間歇日記

世界Aの始末書


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2001年3月下旬

【3月31日(土)】
▼子供もいないくせにふと考える。自分の子がアホであったら厭であろう。が、とんでもない超知能の持ち主であってもやっぱり厭であろう。どちらであっても、はたしておれの言っていることはこの子に通じているのであろうかと、不安な、もしくは、不気味な気持ちになるだろう。でも、おれとぴったり同じ知能程度の子供が欲しいと思ったとしても、そんな子が生まれる確率は非常に低いにちがいない。となると、おれとまったく同じ子を作るという手がある。すなわち、おれのクローンを作って、息子として育てるのだ。
 しかし、だ。よくよく考えてみると、このクローンがおれと同じ程度の知能を持つ、非常に話の合う息子に育つという保証はない。もしもこいつが、どういうわけかめきめきといろんな分野の才能を開花させ、さまざまな分野で親をはるかに凌ぐ大活躍をしはじめたら、いったいおれの人生はなんだったのかと、さぞや厭ぁ〜な気持ちになるのではなかろうか。遺伝的にまったく同じだけに、おれのほうが大失敗作であるかのように感じられることであろう(まあ、成功作だとも思えないが……)。そう考えると、やっぱりふつうに有性生殖をしてできた子供のほうが可愛く思えるのではあるまいか。どんな子が生まれようと、偶然が介在しているのだから、こいつがおれの子として生まれたのもなにかのめぐり合わせと諦めがつこうというものだ。意図的に偶然を介在させる知恵というやつは、たしかにあるのである。
 世の中には、実際に自分のクローンを子供として育てたいと言っている人があるそうなのだが、おれにはとてもそんな気味の悪いことをする気にはなれない。その子がボンクラになったらなったで「なぜ、せめておれくらいにはなってくれんのだ」と苛立ち、親を凌ぐ才能を発揮したらしたで「おれだってこれくらいになれたはずなのだ。おれの人生は失敗だったのだ」と取り戻せぬ過去を悔やむことになりそうな気がする。以前、「迷子から二番目の真実[36]〜 クローン人間 〜」で、「誕生に関して他者の目的意識が介在した人間は、妙な表現だが、“多かれ少なかれクローン人間”」であり、「その目的意識こそが問題なのだ」と書いたが、こういう思考実験をしてみると、やはり目的意識が曲者なのだとよくわかる。“目的”というからには、なんらかの“好ましい結果”が想定されているわけであり、現実がその“好ましい結果”とずれていた場合、行きどころを失ったぶんの“目的”は、必ずその“目的”を抱いていた主体にバックファイアしてくるのだ。ふつうの人間が、みながみな、その“目的意識の逆襲”に耐えられるであろうか?
 倫理的にけしからんとか、多様性の維持に反する存在は長い目で見ればバイオスフィアの弱体化に繋がるとか、いろいろたいそうなクローン人間反対論はあるのだが、もっと下世話に、等身大の生身の人間の心理を考えてみる必要もあると思うぞ。ひとりの人間として生まれる存在には余計な目的意識など極力介在させず、その子がそこにそうして在る、そのことこそが唯一の“目的”であるのが健全な状態のようにおれには思われる。まあ、それもセンチメンタリズムかもしれんけどね。上述のエッセイにも書いたように、クローンでなくたって、多かれ少なかれ目的意識に汚染されて生まれてくるのが子供というものなのかもしれない。だから泣きながら生まれてくるのかもね――などと、ちょっとシェイクスピアしてみたくなる(中島みゆきかもしれんが)ときは、きまって精神が弱っているのである。いかんいかん。おれらしくもない。

【3月30日(金)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『復讐のエムブリオ ゾアハンター』
(大迫純一、ハルキ・ノベルス)
「Treva」で撮影
『星界の戦旗III 家族の食卓』
(森岡浩之、ハヤカワ文庫JA)
「Treva」で撮影

 “月刊ゾアハンター”は第三弾。ご存じ、おれが勝手に推しているヒーローもののアクションSFである。
 どうもおれは“超メタ言語的”((C)梅原克文)なSFがとくに好みであると認識されているらしく、まあ、実際、ブンガク的ですらあるものは大好きなのだが、そういう小難しげな印象を与える作品が上位にあるなどとはゆめゆめ思っていない。単なる趣味の問題である。口あけて読める通俗エンタテインメントの“野趣”は、その出自からもSFの武器のひとつであって、絶対に失ってはならないものだ。SFが一般的に“バカの読むもの”と思われておらず、“高級な前衛文学の類”と扱われている世界であったとしたら、おれはたぶんSFファンにはなっていなかったであろう。幸いなことに、少なくともおれが世間だと認識している世間では、SFはずっと“バカの読むもの”であり続けてきたし、いまでもそうだ(1999年7月2日の日記参照)。健全なことだと思う。“バカの読むもの”を好んで読むところに屈折した裏返しのスノビズムがないといえば嘘になるが、“バカの読むもの”が心底好きなのも、これまた嘘ではないのである。やたら純文学的(?)なSFを読んでいる最中、「おおお、すげえ手法だなあ」「哲学的に深いなあ」「これぞ科学と文学の交わるところじゃ」などと知的に興奮している頭の隅で、「でも、ここらで一発、主人公に必殺技が欲しいな」と思っているのは掛け値なしの事実だ。SFファンというのは、そういう精神構造をしているものではなかろうか? お、おれだけだったらどうしよう。
 でまあ、《ゾアハンター》シリーズは、立派な“バカの読むもの”としておれのツボにハマる。どうやらまだまだ続くらしい。楽しみだ。こういうのこそが、正しく“サイファイ”であるにちがいない。おれは“SF”と呼ぶけれどもね。
 『復讐のエムブリオ ゾアハンター』の「あとがき」に、作者の友人の電気屋さんが自分のウェブサイトに大迫純一コーナーを作っていると書いてあったので、さっそく検索してみた。なぜ“検索”しなくてはならないかというと、「『北九州のあにじゃ』で検索すればヒットするはずだ」などとめちゃくちゃ大雑把にしか書いてないのだ。作者のキャラクターが窺われて笑える。で、ヒットしたのが「北九州のあにじゃの年寄りの冷や水」で、なるほど「大迫純一の部屋」がある。おれは『ゾアハンター』以前のこの作家の小説を読んだことがないのだが、なるほど、こういう人であったか。いまのところ、ウェブ上でいちばん大迫純一の資料が揃っているサイトであろう。
 ひさびさの《星界》シリーズ『星界の戦旗III 家族の食卓』 は、ジントの里帰りらしい。一昨年のSFセミナーのパネルでもちょっと触れられていたが、なぜアーヴのような種属の国家は(必然的に?)“帝国”になっちゃうのかといったあたりのテーマが、「あとがき」によれば、さらに追究されるようである。「アーヴの敵もおなじような国家体制を持っているのでは、今一つ面白くない。そこで、この世界で近代社会的な国民国家が成立しうるかを考えてみました」ということだそうだ。ともあれ、前巻までの話を相当忘れちゃってるので、《戦旗》になってからのぶんを読み返さなくちゃな。
 ところで、「アメリカの《星界の紋章》」1999年11月18日2000年3月24日の日記参照)という“売り”に入ったものすごいコピーに賛否両論あって結局のところ成功しているのかもしれない《スコーリア戦史》キャサリン・アサロだが、「アメリカの《星界の紋章》」として日本のマーケットに出たことは本人もご存じで、ウェブサイトに一ページを割いて紹介していらっしゃる。山下しゅんや氏の表紙画はいたくお気に入りのようだ。まあ、アサロも好きな人はえらく好き、受けつけない人はまったく受けつけないというタイプの作家として、日本の固定読者も掴んだようだし、「アメリカの《星界の紋章》」的な搦手はもう必要ない段階に来ているだろう。アサロみたいな読者を著しく選びそうな作家のハヤカワ的売り出しかたとしては、当初のあれは星界、じゃない、正解だったろうとは思うんだけどね。これは以前に森岡さんにもお話ししたのだが、あの「アメリカの《星界の紋章》」のコピーには、おれが最初に早川書房に出したレジュメがかなり影響しているような気がして、フクザツな心境ではあったのである。そのときの『飛翔せよ、閃光の虚空(そら)へ!』 Primary Inversion のレジュメから、おれがどう評価したのか、罪ほろぼし(?)に引いておこう――

(前略)遺伝子改造によって誕生した種族の確執、独自のアイディアによる超光速航宙、まさに“帝国の王女”である戦士が大活躍する設定には、森岡浩之『星界の紋章』を髣髴とさせるものがあり、東西新進作家のシンクロニシティーとしても興味深い。『星界の紋章』がどちらかと言えばジュヴナイル寄りの作風であるのに対し、本書のほうは“大人のためのおとぎ話”といった趣きがある。
 いかにもSFらしい“いかがわしさ”とハーレクイン・ロマンス風のプロットが、厳格な科学性・論理性と同居した不思議な作風と言えよう。文学的完成度よりもSFとしての華で評価したい作品、すなわち、ネヴュラよりもヒューゴーで評価される作品である。海外SFは小難しいと思われている風潮の中、ぜひ日本でも紹介してほしい作家だ。本書もよくよく読めば小難しいのだが、一見そうは感じさせないイメージは貴重である。このあたりも『星界の紋章』と通じるものがあるだろう。

【3月29日(木)】
家電リサイクル法の施行を前に、駆け込み買い替えや駆け込み不法投棄が増えているらしい。不思議だよなあ。冷蔵庫だのエアコンだのテレビだのをいったい何年に一度買い替えるというのだろう。それらのものを所有することで年に二千円くらいのコストがかかるのだと割り切って考えれば、そんなにあたふたするほどのことでもないと思うんだがなあ。ひょっとすると、二十三年間も同じテレビを使っているおれが異常で、ふつうの人は毎年テレビを買い替えたりしているのだろうか? ケータイじゃあるまいし。
 駆け込み買い替えはまだよいとしても、不法投棄はひどいものだ。そこいらの道ばたに捨ててあるところをテレビで報道していて、なんともはや空き缶や煙草くらいで驚いていては二十一世紀は生きていけんなあと思ったことである。おれが呆れ果てていると、母がぽろりと言った――「こんなん、製造番号かなんかをこんぴゅうたあに入れたら誰が買うたかわかるようにして、罰金取ったったらええのに。そんなふうにはならんのか? そやなかったらなんのためのこんぴゅうたあや」
 おれは絶句した。ボタンがふたつ以上ある機械は満足に使えないいつもの“ご長寿早押しクイズ”婆さんの口から、最先端の考えかたを聞くことになろうとは――。おれは内心いたく感心しながら、「まあ、すぐにそういうふうになるやろ」とお茶を濁した。そうなったらなったで、製造番号を削り取って捨てるやつが現われるだけの話だろうが、無垢な老人の夢にたまにはつきあってやってもよい。
 いや、それにしても、よく機械音痴の婆さんがそんなことを思いついたな。大方、どこかのコメンテーターの請け売りなのであろう――とは思ったものの、よくよく考えてみると、ほんとうに思いついたのかもしれん。母の年代の人間にとっては、マスを相手に売れることを当て込んで同じものを大量に作り、たとえ売れなくても無理にでも売るという工業化社会的考えかたのほうが、どこか馴染めないものであるのかもしれぬ。そんな考えかたが母の人生に入ってきたのは、大人になってからであったろう。むしろ、母の子供のころ若いころなどは、食いものといわず日用品といわず、こちらの顔から家族構成から家庭の事情からなにからなにまで知っている近所のお店の人が、適切なものを薦めてくれるのが自然だったのであろう。なにかを買うという行為に当たっては、常に“面が割れている”、すなわち、ワン・トゥ・ワンがあたりまえだったのだ。卓袱台かなにかをそこいらに無造作に捨てようものなら、「あ、あれは冬樹さんとこに五年前に売ったやつや」などと道具屋にたちまち見破られてしまうという感覚で育ったのであろう。ようやく時代が婆さんに追いついてきたわけか。

【3月28日(水)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか』
(リチャード・ドーキンス、福岡伸一訳、早川書房)
「Treva」で撮影

 おなじみ『利己的な遺伝子』(日高敏高ほか訳、紀伊國屋書店)のドーキンスが放つ科学啓発書最新作である(『生物=生存機械論』ってのも、いま思えばなかなかの名訳だったとは思うんだけど)。おれは科学者じゃないから科学書を頂戴することは少ないのだけれども、この本は、腰巻を見てすぐ、おれのところにも送ってくださった理由がわかった――『ヒト進化の鍵は「驚きを覚える力」にあり』
 なるほど、SFがヒトを進化させたとドーキンスは言いたいわけですなって、そりゃちょっと早とちりしすぎか。でも、「ヒト進化の鍵はセンス・オヴ・ワンダーにあり」って読めちゃうよなあ。しかも、早川書房だし。などと思いつつ、折り返しの紹介文や序文を読むと、案の定、“センス・オブ・ワンダー”の嵐である。これはひょっとして、じつに早川書房が出すのにふさわしい本なのかもしれん。楽しみだ。
 原題は、Unweaving the Rainbow ―― Science, Delusion and the Appetite for Wonder である。“解体”ってのはちょっと、unweaving って感じじゃないよなあと違和感を覚えたものの、じゃあ、どう訳すんだと言われると、やっぱり“解体”くらいしか思いつかない。『虹をほぐす』とか『虹をほどく』じゃ、どうにもあざとくて、NHKの朝の連ドラかなにかみたいだ。『虹ほぐし』ではくノ一の忍術女子バレー・スポ根ものの必殺技のようだし、『虹ばらし』では『包丁人味平』のようである。してみると、漢語を使って『虹の解体』としたほうが、どちらかというと夢のあるふわふわしたものを客体化してスライドグラスに乗せるかのような対比の妙がくっきりと出て面白い。訳者も編集部もかなり苦労なさったのだろうが、よくよく噛みしめると、これもなかなかの名訳なのではなかろうか。

【3月27日(火)】
1998年7月20日の日記で、当時の自民党総裁選がこんなふうに見える――

 小渕氏  梶山氏  小泉氏 

――というネタをやったのを思い出したのだが、今回はどのようになるのか、ちょっと楽しみである。思えば、上の三人のうち、もう二人は故人なんだよねえ。光陰矢のごとし。
 野中氏はあいかわらず、自分が総裁選に出るようなことは二百パーセントないと主張しているが、さあて、どうだか。そもそも事象が生じる確率を「二百パーセントない」と表現するのはどういう意図なのかよくわからない。もしかしたら、「百パーセントない」がふたつで「十分あり得る」と言っているのであろうか? でも、それだったら掛け算じゃないとヘンだしなあ。
 それはともかく、今回はこうなのかなあ?

 野中氏  小泉氏 

【3月26日(月)】
「SFセミナー」の案内が届く。なんと今年は、「SFセミナー特別篇:カナダSFの世界」なるものがあり、要するに二回あるのか。特別篇のほうは、劇場公開されなかったシーンを加えたもの(?)ではなくて、ロバート・J・ソウヤーさんがまた来日なさるのに併せた企画のようである。うーむ、こりゃとても二回とも行くというわけにはいかないなあ。レギュラーの「SFセミナー2001」のほうだけにしよう。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『果てなき蒼氓』
(谷甲州&水樹和佳子、早川書房)
「Treva」で撮影

 この《ご恵贈御礼》、今回からはbk1の該当書籍ページにリンクを張ることにした。べつに、ただリンクを張るだけではおれにコミッションが入ったりはしないのだが(入るのなら、おれの立場では逆にこういうことはやりにくい)、この日記の読者には本好きの人も多かろうし、また、《ご恵贈御礼》でご紹介する時点ではおれはまだその本を通読していないことが多いので、ほかの人の書評がすぐさま読みたいとおっしゃる読者もあろうからである(bk1に書評があるとはかぎらないのだが)。
 それにしても、こういう見るからに美しい本の書影を撮ると、「Treva」の限界を思い知るなあ。ほんとうは宇宙空間の深い紫色がはるかにきれいなのであります。もっと大きく美しい表紙画は、水樹和佳子さんのサイトで、ぜひご覧ください。bk1にも、いくらかましな大きさの書影がある。
 で、『果てなき蒼氓』であるが、これは一応、〈SFマガジン〉掲載時に通読している。本書は、それに加筆訂正を施し大幅に再構成したもので、連載時にはなかったカットも加えられ、二色刷りだったのがフルカラーになっているカットもある。詳しくはいずれ某所で書評することになっているので、後日そちらをお読みいただくとして、とにかく結論だけ述べておきましょう。買いなさい。『宇宙叙事詩(上・下)』(光瀬龍・文、萩尾望都・画、ハヤカワ文庫JA)に匹敵する、SF小説とSFアートと科学解説(前野昌弘)との贅沢きわまりない饗宴である。手前がリアルタイムで寸評をつけて紹介していた記事が〈SFオンライン〉に残っているので(第一話第二話第三話第四話第五話第六話第七話第八話第九話第十話第十一話最終話)、お暇な方はご笑覧ください。なにしろ、どう転がっていくかもわからない連載中であるから、毎回毎回好き勝手に手探りで書いているのが、いまとなっては恥ずかしくも面白い。

【3月25日(日)】
「侍魂」というサイトの「ロボット技術の最先端」ってページが、ネットのあちこちで爆発的に話題になっているようだ。この、中国が世界に誇るロボット「先行者」は以前にマスコミも報じていたけれども、「侍魂」の勝利(?)は、やはりこのアレンジのすばらしさにあるであろう。どこか投げやりなページ構成に、スクロールの効果を計算した畳みかけるような文章。みごとである。最初のインパクトに比べると、「最先端ロボット技術 外伝」のほうは、見るほうの感覚が鈍磨しちゃってだめだな(それでも笑えますが)。
 だけど、笑ってる場合じゃない。日本がこの調子で堕ち続けてゆくと、二○二○年ころには、中国が日本を笑いものにする似たようなページが出現するだろう。いや、いまでも、「先行者」のところに「森首相」の写真を持ってきた似たようなページが世界のどこかにはあるんじゃなかろうか。あるある、きっとある。「失言防止スーツ」ってのは、すでに日本でも開発されているけどな。

【3月24日(土)】
▼夕刻に地震。ゆらーりゆらーりと非常に長い時間大きく横に揺れ続ける。昨年の鳥取の地震とよく似た揺れかただ。本の山が倒れないかどうかをじっと観察していると、はっきり身体に感じる揺れがかなりのあいだ続いているというのに、これがもう、魔法のように倒れない。二、三日したら倒れるんだよなあ、きっと。
 それにしても、最近地震が多いなあ。あの、最初のずずんってやつは、まことに精神衛生に悪いよ。

【3月23日(金)】
Mako さんとおっしゃる方から、この「世界Aの始末書」を収集する airWeb のエージェント(プラグイン)を作ったので、公開してもよいかというメールをいただく。
 airWeb ってのは、おれは使ったことがないが、早い話がWWW用の自動巡回ソフトである。パソ通でよく使われていた自動巡回ソフト airCraft の系譜に連なるものだそうだ。で、Mako さんは、この airWeb 用に、おれの日記を自動収集するプラグインを作ってくださったのである。こいつで収集しておけば、オフラインでも読める。こんな日記をわざわざオフラインで読みたいという人が世界中にどのくらいいらっしゃるものか疑問ではあるが、ありがたいことだ。
 というわけで、酔狂にもこの日記をローカルディスクに全部ダウンロードしたいとか、最新の更新分を捕捉したいとかおっしゃる方がいらしたら、一度お試しください。HTML形式で保存されるので、オンラインで読むのとほぼ同じ形で読むことができる。おれとしては、べつに文章に改変が加えられないかぎり、どこでどのような環境で読んでくださってもありがたいと思っている。
 いやあ、しかし、この日記専用の収集プラグインを作ってくださるとはね。びっくりだ。オフラインでも読みたい、すなわち、所有したいと思ってくださるということは、考えようによっては書籍とタメを張っているということである。低俗は力なり。まことに嬉しいことだ。
 というわけで、airWeb でこの日記が読みたい方は、Mako さんのサイト「SettingSun」でプラグインをダウンロードしてご利用ください。もちろん、airWeb本体も必要なので、別途インストールしなくてはならない。
 もっとも、この日記をパソコンに入れて持ち歩いたところで、幸運に恵まれたりペン字検定に合格したりひ弱な坊やと笑われなくなったり悪霊が退散したりはしないのであしからず。

【3月22日(木)】
▼前から不思議に思っているのだが(って書き出しがこの日記では異様に多い)、仕事を終えて帰るらしい人に対して、べつにその人がなにをしているのかよく知らなくても、われわれは「お疲れさま」と言う。たぶんその人は社会に貢献してくれているのであるから、巡りめぐって自分のためにも働いてくれていることになるのだという意味が込められているのでありましょう。じつに文化的に高度な言葉だ。
 しかし、ぶっちゃけた話、どうひねくって考えても、自分にはまったく関係ないと思える仕事をしている人だってたしかにいるのである。たとえば、小説を読まない人にとっては、作家などいてもいなくてもよい、何者でもない、どうでもよい人なのだ。誰が見てもなんに使うのかさっぱりわからない、乾いた鼻糞かなにかにしか見えないようなモデルガンの部品(そういう部品があるかどうかは知らんが)を作っている人は、まあ、大部分の人にとっては、べつにどうだっていい人であろう。新聞の訃報欄を見るたびに、よくそういうことを思う。大部分の人にとってはどうでもよいなにやら狭い世界では惜しまれて死んだ人らしいなあとはわかるけれども、はっきり言って、死んだときに初めてそんな人がいたのかと知るような人ばかりが載っているのが訃報欄というものである。結局のところ、世の中はそんなどうでもよい人の集積なのだろう。おれも、おれに関係ある人にちょっとだけ惜しまれ、大部分の人にとってべつにどうでもよい人として死んでゆきたいものである。
 訃報欄を見るときの感慨とつまるところ同じようなものかもしれないのだが、一方で、世の中とはものすごいところだと思えることもある。たとえば、通勤電車の窓からふと外を見やると、某家電メーカの堂々たる建物が壁面の大きな赤いロゴマークを線路側に見せて通り過ぎていったりする。ああ、たぶんあの建物のどこかに小林泰三がいて、いままさにぐふふと笑っているのかもしれんなと思うと、そら怖ろしいような気になる。あっちの建物にもこっちのビルにも、いろんな分野に於ける小林泰三風の人がうようよいて、今日もぐふふと笑っているのにちがいないからだ。いま隣に座っている冴えないおやじは、もしかしたら全日本ちぎり絵チャンピオンかもしれん。あそこで涎を垂らして寝ているOLは、ことによると西中島南方界隈では知らぬ者のない腕相撲レスラーなのかもしれん。そこで鼻水を垂らしている貧相な学生は、ひょっとしてそれが完成したならMITとCALTECHが両側から半分ずつに引きちぎってでも教授に迎えたがるようなとてつもない理論をそのアホ面の濁った目の奥でいままさに構築しつつあるのかもしれん。も、もしかしてことによるとひょっとして、およそ人間というものは、おれを除いてみ〜んなそんなやつなのかもしれん――と思うと、どうでもよい人々の集積も、なかなかどうしてたいしたものに見えてくる。
 なにが言いたいのかよくわからないが、この世はたいへん面白いところだと、なにやら最近いまさらのようにしみじみと思うのであった。

【3月21日(水)】
イチローが初めてメジャーでホームランを打ったらしい。おれはスポーツにはほとんど興味がないのだが、イチローは見ていて壮快である。新庄は見ていても「そうかい」としか思わん。
 それはともかく、ドカベン山田太郎だという設定は、主人公らしからぬありふれた名前でアンチヒーロー、いや、没ヒーローを狙っているのだろうとわかるけれども、言うまでもなく、山田太郎なんて名前はかえって珍しい。サンプラザ中野と同じくらい、キアヌ・リーブスと同じくらい、ヤシーヌ・アイトサハリアと同じくらい、ビンダガヤ・オイボホッダと同じくらい、冬樹蛉と同じくらい珍しいにちがいない。ほんとうに平凡な人の無名性を象徴したいのであれば、“鈴木一郎”とすべきであろう。イチローが“一朗”なのが、じつに残念なのだよなあ。


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