間歇日記

世界Aの始末書


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98年2月下旬

【2月28日(土)】
97年12月11日の日記で書いた「マイコン沸とうジャーポット」の蓋が、早くも開かなくなってしまう。なるほど、日記をつけているとこういうときに便利だ。それにしても、ちょっと壊れるのが早すぎないか。軽くするという要請とトレードオフになるのだろうが、熱衝撃の大きな部分にプラスチックの部品を使っているのは素人でもわかる構造的欠陥だと思うのだ。最近の家電はエレクトロニックなところは凝っているにもかかわらず、メカニックなところは容易に不具合を起こす。若い優秀な人材が、給料も評価も高そうな電気仕掛けの分野に行ってしまうからだろうか。
『ウルトラマンダイナ』(TBS系)を観ていて、またもや奇妙な台詞に首を傾げる。スーパーガッツの海上移動要塞が宇宙からの侵略者にコンピュータを乗っ取られ、潜水モードへの切り換えがまにあわずに浸水しながら海底に沈んでゆく。「気圧が下がってきましたあっ!」などと叫んでいたが、はて、こういう場合、気圧は上がりこそすれ下がるとは思えない。宇宙船じゃないのだぞ。たしかに、海上にある状態でも清浄な内部環境を保持するために内部が与圧してあることは十分考えられ、それが破れたという意味であるとも解釈できるが、中枢部に水が入ってくるのを防ごうとあわててシャッターを下ろしたりしていたから、どうもそういう仕組みでも状況でもなさそうだ。この要塞がどういうテクノロジーで生活環境を維持しているかわからないので、絶対おかしいと断言はできないけどね。
 おれは子供番組の科学考証にそれほどこだわるわけではない。いくらなんでも、レーザーに電圧を流す(97年12月20日の日記参照)のはやめてほしいと思うけれども。そもそもおれ自身にしてからが理科系に強くもないし、細かいことは科学考証の雄・堺三保さんにお任せするとしよう。要するに、「ようさいがうちゅう人にのっとられてしずんだから、だんだん中のくうきがなくなってしまうぞ。さあ、早くなんとかしないと、スーパーガッツのたいいんたちはちっそくしてしまうぞ。がんばれ、ウルトマンダイナ!」ということを子供たちに伝えたいのであろう。隊員の呼吸によって「酸素分圧が下がってきましたあっ!」と叫べとは言わないけれども、「気圧が下がる」などと中途半端に難しげな台詞にするくらいなら、「酸素が少なくなる」と言わせてしまえばよいと思う。たとえば、さっき使った「ちっそく」にしても、子供同士の会話を聞いていればわかるが、連中は「いきがつまる」などとは言わない。そっちのほうが難しい言いかたなのだ。「ちっそく」は「ちっそく」として、ちゃんと然るべき文脈で使っている。ゲームソフトの影響か、「覇者」なんて言葉だって、意味はともかく「はしゃ」として知ってるじゃないか。「酸素」を使っていけないわけがあろうか? 親がそばにいる子なら「さんそってなあに?」と訊くだろうし(訊かなきゃそれでもいいけど)、子供だけで観ているなら「さんそとはなんだろう」と、正誤はべつにして有意義な会話を交わすやもしれない。子供がひとりで観ているとしても、物語の展開によって「どうやらにんげんは、さんそというものがないといきられないらしい」とおぼろげに知ることだろう。「さんそがないといきができないのか」「そういえば、“いき”と“いきる”はにているな」「まてよ。だいたい、いきって、なんのためにするのだろう?」などと、どんどんワイルドな想像をさせればよい。それが正しくたってまちがってたって、いっこうにかまわない。
 ものを知らないのは、ただ新たに知ればすむだけの些細な問題であって、子供には「これはなんだろう」「どうしてこうなるんだろう」と勝手にむちゃくちゃな想像をさせることのほうが、子供用に加工した知識を下賜することよりもずっと大切だと思う。あなたが子供のとき、大人たちが大人同士の会話に用いている言葉を捉えては、いろいろと想像をめぐらせたはずである。「なぜ、ねじにはおすとめすがあるのか?」とか(笑)。尋ねてうるさがられたり、じつは大人もよく知らないで使っているのだと発見したりしたことがあるはずだ。子供番組は、妙に子供に親切に作るよりも、大人にも通用する生の言葉をそのまま投げ出して、岡本太郎じゃないが「なんだ、これは!」と想像をかき立ててやればよい。というか、子供番組の役割はそれしかないのではあるまいか。知識なんて一生少しずつ身につけてゆけるが、ものごとを疑問に思う能力(すなわち想像力かもしれない)は、いったん箍が嵌ってしまうと大人になってから容易に鍛えられるものではないのだ。「なんだろう?」と思う能力と、それを自力で調べたり推理したりする基本的な技術さえ子供に与えられれば、この情報化時代に知識の売店としての学校なんて要らないとすらおれは思っている。どれほど便利に情報が手に入る仕掛けを整えたとて、情報を利用する動機を持たない人間ばかりなら、宝の持ち腐れではないか。
▼あっ。2月26日の日記で「吸った揉んだ」などと書いているぞ。もちろん、「擦った揉んだ」が正しいので、学生さんは試験に書いたりしないでね。書いたときに、なにやらよからぬ想像をしていたのかもしれぬ。直しておいたけど、ひょっとしたら「吸った揉んだ」ってのはAVのタイトルかなにかにあるかもなあ。“誤変換の功名”が傑作コピーを生むことも多いから、きっとあるにちがいないぞ。

【2月27日(金)】
▼国立大二次試験問題の一部として京都大学で出題されたものが朝刊に載っていたので、英語だけ目を通してみる。なぜ英語だけかって、そんなもの、ほかの科目なんてわかるもんかい。
 三問あるのだが、不思議でしようがないのは、一問めと二問めは、下線をほどこした部分を「和訳しなさい」で、三問めは「次の文を英訳しなさい」となっていることだ。英語の文章を和訳したり、日本語の文章を英訳したりする作業は、“英語を解しない日本人”や“英語を解するが日本語は知らない外国人”という第三者の存在が前提にあって行うことである。ところが、そんな作業を日常的に求められる人は、職業的な翻訳家や通訳くらいのものであって、大学に入ろうという人がみな翻訳家や通訳になりたがっているわけではないだろう。ほかの職業に就く人は、英語の文章は英語のまま、日本語の文章は日本語のままで正確に読解できればいいのだし、そうやってインプットしたことを他人に伝えるときには、日本人が相手なら日本語を、英語を解し日本語を解さぬ人が相手なら英語を用いて、自分の理解したことを自分の言葉で書いたり話したりできればそれでいいではないか。言語Aから言語Bに“訳す”などという特殊な頭の使いかたが必要とされるのは、ほんのひとにぎりの限られた職業の人だけだ。日本語、つまり、国語の試験はちゃんと別にあるのだから、英語の試験は全部英語で問いを出し、英語で答えさせる――つまり、英語を使う国の国語の試験と同じものにする――のが自明の理ではあるまいか。大学は通訳養成学校じゃないのだ。たしかにそういうまっとうな英語の試験をする大学もあるけれども、どうやらそのような学校は一般に“英語が難しい”と看做されているようなのだ。逆だと思うがなあ。語学のプロフェッショナルになろうとでもいう人になら翻訳のような高度な問題が課されても肯けるが、それ以外の職業を目指す人を選抜する試験で、英語からの和訳や日本語からの英訳をさせるのはナンセンスである。たとえば、物理学を勉強したくて大学に入った学生が、いちいち英語の論文を“翻訳”していたのでは時間がいくらあっても足りないし、そんな暇があったら別の論文がもっと読める。しかも、周囲の人間には英語の物理学用語がそのまま通じるのだから、とくに不自由はないはずだ。
 むかしよりはかなりましになったとは思うけれども、よく言われてきたように、日本の英語教育は、いまだに日本人全員を翻訳家や英語学者にしようとしているとしか思えない。翻訳家ばかり、そんなに要らないよ。SF翻訳家はもっといてくれたほうがいいけどね。
▼さてさて、第三回「○○と××くらいちがう大賞」のご応募は、明日が締切です。今回は前回とは比べものにならぬほどのご応募をいただいているので、けっこう審査がたいへんそうだ。とはいえ、追加ご応募もむろん大歓迎だから、遊んでやろうという方はぜひどうぞ。

【2月26日(木)】
▼電車の中で、だしぬけに「展覧会の絵」が電子音で鳴り響く。なにごとかと見ると、隣にいた女性の携帯電話(かPHS)の着信音であった。なかなか洒落ている。最近は着信音を自分の好きなように作曲できたりする機種もあり、こういう些細なところに差異を求める小市民的感覚がけっこうみみっちくて好きだ。そういう凝った機種でも、おそらくいちいち曲を入力してゆく作業はかなり面倒なはずで、いっそHP200LXのアラーム音のように、音楽データをファイルで格納できる機能を付けてしまえばどうか。もしかしたら、そんなのももう出てるのかな? ポケモンみたいに友だちと着信音データを交換するなどという遊びは、女子高生あたりにウケそうだと思いません?
 着信音が好きな曲に変えられたら、おれならどんな曲を使うだろう。まあ、クラシックが無難なところだろうが、すぐ他人とダブりそうで面白くない。それに、なにしろ着信音なのだから、出だしですぐそれとわかり、しかもそれを何度繰り返しても不自然ではないような曲が好ましい。となると、エリック・サティ「ヴェクサシオン」が最適ではないかと思うも、なんだか暗くて、ろくな電話がかかってこないような気もする。やはり明るいのがいい。「笑点」のテーマ曲なんて最高だな。吉本新喜劇「ふぅんわかふぅんわっ、ふぅんわかふぅんわか、ふんわかふんかわふっ」(あの曲、なんてタイトルなんだろう?)ってのも捨て難い。「かに道楽」のCMソングも粋だ。「ゲバゲバ90分!」のテーマ曲ってのも威勢がよくていいぞ。着信したら、三十代以上の人がみなこっちを見るにちがいない。SFファンらしい曲にしておくと、電車の中で着信したとき同類を捜し出せる。目が合ったやつはSFファンだ。「地球の緑の丘」は定番だろう。難波弘之「リングワールド」なんかも着信音向きだ。繰り返しという点では「ジャズ大名」もすばらしい。ツツイストが一輌に数人乗っていれば、たちまちジャムセッションになってしまうやもしれぬ。
 いろんな曲で着信を知らせてくれる携帯電話を想像すると愉快だが、問題は、着信音とて“演奏”にはちがいないから、著作権者は隣接権を主張できるはずだということである。四小節くらいまでならよいのだろうか? このあたり、専門家の見解をお伺いしてみたいところだ。同様の問題はオルゴールや目覚まし時計などでもすでに生じているはずだし、それに準ずる扱いになるのだろうなあ。
 そういえば、前から気になってるのだけど、ゲームソフト会社のハドソンのサウンドロゴは、『未知との遭遇』の“レミドドソ”を一秒以下の高速で演奏したものである。あれはちゃんと然るべき筋に許可を得て使用料を払ったりしているのだろうか。それとも、そうせずにすむようなギリギリのところで法の綱渡りをしているのだろうか。あるいは、わずか五音の組み合わせと短すぎるので、作曲者(?)も著作権が主張できないのであろうか。同じような例で、たしかサンプリングについての擦った揉んだもあったよなあ……。べつにおれは直接利害関係がないから、どうでもいいと言えばどうでもいいんだけど、なんだか気になってしまう。

【2月25日(水)】
「小説新潮」3月号「星新一特集」を読む。「ボッコちゃん」「鍵」「木の下での修行」の三篇が再録されているが、中でも小松左京氏の最も好きな一篇として紹介されている「鍵」には、改めて驚嘆した。じつを言うと、以前読んだときにはさほどの感銘を受けたわけでもなかったのだが、手前がそこそこの中年おやじになったいま読んでみると、この作品の鏡像のようにヘルマン・ヘッセの掌篇「アウグゥストゥス」が想起され、オーバーラップしてくる。しかも、「鍵」はその深さに於いて「アウグゥストゥス」を凌ぐ。少なくとも、ヘッセを出している出版社は、星新一文学全集の刊行をすぐさま検討すべきだ。「お伽噺が失われた時代、それにかわって人間の上位自我を形成する現代の民話を、日本ではたった一人、星新一が生み出したのだった。」という筒井康隆氏の追悼文に深く肯く。
 などと憤慨していると、これはまあ当然だが、「SFマガジン」4月号も星新一の追悼に多くのページを割いている。「小説新潮」の佐野洋氏の追悼文と「SFマガジン」の井上雅彦氏のそれとを読み合わせると、みずからがこの国に根付かせたショートショートという文学形式の未来を、星氏がどれほど気にかけておられたかがしみじみ伝わってきて悲しい。
森山和道さんと風野春樹さんが「SFマガジン」に初登場。いずれも、おれはネットを通じて知り合った人だ。元はと言えば、おれの場合もパソコン通信での活動がSFMデビューの遠因になったようなものだから、なんだか仲間が増えたようで嬉しい。風野さんの記事の「嗤うポケモン」というタイトルには大笑い。やられた。うちのサイトの「今月の言葉」にぴったりのノリなのに、なぜ思いつかなかったのだろう。

【2月24日(火)】
『イグニション』(ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースン、矢口悟訳、早川書房)を買う。一応買っただけで、すぐには読まないだろう。というのは、この作品、おれが商業誌に書かせてもらえるようになって間もないころ、初めてお金をいただいてリーディングの仕事をしたときに一度原文で読んだものだからである。おれにとってはささやかな記念の作品だ。「じつはSFじゃなくて、ハイテクスリラーっぽいやつなんだそうですけど、リーディングをお願いしたいんですが……」と編集者さん。「やりますやります」とおれ。リーディングの仕事なんて初めてだったから、どんな新刊本が送られてくるのかどきどきしていると、どでかい段ボール箱がやってきた。中から出てきたのはタイプライター打ちの原稿を片面コピーしたぶ厚い紙束。本になっているどころか、綴じられてすらいない。おお、ひょっとして、この作品を読むのは、日本でおれが数人めか、いや、初めてなのかもしれん――などと、初々しく興奮したりしたのを憶えている。こんなぶ厚い紙束を鞄に入れて持ち歩くわけにもいかないので、百枚くらいずつパンチレス・フォルダに挟んで会社の行き帰りに電車の中で読んだ。初心忘るべからずとはよく言ったもので、そんなペーペーの下読み屋さんも(いまでもペーペーだが)、最近では「読んでください」「はいはい」などと安請け合いし、雑誌のように締切が厳格でないのをいいことに、編集者さんをお待たせしてしまったりしている。えっと、東京創元社の小浜さん、たいへん遅くなっておりましてすみません。
 考えてみれば、おれが原書の下読みをさせてもらった作品で本になったものは、『イグニション』が初めてだ。なにしろ、本を出すというのはたいへんお金と労力のかかることであり、自分ひとりがちょっと面白かったからといって「これはいいです。ぜひ翻訳すべきです」などという評価を無責任にひょいひょい出せるものではない。畢竟、作品のあら捜しをするような読みかたになり、長所は長所、欠点は欠点と、俄然、辛めの意見を慎重に述べることになりがちだ。少なくとも、おれに関してはそうである。
 で、『イグニション』ですけど、面白いことには太鼓判を押してもいい。宇宙開発評論家の江藤巌氏も解説でおっしゃっているように、まさにケネディ宇宙センター版『ダイ・ハード』、スピード感たっぷりの手に汗握るジェットコースター・ノベルだ。ちょこっと『ホーム・アローン』風のご愛嬌もあったりするし、ヒーローとヒロインの関係には『アビス』のバッドとリンジーを思わせるものもある。活字ならではの面白さにこだわる人には、いかにも映画にしてくださいと言わんばかりの確信犯的部分がやや鼻につくかもしれないが、エンタテインメント性には文句のつけようがない。江藤氏のように、ケネディ宇宙センターの設備や地理を掌を指すがごとくに把握している方には、いっそう深い楽しみかたができるのだろうが、宇宙開発についてことさら専門的な知識を持たぬおれのような読者にでも、まったく支障なく一夕の歓を尽くすことができる娯楽作品である。ハリウッド風活劇がお好きの方なら、期待が裏切られることはないと思いますよ。

【2月23日(月)】
▼この季節、電車に乗るのは拷問に等しい。やたら暑いのだ。みなわざわざコートを着込んで汗をだらだら流しながら乗っていて、奇ッ怪なことおびただしい。じゃあコートなんか着てこなければいいかというと、通勤時間の長い人ほど朝と晩の寒い時間に外を歩かねばならず、まだコートなしでは辛い気候だ。だったら、電車の中ではコートを脱げばよいではないかと思うでしょうが、まず脱ぐどころではない人口密度であることがほとんどで、さらに、みながコートを脱いだりしてはそれを置く場所などなく、手に抱えていたのではますます電車が混む。結局、人々は冬の最中に汗だくになりながら何十分も、いや、人によっては一時間も二時間も走るサウナ風呂にじっと耐えることになる。汗でびしょびしょになり、降りた途端に今度は寒風に晒され風邪をひく。夏は夏で、汗でびしょびしょになり駅までたどり着いたと思ったら、今度は電車の中で歯の根も合わぬほどの冷房に晒され風邪をひく。前から怪しいと思っているのだが、製薬会社と電鉄会社は、裏で手を結んでいるのではあるまいか。バカげている。愚劣の極みだ。なぜ人体からの発熱や水分の蒸散を考慮して冷暖房を調節するような仕組みにできないのだ。端的に言うと、電車というのはおよそ人間の乗るものではない。みずからを貨物と化してこそ、ようやくこのバカバカしさに耐えることができるといった原始的な乗りものである。
 自動車が走るエレクトロニクスとも言うべき快適な乗りものに進歩しているのに、電車はなぜにかくも原始的であり得るのか。簡単なことだ。事実上、競争がないからである。通勤・通学に用いる電車を、豊富な選択肢の中から選べるような恵まれた人はきわめてわずかであろう。みな乗りたくて選んで乗っているわけではない。乗らざるを得ないから乗っているのだ。
 なんとか電車の世界に競争原理を働かせることができれば、状況は徐々に改善されるだろうとは思うのだが、いろいろ考えてみてもなかなか名案は浮かばない。電鉄会社同士を競争させようったって、幸運にもそうなっている地域もあるにはあるが、どうしても物理的に無理がある。となると、電車を電車以外のものと競争させるしかない。これはもうはじまっている。情報通信インフラがどんどん発達してくれば、人間の無駄な移動はかなり減るだろう。エコロジー的観点からも、減らさねばならないようになってくるはずだ。そうなると電鉄会社は生き残りをかけて、「頼みますから、どうしても必要じゃなくても、できるだけ肉体を移動させてください」とお客様にお願いしなければならなくなってくる。「やっぱりビジネスは膝と膝」とか「人と人とのふれあいの場――満員電車」とか、いささか時代の流れに逆行した、エネルギー消費を煽るようなキャンペーンを展開しはじめたりするにちがいない。固定収入だった通勤・通学客の減少を必死になって食い止めるため、サービスの向上により努めるようになるだろう。つまり、電車が現在ほど必要とされない社会構造になるころ、ようやく電車は人間の乗りものになる道を歩みはじめるという、じつに皮肉な結論になる――かな?

【2月22日(日)】
▼うちのサイトも個人運営にしてはけっこうな数の方々にアクセスしていただけるようになったせいか、このところやたら宣伝が舞い込む。「こんなホームページを作ったので見てください」とか「こんなMLありますのでお誘いいたします」とかが多いのだが、メールのボディにきちんとおれの名前が書いてある礼儀正しいものはきわめて少ない。それがないと、どこぞで入手したメールアドレスに向けて大量に同報配信したという印象を受けてしまい、実際はそうでなくとも、あまり気持ちのよいものではないのだ。せっかくホームページやMLを開設したのだから多くの人に見てほしい、参加してほしいという気持ちはわかるので、一瞬むっとしても、商売気がなく、かつおれの興味を引くサイトなら見に行って感想を書いたりしているけれども、世の中おれみたいなお人好しばかりではないから、お誘いメールを書く初心者の人は気をつけましょうね。
 ケッサクなのは、先日来た「あなたも生パンティーを狩ってみませんか?」というシュールなサブジェクトのついたやつである。遺伝子工学が生んだ恐怖のパンティー型吸血生物が平和な街を襲っているから、ぜひ勇敢なあなたに狩猟隊に加わっていただきたい――というメールかと誰だって思うだろう。少なくとも、SFファンなら思う(と思う)。はたして、ボディを見てみると、アダルトサイトのお誘いなのである。まあ、おれだってアダルトサイトは嫌いじゃないから、どこぞを見た際にアドレスを捕捉されたのだろうが、同報配信のいわゆる“spam”だとまるわかりだからむかっときて、生パンティー狩猟隊に加わる士気はたちまち失せた。これが仮に、「冬樹蛉様 はじめまして。私たちの街は世にも怖ろしい吸血生パンティーに襲われています。しかし、悲しいかな、警察も自衛隊も私たちの話を信じてくれません。聞けば、SFファンには、もの好き――もとへ、柔軟な頭脳をお持ちの方が多いとか。あなたの日記を拝読したところ、あなたならわれわれの組織する吸血生パンティー狩猟隊に加わってくださるのではと一縷の望みに縋ってお便りした次第です。私たちの街の惨状など、詳しいことは、http://……」などと書いてあったとしたら、少なくともどんなサイトか見に行ってみようという気にはなるだろう。
 まあ、アドレスを公開していれば、わけのわからないメールや、多少無礼なメールや、かなり無礼なメールや、ひどく無礼なメールがときおり舞い込んできてもいたしかたない。そういうデメリットよりも、アドレスを公開したりホームページを持ったりするメリットのほうが大きいから、みんなこうやってインターネットを使っているわけである。
 今日、ある個人ページをたまたま読んでいたら、なんでもその人は無礼な嫌がらせメールを受け取ったそうで、あきらかにその人個人宛のメール、つまり私信の内容を(おそらく無断で)ホームページで公開した挙げ句、アドレスがわかったからとのたもうて、メール爆弾による報復攻撃までほのめかし脅迫していた。開いた口が塞がらないとはこのことである。その嫌がらせメールの内容から察するに、メールの主は少なくともそのサイトを訪問して内容を読んでくれているのだ。読者であり、お客様である。それに報復攻撃を匂わせる脅迫で応えるなどとは、「アホ言うもんがアホや!」という関西の子供の喧嘩ではないか。しかも、その報復攻撃法は、現状のインターネットの仕様上の不備につけ込んだ手段なのだから、バカが知識だけ持つとろくなことはないという見本である。さらにとんでもないことに、万が一、このバカがほんとうにメール爆弾で報復に出たとしたら、まったく無関係の人間のメールボックスを溢れさせ、サーバを機能停止に追い込む可能性がある。理由を詳しく書くとやってみるバカが出る怖れがあるから書かないが、ご存じの方にとっては常識の範疇に属することだろう。
 この程度の不快な思いをするリスクに耐えられないのなら、ホームページを構えてアドレスを公開したりすべきではない。たまげたことに、そのページの御仁は文筆業者の端くれであるらしいのだが、このような下劣な品性の者に、人様に読んでいただきお金を頂戴する文章など一行だって書く資格があるものか。
 とにもかくにも、いまのインターネットは、悪意があってもなくても、うっかり無礼や迷惑行為を働いてしまいかねない不完全なインフラだから、お互い注意して使うようにしたいものですね。

[98年3月5日追記:ここで批判している個人ページを明記しないのはフェアでない等、大森望さんより真摯なご批判を頂戴した。たしかにそのとおりなので、3月5日の日記にて、然るべき再批判を行っている。そちらもぜひご参照ください。]

【2月21日(土)】
「SFオンライン」の仕事のため、ブルース・スターリング「ディープ・エディ」(「SFマガジン」94年8月号、小川隆訳)を再読。今回レヴューをする98年3月号には、姉妹篇の「自転車修理人」 Bicycle Repairman (小川隆訳)が載っているので、「ディープ・エディ」が好きな人は入手しておかれるとよいと思う。ま、エディは脇役ですけども。いま書いておかないと、次の「SFオンライン」が出るころには4月号が書店に出てるんだよね。
 しかし、スターリングはなにがいいと言って、とにかく“かっこいい”んだなあ。そりゃ、ギブスンだってかっこいいにはかっこいいんだが、彼の場合、現実を描く手際がかっこ悪い。サイバーパンクはリアリズム以外のなにものでもないというのがおれの認識だから、時代がギブスンに追いつくにしたがってだんだんギブスンがかっこ悪くなってくるのは自明の理なのだけれど(それゆえ、逆にいわゆる“主流文学”側の評価はどんどん高くなってくるはずだ)、スターリングはちょっとちがう。この二人、サイバーパンクの代表作家として語られてきたし、共作もあったりするから同じ穴の狢のように見られがちだが、じつは作家的資質や方向性は正反対なんじゃないかとおれは思う。ギブスンには、あくまで現在に目を置いて、その延長線上にある未来を幻視している感じがある。一方、スターリングは、未来のほうに目があって、そちらから現在を透視しているとしか思えない。後者をはたしてリアリズムと呼んでいいものかどうかには異論があるだろうけど、やっぱりこれもリアリズムなんだろう。むろん、未来側からこちらを見るための材料は現在に求めざるを得ないのだが、スターリングはそれができるくらいにむちゃくちゃ勉強しているし(ギブスンが勉強してないわけじゃないすよ)、ご存じのようにルポライター的活動だってしている。ただ、その素材を「現在こうだから、未来はこうなるでしょう」と組み合わせるだけなら、スターリングのかっこよさは出ない。「自分はとにかく未来にいる。未来はこんな具合だ。思えば、過去の“アレ”がいまの“コレ”に繋がっていたのかもしれない」というふうに、彼にとっては“未来が自明になっている状態”が出発点なのだろう。だから、未来人としての彼の感性を裏切るものが過去(つまり、現在ね)にあった場合、それを意図的に無視したりすることすらあるのかもしれない。結果的に作家の感性によるフィルターのかかった現在が未来として立ち現われることになり、そこにSFの華というか、あの“かっこよさ”の源泉があるんだろうと思うな。こういうものの見かたも、おれはリアリズムだと考える。
 おっと、あんまり書いちゃうと、「SFオンライン」に書くことがなくなっちまうか。まあ、あちらは単発の作品紹介と寸評だし、私見としての作家論はこっちでくっちゃべったほうが自由度があっていいや。


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