である。はたして、シークレット動物は一種類なのか、一種類でないとすればカエルはあるのか――!? 情報を待つ。
「探偵!ナイトスクープ」(朝日放送系)を観ていたら、今回は桂小枝探偵お得意の「小ネタ集」が登場。依頼の中のひとつに、「ケータイの着メロに円周率を入力すると、えも言われぬ音楽になるが、音楽の専門家にその質を鑑定してほしい」というものがあった。そんなの、むかしから京都iNETで有名なページがあるネタだぞ。どんな曲になるのかを聴きたい方は、「円周率は神の音楽」で試聴してみてください(リズムは自分で作ってるのが、ちょっとズルい)。音楽といえば、音楽に聞こえないこともないけど、それを言うなら、人間、なんだって音楽に聞こえてしまうんじゃないのかなあ? たとえば、ATGCが三つひと組みでコードするアミノ酸に音を割り当てて演奏してみたら、それはそれでそれなりの音楽に聞こえてしまうような気がしてならないのだが……。πだけ特別扱いするのもよくわからない。ルート2だってルート3だって不思議と言えば不思議であって、それなりの音楽(?)になりそうな気が激しくする。この方の円周率音楽のページは、ちょっと過剰な意味づけにトンデモっぽい感じがしないでもないのだが、面白いことは面白いよね。

【7月27日(木)】
▼昨日の夜中に「bk1」に注文した『「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』(アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン/田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳/岩波書店)がもう届いている。菊池誠さんの〈SFオンライン〉での熱い書評を読んで感動し、さっそく買いにいったのだった。
 こういうとき「買いにいった」という表現をしてしまう人は、ネットに順応している人である。企業サイトなどを見ていても、「弊社のホームページをご覧いただき、まことにありがとうございます」などと書いてあるところは、経験的に“イケてない”場合が多い。ウェブサイトを、サイバースペース内にあるだけのひとつの立派な事業活動の拠点であると認識している企業なら、「弊社のホームページにお越しいただき……」といった表現になっているものだ。まあ、おれが思うに、「お越しくださり……」になっているほうがなおよいのではないか。なぜなら、お越し“いただいて”いるのはそう言っている側だが、お越し“くださって”いるのはお客様のほうだからだ。視点は客側になくてはいけない。そんなことはどうでもよいではないかとおっしゃる方もあろうが、読み手すら意識していないが読み手には伝わってしまっている暗黙のメッセージというのは、存外に重要なものなのである。「このサイトはうちの会社がインターネットに進出していることをアピールするためだけのものだから、できれば見るだけにして、なるべく買ってくれるな」と暗黙のメッセージを発している奇妙なネット店舗は少なからず存在する。暗黙のメッセージどころか、「日本のEC業界お笑いの構図」三石玲子)によれば、わざわざそういうことを明記している(いた?)ところがあるらしいのだが、どこだろうね、この「某外資系大企業」って。
 それはともかく、予約していた『ピニェルの振り子 銀河博物誌1』野尻抱介、ソノラマ文庫)も別便で同時に届いていた。二冊をひとつの包みに同梱するするよりも、片っ端から送ったほうがまちがいが少ないということなのだろう。べつに、同梱してくれなくても、おれはまったく気にしない。送料が無料のうちは。

【7月26日(水)】
コンコルドが落ちた。離陸直後だったとのことだからそれほど速度はなかったのだろうが、コンコルドといえば、やっぱり超音速と刷り込まれている。もし、超音速で飛んでいるコンコルドがそのままホテルに突っ込んできたら、突っ込まれたほうはどういう体験をすることになるのだろうか。ホテルの窓辺に佇み、恋人の肩など抱きながらワインを飲んでいると、遠くのほうになにやら鋭角的な平べったい物体が現われ、音もなくぐんぐん大きくなってくる。なにしろ音がしないのだから、素人の目視ではその物体が迫ってきていることにすら、なかなか気づかないだろう。ただただ、視界の中で膨れ上がるように大きくなってゆくだけなのではあるまいか。そして、だしぬけに窓ガラスが砕け散り建物が崩れる音が聞こえたような気がするころには、もうこっちの意識は薄れていっている。なにもかも終わったあとに、飛行機のものであるらしい轟音が瓦礫の中を駆け抜けてゆく――とまあ、こういった感じになるのだろうか。厭だなあ。
▼晩飯のスパゲッティにタバスコをふりかけ、さらにテーブルの上に置いてあるパルメザンチーズを、条件反射ででもあるかのように、無造作にふりかける。トン、とパルメザンチーズの容器をテーブルに置いたとたん、「あ」と思った。雪印と書いてある。
 いやまあそりゃ、死にはせんだろうけどね。いままでずっと雪印のパルメザンチーズを使ってきたんだから。まったく、食いもののメーカというのは、一度信用を失墜すると致命的だなあと、しみじみチーズを眺めたことであった。母も、次からは雪印のは買わんと言っている。おれも、次からはそうしたほうがいいだろうと答える。どちらも「次からは」と言っているあたりに、庶民の複雑な心境が読み取れよう。いまあるやつは最後まで使いきろうとしているわけだ。

【7月25日(火)】
e-NOVELSが更新されていた。[特集]「田中哲弥特集」である。じつは「寄せ書き」を頼まれたのでおれも書いているのだが、こんな錚々たる面子の中におれの名前が並んでいると、はなはだ畏れ多い。おれの名前がこんなでかい gif 画像で出ているのを見るのは初めてだ。こわー。〈SFオンライン〉の表紙の jpeg 画像には出たことがあるとはいえ、gif となると奇妙な感慨がある(って、どういう理屈じゃ)。
 田中哲弥さんへの寄せ書きなのだから、まあ、そういうノリで書いていいのだろうとそういうノリで書いたのだけれど、送ってから「ちょっとふざけすぎたかなあ」と気になっていたのだ。なんてことだ。どこがふざけすぎなものか。ほかの五名の方のを読むと、おれのがいちばん真面目である。己のサービス精神の不足を思い知った。そうであったかー、なにしろ「田中哲弥特集」なのだからな。そこを過小評価したのが敗因であろう。「田中哲弥特集」という言葉が「なにをやってもよい」と頭の中で即時変換されるようでなくては、立派ないちびりにはなれないのだろう。まだまだ修行が足らん。
 それにしても、作家というのは怖ろしい。我孫子武丸さんも飯野文彦さんも小林泰三さんも田中啓文さんも牧野修さんも、好き放題にむちゃくちゃを書いているように見えて、それぞれみごとに田中哲弥という人物を魂まで抉るかのごとく活写している。この寄せ書きを読めば、田中哲弥なる作家を知らない人でも、その人間性と才能とが手に取るようにわかることであろう。なに? やっぱり好き放題にむちゃくちゃを書いているんじゃないかって? そんなことはないっ! 彼らの卓抜な発想と緻密な計算がわからんのかっ! 作家・田中哲弥への友情と尊敬とが、行間から溢れこぼれ漏れ滴り落ちているではないか。
 しかし……人間としてどうかと思うなあ。

【7月24日(月)】
〈ニフティ SUPER Internet〉(2000年9月号)を眺めていたら、むらむらと新しいPDAが欲しくなってきた。最近、Palm OS ベースのマシンがなかなか熱い。とはいうものの、先日リストカメラを買ったばかりである。スタパ斉藤氏ではあるまいし、そうそう物欲の赴くままにデジタル・グッズを買いまくっていたのでは破産してしまう。それに、このPDA特集ページで取り上げられているものは、どいつもこいつもDOSが走りそうにないのが気にくわん。こういうことを言ってると爺い扱いされるうえ、いつまで経っても新しいPDAが買えないのであるが、DOSさえ走ればたいていのことはなんとかなるという妙な安心感はなかなか拭えないのであった。じゃあ、ふだんDOSアプリケーションをばりばり使っているのかというと、そんなこともないのだ。複雑な心境である。どのみちHP200LXをいつまでも使い続けるわけにもいかない。形あるものはいつかは壊れる。そろそろ次になにを使うか、研究をはじめておかなくてはなるまい。
 それにしても、HP200LXに脳の三分の二くらいが入っているかのような使いかたをしているおれにとって、こいつが時代の流れと共に過去の名機となってゆくのを見るのはつらいのう。PDAを選ぶのは、ほとんど副脳とでも言うべきものを選ぶような感覚だから、ひょいひょいと衝動買いする気にはならないのである。第一、そんな金がないわい。

【7月23日(日)】
▼あちこちで話題になっている「2ちゃんねる」「文体模写してください」というスレッドを読んで大笑いしながら感嘆する。いやあ、世の中にはまったく芸達者な人がうようよいるものだ。プロが何人かいるんじゃないか(って、なんのプロだ?)。匿名掲示板だからわからないのだ。全員プロだったりしたら(だから、なんのだ?)怒るぞ。おれも精進せねば(って、だからなにをだ?)。
 おれにとって最も難しい文体模写は誰の模写だろうと考えてみたところ、ほかならぬおれ自身であるということに気づいた。おれがふつうにおれの文章を書いたのでは、そんなもの、ただの地である。いかにもおれが書きそうな文章を、読む人に模写だとわからせながらおれが書くなどということが可能だろうか? たとえば、むかし橋幸夫は、ぼんち・おさむが橋幸夫のもの真似をするのをさらに真似していた。そういうことが文章でもできるだろうか? わからん。だが、一度はどこかで試みる価値はあるだろう。はなはだ難しいにちがいない。完全に意識的に自分の文体を制御し得てこそ、はじめて己の文体模写などという芸当が可能になるのだろう――と、今日は冬樹蛉の文体模写でお届けいたしました。

【7月22日(土)】
喜多哲士さんの2000年7月21日の日記を読み、喜多さんが苦言を呈してらっしゃる『書いて稼ぐ』(鳩よ!編集部編、マガジンハウス)に関して、怒るというよりも苦笑する。喜多さんの取り越し苦労だと思うなあ。まさか書評を書いて“稼げる”などと本気で信じる若い人はおらんでしょう。たとえば一冊千五百円の本を自分で買ってこれを三時間で読み三時間で書評を書いたとして(こんなに順調にゆくことがあるとしてだが)、一本あたりの平均的な報酬が三千円から四千円くらい(こりゃまあ、分量によったりよらなかったりするし、人によってもピンキリでありましょうが)だとすれば、ファーストフード店でアルバイトでもしているほうがずっと“稼げる”ことはあきらかである。その本がありがたくも恵贈された本であったとしてもトントンだろう。原価計算など絶対に真面目にしてはならない。大赤字になるに決まっているからだ。自分なりに納得のゆく原稿にしようと参考資料などを買ったりした日には、赤字どころの騒ぎではない。しかも、人様の書いたものについて公の場所でごちゃごちゃ言うのだから、精神衛生にも健康にもはなはだ悪い。時間的制約によるストレスも大きい。それに、たとえば水道配管工であれば、交通費と部品などの実費に、技術料などの付加価値料金が人件費に組み込まれた形で乗るであろうが、よほどの大作家がたまたま書評をするような場合を除いては、書評にそんなものはない(明細に書いてあるわけではないが)。というか、仕事が来るというその事実のみが技術料などの付加価値料金なのであって、それをありがたく頂戴するわけである。趣味だからこそやれると言えよう。やっている人はきっと、仕事が来なくなったって、やっぱり同じように本を読み、同じように言いたいことを言い続けるだけだと思う。たまたまもらえている報酬には、焼け石に水がかかったぶんだけ余計に本が買えるといった程度の意味しかない(でも、欲しいけどね)。おそらく、なかなか(または永久に)単行本にならない短篇なら、作家でも似たり寄ったりの収支なのだろう。短篇作家のほうがいっそう“持ち出し度”が高いかもしれない。「しんどいだけで金にもならんのに、ようこんな仕事するなあ。ほかにすることないんかい?」と短篇を読むたび思うのだが、作家は作家で書評を読みながら「しんどいだけで金にもならんのに、ようこんな仕事するなあ。ほかにすることないんかい?」と思っているのにちがいない。でも、お互いがこんなアホなことをしている理由はお互いにわかっているから、そういう野暮なことは言わないのだ。好きだからやっているに決まっている。それ以外、人の行動になにか理由が必要だろうか? さあ、あなたもいらっしゃい。

【7月21日(金)】
▼腰巻に「UK発 悪い本」などと書いてあるものだから先日とりあえず買ってしまった『ブタをけっとばした少年』(トム・ベイカー、絵・デヴィッド・ロバーツ、武藤浩史訳、新潮社)をなんの気なしに読みはじめる。童話なのだろうか? だが、子供向けにしてはなにやらようすがおかしい。まあ、“悪い本”と言われてむらむらと読みたくならないような子供がおれば、そいつはボンクラにちがいないので、健全な子供向けなのかもしれぬ。
 「さあ、それでは、ひどいお話をはじめよう」と最初のほうに書いてあるからには、さほどひどい話にはなるまいと高をくくっていたら、読めば読むほどなーんの救いもないほんとうにひどい話になってくるではないか。お話はじつにシンプルで、主人公のカリガリという少年が、ひたすらひどいことをしまくる。さあ、そろそろ救いのかけらくらい出てくるかと中ほどまで読んでも、まだまだひどい話である。いくらなんでも最後には鼻糞ほどのカタルシスがあって耳糞ほどの希望がほのめかされるにちがいない――と考える人はまだ甘いのであって、読み終わってようやく、「なるほど、ひどい話であった。疑った私が悪うございました」と自責の念に駆られるような本だ。いやあ、“ミもフタもない”とはこの作品のためにあるような言葉である。惹句には“ホラーファンタジー”などとあるけどあなた、とてもそんな心暖まりそうな言葉で言い表せるようなものではない。はっきり言って、読みながら「おれの伝記を勝手に書くとはけしからん」と腹が立ってきた。そういう人にしかウケない本でありましょう。お子様を寝かしつけるときに読んでやると、たいへん情操教育によいと思う。おれみたいな大人に育つこと請け合いだ。


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