間歇日記

世界Aの始末書


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2001年5月上旬

【5月10日(木)】
▼先月末にひいた風邪がずるずると尾を曳いている。べつに、たいへんつらいわけでもないのだが、風邪が治ったという気がしない。のぺ〜っと風邪のような症状が続いている。痰がからむ。咳が出る。鼻が詰まる。熱っぽい。なにやら歯まで痛んでくる。このままずっと一生風邪をひいているのではあるまいかとすら思われるほど、煮え切らない感じである。か〜〜っと高熱が出て、一日汗だくになって寝るとサウナに入ったようにさっぱり治る類の風邪があるが、今度の風邪も少しはああいうのを見習ってほしいものだ。“微熱中年”ってのは、どうも絵にならない。
▼会社のトイレにはウォシュレットがついているのだが(家にはそんなものはない)、大便をしながらふと思う。「ウォシュレット」というのは、どう考えても商標だ。「エレクトーン」とか「ディスケット」とかと同じ類のものだろう。では、あの“ウォシュレット”、いったい一般名ではなんと言うのだろう? まさか、肛門洗浄機とは言わんよなあ。肛門以外にも使うもんなってそういう問題じゃない。
 気になったので、帰宅してからネットで調べてみると、どうやらTOTOをはじめとする多くのメーカは、あれを“温水洗浄便座”と呼んでいるらしい。おお、温水洗浄便座。いかにも文明の利器という感じがする。クロコダイル・ダンディーもびっくりだ。
 しかし、どうもあの手のものはネーミングに味がない。ウォシュレットだのシャワートイレだのクリーンシャワレだの、一般家庭にフィットした親しみのある語感に欠ける。業務用といったイメージがまだ残っているのかもしれん。たとえば、洗濯機くらいこなれた家電になると、「青空」とか「静御前」とか、“和もの”の愛称がついていたりするではないか。「霧重力」なんてのもある。肛門洗浄機、じゃない、温水洗浄便座にも、あのノリで名前をつけてはどうか。「清穴」とでもすれば、憶えやすくてよかろう。「菊水」なんてのも、どっかの料亭かなにかみたいだが、なかなか雅な趣がある。とかなんとか言ってると、ほんとにこんな商品が出たりして。

【5月9日(水)】
▼朝、駅へと歩いていると、一応購読している(無料だが)香山リカ氏のメールマガジン〈香山ココロ週報〉がケータイにやってきたので、歩きながら読む(なんども言うが、「無料で subscribe する」に対応するよい日本語はないものか?)。「今週のカヤマ」のコーナーに(今週号は「今週のカヤマ」しかないのだが)、5日の日記で触れたテレビ番組『近未来スペシャル ボクらの希望を探す旅 〜村上龍「希望の国のエクソダス」から〜』(日本テレビ系)に出演した話が出てきた。香山氏はよくテレビに出演なさるので〈香山ココロ週報〉には、しばしば裏話のようなものが出てくる。なんか、精神医学の話よりもそちら目当てで読んでいるような気もしないではない。テレビに出るとたくさん弁当がもらえるらしく、定番ギャグ(?)のようにして、テレビの話と弁当の話がセットになっている。テレビ局の弁当ってうまいのだろうか?
 それはさておき、5日の日記「なんとなく香山氏が浮いている」と書いたが、やっぱり自覚があったらしい。番組の司会者が出演者に「おとなになってよかった、と思うのはどんなとき?」という質問をしたとき、『私は「マンガ読み放題、ゲームし放題」と答えてしまった』ところ、ほかの出演者は“自分の家族が持てる”という意見に全員賛同していてあせったということである。“あせった”というのは、自分の家族を持たねばとあせったわけではなく、(これだけ個性豊かな人々が十人も集まっていてさえ)家族というものがいちばん大事なものとして独善的にまかり通る空気に、香山氏は“あせった”わけである。わははははは、そりゃやっぱり“浮く”よなあ、テレビでは。きっと、テレビでは、“家族=善・幸福”という概念を否定したり、その概念に疑義を呈したりしてはならないことになっているのだ。べつに香山氏は否定しているわけではないのだが、テレビではその宗教に帰依していない者は存在しないことになっているのだろう。もっとも香山氏だってこうは書いているものの、そういう迫害のされかたにはすっかり慣れているんじゃないかと思う。迫害されるのを楽しんでいるところもあるだろう。おれもそうである。
 みながみな、香山氏やおれのような生きかたをしたのでは人類が滅びてしまうが、まあ、決まった生きかたなんてものはないのだから、オプションはできるだけたくさんあったほうがいい。もしかすると、自分の家族を持たねばならんという社会からの暗黙のプレッシャーが、そもそもそんなことに向いていない若者を歪めてゆくことだってあるのかもしれんぞ。そんな彼や彼女には、もっといろいろな自己実現のオプションがあるだろう。彼らに「家族を持ちたくなければ持たなくていいんだよ」と言ってやることが、おれのような者の役目なのかもしれん。どうも現代の日本には、家庭を持つことに向いていないのに社会のプレッシャーのために無理して家庭を持ち、自分を殺してわざわざ不幸になっているようなやつが少なからずいるような気がおれには激しくするのだが、気のせいであろうか? そもそも、みながみな結婚して家族を持つようになったのは、家父長制(および性別役割分業)と資本制とが互いを強化すべく結びついて発達してくる過程で必然的にそうなったのであって(つまり、どんなボンクラ男にでも女がひとりくっついて市場外で男のメンテナンスをし、労働力および次代の労働力を安定的に市場に供給する体制を市場制が欲したのだ)、それ以前は、結婚しないやつなんていっぱいいたのだ。えーと、ここいらへんのことは話すと長くなるので、ご用とお急ぎでない方は、1997年5月20日11月29日12月1日の日記などをご参照ください。
 まあ、要するに、「おれはおれ」「あなたはあなた」以外に子供に教えられることなどないと思うのだが、最初に教えるべきその最も基本的なことが、どうも学校でも家庭でも教えられていないらしい。カエルにヘビのようになれと言ってみても詮ないことであって、カエルはカエルらしく生きればよろしい。無理にヘビのようになれたとしてもそれはしょせん“無理”があるので、どこかでブチ切れて壊れてしまうだろう。

【5月8日(火)】
▼電車に乗りドアの横の空間に立つと、目の前に車内広告。サラダ油かなにかの宣伝だ――『油なのに、「ダイエット」。』
 たいていの人はこれを見れば自動的に、『アラブなのに、「ダイエット」。』とまずいじくってみるだろう。いじくらないって? いかんなあ、そういうことでは。歳食ったらボケるよ。まあとにかく、健康な人はいじくってみるにちがいない。しかし、である。アラブ“なのに”と言っているからには、そのあとには、いかにもアラブらしくないもの、アラブに対立さえするものが来るはずだ。だとすると、“ダイエット”(日本などの「議会」「国会」)ではいかんので、ここは必然的に“クネセット”(とくにイスラエルの「議会」「国会」)にならなくてはならない。なにが“ならなくてはならない”のだかよくわからないのだが、とにかくそうなのだ。『アラブなのに、「クネセット」。』 おおお、美しいフレーズである。でも、どこで使うんだ、こんなネタ?
 よくよく考えてみると、こんなくだらないフレーズを作るのにさえ、おれは呼吸するようにSF的な発想をしていることに気づく。油がアラブになるところは問答無用、まず反射的にどこかをずらしてしまう。そのくせ、そのあとは誰に義理立てをしているわけでもないのに、自分で決めたルールに従って妙に論理的に展開する。最初のずれを論理で増幅してゆくわけだ。その結果、ヘンなものができあがる。ぼーっとしていても勝手に頭がこういうふうに働いてしまうように条件づけられてしまった(もしかしたら、生まれついてしまった?)人間は、はたして、幸福なのでありましょうか不幸なのでありましょうか。いずれにせよ、そうした同病を相哀れんでいる(病気を謳歌している?)のがSFファンという人たちなのでありましょう。

【5月7日(月)】
▼どうも“ジュンイチロウ”という名前を聞くと、自動的に連想するものがあって、これはたぶんおれと同世代のテレビっ子はそうで、おそらくあちこちで誰もが連想しているのだろうが、今日、なんの気なしに鼻歌を唄っていたらやっぱり替え歌ができてしまったのだった――

 ジュン、ジュン、ジュン
 ジュン、ジュン、ジュン
 風が吹くように 派閥の中から現われて
 強い日本に変われよと
 ぼくらに教えてくれる人
 その名は小泉純一郎
 チェンジするんだ 正しい構造
 突撃! ジュンちゃん!!
 突撃! ジュンちゃん!!
 ぼくらの宰相

 もちろん、「突撃!ヒューマン」のふしで唄うのである。なに、そんなのは知らん? むかし、そーゆーものがあったのだ。とくに詳しく説明するほどのこともない、脱力系の変身ヒーローである。作っているほうは脱力系だとは思っていなかっただろうとは思うが、観ているほうは脱力していたのである。というか、そもそも、ほとんど観られていなかったのだった。裏番組が『仮面ライダー』だったからな。変身ヒーローものなのに、なぜか公民館みたいなところで公開録画(いや、も、もしかして、あれは“生”だったのだろうか?)をしていた。『笑点』じゃねーんだから。
 などと、古い歌を思い出したところで、同じころ(だったと思う)の歌で替え歌がたちまちできる――

 風よ 光よ 党員の祈り
 変われ総裁 ライオン丸に
 日本の構造変えるため
 派閥の老人やっつけろ
 今だ 今こそ 変人だ
 走れ(オー!) ライオン
 飛べ飛べ(オー!) ライオン
 行くぞ小泉ライオン丸

 これは誰でもわかりますね。『怪傑ライオン丸』「風よ!光よ!」だ。でも、あんまり面白くねーな。“まんま”だもんね。最近、あまり替え歌を作っていないせいか、腕が落ちたなあ。
 「吠えろ、いい女〜、吠えろ、眞紀子〜、厳しすぎる、おまえとの出会い〜」だの「外相ロプロス〜、空を飛べ〜」だの、なにやら一日中、頭の中で替え歌が鳴り響いていた。仕事しとるんかい。疲れとるのか。「Oh〜、参謀〜、ぼくらの眞紀子〜、悪には負けない日本の心〜。角栄おやじに育てられ〜、打つぞ〜、賭けろ〜、こきおろせ〜、政治の掟だ、おまえは〜〜」 もういいですか、そうですか。今日はアニソンの苦手な人にはわからないネタですいません。

【5月6日(日)】
▼東京は凍えるほどに寒かったのに、こちらはやたら暑く、風呂に入っている最中、あまりの喉の渇きに我慢できなくなり、ペットボトル入りのペプシコーラを冷蔵庫から取ってきて、風呂の中で飲む。いやあ、こいつは爽快だ。癖になると肥るので、あまりしょっちゅうやってはいかんな。
 湯舟に浸かりながら、空になったペットボトルを水中に沈めてみる。このまま手を離せば、ロケットのように飛び出すにちがいない――と、やってみたら、ありゃりゃ、飛び出さない。ボトルは勢いよく水面から飛び出そうとした瞬間、水面に吸いつけられるように横になってしまうのだ。ほほお、これは面白い。キャップを上にした状態で(つまり、いかにもロケット然とした状態で)水中に沈め手を離すと、何度やっても同じようになる。それでは……と、キャップを下にして沈め、ボトルの底から水面に飛び出すようにしてみると――さて、どうなったと思います?
 ボトルは中空高く飛び上がるのである。天井に届かんばかりだ。おそらく、表面張力の影響でこのような反直感的な現象が起こるのだと思う。つまり、ボトルが水面から飛び出すときに、ボトルを水面に吸いつけようとする力をうまく分散させられるような形状が下になっているほうがうまく飛び出せるのだろう。ほかにもなにかおれには想像もつかぬ要因があるのかもしれない。いやあ、面白い面白い。アホなことは、とりあえずなんでもやってみるもんですなあ。

【5月5日(土)】
▼4日の深夜にテレビを点けると、『近未来スペシャル ボクらの希望を探す旅 〜村上龍「希望の国のエクソダス」から〜』(日本テレビ系)という番組がはじまった。『希望の国のエクソダス』(村上龍、文藝春秋)をネタに、スタジオトークやらドキュメンタリーやらドラマやらで、子供に範を示せない大人、真似すべき大人を失った子供の未来を考えてゆく企画らしい。おれはあの小説を非常に高く評価する。以前からおれが感じてきたこと、考えてきたこと(『迷子から二番目の真実[10] 〜 教育 〜』1997年4月13日1998年4月9日の日記など)をみごとに小説にしてくれやがったと拍手喝采した作品だ。こういう番組でよい小説が売れればけっこうなことだとは思ったものの、いまひとつあざとさが鼻について、お手並み拝見という感じで観ていた。
 すると、スタジオで子供たちの質問に答える役回りの、いわば“さらしもの”になる十人の大人たちが現れた。なかなか顔ぶれが面白い。誰がどう見ても、平均的大人とは思えない人々である。ひょっとして入ってるんじゃあ……と思ったら、案の定、香山リカ氏が入っていた。いろいろな子供の質問とやらに大人たちは思うところを述べてゆくのだが、なんとなく香山氏が浮いている。ほかの九人と毛色がちがうのがわかるのである。ちゃんと社会生活を営んでらっしゃるらしいし、それどころか医師という非常に社会的地位の高い職業に就いてらっしゃるのだから、香山氏は立派な大人にはちがいない。が、なんというか、存在の“波長”みたいなものが、この人はあきらかに子供なのである。お会いしたことはないが、文章を読んだり、テレビでコメントを聴いたりしているかぎりに於いては、そう感じる。どちらかというと、質問をする子供の側に入っていらしたほうがしっくりくるようなところがある。それを意図した人選であったなら、製作者側にもなかなかの曲者がいるのだろうなと感心した。
 「もう一度中学生になりたいか」と、ギクっとするような問いが出演者に発せられた。おれは絶対に厭である。もう一度時間を遡って、おれが中学生であったころの社会で中学生をやりたいかというのならまだ我慢できるけれども、いまの世の中で中学生になるのはまっぴらごめんだ。当の中学生たちの中にはけっこう楽しんでいる狂人な、じゃない、強靭なやつもいるのだろうが、おれは一億円もらったって厭である。なぜって、「一億円もらったって中学生になるのは厭だ」とほざくおれみたいな大人が山のようにいるにちがいない世の中だからだ。詭弁に聞こえるかもしれないが、実際、そうでしょう? いまの中学生くらいの年齢のやつらを、おれは心の底からかわいそうだと思う。自分たちがいかに不幸な国の不幸な時代に中学生時代を生きているか自覚のないやつは、まあ、それ自体かわいそうではあるが、まだましだろう。それに気づいてしまっているやつこそ、まったくもって気の毒だ。よくぞ二十五年遅く生まれなかったものだと、おれはいま胸を撫で下ろしている。きっとおれは現代では中学生時代を生き延びられない。殺されるか自殺に追い込まれるかにちがいない。
 あなた、いま、中学生になりたいですか? え? あなた、いま中学生ですか。し、失礼いたしました。

【5月4日(金)】
▼日付も変わって、今度は『瀬名秀明先生のSFに対するアンビバレントな思いを聞いて』の部屋へゆく。瀬名さんご本人は参加できないとのことで、前日の昼企画での話を題材にディスカッションがなされた。事前アンケートをきちんと資料としてまとめ、さらに分析を加えたものが回覧された。近々編集してサイトで公開すると瀬名さんはおっしゃっていたが、これだけのもの(分厚いのだ)を持ち出しで作るとは、つくづく真面目な方である。こういうものを公共財として公開するのは、学者の世界ではあたりまえのことなのだろうが、これはべつに学者として評価される仕事ではないのだ。
 SFがSFの外から理解されにくい理由についての分析は、みなの感想を聴いていても、「わかったような気がするが、よく考えるとわからない」という意見が多かったように思う。野尻抱介さんの秀逸な言いまわしによれば、「シャーロック・ホームズの推理のようで、聴いているときは納得がゆくが、あとでよく考えるとわからなくなる」ということであった。前半と後半とが乖離しているとの『パラサイト・イヴ』に対してしばしば行われた(おれもやった)批判について、「主観的にはシームレスに繋がっていると感じていた」と瀬名さんが述懐していたことに関して、倉阪鬼一郎さんが秀逸な指摘をなさっていた――「そもそも“シームレス”という言葉は、ホラーからは出てこない(ホラー作家はそういう発想をしないものだ)」 な、なるほど! 言われてみればそうである。つまり、この文脈に於いて“シームレス”という言葉が出てくること自体が、瀬名秀明の“血”の資質を物語っているということだろう。ということなので、大きなお世話かもしれないが、瀬名さん、観念して“SF作家”を名告りましょう。
 瀬名部屋も終わり、人いきれにあてられて気分が悪くなってきたので、大広間でちょっと休む。しかし、アレは見ておかずばなるまい――と、勇を鼓して、ますます人だらけの企画『ほんとひみつ はりまぜスペシャル』(ご案内/小浜徹也、代島正樹、牧眞司)を覗く。なにしろ、東京創元社のご厚意により、あの、江戸川乱歩自作スクラップブック完全複製(復刻ではないのだ。出版されたわけじゃないんだから)版『貼雑年譜』の実物が見られる(触れる!)というのだ。おれは、あれが紹介されたときの『ほんパラ! 関口堂書店』(テレビ朝日系)をたまたま観ていたので、そのあまりにもマニアックな複製具合は知ってはいたけれども、やはりこの目で実物が見られるとなると、見ておきたくなるのが人情というものである。今回、SFセミナーで公開されるものは、『ほんパラ! 関口堂書店』の収録時に大神いずみが触ったものなのだそうで(小浜氏談)、大神いずみファン必見の(なんか興味の対象がずれたような気もするが)逸品である。テレビというのはまだまだ怖ろしいもので、なんでも『ほんパラ! 関口堂書店』で紹介された時点ではまだかなり残っていたのが、放送後たちまち完売してしまったのだという。三十万円の本を買う人が、日本には少なくとも二百人はいるわけですねー。おたくは日本経済を救う。いやそりゃ、おれだって、金持ちなら買った、いや、多少痛いくらいでも買ったかもな。今回のような形で『貼雑年譜』を復刻できる技術は早晩失われてしまう可能性が高いから、まあ、たぶん二度と同じクオリティーのものが作られることはないだろう。十年後に三百万円くらいになっていたとしても不思議はない。もっとも、この本をいま三十万円で買うような人が、十年後に三百万くらいで手放すとも思えないのだが……。おれが買ったとしたら家宝にして死ぬまで手放さず、おれが死んだあとで母か妹夫婦が「なに、このゴミ?」ブックオフにでも持っていって目を剥くにちがいない。いや、古本屋にも持っていかず、そのまま捨てる可能性のほうが高いな。
 『ほんとひみつ』の部屋な黒山の人だかり、人の隙間から背伸びしてようやく見られた。なるほど、こりゃあすごい。言ってみれば、リンクを張る代わりに実物を切り貼りして乱歩が作った「[間歇日記]世界Aの始末書」みたいなものだが(おいおい)、それだけにひとつひとつの“貼りもの”が乱歩の時代を雄弁に物語っていて、歴史的資料としても価値が高そうだ。それにしても、よくもこんな本の企画が通ったものだ。東京創元社というところは、怖ろしい出版社である。
 しばらく見ていたが、さすがに暑くてたまらなくなったので、大広間に戻る。そのまま朝まで、うだうだといろんな人と雑談をしていた。
 大広間に見慣れぬ機械が転がっている。野尻抱介さんがのむのむさんとおっしゃる方から入手した“タイガー計算機”である。なんじゃ、それはと言われても、おれだって使ったことはないから困るのだが、電子計算機が一般に普及する以前、一九五十年代〜六○年代に使われていたという“手回し計算機”なのだ。いろんなメーカのものがあったようだが、タイガー計算機は日本の手回し式計算機の代名詞になっているくらいに普及したという。大広間に無造作に転がしてあるものだから、おれもいじくってみた。いじくり回して計算の仕方を見いだした人々に教わり、簡単な計算などしてみる。話には聞いていたが、どこからどう流出したものか、計算機には「東大原子力」というプレートが貼ってあり、むかしはこんなもので原子力関係の計算をしていたかと思うと(天文学にもよく使われていたらしい)はなはだ感動的である。「教授、ウランの連鎖反応が進みすぎています。どのくらい制御棒を降ろしたらよろしいものでしょう?」「ちょっと待て、いま計算する。ガラガラガラガラ……」みたいな使いかたをしていたはずはないが、きっと理論的な計算や原子炉の設計に用いられていたのであろう。
 やがて朝が来て、例年どおりのエンディング。今年は、バスジャックが捕まったというニュースはない。
 堺三保さんたちと喫茶店で朝食。野尻抱介さんがいたためか、眼鏡っ娘の話で熱くなる。野尻さんがあとの予定のために中座したあと、「ウィリアム・ギブスンの“モリイ”は眼鏡っ娘である」という説を唱えたところ、失笑される。あれは“眼鏡をかけた女王様系”であって、いわゆる“眼鏡っ娘”ではないというのだ。うーん、そうかなあ。まあ、眼鏡っ娘にもいろいろ種類があるのであろう。
 水鏡子さん、大野万紀さんと東京駅へ。水鏡子さんは職場の方々のためにお土産を買いにゆかれ、大野万紀さんとはおれが自動改札に捕まってうろちょろしているうちにはぐれてしまったため、昼飯とお茶を買って、やってきたひかりに適当に乗車する。飯を食いながらも眠ってしまいそうになるくらいだったが、食ってしまうとますます眠くなって、スイッチが切れるようにシートに倒れ込……もうとしたが、い、いかん。目が覚めたらホームで明太子を売っていたりしたらえらいことだ。とにもかくにも、ケータイのタイマーをセットして、ばったりと眠り込む。
 帰宅すると、bk1から、大迫純一『魔法探偵まぁリン[1]バビロン・ゲート』『魔法探偵まぁリン[2]カニバル・リターナー』『魔法探偵まぁリン[3]ナイトメア・ダメージ』『魔法探偵まぁリン[4]エターナル・レガシー』(青心社)が届いていた。《ゾアハンター》シリーズが気にいったため、この人はむかしはどんなものを書いていたのだろうと気になり、いつ読めるものやらわからないが、資料として一応取り寄せてみたのである。あとでやたら値打ちが出るかもしれないしな(と言いつつ、値打ちが出たらなおさら売らないくせに)。取り寄せに半月くらいかかった。やっぱり、あんまり売れていなかったのであろう。以前触れたように「大迫純一の部屋」がある「北九州のあにじゃの年寄りの冷や水」「機動掲示板」にあにじゃ氏が書いている大迫純一氏からの間接情報によれば、大迫純一の公式ウェブサイトができるそうで、今夏中にはオープンの予定だという。アンテナ張っておかねばな。

【5月3日(木)】
「SFセミナー2001」へ。今年は開演が十三時なので、当日朝出の参加者にとってもかなり楽である。一本やり過ごせば、新幹線の自由席でもちゃんと座れた。睡眠のサイクルがおかしくなっているためか(それはいつものことなのではあるが)、本を読もうとしても全然頭に入ってこない。もっとも、その本というのが『ミステリ・オペラ――宿命城殺人事件』(山田正紀、早川書房)であるせいもあるのかもしれないが、たぶんちがうと思う。ちがうんじゃないかな。ま、ちょと覚悟はしておけ。とりあえず、この本を“山田正紀ハイペリオン”と呼ぶことにする。二段組み六百八十二ページのハードカバーであるからして、実際に凶器に使える点ではかなりお得な買いものではないかと思う。二十六ページめにして早くもヒュー・エバレット『量子力学の多世界解釈』云々が出てくるあたり、たいていのミステリ・ファンは毫も驚かない展開であろうと思うが、あと六百ページはどうなるのだと思わせる点で、やっぱりこれはSFファンが読むべきものなのであろうか、はて、よくわからない。まあ、山田正紀にかぎって、どんな意味であろうと面白くないわけがない(つまり、この作家はそういう面ではけっして失敗できないように呪われている巧さの持ち主なのである。驚くべきことにデビュー作からすでにそうなのである。それはもしかすると気の毒なことなのかもしれないが、その点では天才なのだからしかたがない。いっぺんでいいから「ぜんっぜん、面白くねぇー!」と貶してみたいものだ。「面白いのは当然として、さて……」という貶しかたなら可能であろう)から、たぶん読み通してしまうにちがいない。というか、読み通さないと仕事ができん。
 で、新幹線の中で飯を食い、なんだかんだで会場に到着。ロビーで煙草を吸っていると、事務局の人が楽屋に来てくれと言うので、はて、なにごとかと行ってみると、なんだかよくわからないがオープニングのナレーションをおれにやれと言う。はあ? まあ、ナレーションなら堺三保さんだってやったことであるし、顔が出ないのならよかろうと引き受ける。石坂浩二みたいなのは一度やってみたいと思っていたのだ。「これから三十分、あなたの眼はあなたの身体を離れて、不思議な時間の中へと入ってゆくのです。そのころ幸楽では……」みたいなやつね。別マイクがあるのかと思ったら、すでに最初のパネルのために舞台の上に並べてあるマイクを使ってくれというので、スタンバっている鈴木力さんのマイクをお借りして、なんとかナレーションをこなす。石坂浩二というよりは、デーモン小暮のようになってしまったが、気にしない気にしない、どうせぶっつけである。誰にもおれだとはわかるまい。しゃべり終えるや、逃げるように舞台裏へ回り、司会とバトンタッチ、おれは観客席へと忍び込む。なぜかにやにやしている野尻抱介さんと目が合ったような気がするが、気のせいだろう。なにしろ、時代は“ふわふわ”だ。

『レキオス、翔ぶ! 池上永一インタビュー』(出演/池上永一、聞き手/鈴木力
 おれはまだ池上永一氏の作品を読んだことがないのだが、少なくとも作者自身のキャラはかなりぶっ飛んだ人であるらしいことはよくわかった。SFセミナー、最初の出しものはとにかくぶっ飛んだ人を出すにかぎると昨年事務局が学習したのか、今年もすごい。池上氏のノリには、クスリでも入っているのかと思ったくらいだ。ちょっとサービスでぶっ飛んでいるのかなとも思われたが、かなり地ではあるのだろう。「“物語”が“構造”を乗り越えてゆく瞬間を信じて小説を書いている」といった発言には、おおっと感銘を受ける。よく夜中に駅で明るく笑いながら虚空に話しかけてはさらに明るく笑っている人がいるが、事情を知らない人がふらりと会場に入ってきたら、そういう人を捕まえてきてしゃべらせているにちがいないと思ったことであろう。ところどころ、クスリが脱けるのか(だから、やってねえってば)文学的にものすごく深いことをおっしゃる。この世に作家という商売がなかったら、いったいこの人はどうやって世間と折り合いをつけてゆくのだろうとこちらが勝手に心配になるほど、天衣無縫荒唐無稽奇々怪々なお話でありました。どうもおれはファンタジーと分類されるものを後回しにしがちなのだが、こりゃ『レキオス』も読まにゃいかんと思ったことである。

『アンソロジーの新世紀』(パネリスト/中村融山岸真伊藤靖[河出書房新社]、小浜徹也[東京創元社])
 ホラーSF傑作選『影が行く』(中村融編訳、創元SF文庫)の編纂エピソードや、昨年から刊行がはじまった河出文庫のアンソロジー・シリーズ《20世紀SF》(中村融・山岸真編)誕生の経緯などが語られた。小浜氏によるとアンソロジーというのはかなりリスクの高い企画だとのことなのだが、伊藤氏によれば、SFに本格的に手を染めていない河出書房新社では、けっこうすんなり通った企画なのだそうである。なんかよくわからないが、社風というのもあるらしい。なんでも、『宇宙消失』(グレッグ・イーガン、山岸真訳、創元SF文庫)や『順列都市(上・下)』(グレッグ・イーガン、山岸真訳、ハヤカワ文庫SF)を読んでいたく感銘を受けた伊藤氏がSFでなにかやりたくなって訳者の山岸氏にアプローチ、いろいろあってこのアンソロジー企画がスタートし、中村融氏も共編者として山岸氏に引っ張り込まれ、創元や早川では逆に考えにくいこのような企画が実現したとのこと。この時期、このようなアンソロジーが編まれることに関しては、「人を得た」という要素が大きいと小浜氏もおっしゃるように、DNAに“アンソロジスト”と書いてあるかのような中村・山岸コンビが、いま、この日本に居合わせなければ、このシリーズは出なかったであろう。
 それにしても、中村氏が十六歳ころからいまに至るまでずっとつけているという読書ノートにはのけぞる。べつに話の内容やら感想やらは書いていないそうなのだ。原題やらなにやらの書誌情報と面白かったかどうかの点数、それからなぜか四百字詰め原稿用紙換算の“概算枚数”だけがつけてあるのだそうで、それを見てゆけば、いくらでもいろんなアンソロジーが編めるらしい。そんな訓練(?)をしているものだから、中村融氏は版組みを見ればおおよその枚数がすぐに掴めてしまうのだという。白いギターがもらえそうな技である。

『SFにおけるトランスジェンダー(性別越境) 日本におけるジェンダーSFへの期待をこめて』(出演/三橋順子、聞き手/柏崎玲央奈
 “女装家”(というのは“肩書き”なんだそうである)にして、トランスジェンダー社会史の研究者、三橋順子氏が着物姿で登場。聞き手のほうは、べつに男装していたわけではないらしい。谷甲州『エリコ』(早川書房)を中心に進むのかと思ったがそうでもなく、SFのアウトサイダーとおっしゃるわりには(元SF少年だそうだが)、かなり広範囲にわたってSFでのジェンダーの扱われかたが話題となった。SF的には驚天動地の話はないのだが、これほどまでにさまざまな分野に想像力を働かせているSFが、ことジェンダーに関するかぎり、なぜにかくも保守的であるのかという問題提起は、おれもかねてより感じていることであり、たいへん共感が持てた。おれがさらに思うに、ちょっと性を扱うとたちまち“フェミニズム”SFとやらであるかのように扱われがちなこと自体がなんだか妙なのである。なにしろSFなんだから、もっとさりげなくジェンダーなるものをがちゃがちゃにしてしまえばよろしいのだ。宇宙海賊の首領がそのときの気分で性転換して出てくるとか、致死ウィルスかなにかを作った女科学者が本筋となんの関係もなくじつは男であったとか、SFであれば、その程度のことはことさら言及するにも及ばないくらいあたりまえといった具合にしてもらいたいものだ。相対論や量子論やサイボーグやロボットや光線銃や人工知能や弘法大師と同じくらいの頻度で、いろいろなジェンダーの持ち主が登場してもよろしいのではありませんかね?
 ところで、三橋氏のウェブサイトを見て気づいたんだけど、『ライトジーンの遺産』(神林長平、朝日ソノラマ)に出てくるセプテンバー・コウ“女の兄”MJ(メイ・ジャスティナ)なのは、偶然の一致なのだろうか?

『「SF」とのファースト・コンタクト 瀬名秀明、SFに対するアンビバレントな思いを語る』(出演/瀬名秀明
 SFセミナーから何度か出演依頼を受けていたものの、自分がSF作家であると確信が持てず(もしかしたら袋叩きにされるのではあるまいかという怖れもあってか?)断り続けていた瀬名秀明氏がついに登場。自分はあきらかにSFを楽しく読んで育っているにもかかわらずなぜかSFファンだとは思えないという、SFに対するフクザツな想いが語られた。この講演のために PowerPoint で四十枚に及ぶプレゼン資料を作ってくるところが、いかにも瀬名さんである。さすがに講義慣れしていらして、ほとんど無音の時間がない流れるようなトークに会場は呑まれていた。事前に一般読者を対象にウェブで行なったアンケート(結果的に回答者の多くはSFファンとなった)の集計結果や、独自に編集者に対して行なったアンケート結果などを中心に、SFから見た瀬名秀明、瀬名秀明から見たSFの両面から、非常に興味深い現状分析や提言が為された。
 ホラー作家なんだからSFのことなど知ったことかと言ってしまえる立場であるにもかかわらず、やはりSFに一宿一飯の恩義(?)を感じてらっしゃるのか、かつて自分が好きだった分野からどう見られているのかが気になるという微妙な心理はわからないでもない(それになにしろ“日本SF大賞受賞作家”なのである)。
 講義のキモは、SFファンがなぜ非SFファンと感動を共有できないのかに関する分析。森下一仁氏の『思考する物語 SFの原理・歴史・主題』(東京創元社)からセンス・オヴ・ワンダー論を援用し(その森下論は、多くは認知科学の諸論から解釈の枠組みを援用している)、センス・オヴ・ワンダーを共有することの難しさを指摘なさっていた。森下論は、認知のフレームが(フレームで括られる構成要素が同じまま)組み変わることを以てセンス・オヴ・ワンダーの生成・現出とするわけだが、瀬名論はさらに、そのSOWの生成・現出はあくまで主観的なものであって、フレームが組み変わっていない人が外部から見た場合、(まったく同じ要素を見ていても)べつになにごとも起こっていないようにしか見えないのだから、SOWはそのフレームの“組み変わり”が把握できる特殊な感性の者同士でしか共有できない、よって、SFはSFファン以外にはわかりにくいのであろう――とするものである(というふうに、少なくともおれには理解された)。
 SFのSOWに関する考察として成り立つ論だとは思うが、どうもおれにはこの論は不可解に思われる。なぜなら、SFに“のみ”成り立つ話ではなさそうだからである。べつに純文学でも同じことが言えるのではあるまいか。たとえば、旅館の屋根の上で蜂が一匹死んでいるなどという描写を読んで、「おおお、すごい! ここで蜂と来るか〜、死んでいるのか〜、すごいすごいすごすぎる、深い〜!」などとやたら感動する読者もおれば、「蜂が死んでいるのか。それで?」と読み飛ばしてしまう読者だっているであろう。ここですごいすごいと言っているやつは、たとえば志賀直哉が城の崎を訪れたころの境遇やら身辺の事件やらを知識として持っている(そういうFOR−Frame of Reference−を持っている)やつか、そういう知識がなくとも、日本近代文学の特殊私小説流の象徴操作を鋭敏に読み取り得る(それも経験に培われたFORと言える)やつか、いずれにせよ、かなり特殊な資質を備えたやつであろう。こういう特殊なやつと、SFのSOWを感じ得る特殊なやつと、特殊性に於いてどこがちがうというのだろう? おれが思うに、ヴァリエーション豊かな認知のフレームを持ち得る・組み上げ得る読者は、まず第一に既成のFORを豊かに持っていなければならず、ここで言うSFや純文学のわかりにくさは、認知のフレームの組み変わりといった高度な現象以前に、単にFORを共有していないことに起因するところが大きいのではなかろうか。そりゃもう、ミステリにだってファンタジーにだってホラーにだって、そのジャンルの読者たる者が概ね備えている(と期待される)FORというものがある。そうしたFOR(と言ってわかりにくければ、“基礎教養”や“発想の素養”と言い替えてもよい)を読者にあまり要求しない書きかたをするものが、ほかならぬジュヴナイルなのだ(むろん、ジュヴナイルの作者は、その作品を以て、基本的なFORを若い読者に提供しているのである)。こうしたFOR問題は、ことにSFにかぎらず、分衆化が極端に進行した社会に於いては、あらゆるジャンル・フィクションに立ちはだかってくるものである。英文科の学生が必ず教わる笑い話に、イギリスの田舎者の話がある。初めてシェイクスピアを読んだこの田舎者、「なんだ、引用句ばっかりでできてるじゃないか」とほざいたというのだ。アガサ・クリスティーを読みはじめた中学生が、「なんだ、二時間ドラマにあったネタばかりじゃないか」と言い出しかねないのが現代であり、そういう読者を相手にジャンル・フィクションを成立させねばならない難題を抱えているのが現代の作家なのである。
 もし、SFに(他のジャンルよりもひときわ強い)特殊性があるのだとすれば、それは、一般的に(あくまで一般的にだ)同一人物が当然併せ持っているとはあまり考えられていないFORを、読者に平気で要求するところなのではなかろうか? つまり、C・P・スノーの言う“熱力学第二法則とシェイクスピア”みたいなFORの組み合わせだ。日本の戦後教育制度を考えた場合(そして、あのくだらない“ゆとりの教育”とやらを考えた場合)、スノーのかつてのイギリスへの警告は、現代の日本にも十分通用するものだとおれには思われる。ま、SFが広く読まれる国がよい国だなどとまで言うつもりはないが……。
 おっと、おれの私見の御託が多くなった。瀬名論に納得したわけではないが、SFの現状に関する瀬名さんの数々の指摘には考えさせられるところも多く、なにより独特の語り口を楽しませてもらえた。「今後五年間は、『これはSFではない』と言うのをやめよう」には爆笑。まあ、自分でSFだと言っているものを指して『これはSFではない』と言うのはあんまり建設的ではないのでやめたいと思うが、堺三保さんが質疑応答の時間に指摘していたように、「SFとして評価すると、これはダメ」と言うのは当然の批評行為として“アリ”であろう。たとえば、養老孟司が志賀直哉を読んで「志賀直哉のように、年中機嫌が悪くなって、ああでもない、こうでもないと考えるのは、大脳辺縁系の機能を、同じ大脳の新皮質が、苦労して翻訳しているのである」などと評するのは、解剖学者のFORを基盤に既存のフレームを組み変えてみせている点で、批評として“アリ”なのである。“アリ”どころか、これこそが批評の醍醐味だ。それが単なる“ないものねだり”に見えるかどうかは、批評家の腕次第なのだ。

 いやあ、面白かった面白かった――と拍手を終え、よく考えたら、メールや電話でのやりとりがあっただけで、おれはまだ生身で瀬名さんにお会いしたことがないのだった。瀬名さんはこのあとまだ仕事があるらしく、合宿には参加できずすぐ移動とのことだ。いつも本も頂戴しているし、この機会にぜひご挨拶をしておかねばなるまいとロビーに出ると、大森望さん、堺三保さんと、瀬名さんが談笑していた。生身でははじめましてと名刺を交換する。そのときはじめて気づいたが、瀬名さんはご家族連れでいらしていたのであった。
 「“山田正紀ハイペリオン”が……」などと堺さんたちと話していると、徳間書店の編集者、大野修一さんが、第二回日本SF新人賞受賞作の『ドッグファイト』(谷口裕貴)と『ペロー・ザ・キャット全仕事』(吉川良太郎)のできたばかりの見本を携えてやってきた。聞けば、今回の犬猫同時受賞のうち、猫のほうの吉川良太郎さんを呼んであるので、もうじきやってくるはずだとおっしゃる。たしか、めちゃめちゃかっちょいい写真が〈SF JAPAN〉(西暦2001年春季号)に出ていたバタイユの研究者とかいう人だ。パタリロではないぞ、バタイユだぞ。などと、パタリロとバタイユの共通点にひとり思いを馳せているうちに、タイミングよく吉川さんが到着。“白皙”という言葉がよく似合う美青年である。「おおおお……おれの“やおいスジ”の友人がこの場におったら涎を垂らして狂喜しそうな……」と失礼なことを勝手に考えながら、なにはともあれ名刺を交換する。写真のことを言うと、あれはご本人もいったいこれは誰だと思うほどなのだそうで、なるほど生身で対面すると、美形ではあるがあの写真のように冷たい感じはまったくなく、どちらかというと柔らかい雰囲気の人である。そうだよなあ、雑誌の写真とか著者近影とかはあんまりアテにならんよなあ、うんうん、と、ひとり納得しているおれの脳裡になぜか“小林泰三”“田中哲弥”といった文字列が乱舞した。
 野尻抱介さん、木戸英判さん、わたぼこりさんたちとさっさと晩飯を食って、タクシーで合宿会場のふたき旅館へ。
 ほどなく合宿のオープニング。恒例のプロ紹介。何度参加しても恥ずかしい。柏崎玲央奈さんが、本会のオープニング・ナレーションはおれだとばらしてしまう。黙っておればわかりっこないのに。事務局の人々が、三村美衣さんの姿がまだ見えないと言うので、「バスジャックを観てるんじゃないか」とバカなことを思い浮かべたら、なんとまったく同じことをそばにいた人に先に言われてしまった。テレパスか。それにしても、もうあれから一年経っちゃったのね。
   さて、合宿企画である。おれもなぜかゲストで呼ばれている『ジェンダーSF研究会(略してG研)の部屋』(ご案内:柏崎玲央奈、工藤央奈小谷真理/ゲスト:塩澤快浩、冬樹蛉)へ、おずおずと向かう。呼ばれてはいるが、具体的にどういう企画になるのかよくわからない。なんでも、タイトルどおり「ジェンダーSF研究会」なるものが立ち上がったのだそうで、たぶんおれは猥談でもしていればいいのだろう。課題図書は、《スコーリア戦史》シリーズ(『飛翔せよ、閃光の虚空(そら)へ!』『稲妻よ、聖なる星をめざせ!』『制覇せよ、光輝の海を!(上・下)』キャサリン・アサロ、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF)、『ヴァーチャル・ガール』(エイミー・トムスン、田中一江訳、ハヤカワ文庫SF)、『スロー・リバー』ニコラ・グリフィス、幹遙子訳、ハヤカワ文庫SF)、『Virgin Crisis それゆけ薔薇姫さま!』岡本賢一、ファミ通文庫)、『エリコ』(谷甲州、早川書房)という、ひと癖もふた癖もある作品ばかりである。なぜか『それゆけ薔薇姫さま!』のあらすじを説明させられる羽目になり、なんでおれがこんなことをと運命を呪いながら嬉々として説明する。ほかにもいろいろしゃべったような気はするが、おれの頭の中は薔薇姫さまでいっぱいだ。この作品はとにかく怖ろしい。一度読んでしまうと、《スコーリア戦史》のほうがパロディーに見えてきてしまうのだ。そう言ったら、やたらウケていた。
 なんだかんだで、この日本のG研でもティプトリー賞みたいな賞を出したいという小谷さんの構想が語られ、藤原ヨウコウ画伯デザインのTシャツが販売された。おれも買った。
 続いて、『海外SF同好会「アンサンブル」の部屋』で、未訳英語圏SFの話を聴く。最近おれは全然英語のSFを読んでいないので、たいへん勉強になった。おれが日本語の本を読む三倍以上の速度で原書を読みまくっているとしか思えない超人、“まったくなんでも原書で読んでるエイリアン”加藤逸人さんは、あいかわらずものすごい。ちなみに、元祖“まったくなんでも読んでるエイリアン”志村弘之さんもいらして、なんでも志村さんは名誉会員らしい。東茅子さんは、今夜はパワー全開、絶好調だ。自分でしゃべっている小説の内容に突然怒りだしたりするあの不思議なノリには、いっそう磨きがかかっている。おれとしては、あのミラクル・ヴォイスが長時間が聴けたので、たいへん得した気分である。あ、しまった。「feel H"」パナソニック機が誇るICレコーダー機能で録音しておけばよかった! またの機会に東さんの声を採取することにしよう。

【5月2日(水)】
▼まだ身体の節々が痛く、風邪がすっかり治ったというわけではないが、これ以上寝ていたのでは脳が腐りそうなので、起き出して書きものなどする。むかしの人がこういうシチュエーションで「起き出して書きものなどする」と書いた場合、まだ本調子でない身体に褞袍かなにかを羽織って渋茶でも啜りながら太くて黒い万年筆で手紙の返事でもしたためているところへ楚々とした女性が丸盆に茶菓子を乗せて現われ「あら貴方もうおよろしいのですか。」「あゝ、あまり伏せつてゐたのでは脳味噌が腐つてしまふ。」「御無理なさらないで下さいましね。」などといった百年前から台詞が決まっていたかのようなやりとりの傍ら庭先に山鳥が飛んできてピチユと啼いたあたりで小津安二郎のカットの声が響く光景がたちまち脳裡に浮かぶものであるが、この日記の場合、そんなことはまったくない。閉めきった潜水艦のような団地の部屋で布団を引きっぱなしのソファーベッドの傍らのガラスの卓袱台の上にノートパソコンを開いてパジャマを着たままキーボードを叩いているのである。
 というわけで、なんとか起きて活動できるくらいには回復したようだ。明日の「SFセミナー2001」には行けそうである。なんでも関東のほうは、やたら寒いらしい。温かくして行こう。参加なさる方は、おれに風邪を移されないようにご注意を。

【5月1日(火)】
▼まだ熱っぽく寝苦しく、朝方目が覚める。なんとはなしにテレビを点けてみると、NHKテレビで「ドイツ語会話」をやっていたので、しばらくぼーっと観ていた。すると、なんてことだ、桂小米朝が出てきた。「ドイツ語会話」を観ているつもりが、熱でぼけてしまい、知らないうちに朝の寄席番組かなにかにチャンネルを替えてしまっていたのかと一瞬思ったが、やっぱり「ドイツ語会話」であるらしい。桂小米朝は、どうやらレギュラー出演しているらしい。ちょっと待て、NHK。なんで、「フランス語会話」井川遥で、「ドイツ語会話」は桂小米朝やねん? まあ、な〜んとなくイメージは合ってるけどなあ。亡き枝雀を超えるべく、小米朝はドイツ語落語にでも挑戦するつもりなのだろうか? たしかに上方落語には、英語よりもドイツ語のほうが合うかもしれん。アンサン、ナニユータハリマンネン、ソヤネンソヤネン、ソレヤネンみたいな……。


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