間歇日記

世界Aの始末書


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2001年4月中旬

【4月20日(金)】
▼このところ、気がつくと『ドロロンえん魔くん』の主題歌を口ずさんでいる。とくにテレビで自民党総裁選のニュースなど観ていると、「奇怪怪怪 妖怪だらけ 日本は妖怪 ふきだまり」のところばかり繰り返し唄ってしまう。べつにおれが特別に皮肉屋で(かなり皮肉屋ではあるが)強引にこじつけているのではなくて、この歌はもともと政治風刺ソングなのである。子供心にもわかった。なにしろ、中山千夏が作詞して自分で唄ってますからなあ。いまなら、田中眞紀子にでも唄わせたら、また独特の味が出るやもしれない。
 ちなみに、なぜかおれは小学生くらいのころ(もっと小さいころからだったかもしれぬ)、中山千夏がたいへん好きであった(いまでも好きである)。公言こそしなかったが、いま思えば密かに憧れていたというか、ほとんど恋心に近いものを抱いていたような気がする。あの鼻声がよい。唄うとなおよい。かっこいいお姐さんという感じで仰ぎ見ておった。おお、そうか、いまやっとわかった。おれはそのころからフェミニストがかっておったのだな。そういえば、小さいころは女の子とばかり遊んでいた。そうか、そうだったのか。こういうことを不意に発見したりするから、むかしのことを意識の底からほじくり出しながら徒然なるままに日記を書くというのは、主観的には意義あることなのである。

【4月19日(木)】
「今月の言葉」に使おうと思っていてボツにしたのだが、やはり今月中に書いておかねばならない――「イタチ科の一年生」
 なぜこれをボツにしたのかというと、唄わないと面白くないからである。文字をさらりと読んでしまったのではインパクトがない。舌の上でワインを転がすように、何度も口ずさんでいると面白くなってきます。きますったらきますっ!

【4月18日(水)】
▼あれ? 先日NECが発表していたロボットの名前はなんだったっけ? パペポだかポペロだかペパロだか、なんかそんな名前であったはずだが……と気になるので、ウェブで調べてようやく思い出した。「PaPeRo」だ。「ASIMO」なんかと比べて、はなはだ憶えにくい。だから、言わないこっちゃない。「プラズマX」なんて秀逸な名前(1997年3月3日の日記参照)は、ディスプレイなんかに使わず、ロボットのために残しておくべきだったのだ。
 待てよ……。ひょっとして「PaPeRo」の名づけ親も「プラズマX」と同じ人なんじゃあないだろうな? 「うーむ、弱った。こんなに早くあんなロボットができることになるとはなあ。こんなことなら“プラズマX”はロボットに残しておくんだった。ほかになにかいい名はないか、いい名は……。そうだ、歌でも唄えば思いつくかもしれん。パーパパッパ、パーパパッパ、パーパパパポペプピパー、朝から晩までバタバタ……」などと唄っているうちに、「……“PaPeRo”くらいにしておこうか」てなことになったのかも。この人は『パタリロ!』しか知らんのかい。

【4月17日(火)】
『ニュースステーション』(テレビ朝日系)を観ていたら、突然ロジャー・ムーアが現れた。最近なにをしているのだろうと思っていたら、ユニセフ親善大使になっていたのか。といっても、具体的になにをしているのかはやっぱりわからず、話を聴いていると、007は Iodine Deficiency Disorders(ヨウ素欠乏症)なるものの撲滅に力を注いでいるのだという。ヨウ素が不足すると、甲状腺腫や発育障害、知能の遅れなどの症状が出てくるそうだ。ナポレオンは、一応、現象としてはこのような障害が存在することは知っていた、と、さすがに親善大使は詳しい。micronutrient の欠乏のせいだとは知らなかったでしょうけど」
 ああ、なるほど、ああいう微量養素のことを micronutrient というのだなこれは勉強になったふだん使わん言葉じゃからな覚えておかねばいかんなそういえばほかにもこの手の micronutrient の欠乏で起こる障害はいろいろあったなたとえば亜鉛が不足すると味がわからんようになるとか――と、ロジャー・ムーアの話を聴いていたせいで脳が英語モードに切り替わっていたおれは、ここであるとんでもないことに気づいて、口をぽかんとあけた。時間が止まった。世界が結晶化した。「チンクは、zinc だったのだ……」
 もちろん、『リボンの騎士』チンクである。サファイアやらオパール(サファイアの愛馬)やらジュラルミン大公やらナイロン卿やらプラスチック王子やらと、『リボンの騎士』の登場人物名は、鉱物とか金属とか、とにかくマテリアル系が多いのだが、なぜかおれはチンクは例外だとずっと思っていたのであった。思い込みというのは怖ろしい。そうか、チンクは zinc(亜鉛)であったか。いや、英語では音が合わんので、たぶん手塚治虫の頭にあったのは、ドイツ語の Zink のほうだろう。なんということだ。三十数年来、こんなことに気づかなかったとは……。最初に『リボンの騎士』を知ったときには、英語もドイツ語も知らなかったからだろう。長じたのちには、すでにチンクはチンクであると頭の中で“片づけられて”しまっていたため、おれの脳はそういうことを考えてみるためのエネルギーを割かなかったのにちがいない。不覚である。歳を食うと頭が“固まる”というのはほんとうだ。おれの頭だけは固まらん、一生柔軟な思考を保ち続けてやると若いころは誰もが思うのだろうが、脳も化学的な機械であるからして、やはり無駄のないほうに慣れて流れてゆく――つまり、“固まる”のだろう。無駄に働くことこそが脳の最大の武器であるはずだが、ある程度は型に嵌まらんことにはものを考えることすらできない。皮肉なことだ。いわゆる“文化のパラドックス”である。ロジャー・ムーアのおかげで、とんでもない見落としに気づくことができた。ありがとう、ジェームズ・ボンド。
 というわけで、脳の老化を防ぐためには、「なんという無駄なことを考えるのか」と自分で呆れるくらいにアホなワイルドなラディカルなナンセンスなことを無理やりにでも考える癖をつけなければならない。もっとも、そのように企み努力してアホなことを考えているようではまだまだ修行が足りんのだ。呼吸するようにアホなことが次々と浮かんでくるようでなくては大物とは言えん。そのような大物とただのアホとをどう区別するのかという大きな問題は残るものの、そういう意味で、田中啓文という作家はあなたが思っている以上に偉大な人物なのである。

【4月16日(月)】
▼京都は上賀茂の本屋さんにお勤めの鈴木うしさんから、勤め先のウェブサイトからおれのところにリンクを張ったとお知らせを頂戴したので、さっそく「交庸堂online」に行ってみる。出版社や大手書店のウェブサイトはよく見るし、ウェブ書店はしょっちゅう利用するが、このようないかにも“町の本屋さん”といった風情の小規模な書店がドット・コム・ドメインまで取ってサイトを構えているのは珍しい。インターネットだからこそ、逆にローカル色がほのぼのと活きる。あそこいらへんへお越しの節は、ぜひ行ってみていただきたい。森岡浩之さんは京都府立大学卒だから、もしかしたら在学中にいらしたことがあるのではなかろうか? たいへん環境のいいところで、じつはおれも行こうかなと思っていたことがある。もし受けていたら、森岡さんと同期同学部になっていたかもしれない。結局、関西学院大学にしたため、田中哲弥さんと同期同学部になってしまった(1999年6月8日6月12日の日記参照)。“なってしまった”ってぇことはないが、まあ、“なってしまった”と表現させるものがそこはかとなく感じられることも事実である。在学中は、こんなケッタイな人、知らんかったけどね。おれはやはり、キャラクター的には森岡浩之よりも田中哲弥にはるかに近いであろう。ひょっとすると、兵庫県のあそこいらへんには、かんべむさしの残留思念がわだかまっていて、感応するやつを引き寄せていたのやもしれん。
“しかつめらしい”関連で、橘家鶴蔵さんから、面白いお話が寄せられた。こういうのは話題がどんどん増殖して楽しい。なんでも鶴蔵さんは、数年前、セサミストリートのキャラクター、ErnieBert の画像を、本家米国の Yahoo! を使ってウェブで捜してみたのだそうだ。すると、不思議なことに日本や香港のページばかりがヒットする。おかしいなぁと、よくよく検索語をチェックすると、鶴蔵さんはうっかり綴りをまちがえてSesami Streetとなさっていたのだそうである。わはははは、同じようにまちがえているウェブページは、英語が母国語でない人が作っていたってわけですな。こういうこともあるから、検索エンジンで狙った情報がうまく見つからないときは、わざと綴りをまちがえてみるってのもひとつの手(1998年9月10日の日記参照)だよね。
 で、試しに、いまの Yahoo! 、いまのウェブで「Sesami Street」を検索してみると、英語が母国語の人が作っているらしいページでもけっこうまちがえている。まあ、ガイジンだってまちがえるわな。“しかめつらしい”って書いちゃう日本人も少なからずいるわけだし。
 鶴蔵さんの発見は続く。デジカメなどのメモリに使う SmartMedia の販促サイト、「SUMAME.COM」というところがある。スマートメディアだからスマメという、いかにも日本的な愛称だ。鶴蔵さんはふと『既にSumameって単語を製品名とかに使ってる会社があると「明け渡し要求」来ないかな』と思って、Google などで「sumame」を検索してみた。すると、なぜか中国や台湾のページに、この不思議なキーワードにヒットするものがある。どうしてだと思いますか? 中国語にそんな言葉がある? ちがうんだな。おれも鶴蔵さんと同じように検索してみて、「sumame」が登場する台湾のページを見つけた。なんと、surnamesumame になっているのだ。「多分タイプ打ちした原稿をそのままWebpageにしたんでしょうね。タイプの字面によっては"rn"と"m"は同じに見えるから」というのが鶴蔵さんの推理である。おれもきっとこれは正解だと思う。タイプ打ちの英文を疲れた目で読んでいると、ありふれた単語がとてつもなく奇妙なものに見えることはあるもんなあ。それにしても、面白いまちがいかたもあったものだ。

【4月15日(日)】
▼テレビを点ければ、朝からあちこちのチャンネルで自民党総裁選の話ばかりしている。結局(3月27日の日記参照)、こういう感じになったなあ――

 小泉氏  亀井氏  橋本氏  麻生氏 

 なに? かなり無理がある? そうかなあ? じぃ〜っと見てると似てくるんだってば。亀井氏は輪郭が似てるし、橋本氏はじつに光沢がよく出ていて、麻生氏は目と口元がそっくりだ。
 それはともかく、朝からこういう画面ばかりをいくら見せられたところで、しょせんは一政党内の選挙なのであって、おれが投票できるわけでもなし、マスコミが騒げば騒ぐほど、なんだかバカにされているような気になる。屁ぇこいて寝るしかない。

【4月14日(土)】
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『禍記(マガツフミ)』
田中啓文、徳間書店)
「Treva」で撮影

 まずわれわれが第一に肝に銘じなくてはならないのは、これは『禍記(マガツフミ)』であって、けっして『禍記 マガツフミ』ではない点である。「マガツフミ」は“ルビ”であると、ある場所で作者も明言していた。しかし、『水霊 ミズチ』は、表紙にも奥付けにも『水霊 ミズチ』とあるのであって、まちがっても『水霊(ミズチ)』ではないのだ(よって、bk1の表記は誤りである)。
 というわけで、田中啓文の伝奇ホラー傑作集である。収録作品七篇のうち、SF専門誌に載ったものが三篇だが、伝奇モードの田中啓文であるから、一見(あくまで一見である)駄洒落モードの田中啓文とは別人のようであるはずだ。じつにこの本、装幀からしてかっこいい。いかにも禍々しい感じの表紙画で、大目玉の怪物と闘う弘法大師がどこかに騙し絵として隠されているのではないかなどと探してみても無駄である。こういう装幀に「田中啓文」と書いてあると、なにやら明治の文豪のようではないか。文を啓く……おおお、かっこいい名前だ。いつもなら、「田中啓文……塗り潰せるところが十箇所もある名前だな。おや、“啓”という字はよくよく見るとピカソの『泣く女』にそっくりだ」などと思うのだが、今回はそういうことはない。でもたぶん、読み終えたらやっぱり「鬼畜だ外道だもっとやれ」と思うにちがいないのだが……。

【4月13日(金)】
▼あまり面白くないので最近作はほとんど観ていなかったが、ひさびさに『新刑事コロンボ・殺意の斬れ味』(日本テレビ系)を観る。前にも書いたが(1998年10月16日の日記)、やっぱり『新刑事コロンボ』の犯人はアホである。葉巻のあんなことにも気づかんのか。喫煙者が減ってしまったので、葉巻を吸わないやつはあんなことも知らんということなのかもしれないが、人を殺そうというやつはそれくらい事前に調べるじゃろうが……。途中の行動も、アホでも気づきそうなミスばかり。つまらんつまらん、ぜーんぜんつまらん。あんなアホ、コロンボのお出ましを待つまでもない、おれでも捕まえられるぞ。
 アホであるうえに、動機もみみっちい。たとえそれが偏ったものであろうと、己の主義主張、哲学美学に照らしてあえて殺人を行うのだという気概がない。金と色だけ、まことにわかりやす〜い動機でいとも簡単に人を殺す。嘆かわしい。ああ、むかしの誇り高く頭のよい犯人たちが懐かしい。『祝砲の挽歌』の犯人のかっこよかったこと。コロンボにチェックメイトをかけられたとき、静かに朝ぼらけの中で敗北を認め、後悔などしておらん、必要とあらば明日にも同じことをするだろう――てなことを毅然とした態度で言うのだ。なに? それは殺人を美化することになっていろいろな団体がうるさくてまずい? とほほほ……。それが現代的といえば現代的なのだろうが、ここまでわかりやすい動機にせねばウケないと製作者側が考えざるを得なくなっているのだとしたら、『新刑事コロンボ』の犯人がアホになってしまったのは、アメリカの大衆がむかしに比べてアホになってしまったということなのかもしれない。それが証拠に撮りかたまでアホ向けになってしまって、コロンボがなにか重要な動作をするときに、手元が一瞬スローモーションになったかと思うと効果音楽まで入れやがる。視聴者をバカにしておるとしか思えん。そういうシーンはさりげなく撮ってこそ、推理ドラマを観る楽しみがあるのではないか。アメリカ人はあそこまでしてやらんとわからんくらいアホになっておるのか? もう、『新刑事コロンボ』はいいから、むかしの名作を再放送しろ。若い視聴者に『刑事コロンボ』全盛期の高みを見せてやってくれ。

【4月12日(木)】
角川春樹事務所のサイトを見たら、「大好評SFシリーズ ゾアハンターフェア!」なるものをやっていて驚く。いや、なにも驚かんでもよいのだが、おれが気に入ったものがよく売れているという現象に不慣れなもので、そう言われてもにわかには信じることができない。すると、おれに気に入られるとたちまち売れなくなるのかというともちろんそんなことはなく、それは因果関係の捉えかたがおかしいのである。おれが気に入ろうが入るまいが本の売り上げにはなんの影響もないと安心していられるからこそ、好き勝手なことが書けるのだ。これがあなた、腰巻で激賞すれば本の売れ行きが三割はちがうというような大先生であってみろ、おれは神経が細いのでたちまち胃を壊してしまうであろう。おれは、おれがなにか言うと本が売れたり売れなくなったりする類のレヴュアーになりたいとは思わない。「おまえが並べた御託で読む気になり、読んでみたらなるほど面白かった」と思ってもらえればそれで嬉しく、その本自体が十万部売れようが千部売れようが、知ったことではないのである。
 はてさて、《ゾアハンター》シリーズはどのくらい売れているものかおれにはさっぱりわからないが、角川春樹事務所さんが大好評と言っているのなら大好評なのであろう――とナイーヴに思うほどおれは素直ではない。しかしまあ、シリーズの決着がつくまでは続くくらいには売れてほしいよな。あんまり人気が出すぎると、終わるべきところで終われなくなるという少年ジャンプ的な哀しい現象が往々にしてあって、だらだら長続きして恥を晒すといった不幸なシリーズも世の中にはあるらしいなどといったことをおれはたまに耳にするが具体的には知らん。知らんぞっ!

【4月11日(水)】
▼なんか最近のこの日記を読んでいると、おれはテレビCMを観る以外のことをしていないかのように見えてしまうが、それほどのことはないにしても、実態からかけ離れているとも言い難い。
 で、テレビCMなのだが、缶コーヒー「BOSS」“人間動物園シリーズ”第三弾、「体育会系」がけっこう好きである。シリーズも回を重ねるごとにだんだん金がかかってくるのがわかり、今回のはペンギンたちがよく動いていい。なぜかおれは、人間のほうのネタそのものよりも、ペンギンたちの動きに惹かれる。アントニオ猪木たちの“檻”の前の説明パネルがほんの一瞬しか映らないので、気になっている人もあるのではなかろうか。おれはテレビを漫然と点けているときにも必ずいったんはクズテープに繰り返し重ね録画しているので(理由は、1998年5月5日の日記参照)、今日ようやくその気になり、ビデオの画像を止めて説明パネルを読んでみた。こう書いてあるのである――

体育会系
体を動かす事によってのみ
喜びを見い出す人種のこと。
実力よりも上下関係を重視
する傾向にある。
「汗」「根性」といった言
葉に敏感に反応し、問題は
全て「気合い」で解決する。

 気になっていた方、アホらしくてわざわざ録画を確認する気にもならなかった方、わかりましたか?
 だけど、これが「体育会系」というものだとしたら、日本人なる人々は、全体的に「体育会系」なのではなかろうか――と、“在日日本人”((C)宮迫千鶴)のおれは思うのであった。


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