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2002年10月下旬 |
【10月30日(水)】
▼田中啓文さんが密かに顧問をしているのではないかと噂されている(いま噂したのだが)イーレッツの新製品のCDシュレッダーだが、公募していた名前が決まったそうな。公募していたこと自体知らなかったな。知ってたら応募したかもしれん。それにしても、「記録喪失」って、あのなー。おれは、ボツになったという「シュレッダー首相」のほうが好きだなあ。
おれが大学出たときに、この会社が存在していてくれたらなあ。ここに入っていれば、かなり出世していたにちがいない。残念だ。この会社去年できたばかりだもんな。去年、IT関連のニュースサイトで見た「線上のメリークリスマス」に多いにウケた記憶があるが、性懲りもなく「線上のメリークリスマスII」まで出していたとは知らなかった。この会社の製品ラインナップを見ていると、そこはかとなく自信が湧き起こってくるから不思議である。
IT関連業界でこの手の“おもしろネーミング”といえば、テグレット技術開発の右に出る者はなかったものである(テグレット技術開発・製品情報)。ちなみに、ここの製品はマニュアルもやたら面白い。遊び半分で仕事をしていると眉を顰める人もあろうが、遊び半分どころか、遊びがそのまま仕事になっているとしか思えない。やりたいことやって飯を食っているのだから、士気も高かろう。かといって、不必要に会社を大きくして金儲けしようという気もないらしい。楽しくやれる数人の仲間が食えたらいいじゃないかと言わんばかりで、有名なわりにこぢんまりやっている。利益率低そうやなあとは思うが、節目節目で目ざとく柔軟に飯のタネを乗り換えてゆく。成長せねばならんという強迫観念とは無縁で、少人数で楽しそうに堅実に、薄利多売で食っていけているあたりが、非常に二十一世紀的だ。正直なところ、十年前には、「この会社面白いけど、数年で潰れるかもなあ」と思っていたのだが、じつに立派なものである。どかーんと人数ばかりがやたらに多い会社が幅を利かせているよりも、テグレット技術開発みたいな会社がうようよあって、誰もが複数の会社にかけもちで勤め、時間ではなく能力と労苦を売って食っているという世の中のほうが楽しそうだし、これからはそうあるべきだと思うがどうか。たったひとつの会社に生殺与奪の権を握られているというのは、危機管理的にもはなはだよろしくないと思うのである。そもそも雇うほうだって、もはや一人の人間を定年まで面倒見てやるという約束はできなくなっており、自己責任自己責任とお題目のように繰り返しはじめている。とか言いながら、社員がみなほんとうに自己責任に目覚めてしまったら、会社のほうが捨てられかねないところも少なくないわけで、会社としては“社員に適度に目覚めてほしい”という情けない状態である。
ともあれ、成長せんでも楽しく人間らしく生きていけるというパラダイムとライフスタイルに一人ひとりが乗り換えてゆくことが、また、国や企業がそのような仕組みを整えてゆくことが、いまいちばん必要な構造改革だろうと思うのである。だいたい、ベースアップなんてものをあたりまえのように期待している精神構造自体が異常だと思わんか? 能力と労苦に応じた昇給だけでよろしい。過去の業績に対する報酬なんてのも適当なところで期限切れにするがよいぞ。むかしであれば、「ああ、おれもそのうち偉くなったら、あんなふうに(いまは役に立たんけど)過去の業績に対する“ご苦労様料”で食っていけるようになるんだなあ。それまで辛抱、辛抱」とケッタイな夢を見た若者もおっただろうが、いまの世の中はあなた、「あんなになるまでこの会社にいるとはとても思えないし、万が一、いたとしても、あんなふうに若いやつに“食わせてもらう”のは厭だなあ」と若いやつらは思っているのだ。
おや、話が逸れた。で、テグレット技術開発のおもしろネーミングだ。データ蓄積型ワープロソフト「EsabaTAD」というのを見れば、ふつうの人は中東あたりの民話かなにかから取ってきた名前であろうかと思うだろうが、さにあらず「DATABASE」をひっくり返して意味ありげな文字遣いにしただけだ。E-Mailデータベースソフト「カナタからの手紙」にもそこそこウケたが、おれが十年に一度の傑作と激賞してやまないのが、常駐型自動バックアップユーティリティ「かなり安全」である。一度聞いたら忘れない。しかも、この製品の特徴を余すところなく伝えている。これをネーミングしたやつは天才だ。このネーミングを通したやつもすごい。だが、近年のイーレッツ(って、まだ設立二年めだが)の台頭には、テグレット技術開発もうかうかしてはいられないはずだ。両社とも、互いによきライバルとして、駅のプラットフォームから飛び込もうとしている人がアホらしくなって思いとどまるようなネーミングで社会に貢献していただきたい。
【10月29日(火)】
▼愛子ちゃんがテレビに映っている。愛子ちゃんってどの愛子ちゃんかってそりゃあの名字のない愛子ちゃんに決まってるがな。あれくらいの子は可愛いなあ。あんまり子供が好きではないおれが見ても可愛いと思うのだから、ふつうの人にはさぞや可愛く思えることであろう。いやあ、可愛い。愛子ちゃんがテレビに出てくるたびにおれは思う――「それにしても、パタリロそっくりやな」
▼いつものように、会社帰りに自宅最寄り駅前のコンビニに寄る。また食玩の話だろうと賢明なる読者は見当をつけられたであろうが、もういいかげん食玩も出尽くした感がある。なにが出ようと、そうそう驚きはせん。おれは余裕の心持ちでいつも食玩が置いてある棚のところに歩み寄った。驚いた。なんてものじゃない、呆然とした。コナミはいったいなにを考えておるのか――。な、『謎の円盤UFO』の食玩じゃとー!? こんなもん、最低四十歳くらいのおっさん・おばはんでなけりゃ、リアルタイムでは観ておらんのとちゃうんかい? おれたちの世代でぎりぎり憶えているくらいではなかろうか。一九七○年から七一年にかけてテレビ放映されとったわけだから、いま三十五歳くらいの人でも、もうわからんだろう。『謎の円盤UFO』といえば、たしか『ゲバゲバ90分!』をやってたころだぞ。SFファンかジェリー・アンダーソンのファンなら、若い人でも知ってるだろうけどなあ、それにしても……。いくら『サンダーバード』食玩が好評だからといって、まさかここまでやるとは思わなんだ。食玩も来るところまで来たものである。あ、念のために若い方に注意を喚起しておくと、このころはまだカップ焼きそばもなければピンク・レディーもデビューしていない。ケイもミーも十二、三歳であったはずである。矢追純一はすでに日本テレビの社員だったはずだがそれはともかく――『謎の円盤UFO』は、「なぞのえんばんゆーえふおー」と読まなくてはならないのである。このころは、UFOをそこいらの人はみ〜んなそう呼んでいた。そこいらの人がしょっちゅうUFOの話をしていたら厭だが。
おれは観念して一個買うと、すぐさま喜多哲士さんにこの衝撃の事実をケータイでメールした。すぐ返事がやってきた。喜多さんのような猛者でも、かなり驚いている。喜多さんですら、まだ実物は見ていないようだ。勝った。
帰宅して開けてみる。『サンダーバード』と同じく、外からは中身がわからないタイプの食玩だ。箱には「対象年齢12歳以上」などと、いけしゃあしゃあと書いてある。十二歳の子供がこんなもん欲しがるかい。箱の中から「SKY 1」が出てきた。ちくしょう、当然、UFO(ゆーえふおー)が欲しかったのに。
【10月28日(月)】
▼「光を使ったバーチャルキーボードの試作機を、NECと米Canestaが共同開発した」という。映画のように光で投影されたキーボードを叩くと入力ができるというわけだ。そういうアイディアがあるというのは聞いたことがあるが、試作機の写真を見せられると、俄然わくわくしてしまう。いやあ、SFっぽいなあ。というか、むかしSFっぽいなあと思っていたとおりだなあ。しかし、かえって場所を食いそうな気がするのはおれだけだろうか。やっぱりこういうのは、国家を簡単に動かせるような大企業体の薄暗い重役室で大きな回転ひじ掛け椅子にふんぞりかえっていると馬蹄形の机の表面に浮かび上がるものというイメージがあるので、卓袱台で使っている図が浮かばん。そりゃもう、こういうのを使う机は、なんとしても馬蹄形でなくてはいけません。
【10月25日(金)】
▼なに、大人の科学(学研)第八弾は、「大江戸からくり人形」じゃと? ううむ、に、ニクい。「電子ブロック EX-150 復刻版」でも貧乏人の子のトラウマを十分突いてくれたが、じつにニクいツボを突いてきますなあ。「電子ブロック」は復刻版でも十分高いが、「大江戸からくり人形」は五千九百円か……。おもちゃとしては微妙な値段である。うっかり買おうものなら、絶対『隠し目付参上』ごっこやっちゃうよなあ。「三太っ」「み、みぃ〜〜」とか。野尻抱介さんなら、口から毒矢を飛ばしたり煙幕を吐いたりするように改造するにちがいない。
第九弾は、「風呂ブザー」だったりしてな。風呂が湧くと湯の温度でバイメタルが曲がってゴム動力のハンマーがリリースされ、狂ったように回転してプラスチックの本体を叩き“ブザー”になるという代物だ。もしこいつが出たら、絶対買うであろう人に心当たりがある。田中哲弥さんである。二個買って、一個を田中啓文さんに送りつけるにちがいない。「これがバイメタル」とメッセージを添えて。一生言うで、あの人は。
【10月24日(木)】
▼それにしても、日本の野球関係者は、なぜアメリカのメジャーリーグのことを「メジャー」と言い慣わしているのであろうか? また、マスコミのそんな言葉遣いを許しているのであろうか? 単に言いにくいから縮めているのだろうけれど、なにか適当な言葉を作って使うか、「アメリカのメジャーリーグ」とちゃんと言ったほうがいいと思うぞ。だって、あっちを「メジャー」と呼んでしまうと、「メジャー」でないこっちは「マイナー」ということに自動的になってしまうのが人間の心理というものでありましょうよ。あれはあくまで「アメリカという一国内でのメジャー」なんであって、日本と対比してあっちが「メジャー」という意味ではないはずであるが、「メジャー」とズボラに言われると、人間の心理は勝手に太平洋を超えてしまうのである。マーケティング的によくないよね。日本の選手が、「メジャー行きを考えている」といったことを言うたび、「ああ、こいつは自分がいまマイナーなところでちまちま不遇をかこっていると思っているのだな」と、たとえ本人がそう思っていなくても、観ているほうはなんとなく感じてしまう。世間が言うのは仕方がないにしても、当事者までもがわざわざアメリカと同じ土俵に乗るような言葉を使っているのが不思議だ。「アメリカひじき」((C)野坂昭如)的心性がまだ脱けないのかな。日本の球界には、そういうことに関する参謀はいないのか。
【10月22日(火)】
▼最近テレビでCMをはじめたNECの「ValueStar F」(なんと、NECのパーソナル商品総合情報サイト「121ware.com」は、下位のページに直リンクが張れないのだ。だもので、プレスリリースにリンクしておいた)には、ちょっとのけぞった。「ファミリーPC」なる新カテゴリーを作ろうとしているようだが、早い話が、一台のパソコンを家族で使いまわそうというわけである。「ファミリーボタン」ってのがキーボードに四つついてて、四人家族がそれぞれ自分用に設定した環境にすぐ切り替えられるようになっているらしい。いかにもNECらしい製品と言えば言える。おれには絶対できない発想だ。パソコンってのは“個人のもの”であり、“使いたいときに使うし、そうでないと意味がない”という思い込み(?)があるからだ。パソコンを順番待ちして使うなんてことは考えられない(十年ほど前は会社でも順番待ちして使っていた。パソコンは“文具”じゃなくて“設備”だったからだ)。そもそもおれは、パソコンが使える人間と一緒に暮らしたことがない。むかし一家にテレビが一台しかなかったようなころは、どこの家庭もチャンネル争いというのをやっていたものだが、そんなものはもう、ここ二十数年は経験していない。いまは、パソコンがむかしのテレビのような段階にあるのかもしれない。
「ValueStar F」は、おれにはなんとも奇異な製品にしか見えないのだが、たしかにNECが狙っているある種の層には需要があるだろう。この不況では、そうそうパソコン何台も買えないしな。しかし、一台のパソコンを家族全員で使いまわすなどという思想が通用するのも、ほんの短い期間だろうと思う。テレビが家族の人数分だけある家庭は、すごい高所得者層だろうか? むかしはそうだった。が、いまは一人に一台テレビがある家庭など珍しくもなんともない。一人に一台ないにしても、世代に一台はあるだろう。それを“贅沢”だとは思わないどころか、あたりまえだと思うようになった。パソコンも早晩必ずそうなる。テレビ以上に重要な機器になる。テレビを包含するか、テレビに包含される。こんなことはNECだってわかっているにちがいないのだが、それでも過渡期にだけ通用する“テンポラリー商品”とでも言うべきものを出すあたりがNECらしい。
「ValueStar F」を見ておれがいちばんに連想したのが、むかし懐かし「OP98」である。NECのオフコンとPC-9801シリーズとが合体しただけの“テンポラリー商品”だ。もちろんオフコンの資源とパソコンの資源とが相互に自在に乗り入れできるわけではなく、切り替えるときにはいちいち立ち上げ直すのである。オフコンとして立ち上がっているときにはひたすらオフコン、パソコンとして立ち上がっているときにはひたすらパソコンという、ジキルとハイドみたいなケッタイな製品だ。“融合”しているのではなく“嵌合”しているだけなんである。こんなものでも、ある程度の需要はあったのだ。企業の既存資産をいきなりオフコンからパソコンに切り替えるわけにはいかないからだ。「OP98」は、「おやまあ、ケッタイなものが出たなあ」と思っているうちに、たちまちなくなってしまった。「ValueStar F」もそうなるだろう。NECだって、そんなことは百も承知にちがいない。どうせ五年も十年も使うわけじゃなし(そう、パソコンとはそういう商品なのだ)、せいぜい元が取れればいい(利益増はないにしても売上にはなる)といった程度に踏んでいるのだろう。NECブランドに多少はロイヤリティーを持ってくれる顧客が醸成できるという狙いもあろう(「これに懲りて……」という逆効果にならないともかぎらないが)。
それにしても、時期を同じくして放映されている富士通のFMVシリーズのテレビCMは対照的だ。「ホームネットワークの時代がやってきたね」などと、家庭内LANを前面に押し出している。家族で一人一台買って繋げというわけだ。なかなか面白い対決である。おれとしては、あまりにも地に足の着きすぎたNECの“戦術”よりも、富士通の“戦略”のほうに肩入れしたいね。思想として正しい気がする。そもそも、ふつうの人が家に帰ってパソコンの前に座る時間は限られている。せいぜい長くて数時間だろう。その時間を家族一人ひとりでどうやってシェアするのかね? パソコンというやつは、二十四時間使い続けるわけではないが、二十四時間いつでも必要になる機器だ。使いはじめると必ずそうなってしまうだろう。ずっと使っているわけではないが、いつでも使えないと意味がない。また、そのパソコンは、家の中のどこに置いておくのかね? リビングルームか? そんなものがない家ならダイニングキッチンか? 誰かの部屋に置いておくなら夜中には自由に使えないから、ますます使用時間のやりくりが難しくなる。コンセプトはな〜んとなく納得できるんだが、現実の時間と空間を――つまり、一人ひとりがバラバラの時間を生きている現代の核家族のライフスタイルを考えてるんだろうか? バラバラだからシェアできるはずと考えたのかもしれないが、それは無理があるだろう。むしろ家族がバラバラの時間を生きているからこそ、成員それぞれの時間の都合、空間の都合を超えた、新しい家族コミュニケーション環境を提案してこそのIT屋だと思うんだがどうか。NECの発想は、新しい革袋に古い酒を入れているだけに思える。大晦日には家族全員が同じ部屋で「紅白歌合戦」を観ていたような時代の家族像を想定しつつ、それでいて“替わりばんこ”に使いなさいという不思議なライフスタイルを提案している。「そぉんなやつはおらんやろぉ。往生しまっせ〜」と言いたい。すれちがってばかりいる親父のパソコンに、妻や子供が動画メールでも送るとか、なかなか一堂に会せない家族が家庭イントラネットの電子掲示板で家族会議をするとかいった家族コミュニケーション像のほうが、よっぽど現実的である。同じ屋根の下にいる家族が電子メールや電子掲示板などでコミュニケートするなんて“冷たい”“水臭い”と感じる向きもあるかもしれないが、じゃあ、現代の核家族が『ちびまる子ちゃん』的ライフスタイルに戻れるかというと、そんなのは不自由だし仕事や学業や交際に差し支えるからいやだってことになるだろう。失ってはならない普遍的価値だと考えるものがあるのなら、現実の“かたち”を逆行させるのではなく、その普遍的価値をいままでにはなかった“かたち”で体現してみせてこそのテクノロジーであろう。「ケータイでメールをするようになって、家族とのコミュニケーションが深まった」「ケータイなら家族に多少照れ臭いことも言える」と言っている人だって多いのだ。こんな“かたち”の家族コミュニケーションは、ケータイ以前にはなかったものである。
経済的な事情を考えれば、NECの発想にも一理ある。正しいとさえ言えるかもしれない。だが、その姑息な正しさがおれは大嫌いなのだ。
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