間歇日記

世界Aの始末書


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2001年3月上旬

【3月10日(土)】
内田昌之さんのサイト「内田昌之翻訳部屋」が公開されていた。それにしても、「訳書一覧」をこうして改めて拝見すると、よくもこれだけ着々と仕事ができるものだと感嘆する。ちゃくちゃくちゃくちゃくという音が聞こえてくるようだ。忙しかろうが暇だろうが、一日にきっかり三個ずつ作る手作り民芸品かなにかの職人のようである。仮に、毎朝会社に行って九時から五時まで翻訳をして家に帰って飯食って風呂入って寝るという生活をしたとしても、これだけ着々と訳せるものだろうか? 自由業でこれほど一定のペースを保つには、怖るべき克己心と自己管理能力が必要であるにちがいない。おれが自由業であっても、けっして真似のできない仕事ぶりである。
Japan Net Bank のテレビCMはなんかヘンだ。
 三人の若いサラリーマンとそれなりの貫禄がある上司らしき男。どうやら食事をしたあと、金を払う場面であるらしい。若いサラリーマンたちは、上司らしき男(部長であるとわかる)がてっきり奢ってくれるものだと期待しているらしいが、そうでないかもしれず、なにやらそわそわしている。レジスターに「16,100円」と表示されるや、部長は「一人4,025円ね」とのたまう。若いサラリーマンたちがあわてて取り出したのは、財布にあらず携帯電話である。彼らがなにやら操作をすると、部長の口座にその三人から割り勘分が振り込まれたことを示すメッセージが、ピピッと部長のケータイに表れる――というものなのだが、なるほど、インターネット銀行なら、たとえばケータイを使ってインターネットで少額の振込みが簡単にできたりするんだよ〜ん、そういう時代だよ〜ん、日本初のインターネット専業銀行だよ〜んと示したいのであろう。
 だけど、だ。だったらふつー、四人がそれぞれレストランの口座に直接電子入金すればすむんじゃないかい? レストランのほうは、それが即時に確認できる仕掛けにはなっていないという前提なのだろうか? よくわからん。

【3月9日(金)】
愛・蔵太さんのサイトで、「森首相の失言一覧」なるページを知る。誰かが作るだろうとは思ってたけどねえ。
 改めてこうして見ると、この森喜朗なる人物はたしかに常人でないことがよくわかる。一国の首相の器ではないが、なにか別のものに関しては、なるほどひとかどの人物であるにはちがいない。たとえば、これらをすべて架空の事件、架空の発言として創造しようとしたなら、田中啓文級の才能が必要であろう。
 でも、次はもうちょっとちがう才能の持ち主にしてほしいものである。
『アリー・myラブ3』、アリーがまたもや逮捕される。それにしてもよく牢屋に放り込まれる弁護士だなあ。今回は、attempted statutory rape なる、なにやらものすごい容疑である。statutory rape とはどういう rape であるかと、番組を観終わったあとにまずは『リーダーズ英和辞典』(研究社)を引いてみると、「『米法』制定法上の強姦((承諾年齢(age of consent)未満の女子との性交))」とある。おや、でもアリーはインターネットで知り合った十六歳の少年と食事に行こうとしたわけであるから、この定義には当てはまらないよなあ……と、今度はネットで調べてみたところ、Free Advice.com「Criminal Law>> Violent Crimes」「WHAT IS "STATUTORY RAPE"?」というそのものずばりの説明を発見した――It is any carnal knowledge of a female under the age of consent, whether or not the female was a willing participant. The age of consent varies from state to state, but is generally from 16 - 18 years of age. Again, some states may include in their definition carnal knowledge of a male under the age of consent in that state.
 な、なるほど、つまりアリーの住んでるマサチューセッツ州は“承諾年齢未満の男性”も含める州だというわけね。相手の少年が十九歳と年齢を偽った理由も、これでよくわかる。裁判が終わったあと、来週十七歳になるという少年に、アリーが「十七歳の相手を見つけることね」といったことを言っていたから、おそらく、マサチューセッツの承諾年齢は十八歳である可能性が高かろう(調べりゃいいんだが、そこまでは面倒くさい)。いやあ、勉強になります(って、こんな知識が京都市に住んでいるおれのなんの役に立つのかわからんが……)。それにしても、carnal knowledge とは、じつに遠まわしな、しかしよく考えると直截的な、絶妙の言いまわしでありますなあ。どこの国でも法律用語というやつは、奇妙なもんである。

【3月8日(木)】
脚を見せない坂下千里子という贅沢なコンセプトのテレビCMがあったのでたいへん驚く。まあ、あのコはいまのうちはけっこうキャラでもイケるとは思うが……。むかし、“大竹しのぶと森下愛子と戸川純の鼎談”という架空対談を夢見てわくわくしていた。ただしゃべらせるだけで、ハロルド・ピンターも真っ青の、恐怖と笑いとが同時に盛り上がってきそうな“間”があくにちがいない。“岸田今日子と吉行和子と市原悦子”とかね。今様でゆけば“西村友美と釈由美子と坂下千里子”くらいがよろしいのではあるまいか。この三人に顔が利きそうなのは明石家さんまであるが、さんまはしゃべらんでよろしい。あくまでこの三人だけで三時間くらいの鼎談をさせるのだ。そのまま本になりそうだよな。すげー安易な企画。でも、本だと“間”が伝わらんよなあ。
御教訓作家の船見幸夫さんに、御教訓カレンダーがデータベースになっているページを教えていただく。いやあ、こりゃ便利だ。Internet Explorer でしかうまく動作しないが、ネタがかぶってないかどうかチェックするのに便利だ。まあ、そういうふうに便利だと思うだろう人は、数人しか顔が浮かばないが……。

【3月7日(水)】
アルビレオさんから教えていただいたニュース――『「おれは死の天使」4人をはね殺す』
 若者がなにやらわけのわからないことをほざきながら無関係の他人を虫けらのように殺傷する事件など、近年は年寄りが餅を喉に詰まらせて死ぬ事件と同じくらいにしか珍しくないし、ましてやアメリカであれば、年寄りが餅を喉に詰まらせて死ぬ事件のほうがよっぽど珍しいであろうが、この少年が『日本でも放映されているテレビドラマ「アリー・myラブ」など人気番組のダニエル・アティアス監督の息子』となると、ちょっとわけがちがうらしい。でも、ダン・アティアス監督って、そんなにアリーを撮ってるわけじゃないと思うがなあ。最近(ちゅうのは、日本で放映中の第三シーズンね)は、ジョナサン・ポンテル作品がやたら多いのではなかろうか。思うに、こういう事件が起こったので、あのアリー“も”撮っている監督だという点が、やたら大きく報じられているのにちがいない。たぶん、アメリカの三田佳子みたいな扱いを受けてるんだろうなあ。しかし、「おれは死の天使だ」とはなんとも陳腐な。どうせなら、「ダンシング・ベイビーが……」とか「ピグミーが襲ってくる」とか「ディスコ・クィーンに追われている」とか、もう少し独創的なことを言ってはどうかと思うが、余計親父に迷惑がかかりますかそうですか。
「さあ、解禁」とばかりに与党陣営からも森降ろしの声。本人も辞めるの辞めないと言っていると報じられはじめている。このあいだまでの国会はいったいなんだったのだ? いや、そもそも国会はなんのためにあるのだ。アホか。いよいよ国が音を立てて傾いてきているというのに、なんの価値も生み出さんくだらんセレモニーをやっとる場合か。いまにはじまったことではないが、最近の日本の政治には完全に脱力させられる。老後は海外に脱出できるように、マジで検討しておいたほうがいいかもなあ。おれはおれにとって大切なひと握りの日本人たちと日本語と納豆と味噌汁とお茶漬けには愛着を持っているが、日本の国家にはなんの愛着も未練もない。ただただ疎ましいだけである。あんなどうしようもないやつらに票を投じるやつらがいまだに大多数であるとは、なんとも情けない。いや、票を投じすらしない若いやつが増えてきているのはもっと情けない。かといって、おれは自分で政治に携わるような器ではない。おれはおれが好きなことして生きていければ、多くは望まん小市民である。いまの爺婆やら中年やらは、日本がもののみごとに没落してしまうころにはすでに死んどるか死にかけとるからあとは野となれ山となれだが、いま放っておいたら、あとでいちばんソンをコクのは若い人やぞ。投票所くらいは行け。まあ、おれはいいけど。おれのあとに大洪水よ起これ。あくまで、あとにね。

【3月6日(火)】
bk1に注文していた、巷で話題の『新世紀未来科学』(金子隆一、八幡書店)が届く。かなり限られた“巷”かもしれないが……。
 まだぱらぱらと拾い読みしているだけなのだが、いやあ、じつにいい本である。「本書は、SFという人類の文化的資産を再検証、それらに登場する科学技術をジャンル別に通観し、未来科学の展望を語るものである。併せて、実際の最先端科学がどこまでSFに追いついているのか、という疑問にも答える」とカバー折り返しにあるが、まさにそのとおりの内容になっている。SFを読む人書く人はもちろん、科学技術に関心をお持ちのあらゆる方々、必携の良書と言えよう。二千八百円+税となかなかのお値段ではあるが、それだけの値打ちがあるので高くはない。
 いい本だいい本だと言うばかりでは興味が湧かないかもしれないので、少々面倒だが取り上げられている科学技術的テーマを目次からすべて引き写しておこう――

【第一章 宇宙開発】軌道エレベータ、エキゾチック・プロパルジョン、太陽系開発、テラフォーミング、恒星間飛行、宇宙改造
【第二章 医学】人工冬眠、臓器移植、サイボーグ、ヒト・クローン、性転換、脳移植、不老不死
【第三章 生命科学】有用生物の創生、動物の知性化、絶滅動物の復活、バイオハザード、人工進化、宇宙生物学、SETI
【第四章 コンピュータ/ロボット工学】人工知能、究極のコンピュータ、汎用人型ロボット、特殊環境ロボット、マイクロ/ナノ・マシン、フォン・ノイマン・マシン
【第五章 情報/通信】ネットワーク社会、新メディア、新伝送媒体、メモリー媒体、人工言語、脳/コンピュータ連接、情報生命、情報理論
【第六章 エネルギー】核エネルギー、太陽エネルギー、量子ブラックホール、対消滅、フリー・エネルギー
【第七章 環境】都市、人口、環境汚染、地球温暖化、気象制御、宇宙的カタストロフィ
【第八章 ファーアウト物理】慣性中和、反重力、フィールド推進、テレポーテーション、ワープ航法、タイムマシン、人間原理

 科学技術やSFに関心のない方も、少なくとも「こんなとんでもないことを考えているやつらが世の中にはいるらしい」ということがわかって楽しいと思う。いつの世にも“こんなとんでもないことを考えているやつら”がいたからこそ、われわれの現在の生活があり、文明があるのである。科学技術やSFに興味津々という方なら、著者の解釈や説明のしかたから新たな知見を得られたり、異論・異議を抱いたりすることができようから、知的刺激に溢れたひとときが楽しめるにちがいない。目次のそれぞれのテーマには、ひとつに一作、代表的なSF作品のタイトルが併記されているのだが、ここではわざと伏せた(知りたい方は、bk1の『新世紀未来科学』紹介へどうぞ)。もちろん、「あっ、あれにちがいない」とSFファンに身を乗り出させるためである。そりゃあなた、“軌道エレベータ”といったらアレに決まっているし、“絶滅動物の復活”とくればSFファンでなくたってあのアレだと思うだろうけど、さて、“人間原理”はどんな作品が挙がっているでしょう? わりと新しいぞ。
 思うに、この本はたいへんいい本だが、こういう本は出た瞬間から陳腐化がはじまる宿命を負わされている。どなたか資金と労働力の調達できる方が、この本をウェブ化してくれないものだろうかと、ちょっと思った。その後得られた知見や、その後登場したSF作品を次々と加えてゆき、文中の記述間にもハイパーリンクを張りまくって、あのアイザック・アシモフの『科学技術人名辞典』(皆川義雄訳、共立出版)Asimov's Biographical Encyclopedia of Science and Technology のようなものにしてしまうのだ。それぞれのテーマの専門分野の方々を呼び込んで、素人玄人、科学屋SF屋が入り乱れてディスカッションするBBSを設けたりしても面白いかもね。まあ、おれの知ってる有名なところでは、野尻抱介さんのサイトの「野尻ボード」がそういう役割を自然に果たしているんだけど。

【3月5日(月)】
大森望さんとこの「新・大森なんでも伝言板」で、小林泰三さんがろくでもないネタを振ってきた。おれが発見した法則によると、著者近影がかっこいい男性作家ほどこういうネタが大好きである。ちなみに、著者近影が“それなり”である男性作家も、こういうネタが大好きであることは言うまでもない。人間ドックに行くと着せられるようなホテルの安ガウンを着て寝そべっている姿を堂々と著者近影代わりにしているような男性作家も、こういうネタが大好きである。それはともかく、小林さんがいち早く見つけてきたとおり、新しいウルトラマンは『ウルトラマンコスモス』だというのだが、お察しのとおり、このウルトラマンはたいへんアブナイ。とくに放送関係の方々は要注意である(私信――朝日放送鳥木千鶴様、くれぐれもご用心を)。もしかしたら、各放送局のアナウンス部には“危険語”として通達がまわっているかもしれない。『ウルトラマンコスモス』に関する原稿を読んでいる最中には、けっして妙なところで咳をしたり唾を呑んだりしてはならない。まあ、関西では大丈夫かもしれないが……。
▼ウェブサイトを構えていると思わぬ方からメールをもらうという話は先日もしたばかりだが、またもやである。「昔の間歇日記に私の名前がでてたので、ついメールしてしまいました」とメールをくださったのは、船見幸夫さんであった。「誰、それ?」ってあなた失礼な。1997年11月21日の日記に出てくる船見幸夫さんである。歴史ある「御教訓カレンダー」(PARCO)の常連作家の船見幸夫さんですがな。いやあ、まったくインターネットは狭い。全国五十六億七千万の「御教訓カレンダー」愛用者にとっては、忘れようとて思い出せない名前であるはずだ。今年の船見さんの入選作は、以下のとおりである。

「歯科医師がこわくて、ケンカができるか!」
「この頭突きは、また来週」
「上司からたいやきをお仰せつかった」
「安心してください。顔にブサイクを入れておきますから」
「嘘をつくとエンマ様に舌を入れられるぞ!」
「三日三晩寝ないで出した固体がこれだ!(便秘)」
「菊だけヤボだ!(フラワーアレンジメント)」

 この異様なセンスがおわかりになるであろうか。「嘘をつくとエンマ様に舌を入れられるぞ!」ってのは、とくに好きだなあ(今日の日記はこっちのほうに偏っておるな)。
 おれは「御教訓カレンダー」を発売以来ずっと使っているが、まだ一度も応募してみたことはないのである。いっぺん出してみたろうかしら。応募する前にこの日記か「今月の言葉」で使ってしまいそうな気もするが、「三日三晩寝ないで出した固体がこれだ!(便秘)」みたいな状況説明型の形式は「今月の言葉」では基本的に取らないことにしているので、そっち系のいいネタができたら応募するかもしれんなあ。一応、“御教訓作家”と言い習わすことになっているようだから(言い習わしているのは、御教訓カレンダー・ファンだけであるが)、一作でも載ったら作家デビュー(?)である。
 いやしかし、ほんとうにいろんな人がこのアホ日記を見つけてくださるようで、まさに「低俗は力なり」である。

【3月4日(日)】
先日に引き続き、また「e-noodle」日清食品)を食う。今度は「ソース焼そば」である。これは水さえも不要なので、たいへん手軽だ。手軽だが、味はたいしたことない。なにかもの足りない。あのカップ焼きそば特有の安っぽい、下卑た感じがしないのである。電子レンジでチーンだもんな。よそのメーカの製品のCMではないが、やはり、流しが「ベコンっ」と鳴らないようなカップ焼きそばは邪道であると結論した。あの「ベコンっ」は、むかし嘉門達夫も歌の中でネタにしていた。きっとあのCMの発案者は、嘉門達夫を聴いている。カップ焼きそばの味には、あの「ベコンっ」がうまく鳴らせたかどうかも含まれるというのが、われらインスタント食品愛好者の支配的見解であろうと思う。
 しかし、「e-noodle」のCMが仲間由紀恵を出してきたので、ちょっと日清を見直す。目が高いねえ。仲間由紀恵は、なんとなく存在自体がつるんとしていてよい。歌手としては全然知らんのだが、女優としてはおれのはなはだ好むところである。なにより、ヘンでいい。のべつまくなしに美人でないのがいい。なに? 意味がわからない? ほれ、いるじゃないですか、どこからどう撮ってもメリハリがなく美人でしかないというタイプの女優が。ああいうのは五分観てると飽きる。おれは、一瞬どきっとするほど魅力的な顔をして、次の瞬間にはどうということのない顔に戻り、ことによってはブスにすら見えるような“点滅美人”が好きである。あ、以前、小林聡美について同じことを書いたのを思い出した。同じ話を繰り返すようになったら、老化のはじまりだ。
 でも、小林聡美と仲間由紀恵ってのは、いい取り合わせだと思いませんか? なにがどうと言われても困るのだが、食いものの味を頭の中で想像してみて「これとこれを一緒に食ったらうまいのではないか」と思うのにも似た漠然とした勘だ。『きらきらひかる』あたりに、仲間由紀恵を引っぱり出してくれないかなあ。

【3月3日(土)】
▼おれはいつもバテているが、最近どうもひときわバテ気味なので、ウー・ファン『WU FANG〜Five Fragrance〜』などゆっくり聴く。ちょっと前に、途中からチャンネルを合わせた「NEWS23」(TBS系)から、たいへん心地よい音色が流れてきて、しばし呆然と聴き惚れていたのだ。そういえば、このウー・ファンなる奏者の名は、門外漢のおれの記憶にもおぼろげに残る程度には耳にしたことがある。先日それをふと思い出して、衝動買いしたのである。おれは中国音楽なんぞにはまったく親しんでいないのだが、ブラウン管の中で魔法のように古箏と舞い戯れ異国のメロディーを奏でる白い指先に見とれながら、「この楽器で“戦メリ”をやったら、さぞや合うだろうなあ……」とぼんやり思っていたら、いきなりほんとうに Merry Christmas Mr. Lawrence をやりだしたので、はなはだびっくりした。すばらしい。アレンジもうまいのだろうが、“戦メリ”はまるで古箏のために作られたかのような曲である。
 奏者がすげえチャイニーズ・ビューティーだというのを差し引くとしても、いやあ、古箏というのは音色自体がよろしいなあ。なんかこう、左右の脳にまんべんなく入ってくるような生理的快感を伴う音色である。とくに西洋風のバタ臭い曲を古箏で聴くと、なんとも気持ちがよい。やはり脳への入ってきかたが、なじみのある西洋楽器とはちがうのだろうか。ふだんあんまり使わない脳の部位(ふだん使っている部位があるのかという突っ込みは無視しよう)を珍しく使っているような、不思議な酩酊感がある。なぜか日本の琴やハープはあんまり好きじゃないのだ。どちらもいささか押しつけがましいような気がおれにはする。
 はて、おれは幼少期に中国音楽などに触れた覚えなどないのだが、なぜにこんなに懐かしく聞こえるのだろう?

【3月2日(金)】
▼宇宙空間の戦闘で“四面楚歌”というのはアリか、と、ふと思う。将来、宇宙で戦闘が行われるようになったら(なってほしくないものだが)、“六面楚歌”という言葉が新たに生まれるやもしれない。もっと未来、四次元、五次元、六次元……n次元と、さらに高次の空間で戦闘が行われるようになったら、さて、何面楚歌になるでしょう? n次元空間での超立方体を構成する(n−1)次元の“面”の数の方向から楚の歌が聞こえてくることになるのかな……などと言ってみたところで、それがどんな感じなのか雰囲気しかわからない。しかし、世の中には、こういう状況をヴィジュアルに、というと語弊があるかもしれないけれども、どういう具合でか“思い浮かべる”ことのできる特殊な頭脳の持ち主がいるらしい。おれにはそれこそ想像もつかぬ能力だ。三次元空間に於いてすら、地図があったって道に迷うのである。度し難い方向音痴なのだ。いや、おれは空を飛べないわけだから、実質的には二次元で迷っているのだよな。おれが道に迷っていると、突如、目の前に渦状の模様が刻まれた脂ぎった肉色の塊が出現し……などというネタがわかったら、あなた、かなりの手塚ファンでしょうな。
 でも、あの「そこに指が」(手塚治虫漫画全集80『SFファンシーフリー』講談社・所収)という作品はあんまりだと思う。あれを初めて読んだとき、タイトルと冒頭の数コマの展開でたちまちオチがわかってしまったからだ。いくらなんでも、このタイトルはないだろう……と、いったんは憤慨したんだけど、よくよく落ち着いて初出を見ると、この作品は〈SFマガジン〉1963年6月号に掲載されているのだ。当時は、これくらいのタイトルにしないとわかってもらえなかったということなのだろう。してみると、日本の“SF民度”とでもいうべきものは、やはり相当向上しているのだよなあ。

【3月1日(木)】
▼さてさて、お待たせ(してるかどうかわからんけども)の“しょうが湯”特集であります。あれは“しょうがゆ”なのか“しょうがとう”なのかという、おれの積年のくだらぬ疑問に関するあれこれだ。
 まずは、美しい日本語にこだわる方といったら、中野善夫さんである。さっそくメールを頂戴した。中野さんは“しょうがゆ”派であり、“しょうがとう”という呼びかたは一度もお聞きになったことがないという。しかし、中野さんは『私は生姜湯が好きでも何でもなく、また関心もなかったので、十年に一回くらいしか「生姜湯」に言及することがないため、生姜湯の読み方の頻度を計測するには標本数があまりにも少なく統計的に有意なものではないでしょう』と、たいへん科学的である。
 『「しょうが」という呼び方は生薑を呉音で読んだショウカウに由来したとされるそうですので、やはり重箱読みということになるのでしょうか。大和言葉では「はじかみ」でしょうね。ただ、これは山椒の古名でもあるので、山椒と間違えやすいという欠点があります』 ううむ、やはり重箱読みにはちがいないのか。“しょうが”というのは純正の大和言葉ではないわけですな。“はじかみ”というのはまた、なんともヤマトっぽい言葉である。たぶん、刺激の強い味がすることは知られていて、薬だか嗜好品だかにするために、端っこのほうを噛んだことに由来するのではあるまいか(おれが勝手に想像してるだけだから、ちゃんと裏を取ってから人に教えて自慢するように)。そういえば、こんな話もある。むかし、しょうがを売って歩いていた商人に声の小さな人がいて、うつむき加減に歩いている本人は懸命に売り声を張り上げているつもりなのだが、まわりの人にはさっぱり聞こえない。これが“はじかみ屋”の語源である――とかなんとか、某作家の悪影響を受けている場合ではないので、先へ進もう。『ここは一つ「はじかみゆ」という言葉をつくって流行らせてほしいものです。「しょうがゆ」も「しょうがとう」も飲みたいとは思いませんが「はじかみゆ」なら大和の国のまほらの飲み物のようで心惹かれるのですが』 いやあ、いいですなあ、“はじかみゆ”。雅な感じがする飲料である。飲むと太陽が黄色く見える(黄色いがな)“あるべーるかみゆ”とか、往来で人に苦手な英語をしゃべらせては笑いものにするくせにウィッキーさんほどには厭がられていない“せいんかみゆ”とか、いろいろ類似品が出回っているのでご注意ください――とかなんとか、某作家の悪影響を受けている場合ではないので、先へ進もう……という繰り返しのパターンすら某作家の悪影響を受けているような気がするが気のせいなので、とにかく先へ進もう。
 ねこたびさんも、「ちょっと裏を取れていないのですが、ある時期に中国の薬草の名が輸入されてしまったため、輸入植物ではなく土着で同じ種のものがあっても、それ以前の文献に登場する本来の和名(大和言葉の名)が消えてしまったと聞いたことがあります。歴史が長いものは、印象としてもう和名扱いなのではないかと」と、中国伝来の名前による和名の淘汰を指摘していらっしゃる。ねこたびさんが併せて教えてくださった「和名の系譜」環境科学株式会社のサイト内)というページがやたら面白く、ついつい読み耽ってしまった。「タケトビイロマルカイガラトビコバチ」だの「ニセクロホシテントウゴミムシダマシ」だの、自然環境調査というのはまことにたいへんな仕事であるなあと感じ入った。眠れない夜など、タケトビイロマルカイガラトビコバチやニセクロホシテントウゴミムシダマシが一匹ずつ柵を飛び越えてゆくのを頭の中で数えておれば、十匹めくらいで心地よく眠りに落ちることであろう。
 アルビレオさんからは、『思うに、葛根湯というのは漢方薬なので「とう」ですけど、生姜湯は漢方薬じゃなく民間薬なので「ゆ」なのではないかと』というご意見。これも一理あるかもしれんなあ。もっとも、“葛根湯医者”などという言葉があるように、葛根湯の漢方薬としてのありがたみはずいぶんむかしから薄れてしまっているような気もする。でも、“生姜湯医者”ってのがいたら厭だな。まだ葛根湯のほうがましである。「先生、どうも昨夜から熱っぽくて……風邪みたいです」「生姜湯飲んどき」「ひどい頭痛が……肩凝りからでしょうか」「生姜湯飲んどき」「先生、身体が思うように動かなくて……筋萎縮性側索硬化症っぽいんですけど」「生姜湯飲んどき」
 きわめつけは、ぱなさんとおっしゃる本職のお医者様からである。Panaceaさんとは、じつに薬にお詳しそうなハンドルだ。『中医学(中国の伝統医学)や漢方医学(日本に伝わった中医薬学)の世界では「湯」は「お湯」ではなく,「方剤」つまりいくつかの生薬の組み合わせの事を意味します.カクテルのレシピですね』 なるほどー。じゃあ、たとえば人参なら人参だけを煎じたものは“湯”ではないわけだ。これは勉強になった。『具体例を挙げますと,「葛根8 麻黄4 乾生姜1 大棗4 桂枝3 芍薬3 甘草2」の**組み合わせ**を「葛根湯」(かっこんとう)と呼び慣わします』 おおお、こう書かれると、あんまり葛根湯医者をバカにしてはいけないような気になってきたぞ。余談だが、あの「カコナール」という腰が砕けるような商品名はなんとかならんものだろうか。まだ「ジキニン」とかのほうが某作家風でいっそ潔い。ちなみに、ぱなさんも“しょうがゆ”派だそうだ。『私が愛用する生姜湯は生姜をおろし金でおろして(ついでに葱ぐらい入れるときもあるが)さっさとお湯でといてしまうので,私は「しょうがゆ」と呼んでいます』 葱を入れたら“しょうがとう”の可能性も出てくるわけだが、その程度ではカクテル度(?)が低いので、自然と“しょうがゆ”になってしまうわけなのだろう。『ちなみに漢方で「生姜」は「しょうきょう」と読みますので,方剤として扱うなら「しょうきょうとう」と称した方がソレらしいかと存じます』 “しょうきょうとう”かあ。なんか苦そうだが、ありがたそうだ。
 まあ、なんだかんだで、どうやら“しょうがゆ”のほうがよさそうだ。メールをくださった方々、ありがとうございました。よし、おれもこれからは“しょうがゆ”と呼ぼう。一時の気まぐれではなく、しょうがゆ“しょうがゆ”と呼ぶことにする。“あさがとう”などと言っている人がもしあったら、あなたもこれからは“あさがゆ”と言ったほうがよいと思う。それはそうと、浅香唯は夕方には痒みが止まっているのだろうか。冬樹蛉は夏には汚いのだろうか(汚いよ)。ああ、おれはなにを言っているのだろう。やっぱり某作家あの本が悪かったのだ。あれは副作用があるので読む方は注意されたし。


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冬樹 蛉にメールを出す