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2001年3月中旬 |
【3月19日(月)】
▼最近、どうしたことか発作的に味噌汁が飲みたくなる。夜中にコーヒーカップにインスタント味噌汁を作って飲んだりするのだ。どうもおれの人生は大豆に呪われているらしい。さすがに豆腐となると納豆や味噌汁ほどは手軽に扱えないから夜中に豆腐を貪り食うところまでは来ていないが、そのうちコーヒーカップに豆腐を入れては夜中にずずずずずと啜り食うかもしれん。まあ、ヘルシーでいいか。
【3月18日(日)】
▼なんとなくむかしの日記を読み返していたら、三年くらい前の日記に着メロの話が出てきた。「最近は着信音を自分の好きなように作曲できたりする機種もあり」だの「音楽データをファイルで格納できる機能を付けてしまえばどうか」だの「着信音とて“演奏”にはちがいないから、著作権者は隣接権を主張できるはずだ」だの、いまとなってはあまりにもあたりまえのことを書いていて大笑いする。まるで二十年くらい前の日記を読んでいるかのようだ。まあ、ドッグイヤーならそのくらいなわけだが……。いまから三年後に、いまのケータイの話を読み返すと、のたうちまわって笑う羽目になるにちがいない。面白い時代に生まれ合わせたもんだよなあ。
【3月17日(土)】
▼17――と、私の人生暗かった。おお、三日稼いだぞ。こんなのありかって? たまにはいいのだ、なんたって、間歇日記なんだから。
【3月16日(金)】
▼16――。
【3月15日(木)】
▼15――。
【3月14日(水)】
▼「もう、ミルクあげるの、もったいないね」「うん、そうだね」ってのが、まるでホラー小説のようである。もちろん、例の愛知県の段ボール幼女餓死事件の初公判だ。両親は殺意を否認、弁護側は「ネグレクト(養育の怠慢、放棄)に陥った背景には複雑で異常な状況があった。当時は思考停止の異常な精神状態だった」と主張し争う姿勢を見せているとのことだが、そりゃあ、なんぼなんでも無理があるだろう。なーにが「もう、ミルクあげるの、もったいないね」だ。ということは、未必の故意があったのではないか。商売とはいえ、これを弁護しなきゃならないとは、弁護士とはなんとも因果な商売である。おれには絶対務まらん。
しかし、だ。この両親が言ってることも、なんとなくわかってしまうから怖ろしいのである。子供が思うように育ってくれん。あ、もう、あかんわ、できそこないや。最初からミソのついたもんは要らん――みたいな心理はたしかにわからんでもない。ほら、新しいおもちゃにちょっと傷がついたら、もう要らんと駄々をこねて泣き出すガキがよくいるではないか。あのココロなんだろうな。この両親にとって子供とは、新しいおもちゃか家電製品のようなものなのであろう。赤ん坊にかぎらず、子供がそこそこ大きくなってゆく過程でも、ちょっとグレたらもう要らんとか、この学校に入れなかったからもう要らんとか、そのように考えているとしか思えぬ親は過去の事件でも散見された。不思議なのは、完璧主義的で失敗や挫折や己が勝手に作り上げた規範からの逸脱を異様に怖れるそうしたメンタリティーの持ち主はたいていが、いわゆる“エリート”、もしくは、自分でエリートだと勘ちがいしている連中であったのに、今回の事件はどう見てもそうではない点である。まだエリートならわかりやすく安心できるのだが、じつに不気味だ。「もう、ミルクあげるの、もったいないね」「うん、そうだね」――このノリはできすぎていて、どう聞いても小説のようである。いや、小説だとしたらもはや陳腐かもしれん。あまりにも陳腐な現実は怖ろしいものなのだ。
【3月13日(火)】
▼最近、かなりのメールの全文を、まずケータイで読んでしまっているのに気づく。重要なメールは、あとからメーラでもう一度確認するわけだ。「feel H"」の全角一万字受信の威力である。
▼郵政事業が民営化された場合、必ず出てくるものというやつを、なぜかぼんやり考える。メロディー電報なんてのは、もっと曲の選択の幅が増え、ケータイの着メロのようになるだろう。下手すると、再生機ごとMP3でBGMや声の電報が送れるようになるかもしれない。再生機を内蔵したドラえもんやキティーちゃんが一万円くらいで送れるとなれば、利用する人だって出てくるだろう。キャラクター葉書・封筒なども爆発的に増え、いろいろな形のものが現われる。いまだってスルメや団扇に切手貼って送ったっていいわけだから、ドラえもんやキティーちゃんの“形”をした葉書やらなにやらを事業者側が用意したとて、なんの不思議もない。音や絵のアーティストたちは著作権料で潤う。
考えてみれば、郵政事業はすでに“通信”が目的ではなくなっている。みんな主に“物流”の目的で使っているのだ。“通信”に於いては電気通信事業者が、“物流”に於いては宅配業者が、郵便局のライバルだ。お役所仕事が、はたして利便性やサービスの質で現代のインターネットや宅急便に太刀打ちできるであろうか? ここらで“郵政”というもののレゾン・デートルを見直し、事業ドメインを再定義・再構築しなくては、郵便局は、早晩ただの田舎の集票マシンになってしまうことであろう(とっくになっちゃってるか?)。国の郵政事業は、通信と物流以外に、国にしかできないことに活路を見出すべきだ。でも、そうなると、“郵便(逓信?)”という名称はヘンだから、いずれにしてもなにか別のものとして生まれ変わらねばならないだろうね。
次の首相が誰になるかは知らんが、郵政の再定義は遅かれ早かれ手をつけねばならないところだ。というか、時代の流れによって、残る部分は残り、滅びる部分はひとりでに滅びるのは必定だから、べつに放っておいてもいいわけだが……。
「ねえ、お爺ちゃん、郵便局ってなに?」
「ああ、国がやってる中途半端なコンビニのことだよ。そういえば、ここいらではどこにあったっけな? 忘れてしもうたわ」
【3月12日(月)】
▼北野勇作さんの「箱庭の近況」(2001年2月17日付)を読んで、『かめくん』(北野勇作、徳間デュアル文庫)に出てくる博物館のモデルが、千里の国立民族学博物館だとようやく知る。そんなもん、すぐ気づけよ。われながらどんくさい。民博でアルバイトをなさっているとは聞いていたから、当然そのようにも読めたはずだったのだが、どうもおれにはあの小説が、実在の地名が出ている部分でさえ、おいそれとは具体的現実と対応させられるようなものとは感じられず、完全に“普遍モード”とでも呼ぶべき姿勢で読んでいたため、そんなことにも気づかなかったのだった。
そういえば、民博の建物は、なにかほかの建物の“役”で、けっこうテレビの撮影などにも使われたりすると聞いたことがある。学生時代、初めてあそこに行ったときには、ウルトラ警備隊かなにかかと思った。“民族学”などという、どちらかというと土の匂いがしてくる地味な学問のイメージからはかけ離れた、メタリックでかっこいい未来的な外観なのである。中に入ると、いまにも天然色の毒矢やら吹き矢やらブーメランやらが飛んできそうな雰囲気なんだけどね。
【3月11日(日)】
▼森首相が事実上の退陣表明をしたのしないのとマスコミがまちまちの報道をしている。なんだかさっぱりわからない。“退陣恐怖症”というネタをふと思いついたが、あまりにバカバカしいので使う気にもなれない(使うとるやないか)。小渕前首相が急死してからずっと政治空白が続いているが、こんなことでよいのか。冷戦時代に育ったせいかもしれんが、一国のトップがボンクラだという事態は、半ば恐怖を伴ったギャグとして感じられてしまう。ほれ、むかしはよくあったじゃないすか、パニクった国家元首が核ミサイルのボタンを押したり押させたりするなんて話がさ。あの男が首相になってから、日本が核兵器を持っていなくて(持ってるかもしれんが)ほんとうによかったと、神など信じないおれですら神に感謝しているくらいだ。降りろ降りろ、国の安全保障のため、世界の平和のため、とっとと降りろ。
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