間歇日記

世界Aの始末書


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2001年4月下旬

【4月30日(月)】
▼なんとなく、こうやって日記のネタを稼いでいるような気もするがそんなことはなく、まだ風邪が治らないのでとにかくひたすら寝る。
 マスコミが小泉内閣の異常なまでの高支持率を報じている。おいおい、ほんとに大丈夫かよ? ここまで来ると、気色が悪いぞ。そろそろ国会議事堂に放火でもして、共産党に罪をなすりつけるのによい頃合いかもしれん。いや、橋本派になすりつけて、民主党と組むのがよいかもな。

【4月29日(日)】
▼一日で治るわけはないが、まだ風邪が治らない。ひたすら寝る。

【4月28日(土)】
▼さあ、連休だ――と思ったせいかどうか知らないが、糸が切れたように風邪を引いて寝込んでしまう。もったいないことであるが、どうしようもない。来月三日・四日の「SFセミナー」までには、なんとか治してしまわねばならない。大事を取ってひたすら寝る。自分の咳で眠りを破られながら熱っぽい頭でよしなしごとを考えていると、突如、『おジャ魔女どれみ丼』などという“視覚系”のネタを思いつく。これは音で聞いてもちっとも面白くないよな。などとくだらないことを考えていたのでは、ますます熱が出る。眠れ、眠れっと脳に言い聞かせる。

【4月27日(金)】
『新・SFハンドブック』(早川書房編集部編、ハヤカワ文庫SF)が届く。手前も記事を書いているのだが、いや、おれはこういう仕事、下手だなあ。名作SFを一ページまたは二ページで紹介する「編集部のおすすめ作品」ってやつを五篇ぶんほど書いたのだけれど、短いだけにむちゃくちゃやりにくかった。しかも、本の性質からして、初心者向けでもなくてはならない。結局、あまり“いちびれ”なかったのである。いちびっていると紙幅が足りなくなってしまうのだ。しかし、事典じゃないのだから、あまりにも無味乾燥な記述では続けて読む気がなくなってしまう。ほかの人の記事がみんな神業のように見えてくる。もっとこの、簡潔な一語一語で本質をぐいっと抉る詩人のような言葉遣いを心がけねばならんなあ。といっても、そういう技能は才能によるところ大であって、練習でうまくなるようなものではない。やっぱりおれには、書いていたらだらだらと長くなって関係のない話があちこち出てきて結局なにを言いたいのかよくわからなくなってくるころに本筋と全然関係ないところで妙に話が面白くなってきていったいなんの話だったっけと読者が忘れてしまったのをいいことに忘れさせたままオチをつけて終わらせる――みたいな仕事が向いているな。どこにあるんだ、そんな仕事?

【4月26日(木)】
▼小泉内閣誕生。田中眞紀子外務大臣ってのは、予想が当たったな。森派が入りすぎているのを捉えて「なにが“脱・派閥”だ」と怒っている人がいるらしいのだが、あまりにもまんべんなく各派閥から出ていたとしたら、それは派閥という枠組みを前提としてそれを過剰に意識していることになるのだから、森派が多いという批判は論理的におかしいのではないのか?
 まあ、いろいろありましょうが、概ね、総裁選の公約を守ってるじゃん。なんという珍しい政治家だろう。さあ、これからが面白くなるぞ。おれが期待する筋書きとしては、自民党内から小泉降ろしの陰湿な工作の数々が噴出し、それが国民を楽しませると同時に呆れさせ、参院選で自民党はボロ負け、現在の自民党はそれこそ解党的危機に瀕し分裂に追い込まれ、大幅な政界再編が起きる――というものだが、それには派閥の論理、派閥文化のコードがしっかりと骨身に染み着いたロートルたちにもっと馬脚を表わしてもらわねばならない。小泉首相の弁当にフケをふりかけ、お茶には雑巾の絞り汁を入れ、田中外務大臣のトウ・シューズに画鋲を入れるくらいの大映ドラマ定番風の演出を期待している。似たり寄ったりのことは絶対すると思うぞ。

【4月25日(水)】
▼組閣のやりかたが気に食わないのか、さっそく亀井静香氏が怒り狂っている。わははははは、そうこなくっちゃ。おれはこの男に“節操”などというものを期待してはいない。くるくると掌を返し続けて、エンタテイナーとして国民を楽しませてもらいたいものだ。ヤクザまがいの品も内容もないたわごとをただただ大声でわめきちらすだけの男という印象しかおれは亀井氏に抱いていないが、そのコロコロ変わるたわごとは一応日本語にはなっているので面白いのだ。同じコメディアンでも、日本語もろくに操れぬのに議員になっている鈴木宗男氏の三文芸とは一線を画す。
 それにしても、刷り込まれた文化のコードというのは、まったくもって怖ろしいものだ。小泉総裁がどういうコードで動いているのか、亀井氏にはまったく理解できていないらしいところがコメディーとして最高である。小泉氏のほうには亀井氏の文化のコードはよくよくわかっている(なにしろ、このあいだまでそのコードで動いていた、あるいは、動いているように見せていたのだから)ところが、この喜劇をますます盛り上げている。コメディーのツボを押さえてますよね、最近の自民党は。

【4月24日(火)】
小泉純一郎自民党総裁誕生。大森望さん・さいとうよしこさんご夫妻に二世誕生。ともかく、いろいろ誕生でめでたやなめでたやな。

【4月23日(月)】
堺三保さんがあちこちに書くので、井川遥とは何者か、さては茶川一郎高千穂遙の親戚筋かとネットで調べてみる――ああ、この娘か、何度か見たことあるな。どうも見るからに健康そうで、いまひとつクるものがない。この日記の愛読者の方々はご存じかと思うが、おれはどこか歪で翳があり(“陰”ではない)病的な感じの女性が好みである。
 この井川嬢、NHKテレビの「フランス語会話」に出演しているらしい。むかしと比べて、NHKの語学講座も変わったもんだ。マーシャ・クラッカワー先生のカメラ目線にドキドキしていたころが懐かしいぞ――って、おっちゃんおばちゃんにしかわからんネタだな。
 NHKのテレビ講座出演系美女では、「みんなの手話」忍足亜希子が狙い目である(って、なんの?)。“にんそく”ではない“おしだり”と読むのだ。むかし、一人だけこの珍しい姓を持つ人に会ったことがあったので、この女優さんの名前も読みかたはすぐわかった。その人は滋賀県甲賀郡在住の方で、たぶん忍者の子孫なのであろう。忍足亜希子が忍者の子孫かどうかはさだかでない。で、この忍足亜希子、地味だが清楚な美を湛えた聾唖者女優で、けっこう藝歴も長い人らしい。知らない人はいっぺん「みんなの手話」を観てみましょう。隠れた“語学講座”美女である。

【4月22日(日)】
▼自民党総裁選予備選、小泉純一郎候補圧勝のもよう。おれも小泉氏は嫌いではない。こういう時代には、なにごとも変人がやったほうが面白い。しかし、最近の狂騒的な報道を観ていると、マスコミもグルで自民党の味方してるんじゃないかとすら思う。小泉氏は変人だが、思想的には歴とした右派である(UHAは味覚糖である)。それを相対的に最左翼のように見せているのは、ほかならぬマスコミだ。おれは小泉氏の思想に全面的に与する者ではないが、彼のやりかたは好ましい。おれにはごくごくあたりまえのフツーのやりかたに見える。彼を指して“偏っている”などと言うやつがたまにいるのだが、なにをバカな、“偏って”いなくてなんの政治家であるものか。政治家というものは“意見”の権化であるべきなのだから、偏っているのが正しいのである。おれたちが知りたいのは、「この政治家はなにをやりたがっているか」であって、それ以上でも以下でもない。“意見”を持たず“利権”のみで算盤勘定をしているやつなど、政治家にならずに官僚になればいいのだ(ほんとは官僚にもなってもらっちゃ困るけど)。まあ、そういうやつは、官僚になるだけの頭脳がなかったので、比較的なりやすい政治家になったのかもしれない。
 それはともかくとして、おれは小泉氏に首相になってもらいたい。このたびは、彼を全面的に支持する。彼の思想にはおれのそれとは相容れない部分があるが、少なくとも、彼はさまざまな問題をちゃんと“俎上に乗せてくれる”だろう。いままでタブー視されてきたヤバイ問題も、先送りせずに議論の対象としてくれるのではないか? 郵政事業の民営化は言うまでもなく、首相公選制の問題、それに伴う立憲君主国の本質に関する問題、自衛隊の位置づけ、集団的自衛権の問題、それらに伴う憲法改正に関わる問題等々々、はっきり言って、おれは小泉氏の経済政策などよりも、諸々の大問題に関する“永遠の先送り”に終止符を打とうとする彼のスタンスを買う。野党ですらじつは腹の底では「まあ、まだまだ先送りできるだろう」と思っているのかもしれない諸問題を、少なくともちゃんと議論の俎上に乗せることで、clear and present な(翻訳版クランシー流に言えば“いま、そこにある”)ものとして、おれたちに突きつけてもらいたいのである。小泉氏を応援するというのは、そういうことだ。なにやら、イメージばかりが先行した先行者――じゃない、変革者として、雰囲気で応援していては火傷をする。「手前の息子や娘の代わりにアメリカの若者に死んでもらうのはええのか? 人間として答えろ」「怪我の功名で押しつけられた憲法第九条を、わしらは事実上捨てるのがええのか、それとも、わしらこそが新たに意味づけをして真にわしらのものとして護ってゆくのがええのか、あんたの考えを述べろ」などなどと、国民一人ひとりが問い詰められる。もう、先送りはやめよう。この問題にかぎらず、なにもかも先送り先送りにしてきたのが、この国のこの十年だ。結論を急ぐことはない。しかし、公の場所で口角泡を飛ばしお互いに襟首掴んで罵りあいながら決着をつけねばならんときが(みながずっと怖れていたときが)、そろそろ迫ってきているのはたしかだろう。『五分後の世界』(村上龍)は、意外と早くやってきたのかもしれないぞ。
 でも、いまの小泉フィーバー、小泉氏の言う“痛み”を過小に解釈してないか? なあ、街頭インタヴューでニコニコと小泉氏を推してるおばちゃん?

【4月21日(土)】
▼話題の食玩「チョコラザウルス」UHA味覚糖)がコンビニに入っていたので、三つほど買ってみる。これは、中になにが入っているかわからないタイプの食玩なので賭博性が高い(?)。それにしても、なんともマニアックなラインナップである。恐竜もまあいいのだが、古代生物が入っているあたりがじつに外道なマーケティング戦術だ。子供に売る気なんぞ最初からないじゃろう。第1シリーズ(というからには、当然第2シリーズ以降があるのである)にアノマロカリスが入っていないところなど、鬼畜としか言いようがない巧さである。第1シリーズにだって、“アンモナイト”“三葉虫”などという大雑把なものは入っていない。アンモナイトのうちの“パキディスクス”が入っているのであり、三葉虫のうちの“プシコピゲ”が入っているのであった。おれはこの手のもののさしたるマニアではないからいいようなものの、マニアであれば企画関係者をどつき倒してやろうかと思うくらいニクいセレクションであろう。
 帰宅して、「けっ。ようやるわ、ほんまに」と罵りながら三つの箱をできるだけ気のない仕草で無造作にテーブルの上に投げ出し、おもむろに上着を脱いでネクタイをむしり取ろうと思ったがじれったかったのでネクタイはしたまま顫える手でわくわくと箱を引きむしるように開けた。「ディメトロドン」「トリケラトプス[骨格]」「ティラノサウルス[頭骨]」である。おおお、おれはどうやら骨格系の運に恵まれているらしい。よ、よくできてるよなあ、このトリケラトプス。
 「チョコラザウルス」のよいところは、おまけのチョコレートのほうもけっこううまいことである。食玩についてるラムネ菓子の類はたいていおそろしくまずいが、このチョコならいくらでも食える。だが、さしものチョコ中毒のおれも、最近ズボンのホックが留まりにくくなってきたため、少しは控えねばならない。そういえば、先日、鳥木千鶴さん(朝日放送)が秀逸なアイディアをくださった。もずくやら豆腐やら納豆やら、ああいう健康によさそうなものにこそフィギュアの類を付け、少年少女に食べさせるべきだとおっしゃるのである。これはいい。納豆はとくにいい。おれの家なら、ひとりでにフィギュアが売るほど集まってしまう。シェア・ナンバーワンを誇る「おかめ納豆」(タカノフーズ)あたりにやってほしいものだ。“生鮮食玩”ってのは、法律上まずいことでもあるのだろうか? 「超リアル 吉本・松竹タレント・フィギュア付き納豆」なんてのは、絶対売れると思うぞ。納豆を食わない貧しい食文化に染まっている関西人たちも、フィギュア欲しさに食うようになるだろう。「島木譲二[骨格]」とか「岡八郎[頭骨]」とか「海原はるか[毛髪]」とか、マニア垂涎のフィギュアがいろいろ作れそうだ。
 ところで、いま日記を書いていて気づいたのだが、あれほど有名な「おかめ納豆」のタカノフーズには、公式のウェブサイトがないのかー! いまどきじつに珍しい。その代わりと言ってはなんだが、Y本興行のプロデューサーのお知り合いとおっしゃる方が、“なるみのかぶりもの”を借りて撮影したという写真を公開なさっているのを発見した。うーむ、なんとなく羨ましいのはなぜだろう? たとえば、こういうのを見ると某ガイナックスという会社の取締役統括本部長といった方などは血が騒いだりするのかもしれないが、なんとなくおれもこういう変身願望(?)が理解できるような気がするあたりが少し怖い三十八の春である。


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